夜が明けて、私は再び、両親の家へ向かった。
祖母の家には戻りたくなかった。
ドアホンを鳴らす。
もうここの住人ではないのだから、当然の礼儀だ。
ドアホンで呼び出された母は、玄関扉を開けて、苦笑いする。
「わざわざ押さなくてもいいのに」
「でも、急に来たら驚くでしょ」
「驚くけど、気にしないよ、家族だから」
まだ家族だと思っていることに、私は驚く。
もう祖母の養子になった扱いかと思っていた。
居間へ行くと、父がいた。
妹は出かけているのか、姿が見えない。
隣にいた母が、私に声をかける。
「あのね、昨日のこと、お父さんにも話したんだけど」
昨日?と思って、思い出す。
ネコのエサの話だろうか。
母から視線を受けて、父が話し出す。
「深月。
おばあちゃんとうまくいってないのなら、家に戻ってきてもいいんだよ」
空気が、一気に深刻になる。
いきなり同居解消の話になるとは思わなかった。
だって、ネコのエサなんて、今までの祖母の言動を考えたら、別に取り立てて言うほどのことでもない。
いつものことだ。
私が驚いて、何も言えずにいると、父は続ける。
「一緒に暮らすだけが家族じゃない。
だから、深月もおばあちゃんも、互いに無理をしているなら、離れた方がいいんじゃないかと思う」
互いに、という言葉で、私は悟る。
私が母に電話したように、祖母も父へ電話して、私の愚痴を言っていたのだろう。
「……おばあちゃんは……何か言ってるの?」
父はため息をつく。
「昨日、『深月が帰宅してもご飯を食べない』と、泣きながら電話してきた。
お父さんからも謝ったんだが、おばあちゃんも興奮していて、いろんな不満は言っていた。
努力が報われないと。
でも、深月のことが嫌いになったわけじゃないよ。
責めていたのはお母さんのことだ」
どうやら、いつも私に泣き叫んでいた内容を、父にもそのまま言ったらしい。
いつもはあっけらかんとしている母は、両手をお腹の前で握りしめて、うつむく。
「お母さん、おばあちゃんの家に行って、直接、おばあちゃんに謝ろうかと思ったんだけど。
それはお父さんに止められて」
行かなくて正解だったと思う。
祖母が母を責めたのは、完全な八つ当たりだ。
孫を嫌っている自分を認めたくなくて、よそ者の嫁のしつけのせいにしたかっただけだ。
そんなのに、母が付き合う必要はない。
……悪いのは、私だ。
祖母とうまくやれなかった、私が悪いのだ。
父が再び、口を開く。
「深月が望むなら、お父さんがおばあちゃんに、住む家を変えることを話そうと思う。
どうかな」
聞かれるが、私はまだ、戸惑いの方が大きい。
それに、同居をやめるか否かは、私だけの意思で決められることではない気がした。
大事なのは、祖母の意向だ。
父に尋ねる。
「……おばあちゃんは、私と別々に暮らしたいって、思ってるの?」
すると父は、顔を曇らせる。
「それも一応、聞いてはみたんだが……
おばあちゃんは、『いや、それは……』って。
それ以上は何も言わなかった」
たぶん、祖母も、いきなりの別居の提案に戸惑ったのだろう。
父に愚痴を言って、謝らせ、父から私をしかってもらい、私にも謝らせ、心を入れ換えた私と、今度こそ素敵な接待ライフを過ごしたかったのだ。
私は笑顔を作る。
「それなら、私は同居を続けるよ。
心配かけてごめんね。
お母さんも、私のせいで怒られちゃって、ごめん。
私の努力が足りなかったから、いけないの。
おばあちゃんにも、つらい思いをさせちゃった。
帰ったら謝るね。
今度はもっとうまくやるよ。
だから、大丈夫」
父と母が、一斉に、心配そうな顔でのぞきこんでくる。
私は、たいしたことなさそうに、笑ってひらひらと手を振る。
「今朝も、私がこうして来ちゃったから、余計心配したでしょ。
ごめんね。
でも大丈夫、今からおばあちゃんのところへ行くよ。
おばあちゃんの心配していたご飯だって、その電話の後だと思うけど、ちゃんと食べたよ。
ご飯を10合以上と、大鍋いっぱいの味噌汁と、たくあんを大根1本分、梅干し10個、納豆3パック、牛乳1リットル、ネコが食べ散らかした焼き魚、ゴキブリとハエのたかった肉野菜炒め、髪の毛の入った筑前煮、あと、ええと、カビの生えた酢の物、茹でとうもろこしが5本、だったかな、とにかく全部食べたよ。
