朝が来てほしくない。そんなことを思っていたら、本当に朝が来なくなってしまった。私は夜に溶けたまま、昼を生きることができない。
 
「今日は終業式か」
 スマホの画面を開くと「7/19 3:40」と日付と時間が目に入る。みんなは今日から夏休みに入るのか。だとしても今の私には関係ないことだ。小さなあくびをこぼしてから私はベッドに入るとタオルケットをすっぽりと被った。
 夜明け前、それは私が眠りにつく時間。おやすみなさい、小さく言い訳のように呟くと私は目を閉じた。

 梅雨が明けて、本格的に夏が訪れた七月の始めのこと。私は朝、目覚めることができなくなった。本当に突然、何の前触れもなく。
 ――その日、目覚めたのは夕方の五時だった。
 目覚めていつものようにスマホを開くと「5:15」と映し出されていたからてっきり朝の五時だと思った。少し早いけれど目は完全に覚めてしまっている。ぼんやりパジャマのまま階段を下りてリビングに向かうと、お母さんと目が合った。
「あれ、栞。どうしたの、体調悪い?」
 お母さんはパジャマ姿の私を見やるとエコバックから食材を取り出していく。
「え……」
 スーツのジャケットを脱いで、スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫にしまっていくお母さんは、どう見ても出勤前ではなく帰ってきたばかりの姿で。私は今が朝ではなく夕方なのだと知った。
 目覚めはよい方で寝坊も遅刻もしたことがない。無遅刻無欠席皆勤賞が取り柄な私だから、今日は起きられないほどに体調が悪かったのだと判断した。
 
 ――だけど、その日を境に私は朝起きることが出来なくなった。
 両親や弟に協力してもらっても。どれだけ揺り動かされようと、まるでおとぎ話の眠り姫のように私は目覚めることが出来なくなった。夕方になるとするりと目が覚めて、朝四時前に眠りに落ちる。見かねた両親と共に病院に向かったところ「昼夜逆転症候群」だと診断された。数年前に発見されたばかりの稀に起こる原因不明の謎の症状で、珍しいものではあるけど担当医が受け持つだけでも数十名ほどはいるらしい。
 症状は日中起きていられないだけで、夜はなんの問題もなく活動できる。朝起きられないこと以外に病的な症状はない。精神的なことが要因では?と言われているが原因不明、治癒方法も不明だ。ある日突然治ることもあれば、この症状を受け入れて夜勤の仕事に就いたり夜間の学校に通う人もいるらしい。
 私の場合、残り十日ほどで夏休みに入るタイミングだったから、ひとまず学校は休み今後については夏休み中に様子を見ながら考えることになった。
 両親は将来を心配してかなり参っていたけれど。実は私はひどく安心していた。今後のことを考えれば不安にはなる。でもそれよりも明日学校に行きたくない。
 一年後の未来ではなくて、将来の私ではなくて。明日学校に行かなくていい。ただそのことに安堵していた。
 

 ――学校に行きたくない、明日なんて来なかったらいいのに。そう強く願ったのは私だったのだから。

 
「棚上栞さんですね、ようこそ」
 中年女性がにこやかに笑顔を向けてくれる。「棚上栞」と名前が書かれたネームプレートを受け取り首から下げる。
 地域の行事や習い事の発表で何度か訪れたことはある市民ホールの会議室。そこに『真夜中ルーム』はあった。
 この『真夜中ルーム』は病院で案内された。市内にも昼夜逆転症候群の人は数十名いて、その人たちのために平日は毎日解放されているらしい。
 昼夜逆転で困ることは、行く場所がないことだ。昼夜逆転を割り切って夜間の仕事に就いたり学校に通っている人はいい。だけどそうでない人には真夜中に居場所はない。夜に外を出歩くのは危険もついてくる。家で過ごすにしても、家族が寝ている中で灯りを点けたり、物音をたてることも憚れる。そんな人に真夜中の居場所を提供しているのがこの「真夜中ルーム」だ。夜八時から朝の六時まで開いていて登録さえすれば好きに利用ができる。
 昼夜逆転症候群と診断されてから、二週間がたち。両親に勧められてここに来た。
「突然診断されて驚いたでしょう。私もね、昼夜逆転症候群なの。もう三年目のベテランだから困ったことがあればなんでも言ってね」
「ありがとうございます」
 山田さんのふっくらした頬にえくぼがへこむ。山田さんは二つの部屋を案内してくれた。
 部屋は教室ほどの大きさで長机が二列に五つ並んでいる。前から二番目の長机で三十代ほどの男性がパソコンを開きカタカタと打っていて、一番後ろの席で私より若そうな中学生くらいの男の子がノートを開いている。
「ここは作業スペース。静かに過ごしたいときはここで」
 二人の邪魔にならないようにすぐ扉を閉めると、もう一つの部屋を山田さんが案内してくれる。そこは会議室ではなく小規模な発表会にも使われそうなホールだった。部屋の真ん中に大きなカーペットが敷いてあり、その上に寝転がれるようなクッションがいくつも置いてある。そこに数名の男女が座ってお菓子を広げて話をしていた。部屋の端にはいろいろなものがある。ランニングマシーンもあれば、テレビとゲーム機もあったり。先ほどの会議室と同じく長机もあってそこで読書をしている人もいるし、音楽をかけて踊っている人もいる。中学生くらいから中年まで年齢幅は広くなかなか自由な部屋のようだ。
「ここはコミュニティルーム。好きに過ごしてくれてもいいわ。音も出してくれていいし、軽い運動をしてくれてもいい」
 ……思い思い過ごしているのだと思うけど、なんだか、うまくいえないけれど。大きな圧を感じる。
「よかったらみんなとお茶しない? お菓子もたくさんあるから。ここのメンバーを紹介するよ」
「ええと……」
「最初からは緊張するかな? 慣れてからでもいいよ」
「……すみません。今日は作業スペースで宿題やってもいいですか」
 小さな声で返事をすると、彼女は笑顔を作ってくれる。
「もちろん。慣れるまでゆっくりでいいよ」
「ありがとうございます」
 優しさから逃れるように。私はお辞儀だけして、コミュニティルームから出ると作業スペースに向かった。部屋を開けると先程の二人がちらりと私を見るけど、すぐに興味を失って自分の作業に戻ってホッとする。
 私は空いている席に座ると、カバンからノートを取り出した。
 やっぱり人と関わるのは緊張する。何を話せばいいのか正解がわからなくなった。学校から逃げ出しても、結局別の場所にきてもこうだ。
 私はうつむいてノートにペンを走らせた。宿題なんてやっても意味はあるのだろうか。学校に戻れる保証もないというのに。

