展望台を出た私は、自転車を前にして、しばしたたずんでいた。
……これからどうしよう。
祖父母宅から遠く離れた今、わざわざあの家に戻るのは、なんとなく気が進まなかった。
帰り道で祖母とはち合わせ、涙ながらに抱きしめられでもしたら最悪だ。
せっかく、ここまでたどり着いて、安心して話ができる人と過ごせたのに。
だが、他に行き場があっただろうか?
この展望台だって、日が昇れば人が来る。
いつまでも居座るわけにはいかない。
「……」
仕方ない。
私は、自分の両親の家へ向かうことにした。
家で起きていた母と妹は、気だるげないつもの様子で、迎え入れてくれた。
懐かしい空気。
祖父母宅に引っ越してからは、両親の家に行くには、祖母の許可と命令が必要になった。
……祖母は、今ごろ、私を探し回っているだろうか?
少し、心配になる。
が、母が言うには、祖母からは何の連絡も来ていないらしい。
おそらく、原因が原因だけに、おおごとにしたくなかったのだろう。
保身と外面の良さは一級品だ。
「お姉ちゃん、なんで来たの」
「……ネコのエサを食べさせられたから」
「……やべえ」
妹の短い感想からは、いまいち感情が読み取れない。
「ねーお母さん、お姉ちゃんネコのエサ食べたんだって」
「ええ?」
洗濯機を回していた母が、半笑いで聞き返す。
正確には食べたんじゃなくて食べさせられたんだけど、と思うが、私は抗議することもなく「うん、分かった、ありがとう」と食べたので、やっぱり自分から食べたことになるのかもしれない。
洗面所から母が戻ってくる。
「なに、お腹大丈夫なの?」
「うん、平気、慣れてるし」
「やべえ」
妹は動画を見ながら笑っている。
母は今度は台所へ行き、昨日の鍋の残りを温め始めた。
「朝ご飯、食べる?」
「…………うん」
「おばあちゃん、心配するだろうから、うちに来てるって連絡するけど。いい?」
「……うん」
居間で過ごす母と妹、自室からなかなか出てこない弟2人、外出しがちな父。
皆の様子は、私がいた頃となんら変わらない。
変わったのは、私だけだ。
廊下の固定電話で連絡を済ませた母が、居間に戻ってくる。
「おばあちゃん、心配だからすぐ戻ってこいって。
……どうする?」
「うん、分かった、ありがとう」
いつもの薄ら笑いを浮かべる。
もう慣れたものだ。
玄関に向かう私を、母は追ってくる。
「また来てもいいからね。
何かあったら言ってね」
「うん、分かった、ありがとう」
前に電話したら、笑い飛ばしたくせに。
私は笑顔を貼りつけたまま、自転車に乗って、祖母の待ち構える家へ向かう。
親にも本音が言えない。
嘘ばっかりだ。
全部嘘。
願わくは、エサの件も、嘘だと、何かの冗談だと思っていてほしい。
嘘をついた上に、心配までかけるのは嫌だから。
居着いていた野良ネコが、家を出て、どこかよその家で幸せに暮らしている。
そんな風に、思っていてほしい。
祖父母の家に入ると、祖母は留守だった。
外のビニールハウスで、作業でもしているのだろう。
きっと、気まずくて顔を合わせたくなかったのだ。
奥の居間からは、テレビの音が聞こえる。
番組の雰囲気からして、見ているのは祖父だ。
呆けたように、
「ああ、ああ、ふあ」
と、相づちとも吐息ともつかない声をあげている。
声をかける気にもなれなくて、私は玄関から自室へ直行する。
帰ってきたことは、自転車や玄関のくつで分かるだろう。
接していても疲れるだけだ。
世界を閉じるように、私はベッドで目を閉じる。
祖母の家に来た初日に、ゴキブリの卵がいくつもこびりついていて、ひっぺがすのが大変だったのを思い出す。
もう、何も、見たくなかった。
目が覚めると、すでに外は暗かった。
時計を見ると午後9時。
もう祖父母は寝ている時間だ。
そっと部屋の扉を開けて、廊下へ出る。
餌付けされた野良ネコの垂れ流した、し尿の匂いが、ツンと鼻をつく。
吐き気がした。
恐る恐る、足音をしのばせて居間へ向かう。
もし食事が用意されていたら。
食べきらねば、どんな怨念をかけられるか分からない。
