肉体と魂が馴染むまで天界で過ごすことが決まったミトは、宛てがわれた部屋で寝台に座りつつ窓の外を見ては、ほうっとため息のような息を漏らす。
空は虹色に輝き、時折龍が空を駆ける。
それぞれ違う色をした龍は、龍神の真の姿。
移動する時は龍の姿を取ることが多いのだという。
なんとも幻想的な光景だが、屋内では基本的に人の姿でいるようだ。
波琉もずっと人の姿のまま。少しだけ残念に思うミトだった。
そんなミトは紫紺の王の伴侶ということで、それはもう大げさなほど丁重に扱われている。
花印を持った者が大切にされるのは龍花の町と似たようなものだったが、比較的近くにいた蒼真や千歳が気安かったためにあまり堅苦しさは感じていなかった。
しかしここでは、真綿で包むかのように、それはもう慎重に遇されている。
ミトは何度普通にしてくれと頼んだだろうか。
けれど、皆ニコニコと微笑みを浮かべながら流される。
食事から着替え、さらにはお風呂まで世話をされそうになり、さすがに固辞した。
この波琉の住まう水宮殿に勤める女官は、龍花の町で言うところの神薙のような役職だ。
王である波琉の身の回りのお世話をする役割を持っているので、必然と波琉の伴侶であるミトの世話をしてくれている。
なぜだか分からないが、ものすごく歓迎されているのを肌で感じて首をかしげていると、理由は波琉の補佐である瑞貴が教えてくれた。
波琉から紹介された瑞貴という人は、ミトを見つけ波琉に連絡を取った者だと聞いてすぐさま礼を言うと。
「とんでもありません。このたびは大変な目に遭われたようで心中お察しいたします。慣れない場所で気も滅入るでしょう。ご用がありましたらすぐに対応いたしますので、お気軽におっしゃってください」
などと逆に気を遣われてしまう。
「堅苦しいよねぇ」
などと、かしこまった瑞貴の態度に、波琉は茶化すように笑う。
見るからに真面目そうな雰囲気を持った人であったが、同意するのも失礼だろうとミトは苦笑するしかなかった。
けれど、自分に対して好意的な空気を感じたので、ミトは少しほっとする。
ミトにとって天界は未知の世界だ。そこでどんな暮らしになるのか、龍神たちに自分は受け入れられるのか不安は当然あった。
けれど、そんな心配を吹き飛ばすほどの高待遇。それを女官たちに指示しているのが瑞貴だというのだ。
そんな瑞貴は、過剰なほど世話をされて恐縮し通しのミトに穏やかな笑みを向ける。
「皆喜んでいるのですよ。紫紺様の変わり様に。そして、紫紺様を変えてくださったあなた様に感謝しているのです」
「私はなにもしてませんけど?」
ミトは首をかしげ否定するが、瑞貴は微笑ましそうに見つめてくるので、少々居心地が悪く感じるのが難点ではあるものの、天界での暮らしは不自由なく過ごしていた。
けれどやはり気になるのは龍花の町にいる両親たちのことである。
すぐにでも会いに行きたいが、新しい肉体と魂が馴染むまでは絶対に天界にいなければならないと強く説得されたので仕方がない。
両親はミトが死んで大層悲しんだと波琉から聞いたものの、ミトと波琉が花の契りをしたことを知っている。
花の契りの意味も。
それでもやはり現在進行形で心配をかけているに違いない。
自分が逆の立場だったらそうだと考えて、どうしたら両親を安心させられるかとミトが考えていると、波琉から提案がされた。
手紙を書いたらどうかと。
「手紙ってそんな簡単にやり取りできるの?」
「向こう側から天界へ送ってくるのは誰か龍神の力を借りないと難しいけど、天界から町へ手紙を送るのは簡単だよ。天界から送られてきた手紙は神薙がちゃんと管理しているから、きちんと昌宏と志乃に渡されるはずだ。ふたりからの返信は期待できないのを承知の上なら手紙を送るよ」
