人間は、Noと言えなくなると、死ぬ。
私がいい例だ。

そして、世の中には、他人のささいなNoすら、受け入れられない人がいる。
私の祖母がそうだ。

私が何かするたびに、かんしゃくを起こして泣きわめく。
朝、祖母が起こしに来るより先に起きたから。
祖母のよそった大盛りご飯を食べきれなかったから。
祖母の予想より帰宅が遅れたから。
「ひどい、ひどい。
せっかく起こしてあげようとしたのに。
せっかく大盛りにしてあげたのに。
せっかく帰るのを待ってたのに。
全部あなたのためなのに。
深月ちゃんはいつも、おばあちゃんを傷付ける」

私だって、好きで傷付けてるわけじゃない。
起こしに来るのを待ってたら遅刻するし、
相撲取りの描かれたどんぶりによそわれたご飯は、どう考えたって多すぎるし、
帰宅時刻は部活次第だ。
事情を詳しく説明しても、祖母は泣き止まない。
「深月ちゃんは、屁理屈ばっかり。
私の言うことを、黙ってニコニコ聞いていればいいのに」
私が「ごめんね、私が全部悪かったよ」と謝るまで、祖母は意地でも泣き止まない。

こんな感じで、祖母は非常に面倒くさい人だ。
私はもともと、核家族だったけれど、入学先の高校が祖父母宅に近いと知った祖母が、半ば無理やりに私との同居を決めた。
きっと、素敵な孫との接待同居ライフでも思い描いていたのだろう。
ちなみに祖父もいるけれど、彼は祖母に無条件降伏状態だ。
「ああ、分かった」
以外の言葉を、祖父から聞いたことがない。

この惨状を母に電話で訴えたら、大笑いされた。
ギャグか何かと思われたらしい。
「おばあちゃんは、それだけあなたを大切に思ってるんだよ」
母はそう言った。
……本当だろうか?

最近は、少しでも反論すると、母の悪口を言い始める。
「深月ちゃんのお母さんがちゃんとしてないから、深月ちゃんがこうなっちゃったのよ」
母のせいにされた。
自分の悪口を聞くのも嫌だが、母の悪口はそれ以上に苦痛だった。
祖母は時々、口癖のように繰り返す。
「深月ちゃんのお父さんは、結婚相手を間違えた」
それは私が、生まれてこなければよかったということだろうか。

もう、疲れた。

毎朝、顔を洗って鏡を見るたびに、思う。
これがダメ孫の顔か。
「こんな奴、死ねばいいのに」
呟いて、そうだ殺そう、と思い立った。
以来、私は脱け殻だ。
祖母の言葉に、バカみたいに
「うん、分かった、ありがとう」
を繰り返す。

私はNoと言わなくなった。
それは、私という人格の死を意味していた。
少なくとも祖母は幸せそうだ。
代わりに私は死んだ。
それだけが、確かだった。


そんなある日。
夕飯のために食卓へ行くと、相撲取りのどんぶりに、ネコのエサがよそわれていた。
「ごめんねえ、深月ちゃん。
お米を切らしちゃったんだけど、ご飯なしじゃかわいそうだから。
ほら、食べなさい」
いつものように命令される。
「うん、分かった、ありがとう」
私はネコのエサをほおばる。
祖母は満足げに見守る。
うん、あの目は見たことがある。
野良ネコに餌付けしている時の目だ。
食い物をあげた見返りに、なつくことを求める目。
ネコは言葉を喋らない。
ただ、ニャアとすり寄るだけ。
狂ったように同じ言葉を繰り返す私と同じだ。

私、人間じゃなかったんだ。

ネコのエサを全て平らげる。
自室に戻った。
ヒリヒリする喉とゴロゴロする胃。
これは現実だろうか?
私は、ネコのエサを喜んで食べる、人間もどきなのだろうか?
『おばあちゃんは、あなたのためを思って』
本当に?
もう、何が真実か分からない。