そっと、居間の電気をつける。
テーブルの上には、相撲取りのどんぶりとその他の食器が置かれ、ご飯とおかずが塔のように高くよそわれている。
ハエとゴキブリがたかっている。
ネコも食いついたのか、焼き魚は食いちぎられて床に散乱している。
どんぶりの下には、祖母の達筆なメモが置かれていた。
『深月ちゃんへ
深月ちゃんがお腹をすかせないように、一生懸命がんばったのに、こんなことをするなんて、おばあちゃんは涙が止まりません。
昨日の夕飯は気に入らなかったようなので、今日こそはと、腕によりをかけて作りました。
炊飯器と鍋の中に、おかわりもあります。
体を壊したら大変です。
残さず食べなさい』
炊飯器を開けてみた。10合炊きの炊飯器だ。夫婦2人暮らしにしては大きいが、盆暮れ正月に親戚が集まるため、それに備えて買ったのだろう。
その炊飯器に、マックスまで炊かれたご飯が詰まっている。
おそらく、どんぶりに残りご飯をよそい、おかわり用に再度炊いたのだろう。
隣の鍋のふたを開けると、なみなみと具だくさんの味噌汁が入っている。
これだけ作るのは大変だったろう。
それは分かる。
分かるけど。
相撲取りでもない女子高生が、これを全部食べきれると、本気で思っているのだろうか?
祖母の食事を取らなかった、今日1日分、さらにネコのエサを食べた昨日の夕飯分が含まれていると考えても、まだ多い。
絶望しながら、箸を手に取る。
これを、翌朝、祖母が起きてくる前に、全て平らげねばならない。
おかわり分もだ。
おかわりをしないと泣きわめくのは、経験上分かっている。
きっと、捨ててもすぐ気付く。
ご飯1粒、おかずの破片、味噌汁1滴すら、きっと祖母は許さない。
『ひどい、ひどい。
おばあちゃんは、深月ちゃんのために、一生懸命、がんばってるのに』
分かってるよ、分かってる。
がんばったんだね。つらかったんだね。
でも。
私の意見は、全部無視。
なぜなら私は人間じゃないから。
「うん、分かった、ありがとう」
しか言えない、ニャアとしか鳴かない野良ネコと一緒だから。
私はひたすら胃に流し込む。
なるべくスムーズに、のどを通りぬけさせたいのに、一口ごとに混入している祖母の髪の毛が、それを邪魔する。
ストレスで抜けたのだろうか。
私のせいか。
全部、私のせいなのか。
口もとを押さえながら、最後の一口を飲み込む。
なまじ食べきれてしまう自分が恨めしい。
すぐにベッドへ横になる。
なんとか消化しなくてはならない。
寝よう。
夢を見た。
家中にカビが生えている。
どんどん広がるカビから逃げるように走る。
外へ。
出ようとすると、道を祖母にふさがれた。
なんで。
どいて。
私は祖母を押しのけた。
祖母は、まるで突き飛ばされたかのように、地面へ倒れ込む。
しまった、やってしまった。
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい」
狂ったように泣いている。
ああ、やはり、抵抗すると、こうなるのだ。
カビが体を這い登る。
「ごめんねおばあちゃん、ごめんね、ごめんね」
棒読みの声がする。
これが本当に正しいのだろうか。
分からない。
カビが脳まで覆いつくしている。
目が覚めた。
真っ暗だ。外も暗い。
手の甲をひっかく。
なんだかカビがついていそうで。
やっぱり外へ出よう。
もう夢は覚めたから、祖母は廊下にはいないはずだ。
自転車を引いて向かった先は、あの展望台。
星を見に行くのだ。
少しでもきれいなものを見たかった。
展望台の2階へ上がる。
きれいなもの、きれいなもの。
「ああ、こんばんは」
「……こん、ばんは」
藤見だ。
「どうぞどうぞ。
今日も散歩ですか?」
「……はい……えっと……あの」
深呼吸する。
大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫。
『はい、散歩です』以外の答えでも、きっと彼は怒らない。
怒られるようなことじゃ、ないはずだ。
「その……星を、見に」