だから大丈夫。
心配ないよ」
父と母は、なおさら深刻そうな顔になった。
母が、ぼそぼそと父に言う。
「ねえ、やっぱり、私が行って謝った方がいいんじゃない?」
「いや、それはいい。
じゃあ、深月、お父さんも一緒に、おばあちゃんに会いに行くよ。
僕も、おばあちゃんと会って、話をしたいから。
いいかな」
父に問われて、私は口を開く。
「……それは……構わないけど……」
でも、きっと、父にとって心地いい話には、ならないのではないだろうか。
それでも行くのは、きっと私のためだ。
申し訳ない気持ちになる。
私がきちんと、私の心を殺さなかったから。
反抗的な態度が漏れ出てしまったから。
祖母の気に入る子にならなかったから。
父にまで、迷惑をかけてしまった。
父は、「じゃあ、行こう」と言って、財布と車の鍵を持ち、玄関へ向かう。
「車を出すから、自転車はトランクに乗せて」
言われるがまま、私はうなずく。
……大変なことになってしまった。
祖母の家に入ると、居間から嗚咽が聞こえた。
どんぶりの下のメモにあった、「涙が止まりません」だろうか。
本当なのか、演出なのか、疑ってしまう自分がいて、私は息を止める。
うまくやらなきゃ。祖母の気に入らない子は殺さなきゃ。
父が「ただいま」と言うと、居間から、手ぬぐいで目頭を押さえた祖母が出てきた。
泣いているのを隠そうともしない。
父が祖母に声をかける。
「久し振り。ちょっと話がしたいなと思って」
「そうお?」
独特の間延びした聞き方をして、祖母は父を居間へ招き入れる。
私もついていった。
祖母はいすに座り、父にもいすをすすめる。
私は立っていた。謝る立場だからだ。
「おばあちゃん、ごめんね。
私のために、一生懸命、ご飯を作ってくれて、私のために、いろいろ気を遣って、心配もしてくれたのに、私、おばあちゃんの優しさを踏みにじっていたね。
本当にごめんなさい」
私は深々と頭を下げる。
祖母は、手ぬぐいを膝へ置き、言った。
「そうよ。本当にそう」
そうでしょうとも、という口ぶりだった。
「お母さん、深月が迷惑かけてごめん。
だいぶ負担をかけてしまっていると思うけど」
「そうよ。
電話でも言ったけど、他にもあるの」
それから祖母は、涙ながらに私の犯した鬼の所業をまくし立てた。
多大な誤解と記憶違い、妄想も混じっていたけれど、私は頭を下げたまま、一切の言い訳をせずに聞いていた。
こうしてサンドバッグにするのが、祖母の望みだから。
「……でも、そんな子になったのも、あの嫁のせいよね」
母の悪口に話が移る。
母のことは、どんなに責め立てても構わないと思っているらしい。
自分の子どものせいで、結婚相手を悪く言われて、父はどんな気持ちだろうか。
こんなに貶められるなんて、母に申し訳ない。
母は、お人好しで流されやすいけど、いい人だ。いい人だと、思う。
やめて。
お母さんは、そんなひどい人じゃない。
気付くと、涙がぼろぼろ流れていた。
のどが熱くひりつく。
体が震えそうで、必死にこぶしを握りしめる。
「そうよねえ、あの女が悪いのよ、結局のところ。
だから、あんた達は悪くないって、分かってはいるんだけど」
一時間ほど話して、全然嬉しくないどころか傷付くだけの責任転嫁の言葉と共に、祖母が一息つく。
父は再び頭を下げた。
「うん、分かった、ごめん。
じゃあ、ここからは2人で話そう。
深月はもういいよ」
父にとりなされ、私はようやく顔を上げる。
涙でぐちゃぐちゃの私の顔を見て、祖母は、満足げににんまりと笑う。きっと、反省の涙だと思ったのだろう。
母を思って流した涙だとは、微塵も考えていないらしい。
「そうねえ、じゃあ、2人で話そうかねえ」
祖母は泣いているが、心なしか嬉しそうだ。
私は踵を返し、居間を出た。
自室へ戻る。
……私のせいだ。
……やっぱり、全部、私のせいだった。
携帯を出して、母へ電話する。
気をもんでいるだろうから、報告をしてあげないといけない。
「もしもし、お母さん?