「そうなんだ。本当はあっちの様子も気になるけど、返信がなくてもいい」
とりあえず自分は無事であると伝えたい。
死んでいて、さらには葬儀まで行われておきながら無事というのもおかしな気はするが、いたって健康そのものなのだから間違いではないのだ。
ミトは簡単にだが、自分の近況と、天界で元気に過ごしていること。
近々ちゃんと戻るから安心してくれという内容を書いた手紙を波琉に託す。
それはその日のうちに龍花の町へ送られたようだ。
返事がないのが残念ではあるが、戻ったらいくらでも話せばいい。
ミトは絶対安静だと言われているので寝台に腰掛けながら、隣に座る波琉に問う。
「ねえ、波琉。いまいち肉体と魂が馴染むっていうのが分からないんだけど、私の状態はどんな感じなの? まったく変なところはないんだけど」
「違和感がないのはそれだけ順調に肉体と魂が馴染んできている証だよ。でもまだ駄目だからね」
「そっか」
それを聞いたら俄然嬉しくなる。
順調ということはそれだけ町に帰る日が近いという意味なのだから。
「待ち遠しいな」
鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌で窓の外を眺めるミトを見つめる波琉は、わずかに沈んだ顔をしていた。
「ミト」
「なあに?」
「ミトは聡いから気づいてると思うけど、念のために言っておくよ」
ミトは窓から波琉へ顔を向ける。
弱々しさすら感じる波琉の眼差しは、ミトの覚悟を問うてくる。
「天帝から肉体を与えられた時点で、ミトは人間であって人間じゃなくなってしまっている。その肉体は限りなく神に近い存在となり、飢えることもなければ老いることもない」
「……うん」
ミトは波琉の言わんとしていることが分かり、視線を下に落とした。
「龍花の町に行くことは可能だけど、人間でなくなったミトは、両親や他の者と同じ時間の流れを共有できない」
代わりに、花の契りを交わした波琉と一緒の時間を手に入れた。
それは喜びとともに悲しみを呼ぶ。
「ミトは今の若い姿のまま永遠を生きる。両親や友人が老いても、死んでも、ミトは今の容姿のまま、なにひとつ変わらず生き続けるんだよ」
「…………」
ミトは顔を俯かせ沈黙する。
「それはきっとミトに大きな苦痛を与えることになるはずだ」
波琉はきちんと説明する。
ミトを想い、ミトのためにと、背けたい現実を非情に突きつける。
波琉と生きると覚悟していたつもりだったが、両親や千歳、蒼真や尚之が年老い、いなくなっても自分が変わらぬ姿である光景を想像して、ミトは悲しくなった。
だからといって、花の契りをしない方がよかったとは思わない。
花の契りを交わしたおかげで、ミトは今ここにいられる。
両親たちにもまた会うことができるのだから。
改めて覚悟を自分に刻み込み、ミトを気遣う波琉に向かって微笑んだ。
「大丈夫だよ。花の契りを交わそうって言い出したのは私だもの。いつか来る別れの時はきっと悲しくて泣いちゃうと思う。でも、波琉がそばにいてくれるでしょう?」
「うん。なにがあろうと一緒にいるよ」
「だったら大丈夫。乗り越えられるよ」
今はまだ考えたくない。
けれどいつか来る親しい人たちとの別れの時。
想像するだけでも胸が苦しくなるが、波琉がいるなら自分は大丈夫だと信じることができた。
それに、悲しむのは早い。
まだミトの愛する人たちは生きている。悲しむのはもっと後でいい。
今は大事な人たちと会えることを喜ぶべきなのだ。
波琉は手を伸ばしミトの頬にそっと触れる。
ミトも波琉手のひらに頬を寄せると、優しい温もりが伝わってきた。
自分がいるとミトを勇気づけてくれるかのような温かさに、ミトは波琉を見つめながら微笑んだ。
