人間は、Noと言えなくなると、死ぬ。
私がいい例だ。
そして、世の中には、他人のささいなNoすら、受け入れられない人がいる。
私の祖母がそうだ。
私が何かするたびに、かんしゃくを起こして泣きわめく。
朝、祖母が起こしに来るより先に起きたから。
祖母のよそった大盛りご飯を食べきれなかったから。
祖母の予想より帰宅が遅れたから。
「ひどい、ひどい。
せっかく起こしてあげようとしたのに。
せっかく大盛りにしてあげたのに。
せっかく帰るのを待ってたのに。
全部あなたのためなのに。
深月ちゃんはいつも、おばあちゃんを傷付ける」
私だって、好きで傷付けてるわけじゃない。
起こしに来るのを待ってたら遅刻するし、
相撲取りの描かれたどんぶりによそわれたご飯は、どう考えたって多すぎるし、
帰宅時刻は部活次第だ。
事情を詳しく説明しても、祖母は泣き止まない。
「深月ちゃんは、屁理屈ばっかり。
私の言うことを、黙ってニコニコ聞いていればいいのに」
私が「ごめんね、私が全部悪かったよ」と謝るまで、祖母は意地でも泣き止まない。
こんな感じで、祖母は非常に面倒くさい人だ。
私はもともと、核家族だったけれど、入学先の高校が祖父母宅に近いと知った祖母が、半ば無理やりに私との同居を決めた。
きっと、素敵な孫との接待同居ライフでも思い描いていたのだろう。
ちなみに祖父もいるけれど、彼は祖母に無条件降伏状態だ。
「ああ、分かった」
以外の言葉を、祖父から聞いたことがない。
この惨状を母に電話で訴えたら、大笑いされた。
ギャグか何かと思われたらしい。
「おばあちゃんは、それだけあなたを大切に思ってるんだよ」
母はそう言った。
……本当だろうか?
最近は、少しでも反論すると、母の悪口を言い始める。
「深月ちゃんのお母さんがちゃんとしてないから、深月ちゃんがこうなっちゃったのよ」
母のせいにされた。
自分の悪口を聞くのも嫌だが、母の悪口はそれ以上に苦痛だった。
祖母は時々、口癖のように繰り返す。
「深月ちゃんのお父さんは、結婚相手を間違えた」
それは私が、生まれてこなければよかったということだろうか。
もう、疲れた。
毎朝、顔を洗って鏡を見るたびに、思う。
これがダメ孫の顔か。
「こんな奴、死ねばいいのに」
呟いて、そうだ殺そう、と思い立った。
以来、私は脱け殻だ。
祖母の言葉に、バカみたいに
「うん、分かった、ありがとう」
を繰り返す。
私はNoと言わなくなった。
それは、私という人格の死を意味していた。
少なくとも祖母は幸せそうだ。
代わりに私は死んだ。
それだけが、確かだった。
そんなある日。
夕飯のために食卓へ行くと、相撲取りのどんぶりに、ネコのエサがよそわれていた。
「ごめんねえ、深月ちゃん。
お米を切らしちゃったんだけど、ご飯なしじゃかわいそうだから。
ほら、食べなさい」
いつものように命令される。
「うん、分かった、ありがとう」
私はネコのエサをほおばる。
祖母は満足げに見守る。
うん、あの目は見たことがある。
野良ネコに餌付けしている時の目だ。
食い物をあげた見返りに、なつくことを求める目。
ネコは言葉を喋らない。
ただ、ニャアとすり寄るだけ。
狂ったように同じ言葉を繰り返す私と同じだ。
私、人間じゃなかったんだ。
ネコのエサを全て平らげる。
自室に戻った。
ヒリヒリする喉とゴロゴロする胃。
これは現実だろうか?
私は、ネコのエサを喜んで食べる、人間もどきなのだろうか?
『おばあちゃんは、あなたのためを思って』
本当に?
もう、何が真実か分からない。
私は玄関へ歩いた。
「どこへ行くの?」
いつもと違う行動をする私を、祖母は目ざとく見つけ、声をかける。
「……腹ごなしの散歩だよ。
すぐ帰る」
緊張しながら答える。
最近、『うん、分かった、ありがとう』以外の言葉が、なかなか出てこない。
すっかり頭がバカになっているようだ。
祖母はため息をついて、仕方ないといった様子で答える。
「いいよ、5分以内なら。
行きなさい」
それは、許可と命令。
祖母の許可と命令がなければ、私は何をすることも許されないのだ。
「うん、分かった、ありがとう」
いつもの言葉を告げて、私は後ろ手に玄関を閉める。
着の身着のまま、財布もスマホもない。
それでも構わない。
私は通学用の自転車に飛び乗った。
そのまま、勢いよく走り出す。
散歩というのは嘘だ。
ただもう、一瞬たりとも、この家にいたくなかった。
遠くに行きたい。
どこか、遠くへ。
幸い、明日は土曜日だ。
学校のことは気にしなくていい。
厄介なのは祖母だ。
帰りが遅いと息巻いて、軽トラックで探し回りに来るかもしれない。
祖母の手の届かない場所はどこか。
思いついたのは、学区から離れた山の上にある、天ヶ原休憩所。
坂道を自転車で登るのはきつい。
自転車を降りて、ひたすら引いて歩く。
普段なら、途中で疲れてやめていただろう。
でも今は、むしろその疲労が心地よかった。
死んでしまった心の代わりに、せめて足くらいは痛んでいてほしかった。
出ない涙の代わりに、汗くらいは噴き出していてほしかった。
それに何より、自分の後ろに居場所はないと感じていた。
絶対に、見つかるわけにはいかない。
逃げ続けなければ。
歩いているうちに、時刻は深夜になろうとしていた。
ようやく見えてきた休憩所に、ほんの少し安堵する。
休憩所には、ベンチとテーブルを備え付けた小さな東屋とトイレ、自販機と水飲み場、駐車場があり、子どもがボール遊びをするようなだだっ広い平原が広がっている。
もう少し先には、展望デッキもある。
今なら夜景が見えるだろう。
地元の子どもたちが、遠足で訪れそうな雰囲気だ。
夏とはいえ、風が吹くと汗が冷える。
東屋で過ごすのは寒そうだ。
そうなると、と私は視線を上に向ける。
東屋から少しだけ坂を登った所には、2階建ての小さな展望台がある。
私はそこを目指すことにした。
展望台に自転車を横付けする。
円柱状の、小さな灯台のような見た目をしたその展望台には、扉もない。
白壁を四角くくりぬいただけの出入口から入ると、雑草と砂利でできた丸い地面が現れた。
対面から壁沿いに螺旋階段が設置され、2階へ上がることができる。
もちろん電気はないので、先へ進むには、四角くくりぬかれた窓から差し込む、街灯や星明かりが頼りだ。
荒れた肌のように錆びついた手すりに触れ、慎重に鉄製の階段を登る。
簡易ゆえに、足を踏み外しそうで、ちょっと怖い造りだ。
2階まで上りきると。
なんとそこに、先客がいた。
この暗闇で、人がいると気付けたのは、その人が窓辺にいたからだ。
四角いはずの窓の形が、人型に欠けていて、思わず私は固まる。
……ホームレスが居着いていたのだろうか?
こんなところに人などいないと思っていたから、完全に油断していた。
先客は、足音で私の存在を感知していたのか、あまり驚いた様子もなく、こちらを見ている気配がする。
……ごめんなさい、失礼しましたとでも言って、この場を去ろうか。
すっかりコミュ障になった頭でぐるぐると考えていると。
「ああ、どうも」
先客の方から、存外明るく声をかけてくる。
知り合いに手を振るようなノリだ。
あと、声が思ったより若い。
同級生の男子みたいな。
「……こんばんは」
とりあえず、挨拶してみる。
声をかけられたのにこの場を去るのも、なんだか失礼な気がした。
もう、その対応が正しいのかも分からないくらい、私はやけになっていた。
「どうぞ、こっちへ。
景色、見えますよ」
先客は、まるで今が昼間のように、屈託なく言って窓辺の場所を譲る。
「……どうも」
私もなんとか相づちを打って、じりじりと窓辺へ移動する。
なんだろう、このやり取り。
どうすればいいんだ?
私が困惑していると、先客の男子は、警戒を解こうとしたのか、自己紹介してくる。
「僕、星を見に来たんですよ。
この近くの高校に通ってて、3年生。
藤見って言います」
「……はあ」
「同い年くらいですかね?」
「……そうですね」
なんとも気の抜けるような、へなへなとした返事をしてしまったが、彼は気にする様子もない。
「あなたは?」
「ええと……散歩……です」
「そうなんですね!
この窓、結構星が見えて、いいスポットですよ。
オススメです」
こんな深夜に散歩なんて、と咎めることもなく、彼……藤見は明るく話しかけてくる。
なんだか夜が不似合いな人だ。
どんな顔をしているのか、見ようとしたが、暗くてよく分からない。
でも声の様子からすると、とても楽しそうだ。
外ではしゃぐ小学生のような雰囲気がある。
本当はもっと警戒した方がいいのだろうけれど、ついそのノリにつられるようにして、窓から空を眺めてみた。
相手の言葉を否定できないあたり、やっぱり私は死んでいる。
見上げた空には、まばらに星が散らばっていた。
目をしばたたいてしばらく見つめると、だんだんと余白に、細かい星が見えてくる。
「近くに明かりが少ないですからね。
街中より、よく見えるでしょ?」
「……そう……ですね」
嬉々として話しかけてくる藤見。
本当は、違いなんて分からないのだけど、とりあえずうなずいておく。
が、藤見はすぐに、私の様子に気付いたらしい。
「まあ、普段、星なんて気にしませんよね!
大丈夫ですよ!」
なんで、私の本心が分かったのだろう?