うん、ちゃんと謝れたよ。
今、お父さんと話してる。
うん……うん。
いいよ、やっぱりお母さんは来なくてよかったと思うよ。
そしたら止まらなかったと思うから。
ごめんね、悪者にしちゃって。
ごめんね。ごめんね……。
うん、大丈夫だよ。
全然大丈夫。
うん、がんばる。
そうだね、そうする。
うん、分かった、ありがとう」
電話を切る。
疲れた。
まだ相手をしている父には悪いと思ったが、居間から響く声がしんどくて、私はベッドで眠りについた。
それから数日間。
祖母は機嫌がよかった。
ため込んでいた愚痴を吐き出すことで、多少なりとも気が済んだのだろう。
私は笑顔を貼り付けて、「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」を繰り返している。
それにしても。
祖母は、あんなに母の悪口を言ったのに、本気で私に好かれると思っているのだろうか。
でも、私も私だ。
あんなに母をけなした人に、こびへつらうなんて。
人としてどうかと思う。
まあ、人格を死なせたからしょうがないんだけど。
下校途中の夜空で、星の大三角を探すことだけが楽しみだった。
その時だけは、祖母のことを考えずに済んだ。
ふと、彼の言葉が、脳裏によみがえる。
『ずっと見てると、見える星、増えていくじゃないですか』
自転車をこぐのを止めて、夜空を見つめる。
虚空と思っていた漆黒の中に、小さな白い点が、1つ、……2つ。
彼が隣にいる気分で、探し続ける。
『それがなんだか、嬉しいんです。
寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって』
もし、自分が、星なら。
周りにいる誰か、は、彼のことだと思う。
私のために謝ってくれた親も、その誰か、の一人かもしれない。
待ちに待った、金曜日。
朝食を済ませ、学校へ出かける直前に、私は震える声で祖母に切り出した。
「あのね、大好きなおばあちゃん。
今度、部活の合宿があるの。
学校の中に合宿所があってさ、土曜の早朝から寝泊まりして、みっちり練習するの。
大好きなおばあちゃんと離れるのは寂しいけど、部活で良い成績を収められるように、私、がんばるね。
日曜の夕飯までには帰るよ。
ねえ、だから、行ってもいーい?」
精一杯、甘えた声を出す。
「そうなのお、そりゃ残念だわあ。
まったく、深月ちゃんはしょうがないねえ。
いいよ。行ってきなさい」
「わあい、おばあちゃん大好き、ありがとう」
許可と命令が出た。
祖母の気が変わる前に、一目散に家を出た。
これで。
金曜の深夜から、展望台に行ける。
祖父母が寝静まった、金曜の夜。
私は展望台へ向かう。
2階へ上ると、そこには先週と同じように、藤見さんがいた。
「こんばんは」
嬉しくてあいさつすると、彼も、こんばんは、と返してくれた。
声が笑っている。嬉しい。
彼が口を開く。
「今日は、北極星を見つけようと思って」
「北極星?」
「見つけられれば、道に迷わなくて済むでしょ」
「……そうだね」
今時、方角だけを頼りに目的地へたどり着けるのかは分からないが、そういう発想は好きだ。
迷子は寂しい。
どこが正解か分からない虚空に、道しるべがあれば心強い。
彼は窓辺から身を乗り出す。
「ええと、まずは、北斗七星を探して……」
私も、隣で身を乗り出す。
「北斗七星って、ひしゃくの形の?」
「そうそう、よく知ってるね。
……うーん、どこかなぁ」
私も目をこらすが、あまりピンと来る並びの星がない。
懸命に空をにらむ彼に、話しかける。
「……外に出た方が、見えるかもよ。
ここからじゃ、後ろ側の空が見えないから」
「確かに!」
彼は、思い付かなかったという様子で叫び、私を見る。
「じゃあ、外に出てみよう!