「そうなんですね」
あっさりと返されて、心底安堵する。
深く長い吐息が漏れた。
藤見に譲られた窓から、空を見上げる。
真っ暗な虚空に輝く星。
わずかな空気穴を見つけたような気持ちで、必死に息をする。
じっと見上げる。
ずっと、星だけ、見ていられたらいいのに。
誰の顔も見ず、誰にも声をかけられずに、ただ、星の光だけを。
それでも見上げ続けていれば、首も疲れる。
窓から身を乗り出していなければならないので、余計、姿勢がしんどい。
展望台の中へ体を戻す。
ため息をついてうつむいた。
しばらくそうして、顔を上げる。
視界の隅で、藤見がじっとしているのが見えた。
「……あ……ごめん、なさい」
「いえっ、いいんです」
藤見は両手を横に振る。
昨日は一晩中しゃべる勢いだったのに、今日はびっくりするくらい静かだ。
本当に同じ人か、疑問に思うくらい。
私は恐る恐る、窓を指差す。
「……見ます?」
「えっ、いやいや、いいんですよ。
もう、僕は先に見てましたから」
彼はそう言うが、彼を無視して星に没頭するのも違う気がして、私は藤見に向かい合う。
……でも、何を言えばいいのだろう?
相手が祖母だったら、きっと何を言っても、驚き、戸惑い、困った顔をするだろう。
祖母は私の話を聞くのが嫌いだ。
祖母の思考を邪魔しない、命令をニコニコ聞くだけの人が好きだから。
そうなると、やっぱり、私は何もしゃべらない方がいいのかもしれない。
沈黙が続く。
なんとなく気まずい。
なんで彼は黙っているのだろう?
まるで根比べのように黙りこんでいると、彼が口を開いた。
「……じゃあ、一緒に見ます?」
一瞬、なんのことかと思って、ああ星のことかと思い出した。
「……そうですね」
2人で窓辺に並ぶ。
肩を寄せ合うような形になった。
「星、きれいだなぁ」
「……そうですね」
「ずっと見てると、見える星、増えていくじゃないですか。
それがなんだか、嬉しいんです。
寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって」
私は彼を見る。
自分の感じたことを、気兼ねせずに話す人だ。
正直、うらやましいと思う。
よほど人に嫌われない自信があるか、嫌われてもいいという勇気があるのだろう。
私には、どちらもない。
だから嘘をつくしかない。
なんだかそれもしんどくて、黙っていたくなる。
でも、沈黙も気まずくて、どうすればいいのか分からない。
「……すみません、僕ばかりしゃべってて」
「……」
「えっと……静かにしてた方がいいですかね?」
「……その……のどの調子が、悪くて……
だから、相づちしか打てなくて……ごめんなさい」
「あ、そうなんですね!
よかったぁ、嫌われたのかと思いました」
また嘘をついてしまった。
その嘘を信じた彼に、申し訳ない気持ちになる。
うつむいていると、彼はごそごそとポケットを探り、私に何かを差し出した。
「どうぞ。アメです」
受け取った私が、呆けたように彼を見ると、彼が笑ったような気配がする。
暗くてよく見えないけれど。
「たまたま持っててよかった。
今度はトローチ持ってきますね」
はつらつとそう続ける彼に、罪悪感が許容量を超えた。
「……ごめんなさい……その……違うんです。
嘘つきました。ごめんなさい。
のどは痛くないんです」
「え?」
彼は戸惑っている。無理もない。
私はあきらめて、謝罪のつもりで説明する。
「……私……本当は、人と話すのが、怖くて……
しゃべったら、嫌われる気がして……」
「えっ?」
「だから、その……相づちくらいしか、できないけど……藤見さんにしゃべっててもらった方が……ありがたいです」
「ええっ」
彼はひたすら驚いている。
私も、話していて自分の情けなさに驚いている。
まともに人と話ができないと宣言するなんて、私はやっぱり人間未満の存在だ。
しばらく絶句していた彼は、やがて考えを巡らせるように「あー」と声を出した。
ドン引きしているのだろう。
もう帰ろうかな。
「……しゃべるのが苦手なんだ?