祖母は、私の「うん、分かった、ありがとう」を真に受けて喜んでいたのに。
初めて会ったばかりの藤見は、本当は否定したい私の気持ちを見抜いてしまった。しかも、それで気を悪くした様子もない。
「場所が山の上だから、僕は週末の、天気のいい日だけ、ここに来るんです。
ちょっとした、内緒のお楽しみってやつです。
ほかに人が来ることはなかったから、今日は特別な日ですね」
それは、遠回しに邪魔だと言っているのか、本当に歓迎されているのか、どちらなのだろう。
……毎日、身内から人格否定されていると、すっかり自信がなくなってしまう。
「あなたもまた来ますか?
いい所でしょう、ここ」
「そう……ですね……」
なんとなく、条件反射で返事をした。
いい所かどうか、全然分からないけれど。
……それなのに、「そうですね」と答えた私は、彼に嘘をついたことになるのだろうか。
でももう、それも今更だ。
毎日毎日、あの家では、何一つ本心を語れないのだから。
「うん、分かった、ありがとう」という、薄っぺらい嘘しか、口にすることを許されない。
私は嘘つきだ。
人格を殺した今、存在自体が嘘だと言っていい。
そんな私を知ってか知らずか、彼は嬉しそうにしゃべり続ける。
「ぜひ来てくださいよ、そしたら嬉しいなあ。
……僕、今日はしばらくここにいます。
朝には帰りますけど。
あなたは?」
「そう……ですね……」
「好きなだけいればいいですよ、僕、変なことしませんから」
「そう……ですね……」
せっかく話しかけてくれるのに、うわごとのような返事しかできない。
本当は、もっと、言いたいことがあったような気がする……のに、今は何も浮かばなかった。
それにも関わらず、彼はよくしゃべる。
それも機嫌よく。
話を聞いてもらうだけで満足するタイプなのだろうか?
私が素っ気ない相づちしか打てなくても、藤見は楽しそうにしてくれるので、途中からだんだん気が楽になってきた。
「うん、分かった、ありがとう」でないとかんしゃくを起こす祖母とは違う。
もう少し、彼と話をしていたい。
そう思っている内に、時間は刻々と過ぎていく。
「……ああ、そろそろ帰らないと」
「そう……ですね……」
「じゃあ、また。
楽しかったよ」
「そう……ですね……」
藤見は階段を降りながら、こちらへ手を振ってくれた。
どうやら、本当に楽しかったらしい。
全部偽りの生返事をした自分とは、大違いだ。
きっと彼は、本心を惜しげもなくさらせる、「本当」の人なのだろう。
それが少し、うらやましかった。
展望台を出た私は、自転車を前にして、しばしたたずんでいた。
……これからどうしよう。
祖父母宅から遠く離れた今、わざわざあの家に戻るのは、なんとなく気が進まなかった。
帰り道で祖母とはち合わせ、涙ながらに抱きしめられでもしたら最悪だ。
せっかく、ここまでたどり着いて、安心して話ができる人と過ごせたのに。
だが、他に行き場があっただろうか?
この展望台だって、日が昇れば人が来る。
いつまでも居座るわけにはいかない。
「……」
仕方ない。
私は、自分の両親の家へ向かうことにした。
家で起きていた母と妹は、気だるげないつもの様子で、迎え入れてくれた。
懐かしい空気。
祖父母宅に引っ越してからは、両親の家に行くには、祖母の許可と命令が必要になった。
……祖母は、今ごろ、私を探し回っているだろうか?
少し、心配になる。
が、母が言うには、祖母からは何の連絡も来ていないらしい。
おそらく、原因が原因だけに、おおごとにしたくなかったのだろう。
保身と外面の良さは一級品だ。
「お姉ちゃん、なんで来たの」
「……ネコのエサを食べさせられたから」
「……やべえ」
妹の短い感想からは、いまいち感情が読み取れない。
「ねーお母さん、お姉ちゃんネコのエサ食べたんだって」
「ええ?」
洗濯機を回していた母が、半笑いで聞き返す。
正確には食べたんじゃなくて食べさせられたんだけど、と思うが、私は抗議することもなく「うん、分かった、ありがとう」と食べたので、やっぱり自分から食べたことになるのかもしれない。
洗面所から母が戻ってくる。
「なに、お腹大丈夫なの?」
「うん、平気、慣れてるし」
「やべえ」
妹は動画を見ながら笑っている。
母は今度は台所へ行き、昨日の鍋の残りを温め始めた。
「朝ご飯、食べる?」
「…………うん」
「おばあちゃん、心配するだろうから、うちに来てるって連絡するけど。いい?」
「……うん」
居間で過ごす母と妹、自室からなかなか出てこない弟2人、外出しがちな父。
皆の様子は、私がいた頃となんら変わらない。
変わったのは、私だけだ。
廊下の固定電話で連絡を済ませた母が、居間に戻ってくる。
「おばあちゃん、心配だからすぐ戻ってこいって。
……どうする?」
「うん、分かった、ありがとう」
いつもの薄ら笑いを浮かべる。
もう慣れたものだ。
玄関に向かう私を、母は追ってくる。
「また来てもいいからね。
何かあったら言ってね」
「うん、分かった、ありがとう」
前に電話したら、笑い飛ばしたくせに。
私は笑顔を貼りつけたまま、自転車に乗って、祖母の待ち構える家へ向かう。
親にも本音が言えない。
嘘ばっかりだ。
全部嘘。
願わくは、エサの件も、嘘だと、何かの冗談だと思っていてほしい。
嘘をついた上に、心配までかけるのは嫌だから。
居着いていた野良ネコが、家を出て、どこかよその家で幸せに暮らしている。
そんな風に、思っていてほしい。
祖父母の家に入ると、祖母は留守だった。
外のビニールハウスで、作業でもしているのだろう。
きっと、気まずくて顔を合わせたくなかったのだ。
奥の居間からは、テレビの音が聞こえる。
番組の雰囲気からして、見ているのは祖父だ。
呆けたように、
「ああ、ああ、ふあ」
と、相づちとも吐息ともつかない声をあげている。
声をかける気にもなれなくて、私は玄関から自室へ直行する。
帰ってきたことは、自転車や玄関のくつで分かるだろう。
接していても疲れるだけだ。
世界を閉じるように、私はベッドで目を閉じる。
祖母の家に来た初日に、ゴキブリの卵がいくつもこびりついていて、ひっぺがすのが大変だったのを思い出す。
もう、何も、見たくなかった。
目が覚めると、すでに外は暗かった。
時計を見ると午後9時。
もう祖父母は寝ている時間だ。
そっと部屋の扉を開けて、廊下へ出る。
餌付けされた野良ネコの垂れ流した、し尿の匂いが、ツンと鼻をつく。
吐き気がした。
恐る恐る、足音をしのばせて居間へ向かう。
もし食事が用意されていたら。
食べきらねば、どんな怨念をかけられるか分からない。
そっと、居間の電気をつける。
テーブルの上には、相撲取りのどんぶりとその他の食器が置かれ、ご飯とおかずが塔のように高くよそわれている。
ハエとゴキブリがたかっている。
ネコも食いついたのか、焼き魚は食いちぎられて床に散乱している。
どんぶりの下には、祖母の達筆なメモが置かれていた。
『深月ちゃんへ
深月ちゃんがお腹をすかせないように、一生懸命がんばったのに、こんなことをするなんて、おばあちゃんは涙が止まりません。
昨日の夕飯は気に入らなかったようなので、今日こそはと、腕によりをかけて作りました。
炊飯器と鍋の中に、おかわりもあります。
体を壊したら大変です。
残さず食べなさい』
炊飯器を開けてみた。10合炊きの炊飯器だ。夫婦2人暮らしにしては大きいが、盆暮れ正月に親戚が集まるため、それに備えて買ったのだろう。
その炊飯器に、マックスまで炊かれたご飯が詰まっている。
おそらく、どんぶりに残りご飯をよそい、おかわり用に再度炊いたのだろう。
隣の鍋のふたを開けると、なみなみと具だくさんの味噌汁が入っている。
これだけ作るのは大変だったろう。
それは分かる。
分かるけど。
相撲取りでもない女子高生が、これを全部食べきれると、本気で思っているのだろうか?