……足元に気を付けて……」
そろそろと移動する彼の後について、私も外へ出る。
窓から見た時より、ずっと広い夜空が広がる。
見える星も4倍以上に増えた。
「……広いねえ」
「そうだね。知らなかったな」
思わずつぶやいた言葉に、同意してもらえて、少し心が弾む。
彼が声をあげた。
「あ、……あれ、北斗七星じゃないかな」
「え、どこどこ?」
「あの辺……ほら、柄がこっち側で、水をすくうところが、こう」
彼の指さす先を見つめる。
「ああ……あれかな?」
「分かった?」
「うん。でも……空のあんな高いところに、ひしゃくが浮かんでるなんて、なんか、不思議な感じ」
「確かにね。
……日本ではひしゃくだけど、西洋では、熊のしっぽなんだって」
彼は言う。
「おおぐま座とこぐま座っていうのがあって。
ギリシャ神話では、この2つは親子なんだ。
ある日、母親が熊の姿になってしまって。
息子に駆け寄った母親を、息子は熊だと思って射殺そうとしたんだ。
このままではいけないと、神様が2人を掴んで、空に放りあげて星座にしたんだって」
「……へえ」
どこかで聞いたような話に、私の心がこわばる。
愛情ゆえに近付く祖母と、それが怖くて反抗する孫。
「……藤見さんはさ……」
「ん?」
「もし、息子が、射殺そうとしなかったら。
ただ待ち構えていたら。
母熊は本当に、息子に駆け寄るだけで済んだと思う?
勢い余って、踏みつぶしたりしちゃったんじゃないかな」
「……うーん」
彼はしばらく考えて、口を開く。
「おおぐま座と比べると、こぐま座って、ほんと小さくて。
北斗七星よりも、小さいんだ。
だから……
確かに、つぶしちゃうかもしれない。
息子が射殺そうとしなかったら、神様も、気付かずに放っていたかもしれないし。
……でも、どうして、そんなこと聞くの?」
どうしよう。
なんて答えればいいだろう。
何か。
彼が安心できるような嘘を。
「……嘘は言わなくていいよ。
嘘をつかれるくらいなら、ドン引きの事実の方が、まだマシだから」
「……」
私は観念した。
「……好きすぎて、暴走しちゃう人って、いるじゃない。
そういう人が、身内にいて。
好いてくれてるんだから、我慢しなきゃいけないと思うんだけど、時々、無性に、逃げたくなる。
……今みたいに」
「……そうなんだ」
しばらく考えて、彼はつぶやく。
「……おおぐま座とこぐま座は、背中合わせで、逆方向を向いている。
だから、もう、衝突することはないよ。
同じ空にいるから、寂しくもない」
「距離感の問題ってこと?」
「少なくとも、おおぐま座とこぐま座は、今はそういう状態だよ」
「……そっか」
彼なりに、気を遣ってくれたのかもしれない。
下手に、私が我慢すればいいとか、その身内が悪いとか、断じることもできないが、それでも私に寄り添ってくれた。
子熊はもう、踏みつぶされない。
私は顔を上げて、ささやく。
「……北斗七星」
「うん」
「見つかったから、北極星を探せるね。
どうやるのか、教えて」
「ええと、確か……」
彼が天を指差す。
はるか彼方の星をなぞるように。
遠いけれど確かな、道しるべを探す。
「ひしゃくの、柄じゃなくて、すくう方の……端っこの星と、端から2番目の星。
それを5倍伸ばしたところにあるんだって」
彼の言葉に合わせて、視線を北斗七星の先へ動かす。
確かにそこに、それほど明るくはないものの、星が浮かんでいる。
「……あれかな」
「うん、きっとあれだよ」
「ずっと北にあるの?」
「うん、ずっと」
「じゃあ、いつでも会えるね」
「うん、いつでも」
私はほっと胸をなでおろす。
この宇宙で、揺るぎないものを、見つけられた気がして。
「藤見さん、ありがとう」
「どういたしまして」
いつもより、少しだけ明るい夜空の下で。
彼の笑顔が、うっすらと見えた。
祖母の家には戻りたくなかった。
ドアホンを鳴らす。
もうここの住人ではないのだから、当然の礼儀だ。
ドアホンで呼び出された母は、玄関扉を開けて、苦笑いする。