 学校に行きたくない。そう思ったのはいつからだろうか。
 大きな事件があったわけではない。
 だけど、朝ごはんのパンがお餅のように粘ついてなかなか飲み込めなくなった。
 袖を通した制服も、カバンも、合金のように重い。
 ローファーが、玄関に張り付いてしまったのではないかと錯覚する。
 すべてのものが私の身体を引き止めていく。
 電車が、今日動かなければいいのに。
 春だけど、大雪が降って家から出られなければいいのに。
 そんな小さな呪いのような願いが、朝私を締め付けていく。
 学校に行ってしまえば、友達はいる。四人グループの一人として、なんとかやっているはずだった。
 勉強が嫌いなわけじゃない。むしろ楽しいと思う時もある。
 だけど、なぜかすごく疲れる。どうしようもなく疲れる。
 大げさに笑った後に、何が楽しかったの? と冷静に自分自身に問いかけている私がいる。
 ある朝、お腹がきゅうと痛くなって私は「学校、休みたいな」とへらりと笑った。
「ズル休みしてどうするの」
 私よりも早く家を出るお母さんは、朝の支度で忙しそうで私に目を向けることもなく浅く笑った。
「あはは、だよねえ」
 私のお腹はまたきゅっと痛んだけど、歯を食いしばって笑顔に変えた。お腹、痛いんだよ。と言いかけた言葉をお腹にしまい込んで。

 最近の私の一日は大体十六時に始まる。四時前に眠りにつき、十六時まで寝てしまうのは、今まででは考えられないほどの長時間睡眠だ。
 スマホを開いても誰からもメッセージは来ていない。休み始めたばかりや夏休みに入ってすぐはグループラインで「元気?」だとか「遊べる?」だとか連絡は来ていたけれど、体調不良でしばらく遊べないことを伝えたら徐々に練絡はなくなった。結局私がいなくても世界は何にも変わらない、諦めに近い感情がうっすらと私を支配した。
 十六時はまだ昼のように明るい。活動するのならこの明るい夕方のうちに、とは思うけど。散歩すらする気になれず、なんとなくゴロゴロと過ごしてしまう。
 そうしているうちに食事の時間が訪れる。食卓の上に並んでいるのは麻婆豆腐、冷凍の餃子、春雨サラダ。今夜は中華らしい。
 七時。家族にとっての夕食、私にとっての朝ご飯。お父さんの帰宅は遅いからいつもお母さんと弟と三人での食卓を囲む。
 朝ご飯に中華は少し重いけど、仕事を終えて作ってくれたお母さんにそれは言えない。自分だけ朝食を準備するのも、気を遣わせそうで私は黙ってピリッと辛い麻婆豆腐を押し込んだ。
「姉ちゃんあんま食欲ないの? 餃子もらっていい?」
「いいよ」
 育ち盛りの弟に合わせた食事になるのは仕方ないことだ。食欲のない私は弟の皿にいろんなものを移動させた。
「今日は『真夜中ルーム』行く?」
 お母さんは当たり前のようにそう言った。学校に行くのは当たり前、それと同じ雰囲気で。
「今日はやめておこうかな」
 初めて『真夜中ルーム』に行ってから、私は一度も行けていない。それから一週間が立っていた。
 お母さんは何か言いたげに口を開いてからすぐに閉じた。
「……やっぱり、行こうかな」
 小さな声で言ってみると、お母さんの顔はぱっと明るくなる。
「社会との繋がりは大切だからね。同じ症状の人とも話せるかもしれないし」
「だよねー、話せるといいな」
 お腹がまたきゅっと痛くなって、今度は胃がムカムカと音を立てる。麻婆豆腐の辛さのせいだ、だから大丈夫だ。
 ……でも、どうして。生きるためには、社会に参加し続けないといけないんだろうか。
 

『真夜中ルーム』が始まる午後八時ぴったりに、私は市民ホールに到着した。お母さんはロータリーに車をつけると「いってらっしゃい」と手を振ってすぐに去っていく。
 私はロータリーに立ちすくんだまま。足は重く、動かない。
「あれ? ……棚上? やっぱり棚上だ」
 固まったまま動けないでいる私の後ろから声がした。
 降りかえるとそこに立っていたのは、ラフな格好をしたすらりと背の高い男性だった。夜闇にまぎれた彼をよくよく見てみると
「篠村……?」
 それは篠村旭だった。中学高校と同じ学校だけど、同じクラスにはなったことのない。友達とも呼べない関係の男子生徒。
「棚上、俺のこと認識してくれてたんだ」
「う、うん」
 もちろん知っている。同じ学年で篠村のことを知らない人はいないんじゃないだろうか。整った顔立ちと高身長、一年生ながらサッカー部で活躍していて。友人の間で篠村の話題は何度も出るほどだ。
「なあ篠村、もしかしてだけど。――昼夜逆転症候群だったりする?」
 篠村はなんてことのないようにそう訊ねた。
 胸がどきんと大きな音を立てる。先生にだけ相談して、生徒には秘密にされていたこの症状。隠すほどのことでもないとは思っていたけれど、こうして真正面から聞かれると、恥ずべきことのように思えてすぐに頷くことができない。
「あ、ごめん。軽々しく聞くことじゃないよな。あーえっと、実は俺も昼夜逆転症候群なんだ」
 篠村は困ったような顔をしながらそう言った。
「え?」
「だから『真夜中ルーム』に来たんだけど。棚上もかな、と思って」
 ――まさか。だけど、よく考えればそうだ。土曜の夜の市民ホールは何の催しもないし、『昼夜逆転症候群』や『真夜中ルーム』は誰でも知っているものではない。
「そうなの。私も、昼夜逆転症候群で……」
 語尾は掠れた。久しぶりに人と話したからか、なんだか喉がカラカラに乾いている。
「そっかあ。……さらに聞いて悪いけど、もしかして入るか、迷ってた?」
 篠村は市民ホールと私を見比べながら訊ねた。きっと声をかける前に、立ちすくんでいた私を見たはずだ。なんと答えていいか迷っていると
「じゃあ俺と一緒に飯でも食べにいかない? 夕食? いや、俺らでいうと昼食かな――を食べに」
 
