大学の夏期休暇を用いて東京から伊豆に帰省した、八月も終わりの頃。
神田 朔太郎は民宿をしている実家に宿泊する姉の親友である伊藤 希実歌に声をかける。
「希実歌、斉藤のおじさんが船出してくれるって。ラストダイブ行こうぜ。」
「さん付けしろって言ってんだろ。」
姉の月美が朔太郎の頭を丸めた新聞で叩く。ぽこん、と小気味良い音が響き、後頭部に刺激が来る。
「いってーな。」
姉弟げんか勃発の狼煙が上がりかけた瞬間、のんびりとした朗らかな声がそれを阻んだ。
「いいよ、月ちゃん。朔ちゃんはちょっと待っててね。今、ペディキュアを塗ったの。乾かしているから。」
見ると、希実歌の小さな足の爪が青いラメに輝いていた。
民宿の縁側は日よけのよしずが垂れ下がり、扇風機の微風で揺れている。影に浮かぶような希実歌の白い肌は、自ら発光する大理石のようだった。
「…、」
希実歌は鼻歌を口ずさんでいる。その歌は今期の春に放送された人気ドラマの主題歌だった。彼女の足の指が蠢く。細いのに筋肉質な、まるで鹿のような美しい足だった。
俺は今までに、こんなに綺麗な足を見たことがない。
「何、じっと見てんの?スケベ。」
「ちげえから。」
月美の鋭い観察眼に内心ぎくりとしながら、朔太郎はさっと視線をそらした。二人のやりとりを見ながら希実歌は、うふふ、と風にそよぐように笑う。
「この色、可愛いでしょ。海みたいな色だねって、月ちゃんと一緒に選んだんだよ。」
純粋にペディキュアの色を見ていたのだと勘違いした希実歌が嬉しそうに言った。
「…ふーん。」
手渡された化粧品の小瓶を見て朔太郎は、希実歌たちが好んでいるブランドを覚えた。もう、意味は無いけれど。

まだ学生の朔太郎を置き去りにして社会人になった月美たち。そして、その職場で希実歌は将来を番う相手を見つけた。相手は年上で、優しい人だという。今年の秋、式を挙げるらしい。独身最後の夏に希実歌は、親友の実家が営む民宿で過ごすことを選んだ。

『こんにちは。月ちゃんの弟、さん?』
母親にお茶請けを持って行けという命令を受け、渋々、月美の部屋にお茶と菓子を届けたときのことを今でもよく覚えている。
初めて、希実歌に出会ったのは彼女たちが高校生の頃。朔太郎が中学生の時だった。思春期のこの年齢差は大きい。希実歌は月美と同じ女子校の制服で身を包んでいるのに、随分と大人っぽく見えた。
『…。』
なんて言葉を返せば良いかわからず、朔太郎は口を噤む。
『ごめん、こいつ人見知りを発動させちゃってる。』
月美が朔太郎が手に持つお茶請けの乗ったお盆を受け取りながら、無視してるわけではないとフォローを入れてくれた。
夕方、夜近くまで月美の部屋に滞在して、希実歌が帰ろうとして台所にいる母親に声をかけた。
『おばさん、お邪魔しました。』
『希実歌、送ってくね。』
女子二人の家路を心配した母親が言う。
『朔太郎、あんたも用心棒についてってあげなさい。』
『ええ?大丈夫だろ。姉ちゃん、俺より強えーじゃん。』
バカ、と言われて、母親が朔太郎の肩を小突く。
『そんなわけないでしょ。ほら、さっさと行く!』
そのまま背中を押されて、朔太郎は月美と希実歌の後ろを守るようについていくことになった。
女子の会話を聞くこともなく、朔太郎は三メートルの距離を保って歩く。時折、希実歌の鈴の音のような笑い声が響いた。月美が何か面白いことを言ったんだろうか。
希実歌の家の前に着くと、彼女は玄関の前で振り返って月美に手を振った。そして朔太郎とも目が合うと、『またね』と言って控えめに手を振ってくれるのだった。
そんな用心棒な帰り道を何度か繰り返したある日、月美が風邪を引いて希実歌が見舞ってくれたときのこと。
『朔太郎、送ってあげて。』
恐ろしく鼻声の月美がめずらしく、お願い、として朔太郎に頼んだ。いつもの命令口調ではないあたり、月美の風邪の具合が窺い知れる。
『わかった。行こ。』
『うん…。月ちゃん、お大事にね。』
部屋を出ようとした刹那、月美に腕を引っ張られ耳元で囁かれる。
『何かしたら、引っ叩くからね。』
風邪を引いていても、物騒な姉だった。

