もしも、私が死ぬのなら。

この世界は私という存在をいつまで掴み続けてくれるんだろう。
とある有名な学者は、命の重さは皆平等だなんて言って、私なんかよりも長く、この世界に掴み続けてもらうのだろう。
世界が掴まなくなった時、それは“私”がもう、その世界にいる誰にも認知されなくなった時、忘れられた時だ。
それは何年後なんだろう。もしかしたら何ヶ月かもしれない。場合によっては何日かもしれない。
彼女を大切にするロマンチックな彼氏がいたら、ずっと忘れないなんて言ったのかもしれないけれど。
“存在”は大きな影響を及ぼすくせに、“存在”がなくなったら、この世界は何も知らなかったかの様に知らんぷりして時を刻んでいく。
忘れられるなんてあっという間だ。みんなそれが怖くて少しでも長く生きているんだろう。
そうやっていつも、いつも、いつも、いつも。
周りに嫌われないよう、良い奴だというふうに思われていられるよう、そして、面白いやつだと、最高なやつだと思われるよう、私はいつも心の底で“ナニカ”を無視してきた。

“めちゃくちゃ嫌い”は“スコシニガテ”に変わった。
“もうやめたい”は“モウスコシガンバル”に変わった。
“ほっといてほしい”は“アリガトウ”に変わった。

全部全部、大切だったはずの心を捨ててしまったカラッポな言葉達。
そして、見事に私は“綺麗に生きること”に成功したんだ。

いろんな人から“ありがとう”をもらって、いろんな人から“えらいね”をもらった。すごく嬉しかった。満足だった。
たくさんの人の中にたくさんの“優れた私”が刻まれていって。頼りにされて。大事にされて。

でも、気づいちゃったんだ。
心の底に沈んだ私は誰にも見えていない。
私は誰の心にも刻まれていない。
私も私だったはずなのに、いつしか境界線が見えなくなっていった。
家族の前でも、友達の前でも。親戚も先生も、知らない人も。みんな飾られた私が刻まれているんだ。

そうしたら。ほんとうの私を知ったら私に振り向いてくれる人はいないかもしれない。

まるで、クリスマスにキラキラ輝いて飾られる、もみの木のように。森の中にぽつんと立っていても、多くの人からは“森の木”として認識されて、クリスマスツリーに使われる木だとは、到底思わないかもしれない。

まさか。知らなかった。自分に嘘をつくのが、自分の心に嘘をつくことが、こんなに後悔することなのか。
知らなかった。
自分の人生を飾ることが、自分を飾ることが、良い事だったと思える日が来ると信じていたはずなのに。
いつしかその信頼は不安へと変わった。
自分を愛せた時期を探すようになった。愛せた自分を探すようになった。

心がうるさくて長い長い夜に顔を埋めて、自分の姿を隠すように瞼を閉じる日々も。
静かに流れた涙で濡れた枕に爪を立てていた朝も。
大嫌いで。それでも秒針も分針も時針も止まってはくれなくて。
もういっそ消えてしまいたいと思った。何度も何度も何度も何度も。頭によぎる四文字がよりいっそう胸を締め付けるように苦しかった。
いっそもう死にたい。消えたい。
そんな時に分かったんだ。あぁ、もしかしたら、こんなに苦しいのはこれからが怖いんじゃない。
これからが壊れてしまうのが怖かったんだと。
私が私の手で私のこれからを壊してしまうのがずっとずっと怖かったんだと。
そして、そんな不安定なこれからに未知なこれからに踏み込むのが怖いから、止まっていたんだと。
自信がなくなっていたんだと。

どうすればいいんだ。

でも、それでも、これからというのは未来だ。過去では無い。
これまではこれからに飛び込むためにあるジャンプ台だ。そんな話を聞いて馬鹿らしいと思った日もあった。

けれど、いっそ消えてしまうのなら。いつかは全て失ってしまうのなら。

ここまで来たなら、いっそのこと全部全部、嫌だったことも、楽しかったことも、苦しかったことも、全部ジャンプ台にしてしまおう。
明日に向かって、高い高い壁を飛び越えて。

そんな気持ちで、明日だって明後日だって空にのぼっていく朝日に笑ってやろう。

どうだ。今日も私は強く生きてやるぞ、と。