私は玄関へ歩いた。
「どこへ行くの?」
いつもと違う行動をする私を、祖母は目ざとく見つけ、声をかける。
「……腹ごなしの散歩だよ。
すぐ帰る」
緊張しながら答える。
最近、『うん、分かった、ありがとう』以外の言葉が、なかなか出てこない。
すっかり頭がバカになっているようだ。
祖母はため息をついて、仕方ないといった様子で答える。
「いいよ、5分以内なら。
行きなさい」
それは、許可と命令。
祖母の許可と命令がなければ、私は何をすることも許されないのだ。
「うん、分かった、ありがとう」
いつもの言葉を告げて、私は後ろ手に玄関を閉める。

着の身着のまま、財布もスマホもない。
それでも構わない。
私は通学用の自転車に飛び乗った。
そのまま、勢いよく走り出す。

散歩というのは嘘だ。
ただもう、一瞬たりとも、この家にいたくなかった。
遠くに行きたい。
どこか、遠くへ。

幸い、明日は土曜日だ。
学校のことは気にしなくていい。
厄介なのは祖母だ。
帰りが遅いと息巻いて、軽トラックで探し回りに来るかもしれない。
祖母の手の届かない場所はどこか。
思いついたのは、学区から離れた山の上にある、天ヶ原休憩所。


坂道を自転車で登るのはきつい。
自転車を降りて、ひたすら引いて歩く。
普段なら、途中で疲れてやめていただろう。
でも今は、むしろその疲労が心地よかった。
死んでしまった心の代わりに、せめて足くらいは痛んでいてほしかった。
出ない涙の代わりに、汗くらいは噴き出していてほしかった。
それに何より、自分の後ろに居場所はないと感じていた。
絶対に、見つかるわけにはいかない。
逃げ続けなければ。

歩いているうちに、時刻は深夜になろうとしていた。
ようやく見えてきた休憩所に、ほんの少し安堵する。
休憩所には、ベンチとテーブルを備え付けた小さな東屋(あずまや)とトイレ、自販機と水飲み場、駐車場があり、子どもがボール遊びをするようなだだっ広い平原が広がっている。
もう少し先には、展望デッキもある。
今なら夜景が見えるだろう。
地元の子どもたちが、遠足で訪れそうな雰囲気だ。

夏とはいえ、風が吹くと汗が冷える。
東屋で過ごすのは寒そうだ。
そうなると、と私は視線を上に向ける。
東屋から少しだけ坂を登った所には、2階建ての小さな展望台がある。
私はそこを目指すことにした。

展望台に自転車を横付けする。
円柱状の、小さな灯台のような見た目をしたその展望台には、扉もない。
白壁を四角くくりぬいただけの出入口から入ると、雑草と砂利でできた丸い地面が現れた。
対面から壁沿いに螺旋階段が設置され、2階へ上がることができる。
もちろん電気はないので、先へ進むには、四角くくりぬかれた窓から差し込む、街灯や星明かりが頼りだ。

荒れた肌のように錆びついた手すりに触れ、慎重に鉄製の階段を登る。
簡易ゆえに、足を踏み外しそうで、ちょっと怖い造りだ。
2階まで上りきると。

なんとそこに、先客がいた。

この暗闇で、人がいると気付けたのは、その人が窓辺にいたからだ。
四角いはずの窓の形が、人型に欠けていて、思わず私は固まる。
……ホームレスが居着いていたのだろうか?
こんなところに人などいないと思っていたから、完全に油断していた。
先客は、足音で私の存在を感知していたのか、あまり驚いた様子もなく、こちらを見ている気配がする。
……ごめんなさい、失礼しましたとでも言って、この場を去ろうか。
すっかりコミュ障になった頭でぐるぐると考えていると。

「ああ、どうも」

先客の方から、存外明るく声をかけてくる。
知り合いに手を振るようなノリだ。
あと、声が思ったより若い。
同級生の男子みたいな。

「……こんばんは」

とりあえず、挨拶してみる。
声をかけられたのにこの場を去るのも、なんだか失礼な気がした。
もう、その対応が正しいのかも分からないくらい、私はやけになっていた。

「どうぞ、こっちへ。
景色、見えますよ」

先客は、まるで今が昼間のように、屈託なく言って窓辺の場所を譲る。

「……どうも」

私もなんとか相づちを打って、じりじりと窓辺へ移動する。
なんだろう、このやり取り。
どうすればいいんだ?
私が困惑していると、先客の男子は、警戒を解こうとしたのか、自己紹介してくる。