僕は話すの好きだけど、人間だもん、緊張しちゃうことだってあるよね。
大丈夫。話したいことだけ、話せばいいよ」
とん、と、私の気にしていたこと全てを霧散させるような言葉に、私は驚愕する。
驚きのあまり、なんと返せばいいのかも分からなくて、私はつい謝った。
「……ごめんなさい」
「謝ることないのに。
僕はそんなに怖くないよ。
うるさいとは言われるけどね」
彼はそう言って、笑った。
自分の弱さを、人を慰めるために、笑って口にできる彼は、なんて強いのだろう。
まるで太陽のような人だ。
どの角度から見ても、やましいところのない、正直な人。
全部を嘘で塗り固めた私とは、正反対だ。
「でもよかった、うざがられたかと思ってさ。
なんだ、口下手なだけだったんだね……あ、ごめん、ちょっと怖かったんだよね。
そりゃそうか。
会って2日目だもん。
当たり前だよね」
「……うん……でも……もうそんなに、怖くない、かも」
「本当!?」
「……うん」
嬉しそうな彼の声に、つい、微笑んでしまう。
もう少し話をしたくて、私は勇気を振り絞って、声を出す。
「……ねえ、星のこと、教えてよ」
「えっ?」
「好きなんでしょ、星」
「あー……まあね。
夏の大三角とか」
「どれ?」
「ここから見て、明るい星ベスト3をつなげたような星座。
あれと、あの辺と、ちょっと下に行ったところのあれ」
彼と星空を見上げ、同じ星を探す。
「ひときわ明るい、あの星?」
「うん、それそれ」
私と彼は全然違うけれど。
それでも、同じものを見ていられるのが、嬉しい。
「私、きっとまた、空を見るよ。
今度の夜が明けたら、月曜だから……
しばらくここには、来られないけど……
夏の大三角、忘れないように、また探すよ」
「うん。
また、一緒に見よう」
彼はうなずいた。
私は、夜空の3つの星を、じっと眺めて、心に刻んだ。
……これからどうしよう。
祖父母宅から遠く離れた今、わざわざあの家に戻るのは、なんとなく気が進まなかった。
帰り道で祖母とはち合わせ、涙ながらに抱きしめられでもしたら最悪だ。
せっかく、ここまでたどり着いて、安心して話ができる人と過ごせたのに。
だが、他に行き場があっただろうか?
この展望台だって、日が昇れば人が来る。
いつまでも居座るわけにはいかない。
「……」
仕方ない。
私は、自分の両親の家へ向かうことにした。
家で起きていた母と妹は、気だるげないつもの様子で、迎え入れてくれた。
懐かしい空気。
祖父母宅に引っ越してからは、両親の家に行くには、祖母の許可と命令が必要になった。
……祖母は、今ごろ、私を探し回っているだろうか?
