合宿の嘘をいいことに、私は両親の家で日中を過ごし、日暮れが近くなると展望台へ向かった。
『……おおぐま座とこぐま座は、背中合わせで、逆方向を向いている。
だから、もう、衝突することはないよ』
私と祖母も。
本当は、離れた方がお互いのためなのだろうか。
展望台で、ぼんやりと暮れなずむ空をながめる。
今日は、藤見さんは来ていなかった。
日が落ち始めると、淡く明るい水色だった空は、黒と朱の墨を流したようにじんわりと色を変え、名残惜しむような輝きを残して、闇に沈んでいく。
夕闇に少しずつ、星が現れ始めた。
彼はまだ来ないのだろうか?
窓から身を乗り出すような気分にもなれなくて、私はなんとなく、彼のことを考える。
彼は、とても優しい人だ。
いつも機嫌がよさそうで、それもうらやましい。
……そういう家族のもとで育ったのだろうか?
彼のような性格なら、きっと友達も多いのだろう。
何もかもが、私とは正反対だ。
それでも、彼と共にいると、ほんの少しだけ、私も生きているような心地がする。
やっと、心から笑って話ができるようになった。
彼は太陽だ。
その光に当たりたくて、私は彼の周りを回っている。
そうやって、彼の輪の中に入れてもらったような気分になる。
……早く来ないかな。
もしかしたら、今日は来ないのだろうか。
そうだとしたら、少し、寂しい。
星も見たいけれど、どちらかと言うと、彼に会いたいという気持ちの方が、強くなっていた。
でも、来ないのなら仕方がない。
私はそっと、窓から星を見上げる。
隣に彼がいるつもりになって、窓の右端から顔を出す。
すると、たん、たんと階段を踏む音が背後から響いてきた。
……誰だろう。
もし、通りがかりの散歩の人だったら。
どんな顔をすればいいか分からなくて、振り返ることもできずに、窓枠を握りしめる。
どうか、何も気にせず、立ち去ってくれますように。
「……あっ、こんばんは!
今日は早いんですね」
後ろから、藤見さんの聞き慣れた声がする。
心底ほっとして、私は振り返った。
「こんばんは、藤見さん」
「いつからいたの?」
「ついさっき……じゃなくて……1時間くらい前から」
つい、嘘をつきそうになって、私は慌てて訂正する。
どうでもいいことですら嘘をついてしまうのは、きっと、考えることに慣れていないからだ。
家では、何も考えずに、「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」を繰り返すだけだから。
つきかけた嘘を気にする様子もなく、彼は窓辺へ来て、私の隣に座る。
「ごめんね、ちょっと勉強してたら、時間かかっちゃって」
「そんな、気にしないで。
私だって、先週はすごく遅い時間に来たし」
言いながら、ふと思う。
もしかしたら、先週、私が来るまでの間、彼もまた、寂しい思いをしていたのだろうか。
ただの思い上がりかもしれない。私なんかを待つなんてせず、楽しく星を眺めていたかもしれない。
それなら良いと思う。
彼に孤独な思いはしてほしくない。
でも同時に、心待ちにしていてくれたのなら、嬉しいとも思う。
「化学の参考書を開いてたらさ、原子ってあるじゃん?
