朝が来てほしくない。そんなことを思っていたら、本当に朝が来なくなってしまった。私は夜に溶けたまま、昼を生きることができない。
「今日は終業式か」
スマホの画面を開くと「7/19 3:40」と日付と時間が目に入る。みんなは今日から夏休みに入るのか。だとしても今の私には関係ないことだ。小さなあくびをこぼしてから私はベッドに入るとタオルケットをすっぽりと被った。
夜明け前、それは私が眠りにつく時間。おやすみなさい、小さく言い訳のように呟くと私は目を閉じた。
梅雨が明けて、本格的に夏が訪れた七月の始めのこと。私は朝、目覚めることができなくなった。本当に突然、何の前触れもなく。
――その日、目覚めたのは夕方の五時だった。
目覚めていつものようにスマホを開くと「5:15」と映し出されていたからてっきり朝の五時だと思った。少し早いけれど目は完全に覚めてしまっている。ぼんやりパジャマのまま階段を下りてリビングに向かうと、お母さんと目が合った。
「あれ、栞。どうしたの、体調悪い?」
お母さんはパジャマ姿の私を見やるとエコバックから食材を取り出していく。
「え……」
スーツのジャケットを脱いで、スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫にしまっていくお母さんは、どう見ても出勤前ではなく帰ってきたばかりの姿で。私は今が朝ではなく夕方なのだと知った。
目覚めはよい方で寝坊も遅刻もしたことがない。無遅刻無欠席皆勤賞が取り柄な私だから、今日は起きられないほどに体調が悪かったのだと判断した。
――だけど、その日を境に私は朝起きることが出来なくなった。
両親や弟に協力してもらっても。どれだけ揺り動かされようと、まるでおとぎ話の眠り姫のように私は目覚めることが出来なくなった。夕方になるとするりと目が覚めて、朝四時前に眠りに落ちる。見かねた両親と共に病院に向かったところ「昼夜逆転症候群」だと診断された。数年前に発見されたばかりの稀に起こる原因不明の謎の症状で、珍しいものではあるけど担当医が受け持つだけでも数十名ほどはいるらしい。
症状は日中起きていられないだけで、夜はなんの問題もなく活動できる。朝起きられないこと以外に病的な症状はない。精神的なことが要因では?と言われているが原因不明、治癒方法も不明だ。ある日突然治ることもあれば、この症状を受け入れて夜勤の仕事に就いたり夜間の学校に通う人もいるらしい。
私の場合、残り十日ほどで夏休みに入るタイミングだったから、ひとまず学校は休み今後については夏休み中に様子を見ながら考えることになった。
両親は将来を心配してかなり参っていたけれど。実は私はひどく安心していた。今後のことを考えれば不安にはなる。でもそれよりも明日学校に行きたくない。
一年後の未来ではなくて、将来の私ではなくて。明日学校に行かなくていい。ただそのことに安堵していた。
――学校に行きたくない、明日なんて来なかったらいいのに。そう強く願ったのは私だったのだから。
「棚上栞さんですね、ようこそ」
中年女性がにこやかに笑顔を向けてくれる。「棚上栞」と名前が書かれたネームプレートを受け取り首から下げる。
地域の行事や習い事の発表で何度か訪れたことはある市民ホールの会議室。そこに『真夜中ルーム』はあった。
この『真夜中ルーム』は病院で案内された。市内にも昼夜逆転症候群の人は数十名いて、その人たちのために平日は毎日解放されているらしい。