祖母の食事を取らなかった、今日1日分、さらにネコのエサを食べた昨日の夕飯分が含まれていると考えても、まだ多い。
絶望しながら、箸を手に取る。
これを、翌朝、祖母が起きてくる前に、全て平らげねばならない。
おかわり分もだ。
おかわりをしないと泣きわめくのは、経験上分かっている。
きっと、捨ててもすぐ気付く。
ご飯1粒、おかずの破片、味噌汁1滴すら、きっと祖母は許さない。
『ひどい、ひどい。
おばあちゃんは、深月ちゃんのために、一生懸命、がんばってるのに』
分かってるよ、分かってる。
がんばったんだね。つらかったんだね。
でも。
私の意見は、全部無視。
なぜなら私は人間じゃないから。
「うん、分かった、ありがとう」
しか言えない、ニャアとしか鳴かない野良ネコと一緒だから。
私はひたすら胃に流し込む。
なるべくスムーズに、のどを通りぬけさせたいのに、一口ごとに混入している祖母の髪の毛が、それを邪魔する。
ストレスで抜けたのだろうか。
私のせいか。
全部、私のせいなのか。
口もとを押さえながら、最後の一口を飲み込む。
なまじ食べきれてしまう自分が恨めしい。
すぐにベッドへ横になる。
なんとか消化しなくてはならない。
寝よう。
夢を見た。
家中にカビが生えている。
どんどん広がるカビから逃げるように走る。
外へ。
出ようとすると、道を祖母にふさがれた。
なんで。
どいて。
私は祖母を押しのけた。
祖母は、まるで突き飛ばされたかのように、地面へ倒れ込む。
しまった、やってしまった。
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい」
狂ったように泣いている。
ああ、やはり、抵抗すると、こうなるのだ。
カビが体を這い登る。
「ごめんねおばあちゃん、ごめんね、ごめんね」
棒読みの声がする。
これが本当に正しいのだろうか。
分からない。
カビが脳まで覆いつくしている。
目が覚めた。
真っ暗だ。外も暗い。
手の甲をひっかく。
なんだかカビがついていそうで。
やっぱり外へ出よう。
もう夢は覚めたから、祖母は廊下にはいないはずだ。
自転車を引いて向かった先は、あの展望台。
星を見に行くのだ。
少しでもきれいなものを見たかった。
展望台の2階へ上がる。
きれいなもの、きれいなもの。
「ああ、こんばんは」
「……こん、ばんは」
藤見だ。
「どうぞどうぞ。
今日も散歩ですか?」
「……はい……えっと……あの」
深呼吸する。
大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫。
『はい、散歩です』以外の答えでも、きっと彼は怒らない。
怒られるようなことじゃ、ないはずだ。
「その……星を、見に」
「そうなんですね」
あっさりと返されて、心底安堵する。
深く長い吐息が漏れた。
藤見に譲られた窓から、空を見上げる。
真っ暗な虚空に輝く星。
わずかな空気穴を見つけたような気持ちで、必死に息をする。
じっと見上げる。
ずっと、星だけ、見ていられたらいいのに。
誰の顔も見ず、誰にも声をかけられずに、ただ、星の光だけを。
それでも見上げ続けていれば、首も疲れる。
窓から身を乗り出していなければならないので、余計、姿勢がしんどい。
展望台の中へ体を戻す。
ため息をついてうつむいた。
しばらくそうして、顔を上げる。
視界の隅で、藤見がじっとしているのが見えた。
「……あ……ごめん、なさい」
「いえっ、いいんです」
藤見は両手を横に振る。
昨日は一晩中しゃべる勢いだったのに、今日はびっくりするくらい静かだ。
本当に同じ人か、疑問に思うくらい。
私は恐る恐る、窓を指差す。
「……見ます?」
「えっ、いやいや、いいんですよ。
もう、僕は先に見てましたから」
彼はそう言うが、彼を無視して星に没頭するのも違う気がして、私は藤見に向かい合う。
……でも、何を言えばいいのだろう?
相手が祖母だったら、きっと何を言っても、驚き、戸惑い、困った顔をするだろう。
祖母は私の話を聞くのが嫌いだ。
祖母の思考を邪魔しない、命令をニコニコ聞くだけの人が好きだから。
そうなると、やっぱり、私は何もしゃべらない方がいいのかもしれない。
沈黙が続く。
なんとなく気まずい。
なんで彼は黙っているのだろう?
まるで根比べのように黙りこんでいると、彼が口を開いた。
「……じゃあ、一緒に見ます?」
一瞬、なんのことかと思って、ああ星のことかと思い出した。
「……そうですね」
2人で窓辺に並ぶ。
肩を寄せ合うような形になった。
「星、きれいだなぁ」
「……そうですね」
「ずっと見てると、見える星、増えていくじゃないですか。
それがなんだか、嬉しいんです。
寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって」
私は彼を見る。
自分の感じたことを、気兼ねせずに話す人だ。
正直、うらやましいと思う。
よほど人に嫌われない自信があるか、嫌われてもいいという勇気があるのだろう。
私には、どちらもない。
だから嘘をつくしかない。
なんだかそれもしんどくて、黙っていたくなる。
でも、沈黙も気まずくて、どうすればいいのか分からない。
「……すみません、僕ばかりしゃべってて」
「……」
「えっと……静かにしてた方がいいですかね?」
「……その……のどの調子が、悪くて……
だから、相づちしか打てなくて……ごめんなさい」
「あ、そうなんですね!
よかったぁ、嫌われたのかと思いました」
また嘘をついてしまった。
その嘘を信じた彼に、申し訳ない気持ちになる。
うつむいていると、彼はごそごそとポケットを探り、私に何かを差し出した。
「どうぞ。アメです」
受け取った私が、呆けたように彼を見ると、彼が笑ったような気配がする。
暗くてよく見えないけれど。
「たまたま持っててよかった。
今度はトローチ持ってきますね」
はつらつとそう続ける彼に、罪悪感が許容量を超えた。
「……ごめんなさい……その……違うんです。
嘘つきました。ごめんなさい。
のどは痛くないんです」
「え?」
彼は戸惑っている。無理もない。
私はあきらめて、謝罪のつもりで説明する。
「……私……本当は、人と話すのが、怖くて……
しゃべったら、嫌われる気がして……」
「えっ?」
「だから、その……相づちくらいしか、できないけど……藤見さんにしゃべっててもらった方が……ありがたいです」
「ええっ」
彼はひたすら驚いている。
私も、話していて自分の情けなさに驚いている。
まともに人と話ができないと宣言するなんて、私はやっぱり人間未満の存在だ。
しばらく絶句していた彼は、やがて考えを巡らせるように「あー」と声を出した。
ドン引きしているのだろう。
もう帰ろうかな。
「……しゃべるのが苦手なんだ?
僕は話すの好きだけど、人間だもん、緊張しちゃうことだってあるよね。
大丈夫。話したいことだけ、話せばいいよ」
とん、と、私の気にしていたこと全てを霧散させるような言葉に、私は驚愕する。
驚きのあまり、なんと返せばいいのかも分からなくて、私はつい謝った。
「……ごめんなさい」
「謝ることないのに。
僕はそんなに怖くないよ。
うるさいとは言われるけどね」
彼はそう言って、笑った。
自分の弱さを、人を慰めるために、笑って口にできる彼は、なんて強いのだろう。
まるで太陽のような人だ。
どの角度から見ても、やましいところのない、正直な人。
全部を嘘で塗り固めた私とは、正反対だ。
「でもよかった、うざがられたかと思ってさ。
なんだ、口下手なだけだったんだね……あ、ごめん、ちょっと怖かったんだよね。
そりゃそうか。
会って2日目だもん。
当たり前だよね」
「……うん……でも……もうそんなに、怖くない、かも」
「本当!?」
「……うん」
嬉しそうな彼の声に、つい、微笑んでしまう。
もう少し話をしたくて、私は勇気を振り絞って、声を出す。
「……ねえ、星のこと、教えてよ」
「えっ?」
「好きなんでしょ、星」
「あー……まあね。
夏の大三角とか」
「どれ?」
「ここから見て、明るい星ベスト3をつなげたような星座。
あれと、あの辺と、ちょっと下に行ったところのあれ」
彼と星空を見上げ、同じ星を探す。
「ひときわ明るい、あの星?」
「うん、それそれ」
私と彼は全然違うけれど。
それでも、同じものを見ていられるのが、嬉しい。
「私、きっとまた、空を見るよ。
今度の夜が明けたら、月曜だから……
しばらくここには、来られないけど……
夏の大三角、忘れないように、また探すよ」
「うん。
また、一緒に見よう」
彼はうなずいた。
私は、夜空の3つの星を、じっと眺めて、心に刻んだ。
夜が明けて、私は再び、両親の家へ向かった。
祖母の家には戻りたくなかった。
ドアホンを鳴らす。
もうここの住人ではないのだから、当然の礼儀だ。
ドアホンで呼び出された母は、玄関扉を開けて、苦笑いする。
「わざわざ押さなくてもいいのに」
「でも、急に来たら驚くでしょ」
「驚くけど、気にしないよ、家族だから」
まだ家族だと思っていることに、私は驚く。
もう祖母の養子になった扱いかと思っていた。
居間へ行くと、父がいた。
妹は出かけているのか、姿が見えない。
隣にいた母が、私に声をかける。
「あのね、昨日のこと、お父さんにも話したんだけど」
昨日?と思って、思い出す。
ネコのエサの話だろうか。
母から視線を受けて、父が話し出す。
「深月。
おばあちゃんとうまくいってないのなら、家に戻ってきてもいいんだよ」
空気が、一気に深刻になる。
いきなり同居解消の話になるとは思わなかった。
だって、ネコのエサなんて、今までの祖母の言動を考えたら、別に取り立てて言うほどのことでもない。
いつものことだ。
私が驚いて、何も言えずにいると、父は続ける。
「一緒に暮らすだけが家族じゃない。
だから、深月もおばあちゃんも、互いに無理をしているなら、離れた方がいいんじゃないかと思う」
互いに、という言葉で、私は悟る。
私が母に電話したように、祖母も父へ電話して、私の愚痴を言っていたのだろう。
「……おばあちゃんは……何か言ってるの?」
父はため息をつく。
「昨日、『深月が帰宅してもご飯を食べない』と、泣きながら電話してきた。
お父さんからも謝ったんだが、おばあちゃんも興奮していて、いろんな不満は言っていた。