『…。』
無言の時間がその場を統べる。人見知りの朔太郎を慮った、希実歌による優しい沈黙だった。
初めて並べた肩の心細さ、確実に抜きつつある身長差。合わせる歩幅の狭さに、朔太郎は驚いた。
女の子なのだ、と思った。
スニーカーの白い紐が弾む。夏のむっとするような濃い熱気が辺りを包む。空に浮かぶ月が白々と道路を照らしていた。
『…そういえば、』
『うん?』
希実歌がそっと朔太郎に声をかける。
『海が好きなんだって?月ちゃんから、聞いたのだけれど。』
そっと希実歌を見ると、彼女はやわらかく微笑みながら朔太郎を見つめていた。
『まあ…、うん。そうだね。』
『潜ったことはある?』
海水浴でなら、と答えると、希実歌は僅かに首を横に振った。
『スキューバ・ダイビング。したことある?』
『それはないな。』
『興味はあるかな?』
立て続けられた質問に真意がつかめずに朔太郎が首を傾げていると希実歌は、ごめんね、と言って手を振って見せた。『うち、ダイビングショップをやっているの。私、これでもライセンスを持ってるんだ。興味があったら、今度、一緒に潜ってみない?』
姉の月美は泳げない、かなづちだったために自分に話を振ってきたのだ。なるほどと合点がいき、朔太郎は一人頷く。
『やってみたいけど、ライセンス?持ってないよ。』
『大丈夫!講習も、機材のレンタルも全部、うちでできるから。』
『…高い?』
『サービスしちゃう。』
月ちゃんの弟だからね、と言って希実歌は両目をぎゅっと瞑って見せた。どうやらウインクのつもりらしい。
その可愛らしいウインクに朔太郎は、ふは、と吹き出してしまう。
『あ。』
『え?』
朔太郎が、くくく、と鳩のように笑っていると、それが嬉しいとばかりに希実歌も笑う。
『やっと笑ってくれた。』
思いがけず楽しい家路になり、その帰り際。
『朔ちゃん!』
え、と顔を上げると、希実歌がいたずらっ子のように微笑んでいた。
『またね!』

その日を境に、希実歌の家が営むダイビングショップに入り浸ること数年。朔太郎は無事にダイビングのライセンスを取得し、アルバイトで貯めた給料でドライスーツを買うまでに至った。
黒潮に乗ってやってくる南の魚は色鮮やかで、視界をくすぐるように水中を駆けていく。沈没船や洞窟、伊豆の複雑な海底の地形は朔太郎をすぐに夢中にさせた。
スキューバ・ダイビングはいつだって楽しくて、朔太郎は水中でも扱えるカメラで海の景色を切り取るようになった。
後に写真学科のある芸術系の大学に進み、朔太郎は今に至る。