昼夜逆転で困ることは、行く場所がないことだ。昼夜逆転を割り切って夜間の仕事に就いたり学校に通っている人はいい。だけどそうでない人には真夜中に居場所はない。夜に外を出歩くのは危険もついてくる。家で過ごすにしても、家族が寝ている中で灯りを点けたり、物音をたてることも憚れる。そんな人に真夜中の居場所を提供しているのがこの「真夜中ルーム」だ。夜八時から朝の六時まで開いていて登録さえすれば好きに利用ができる。
昼夜逆転症候群と診断されてから、二週間がたち。両親に勧められてここに来た。
「突然診断されて驚いたでしょう。私もね、昼夜逆転症候群なの。もう三年目のベテランだから困ったことがあればなんでも言ってね」
「ありがとうございます」
山田さんのふっくらした頬にえくぼがへこむ。山田さんは二つの部屋を案内してくれた。
部屋は教室ほどの大きさで長机が二列に五つ並んでいる。前から二番目の長机で三十代ほどの男性がパソコンを開きカタカタと打っていて、一番後ろの席で私より若そうな中学生くらいの男の子がノートを開いている。
「ここは作業スペース。静かに過ごしたいときはここで」
二人の邪魔にならないようにすぐ扉を閉めると、もう一つの部屋を山田さんが案内してくれる。そこは会議室ではなく小規模な発表会にも使われそうなホールだった。部屋の真ん中に大きなカーペットが敷いてあり、その上に寝転がれるようなクッションがいくつも置いてある。そこに数名の男女が座ってお菓子を広げて話をしていた。部屋の端にはいろいろなものがある。ランニングマシーンもあれば、テレビとゲーム機もあったり。先ほどの会議室と同じく長机もあってそこで読書をしている人もいるし、音楽をかけて踊っている人もいる。中学生くらいから中年まで年齢幅は広くなかなか自由な部屋のようだ。
「ここはコミュニティルーム。好きに過ごしてくれてもいいわ。音も出してくれていいし、軽い運動をしてくれてもいい」
……思い思い過ごしているのだと思うけど、なんだか、うまくいえないけれど。大きな圧を感じる。
「よかったらみんなとお茶しない? お菓子もたくさんあるから。ここのメンバーを紹介するよ」
「ええと……」
「最初からは緊張するかな? 慣れてからでもいいよ」
「……すみません。今日は作業スペースで宿題やってもいいですか」
小さな声で返事をすると、彼女は笑顔を作ってくれる。
「もちろん。慣れるまでゆっくりでいいよ」
「ありがとうございます」
優しさから逃れるように。私はお辞儀だけして、コミュニティルームから出ると作業スペースに向かった。部屋を開けると先程の二人がちらりと私を見るけど、すぐに興味を失って自分の作業に戻ってホッとする。
私は空いている席に座ると、カバンからノートを取り出した。
やっぱり人と関わるのは緊張する。何を話せばいいのか正解がわからなくなった。学校から逃げ出しても、結局別の場所にきてもこうだ。
私はうつむいてノートにペンを走らせた。宿題なんてやっても意味はあるのだろうか。学校に戻れる保証もないというのに。
学校に行きたくない。そう思ったのはいつからだろうか。
大きな事件があったわけではない。
だけど、朝ごはんのパンがお餅のように粘ついてなかなか飲み込めなくなった。
袖を通した制服も、カバンも、合金のように重い。
ローファーが、玄関に張り付いてしまったのではないかと錯覚する。
すべてのものが私の身体を引き止めていく。
電車が、今日動かなければいいのに。
春だけど、大雪が降って家から出られなければいいのに。
そんな小さな呪いのような願いが、朝私を締め付けていく。
学校に行ってしまえば、友達はいる。四人グループの一人として、なんとかやっているはずだった。
勉強が嫌いなわけじゃない。むしろ楽しいと思う時もある。
だけど、なぜかすごく疲れる。どうしようもなく疲れる。
大げさに笑った後に、何が楽しかったの? と冷静に自分自身に問いかけている私がいる。