あの絵が、惑星みたく見えて、見入っちゃったんだ」
彼の言葉に、1年生の時に習った、化学の教科書を思い出そうとする。
「原子の絵って、あの……原子核の周りを、電子がくるくる回ってるやつ?」
「そう、それ。
まるで、地球の周りを月が回っていたり、太陽の周りを地球が回っていたりするみたいだなって」
確かに、似ているかもしれない。
私は想像する。
「それじゃ、私たち、原子の1つに住んでるのかもね」
彼は笑う。
「そしたら宇宙って、想像よりものすごく広いのかもしれないなぁ」
光る星々。
自分はきっと、その広大な世界を形作る、ほんの小さな点の1つなのだろう。
「……もしそうなら、この悩みも、化学反応で片付けられたらいいのに」
電子が原子核を離れて、別の原子核へ移るように。
私も、両親の家と祖父母の家を、行ったり来たりしている。
電子が離れても、原子核が怒らなければいいのに。
星は静かに瞬いている。
こんな風に、心静かにいられたらいい。
「……悩みって、昨日の?」
彼に問われて、私はうなずく。
「おおぐま座とこぐま座の話でいうと、私は子どもで……駆け寄る母熊に、矢を射かけることができないの。
神話と違って、私には、その熊が身内だって分かってるから。
でも、このままじゃ、踏みつぶされるから……もう、つぶれてるかもしれないけど……どうしようか、迷ってる」
「……そっか……」
彼はしばらく考えて、迷うように口にする。
「本当は、どうしたいの?」
本当は。
彼のように、素直に本当を口にできたら、どんなにいいだろう。
「私は……逃げたい。
見つからないように、会うことのないように、そこから逃げて隠れたい。
でも、それじゃ、母熊がかわいそうでしょ?」
「それで君がつぶれたら、それこそ母熊がかわいそうじゃないかな」
「大丈夫、人を踏むのが好きな人だから」
「それは……一刻も早く逃げるべきだと思うよ」
彼の言葉に、私は目を丸くする。
「どうして?
踏まれて母熊を満足させるのも、子どもの役目じゃないの?」
「そんな役目はないよ。
健康で幸せに生きることが、子どもの役目だよ。
親の犠牲になるのは違うよ」
そう断言する彼は、やはり恵まれた家庭で育ったのだろう。
「まあ、親じゃなくて祖母だけど……」
「言わせてもらうけど、ちょっと視野がせまいんじゃないかな。
たとえその母熊が、踏むのを望んでいたとしても、そんなのはやっていいことじゃない。
母熊以外は、誰もそんなこと望んでない。
僕が神様なら、即行で2人を引き離すよ」
怒ったような口ぶりに、私は黙り込む。
やっぱり、本音を言うと摩擦も生まれる。
彼との関係を悪くしたくはないのに。
「でも……、でも、それをして、嫌われるのはあなたじゃないでしょ?
親を産んでくれた祖母から嫌われる気持ちが、あなたに分かる?
産まれてこなければよかったって、毎日鏡に向かって呪う気持ちが分かる?
もう……こんなことになるなら……
……何も、言わなければ、よかった……」
本当にそう思う。
もう終わりだ。
親身に相談に乗ってくれて、私のために怒ってくれたのに、愚痴をぶつけて怒ってしまった。
一番大切にしたかった人を、傷付けた。
「……ごめんなさい。
せっかく、私のために言ってくれたのに……」
私の剣幕に気圧されたように、彼は黙っている。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「うん……ちょっと……びっくりした。
あんまり、怒鳴られたこと……なかったから」
「……ごめん」
「……ちょっと、星見て落ち着こうか」
「……うん」
「アメ食べる……?」
「……うん」
彼から手渡されたアメの包みを破いて、中身を口に放る。
丸く滑らかな甘いかたまり。
たぶん私は、優しい彼に甘えていたのだろう。
星を見る。
心が落ち着いていく。
冷静に、状況を振り返ってみる。
「……確かに、視野がせまかったかも。
嫌われるか、嫌われないか……そんなことばっかり気にしてた。
祖母なんて、この広い世界の……ほんの一粒でしかないのにね。
……離れたら……楽になれるのかなぁ……」
同居を解消したら。
祖母は、私の悪評を周囲に撒き散らすだろう。
親族に、近所の人に、ろくでもない孫に冷たくされた哀れな慈母を演じてみせるだろう。
でも、それも、今後一生会わないのなら、たいした問題ではないのかもしれない。
「私……逃げることを考えてみるよ。
すぐには、決断できないかもしれないけど……
……もう、こんな状態は嫌だから」
彼の様子をうかがってみる。
「それがいいと思うよ」
静かに答える彼に、私は落ち込む。
きっと、怒鳴った方の何倍も、怒鳴られた方はつらかったに違いない。
いつも、祖母にわめかれていたから分かる。
「ほんとに……ごめんなさい」
謝る私に、彼はため息をつく。
「まあでも、本音が聞けてよかったよ。
時々、すごくしんどそうに見えたから」
優しい彼の言葉に、私は涙が出そうになる。
なんでこんなに、思いやってくれるのだろう。
「ほら、元気だして。
確かにびっくりしたけど、そうやって何かにぶつけたいこともあるって、分かってるからさ。
だから大丈夫。
それより僕、君と楽しく過ごしたいな」
楽しく過ごす。
それはとても、素敵なことに思えた。
「……でも……本当に楽しく過ごせる?