「ん、乾いたかな?」
回想に浸っていた朔太郎は希実歌の声に、現実に戻される。化粧品の小瓶からそっと視線を外してみると、希実歌がストライプのワンピースの裾を払って立ち上がるところだった。
「お待たせ。行こっか。」
「朔太郎、帰りにアイスよろ~。」
未だに泳げない月美がひらひらと気軽に手を振って、二人を海に送り出した。
水着に着替えて、斉藤のおじさんが出す船に機材ごと乗り込み、港を出発する。風を切る感覚が、首筋にかかる髪の毛でわかった。
「朔ちゃんは明日の朝の電車で東京に戻るんだっけ。」
「ん。希実歌は?」
「私は、明後日。」
何だか寂しいね、と希実歌は言う。
「ポイントについたぞー。」
のんびりとした斉藤のおじさんの声が響き、二人はダイビングの準備を始めた。
腰に巻いていたドライスーツの着込み、希実歌は後ろのチャックを留めてと朔太郎に願う。彼女のビキニ越しの白い背中が眩しい。
「相変わらず、手が届かないの?」
「そう。これはもう、一生届かないなー。」
彼女の体は硬いままのようだ。学生の頃から、朔太郎が後ろのチャックを留めていた。
ほんの少し、朔太郎の指先が肌に触れると希実歌の肩がピクリと震える。くすぐったがりやのところも変わっていない。
ドライスーツの空気を抜くと希実歌は機材を背負い、充分な深さのある海に一歩踏み出した。
「ジャイアント・ストライドー!!」
どぼん、と大きく水音と飛沫を立て、海にエントリーする。希実歌に続き、朔太郎もまた海に向かって前に進んだ。
海中で白い無数の泡が上を目指した後、不意に視界が開けた。そこにあるのは限りなく広がる永遠の蒼だった。
太陽の光がカーテンのように揺らぎ、自らが呼吸する音と泡が弾ける音だけが響いている。
珊瑚の庭。
白い砂の絨毯。
追いかけっこをする小魚たち。
とんとん、と肩を叩かれて、その方向を見ると希実歌が何かを指さした。そこにいたのは、朱色のサクラダイの群れ。ゆっくりと水を蹴って、希実歌はその魚群の仲間入りを果たす。ポニーテールに結われた黒髪が、海草のように揺れて美しい曲線を描いた。
まるで、人魚のようだと思う。
朔太郎は持っていた水中カメラで、彼女の姿を追った。

休憩を挟み、二度のダイビングを終えると二人は船で港まで戻った。斉藤のおじさんにお礼を言い、海の家で着替えを終えて海岸線を散歩するかのように歩いた。
防波堤の上を希実歌は行く。ワンピースの裾が時折風を孕み、膨らんだ。彼女が足を踏み外しても抱き留めることが出来るように、朔太郎はすぐ下を歩いていた。当然、上は向かない。
「ねえ、朔ちゃん。今夜、月ちゃんには内緒で花火をしようか。」
「…何で?」
希実歌は膨らむ裾を折り畳むようにして、朔太郎と視線を近づけるように膝を折る。
「朔ちゃん、明日帰っちゃうから。二人だけの思い出、作ろ。」
「いいけど…。姉ちゃんと夜更かしすんじゃねーの?」
希実歌と月美は毎晩のように夜遅くまでおしゃべりをしているようだった。彼女たちが過ごす部屋の扉からいつも僅かに光が漏れていて、知り得た情報だ。
「じゃ、午前三時に待ち合わせしようよ。夜明け前の、一番暗い時間帯。」
「俺、起きれるかな。」
希実歌が笑う。
「そこは何が何でも、起きてよね。」

深夜を迎え、約束の時間まであと三時間を切った。
朔太郎は二階の自分の部屋で、大学の課題である座学のレポートに取り組んでいた。
シャーペンの芯がレポート用紙に文字を刻む。一字一字、意味を持って記される言葉は少し右肩上がりでシャープな印象を受ける。
【次の曲はラジオネーム、アオナツさんからのリクエスト…ー、】
音のボリュームを落としたラジオから、軽快なJ-POPの音楽が流れ出した。朔太郎はふと手を止めて、その曲に聴き入る。明るい曲調に反し、意外にも歌詞は失恋をうたっていると言うことに気が付いた。
「…。」
真夏の失恋はいつだってどこか明るくて、炭酸のようにはじけている。それなのに、何故、自分の恋はこんなにも冴えないのだろう。