ある朝、お腹がきゅうと痛くなって私は「学校、休みたいな」とへらりと笑った。
「ズル休みしてどうするの」
私よりも早く家を出るお母さんは、朝の支度で忙しそうで私に目を向けることもなく浅く笑った。
「あはは、だよねえ」
私のお腹はまたきゅっと痛んだけど、歯を食いしばって笑顔に変えた。お腹、痛いんだよ。と言いかけた言葉をお腹にしまい込んで。
最近の私の一日は大体十六時に始まる。四時前に眠りにつき、十六時まで寝てしまうのは、今まででは考えられないほどの長時間睡眠だ。
スマホを開いても誰からもメッセージは来ていない。休み始めたばかりや夏休みに入ってすぐはグループラインで「元気?」だとか「遊べる?」だとか連絡は来ていたけれど、体調不良でしばらく遊べないことを伝えたら徐々に練絡はなくなった。結局私がいなくても世界は何にも変わらない、諦めに近い感情がうっすらと私を支配した。
十六時はまだ昼のように明るい。活動するのならこの明るい夕方のうちに、とは思うけど。散歩すらする気になれず、なんとなくゴロゴロと過ごしてしまう。
そうしているうちに食事の時間が訪れる。食卓の上に並んでいるのは麻婆豆腐、冷凍の餃子、春雨サラダ。今夜は中華らしい。
七時。家族にとっての夕食、私にとっての朝ご飯。お父さんの帰宅は遅いからいつもお母さんと弟と三人での食卓を囲む。
朝ご飯に中華は少し重いけど、仕事を終えて作ってくれたお母さんにそれは言えない。自分だけ朝食を準備するのも、気を遣わせそうで私は黙ってピリッと辛い麻婆豆腐を押し込んだ。
「姉ちゃんあんま食欲ないの? 餃子もらっていい?」
「いいよ」
育ち盛りの弟に合わせた食事になるのは仕方ないことだ。食欲のない私は弟の皿にいろんなものを移動させた。
「今日は『真夜中ルーム』行く?」
お母さんは当たり前のようにそう言った。学校に行くのは当たり前、それと同じ雰囲気で。
「今日はやめておこうかな」
初めて『真夜中ルーム』に行ってから、私は一度も行けていない。それから一週間が立っていた。
お母さんは何か言いたげに口を開いてからすぐに閉じた。
「……やっぱり、行こうかな」
小さな声で言ってみると、お母さんの顔はぱっと明るくなる。
「社会との繋がりは大切だからね。同じ症状の人とも話せるかもしれないし」
「だよねー、話せるといいな」
お腹がまたきゅっと痛くなって、今度は胃がムカムカと音を立てる。麻婆豆腐の辛さのせいだ、だから大丈夫だ。
……でも、どうして。生きるためには、社会に参加し続けないといけないんだろうか。
『真夜中ルーム』が始まる午後八時ぴったりに、私は市民ホールに到着した。お母さんはロータリーに車をつけると「いってらっしゃい」と手を振ってすぐに去っていく。
私はロータリーに立ちすくんだまま。足は重く、動かない。
「あれ? ……棚上? やっぱり棚上だ」
固まったまま動けないでいる私の後ろから声がした。
降りかえるとそこに立っていたのは、ラフな格好をしたすらりと背の高い男性だった。夜闇にまぎれた彼をよくよく見てみると
「篠村……?」
それは篠村旭だった。中学高校と同じ学校だけど、同じクラスにはなったことのない。友達とも呼べない関係の男子生徒。
「棚上、俺のこと認識してくれてたんだ」
「う、うん」
もちろん知っている。同じ学年で篠村のことを知らない人はいないんじゃないだろうか。整った顔立ちと高身長、一年生ながらサッカー部で活躍していて。友人の間で篠村の話題は何度も出るほどだ。
「なあ篠村、もしかしてだけど。――昼夜逆転症候群だったりする?」
篠村はなんてことのないようにそう訊ねた。