 
「肉が染みる」
 ハンバーグを一口食べた篠村はすぐに二口目も頬張った。私も目の前のオムライスを掬う。お母さんが作ってくれた中華料理はほとんど食べられなかったから、どうやらお腹がすいていたみたいだ。私たちは近くにあるファミレスで食事を取ることにした。
「おいしい」
「それはよかった」
 篠村は満足げに目を細めた。よくよく考えれば男の人と二人で食事などしたことがない。急に気恥ずかしくなってきてスプーンを嚙み締める。
「棚上はいつから昼夜逆転症候群になったの?」
 そう質問する篠村のハンバーグは一瞬で半分なくなっている。肉を飲み込んで篠村は私に聞いた。
「七月始めから、突然」
「俺とほとんど同じか。俺は六月の終わり」
 篠村も学校を休んでいるなんて知らなかった。ああでも篠村くんがいない、と友人の絵里がグラウンドを眺めながら言っていたかもしれない。
「篠村は『真夜中ルーム』に行っているの?」
 私は自然と質問していた。同じ昼夜逆転症候群の人の話はずっと聞いてみたかった。これからどうしていくのか、とか、どうやって毎日を過ごしているのか、とか。聞いていいよと言ってくれる人はきっと『真夜中ルーム』にはたくさんいる。だけど、聞けなかったことたちだ。
「ううん。最初の二週間くらいは行ったんだよ。でも俺には合わなくて」
 意外だ。明るくていつも友達に囲まれているような篠村でもそう思うだなんて。篠村ならコミュニティルームの真ん中で笑っていそうなのに。
「なんか、窮屈なんだよな。あそこ」
 ――窮屈。そうだ、私が『真夜中ルーム』に感じたのはまさしくそれだった。
 確かに居場所を提供してくれている。だけど年齢や性別関係なく、同じ症状だからと。居場所がそこにしかないなんて。学校よりも窮屈に思えた。……たくさんの人がいればますます正解がわからなくなってしまう。
「実は、私もそう思ったの。だから、一回きりしか行けてなくて」
「うん、わかる」
 篠村はドリンクを口に含む。わかる、たった一言なのに。嬉しくて、ぐっと喉に力が入る。
「じゃあさ、これからは夜を俺と過ごさない?」
 篠村はさらりと言った。他意のなさそうな軽い口調で。
「篠村と、夜を……?」
「うん。暇だろ、家にいても。でも『真夜中ルーム』も俺らには合わないし。ああでも棚上、女の子だし深夜は危ないから、あんまり遅すぎない時間に。棚上毎日何時頃に目が覚める?」
「私は十六時」
「じゃあ、十七時から集まって。二十一時半には解散しよう。どう?」
「うん、いいよ」
 私は頷いた。男の子と毎日夜を過ごす、それはなんだかいけないことをしているようにも思えたけど。
 でも、私だって誰かとの繋がりが欲しかった。三週間過ごした暗い夜は孤独で。私は細い繋がりを掴むように、頷いていた。 

 私たちは食事を終えると解散した。
 私は『真夜中ルーム』に戻って、篠村は「やっぱり入る気になれない」と帰宅することを選んだからだ。私も到底入る気にはなれなかったが、『真夜中ルーム』に行くと言って出てきた手前、行かずに帰宅する勇気が出なかったからだ。
 今日も作業ルームで宿題をやりながら、篠村との会話を思い出した。
 あの後、私たちはとりとめのない話をした。中学時代の友人たちはどの高校に行ったとか、日本史の先生に最近子供が生まれたらしいとか、まるで天気の話のような当たり障りのない会話だ。
 昼夜逆転症候群の話題をお互い避けるように。
 そう、例えば。どうして昼夜逆転することになったのか、とかを。

 昼夜逆転症候群は原因不明と言われているし、実際医学的には原因不明なんだろう。
 でも、なんとなくわかる。
 朝目覚めたくないと、願ったからだ。

 春、私は希望に満ち溢れていた、と思う。
 自分で選んで、受験で選ばれた、相思相愛の学校だ。徒歩通学から、二駅分電車に乗ってみて。ださくて仕方なかった制服から、かわいい理想の制服に変わった。
 だけど。九年間ほとんど変わらないメンバーで過ごす中学と、ほとんど初対面の人ばかりの高校は想像していたよりもずっと疲れた。
 今まではなんの気も遣わずに発言していたことが(はばか)れる。自分の言いたいことややりたいことよりも、その場の空気になじむことを優先する。
 おかしくもないのに笑って、怒ってもないのに愚痴に共感して。それは「大人になった」ともいえるのかもしれない。
 だけど毎日どんどん「私」がすり減っていて。私はうまく自分の気持ちを出せなくなっていた。

 今まで私はうまくやってこれた、はずだった。でも人付き合いというものは自分が思っていたよりずっと難易度が高いことに気づいた。
 ある日。四人グループの中の一人、マイが彼氏との愚痴をつぶやいていた時のこと。
「別れた方がいいんじゃない? マイのことを大切にしてくれない彼氏なんて最低だよ」
 私の言葉に、その場はわかりやすく凍った。まるでピシッと音が鳴ったように。
 マイのためを思って、言ったつもりだった。マイの彼が浮気をしているのは明白で、約束をすっぽかしてばかりだった。あまりにもおざなりにする彼の対応に、私は腹が立っていたし、そんな男にすがりつく意味も私にはわからなかった。
「そうだよね」
 私の言葉にマイは力なく笑うと同時に瞳に涙がじわりとたまった。絵里が私のことを見た。その瞳はまるで私を敵認定したかのように鋭く見えた。
「でも、マイは好きなんだもんね。そう簡単には割り切れないよね」
 由奈がマイの背中を優しくさすると、耐えきれないというようにマイは涙をこぼした。
「それが恋ってことだよね、信じたいよね」
 絵里が同調してマイは「ありがとう」と微笑んだ。
「ご、ごめんね……。私マイのことを思って、ちょっと酷いこと言っちゃった。恋もしたことないのに……なんの参考にもならないよね、ごめんね……」
 ひゅぅと鳴りそうな喉から、上擦った早口の言葉たちが滑っていく。
「ううん、栞は心配してくれただけってわかってるから」
 マイは小さな声で言った。

 いじめや無視に発展するほど、私たちは子供ではない。
 少しだけマイとの間に距離が開いて、私の前では彼氏の話をしなくなっただけだ。
「栞はちょっとお節介なところあるよね」
「わかる。正論言えばいいってもんじゃないから」
「ま、栞もいい子なんだけどね」
 と、絵里と由奈が話しているのを聞いてしまっただけだ。
 大きな歪みができたわけではない。
 それだけがきっかけなわけじゃない。だけど、何かを口にするのが怖くなった。私ってお節介なのかもしれない。空気が読めないのかもしれない。私の言葉が人を傷つけるのかもしれない。あの場を思い出すだけでお腹が痛くなる。
 ううん。きっと、人との関わりってこんなことばかりのはずだ。みんなそうやって大人になっていくんだ。私だけじゃない。そう言い聞かせても、どうしようもなく足がすくんで、自分が立っている場所がわからなくなっていた。