少し、心配になる。
が、母が言うには、祖母からは何の連絡も来ていないらしい。
おそらく、原因が原因だけに、おおごとにしたくなかったのだろう。
保身と外面の良さは一級品だ。
「お姉ちゃん、なんで来たの」
「……ネコのエサを食べさせられたから」
「……やべえ」
妹の短い感想からは、いまいち感情が読み取れない。
「ねーお母さん、お姉ちゃんネコのエサ食べたんだって」
「ええ?」
洗濯機を回していた母が、半笑いで聞き返す。
正確には食べたんじゃなくて食べさせられたんだけど、と思うが、私は抗議することもなく「うん、分かった、ありがとう」と食べたので、やっぱり自分から食べたことになるのかもしれない。
洗面所から母が戻ってくる。
「なに、お腹大丈夫なの?」
「うん、平気、慣れてるし」
「やべえ」
妹は動画を見ながら笑っている。
母は今度は台所へ行き、昨日の鍋の残りを温め始めた。
「朝ご飯、食べる?」
「…………うん」
「おばあちゃん、心配するだろうから、うちに来てるって連絡するけど。いい?」
「……うん」
居間で過ごす母と妹、自室からなかなか出てこない弟2人、外出しがちな父。
皆の様子は、私がいた頃となんら変わらない。
変わったのは、私だけだ。
廊下の固定電話で連絡を済ませた母が、居間に戻ってくる。
「おばあちゃん、心配だからすぐ戻ってこいって。
……どうする?」
「うん、分かった、ありがとう」
いつもの薄ら笑いを浮かべる。
もう慣れたものだ。
玄関に向かう私を、母は追ってくる。
「また来てもいいからね。
何かあったら言ってね」
「うん、分かった、ありがとう」
前に電話したら、笑い飛ばしたくせに。
私は笑顔を貼りつけたまま、自転車に乗って、祖母の待ち構える家へ向かう。
親にも本音が言えない。
嘘ばっかりだ。
全部嘘。
願わくは、エサの件も、嘘だと、何かの冗談だと思っていてほしい。
嘘をついた上に、心配までかけるのは嫌だから。
居着いていた野良ネコが、家を出て、どこかよその家で幸せに暮らしている。
そんな風に、思っていてほしい。
祖父母の家に入ると、祖母は留守だった。
外のビニールハウスで、作業でもしているのだろう。
きっと、気まずくて顔を合わせたくなかったのだ。
奥の居間からは、テレビの音が聞こえる。
番組の雰囲気からして、見ているのは祖父だ。
呆けたように、
「ああ、ああ、ふあ」
と、相づちとも吐息ともつかない声をあげている。
声をかける気にもなれなくて、私は玄関から自室へ直行する。
帰ってきたことは、自転車や玄関のくつで分かるだろう。
接していても疲れるだけだ。
世界を閉じるように、私はベッドで目を閉じる。
祖母の家に来た初日に、ゴキブリの卵がいくつもこびりついていて、ひっぺがすのが大変だったのを思い出す。
もう、何も、見たくなかった。
目が覚めると、すでに外は暗かった。
時計を見ると午後9時。
もう祖父母は寝ている時間だ。
そっと部屋の扉を開けて、廊下へ出る。
餌付けされた野良ネコの垂れ流した、し尿の匂いが、ツンと鼻をつく。
吐き気がした。
恐る恐る、足音をしのばせて居間へ向かう。
もし食事が用意されていたら。
食べきらねば、どんな怨念をかけられるか分からない。
そっと、居間の電気をつける。
テーブルの上には、相撲取りのどんぶりとその他の食器が置かれ、ご飯とおかずが塔のように高くよそわれている。
ハエとゴキブリがたかっている。
ネコも食いついたのか、焼き魚は食いちぎられて床に散乱している。
どんぶりの下には、祖母の達筆なメモが置かれていた。
『深月ちゃんへ
深月ちゃんがお腹をすかせないように、一生懸命がんばったのに、こんなことをするなんて、おばあちゃんは涙が止まりません。
昨日の夕飯は気に入らなかったようなので、今日こそはと、腕によりをかけて作りました。
炊飯器と鍋の中に、おかわりもあります。
体を壊したら大変です。
残さず食べなさい』
炊飯器を開けてみた。10合炊きの炊飯器だ。夫婦2人暮らしにしては大きいが、盆暮れ正月に親戚が集まるため、それに備えて買ったのだろう。
その炊飯器に、マックスまで炊かれたご飯が詰まっている。
おそらく、どんぶりに残りご飯をよそい、おかわり用に再度炊いたのだろう。
隣の鍋のふたを開けると、なみなみと具だくさんの味噌汁が入っている。
これだけ作るのは大変だったろう。
それは分かる。
分かるけど。
相撲取りでもない女子高生が、これを全部食べきれると、本気で思っているのだろうか?