胸がどきんと大きな音を立てる。先生にだけ相談して、生徒には秘密にされていたこの症状。隠すほどのことでもないとは思っていたけれど、こうして真正面から聞かれると、恥ずべきことのように思えてすぐに頷くことができない。
「あ、ごめん。軽々しく聞くことじゃないよな。あーえっと、実は俺も昼夜逆転症候群なんだ」
篠村は困ったような顔をしながらそう言った。
「え?」
「だから『真夜中ルーム』に来たんだけど。棚上もかな、と思って」
――まさか。だけど、よく考えればそうだ。土曜の夜の市民ホールは何の催しもないし、『昼夜逆転症候群』や『真夜中ルーム』は誰でも知っているものではない。
「そうなの。私も、昼夜逆転症候群で……」
語尾は掠れた。久しぶりに人と話したからか、なんだか喉がカラカラに乾いている。
「そっかあ。……さらに聞いて悪いけど、もしかして入るか、迷ってた?」
篠村は市民ホールと私を見比べながら訊ねた。きっと声をかける前に、立ちすくんでいた私を見たはずだ。なんと答えていいか迷っていると
「じゃあ俺と一緒に飯でも食べにいかない? 夕食? いや、俺らでいうと昼食かな――を食べに」
「肉が染みる」
ハンバーグを一口食べた篠村はすぐに二口目も頬張った。私も目の前のオムライスを掬う。お母さんが作ってくれた中華料理はほとんど食べられなかったから、どうやらお腹がすいていたみたいだ。私たちは近くにあるファミレスで食事を取ることにした。
「おいしい」
「それはよかった」
篠村は満足げに目を細めた。よくよく考えれば男の人と二人で食事などしたことがない。急に気恥ずかしくなってきてスプーンを嚙み締める。
「棚上はいつから昼夜逆転症候群になったの?」
そう質問する篠村のハンバーグは一瞬で半分なくなっている。肉を飲み込んで篠村は私に聞いた。
「七月始めから、突然」
「俺とほとんど同じか。俺は六月の終わり」
篠村も学校を休んでいるなんて知らなかった。ああでも篠村くんがいない、と友人の絵里がグラウンドを眺めながら言っていたかもしれない。
「篠村は『真夜中ルーム』に行っているの?」
私は自然と質問していた。同じ昼夜逆転症候群の人の話はずっと聞いてみたかった。これからどうしていくのか、とか、どうやって毎日を過ごしているのか、とか。聞いていいよと言ってくれる人はきっと『真夜中ルーム』にはたくさんいる。だけど、聞けなかったことたちだ。
「ううん。最初の二週間くらいは行ったんだよ。でも俺には合わなくて」
意外だ。明るくていつも友達に囲まれているような篠村でもそう思うだなんて。篠村ならコミュニティルームの真ん中で笑っていそうなのに。
「なんか、窮屈なんだよな。あそこ」
――窮屈。そうだ、私が『真夜中ルーム』に感じたのはまさしくそれだった。
確かに居場所を提供してくれている。だけど年齢や性別関係なく、同じ症状だからと。居場所がそこにしかないなんて。学校よりも窮屈に思えた。……たくさんの人がいればますます正解がわからなくなってしまう。
「実は、私もそう思ったの。だから、一回きりしか行けてなくて」
「うん、わかる」
篠村はドリンクを口に含む。わかる、たった一言なのに。嬉しくて、ぐっと喉に力が入る。
「じゃあさ、これからは夜を俺と過ごさない?」
篠村はさらりと言った。他意のなさそうな軽い口調で。
「篠村と、夜を……?」
「うん。暇だろ、家にいても。でも『真夜中ルーム』も俺らには合わないし。ああでも棚上、女の子だし深夜は危ないから、あんまり遅すぎない時間に。棚上毎日何時頃に目が覚める?」
「私は十六時」
「じゃあ、十七時から集まって。二十一時半には解散しよう。どう?」
「うん、いいよ」
私は頷いた。男の子と毎日夜を過ごす、それはなんだかいけないことをしているようにも思えたけど。