・・

 翌日、約束通り篠村は十七時に我が家にやってきた。外で集合するのかと思っていたのだが、篠村はなんとお母さんに挨拶までしたのだ。
 好青年かつ、家が近所、高校も同じ。同じ昼夜逆転症候群。二十二時には送り届ける。篠村の爽やかな挨拶にお母さんは私を機嫌よく見送った。
「お母さん『真夜中ルーム』に行きなさいって言うと思った。すごい」
「親は子供が社会から取り残されるのが怖いだけなんだよ。外に出るだけでもいいんだ」
 家を出て歩きながら篠村はそう言った。
「『真夜中ルーム』だってそういう考えから生まれてるんだよ。あそこに行けば、なんとなく許された気がする。だからあそこは必要なんだ」
「そうかも」
 私よりほんの少し昼夜逆転歴が長いだけなのに、篠村はいろいろと考えているんだな。そう思っていると
「今日はどこに行く? まだ外も明るいし」
 篠村が私に聞く。そうか、『真夜中ルーム』に行かないのであれば、自分の居場所を自分で定めないといけないんだった。
「どうしようかなあ」
 意見を口にすることが怖くなってから、私は小さな提案さえうまくできない。
「棚上に特に希望がなければ、公園でサッカーでもしない?」
 公園でサッカー。予想していなかった提案に正直面食らう。女子高生の遊びとしては一般的ではない。
「あー……昼夜逆転してると、身体なまらない? だからなんか身体動かせたらと思って。でも、女子にサッカーはないか」
 私の反応に篠村はきまずそうに言うから、その表情がおかしくて私は吹き出す。
「いいよ。サッカーしよう。私全然できないけどね。でも確かに身体動かしてないから良さそう」
「じゃあ俺んちすぐ近くだから、ボール取りにいっていい?」
 そうして私たちは近所の大きな公園に到着した。遊具もあってグラウンドも広い、小さな小川なんかもある。小学生の頃によく来た公園だ。
「久しぶりに来たなあ。懐かしい公園だ」
「うん」
「歩いてるだけでもちょっと気分いいかも」
「だろ? やっぱ家の中にこもってるより、ちょっとは身体動かした方がいい」
「だけど、めっちゃ暑いね」
 うだるような暑さに本音が滲んで、私はハッとする。せっかく篠村が誘ってくれて、私の身体のことを考えてくれて公園を選んでくれたのに。失礼な発言じゃなかったか、無意識に手が口を覆う。
「だなー。これ、サッカーは無理だな」
 だけど篠村はおかしそうに笑うだけだ。……気を悪くしていないだろうか。そう思って表情を伺うと
「なに? あんまりじっと見られると照れるけど」
 篠村は少しだけ耳を赤くしてそう言った。思っていなかった反応に驚いてしまう。
「暑いし、ちょっとだけ散歩したらアイスでも食べに行くか」

 私と篠村の一日目の夜はすぐに終わった。
 公園をぐるりと散歩して、アイスを買って公園に戻った。身体が冷えたからと、少しボールを蹴ったらすぐに汗だくになった。次は銭湯に行くのもありだな、なんて話して。それから昨日も行ったファミレスで私たちにとってのお昼ごはんを食べて、九時半頃には家まで送ってくれた。お母さんはもちろん喜んでいた。
  
 昼夜逆転が始まって。家族が眠りについた後、朝が来る前の四時間程。私はずっと孤独だった。
 部屋の明かりをつけて、イヤホンから好きな音楽は流れても。静かな夜に私ごと溶け込んでしまっている気がした。この世界には誰もいなくて、私だけで。
 真っ暗で、終わりのない、泥のような暗闇に。自分が溶け込んでしまっているようで。もがいても、出れる気がしなくて。
 朝目覚めたくもないのに、夜に沈む勇気もない。夜に一人起きていると、この世界に私しかいない気がして。言いようもない恐ろしさが足元に渦巻いていた。
 でも、今夜は違う。
 私がこうして眠れずに過ごしている夜。同じく眠れずに夜を過ごしている篠村がいる。真夜中を一緒に過ごさなくても。

 篠村と過ごすようになって一週間が過ぎた。
 そのうち四回、篠村に会った。一緒に図書館に行って勉強したり、ゲームセンターにも行ったりした。
 今日は公園に備え付けてあるバスケットゴールでシュートを決める遊びをした。しばらく身体を動かすだけで汗だくになる。屋根のあるベンチに座って一休みする。
「はあ、暑い。今日銭湯行くことにしてて正解だったな」
 篠村は着替えが入っている袋を振った。前回の約束通り、近くの銭湯に行く予定なのだ。
「篠村バスケも出来るんだね」
「棚上といえばバスケかなって」
「知ってたの?」
「そりゃもちろん」
 私は中学時代、バスケ部だった。篠村が知ってくれていたことは意外だけど。
 中学は部活にも打ち込んでいたなあ。うまいわけでも、強い学校でもなかったけど、必死に毎日頑張っていた。高校は周りの友達が帰宅部を選んでいたから、特別好きだったわけでもないし、と続けなかった。今でも何か、打ち込めるものがあれば、私は私を好きでいられたんだろうか。そんなことをぼんやり考えていると
「棚上、夏休み友達と何したかった?」篠村はそう訊ねた。
「うーん、改めて聞かれると難しいね」
 夏休みといえば、幼馴染の美優と花火大会に行くのが毎年恒例だったけど、今年は彼氏ができたらしいので遠慮したんだった。高校の友達だけでなく中学時代の友達にも会えていない。
「夏休みにやりたかったこと、やってみない? 毎週一つはお題を決めて」
「うん、いいよ」
 普通の夏休みを送れない私たちだけの特別な夜の夏休みだ。夏休みが終わってしまえば一体私たちはどうなるんだろうか。学校はどうするんだろうか。その気持ちに蓋をしてしまえば、特別な夏にワクワクもする。
「今が夏で良かったよね。夕方でもまだ明るい」
 十八時になっても賑わっている公園を眺めながら私は言った。
「冬に昼夜逆転したら大変だよ。ずっと暗くて気が滅入る」
「だよねえ」
 だけど、夏が終わればやがて冬が来る。やっぱり今後のことは何も考えたくない。
「あ、夏休みといえば。篠村は部活、大丈夫なの?」
 篠村はサッカー部で活躍していたはずだ。一年生でもレギュラーではなかっただろうか。私は帰宅部だから何の問題もないけれど、篠村にとって夏休みでも昼夜逆転は大きな問題だ。
「あーえっと、うん。まあね」
 篠村は珍しく言葉を濁した。
 もしかして。篠村の昼夜逆転症候群のきっかけは部活なのかもしれない。人気者に見える篠村でも、部活なら悩むこともあるのかも。大活躍だとは聞いていたけど、出来る人特有の悩みだってあるだろう。
「そういえば、篠村って小学校の時はいなかったよね! 中学から引っ越してきたの?」
 少し無理がある気もしたけど、私は話を変えることにした。部活は触れられたくない話題な気がしたのだ。
「そう。中一の秋に」
「中一の秋だったっけ? クラス違ったから時期まで覚えてないや」
「だろうな。そもそも俺のこと覚えてる?」
 篠村は小さく笑って聞いてくるから、一度篠村のことを見やる。背が高くて、女子生徒から憧れの目で見られる篠村。だけど、正直中学時代の篠村とは少しイメージが違う。
「覚えてるよ。でも、中学生の時とだいぶ雰囲気が違うから、中学時代の篠村があんまり思い出せなくなってるかも」
 これ、言ってよかっただろうか。口から出した後にまた少し不安になる。
 篠村は、中学時代はあまり目立つ生徒ではなかった。背も高くなかったし、髪の毛はもっともっさりしていたし、わりと大人しい印象の生徒だった。
「あはは、だよな。俺、高校デビューだし」
「ご、ごめん。そういうつもりで言いたかったわけじゃ――」
「わかってるよ、大丈夫。でも棚上が覚えてくれてるとはね」
「同じクラスなったことないけど。そりゃ覚えてるよ」
 親しくなかったとはいえ、転校生は話題にもなるし、小学校からずっと同じメンバーで四クラスしかなかったのだ。学年全員の名前くらいは把握している。
「そっか。なら嬉しい」
 篠村は嬉しそうにはにかんだ。転校生側からすると全員覚えきれないのかもしれない。
「そういう篠村は私のこと覚えてる?」
 私は軽く質問しただけ、だったのだけど
「うん。棚上のこと忘れるわけないよ」
 篠村は真っすぐ私を見つめた。
「え、なんか変なことしたっけ。私」
 中学生の時の私はもっと積極的で、なんでも口にしていたと思う。少しお調子者だったところもあるから、何かふざけていたところを見られていたかもしれない。
「はは、大丈夫。変なことしてないよ。まあ棚上は覚えてないと思うからいいよ」
「何、気になる」
「ちょっとしたことだって。そろそろ銭湯行こうよ。汗気持ち悪くなってきた」
 どうやら篠村は答えてくれる気はないらしい。