希実歌

何となく彼女の名前をレポート用紙の隅に書いてしまい、慌てて消す。それでも思いがけず筆圧強く書いてしまったのか、希実歌の名前は刻まれて薄く残ってしまった。
「何してんだか…。」
深くため息をつき、朔太郎は小学生の頃から愛用している勉強机から離れるために席を立った。畳の床を裸足で歩き、そっと引き戸を開けて部屋を出た。ギシ、と軋む木造の階段を下って台所に向かう。その途中の暗い廊下に一筋の白い光が見えた。それは女子部屋から漏れる光だった。
部屋の前を通るとき、密かな緊張感を孕んだ。朔太郎が息を潜める中、クスクスと小鳥が囀るような笑い声が聞こえる。案の定、希実歌と月美は夜更かしをしているようだった。
ようやく台所に辿り着き、朔太郎はほっと一息を吐く。まるで完全犯罪を成し得たような感覚だ。
「ま…、幸いなことに犯罪を犯したことないんですけどね。」
独りごちながら、台所の冷蔵庫を開けて冷えたほうじ茶を取り出してコップに注ぐ。一気に仰げば、喉を通り腹に冷たい茶が貯まった。一気に体感温度が下がった気がする。生温い空気が肌を舐めるようにまとわりつくのを感じた。
窓の外には黒い水平線が描かれていて、時々、灯台の光が滑っていた。
「もう一頑張り、しますか。」
レポート用紙はあと一枚埋めれば、合格点もらえるだろう。朔太郎は肩を回して、重く感じるようなコリを解しながら自室へと戻った。

約束の時間を前に、朔太郎はこの夏に残った花火と水を入れたバケツを下げて、海岸の砂浜へと向かった。
クラゲのように浮かぶ月の光が、歩く道を標すように柔らかく照らす。そのおかげで闇はより深く周囲を統べて、影は濃く地面に縫い止められた。
砂浜前のバスが来るはずもない停留所で、希実歌を待つ。ダイバー御用達の防水機能がついた腕時計を見ると、午前三時を十分過ぎていた。
「…。」
朔太郎はバスの案内板を支えるコンクリートに腰を下ろして、海を眺めながら待つことにする。
銀色の月光は波間を白いレースで縁取るように、輝かせていた。不規則で二度と同じ形をしない波は凪ぎ、落ち着いた海だった。
「朔ちゃん。」
不意に名前を呼ばれて、物思いから醒める。顔を上げれば、そこに希実歌が立っていた。Tシャツに薄手のパーカーを羽織り、ショートパンツから伸びる脚線美が眩しく晒されている。
「ごめんね、寝坊しちゃった。」
「ちょっと、ちょっと希実歌サン?」
立ち上がりつつ、朔太郎は呆れたように苦笑した。そして無言で花火とバケツを手に、歩き出す。
「だから、ごめんて。」
希実歌が慌てて、朔太郎の横に並んだ。朔太郎は希実歌の歩幅に合わせるように、ゆっくりと速度を落とす。
「いやー。そこは何が何でも起きてほしかったなー。」
「もう、意地悪なんだから。」
可愛らしい唇を尖らせた希実歌に軽く睨まれた。
「うん。ごめん。」
朔太郎は自分が謝ることで、希実歌の寝坊を許した。
ザザ、と静かな砂嵐のような波の音が優しく鼓膜を震わせる。しゅっと軽い音を立て、マッチをこすった。仄かな橙色の火が灯る。そして朔太郎は流されてきて角の取れた平たい石の上に、ろうそくを立てた。希実歌はその一連の動作を膝を抱え、微笑むようにして見守っていた。
「火って綺麗ね。」
希実歌に慈しむように見つめられて、ろうそくの火は恥ずかしそうに僅かに揺れた。夏とはいえ、海の砂浜は些か涼しい。
「風邪引くなよ。」
「平気よ。」
手渡された花火に点火すると、楽しそうに希実歌はその手を指揮者のタクトのように振った。サンダルを脱いだ素足のまま、昼間の熱を未だに孕んだ温かな砂を舞うように踏みしめる。
そういえば希実歌はバレエを習っていたことを、朔太郎は思い出した。
希実歌の舞った軌跡を辿るように青や赤の火花が散る。月光に照らし出された影が、跳ねる瞬間だけ彼女を自由に解き放った。
「…。」
朔太郎はスマートホンの撮影機能をナイトモードにチェンジして、希実歌を撮った。天真爛漫な希実歌の舞いは、妖精が待ちわびる奇跡の季節である春を喜びスキップを踏むかのようだった。
気付けば彼女を見つめていた。まるで希実歌だけを見ていたような感覚に陥る。レンズが追う希実歌は、いつだって視線で追った被写体の集大成だ。
波打ち際、くるりと回転したその刹那。あ、と小さな声が希実歌から漏れた。花火の火薬が同時に焼け終えて、ポトリと火の玉を海に落とす。ジュン、と音を立て最後の火が掻き消えて、束の間の淡い闇に周囲が染まった。
「希実歌…?」
彼女の姿を月の少ない光で捉えるためにじっと大きく見開く。希実歌が柳が揺れるようにゆらりと歩き出すのがわかった。波を裂くような音が響く。
「どうした、」
「朔ちゃん…。」
朔太郎は海中に行こうとする希実歌の左手を捕まえた。すると困ったように、希実歌は眉を下げていた。
「ネックレス、落としちゃった。」