でも、私だって誰かとの繋がりが欲しかった。三週間過ごした暗い夜は孤独で。私は細い繋がりを掴むように、頷いていた。
「今日は終業式か」
スマホの画面を開くと「7/19 3:40」と日付と時間が目に入る。みんなは今日から夏休みに入るのか。だとしても今の私には関係ないことだ。小さなあくびをこぼしてから私はベッドに入るとタオルケットをすっぽりと被った。
夜明け前、それは私が眠りにつく時間。おやすみなさい、小さく言い訳のように呟くと私は目を閉じた。
梅雨が明けて、本格的に夏が訪れた七月の始めのこと。私は朝、目覚めることができなくなった。本当に突然、何の前触れもなく。
――その日、目覚めたのは夕方の五時だった。
目覚めていつものようにスマホを開くと「5:15」と映し出されていたからてっきり朝の五時だと思った。少し早いけれど目は完全に覚めてしまっている。ぼんやりパジャマのまま階段を下りてリビングに向かうと、お母さんと目が合った。
「あれ、栞。どうしたの、体調悪い?」
お母さんはパジャマ姿の私を見やるとエコバックから食材を取り出していく。
「え……」
スーツのジャケットを脱いで、スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫にしまっていくお母さんは、どう見ても出勤前ではなく帰ってきたばかりの姿で。私は今が朝ではなく夕方なのだと知った。
目覚めはよい方で寝坊も遅刻もしたことがない。無遅刻無欠席皆勤賞が取り柄な私だから、今日は起きられないほどに体調が悪かったのだと判断した。
――だけど、その日を境に私は朝起きることが出来なくなった。
両親や弟に協力してもらっても。どれだけ揺り動かされようと、まるでおとぎ話の眠り姫のように私は目覚めることが出来なくなった。夕方になるとするりと目が覚めて、朝四時前に眠りに落ちる。見かねた両親と共に病院に向かったところ「昼夜逆転症候群」だと診断された。数年前に発見されたばかりの稀に起こる原因不明の謎の症状で、珍しいものではあるけど担当医が受け持つだけでも数十名ほどはいるらしい。
症状は日中起きていられないだけで、夜はなんの問題もなく活動できる。朝起きられないこと以外に病的な症状はない。精神的なことが要因では?と言われているが原因不明、治癒方法も不明だ。ある日突然治ることもあれば、この症状を受け入れて夜勤の仕事に就いたり夜間の学校に通う人もいるらしい。
私の場合、残り十日ほどで夏休みに入るタイミングだったから、ひとまず学校は休み今後については夏休み中に様子を見ながら考えることになった。
両親は将来を心配してかなり参っていたけれど。実は私はひどく安心していた。今後のことを考えれば不安にはなる。でもそれよりも明日学校に行きたくない。
一年後の未来ではなくて、将来の私ではなくて。明日学校に行かなくていい。ただそのことに安堵していた。
――学校に行きたくない、明日なんて来なかったらいいのに。そう強く願ったのは私だったのだから。
「棚上栞さんですね、ようこそ」
中年女性がにこやかに笑顔を向けてくれる。「棚上栞」と名前が書かれたネームプレートを受け取り首から下げる。
地域の行事や習い事の発表で何度か訪れたことはある市民ホールの会議室。そこに『真夜中ルーム』はあった。
この『真夜中ルーム』は病院で案内された。市内にも昼夜逆転症候群の人は数十名いて、その人たちのために平日は毎日解放されているらしい。
昼夜逆転で困ることは、行く場所がないことだ。昼夜逆転を割り切って夜間の仕事に就いたり学校に通っている人はいい。だけどそうでない人には真夜中に居場所はない。夜に外を出歩くのは危険もついてくる。家で過ごすにしても、家族が寝ている中で灯りを点けたり、物音をたてることも憚れる。そんな人に真夜中の居場所を提供しているのがこの「真夜中ルーム」だ。夜八時から朝の六時まで開いていて登録さえすれば好きに利用ができる。