 七月の終わり。夏休み、したいこと。その一。
 私たちは映画を見に行った。
 夏休みにしたいことがパッと出てこなかった私に篠村が提案したのだ。
「『夏休みだからこそしたいこと』で映画?」
「キンキンに冷えた映画館でホラー映画を見てさらに寒くなる。これは夏休みだからこそやりたいことと言えるね」
「なるほど」
 そんなわけで私たちは地元のさびれた映画館に行って、最近よくCMを打っている映画を見た。正直言って……微妙だった。主演は人気のアイドルグループの女の子だったが、演技初挑戦らしく、彼女が大げさな演技をすればするほど恐怖心が減っていった。そして古い映画館は生ぬるく、椅子にもたれた背中がじっとりと汗ばんだ。とても快適とは言えない二時間だった。
「なあ、どうだった……?」
 映画館から出て、少し歩いたところで篠村は私に訊ねた。
「えっと……」
 篠村はどう思ったんだろう。映画館は暑かったし、怖さで冷えることもなかった。だけど、もしかしたらあのアイドルのファンかもしれない。それなら演技が微妙だったね、ということで気分を害してしまうかもしれない。たった一言うまく答えることができなくて、ぐるぐると考えが巡る。
「正直に言っていいよ」
 篠村はいたずらっこなような笑みで私を見た。
「……映画館ちょっと暑かったね」
「だいぶな」
「目標達成度は六十パーセントくらいかも」
「あはは、なにそれ、目標達成度って」
 マイナスな言葉を避けようと苦し紛れの私の言葉を、篠村はおかしそうに笑った。
「本当に六十パーだと思う?」
「う……二十パーくらいかも」
「暑いし、映画で冷えてくれなかったもんなー」
 篠村は楽しそうに笑う。正直な気持ちを言っても、篠村は気にすることなく笑ってくれる。
 目標達成百パーセントにならなかったのに、楽しい夏の思い出になったから不思議だ。


 八月一週目。夏休み、したいこと。その二。
 それを提案されたとき、私はどうしようか一瞬悩んだ。花火大会に誘ってもらったからだ。
「やっぱり夏休みといえば、花火大会!」
「そうかも。でも篠村、相手は?」
「彼女ってこと? いたら、こんなに棚上と会わないって」
 ……それもそうか。篠村は彼女がいたら、すごく大切にしそうだ、なんとなく。今まで篠村の彼女の存在を考えたことがなかったけど、考えてみると心がほんの少しざわつく。
 篠村に彼女ができたら、たとえ昼夜逆転の仲間だとしてもこんなに頻繁に会うことはなくなってしまう。というか、むしろ。今が恋人のように会っているんだけど。
「棚上? どうした? もう行く人いるなら断ってくれてもいいよ」
「ちょっとぼーっとしてた。行く人、いないよ。毎年行ってた美優は彼氏できたみたいで」
「田中か。――棚上は彼氏は?」
「いたら、こんなに篠村と会わないよ」
 篠村の真似をして答えると、笑顔が返ってきた。
「じゃあ一緒に行こうよ」
「……うん、いいよ」
 そんなやりとりがあって、今浴衣を着た状態で悩んでいる。お母さんが花火大会に行くなら!と張り切って浴衣を着付けてくれたのだけど、ただの友達との花火大会にしては少し気合いが入りすぎではないだろうか。
 これでは逆に気を遣わせてしまうんじゃ? 気がそわそわとして落ち着かない。
 いつものように篠村は私を家まで迎えに来て、玄関で私を見ると目を丸くした。やっぱり気合いが入りすぎてしまっているんだ。篠村はラフないつも通りの恰好なのに。私は髪の毛を巻いてアップにして、薄くメイクまでしてしまっている。こんなの、まるで、デートのために張り切ってるみたいだ。
「お母さんが花火大会行くならって、浴衣出してきたんだ。ちょっと張り切りすぎだよね」
 言い訳のように早口でそう言うと「えーなんで! 花火大会は浴衣が一番!」と篠村は笑顔を見せた。
 篠村に笑顔を向けられるといつも「ならいいかあ」と思う。自分の言動がずっと不安で仕方ないのに、篠村といると「気にしなくていいのかも」と思える。篠村といるときの私のことは好きかもしれない。