努力が報われないと。
でも、深月のことが嫌いになったわけじゃないよ。
責めていたのはお母さんのことだ」
どうやら、いつも私に泣き叫んでいた内容を、父にもそのまま言ったらしい。
いつもはあっけらかんとしている母は、両手をお腹の前で握りしめて、うつむく。
「お母さん、おばあちゃんの家に行って、直接、おばあちゃんに謝ろうかと思ったんだけど。
それはお父さんに止められて」
行かなくて正解だったと思う。
祖母が母を責めたのは、完全な八つ当たりだ。
孫を嫌っている自分を認めたくなくて、よそ者の嫁のしつけのせいにしたかっただけだ。
そんなのに、母が付き合う必要はない。
……悪いのは、私だ。
祖母とうまくやれなかった、私が悪いのだ。
父が再び、口を開く。
「深月が望むなら、お父さんがおばあちゃんに、住む家を変えることを話そうと思う。
どうかな」
聞かれるが、私はまだ、戸惑いの方が大きい。
それに、同居をやめるか否かは、私だけの意思で決められることではない気がした。
大事なのは、祖母の意向だ。
父に尋ねる。
「……おばあちゃんは、私と別々に暮らしたいって、思ってるの?」
すると父は、顔を曇らせる。
「それも一応、聞いてはみたんだが……
おばあちゃんは、『いや、それは……』って。
それ以上は何も言わなかった」
たぶん、祖母も、いきなりの別居の提案に戸惑ったのだろう。
父に愚痴を言って、謝らせ、父から私をしかってもらい、私にも謝らせ、心を入れ換えた私と、今度こそ素敵な接待ライフを過ごしたかったのだ。
私は笑顔を作る。
「それなら、私は同居を続けるよ。
心配かけてごめんね。
お母さんも、私のせいで怒られちゃって、ごめん。
私の努力が足りなかったから、いけないの。
おばあちゃんにも、つらい思いをさせちゃった。
帰ったら謝るね。
今度はもっとうまくやるよ。
だから、大丈夫」
父と母が、一斉に、心配そうな顔でのぞきこんでくる。
私は、たいしたことなさそうに、笑ってひらひらと手を振る。
「今朝も、私がこうして来ちゃったから、余計心配したでしょ。
ごめんね。
でも大丈夫、今からおばあちゃんのところへ行くよ。
おばあちゃんの心配していたご飯だって、その電話の後だと思うけど、ちゃんと食べたよ。
ご飯を10合以上と、大鍋いっぱいの味噌汁と、たくあんを大根1本分、梅干し10個、納豆3パック、牛乳1リットル、ネコが食べ散らかした焼き魚、ゴキブリとハエのたかった肉野菜炒め、髪の毛の入った筑前煮、あと、ええと、カビの生えた酢の物、茹でとうもろこしが5本、だったかな、とにかく全部食べたよ。
だから大丈夫。
心配ないよ」
父と母は、なおさら深刻そうな顔になった。
母が、ぼそぼそと父に言う。
「ねえ、やっぱり、私が行って謝った方がいいんじゃない?」
「いや、それはいい。
じゃあ、深月、お父さんも一緒に、おばあちゃんに会いに行くよ。
僕も、おばあちゃんと会って、話をしたいから。
いいかな」
父に問われて、私は口を開く。
「……それは……構わないけど……」
でも、きっと、父にとって心地いい話には、ならないのではないだろうか。
それでも行くのは、きっと私のためだ。
申し訳ない気持ちになる。
私がきちんと、私の心を殺さなかったから。
反抗的な態度が漏れ出てしまったから。
祖母の気に入る子にならなかったから。
父にまで、迷惑をかけてしまった。
父は、「じゃあ、行こう」と言って、財布と車の鍵を持ち、玄関へ向かう。
「車を出すから、自転車はトランクに乗せて」
言われるがまま、私はうなずく。
……大変なことになってしまった。
祖母の家に入ると、居間から嗚咽が聞こえた。
どんぶりの下のメモにあった、「涙が止まりません」だろうか。
本当なのか、演出なのか、疑ってしまう自分がいて、私は息を止める。
うまくやらなきゃ。祖母の気に入らない子は殺さなきゃ。
父が「ただいま」と言うと、居間から、手ぬぐいで目頭を押さえた祖母が出てきた。
泣いているのを隠そうともしない。
父が祖母に声をかける。
「久し振り。ちょっと話がしたいなと思って」
「そうお?」
独特の間延びした聞き方をして、祖母は父を居間へ招き入れる。
私もついていった。
祖母はいすに座り、父にもいすをすすめる。
私は立っていた。謝る立場だからだ。
「おばあちゃん、ごめんね。
私のために、一生懸命、ご飯を作ってくれて、私のために、いろいろ気を遣って、心配もしてくれたのに、私、おばあちゃんの優しさを踏みにじっていたね。
本当にごめんなさい」
私は深々と頭を下げる。
祖母は、手ぬぐいを膝へ置き、言った。
「そうよ。本当にそう」
そうでしょうとも、という口ぶりだった。
「お母さん、深月が迷惑かけてごめん。
だいぶ負担をかけてしまっていると思うけど」
「そうよ。
電話でも言ったけど、他にもあるの」
それから祖母は、涙ながらに私の犯した鬼の所業をまくし立てた。
多大な誤解と記憶違い、妄想も混じっていたけれど、私は頭を下げたまま、一切の言い訳をせずに聞いていた。
こうしてサンドバッグにするのが、祖母の望みだから。
「……でも、そんな子になったのも、あの嫁のせいよね」
母の悪口に話が移る。
母のことは、どんなに責め立てても構わないと思っているらしい。
自分の子どものせいで、結婚相手を悪く言われて、父はどんな気持ちだろうか。
こんなに貶められるなんて、母に申し訳ない。
母は、お人好しで流されやすいけど、いい人だ。いい人だと、思う。
やめて。
お母さんは、そんなひどい人じゃない。
気付くと、涙がぼろぼろ流れていた。
のどが熱くひりつく。
体が震えそうで、必死にこぶしを握りしめる。
「そうよねえ、あの女が悪いのよ、結局のところ。
だから、あんた達は悪くないって、分かってはいるんだけど」
一時間ほど話して、全然嬉しくないどころか傷付くだけの責任転嫁の言葉と共に、祖母が一息つく。
父は再び頭を下げた。
「うん、分かった、ごめん。
じゃあ、ここからは2人で話そう。
深月はもういいよ」
父にとりなされ、私はようやく顔を上げる。
涙でぐちゃぐちゃの私の顔を見て、祖母は、満足げににんまりと笑う。きっと、反省の涙だと思ったのだろう。
母を思って流した涙だとは、微塵も考えていないらしい。
「そうねえ、じゃあ、2人で話そうかねえ」
祖母は泣いているが、心なしか嬉しそうだ。
私は踵を返し、居間を出た。
自室へ戻る。
……私のせいだ。
……やっぱり、全部、私のせいだった。
携帯を出して、母へ電話する。
気をもんでいるだろうから、報告をしてあげないといけない。
「もしもし、お母さん?
うん、ちゃんと謝れたよ。
今、お父さんと話してる。
うん……うん。
いいよ、やっぱりお母さんは来なくてよかったと思うよ。
そしたら止まらなかったと思うから。
ごめんね、悪者にしちゃって。
ごめんね。ごめんね……。
うん、大丈夫だよ。
全然大丈夫。
うん、がんばる。
そうだね、そうする。
うん、分かった、ありがとう」
電話を切る。
疲れた。
まだ相手をしている父には悪いと思ったが、居間から響く声がしんどくて、私はベッドで眠りについた。
それから数日間。
祖母は機嫌がよかった。
ため込んでいた愚痴を吐き出すことで、多少なりとも気が済んだのだろう。
私は笑顔を貼り付けて、「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」を繰り返している。
それにしても。
祖母は、あんなに母の悪口を言ったのに、本気で私に好かれると思っているのだろうか。
でも、私も私だ。
あんなに母をけなした人に、こびへつらうなんて。
人としてどうかと思う。
まあ、人格を死なせたからしょうがないんだけど。
下校途中の夜空で、星の大三角を探すことだけが楽しみだった。
その時だけは、祖母のことを考えずに済んだ。
ふと、彼の言葉が、脳裏によみがえる。
『ずっと見てると、見える星、増えていくじゃないですか』
自転車をこぐのを止めて、夜空を見つめる。
虚空と思っていた漆黒の中に、小さな白い点が、1つ、……2つ。
彼が隣にいる気分で、探し続ける。
『それがなんだか、嬉しいんです。
寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって』
もし、自分が、星なら。
周りにいる誰か、は、彼のことだと思う。
私のために謝ってくれた親も、その誰か、の一人かもしれない。
待ちに待った、金曜日。
朝食を済ませ、学校へ出かける直前に、私は震える声で祖母に切り出した。
「あのね、大好きなおばあちゃん。
今度、部活の合宿があるの。
学校の中に合宿所があってさ、土曜の早朝から寝泊まりして、みっちり練習するの。
大好きなおばあちゃんと離れるのは寂しいけど、部活で良い成績を収められるように、私、がんばるね。
日曜の夕飯までには帰るよ。
ねえ、だから、行ってもいーい?」
精一杯、甘えた声を出す。
「そうなのお、そりゃ残念だわあ。
まったく、深月ちゃんはしょうがないねえ。
いいよ。行ってきなさい」
「わあい、おばあちゃん大好き、ありがとう」
許可と命令が出た。
祖母の気が変わる前に、一目散に家を出た。
これで。
金曜の深夜から、展望台に行ける。
祖父母が寝静まった、金曜の夜。
私は展望台へ向かう。
2階へ上ると、そこには先週と同じように、藤見さんがいた。
「こんばんは」
嬉しくてあいさつすると、彼も、こんばんは、と返してくれた。
声が笑っている。嬉しい。
彼が口を開く。
「今日は、北極星を見つけようと思って」
「北極星?」
「見つけられれば、道に迷わなくて済むでしょ」
「……そうだね」
今時、方角だけを頼りに目的地へたどり着けるのかは分からないが、そういう発想は好きだ。
迷子は寂しい。
どこが正解か分からない虚空に、道しるべがあれば心強い。
彼は窓辺から身を乗り出す。
「ええと、まずは、北斗七星を探して……」
私も、隣で身を乗り出す。
「北斗七星って、ひしゃくの形の?」
「そうそう、よく知ってるね。
……うーん、どこかなぁ」
私も目をこらすが、あまりピンと来る並びの星がない。
懸命に空をにらむ彼に、話しかける。
「……外に出た方が、見えるかもよ。
ここからじゃ、後ろ側の空が見えないから」
「確かに!」
彼は、思い付かなかったという様子で叫び、私を見る。
「じゃあ、外に出てみよう!