そうすれば波琉もまた微笑み返してくれる。
ふたりの間に必要以上の言葉はいらなかった。
そんなものがなくても分かり合えていると感じられる信頼が、その目から伝わってくる。
無言ながら穏やで優しい時間がすぎていく。
しばらくして、ミトは口を開いた。
「堕ち神はあの後どうなったの? 捕まえた?」
ミトは最後まで意識を保っていられなかったので、その後堕ち神がどうなったか知らずにいた。
「もしかして天界まで追いかけてきたりする?」
だとしたらこんなにのんびりしていていいのだろうかと心配になったミトだが、それは杞憂だった。
「堕ち神は天界に立ち入ることはできないよ。そもそも天帝に天界を追放されたから堕ち神というんだしね。だからミトも天界にいる間は堕ち神の心配はしなくていいよ」
それを聞いてミトはほっとする。けれど、すぐに別の懸念が浮かんだ。
「お父さんやお母さんや、他の身近な人が狙われたりしない?」
そもそもなぜ自分が堕ち神に殺されたのかミトは理由を知らない。
分からないからこそ、町に残してきた人たちが心配だった。
波琉がいたなら助けてくれるかもしれないが、波琉はミトの目の前にいる。
龍花の町でなにかあっても両親たちを救ってくれる人はいない。
さすがの神薙でも、元龍神相手では対処できないだろう。
ミトの不安を払拭するように波琉はニコリとする。
「それなら大丈夫。煌理を置いてきたからね。ミトの両親のことも町のことも煌理に任せてきたよ。町にいる龍神たちの指揮もしてくれているから」
「そうなんだ」
それを聞いてミトは安堵する。
煌理がどういう者か数度会っただけなのでミトは多くを知らないが、波琉と同じ王となればその力は聞かずとも想像できた。
そして、波琉は信用できない者にミトの両親を任せたりはしないだろう。
両親になにかあって一番悲しむのはミトであり、ミトを大事にする波琉が信用のおけない者に任せるはずがないのだから。
けれど、まったく心配がなくなったわけではない。
ミトは波琉のおまじないがありながら隙を狙われ殺されてしまったのだ。
けれど、それを口になどできるわけがない。
波琉を責めるつもりはなくとも、波琉が落ち込んでしまうのは明らかだ。
「早くお父さんとお母さんに会いたいな……」
ミトのつぶやきはどこか寂しさを含んでいた。
そんなミトを前に波琉は立ち上がると、突然「ちょっと待ってて」と言って部屋を出ていった。
首を捻りつつ、大人しく待っていたミトの部屋に、見慣れた白い毛の生き物が飛び込んできて、寝台に座っていたミトを押し倒した。
『ミト~』
ハッハッと息を荒くしてミトの上にのしかかったのは、犬のシロだ。
ここにいるはずのない存在に押し倒された状態でミトは目を丸くする。
「えっ、シロ?」
『そうだよー』
「なんで?」
一瞬ここが天界なのか龍花の町なのか分からなくなるミトのところにさらに近づく存在があった。
『こら、シロ。ミトはまだ安静にしてないといけないって言われたでしょう』
そう言ってシロを叱るのは、猫のクロだ。
「クロ?」
『私もいるわよー』
と言って飛んで入ってきたのは、スズメのチコだ。
「チコまで!?」
状況が理解できないミトに、クスクスという波琉の笑い声が届いた。
目を向ければ、ドッキリが成功したと言わんばかりに笑う波琉が入ってきた。
「波琉。どういうこと? どうしてシロとクロとチコが天界にいるの?」
驚きを隠せないミトは、シロが上からどいたことで身を起こした。
尻尾をブンブン振るシロの頭を撫ればフワフワと心地よく、それが幻でないと分かる。
「ここは天界でしょう?」
分かっていながら確認するミトは、かなり混乱していた。
「驚いた?」
茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべる波琉。
「そりゃあ、もちろん。どうして皆がここにいるの?」
波琉はミトの隣に腰を下ろし、説明する。
「シロたちがミトを心配していたから連れてきたんだよ。ミトが天界に来るより少し前にね、シロたちに僕の眷属にならないかって提案をしたんだ」
「眷属?」
「まあ、簡単に言うと、龍神の下僕みたいなものかな? 下僕って言ってもなにかさせたいわけじゃなくて、ミトが天界に来た時に一緒に連れてきたら賑やかでいいなって思っただけなんだけどね」
“下僕”と言われるとあまりいい言葉ではない印象を受けるが、シロたちが気にしている様子はない。
「眷属にすると天界にも連れてこられるし、寿命も気にしなくていいんだよ。動物は人間よりずっと寿命が短いでしょう? 僕自身もシロたちを気に入ってたから、いっそのこと眷属にしようかなって」
「じゃあ、シロたちは眷属になるのを受け入れたから天界にいるの?」
いったいいつの間にそんなやり取りをしていたのかと、ミトは驚く。
「うん。眷属にならないと天界には連れてこられないからね。僕が驚くほど即答だったよ」
『波琉がね、ミトとずっと一緒にいたくないかって聞くから、いたい~って答えたの』
嬉しそうに尻尾を激しく振りながら告げるシロは、あまり理解しないまま眷属になったように思う。
もとより考えるよりまず行動というシロは、感情に流されるまま答えたに違いない。
けれど、クロやチコは違うはずだ。
「クロとチコは眷属になってよかったの?」
『ええ。シロだけだとかわいそうだしね』
『ミトとずっと一緒にいられるっていうし、断る理由なんてないもの』
シロの保護者とも言えるクロと、チコはなんてことないように答える。
かなり人生を左右する大きな選択のはずなのに、シロからもクロからもチコからも、真剣味を感じられなかった。
むしろそんなに簡単に決めてよかったのかと、ミトが心配になるほど軽い空気を発している。
「本当によかったの?」
『ミトは私たちがいるのは嫌なの?』
少し拗ねたように問うクロに、ミトは慌てて否定する。
「そんなことないよ。ずっといられるなら嬉しいもの!」
『だったらいいじゃない。これからも私たちはミトの味方よ』
ミトははっと息を呑む。
「…………」
不意打ちすぎてミトは上手く言葉が出てこなかった。
いつか家族にも友人にも置いていかれる未来。
しかし、少なくともこの二匹と一羽は長い時を一緒にいてくれるという。
これほど心強く、そして頼りになる味方はいない。
「波琉、ありがとう」
シロたちを眷属に迎え入れたのもミトのためなのだろう。
いつもミトのために動いてくれる波琉への感謝は、ひと言では伝えきれないほど大きく、どうやって返していけばいいのかと悩んでしまう。
波琉の気遣いに泣きそうになりながら、ミトは感謝を伝えた。
「私の花印が波琉と同じでよかった……」
他の誰でもない波琉だったことに、名前しか知らない天帝にお礼を伝えたくなった。
二章
いまだ肉体が安定していないからという理由で、龍花の町に戻れずにいるミトには、日を追うごとに焦燥感が募る。
天界の一日も人間界の一日も変わらないので、同じだけの時間が過ぎているかと思うと余計に焦るのだ。
しかし、時間を気にしない龍神が住まう世界にはカレンダーも時計も存在せず、時間の感覚がよく分からなくなってきている。
夜に寝て朝に起きるという規則正しい生活を心がけているが、自分の感覚と実際に過ぎ去った日にちが合っているのかミトは不安になってきていた。
ミト自身の感覚ではとうに一週間は経っている気がするが、それも不確かだ。