 花火会場の近くまで来ると、想像通り人はごった返していた。私たちは焼きそばやたこ焼きなんかの食料を買うとメイン会場まで向かうことにした。
「わかってたけどすごい人だな」
「本当に」
 蒸し暑い空気と一緒に人混みに流されていく。
「棚上」
 名前を呼ばれて篠村を見ると、篠村は私に手を差し出している。
「あーえっと、ほらはぐれないように」
 まるで少女漫画のワンシーンだ。少し照れ臭そうにしている篠村の手を取って、私たちはしばらく黙ったたま人の波に乗って進んだ。
 いつも二人で歩いているとき、どんな話をしていたっけ。うまく話せそうにないから、私は人の波に溺れないように必死に歩くふりをし続けた。
 しばらく進むと開けた場所に来て、ようやく自分の思う方向へ歩けるようになった。
 手を離す? ――今ははぐれる心配もない。手はじっとりしてきた。手汗を不快に思われるかもしれない。だから離した方がいい。
 手を離さない? ――急に離したら、嫌な気持ちになるかもしれない。『俺のことが嫌いなんじゃ?』と思われるかも。
「あそこらへん空いてる。どう?」
 繋いだ手と逆の手で、篠村は指さした。河原の石段になっているところで、座りやすそうだ。
「うん、いいね」
 篠村はそのまま歩き出すから、私は手を離さないことにした。篠村が、じゃない。私がもう少しこのままでいたかった、のかも、しれない。
 目的の場所まで到着すると「篠村?」と後ろから声が聞こえた。
「お、谷口」
 そこにいたのは中学時代の同級生・谷口だった。彼女らしき女の子と手をつないで一緒にいる。
 そして、私が谷口の存在に気づいた瞬間、篠村はぱっと手を離した。
「久しぶり」と谷口が言うと、「三日ぶりだろ」と篠村は突っ込む。
「え、待って。棚上?」
 谷口は私の存在に気づくと目を見開いた。私を確認するようにじっと見つめる。
「久しぶり」
「へー、棚上と? ふうーん、そういうこと?」
 にやにやと谷口が私と篠村を見比べる。
「違うから」
「今度詳しく聞かせてもらうわ」
「ちょっと。感じ悪いよ。邪魔するな」
 谷口の彼女らしき女の子がたしなめると、「ごめんごめん。じゃあ俺らは行くわ」と谷口は言った。
「またな、篠村」
 谷口が軽く手を振って、彼女がぺこりと頭を下げるから私も会釈を返した。
「……座ろっか」
 篠村はそう言って石段に座るから私も座った。
「谷口、懐かしい。仲いいんだ?」
 動揺を隠すように放った言葉はボリュームが少し大きかった。顔を見られず、私は袋から焼きそばやたこ焼きを取り出す仕事につくことにした。
 篠村が、手を離した。先ほどまで自分も離すか・離さないか、悩んでいたくせに。なぜかその事実に私は揺さぶられていた。
「よく谷口たちとは会うかな。三日前もナイター見に行った」
「そっか、夜なら普通に遊べるか」
「うん。えっと、昼は予定があるけど夜なら空いてるって言ってる」
「あー、確かに。それはありだね」
 さも今気づいたかのように相槌を打ったけど、それは心のどこかで気づいていたことだった。別に私が生きている時間は「真夜中」だけじゃない。私が「昼夜逆転」を言い訳にして、友達と過ごす時間から逃げているだけだ。
「谷口は知ってるの? 篠村が昼夜逆転ってこと」
「いや、話してない」
「そうだよね、わかる。心配かけたくないし」
 それは半分本音で、半分建前だった。変に心配をかけたくない。
 だけど、一番の本音は逃避だった。昼夜逆転だから、友達に会って向き合わなくてもいい。
 追及されたくもなかった。
 昼夜逆転。理由不明の症状。でもきっと『朝が来てほしくないから』だ。それを説明するのは、友達にあなたたちと会いたくないと言っているようなものに思えたし、私が『弱い』ことを証明しているみたいだった。
「棚上は会ってる?」
「ううん、誰とも」
「女子は夜に遊ぶの危ないしな」
 篠村は軽くそう言うと「あ、焼きそば食べていい?」と言って、プラスチックの容器を開けていく。
 篠村は、私と同じ昼夜逆転症候群。
 だけど、きっと私より広い世界に生きている。
 今、私の夜には篠村しかいない。それを突き付けられた気がして。手が離れた瞬間の、感覚を思い出して。
 毎年楽しみにしている鮮やかな花火が、ぼんやりとしか目に入らなかった。

 八月二週目。夏休みやりたいこと、その三。

「そろそろ棚上の希望を叶えようよ。ないの? なんでもいいよ」
 そう言われて、私がひねりだした答えは線香花火だった。
「夏の夜といえば、線香花火! ……って感じしない?」
 小さな提案だというのに、声はかすれた。
「する」
 不安に思う間もなく篠村はそう言って「俺の希望で他の花火も買わせていただきましたが」
 と笑いながらディスカウントストアで買ってきた花火を並べ始める。
 私たちの学区の外れにある河原は、昼は多くのバーベキュー客が訪れて、夜は花火をする人もちらほらいるスポットだ。――今日は私たち二人きりだけど。
「よし」
 篠村はチャッカマンを出すと、まず自分の持っている花火に火をつけた。私が持っている花火に自分の火を渡してくれる。
 火が点いて勢いよく白の光が飛び出していく、まっすぐに。思っていた以上に明るくて、篠村の顔がはっきりと暗闇から浮かぶ。
「あ、すぐに終わった」
 篠村の顔がまた薄っすらとしか見えなくなってなぜか安心する。同じく私の顔も見えないはずだから。
「次はこれにしようかな。ぱちぱちするみたい」
「いいね。じゃあ俺はこれ。大閃光だって」
「さっきのより明るいのかな?」
 袋から出したときは、すごい量だ。と思ったのに、あっという間に手持ち花火はなくなってしまった。篠村と過ごしているとなんでもすぐに終わってしまうのはどうしてだろう。
「大本命、線香花火行きますか」
 篠村は花火の袋から小さなろうそくを取り出した。線香花火はこっちの方が火が点けやすいから、と言いながら。
「じゃあ……いくね」
 私はほんの少し緊張しながら線香花火を掴んだ。ろうそくの火に線香花火を近づけると大きな火の玉ができて、あっけなく、落ちた。
「あ」
 一瞬で落ちてしまった線香花火に篠村が声を出して笑う。
「俺がお手本を見せましょう」
 篠村も線香花火に火を点ける。火の玉は丸くなって、弾け――ずに落ちる。
「へたくそすぎない?」
 思わず声を出して笑ってしまって「あ」と思う。バカにしたように聞こえないだろうか。そんなことが一瞬よぎったけれど、ろうそくの淡い光に揺らされて、篠村は穏やかな目で私を見ていた。
「もう一回」
 線香花火にまた火が灯る。プクリと小さな玉が膨らんでいく。
 ――同時に、私の感情も芽を出した。何が正解かわからないから、何かを言ったら傷つけて傷つくから、好きとか嫌いとか、全部なくしたかったのに。
 線香花火はパチパチと弾けていく。一度気づいてしまったらもう止まれない。
「あ、」
 勢いよく弾けた玉はポタリと落ちた。
「これ不良品だったりする?」
 私が眉をひそめると、篠村はおかしそうに笑った。
 次の線香花火も勢いよく火が点いて、大きな玉に膨れ上がってパチパチと弾け始めた。そして、勢いが良くなったところでぼたりと落ちる。
「あーあ」
「もうちょっと下持った方がいいんじゃない?」
 篠村は私の持っている線香花火に手を伸ばした。
「ほら、このあたり。ここならそんな熱くないし、安定する」
 手は触れていない。でも、あと数ミリ動かせば手は触れてしまうし、私たちの距離は思っていたより近づいた。
「ごめん。俺邪魔だよな」
 ぱっと篠村が離れて、私は「ううん、ありがとう」なんて返した。
 篠村が近くにいるのは嫌じゃない。でもそんなに近寄られると、また揺れる。手元が揺れて、火の勢いに負けてしまう。
 小さな玉は大きく膨らんで、溢れて零れ落ちそうだ。一度火を点けてしまったら、もうあとは膨らんで弾けるしかない。私の感情も。
「落ちないで」
 笑ってしまうくらい必死な声が出た。何を線香花火に祈るんだろう。だけど、これがうまくいったら。篠村に話してみよう、自分のことを。
「落ちるなよー」
 篠村もじっと私の手元を見つめているから、手が少し揺れてしまったけど、線香花火は落ちることなくしぼんでいった。
「ふう、成功! 一つ成功すると気が楽だ」
「なんだそれ」
「線香花火してると、一つは成功させなくちゃって気になる」
「そんな追い詰めんでも。ま、言いたいことはわかるけど。じゃ、この後は気軽にやりますか」
 篠村が笑いながら次の線香花火を渡してくれる。火を点けて、私は訊ねた。
「篠村、なんで声かけてくれたの」
「ん?」
「誤解しないで欲しいんだけど、私は嬉しかったんだよ。だから結果的には良かったんだけど、その……、一緒に夜過ごそうって切り出すの、勇気いるでしょ? 私たち同じクラスになったことさえないんだし」
 ずっと思っていたことだった。私なら絶対にできない。ほとんど話したこともない人に、同じ症状というだけで、気軽に話すことは。ましてや夜を一緒に過ごそうと提案するなんて。
「ほら、おせっかいって思われたらどうしよう、とか……」
 つぶやきが途切れる。それを気にしているのは私なのに。なんで篠村に自分の悩みを押し付けてしまったんだろう。ちらりと篠村を見上げる。
「俺が救ってほしかったから」
 篠村は私を真っ直ぐに見た。
「え?」
「俺が夜から救ってほしかったから。一人の夜は不安だし、おせっかいでもなんでも。一緒に過ごしてほしかった。強引に連れ出してほしい気分だったから」
 篠村が、連れ出してほしかった……? 目を瞬かせていると、篠村は次の花火に火をつけてゆっくり話し始めた。
「嫌だとかキモいとか思われる可能性はあるとは思ったよ。でもさあ、それってどれだけ考えてもわからないから。自分の言動を相手がどう捉えるかって、一種の賭けみたいなもんだよ」
「賭け……」
「棚上は嬉しいって思ってくれたんでしょ。だから今回はたまたま俺は成功した。でも拒否する人も、俺を悪く思う人もいるだろうね」
 ぱちぱちと弾ける光が篠村の顔を照らす。思い出すように篠村は続けた。
「でも俺は過去にそのおせっかい的なものに救われたことがあるから。だから、俺も声をかけてみた。その人みたいになりたくて。それを全員に受け入れてもらえるとは思わない。でもそれでもいいかなと思ってる」
 線香花火は弾けて、また落ちる。それを見て篠村は真面目な顔を少し緩ませた。
「強いね、篠村は」
「どうだろ、開き直ってるだけかも」
「私、怖くなっちゃったんだ。意見を言うこと」
 次の火を灯しながら、小さく呟いた。
「私の言葉で友達を傷つけたかもしれない。そう思ったら、全部怖くなっちゃって。間違ってたらどうしようって思ったら、下手なこと言わないように黙ってなきゃって……一度そう思ったらうまく喋れなくなっちゃって。学校に行くのも怖くなっちゃった」
 そこまで一気に吐き出して、はっと顔を上げる。篠村は変わらない表情でこちらを見ていた。
「うん。話してくれてありがとう」
 こんなに自分の気持ちを話したのは久々だ。言葉と一緒に涙もじわりと出てきそうで私はぐっと喉に力を込めた。
「聞いてくれてありがとう」
 篠村はうーんと少し考える素振りをしてから、
「誰かを傷つけるためにわざと放った言葉は問題外だけど、それ以外は正解も不正解もないと思う。何を言っても悪く捉える人もいるし、言葉を間違えても、伝わる人もいる。棚上が悪いわけじゃない。もう相性の問題だよ」
 篠村の言葉がゆっくりと私の中で弾けていく。
「そうだよね」
「怖いものは怖いけど。どうですか、俺みたいに開き直るっていうのは」
「あはは、そうだね。私にはすぐには出来ないと思うけど、いいね。いいなあ」
 どう思われるか、怖い。自分の言葉が、石を投げた水面のように広がっていくのが。どんな広がり方をしてしまうのか。
 だけどそんなに、そこまで、自分を責める必要はないのかもしれない。線香花火の光はずっと優しく照らしてくれていた。
 