いきなりかんしゃくを起こすような人と?」
「それはまあ、いきなり怒るのはやめてほしいけどさ」
「うん。大丈夫。もう怒らないよ」
「ならいいよ。
ほら、今日は月もきれいだよ。
うさぎ、餅ついてるかなあ」
彼は話題を変えて、私を和ませようとしてくれた。
そのまま、他愛のないことを話す。
星を見ながら、穏やかな気持ちで。
遠い宇宙を見据えると、悩みが薄まる心地がする。
帰り際に、私は彼へ声をかける。
どうしてもお礼を言いたくて。
「……藤見さん、ありがとう。
私の悩みを聞いてくれて。
でも……怒鳴ってごめんね」
私の謝罪に、彼はううん、と首を振る。
「吐き出して、元気になれたならよかった。
実はずっと、心配してたんだ。
……だから、今日、君と話したこと、後悔してないよ」
裏表のない彼に言われると、心が落ち着いていくのが分かる。
「ありがとう、藤見さん。
……ありがとう」
「それじゃ、また来週」
陽気に手を振る彼と別れて、私は自転車に乗った。
来週が楽しみなのと同時に、明日からの祖母との日々が、怖くてたまらなかった。
『逃げることを考えてみる』なんて言ってしまったけれど、それを本当に実行できるだろうか。
彼と見た星を思い出す。
道しるべの北極星。
どうか私に、勇気をください。
『……おおぐま座とこぐま座は、背中合わせで、逆方向を向いている。
だから、もう、衝突することはないよ』
私と祖母も。
本当は、離れた方がお互いのためなのだろうか。
展望台で、ぼんやりと暮れなずむ空をながめる。
今日は、藤見さんは来ていなかった。
日が落ち始めると、淡く明るい水色だった空は、黒と朱の墨を流したようにじんわりと色を変え、名残惜しむような輝きを残して、闇に沈んでいく。
夕闇に少しずつ、星が現れ始めた。
彼はまだ来ないのだろうか?
窓から身を乗り出すような気分にもなれなくて、私はなんとなく、彼のことを考える。
彼は、とても優しい人だ。
いつも機嫌がよさそうで、それもうらやましい。
……そういう家族のもとで育ったのだろうか?
彼のような性格なら、きっと友達も多いのだろう。
何もかもが、私とは正反対だ。
それでも、彼と共にいると、ほんの少しだけ、私も生きているような心地がする。
やっと、心から笑って話ができるようになった。
彼は太陽だ。
その光に当たりたくて、私は彼の周りを回っている。
そうやって、彼の輪の中に入れてもらったような気分になる。
……早く来ないかな。
もしかしたら、今日は来ないのだろうか。
そうだとしたら、少し、寂しい。
星も見たいけれど、どちらかと言うと、彼に会いたいという気持ちの方が、強くなっていた。
でも、来ないのなら仕方がない。
私はそっと、窓から星を見上げる。
隣に彼がいるつもりになって、窓の右端から顔を出す。
すると、たん、たんと階段を踏む音が背後から響いてきた。
……誰だろう。
もし、通りがかりの散歩の人だったら。
どんな顔をすればいいか分からなくて、振り返ることもできずに、窓枠を握りしめる。
どうか、何も気にせず、立ち去ってくれますように。
「……あっ、こんばんは!