……足元に気を付けて……」
そろそろと移動する彼の後について、私も外へ出る。
窓から見た時より、ずっと広い夜空が広がる。
見える星も4倍以上に増えた。
「……広いねえ」
「そうだね。知らなかったな」
思わずつぶやいた言葉に、同意してもらえて、少し心が弾む。
彼が声をあげた。
「あ、……あれ、北斗七星じゃないかな」
「え、どこどこ?」
「あの辺……ほら、柄がこっち側で、水をすくうところが、こう」
彼の指さす先を見つめる。
「ああ……あれかな?」
「分かった?」
「うん。でも……空のあんな高いところに、ひしゃくが浮かんでるなんて、なんか、不思議な感じ」
「確かにね。
……日本ではひしゃくだけど、西洋では、熊のしっぽなんだって」
彼は言う。
「おおぐま座とこぐま座っていうのがあって。
ギリシャ神話では、この2つは親子なんだ。
ある日、母親が熊の姿になってしまって。
息子に駆け寄った母親を、息子は熊だと思って射殺そうとしたんだ。
このままではいけないと、神様が2人を掴んで、空に放りあげて星座にしたんだって」
「……へえ」
どこかで聞いたような話に、私の心がこわばる。
愛情ゆえに近付く祖母と、それが怖くて反抗する孫。
「……藤見さんはさ……」
「ん?」
「もし、息子が、射殺そうとしなかったら。
ただ待ち構えていたら。
母熊は本当に、息子に駆け寄るだけで済んだと思う?
勢い余って、踏みつぶしたりしちゃったんじゃないかな」
「……うーん」
彼はしばらく考えて、口を開く。
「おおぐま座と比べると、こぐま座って、ほんと小さくて。
北斗七星よりも、小さいんだ。
だから……
確かに、つぶしちゃうかもしれない。
息子が射殺そうとしなかったら、神様も、気付かずに放っていたかもしれないし。
……でも、どうして、そんなこと聞くの?」
どうしよう。
なんて答えればいいだろう。
何か。
彼が安心できるような嘘を。
「……嘘は言わなくていいよ。
嘘をつかれるくらいなら、ドン引きの事実の方が、まだマシだから」
「……」
私は観念した。
「……好きすぎて、暴走しちゃう人って、いるじゃない。
そういう人が、身内にいて。
好いてくれてるんだから、我慢しなきゃいけないと思うんだけど、時々、無性に、逃げたくなる。
……今みたいに」
「……そうなんだ」
しばらく考えて、彼はつぶやく。
「……おおぐま座とこぐま座は、背中合わせで、逆方向を向いている。
だから、もう、衝突することはないよ。
同じ空にいるから、寂しくもない」
「距離感の問題ってこと?」
「少なくとも、おおぐま座とこぐま座は、今はそういう状態だよ」
「……そっか」
彼なりに、気を遣ってくれたのかもしれない。
下手に、私が我慢すればいいとか、その身内が悪いとか、断じることもできないが、それでも私に寄り添ってくれた。
子熊はもう、踏みつぶされない。
私は顔を上げて、ささやく。
「……北斗七星」
「うん」
「見つかったから、北極星を探せるね。
どうやるのか、教えて」
「ええと、確か……」
彼が天を指差す。
はるか彼方の星をなぞるように。
遠いけれど確かな、道しるべを探す。
「ひしゃくの、柄じゃなくて、すくう方の……端っこの星と、端から2番目の星。
それを5倍伸ばしたところにあるんだって」
彼の言葉に合わせて、視線を北斗七星の先へ動かす。
確かにそこに、それほど明るくはないものの、星が浮かんでいる。
「……あれかな」
「うん、きっとあれだよ」
「ずっと北にあるの?」
「うん、ずっと」
「じゃあ、いつでも会えるね」
「うん、いつでも」
私はほっと胸をなでおろす。
この宇宙で、揺るぎないものを、見つけられた気がして。
「藤見さん、ありがとう」
「どういたしまして」
いつもより、少しだけ明るい夜空の下で。
彼の笑顔が、うっすらと見えた。
合宿の嘘をいいことに、私は両親の家で日中を過ごし、日暮れが近くなると展望台へ向かった。
『……おおぐま座とこぐま座は、背中合わせで、逆方向を向いている。
だから、もう、衝突することはないよ』
私と祖母も。
本当は、離れた方がお互いのためなのだろうか。
展望台で、ぼんやりと暮れなずむ空をながめる。
今日は、藤見さんは来ていなかった。
日が落ち始めると、淡く明るい水色だった空は、黒と朱の墨を流したようにじんわりと色を変え、名残惜しむような輝きを残して、闇に沈んでいく。
夕闇に少しずつ、星が現れ始めた。
彼はまだ来ないのだろうか?
窓から身を乗り出すような気分にもなれなくて、私はなんとなく、彼のことを考える。
彼は、とても優しい人だ。
いつも機嫌がよさそうで、それもうらやましい。
……そういう家族のもとで育ったのだろうか?
彼のような性格なら、きっと友達も多いのだろう。
何もかもが、私とは正反対だ。
それでも、彼と共にいると、ほんの少しだけ、私も生きているような心地がする。
やっと、心から笑って話ができるようになった。
彼は太陽だ。
その光に当たりたくて、私は彼の周りを回っている。
そうやって、彼の輪の中に入れてもらったような気分になる。
……早く来ないかな。
もしかしたら、今日は来ないのだろうか。
そうだとしたら、少し、寂しい。
星も見たいけれど、どちらかと言うと、彼に会いたいという気持ちの方が、強くなっていた。
でも、来ないのなら仕方がない。
私はそっと、窓から星を見上げる。
隣に彼がいるつもりになって、窓の右端から顔を出す。
すると、たん、たんと階段を踏む音が背後から響いてきた。
……誰だろう。
もし、通りがかりの散歩の人だったら。
どんな顔をすればいいか分からなくて、振り返ることもできずに、窓枠を握りしめる。
どうか、何も気にせず、立ち去ってくれますように。
「……あっ、こんばんは!
今日は早いんですね」
後ろから、藤見さんの聞き慣れた声がする。
心底ほっとして、私は振り返った。
「こんばんは、藤見さん」
「いつからいたの?」
「ついさっき……じゃなくて……1時間くらい前から」
つい、嘘をつきそうになって、私は慌てて訂正する。
どうでもいいことですら嘘をついてしまうのは、きっと、考えることに慣れていないからだ。
家では、何も考えずに、「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」を繰り返すだけだから。
つきかけた嘘を気にする様子もなく、彼は窓辺へ来て、私の隣に座る。
「ごめんね、ちょっと勉強してたら、時間かかっちゃって」
「そんな、気にしないで。
私だって、先週はすごく遅い時間に来たし」
言いながら、ふと思う。
もしかしたら、先週、私が来るまでの間、彼もまた、寂しい思いをしていたのだろうか。
ただの思い上がりかもしれない。私なんかを待つなんてせず、楽しく星を眺めていたかもしれない。
それなら良いと思う。
彼に孤独な思いはしてほしくない。
でも同時に、心待ちにしていてくれたのなら、嬉しいとも思う。
「化学の参考書を開いてたらさ、原子ってあるじゃん?
あの絵が、惑星みたく見えて、見入っちゃったんだ」
彼の言葉に、1年生の時に習った、化学の教科書を思い出そうとする。
「原子の絵って、あの……原子核の周りを、電子がくるくる回ってるやつ?」
「そう、それ。
まるで、地球の周りを月が回っていたり、太陽の周りを地球が回っていたりするみたいだなって」
確かに、似ているかもしれない。
私は想像する。
「それじゃ、私たち、原子の1つに住んでるのかもね」
彼は笑う。
「そしたら宇宙って、想像よりものすごく広いのかもしれないなぁ」
光る星々。
自分はきっと、その広大な世界を形作る、ほんの小さな点の1つなのだろう。
「……もしそうなら、この悩みも、化学反応で片付けられたらいいのに」
電子が原子核を離れて、別の原子核へ移るように。
私も、両親の家と祖父母の家を、行ったり来たりしている。
電子が離れても、原子核が怒らなければいいのに。
星は静かに瞬いている。
こんな風に、心静かにいられたらいい。
「……悩みって、昨日の?」
彼に問われて、私はうなずく。
「おおぐま座とこぐま座の話でいうと、私は子どもで……駆け寄る母熊に、矢を射かけることができないの。
神話と違って、私には、その熊が身内だって分かってるから。
でも、このままじゃ、踏みつぶされるから……もう、つぶれてるかもしれないけど……どうしようか、迷ってる」
「……そっか……」
彼はしばらく考えて、迷うように口にする。
「本当は、どうしたいの?」
本当は。
彼のように、素直に本当を口にできたら、どんなにいいだろう。
「私は……逃げたい。
見つからないように、会うことのないように、そこから逃げて隠れたい。
でも、それじゃ、母熊がかわいそうでしょ?」
「それで君がつぶれたら、それこそ母熊がかわいそうじゃないかな」
「大丈夫、人を踏むのが好きな人だから」
「それは……一刻も早く逃げるべきだと思うよ」
彼の言葉に、私は目を丸くする。
「どうして?
踏まれて母熊を満足させるのも、子どもの役目じゃないの?」
「そんな役目はないよ。
健康で幸せに生きることが、子どもの役目だよ。
親の犠牲になるのは違うよ」
そう断言する彼は、やはり恵まれた家庭で育ったのだろう。
「まあ、親じゃなくて祖母だけど……」
「言わせてもらうけど、ちょっと視野がせまいんじゃないかな。
たとえその母熊が、踏むのを望んでいたとしても、そんなのはやっていいことじゃない。
母熊以外は、誰もそんなこと望んでない。
僕が神様なら、即行で2人を引き離すよ」
怒ったような口ぶりに、私は黙り込む。
やっぱり、本音を言うと摩擦も生まれる。
彼との関係を悪くしたくはないのに。
「でも……、でも、それをして、嫌われるのはあなたじゃないでしょ?
親を産んでくれた祖母から嫌われる気持ちが、あなたに分かる?
産まれてこなければよかったって、毎日鏡に向かって呪う気持ちが分かる?