 その日、私の眠りにつく時間が一時間遅くなった。
 私は、五時まで起きていられるようになって。カーテンの外が少し明るくなるのを感じた。
 
 眠りにつくのが一時間遅くなっても、十六時に目が覚めるのは変わらなかった。
 目覚めてスマホを確認するとグループメッセージが届いている。グループのメンバーは絵里と由奈とマイ。久しぶりの名前に少し身体がこわばる。
 お昼頃にやり取りは始まっていて、由奈の『私のおじさんが焼肉屋開いたんだ。急だけど、明日の夜みんなで行かない?』というお誘いからスタートしていた。
 絵里とマイが『行く!』『暇!行きたい』と返していて、『おじさんの焼肉屋ってことは安くなるの?』『おじさんがご馳走してくれるって』『え、すご』と話が盛り上がっていた。
 『栞、既読つかないね。まだ体調悪い?』とマイが送って、そこでグループメッセージは途絶えていた。私の返事待ちだ。
 正直篠村以外と会うのは怖い。だけど。昨日篠村と話したこのタイミングで、『夜』のお誘い。明日は篠村と会う日でもない。
 なんだか神様が「少しだけ頑張ってきなさい」と言っているようにも思えて。
『ごめんね、寝てた。明日、私も行けるよ!』と送ってみた。
 すぐに『久しぶりの栞!』『やったー』『明日楽しみ』『いっぱい食べよ』と返事が返ってきた。先程まで重かったスマホが急に軽く思える。
 顔を洗おうと一階に降りると、お母さんがキッチンで夕食の準備をしている音が聞こえる。今日はお母さん休みだったのか。
 ――今なら、言えるかもしれない。
 私は息を大きく吸ってから、ダイニングに向かう。
「お母さん。相談があるんだけど」
 部屋に入るなり、硬い声が飛び出た。その声にお母さんは深刻な顔を伴ってすぐにキッチンから出てきた。
「何かあった!?」
 その顔はすごく私を心配していて、私がとんでもないことを言い出すのだと思っているのかもしれない。昼夜逆転してから心配をかけてばかりだ。
「大したことじゃないんだ。その……これから夜ご飯、私の分まで作ってくれなくてもいいよって言いたくて……」
「え?」
「せっかく作ってくれてるのにごめん。でも、私にとっては夜ご飯というより朝ご飯みたいで、ちょっと中身が重くて。それに七時まで待ってるとお腹空くの。起きてすぐに軽くパンとか食べたいんだ」
 お母さんは気を悪くしないだろうか。もしくは落ち込んだりしないだろうか。どんな表情をしているか気になる。
 意を決してお母さんを見ると、お母さんはほっとしたように目元を緩ませていた。
「もうそんなことかあ。深刻そうな顔してたからびっくりしちゃった。わかった、四時だとお母さん帰ってないこともあるから、パンとか色々と食べられるもの用意しとく」
「お母さん大変だし、自分で用意するよ」
「そんなこと心配しなくていいよ。遠慮しないでいいから」
 お母さんは私の背中を軽く叩いてまたキッチンに戻ると「今もおなかすいてる、よね? パンと……あ、目玉焼きでも焼こうか?」と聞いてくれる。
「スクランブルエッグの方が好きだな」
 そんなワガママも言ってみる。
 こんなちいさなワガママを言うにも、勇気がいったなんて。
 私はどれだけ自分を許せなかったんだろう。
 お母さんが作ってくれたふわふわのスクランブルエッグは優しくてあたたかだった。