「わざわざ押さなくてもいいのに」
「でも、急に来たら驚くでしょ」
「驚くけど、気にしないよ、家族だから」
まだ家族だと思っていることに、私は驚く。
もう祖母の養子になった扱いかと思っていた。
居間へ行くと、父がいた。
妹は出かけているのか、姿が見えない。
隣にいた母が、私に声をかける。
「あのね、昨日のこと、お父さんにも話したんだけど」
昨日?と思って、思い出す。
ネコのエサの話だろうか。
母から視線を受けて、父が話し出す。
「深月。
おばあちゃんとうまくいってないのなら、家に戻ってきてもいいんだよ」
空気が、一気に深刻になる。
いきなり同居解消の話になるとは思わなかった。
だって、ネコのエサなんて、今までの祖母の言動を考えたら、別に取り立てて言うほどのことでもない。
いつものことだ。
私が驚いて、何も言えずにいると、父は続ける。
「一緒に暮らすだけが家族じゃない。
だから、深月もおばあちゃんも、互いに無理をしているなら、離れた方がいいんじゃないかと思う」
互いに、という言葉で、私は悟る。
私が母に電話したように、祖母も父へ電話して、私の愚痴を言っていたのだろう。
「……おばあちゃんは……何か言ってるの?」
父はため息をつく。
「昨日、『深月が帰宅してもご飯を食べない』と、泣きながら電話してきた。
お父さんからも謝ったんだが、おばあちゃんも興奮していて、いろんな不満は言っていた。
努力が報われないと。
でも、深月のことが嫌いになったわけじゃないよ。
責めていたのはお母さんのことだ」
どうやら、いつも私に泣き叫んでいた内容を、父にもそのまま言ったらしい。
いつもはあっけらかんとしている母は、両手をお腹の前で握りしめて、うつむく。
「お母さん、おばあちゃんの家に行って、直接、おばあちゃんに謝ろうかと思ったんだけど。
それはお父さんに止められて」
行かなくて正解だったと思う。
祖母が母を責めたのは、完全な八つ当たりだ。
孫を嫌っている自分を認めたくなくて、よそ者の嫁のしつけのせいにしたかっただけだ。
そんなのに、母が付き合う必要はない。
……悪いのは、私だ。
祖母とうまくやれなかった、私が悪いのだ。
父が再び、口を開く。
「深月が望むなら、お父さんがおばあちゃんに、住む家を変えることを話そうと思う。
どうかな」
聞かれるが、私はまだ、戸惑いの方が大きい。
それに、同居をやめるか否かは、私だけの意思で決められることではない気がした。
大事なのは、祖母の意向だ。
父に尋ねる。
「……おばあちゃんは、私と別々に暮らしたいって、思ってるの?」
すると父は、顔を曇らせる。
「それも一応、聞いてはみたんだが……
おばあちゃんは、『いや、それは……』って。
それ以上は何も言わなかった」
たぶん、祖母も、いきなりの別居の提案に戸惑ったのだろう。
父に愚痴を言って、謝らせ、父から私をしかってもらい、私にも謝らせ、心を入れ換えた私と、今度こそ素敵な接待ライフを過ごしたかったのだ。
私は笑顔を作る。
「それなら、私は同居を続けるよ。
心配かけてごめんね。
お母さんも、私のせいで怒られちゃって、ごめん。
私の努力が足りなかったから、いけないの。
おばあちゃんにも、つらい思いをさせちゃった。
帰ったら謝るね。
今度はもっとうまくやるよ。
だから、大丈夫」
父と母が、一斉に、心配そうな顔でのぞきこんでくる。
私は、たいしたことなさそうに、笑ってひらひらと手を振る。
「今朝も、私がこうして来ちゃったから、余計心配したでしょ。
ごめんね。
でも大丈夫、今からおばあちゃんのところへ行くよ。
おばあちゃんの心配していたご飯だって、その電話の後だと思うけど、ちゃんと食べたよ。
ご飯を10合以上と、大鍋いっぱいの味噌汁と、たくあんを大根1本分、梅干し10個、納豆3パック、牛乳1リットル、ネコが食べ散らかした焼き魚、ゴキブリとハエのたかった肉野菜炒め、髪の毛の入った筑前煮、あと、ええと、カビの生えた酢の物、茹でとうもろこしが5本、だったかな、とにかく全部食べたよ。