もう……こんなことになるなら……
……何も、言わなければ、よかった……」
本当にそう思う。
もう終わりだ。
親身に相談に乗ってくれて、私のために怒ってくれたのに、愚痴をぶつけて怒ってしまった。
一番大切にしたかった人を、傷付けた。
「……ごめんなさい。
せっかく、私のために言ってくれたのに……」
私の剣幕に気圧されたように、彼は黙っている。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「うん……ちょっと……びっくりした。
あんまり、怒鳴られたこと……なかったから」
「……ごめん」
「……ちょっと、星見て落ち着こうか」
「……うん」
「アメ食べる……?」
「……うん」
彼から手渡されたアメの包みを破いて、中身を口に放る。
丸く滑らかな甘いかたまり。
たぶん私は、優しい彼に甘えていたのだろう。
星を見る。
心が落ち着いていく。
冷静に、状況を振り返ってみる。
「……確かに、視野がせまかったかも。
嫌われるか、嫌われないか……そんなことばっかり気にしてた。
祖母なんて、この広い世界の……ほんの一粒でしかないのにね。
……離れたら……楽になれるのかなぁ……」
同居を解消したら。
祖母は、私の悪評を周囲に撒き散らすだろう。
親族に、近所の人に、ろくでもない孫に冷たくされた哀れな慈母を演じてみせるだろう。
でも、それも、今後一生会わないのなら、たいした問題ではないのかもしれない。
「私……逃げることを考えてみるよ。
すぐには、決断できないかもしれないけど……
……もう、こんな状態は嫌だから」
彼の様子をうかがってみる。
「それがいいと思うよ」
静かに答える彼に、私は落ち込む。
きっと、怒鳴った方の何倍も、怒鳴られた方はつらかったに違いない。
いつも、祖母にわめかれていたから分かる。
「ほんとに……ごめんなさい」
謝る私に、彼はため息をつく。
「まあでも、本音が聞けてよかったよ。
時々、すごくしんどそうに見えたから」
優しい彼の言葉に、私は涙が出そうになる。
なんでこんなに、思いやってくれるのだろう。
「ほら、元気だして。
確かにびっくりしたけど、そうやって何かにぶつけたいこともあるって、分かってるからさ。
だから大丈夫。
それより僕、君と楽しく過ごしたいな」
楽しく過ごす。
それはとても、素敵なことに思えた。
「……でも……本当に楽しく過ごせる?
いきなりかんしゃくを起こすような人と?」
「それはまあ、いきなり怒るのはやめてほしいけどさ」
「うん。大丈夫。もう怒らないよ」
「ならいいよ。
ほら、今日は月もきれいだよ。
うさぎ、餅ついてるかなあ」
彼は話題を変えて、私を和ませようとしてくれた。
そのまま、他愛のないことを話す。
星を見ながら、穏やかな気持ちで。
遠い宇宙を見据えると、悩みが薄まる心地がする。
帰り際に、私は彼へ声をかける。
どうしてもお礼を言いたくて。
「……藤見さん、ありがとう。
私の悩みを聞いてくれて。
でも……怒鳴ってごめんね」
私の謝罪に、彼はううん、と首を振る。
「吐き出して、元気になれたならよかった。
実はずっと、心配してたんだ。
……だから、今日、君と話したこと、後悔してないよ」
裏表のない彼に言われると、心が落ち着いていくのが分かる。
「ありがとう、藤見さん。
……ありがとう」
「それじゃ、また来週」
陽気に手を振る彼と別れて、私は自転車に乗った。
来週が楽しみなのと同時に、明日からの祖母との日々が、怖くてたまらなかった。
『逃げることを考えてみる』なんて言ってしまったけれど、それを本当に実行できるだろうか。
彼と見た星を思い出す。
道しるべの北極星。
どうか私に、勇気をください。
夏休みが近付いている。
逃げるなら、そのタイミングだ。
でも。
本当に逃げてしまっていいのか、という迷いも、ないわけではない。
……もう少し我慢すれば。
もう少しうまくやれば。
祖母も両親も藤見さんも、皆が納得できる幸せな家族になれるんじゃないか。
……もっとがんばれと励ます声は、心の中で響き続けている。
一方で、感情のままに藤見さんに怒ってしまったことも、反省している。
本音を話せる場所が少なすぎて、ため込んだ感情が、全部彼に向かってしまった。
そういう点では、祖母と離れて、少しでも嘘をつかなくて済む環境に行った方がいい。
その2つの意見の間で、私の心はフラフラしていた。
今のところ、祖母の機嫌のよさは続いている。
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」と、週末の合宿の嘘のおかげだと思う。
もしかしたら。
このまま上手くやれるかもしれない。
祖母の気に入る孫を装い続けていれば、祖母は満足する。
今は大変だけど、本音と建前のギャップにも、そのうち慣れるかもしれない。
週末には藤見さんに「祖母と上手くやれるようになったよ。もう大丈夫。騒いでごめんね」と、笑って報告できるようになるかもしれない。
そんな淡い期待が、私の胸を占拠しつつあった。
そんな、木曜日の夕方。
私が帰宅すると、いつもなら居間でテレビを眺めている祖父がいない。
……どうしたのだろう。
そっと、祖父の寝室の方へ足を忍ばせて行く。
祖父の寝室は、障子で仕切られた縁側の一角だ。
そこから、祖父の唸り声が聞こえた。
「……おじいちゃん?」
「うう、うう」
「大丈夫?体調悪いの?」
「うー、んん」
埒があかない。
「……開けるよ?」
「ううう」
特に否定もされなかったので、3センチくらい、障子を開けて、様子を見る。
祖父は、布団をかぶって寝ていた。
布団からのぞく顔が赤い、というより、顔に赤い斑点が見える。
手には力がなく、うなされるように唸っている。
きっと病気だ。
病院に行くには、祖母の許可と命令がいる。
第一、この田舎では、車がなければ病院まで連れていくこともできない。
祖母の協力なしには受診は不可能。
私が祖母の姿を探すと、居間で本を読んでいた。
祖母の好きな、歴史物の読み古された雑誌だ。
「大好きなおばあちゃん、ただいま。
私は今日も元気にがんばってきたよ……
……」
「ああ、おかえり」
いつもの定型文のあいさつをすると、祖母は満面の笑みで迎える。
祖父のこと、気付いていないのだろうか。
「お腹空いたでしょう、夕飯、たくさんあるからね。
全部食べなさい」
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き……
……」
いつもの流れに乗せられる。
完食前に口をはさむと、きっと祖母は機嫌を悪くする。
食べたくないからってごまかすなとか、どうせあんたはおばあちゃんのことが嫌いなんだとか、そうやって泣きわめき始めたら、病院どころではなくなる。
こうなったら、なるべく早く食べ終わるしかない。
が、こんな日に限って、祖母は料理の砂糖と塩を間違えていた。
塩の味しかしない、というより、もはや胃を痛める劇物としか思えない。
もしかしたら、祖父の体調不良の原因は、これではないかと疑いたくなるレベルだ。
……祖母は、これを自分で食べて、おかしいとは思わなかったのだろうか?
私は早々にジョッキの牛乳を飲み干す。
さらに水を飲むために、ジョッキを持って流し台へ向かった。
ふと、シンクを見ると、2人分の食器が置いてある。
……片方にだけ、おかずが山盛りよそわれた跡があった。
きっと、と、私は思う。
一口食べて異変に気付いた祖母は、残りを全て祖父に押しつけたのだろう。
『おじいちゃん、このおかず、おいしいでしょう。私の分もあげる』
とでも言えば、祖父はいつもの
『ああ、分かった』
で平らげるしかない。
そもそも、祖父は生活能力が低いというか、祖母が着替えを用意して「着替えなさい」と言わなければ着替えないし、祖母が風呂を沸かして「入りなさい」と言わなければ、たとえ泥だらけでも風呂に入らないし、祖母が食事をよそって箸を用意し「食べなさい」と言わなければ、何日でもものを食べない人だ。
逆に言えば、命令されれば、なんでもする。
いつだったか、私の買ったおもちゃのパンや芳香剤を、祖母が間違えて祖父のおやつに出したことがあった。
祖父が半分ほど食べたところで、パッケージの文字に気付いた祖母があわてて取り上げたらしいが、おそらく取り上げられなければ、完食していただろう。
……きっと、私が祖父の立場でも、同じことをするから。
今となっては、祖父の能力の低さが、生来のものなのか、祖母のために全てを諦めた結果なのか、それすら判然としない。
塩分で血圧が上がるのをひしひしと感じる。
頭の血管が熱を持ち、傷付いて、悲鳴をあげているのが分かる。
もう少し。
もう少しで食べ終わる。
私がラストスパートをかけようとしたところで、祖母は雑誌を置いて立ち上がった。
読み終わったらしい。
「じゃあ、おばあちゃん先に寝るわね。
ちゃんとお風呂に入って、歯をみがいて寝なさい」
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き……
……あの……このご飯もすごくおいしくて……
その……おばあちゃんのおかげだね……」
違う。
言わなきゃいけないことは他にある。
なのに、祖母の目に射貫かれると、いつもの上っ面の言葉しか出てこない。
「そうでしょう?また作ってあげる。
おやすみなさい」
祖母は部屋を出てしまった。
どうしよう。
今から追いかける?
でも、食事を残して席を立つなんて、きっと祖母はかんしゃくを起こす。
下手をすると、『せっかく作ってあげたのに、私の料理のせいで病気になったって言うの?』なんて言われて、受診が絶望的になる。
どうしよう。
助けて。
助けて、藤見さん。
『ちょっと視野がせまいと思うよ』
『寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって』
そうだ。
この世界は、家庭だけで世界が完結しているわけじゃない。
もっと外は広くて、何もないと思っていた場所にも、星はある。
私はスマホを手に取る。
すがるように、母の連絡先を選んだ。
コール音が何度も繰り返され、やがて、声が聞こえた。
『もしもし?』
「もしもし、私、深月。
今、電話、大丈夫?」
『いいけど、どうしたの?』
祖母に聞かれないよう、小声で話す。
「あのね、おじいちゃんがね、体調悪そうで。
学校から帰ったら、布団かぶって唸ってるの。
顔に赤い斑点があって。
苦しそうで。
どうしよう」
『そうなの。それは困ったね。
どうしようか。救急車を呼んだ方がよさそう?