昼夜逆転症候群と診断されてから、二週間がたち。両親に勧められてここに来た。
「突然診断されて驚いたでしょう。私もね、昼夜逆転症候群なの。もう三年目のベテランだから困ったことがあればなんでも言ってね」
「ありがとうございます」
山田さんのふっくらした頬にえくぼがへこむ。山田さんは二つの部屋を案内してくれた。
部屋は教室ほどの大きさで長机が二列に五つ並んでいる。前から二番目の長机で三十代ほどの男性がパソコンを開きカタカタと打っていて、一番後ろの席で私より若そうな中学生くらいの男の子がノートを開いている。
「ここは作業スペース。静かに過ごしたいときはここで」
二人の邪魔にならないようにすぐ扉を閉めると、もう一つの部屋を山田さんが案内してくれる。そこは会議室ではなく小規模な発表会にも使われそうなホールだった。部屋の真ん中に大きなカーペットが敷いてあり、その上に寝転がれるようなクッションがいくつも置いてある。そこに数名の男女が座ってお菓子を広げて話をしていた。部屋の端にはいろいろなものがある。ランニングマシーンもあれば、テレビとゲーム機もあったり。先ほどの会議室と同じく長机もあってそこで読書をしている人もいるし、音楽をかけて踊っている人もいる。中学生くらいから中年まで年齢幅は広くなかなか自由な部屋のようだ。
「ここはコミュニティルーム。好きに過ごしてくれてもいいわ。音も出してくれていいし、軽い運動をしてくれてもいい」
……思い思い過ごしているのだと思うけど、なんだか、うまくいえないけれど。大きな圧を感じる。
「よかったらみんなとお茶しない? お菓子もたくさんあるから。ここのメンバーを紹介するよ」
「ええと……」
「最初からは緊張するかな? 慣れてからでもいいよ」
「……すみません。今日は作業スペースで宿題やってもいいですか」
小さな声で返事をすると、彼女は笑顔を作ってくれる。
「もちろん。慣れるまでゆっくりでいいよ」
「ありがとうございます」
優しさから逃れるように。私はお辞儀だけして、コミュニティルームから出ると作業スペースに向かった。部屋を開けると先程の二人がちらりと私を見るけど、すぐに興味を失って自分の作業に戻ってホッとする。
私は空いている席に座ると、カバンからノートを取り出した。
やっぱり人と関わるのは緊張する。何を話せばいいのか正解がわからなくなった。学校から逃げ出しても、結局別の場所にきてもこうだ。
私はうつむいてノートにペンを走らせた。宿題なんてやっても意味はあるのだろうか。学校に戻れる保証もないというのに。
学校に行きたくない。そう思ったのはいつからだろうか。
大きな事件があったわけではない。
だけど、朝ごはんのパンがお餅のように粘ついてなかなか飲み込めなくなった。
袖を通した制服も、カバンも、合金のように重い。
ローファーが、玄関に張り付いてしまったのではないかと錯覚する。
すべてのものが私の身体を引き止めていく。
電車が、今日動かなければいいのに。
春だけど、大雪が降って家から出られなければいいのに。
そんな小さな呪いのような願いが、朝私を締め付けていく。
学校に行ってしまえば、友達はいる。四人グループの一人として、なんとかやっているはずだった。
勉強が嫌いなわけじゃない。むしろ楽しいと思う時もある。
だけど、なぜかすごく疲れる。どうしようもなく疲れる。
大げさに笑った後に、何が楽しかったの? と冷静に自分自身に問いかけている私がいる。
ある朝、お腹がきゅうと痛くなって私は「学校、休みたいな」とへらりと笑った。