だから大丈夫。
心配ないよ」
父と母は、なおさら深刻そうな顔になった。
母が、ぼそぼそと父に言う。
「ねえ、やっぱり、私が行って謝った方がいいんじゃない?」
「いや、それはいい。
じゃあ、深月、お父さんも一緒に、おばあちゃんに会いに行くよ。
僕も、おばあちゃんと会って、話をしたいから。
いいかな」
父に問われて、私は口を開く。
「……それは……構わないけど……」
でも、きっと、父にとって心地いい話には、ならないのではないだろうか。
それでも行くのは、きっと私のためだ。
申し訳ない気持ちになる。
私がきちんと、私の心を殺さなかったから。
反抗的な態度が漏れ出てしまったから。
祖母の気に入る子にならなかったから。
父にまで、迷惑をかけてしまった。
父は、「じゃあ、行こう」と言って、財布と車の鍵を持ち、玄関へ向かう。
「車を出すから、自転車はトランクに乗せて」
言われるがまま、私はうなずく。
……大変なことになってしまった。
祖母の家に入ると、居間から嗚咽が聞こえた。
どんぶりの下のメモにあった、「涙が止まりません」だろうか。
本当なのか、演出なのか、疑ってしまう自分がいて、私は息を止める。
うまくやらなきゃ。祖母の気に入らない子は殺さなきゃ。
父が「ただいま」と言うと、居間から、手ぬぐいで目頭を押さえた祖母が出てきた。
泣いているのを隠そうともしない。
父が祖母に声をかける。
「久し振り。ちょっと話がしたいなと思って」
「そうお?」
独特の間延びした聞き方をして、祖母は父を居間へ招き入れる。
私もついていった。
祖母はいすに座り、父にもいすをすすめる。
私は立っていた。謝る立場だからだ。
「おばあちゃん、ごめんね。
私のために、一生懸命、ご飯を作ってくれて、私のために、いろいろ気を遣って、心配もしてくれたのに、私、おばあちゃんの優しさを踏みにじっていたね。
本当にごめんなさい」
私は深々と頭を下げる。
祖母は、手ぬぐいを膝へ置き、言った。
「そうよ。本当にそう」
そうでしょうとも、という口ぶりだった。
「お母さん、深月が迷惑かけてごめん。
だいぶ負担をかけてしまっていると思うけど」
「そうよ。
電話でも言ったけど、他にもあるの」
それから祖母は、涙ながらに私の犯した鬼の所業をまくし立てた。
多大な誤解と記憶違い、妄想も混じっていたけれど、私は頭を下げたまま、一切の言い訳をせずに聞いていた。
こうしてサンドバッグにするのが、祖母の望みだから。
「……でも、そんな子になったのも、あの嫁のせいよね」
母の悪口に話が移る。
母のことは、どんなに責め立てても構わないと思っているらしい。
自分の子どものせいで、結婚相手を悪く言われて、父はどんな気持ちだろうか。
こんなに貶められるなんて、母に申し訳ない。
母は、お人好しで流されやすいけど、いい人だ。いい人だと、思う。
やめて。
お母さんは、そんなひどい人じゃない。
気付くと、涙がぼろぼろ流れていた。
のどが熱くひりつく。
体が震えそうで、必死にこぶしを握りしめる。
「そうよねえ、あの女が悪いのよ、結局のところ。
だから、あんた達は悪くないって、分かってはいるんだけど」
一時間ほど話して、全然嬉しくないどころか傷付くだけの責任転嫁の言葉と共に、祖母が一息つく。
父は再び頭を下げた。
「うん、分かった、ごめん。
じゃあ、ここからは2人で話そう。
深月はもういいよ」
父にとりなされ、私はようやく顔を上げる。
涙でぐちゃぐちゃの私の顔を見て、祖母は、満足げににんまりと笑う。きっと、反省の涙だと思ったのだろう。
母を思って流した涙だとは、微塵も考えていないらしい。
「そうねえ、じゃあ、2人で話そうかねえ」
祖母は泣いているが、心なしか嬉しそうだ。
私は踵を返し、居間を出た。
自室へ戻る。
……私のせいだ。
……やっぱり、全部、私のせいだった。
携帯を出して、母へ電話する。
気をもんでいるだろうから、報告をしてあげないといけない。
「もしもし、お母さん?