生温い海水がまるで羊水のようだと思った。
「希実歌、ネックレスってどんなヤツー?」
希実歌が海に落としたというネックレスを探して、朔太郎もザブザブと波をかき分ける。
「金色のチェーンに、トップに青い石がついてるんだけど…。」
そう言われて、いつも希実歌が身に付けているものだと気が付いた。首が傷つく前に切れそうなほどに細いチェーンで、小さな一粒の宝石。タンザナイトだと聞いた石があしらわれていた。華奢なデザインのそれは、くっきりと美しいデコルテを誇る希実歌によく似合うと思っていた。
「了解。流される前に、探しちゃおうぜ。」
懐中電灯を水面に向けて、砂を撫でる。煙のように逆立つ砂が落ち着けば、次は隣を探った。
本当は見つからないのではという気が胸に過半数を占めていたが、それでも探さずに入られなかった。希実歌の悲しむ顔が見たくないのと共に、喜ぶ顔が見たかった。
「ごめんね、朔ちゃん。ありがとう。」
「いいって。お気に入りのなんだろ。」
うん、と零すように希実歌は頷く。
「月ちゃんとね、おそろいなの。」
ふと見た希実歌の横顔は白かった。
「…姉ちゃん、ネックレスしてるとこ見たことねーけど。」
「金属アレルギーを持ってるから、月ちゃん。首の肌がね、弱いんだって。」
ふふ、と希実歌は思い出したかのように笑う。
「それなのに、おそろいのネックレスを持とうって言ってくれたんだ。嬉しかった。」
「ふーん…。」
一瞬きらりと光ったのは、ジュース瓶の王冠だった。そんな期待と落胆を繰り返して、やがて希実歌は小さなため息をついて空を仰いだ。
「…無いね。月ちゃんに謝るしかないかな。」
「あ。」
指先に絡まる冷たい金属の感触に、朔太郎は声を上げた。手繰り寄せるように海中から手を出すと、そこに水が滴るネックレスが下がっていた。チリ、と揺れるタンザナイトも無事だ。
「希実歌!希実歌、あった!!」
朔太郎は満面の笑みを浮かべて、希実歌にその手を突き出した。
「これだろ?」
歩きづらい水中をもどかしく大股に進み、希実歌の元へと急ぐ。希実歌は目を見開いて、朔太郎の手元を見つめていた。
「ん。」
「ありがとう。」
自分の手元に帰ってきたネックレスを、希実歌は温めるように胸に抱く。
「良かった…。」
希実歌は小さく鼻を啜り、チェーンのホックを首の後ろに止めようと腕を回した。何度かすれ違いを繰り返す。
「貸して、希実歌。」
焦れた朔太郎が希実歌からネックレスを受け取る。
「つけてやるよ。」
まるで希実歌を抱きしめる瞬間のようだった。俯く彼女の首の後ろに自分の手が回る。それ以上、肌に触れないように浮かす腕に変な力がこもり、僅かに震えた。
希実歌の長い睫毛が瞬きに揺れる。呼吸と共に上下する胸が愛しかった。
小さなホックの金具が無事に元ある場所に収まったのを、朔太郎は指先で確認するとそっと希実歌と距離を取る。
「…いいんじゃね。」
いつの間にか希実歌よりも身長が伸びていた。中学生から大学生までの年月が、目に見えて距離として感じるようだった。
「戻ろう。」
寄せる波と共に朔太郎は、浜辺へと歩き出す。まだ花火は残っている。
「朔ちゃん!」
力強く名前を呼ばれて無意識に振り返ると、希実歌が両手を広げて後ろに倒れ込むところだった。
「希実歌!?」
希実歌は海水に受け止められて、銀色の飛沫を上げる。慌てて朔太郎が駆け寄った。
「希実、歌…!」
波に足をすくわれてバランスを崩してしまったのだろうか。心臓が大きく脈打って、耳の奥がうるさい。
「…て、希実歌さん?」
水面に浮かび、波に揺蕩う希実歌は笑っていた。
「何してんの…。」
安心して、緊張感を大きなため息と一緒に吐き出して朔太郎は希実歌に、手を貸す。希実歌がぐっと朔太郎の手首を両手で掴んで引っ張り込んだ。
「うわっ、」
大きな水音と高い水飛沫を上げて、海中に倒れ込む。白い泡に包まれて一瞬、上下左右がわからなくなった。耳元でパチパチと気泡がはじける音が聞こえる。その刹那、脳裏に希実歌の声が響いた気がした。