祖母の食事を取らなかった、今日1日分、さらにネコのエサを食べた昨日の夕飯分が含まれていると考えても、まだ多い。
絶望しながら、箸を手に取る。
これを、翌朝、祖母が起きてくる前に、全て平らげねばならない。
おかわり分もだ。
おかわりをしないと泣きわめくのは、経験上分かっている。
きっと、捨ててもすぐ気付く。
ご飯1粒、おかずの破片、味噌汁1滴すら、きっと祖母は許さない。
『ひどい、ひどい。
おばあちゃんは、深月ちゃんのために、一生懸命、がんばってるのに』
分かってるよ、分かってる。
がんばったんだね。つらかったんだね。
でも。
私の意見は、全部無視。
なぜなら私は人間じゃないから。
「うん、分かった、ありがとう」
しか言えない、ニャアとしか鳴かない野良ネコと一緒だから。
私はひたすら胃に流し込む。
なるべくスムーズに、のどを通りぬけさせたいのに、一口ごとに混入している祖母の髪の毛が、それを邪魔する。
ストレスで抜けたのだろうか。
私のせいか。
全部、私のせいなのか。
口もとを押さえながら、最後の一口を飲み込む。
なまじ食べきれてしまう自分が恨めしい。
すぐにベッドへ横になる。
なんとか消化しなくてはならない。
寝よう。
夢を見た。
家中にカビが生えている。
どんどん広がるカビから逃げるように走る。
外へ。
出ようとすると、道を祖母にふさがれた。
なんで。
どいて。
私は祖母を押しのけた。
祖母は、まるで突き飛ばされたかのように、地面へ倒れ込む。
しまった、やってしまった。
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい」
狂ったように泣いている。
ああ、やはり、抵抗すると、こうなるのだ。
カビが体を這い登る。
「ごめんねおばあちゃん、ごめんね、ごめんね」
棒読みの声がする。
これが本当に正しいのだろうか。
分からない。
カビが脳まで覆いつくしている。
目が覚めた。
真っ暗だ。外も暗い。
手の甲をひっかく。
なんだかカビがついていそうで。
やっぱり外へ出よう。
もう夢は覚めたから、祖母は廊下にはいないはずだ。
自転車を引いて向かった先は、あの展望台。
星を見に行くのだ。
少しでもきれいなものを見たかった。
展望台の2階へ上がる。
きれいなもの、きれいなもの。
「ああ、こんばんは」
「……こん、ばんは」
藤見だ。
「どうぞどうぞ。
今日も散歩ですか?」
「……はい……えっと……あの」
深呼吸する。
大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫。
『はい、散歩です』以外の答えでも、きっと彼は怒らない。
怒られるようなことじゃ、ないはずだ。
「その……星を、見に」
「そうなんですね」
あっさりと返されて、心底安堵する。
深く長い吐息が漏れた。
藤見に譲られた窓から、空を見上げる。
真っ暗な虚空に輝く星。
わずかな空気穴を見つけたような気持ちで、必死に息をする。
じっと見上げる。
ずっと、星だけ、見ていられたらいいのに。
誰の顔も見ず、誰にも声をかけられずに、ただ、星の光だけを。
それでも見上げ続けていれば、首も疲れる。
窓から身を乗り出していなければならないので、余計、姿勢がしんどい。
展望台の中へ体を戻す。
ため息をついてうつむいた。
しばらくそうして、顔を上げる。
視界の隅で、藤見がじっとしているのが見えた。
「……あ……ごめん、なさい」
「いえっ、いいんです」
藤見は両手を横に振る。
昨日は一晩中しゃべる勢いだったのに、今日はびっくりするくらい静かだ。
本当に同じ人か、疑問に思うくらい。
私は恐る恐る、窓を指差す。
「……見ます?」
「えっ、いやいや、いいんですよ。
もう、僕は先に見てましたから」
彼はそう言うが、彼を無視して星に没頭するのも違う気がして、私は藤見に向かい合う。
……でも、何を言えばいいのだろう?
相手が祖母だったら、きっと何を言っても、驚き、戸惑い、困った顔をするだろう。
祖母は私の話を聞くのが嫌いだ。
祖母の思考を邪魔しない、命令をニコニコ聞くだけの人が好きだから。
そうなると、やっぱり、私は何もしゃべらない方がいいのかもしれない。
沈黙が続く。
なんとなく気まずい。
なんで彼は黙っているのだろう?