うん、ちゃんと謝れたよ。
今、お父さんと話してる。
うん……うん。
いいよ、やっぱりお母さんは来なくてよかったと思うよ。
そしたら止まらなかったと思うから。
ごめんね、悪者にしちゃって。
ごめんね。ごめんね……。
うん、大丈夫だよ。
全然大丈夫。
うん、がんばる。
そうだね、そうする。
うん、分かった、ありがとう」
電話を切る。
疲れた。
まだ相手をしている父には悪いと思ったが、居間から響く声がしんどくて、私はベッドで眠りについた。
それから数日間。
祖母は機嫌がよかった。
ため込んでいた愚痴を吐き出すことで、多少なりとも気が済んだのだろう。
私は笑顔を貼り付けて、「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」を繰り返している。
それにしても。
祖母は、あんなに母の悪口を言ったのに、本気で私に好かれると思っているのだろうか。
でも、私も私だ。
あんなに母をけなした人に、こびへつらうなんて。
人としてどうかと思う。
まあ、人格を死なせたからしょうがないんだけど。
下校途中の夜空で、星の大三角を探すことだけが楽しみだった。
その時だけは、祖母のことを考えずに済んだ。
ふと、彼の言葉が、脳裏によみがえる。
『ずっと見てると、見える星、増えていくじゃないですか』
自転車をこぐのを止めて、夜空を見つめる。
虚空と思っていた漆黒の中に、小さな白い点が、1つ、……2つ。
彼が隣にいる気分で、探し続ける。
『それがなんだか、嬉しいんです。
寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって』
もし、自分が、星なら。
周りにいる誰か、は、彼のことだと思う。
私のために謝ってくれた親も、その誰か、の一人かもしれない。
待ちに待った、金曜日。
朝食を済ませ、学校へ出かける直前に、私は震える声で祖母に切り出した。
「あのね、大好きなおばあちゃん。
今度、部活の合宿があるの。
学校の中に合宿所があってさ、土曜の早朝から寝泊まりして、みっちり練習するの。
大好きなおばあちゃんと離れるのは寂しいけど、部活で良い成績を収められるように、私、がんばるね。
日曜の夕飯までには帰るよ。
ねえ、だから、行ってもいーい?」
精一杯、甘えた声を出す。
「そうなのお、そりゃ残念だわあ。
まったく、深月ちゃんはしょうがないねえ。
いいよ。行ってきなさい」
「わあい、おばあちゃん大好き、ありがとう」
許可と命令が出た。
祖母の気が変わる前に、一目散に家を出た。
これで。
金曜の深夜から、展望台に行ける。
祖父母が寝静まった、金曜の夜。
私は展望台へ向かう。
2階へ上ると、そこには先週と同じように、藤見さんがいた。
「こんばんは」
嬉しくてあいさつすると、彼も、こんばんは、と返してくれた。
声が笑っている。嬉しい。
彼が口を開く。
「今日は、北極星を見つけようと思って」
「北極星?」
「見つけられれば、道に迷わなくて済むでしょ」
「……そうだね」
今時、方角だけを頼りに目的地へたどり着けるのかは分からないが、そういう発想は好きだ。
迷子は寂しい。
どこが正解か分からない虚空に、道しるべがあれば心強い。
彼は窓辺から身を乗り出す。
「ええと、まずは、北斗七星を探して……」
私も、隣で身を乗り出す。
「北斗七星って、ひしゃくの形の?」
「そうそう、よく知ってるね。
……うーん、どこかなぁ」
私も目をこらすが、あまりピンと来る並びの星がない。
懸命に空をにらむ彼に、話しかける。
「……外に出た方が、見えるかもよ。
ここからじゃ、後ろ側の空が見えないから」
「確かに!」
彼は、思い付かなかったという様子で叫び、私を見る。
「じゃあ、外に出てみよう!