今日は早いんですね」
後ろから、藤見さんの聞き慣れた声がする。
心底ほっとして、私は振り返った。
「こんばんは、藤見さん」
「いつからいたの?」
「ついさっき……じゃなくて……1時間くらい前から」
つい、嘘をつきそうになって、私は慌てて訂正する。
どうでもいいことですら嘘をついてしまうのは、きっと、考えることに慣れていないからだ。
家では、何も考えずに、「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」を繰り返すだけだから。
つきかけた嘘を気にする様子もなく、彼は窓辺へ来て、私の隣に座る。
「ごめんね、ちょっと勉強してたら、時間かかっちゃって」
「そんな、気にしないで。
私だって、先週はすごく遅い時間に来たし」
言いながら、ふと思う。
もしかしたら、先週、私が来るまでの間、彼もまた、寂しい思いをしていたのだろうか。
ただの思い上がりかもしれない。私なんかを待つなんてせず、楽しく星を眺めていたかもしれない。
それなら良いと思う。
彼に孤独な思いはしてほしくない。
でも同時に、心待ちにしていてくれたのなら、嬉しいとも思う。
「化学の参考書を開いてたらさ、原子ってあるじゃん?
あの絵が、惑星みたく見えて、見入っちゃったんだ」
彼の言葉に、1年生の時に習った、化学の教科書を思い出そうとする。
「原子の絵って、あの……原子核の周りを、電子がくるくる回ってるやつ?」
「そう、それ。
まるで、地球の周りを月が回っていたり、太陽の周りを地球が回っていたりするみたいだなって」
確かに、似ているかもしれない。
私は想像する。
「それじゃ、私たち、原子の1つに住んでるのかもね」
彼は笑う。
「そしたら宇宙って、想像よりものすごく広いのかもしれないなぁ」
光る星々。
自分はきっと、その広大な世界を形作る、ほんの小さな点の1つなのだろう。
「……もしそうなら、この悩みも、化学反応で片付けられたらいいのに」
電子が原子核を離れて、別の原子核へ移るように。
私も、両親の家と祖父母の家を、行ったり来たりしている。
電子が離れても、原子核が怒らなければいいのに。
星は静かに瞬いている。
こんな風に、心静かにいられたらいい。
「……悩みって、昨日の?」
彼に問われて、私はうなずく。
「おおぐま座とこぐま座の話でいうと、私は子どもで……駆け寄る母熊に、矢を射かけることができないの。
神話と違って、私には、その熊が身内だって分かってるから。
でも、このままじゃ、踏みつぶされるから……もう、つぶれてるかもしれないけど……どうしようか、迷ってる」
「……そっか……」
彼はしばらく考えて、迷うように口にする。
「本当は、どうしたいの?」
本当は。
彼のように、素直に本当を口にできたら、どんなにいいだろう。
「私は……逃げたい。
見つからないように、会うことのないように、そこから逃げて隠れたい。
でも、それじゃ、母熊がかわいそうでしょ?」
「それで君がつぶれたら、それこそ母熊がかわいそうじゃないかな」
「大丈夫、人を踏むのが好きな人だから」
「それは……一刻も早く逃げるべきだと思うよ」
彼の言葉に、私は目を丸くする。
「どうして?
踏まれて母熊を満足させるのも、子どもの役目じゃないの?」
「そんな役目はないよ。
健康で幸せに生きることが、子どもの役目だよ。
親の犠牲になるのは違うよ」
そう断言する彼は、やはり恵まれた家庭で育ったのだろう。
「まあ、親じゃなくて祖母だけど……」
「言わせてもらうけど、ちょっと視野がせまいんじゃないかな。
たとえその母熊が、踏むのを望んでいたとしても、そんなのはやっていいことじゃない。
母熊以外は、誰もそんなこと望んでない。
僕が神様なら、即行で2人を引き離すよ」
怒ったような口ぶりに、私は黙り込む。
やっぱり、本音を言うと摩擦も生まれる。
彼との関係を悪くしたくはないのに。
「でも……、でも、それをして、嫌われるのはあなたじゃないでしょ?