「ズル休みしてどうするの」
私よりも早く家を出るお母さんは、朝の支度で忙しそうで私に目を向けることもなく浅く笑った。
「あはは、だよねえ」
私のお腹はまたきゅっと痛んだけど、歯を食いしばって笑顔に変えた。お腹、痛いんだよ。と言いかけた言葉をお腹にしまい込んで。
最近の私の一日は大体十六時に始まる。四時前に眠りにつき、十六時まで寝てしまうのは、今まででは考えられないほどの長時間睡眠だ。
スマホを開いても誰からもメッセージは来ていない。休み始めたばかりや夏休みに入ってすぐはグループラインで「元気?」だとか「遊べる?」だとか連絡は来ていたけれど、体調不良でしばらく遊べないことを伝えたら徐々に練絡はなくなった。結局私がいなくても世界は何にも変わらない、諦めに近い感情がうっすらと私を支配した。
十六時はまだ昼のように明るい。活動するのならこの明るい夕方のうちに、とは思うけど。散歩すらする気になれず、なんとなくゴロゴロと過ごしてしまう。
そうしているうちに食事の時間が訪れる。食卓の上に並んでいるのは麻婆豆腐、冷凍の餃子、春雨サラダ。今夜は中華らしい。
七時。家族にとっての夕食、私にとっての朝ご飯。お父さんの帰宅は遅いからいつもお母さんと弟と三人での食卓を囲む。
朝ご飯に中華は少し重いけど、仕事を終えて作ってくれたお母さんにそれは言えない。自分だけ朝食を準備するのも、気を遣わせそうで私は黙ってピリッと辛い麻婆豆腐を押し込んだ。
「姉ちゃんあんま食欲ないの? 餃子もらっていい?」
「いいよ」
育ち盛りの弟に合わせた食事になるのは仕方ないことだ。食欲のない私は弟の皿にいろんなものを移動させた。
「今日は『真夜中ルーム』行く?」
お母さんは当たり前のようにそう言った。学校に行くのは当たり前、それと同じ雰囲気で。
「今日はやめておこうかな」
初めて『真夜中ルーム』に行ってから、私は一度も行けていない。それから一週間が立っていた。
お母さんは何か言いたげに口を開いてからすぐに閉じた。
「……やっぱり、行こうかな」
小さな声で言ってみると、お母さんの顔はぱっと明るくなる。
「社会との繋がりは大切だからね。同じ症状の人とも話せるかもしれないし」
「だよねー、話せるといいな」
お腹がまたきゅっと痛くなって、今度は胃がムカムカと音を立てる。麻婆豆腐の辛さのせいだ、だから大丈夫だ。
……でも、どうして。生きるためには、社会に参加し続けないといけないんだろうか。
『真夜中ルーム』が始まる午後八時ぴったりに、私は市民ホールに到着した。お母さんはロータリーに車をつけると「いってらっしゃい」と手を振ってすぐに去っていく。
私はロータリーに立ちすくんだまま。足は重く、動かない。
「あれ? ……棚上? やっぱり棚上だ」
固まったまま動けないでいる私の後ろから声がした。
降りかえるとそこに立っていたのは、ラフな格好をしたすらりと背の高い男性だった。夜闇にまぎれた彼をよくよく見てみると
「篠村……?」
それは篠村旭だった。中学高校と同じ学校だけど、同じクラスにはなったことのない。友達とも呼べない関係の男子生徒。
「棚上、俺のこと認識してくれてたんだ」
「う、うん」
もちろん知っている。同じ学年で篠村のことを知らない人はいないんじゃないだろうか。整った顔立ちと高身長、一年生ながらサッカー部で活躍していて。友人の間で篠村の話題は何度も出るほどだ。
「なあ篠村、もしかしてだけど。――昼夜逆転症候群だったりする?」
篠村はなんてことのないようにそう訊ねた。
胸がどきんと大きな音を立てる。先生にだけ相談して、生徒には秘密にされていたこの症状。隠すほどのことでもないとは思っていたけれど、こうして真正面から聞かれると、恥ずべきことのように思えてすぐに頷くことができない。