……足元に気を付けて……」
そろそろと移動する彼の後について、私も外へ出る。
窓から見た時より、ずっと広い夜空が広がる。
見える星も4倍以上に増えた。
「……広いねえ」
「そうだね。知らなかったな」
思わずつぶやいた言葉に、同意してもらえて、少し心が弾む。
彼が声をあげた。
「あ、……あれ、北斗七星じゃないかな」
「え、どこどこ?」
「あの辺……ほら、柄がこっち側で、水をすくうところが、こう」
彼の指さす先を見つめる。
「ああ……あれかな?」
「分かった?」
「うん。でも……空のあんな高いところに、ひしゃくが浮かんでるなんて、なんか、不思議な感じ」
「確かにね。
……日本ではひしゃくだけど、西洋では、熊のしっぽなんだって」
彼は言う。
「おおぐま座とこぐま座っていうのがあって。
ギリシャ神話では、この2つは親子なんだ。
ある日、母親が熊の姿になってしまって。
息子に駆け寄った母親を、息子は熊だと思って射殺そうとしたんだ。
このままではいけないと、神様が2人を掴んで、空に放りあげて星座にしたんだって」
「……へえ」
どこかで聞いたような話に、私の心がこわばる。
愛情ゆえに近付く祖母と、それが怖くて反抗する孫。
「……藤見さんはさ……」
「ん?」
「もし、息子が、射殺そうとしなかったら。
ただ待ち構えていたら。
母熊は本当に、息子に駆け寄るだけで済んだと思う?
勢い余って、踏みつぶしたりしちゃったんじゃないかな」
「……うーん」
彼はしばらく考えて、口を開く。
「おおぐま座と比べると、こぐま座って、ほんと小さくて。
北斗七星よりも、小さいんだ。
だから……
確かに、つぶしちゃうかもしれない。
息子が射殺そうとしなかったら、神様も、気付かずに放っていたかもしれないし。
……でも、どうして、そんなこと聞くの?」
どうしよう。
なんて答えればいいだろう。
何か。
彼が安心できるような嘘を。
「……嘘は言わなくていいよ。
嘘をつかれるくらいなら、ドン引きの事実の方が、まだマシだから」
「……」
私は観念した。
「……好きすぎて、暴走しちゃう人って、いるじゃない。
そういう人が、身内にいて。
好いてくれてるんだから、我慢しなきゃいけないと思うんだけど、時々、無性に、逃げたくなる。
……今みたいに」
「……そうなんだ」
しばらく考えて、彼はつぶやく。
「……おおぐま座とこぐま座は、背中合わせで、逆方向を向いている。
だから、もう、衝突することはないよ。
同じ空にいるから、寂しくもない」
「距離感の問題ってこと?」
「少なくとも、おおぐま座とこぐま座は、今はそういう状態だよ」
「……そっか」
彼なりに、気を遣ってくれたのかもしれない。
下手に、私が我慢すればいいとか、その身内が悪いとか、断じることもできないが、それでも私に寄り添ってくれた。
子熊はもう、踏みつぶされない。
私は顔を上げて、ささやく。
「……北斗七星」
「うん」
「見つかったから、北極星を探せるね。
どうやるのか、教えて」
「ええと、確か……」
彼が天を指差す。
はるか彼方の星をなぞるように。
遠いけれど確かな、道しるべを探す。
「ひしゃくの、柄じゃなくて、すくう方の……端っこの星と、端から2番目の星。
それを5倍伸ばしたところにあるんだって」
彼の言葉に合わせて、視線を北斗七星の先へ動かす。
確かにそこに、それほど明るくはないものの、星が浮かんでいる。
「……あれかな」
「うん、きっとあれだよ」
「ずっと北にあるの?」
「うん、ずっと」
「じゃあ、いつでも会えるね」
「うん、いつでも」
私はほっと胸をなでおろす。
この宇宙で、揺るぎないものを、見つけられた気がして。
「藤見さん、ありがとう」
「どういたしまして」
いつもより、少しだけ明るい夜空の下で。
彼の笑顔が、うっすらと見えた。