おばあちゃんは何て言ってるの?』
「救急車……、分からない。そんなに重症なのかな。どうしよう。
おばあちゃん、もう寝室に行っちゃった。
起こした方がいいかな」
『うーん……ちょっと待って。
おじいちゃんと電話、代われる?』
私は忍び足で、祖父の寝室へ向かう。
「おじいちゃん、ごめん、お母さんと電話がつながってるの。
体調悪そうだから、心配で」
祖父の耳にスマホを押しつける。
祖父は、母の電話口の声に対して、なにやらモゴモゴ答え始めた。
「……ああ……久し振り。
ん……たいしたことはないよ。
ちいっと腹が痛くてね、熊の胆を飲んだんだ。
だから……うん、そう。
悪かったね……
うん。
深月、もういいよ」
祖父がまともに口をきくのを、ずいぶん久し振りに聞いた気がする。
前に聞いたのは、正月に伯父が帰ってきた時……だっただろうか。
あまり覚えていない。
伯父は県外で働き、盆暮れ正月も滅多に家へ寄り付かない。
幼い頃は、それが不思議だったけれど、今なら伯父の気持ちが分かる。
祖母に近寄りたくなかったのだろう。
帰ってくると、祖母は大量の料理を用意して食べさせ、息つく暇もなく喋り続け、自分と身内の自慢話で話題をおおい尽くそうとする。
祖父が口をはさむ余地は、ない。
きっと、祖父も。
祖母に自分の声を無視され続け、ほかに話し相手もなく、舌を腐らせて生きてきたのだろう。
私はスマホを自分の耳に戻す。
『もしもし、深月?』
「……うん。どう?」
『あのね、おじいちゃん、意識もしっかりしているし。
今は、救急車はいいと思う。
この時間じゃ、地元のお医者さんも閉まってるし、明日、調子がよくならなければ、受診したらどうかな』
「…………うん」
『深月も、心配だと思うけど。
明日、お父さんにも話して、様子を見に行くよ。
深月は、今日は休んだ方がいいよ』
「……本当に……大丈夫かな」
『うん、きっと大丈夫だよ。
何かあったら、また言ってね』
「……うん」
電話を切る。
「おじいちゃん、明日、お母さんかお父さんが、様子を見に来るかも。
調子悪かったら、病院に行こう」
「ん……いいよ、そんなにしなくても」
「……」
「ちいっとね、腹が痛いだけなんだ。
昼間のパンが、悪かったのかもしれないなあ」
夕飯はスルーなのだろうか。
どこまで本気で言っているのか、分からない。
「……おじいちゃん、私、あんまりおじいちゃんと話をしてなくてごめんね。
ちゃんと、一緒に、話をしていれば……
今回だって、もっと早く、気付けたのに」
一緒に暮らして、3年目になるのに、この体たらくだ。
私と祖父母の関係は、進展するどころか後退の一途を辿った。
それはきっと、誰も幸せにならなかった3年間だった。
祖父が、布団から顔を出す。
久し振りに、祖父の顔を見た。
「いいんだよ、深月」
祖父は、一切自己主張をしない。
祖父の在り方は、祖母に影響を受けた人の最終形態だ。
「……体調が悪くなったら、すぐ言ってね。
真夜中でもいいから」
私はそう言い残して、居間に戻った。
残りの食事を平らげ、食器を洗い、風呂に入り、風呂掃除をして、歯をみがく。
自分の寝室に向かう前に、祖父の寝室へ寄る。
障子の向こうから、寝息が聞こえた。
唸り声は聞こえない。
私は自分の寝室へ行く。
……これでいいのだろうか。
考えても、答えは出ない。
そのまま眠りについた。
翌朝。
私が居間に行くと、祖母はいるものの、祖父の姿はない。
「大好きなおばあちゃん、おはよう。
今日もおばあちゃんの、おいしいご飯を食べたいな……
……」
「おはよう、深月ちゃん。
用意してあるよ、いっぱい食べなさい」
いつもの定型文に乗せられる。
祖母はいつものように笑っている。
……本当に、気付いていないのだろうか?
食卓を見ると、いつもより量が多い。
遅刻しないで食べきれるだろうか。
祖母は満足げに笑いながら、どこかそそくさと、退室しようとする。
「じゃあ、おばあちゃん、畑に行ってくるわね。
水をあげないといけないから」
私を避けていると、直感的に思った。
私が口を開くのを、定型文以外のことを口にするのを恐れている。
それはいつものことだが、いつもよりも態度があからさまだ。
……本当は、祖父の体調不良に、気付いているんじゃないか?
なんとなく、そんな気がした。
昨日、無茶な夕飯を食べさせたことは、祖母も分かっているはずだ。
……「祖母のせいで体調を崩した」、その一言を、きっと、祖母は何より恐れている。
口を封じたところで、治るわけではないのに。
「……ねえ、大好きなおばあちゃん。
おじいちゃんは?」
私は笑顔で尋ねる。
祖母の笑顔が固まる。
「おじいちゃんねえ、まだ起きてこないの。
まったくお寝坊さんね。
困っちゃう」
薄ら笑いを浮かべて、祖母は答える。
私も薄ら笑いを浮かべた。
「もしかしたら、体調が悪いのかも。
様子を見た方がいいよ」
「ううん、たいしたことないのよ。
心配しなくて大丈夫。
おじいちゃんってば、昨日、床に落ちたパンを食べたのよ。
それでお腹を壊したんじゃないかしら。
嫌ぁねえ。
寝てれば治るわよ」
必死に取り繕おうとする。
自分の体面を。
祖父の体調よりも。
「笑いごとじゃないよ。
おじいちゃん、つらそうだったよ。
顔に赤い斑点が出るなんて、ただの食あたりじゃないよ」
つい。
正直な言葉が出る。
祖母の大嫌いな、否定の言葉が出る。
みるみるうちに、祖母の顔が醜く歪んだ。
くしゃくしゃな泣き顔。
「そんなに責めないで。
ひどい。
おばあちゃんは一生懸命やってるのよ。
おばあちゃんのせいにしないで。
おじいちゃんはつらくないのよ。
寝てるだけよ」
「誰も、おばあちゃんのせいだなんて言ってないよ。
お願いだから、病院に連れていってあげて。
おじいちゃんは運転できないから、誰かが連れていってあげないと。
それも早めに」
「やめて!
深月ちゃんは、すぐにそうやっておばあちゃんのせいにする!
いつもおばあちゃんを傷付ける!
おじいちゃんは、つらくないって、言ってるでしょ!
心配するなって言ったでしょ!
あなたは、いらないことを考えちゃダメ!」
だめだ。もうだめだ。
これは命に関わることだ。
祖母は祖父を踏み潰す。
誰かが矢を射かけない限り、止まらない。
「おじいちゃんがつらいかを決めるのは、おばあちゃんじゃない、おじいちゃんとお医者さんだよ!
私の考えることだって、私が決める!