「あ、ごめん。軽々しく聞くことじゃないよな。あーえっと、実は俺も昼夜逆転症候群なんだ」
篠村は困ったような顔をしながらそう言った。
「え?」
「だから『真夜中ルーム』に来たんだけど。棚上もかな、と思って」
――まさか。だけど、よく考えればそうだ。土曜の夜の市民ホールは何の催しもないし、『昼夜逆転症候群』や『真夜中ルーム』は誰でも知っているものではない。
「そうなの。私も、昼夜逆転症候群で……」
語尾は掠れた。久しぶりに人と話したからか、なんだか喉がカラカラに乾いている。
「そっかあ。……さらに聞いて悪いけど、もしかして入るか、迷ってた?」
篠村は市民ホールと私を見比べながら訊ねた。きっと声をかける前に、立ちすくんでいた私を見たはずだ。なんと答えていいか迷っていると
「じゃあ俺と一緒に飯でも食べにいかない? 夕食? いや、俺らでいうと昼食かな――を食べに」
「肉が染みる」
ハンバーグを一口食べた篠村はすぐに二口目も頬張った。私も目の前のオムライスを掬う。お母さんが作ってくれた中華料理はほとんど食べられなかったから、どうやらお腹がすいていたみたいだ。私たちは近くにあるファミレスで食事を取ることにした。
「おいしい」
「それはよかった」
篠村は満足げに目を細めた。よくよく考えれば男の人と二人で食事などしたことがない。急に気恥ずかしくなってきてスプーンを嚙み締める。
「棚上はいつから昼夜逆転症候群になったの?」
そう質問する篠村のハンバーグは一瞬で半分なくなっている。肉を飲み込んで篠村は私に聞いた。
「七月始めから、突然」
「俺とほとんど同じか。俺は六月の終わり」
篠村も学校を休んでいるなんて知らなかった。ああでも篠村くんがいない、と友人の絵里がグラウンドを眺めながら言っていたかもしれない。
「篠村は『真夜中ルーム』に行っているの?」
私は自然と質問していた。同じ昼夜逆転症候群の人の話はずっと聞いてみたかった。これからどうしていくのか、とか、どうやって毎日を過ごしているのか、とか。聞いていいよと言ってくれる人はきっと『真夜中ルーム』にはたくさんいる。だけど、聞けなかったことたちだ。
「ううん。最初の二週間くらいは行ったんだよ。でも俺には合わなくて」
意外だ。明るくていつも友達に囲まれているような篠村でもそう思うだなんて。篠村ならコミュニティルームの真ん中で笑っていそうなのに。
「なんか、窮屈なんだよな。あそこ」
――窮屈。そうだ、私が『真夜中ルーム』に感じたのはまさしくそれだった。
確かに居場所を提供してくれている。だけど年齢や性別関係なく、同じ症状だからと。居場所がそこにしかないなんて。学校よりも窮屈に思えた。……たくさんの人がいればますます正解がわからなくなってしまう。
「実は、私もそう思ったの。だから、一回きりしか行けてなくて」
「うん、わかる」
篠村はドリンクを口に含む。わかる、たった一言なのに。嬉しくて、ぐっと喉に力が入る。
「じゃあさ、これからは夜を俺と過ごさない?」
篠村はさらりと言った。他意のなさそうな軽い口調で。
「篠村と、夜を……?」
「うん。暇だろ、家にいても。でも『真夜中ルーム』も俺らには合わないし。ああでも棚上、女の子だし深夜は危ないから、あんまり遅すぎない時間に。棚上毎日何時頃に目が覚める?」
「私は十六時」
「じゃあ、十七時から集まって。二十一時半には解散しよう。どう?」
「うん、いいよ」
私は頷いた。男の子と毎日夜を過ごす、それはなんだかいけないことをしているようにも思えたけど。
でも、私だって誰かとの繋がりが欲しかった。三週間過ごした暗い夜は孤独で。私は細い繋がりを掴むように、頷いていた。