 眠りにつくのが一時間遅くなったこと。友達と約束をしたこと。要望を少しだけ言えたこと。
 篠村はどれも大げさに一緒になって喜んでくれた。
 嬉しいことがあったら、私、全部一番に篠村に伝えたいかもしれない。

・・ 

 駅から焼肉屋まではマイと向かうことになった。マイと二人になるのは、あの気まずくなった時から初めてだった。
「栞、体調よさそうで良かった」
 マイは私を見てすぐに笑顔をみせた。半月も休んでいたのだから、心配をかけてしまったんだろう。
「急に休んだからびっくりさせたよね、貧血がひどくて午前中がしんどくなっちゃって。夜行性になってた」
 昼夜逆転症候群を説明すると驚かせてしまうかもしれない。そう思って用意しておいた症状を説明した。マイは特別に疑う様子はなかった。
「夏休みってこともあってだいぶ昼夜逆転しちゃってる」
「じゃあ夜なら体調いいかんじ?」
「そう。よかったらまた遊ぼう」
 うん、大丈夫。うまく喋ることができてるはずだ。少し声が上擦って掠れているけど、そんなに変ではないはずだ。
「話すのも久々だね」
「うん」
「――私、彼氏と別れたんだ」
 マイの突然の言葉に私は驚いてその場に立ち止まってしまった。
「え、もしかして私の……」
「ふふ、栞のせいじゃないよ。自分でもわかってたことだから」
 立ち止まった私を見て、マイも足を止めて私に向かい合った。
「だ、だけど……あの時は変に正義ぶって、上から目線で、人の彼氏のことを最低とか言って、本当にごめん」
 震えた声が飛び出す。ずっと後悔してた、言わなければ良かったと。ずっと謝りたかった。だけど勇気が出なかった。
「ううん。栞が心配してくれたことわかってたのに。私こそ嫌な態度取ってごめん」
 マイは想像よりも柔らかい表情をしていた。
 何度も想像の中でマイに謝った。何度も何度も謝った。だけど一度もこんな表情を予想できなかった。篠村の『一種の賭けだよ』という言葉が思い浮かぶ。
「傷つけちゃったし……腹も立ったよね」
「ううん。私、自分が恥ずかしくなっちゃって。栞に幻滅されたかもと思って、前ほどうまく栞と話せなくなっちゃって。自分のことが嫌になって」
 マイは眉を下げて語った。マイもそんなことを考えて、悩んでいるだなんて予想もしていなかった。私が一方的に傷つけて怒らせてしまった。そう思っていたのだから。人の気持ちは、自分が思っていない方向にも動いていく。
「でも私の言葉のせいで、マイは自分を責めちゃったてことだよね」
「うーん、そうなのかな? でも私の反応で栞も悩ませちゃったんだね、ごめんね」
「そんな、こっちこそ……!」
「あははっ、私たち道の真ん中で何必死に謝りあってるんだろう」
 マイが吹き出した。そして私の口からも笑い声が溢れてくる。ようやく身体の緊張がほどけた。
「ほんとにね」
「私たち、どっちも悪いわけじゃないのにね」
「うん」
「ね、お肉食べに行こ」
 マイが先の道を指差して、私は大きく頷いた。絵里と由奈に会う、怖いよりも楽しみが上回ってきて。私の足はすんなりと動いた。

 ・・

 二人も以前と変わらず私を迎えてくれた。
 ただ美味しいものを食べて、どうでもいいことを話して。それだけで色んなところがほぐれていくみたいだ。
 私は勝手にすべてを怖がって、すべてを気にしすぎていたのかもしれない。
 「そういえば篠村くんさあ」
 思い出したように絵里が切り出した。
 篠村――その名前に胸が跳ねる。ううん、篠村の昼夜逆転の秘密を守らないといけないと思ったから緊張した、それだけ。名前を聞くだけで胸が甘く疼いた気がして、私は言い訳をした。
「こないだの練習試合すごいかっこよかった。一人で二点も決めて」
「絵里、自分の彼氏そっちのけで篠村くん見てたからね」
 由奈がおかしそうに笑った。練習試合……? 絵里の言葉の意味を考える。
「あ、そっかあ。絵里の彼氏、サッカー部の先輩だもんね」
「そうそう。こないだ絵里と応援に行ったの。絵里、浮気者すぎる」
「いやいや、篠村くんはアイドルみたいなもんだから。恋愛とは別」
 楽しそうな三人の会話がまるで理解できない。いや、理解することを拒んでいる。
「練習試合って? 何時くらいにやるもの?」
 混乱した私の質問に、三人は不思議な表情を向ける。
「え? そこ気になる?」
 絵里が笑った。そうだ、そんなこと気にする人なんていない。部活の練習試合の時間なんて。どう考えたって、普通は日中にやるものだ。
「普通に午前だったけど。十時くらい? なんで?」
 おかしそうに由奈も笑った。
「ごめん、変なこと聞いた。篠村、本当に大活躍なんだねー」
 私はへらりとした表情を作った。久しぶりにお腹がきゅうっと痛む。
「彼氏いわく篠村くんってすっごく真面目らしい。毎日誰よりも早く来てるみたいだしね」
 篠村が、昼間の練習試合に出ていた。
 昼夜逆転症候群が治ったんだろうか。ううん、絵里の話を聞いていると、篠村は長期に休んでいたようには思えない。
 どういうこと? 騙されてた? 警告音のように心臓が鳴る。
 三人はそのまま会話を続けて、私も相槌を打ったり笑ったりしながらも。警告音が鳴り続けて、先ほどまでのような楽しい気持ちにはもう戻れなかった。
 
 
 二時。私は真夜中の中心にいた。家族はみんな寝静まっていてるし、先ほどまで楽しく話をしていた三人もきっともう寝ている。
 ――そして、篠村も。
 音一つない夜。私は部屋の明かりも消して、布団に潜り込んでいた。部屋を暗くしてじっと息を潜めるようにしていると、泥のような闇に飲まれていく気がする。
 明日は篠村と海に行こうと約束していた。夏休みらしいこと第四弾のはずだった。
 「何が、夏休みらしいことよ……」
 情けない愚痴がこぼれる。夏休み、篠村は普通に部活に打ち込んでるんじゃない。お昼を生きてるんじゃない。
 なのに、かわいそうな私の相手までして。同情? バカにしていた?
 私はスマホを取り出すと、「明日は行けない。もう私の夜に付き合ってくれなくていいよ」とメッセージを送って、眠れるわけもないのにぎゅっと目を閉じた。