私のことは嫌っていい、悪い子だと思うならそれでいい、好きにしていいから……
おじいちゃんのつらさを、勝手に決めないで、病院に連れていってあげて!」
祖母はわんわん泣き出した。
私は怒りに任せて、通学カバンを掴み、身支度を整えて、祖父の寝室へ行く。
祖父はまだ寝ている。
障子を細く開けて様子をうかがう。
顔の斑点は消えていない。
スマホの着信バイブが短く震える。
『お父さん、仕事を休んでそちらに行くそうです。
もう家を出ました』
母からのメッセージ。
玄関を出る。
もう、後は野となれ山となれだ。
私は自転車に飛び乗り、どきどきする鼓動をそのままに、学校へ向かった。
昼休みにスマホを確認すると、母から追加のメッセージが来ていた。
父はいまだにガラケーを使っているから、こうして母が代わりに報告してくる。
『お父さんが、おじいちゃんを病院に連れていきました。
検査の結果、数値に異常があって、しばらく入院することになったそうです。
命に別状はないそうです』
するとやはり、ただの食あたりではなかったのかもしれない。
祖父のことはなんとかなりそうで、私はとりあえず安心する。
祖母の様子は、また母に余計な心労をかけるだけなので、聞かないでおいた。
ただ、代わりにメッセージを送る。
『ありがとう』
『私がお母さん達の家に戻る話、まだ有効?』
昼休み終わりにもう一度見ると、返事が来ていた。
『いつでもいいよ』
私はため息をつく。
決意は固まりつつあった。
祖父の入院を理由に、部活を休んで早めに帰宅する。
家には祖母はおらず、父が祖父の寝室をごそごそと漁っていた。
「おかえり。
おばあちゃんは、おじいちゃんに付き添ってる。
お父さんは、おじいちゃんの入院に必要なものを持って、また病院に行くよ」
私はうなずいた。
深呼吸して、着替えの下着類を物色する父に声をかける。
「……あのね、お父さん」
「ん?」
「大変な時に、身勝手なことを言って悪いんだけど……。
私、やっぱり、お父さん達の家で暮らしたい」
すると父は手を止め、顔を上げた。
心なしか、安堵したようにも見える。
「そうか。
お父さんも、その方がいいと思う。
おばあちゃんも、おじいちゃんの入院の世話をしなきゃいけないし、学校も夏休みになる。
いい機会じゃないかな」
「……ありがとう」
「いつ、こっちへ来たい?」
「……できれば、今日にでも」
「じゃあ、取り急ぎ、今日明日必要なものを用意して、車に乗せて。
ほかのものは、おいおい取りに来ればいいから。
お父さん、この後、病院に行って、ちょっと時間がかかるかもしれない。
深月は、遠いけど、自転車で家に来てくれるかな」
「そうする。ごめんね」
いいよ、と言って、父は手提げ袋に衣類を詰め始める。
言い出してしまえば、驚くほどスムーズに話が進んだ。
私は自分の引っ越し準備のために、自室へ戻ろうとする。
と、父に声をかけられた。
「深月」
「?」
「おじいちゃんのこと、気付いてくれてありがとう。
病院の先生にも、こういうのは早めの受診が肝心だって言われたんだ。
我慢して手遅れになる人もいるんだって」
それは、病気の話かもしれないし、祖母との関係の話だったかもしれない。
「おばあちゃんと喧嘩してでも、おじいちゃんを助けようとしてくれた。
お母さんにも連絡してくれた。
それがなければ、きっと、誰も病気に気付かなかったと思う。
ありがとう」
私は首を横に振る。
……きっと、私だけじゃ、何もできなかった。
あの夜、彼と会ったから。
一緒に星空を見たひとときがあったから。
彼がかけてくれた言葉があったから。
だから、私は行動できた。
祖母に嫌われることを恐れず、話をすることができた。
「……じゃあ、30分後に出るから、深月もそれまでに荷物を積んで」
「……うん」
私は荷作りに取りかかった。
その夕方。
両親の家へ行き、引っ越すことを母や弟妹に報告した。
全員、「あっそう」とわりとあっさり了解した。
重かった肩の荷が、ようやく降りる。
私は母に告げた。
「夕飯の後、出かけたいところがあって。
夜遅くなるけど、気にしないで」
「どこ行くの?」
「天ヶ原の休憩所。天体観測」
「そんな趣味ができたのね。
夜道に気を付けなさいよ」
母は、あっさりと承諾した。
自転車を引いて、いつもの展望台に向かう。
坂を登りきって顔を上げると、前を歩く人影が見えた。
「……藤見さん!」
声をかけると、人影が振り返る。
「こんばんは!」
彼も明るく手を振ってくれた。
それがすごく、嬉しい。
私は自転車をガタガタいわせながら、彼のもとへ駆け寄る。
息を弾ませながら、声をかけた。
「今日は、同時に来られたね」
「うん!よかった。
待ってる間って、さびしいからね」
彼が笑顔で答える。
やっぱり、彼もさびしかったのか。
申し訳ないと同時に、ちょっぴり嬉しい。
「ごめんね。
これからは、この時間に来られると思う」
私が謝ると、彼は不思議そうに首をかしげる。
「祖母と……別々に暮らすことにしたの。
これからは、両親の家に住む。
だから、自由に出かけられるの」
彼はほっとしたように微笑んだ。
「そっか……逃げられたんだね。
よかった……」
「……藤見さんのおかげだよ。
藤見さんが、一緒に星を見てくれたから。
私の視野を広げてくれたから……
私は、逃げることができた」
彼は、にっこりと笑う。
太陽のような笑顔。
私の行く道を照らしてくれた光。
一緒に展望台へ歩く道すがら、彼が話し始める。
「……初めて会った時、君、すっかり怯えてたよね。
それが、だんだん明るくなってきたから、僕、嬉しかったんだ。
君の力になれたなら、よかった」
「うん。ありがとう」
私も笑顔を返す。
たぶん、他の人には見せたことのない表情をしていると思う。
2人で、展望台から星を眺める。
彼が口を開いた。
「……もうすぐ、夏休みだね」
「そうだね。私の学校、週明けに終業式したら夏休みだよ」
「僕のところも。
……でも、受験生だから、あまり嬉しい感じはしないな」
「私も」
じっと、星を眺める。
星座は形を崩さずに、地球の空を横切っていく。
それはつまり、この広大な宇宙で、動かずにじっとしているということだ。
人間は違う。
自分の意思で、重力にすらあらがって、動こうとする。
ふとわき上がった疑問を、口にしてみた。
「ねえ、進路って、決めてる?」
けっこう、踏み込んだ質問だったかもしれない。
でも、聞いておきたかった。
彼の目指すもの、進む先を。
就職するかもしれないし、進学先が県外かもしれない。
一年後も、一緒にいられる保証はないのだ。
彼は、うーん、と間延びした声を出してから、呟いた。
「豊岡大かな。
あそこは寮があるから」
寮を理由にするのがなんだか意外で、私は尋ねる。
「寮に入りたいの?」
「うん。
本当は、県外で一人暮らしが理想だけど、何かとお金がかかるからね」
しまった。
余計なことを聞いてしまった。
家計の事情を聞かれて、きっと彼は良い顔をしないだろう。
「ご、ごめん!
……その……私も、県外に行きたかったんだけど、金銭面で反対されてて。
進路、豊岡大にしようかなって思ってたんだ」
「本当!?
それなら僕、モチベーションめっちゃ上がるよ!」
明らかにテンションが上がる彼に、私はほっとしつつ嬉しくなる。
「私も……一緒の大学に行けたら、すごく嬉しい」
「本当に!?」
暗闇の中でも、彼が目を丸くしたのが分かる。
ついでに言うと、こぶしを握りしめて、小さくガッツポーズをしていた。
そんなに嬉しいのかな。
やがて、そのこぶしをゆるめると、彼は深呼吸をする。
「実は、僕……
寮に入りたい事情が、他にもあるんだ」
どきりとする。
裏表がない、後ろ暗いものなど何もなさそうな彼に、初めて影が見えた。
彼は、試すようにこちらを見てくる。
「でも、僕は君と楽しく過ごしたいから、君が聞きたくないと言うのなら、これは胸にとどめておこうと思う」
私は彼を見つめ返す。
答えは決まっていた。
「聞くよ。
それがどんな内容でも、また、明日、2人で星を見よう」
私が答えると、彼はうなずいて、「ありがとう」とささやいた。
「僕……、実は、家族丸ごと、地元に疎まれてるんだ。
僕の町、祭が無形文化財になっていて。
参加しない人は村八分にされる」
彼の言葉で、思い出す。
私の住む市は、合併前は4つほどの市町に分かれていた。
そのうちの1つは、祭を、いわゆる盆踊りや出店の立ち並ぶイベントとしてではなく、伝統的な「祭礼」として行っている。
巨大な山車を、毎年手作業で染め抜いた紙花等で飾りつけ、住民総出で引き回し、三日三晩、夜通し町を練り歩く。
町には交通規制が敷かれ、地元企業は暗黙の了解で社員に有給を取らせる。
子どもにも、笛や太鼓、踊りなどの役目が割り振られ、一年中、放課後を犠牲にし上級生にしごかれて特訓を受ける。
祭りの最終日は、浴びるように酒を飲んだ大人たちと、疲れはてた子どもたちで、グロッキー状態でフィナーレ。
まさに祭に命をかけているのだと、その地区からの転校生は言っていた。
数年前は、死者が出るのも当たり前だったらしい。
彼は続ける。
「僕のお父さんは、子供の頃から、祭に参加するたびに余興で裸にされたり、無理矢理お酒を飲まされたり、酔っぱらった人に殴られたりしてて。
祭の時期が近付くたびに、目に見えて落ち込んでいくんだ。
だから僕、言ったんだ。
『お父さん、もういいよ。そんなにつらいなら、お祭りなんて行かなくていいよ』って。
お父さんは、『そんなことしたら、お前だってここにいられなくなるぞ』って言ったけど、それでもいいよって僕は言ったんだ。
そうしたら……」
彼は唾を飲み込む。
「参加しなくなったら、挨拶は無視されるし、回覧板は飛ばされるし、避難訓練も地元のイベントも行けなくなった。
学校でも、集団登校で僕だけ置いてけぼりにされて。
仲良しだった友達からも無視されるようになった。
練習をサボって遊んでると思われたんだろうね。
でも……お父さんが休んで、僕だけ祭に行くこともできなかったんだ。
『お前の親はなぜ来ないんだ』
って、近所のおじさんに怒鳴られて、公会堂から追い出されちゃったから」
初めて会った時、夜通ししゃべり倒す勢いだった彼を思い出す。
私が「人と話すのが怖い」と打ち明けた時、「僕は話すのが好き」と言っていた。
明るく話し好きな彼は、きっと、もとは友達も多かっただろう。
近所の人とも仲良くやっていたかもしれない。
それが突然、離れていって、彼はどんなに悲しかっただろうか。
……私はバカだ。
優しく素直な彼は、恵まれた家庭で、何不自由なく生活しているのだと、勝手に思っていた。
確かに、家族には問題なかったかもしれないが、それでも、こんな環境はつらすぎる。
「そしたら、お父さんと、地区外から嫁いだお母さんの関係もギスギスし始めて。
家にいると、無性に疲れるようになった。
居場所が無かったんだ」
目の前が真っ暗になった気がした。
それは彼の絶望だ。
周りを照らす太陽のような彼に、居場所がないなんて、そんな。
真夜中の展望台。
暗がりにじっと座り込んでいた彼。
「……藤見さんも……、私と同じだったんだね。
居場所がなくて、ここに来たの?」
「……そう。
星を見に来たっていうのは、嘘。
だって、そんな話……しても困るだろうって、思ったから」
初めて会った時、私も彼に嘘をついた。
祖母にネコのエサを食べさせられ、居場所をなくして来たのに、散歩に来たと嘘をついた。
同じだ。
私と彼は、同じだったのだ。
「でも僕、君と星を見られて、嬉しかった。
星を見ている内に、気が楽になっていった。
君と話している内に、自分が人間に戻っていく気がした。
この時間が救いだった。
君に会えて、本当に良かった」
それでも、彼は、やっぱり、輝いている。
私と同じで居場所がなくても、変わらず明るく、優しく、正直に生き続けた。
ただ1つ、私を気遣ってついた嘘を除いて。
「私も……この時間に救われた。
藤見さんに会えて、本当に良かった」
真夜中の嘘がくれた、彼と私の、星の時間。
きっと、生涯、忘れることはない。