ー…朔ちゃん、もしも自分がどこにいるかわからなくなったらね、

ザブンと勢いよく水面に顔を出す。途端に呼吸が自由になり、その瞬間を肺がついて行けず大きくむせてしまった。
コホコホと咳き込んでいると、心配そうに希実歌が泳いで近づいてきた。
「ごめんね、朔ちゃん。大丈夫?」
「…きーみーかー?」
朔太郎の低い声音に、希実歌はきゃっと声を上げて逃げようとする。水を蹴る足首を優しく掴んで、引き留めた。
「逃げるな。」
ゆっくりと希実歌の足を地に下ろす。もう彼女は逃げようとしない。
「…うん。わかった。」

二人は手を繋ぎながら、浅瀬の海に浮かんでいた。
耳の奥に温かい水が入り込み、音はくぐもっている。繋いだ手だけが互いの命綱のようだった。
空に浮かんだ月が猫のように笑い、散らばった星々は真昼の光に透ける埃のようにキラキラと光っていた。
重力が薄れた体はまるで、羊水に沈んでいるような感覚に陥らせる。まるで双子のような一体感に揺られていた。
「朔ちゃん…。」
希実歌の声が輪のように広がって、海水に浸る鼓膜に響く。
「朔ちゃん。写真、現像したら見せてね。たくさん、撮ってくれたでしょう。」
「うん。」
きっと良い写真に仕上がる。被写体が良いから。
「次に会うのは…、結婚式かな。」
「そうだね。」
「ねえ、朔ちゃん。」
「何?」
消え入りそうな声にそっと横を見ると、希実歌もまた朔太郎を見つめていた。
「ありがとね。」
「…何が?」
「私のこと、好いてくれていたでしょう。」
「…。」
沈黙は肯定だった。
「告白しないでくれて。私が困るって思ったんだよね。」
「…別に。」
いつの間に、希実歌にバレていたのだろう。
日々の狭間、カメラのレンズ越し、その目色に恋の色が滲んでいてもおかしくない。
希実歌は聡い女の子だから、自惚れではないことに気が付いている。
「希実歌。」
「なあに?」
ちゃんと、笑えているといい。

「結婚、おめでとう。しあわせにな。」

海中で上下左右の感覚がなくなったときは泡を見ろと、希実歌に教わった。泡は上を目指す。
青く、生々しい恋が海の泡となって弾けて消えた。