「僕、星を見に来たんですよ。
この近くの高校に通ってて、3年生。
藤見って言います」
「……はあ」
「同い年くらいですかね?」
「……そうですね」

なんとも気の抜けるような、へなへなとした返事をしてしまったが、彼は気にする様子もない。

「あなたは?」
「ええと……散歩……です」
「そうなんですね!
この窓、結構星が見えて、いいスポットですよ。
オススメです」

こんな深夜に散歩なんて、と咎めることもなく、彼……藤見は明るく話しかけてくる。
なんだか夜が不似合いな人だ。
どんな顔をしているのか、見ようとしたが、暗くてよく分からない。
でも声の様子からすると、とても楽しそうだ。
外ではしゃぐ小学生のような雰囲気がある。
本当はもっと警戒した方がいいのだろうけれど、ついそのノリにつられるようにして、窓から空を眺めてみた。
相手の言葉を否定できないあたり、やっぱり私は死んでいる。

見上げた空には、まばらに星が散らばっていた。
目をしばたたいてしばらく見つめると、だんだんと余白に、細かい星が見えてくる。

「近くに明かりが少ないですからね。
街中より、よく見えるでしょ?」
「……そう……ですね」

嬉々として話しかけてくる藤見。
本当は、違いなんて分からないのだけど、とりあえずうなずいておく。
が、藤見はすぐに、私の様子に気付いたらしい。

「まあ、普段、星なんて気にしませんよね!
大丈夫ですよ!」

なんで、私の本心が分かったのだろう?
祖母は、私の「うん、分かった、ありがとう」を真に受けて喜んでいたのに。
初めて会ったばかりの藤見は、本当は否定したい私の気持ちを見抜いてしまった。しかも、それで気を悪くした様子もない。

「場所が山の上だから、僕は週末の、天気のいい日だけ、ここに来るんです。
ちょっとした、内緒のお楽しみってやつです。
ほかに人が来ることはなかったから、今日は特別な日ですね」

それは、遠回しに邪魔だと言っているのか、本当に歓迎されているのか、どちらなのだろう。
……毎日、身内から人格否定されていると、すっかり自信がなくなってしまう。

「あなたもまた来ますか?
いい所でしょう、ここ」
「そう……ですね……」

なんとなく、条件反射で返事をした。
いい所かどうか、全然分からないけれど。
……それなのに、「そうですね」と答えた私は、彼に嘘をついたことになるのだろうか。
でももう、それも今更だ。
毎日毎日、あの家では、何一つ本心を語れないのだから。
「うん、分かった、ありがとう」という、薄っぺらい嘘しか、口にすることを許されない。
私は嘘つきだ。
人格を殺した今、存在自体が嘘だと言っていい。

そんな私を知ってか知らずか、彼は嬉しそうにしゃべり続ける。

「ぜひ来てくださいよ、そしたら嬉しいなあ。
……僕、今日はしばらくここにいます。
朝には帰りますけど。
あなたは?」
「そう……ですね……」
「好きなだけいればいいですよ、僕、変なことしませんから」
「そう……ですね……」

せっかく話しかけてくれるのに、うわごとのような返事しかできない。
本当は、もっと、言いたいことがあったような気がする……のに、今は何も浮かばなかった。
それにも関わらず、彼はよくしゃべる。
それも機嫌よく。
話を聞いてもらうだけで満足するタイプなのだろうか?
私が素っ気ない相づちしか打てなくても、藤見は楽しそうにしてくれるので、途中からだんだん気が楽になってきた。
「うん、分かった、ありがとう」でないとかんしゃくを起こす祖母とは違う。
もう少し、彼と話をしていたい。
そう思っている内に、時間は刻々と過ぎていく。

「……ああ、そろそろ帰らないと」
「そう……ですね……」
「じゃあ、また。
楽しかったよ」
「そう……ですね……」

藤見は階段を降りながら、こちらへ手を振ってくれた。
どうやら、本当に楽しかったらしい。

全部偽りの生返事をした自分とは、大違いだ。
きっと彼は、本心を惜しげもなくさらせる、「本当」の人なのだろう。
それが少し、うらやましかった。