まるで根比べのように黙りこんでいると、彼が口を開いた。
「……じゃあ、一緒に見ます?」
一瞬、なんのことかと思って、ああ星のことかと思い出した。
「……そうですね」
2人で窓辺に並ぶ。
肩を寄せ合うような形になった。
「星、きれいだなぁ」
「……そうですね」
「ずっと見てると、見える星、増えていくじゃないですか。
それがなんだか、嬉しいんです。
寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって」
私は彼を見る。
自分の感じたことを、気兼ねせずに話す人だ。
正直、うらやましいと思う。
よほど人に嫌われない自信があるか、嫌われてもいいという勇気があるのだろう。
私には、どちらもない。
だから嘘をつくしかない。
なんだかそれもしんどくて、黙っていたくなる。
でも、沈黙も気まずくて、どうすればいいのか分からない。
「……すみません、僕ばかりしゃべってて」
「……」
「えっと……静かにしてた方がいいですかね?」
「……その……のどの調子が、悪くて……
だから、相づちしか打てなくて……ごめんなさい」
「あ、そうなんですね!
よかったぁ、嫌われたのかと思いました」
また嘘をついてしまった。
その嘘を信じた彼に、申し訳ない気持ちになる。
うつむいていると、彼はごそごそとポケットを探り、私に何かを差し出した。
「どうぞ。アメです」
受け取った私が、呆けたように彼を見ると、彼が笑ったような気配がする。
暗くてよく見えないけれど。
「たまたま持っててよかった。
今度はトローチ持ってきますね」
はつらつとそう続ける彼に、罪悪感が許容量を超えた。
「……ごめんなさい……その……違うんです。
嘘つきました。ごめんなさい。
のどは痛くないんです」
「え?」
彼は戸惑っている。無理もない。
私はあきらめて、謝罪のつもりで説明する。
「……私……本当は、人と話すのが、怖くて……
しゃべったら、嫌われる気がして……」
「えっ?」
「だから、その……相づちくらいしか、できないけど……藤見さんにしゃべっててもらった方が……ありがたいです」
「ええっ」
彼はひたすら驚いている。
私も、話していて自分の情けなさに驚いている。
まともに人と話ができないと宣言するなんて、私はやっぱり人間未満の存在だ。
しばらく絶句していた彼は、やがて考えを巡らせるように「あー」と声を出した。
ドン引きしているのだろう。
もう帰ろうかな。
「……しゃべるのが苦手なんだ?
僕は話すの好きだけど、人間だもん、緊張しちゃうことだってあるよね。
大丈夫。話したいことだけ、話せばいいよ」
とん、と、私の気にしていたこと全てを霧散させるような言葉に、私は驚愕する。
驚きのあまり、なんと返せばいいのかも分からなくて、私はつい謝った。
「……ごめんなさい」
「謝ることないのに。
僕はそんなに怖くないよ。
うるさいとは言われるけどね」
彼はそう言って、笑った。
自分の弱さを、人を慰めるために、笑って口にできる彼は、なんて強いのだろう。
まるで太陽のような人だ。
どの角度から見ても、やましいところのない、正直な人。
全部を嘘で塗り固めた私とは、正反対だ。
「でもよかった、うざがられたかと思ってさ。
なんだ、口下手なだけだったんだね……あ、ごめん、ちょっと怖かったんだよね。
そりゃそうか。
会って2日目だもん。
当たり前だよね」
「……うん……でも……もうそんなに、怖くない、かも」
「本当!?」
「……うん」
嬉しそうな彼の声に、つい、微笑んでしまう。
もう少し話をしたくて、私は勇気を振り絞って、声を出す。
「……ねえ、星のこと、教えてよ」
「えっ?」
「好きなんでしょ、星」
「あー……まあね。
夏の大三角とか」
「どれ?」
「ここから見て、明るい星ベスト3をつなげたような星座。
あれと、あの辺と、ちょっと下に行ったところのあれ」
彼と星空を見上げ、同じ星を探す。
「ひときわ明るい、あの星?」
「うん、それそれ」
私と彼は全然違うけれど。
それでも、同じものを見ていられるのが、嬉しい。
「私、きっとまた、空を見るよ。
今度の夜が明けたら、月曜だから……
しばらくここには、来られないけど……
夏の大三角、忘れないように、また探すよ」
「うん。
また、一緒に見よう」
彼はうなずいた。
私は、夜空の3つの星を、じっと眺めて、心に刻んだ。