親を産んでくれた祖母から嫌われる気持ちが、あなたに分かる?
産まれてこなければよかったって、毎日鏡に向かって呪う気持ちが分かる?
もう……こんなことになるなら……
……何も、言わなければ、よかった……」
本当にそう思う。
もう終わりだ。
親身に相談に乗ってくれて、私のために怒ってくれたのに、愚痴をぶつけて怒ってしまった。
一番大切にしたかった人を、傷付けた。
「……ごめんなさい。
せっかく、私のために言ってくれたのに……」
私の剣幕に気圧されたように、彼は黙っている。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「うん……ちょっと……びっくりした。
あんまり、怒鳴られたこと……なかったから」
「……ごめん」
「……ちょっと、星見て落ち着こうか」
「……うん」
「アメ食べる……?」
「……うん」
彼から手渡されたアメの包みを破いて、中身を口に放る。
丸く滑らかな甘いかたまり。
たぶん私は、優しい彼に甘えていたのだろう。
星を見る。
心が落ち着いていく。
冷静に、状況を振り返ってみる。
「……確かに、視野がせまかったかも。
嫌われるか、嫌われないか……そんなことばっかり気にしてた。
祖母なんて、この広い世界の……ほんの一粒でしかないのにね。
……離れたら……楽になれるのかなぁ……」
同居を解消したら。
祖母は、私の悪評を周囲に撒き散らすだろう。
親族に、近所の人に、ろくでもない孫に冷たくされた哀れな慈母を演じてみせるだろう。
でも、それも、今後一生会わないのなら、たいした問題ではないのかもしれない。
「私……逃げることを考えてみるよ。
すぐには、決断できないかもしれないけど……
……もう、こんな状態は嫌だから」
彼の様子をうかがってみる。
「それがいいと思うよ」
静かに答える彼に、私は落ち込む。
きっと、怒鳴った方の何倍も、怒鳴られた方はつらかったに違いない。
いつも、祖母にわめかれていたから分かる。
「ほんとに……ごめんなさい」
謝る私に、彼はため息をつく。
「まあでも、本音が聞けてよかったよ。
時々、すごくしんどそうに見えたから」
優しい彼の言葉に、私は涙が出そうになる。
なんでこんなに、思いやってくれるのだろう。
「ほら、元気だして。
確かにびっくりしたけど、そうやって何かにぶつけたいこともあるって、分かってるからさ。
だから大丈夫。
それより僕、君と楽しく過ごしたいな」
楽しく過ごす。
それはとても、素敵なことに思えた。
「……でも……本当に楽しく過ごせる?
いきなりかんしゃくを起こすような人と?」
「それはまあ、いきなり怒るのはやめてほしいけどさ」
「うん。大丈夫。もう怒らないよ」
「ならいいよ。
ほら、今日は月もきれいだよ。
うさぎ、餅ついてるかなあ」
彼は話題を変えて、私を和ませようとしてくれた。
そのまま、他愛のないことを話す。
星を見ながら、穏やかな気持ちで。
遠い宇宙を見据えると、悩みが薄まる心地がする。
帰り際に、私は彼へ声をかける。
どうしてもお礼を言いたくて。
「……藤見さん、ありがとう。
私の悩みを聞いてくれて。
でも……怒鳴ってごめんね」
私の謝罪に、彼はううん、と首を振る。
「吐き出して、元気になれたならよかった。
実はずっと、心配してたんだ。
……だから、今日、君と話したこと、後悔してないよ」
裏表のない彼に言われると、心が落ち着いていくのが分かる。
「ありがとう、藤見さん。
……ありがとう」
「それじゃ、また来週」
陽気に手を振る彼と別れて、私は自転車に乗った。
来週が楽しみなのと同時に、明日からの祖母との日々が、怖くてたまらなかった。
『逃げることを考えてみる』なんて言ってしまったけれど、それを本当に実行できるだろうか。
彼と見た星を思い出す。
道しるべの北極星。
どうか私に、勇気をください。