しかも、龍神は朝も夜も関係なく行動するので、真夜中と思われる暗い時間に、女官が普通に部屋に入ってきて掃除を始めたりするものだから、余計に体内時計がおかしくなる。
さすがに夜中の突撃訪問は改善してくれと波琉に頼んだおかげで、夜中に押しかけられることはなくなり安堵した。
人間であって人間ではない今のミトは、老いも空腹も感じなくなっているが、睡魔は普通にやって来る。
そこは、睡眠を必要としない龍神と違うところだ。
人間ではなく神に近い肉体といっても、神ではないので休息は必要という不完全な肉体。
どうして天帝はそんな肉体を与えるのだろうかとミトは疑問に思うが、王である波琉ですらそれには答えられない。
「そもそも花印の伴侶自体、天帝の気まぐれで生まれたものだからねぇ」
といって、深く考える気はなさそうだ。
天界での暮らしもだいぶ慣れてきてはいたが、早く龍花の町に帰りたい気持ちは日増しに大きくなる。
「波琉。まだ町に戻っちゃ駄目?」
「だーめ。まだ一週間も経っていないよ」
「結構経ったと思うんだけど」
ミトの感覚ではとっくに一週間経過しているが、違うのだろうか。
「気のせい気のせい」
波琉の否定の仕方は軽く、ごまかそうとしているようにも感じられて、本当なのか迷ってしまう。
早く早くと焦るミトの気持ちとは反対に、波琉はのんびりとかまえており、それが少し腹立たしくて、じとっとした目で見つめた。
「そんな目をしても駄目なものは駄目だよ」
「むー」
波琉の協力がなければ龍花の町には戻れないので、ミトも必死でお願いするが梨のつぶてだ。
なんだかんだで上手くかわされてしまっている。
「早くお父さんとお母さんを安心させてあげたいのに……」
「その気持ちは分かるんだけど、正直言うと、僕は今の龍花の町にミトを行かせるのは反対なんだよねぇ」
「どうして?」
「ミトがどうしてここにいるか忘れたの? 堕ち神の問題はまだ片づいていないんだよ。煌理からも続報がないしね」
ちゃんと覚えている。
忘れたくとも忘れられるものではない事件なのだ。
「ミトのはやる気持ちは理解できるけど、それ以上に心配なんだよ。あの堕ち神は危険だ。もしまた狙われたらと考えると気が気じゃないんだ」
不満と不安がないまぜになった声色で話す波琉の様子に、ミトにも迷いが生まれる。
「でも……」
波琉の気持ちも分からないでもないが、両親を安心させたい気持ちが大きい。
自分が死んでどれだけ悲しみ、落ち込んでいるだろうかと考えると、わがままだと理解しつつも戻りたい思いが先走る。
口にせずともミトの表情から伝わったらしく、波琉は困った顔をする。
「天帝から与えられた肉体は不老だけど、不死ではないんだよ。それは龍神も同じだ」
「そうなの?」
龍神と『死』という言葉が結びつかなかったが、波琉は頷く。
「そうだよ。天界から追放された龍神が堕ち神となり消滅するのと同じで、龍神だって死ぬんだよ。人間の世界で生きる者の死は次への生につながるけど、天界で生きる者の死は消滅を意味している」
「消滅……」
なんとも恐ろしい言葉が波琉から発せられる。
「天帝から与えられた肉体を失うと魂ごと消えちゃうんだ。下界で生き物が死んでも輪廻の輪に組み込まれ次の生が待っているけど、天界で生きる者に次はない。生き返ることも生まれ変わることもできない」
ミトの顔が強ばる。
「龍神である僕と違って、人間だったミトには身を守る力も攻撃する力もない。だからこそ、必要以上に気をつける必要があるんだ。どうかそれを忘れないで。無茶だけはしてほしくない」
真剣な波琉の眼差しに、ミトは息を呑む。
消えると聞かされ怖くないはずがない。
それは死よりもっと恐ろしい事態だ。
けれど、それでもやはり……。
「波琉が心配する理由はすごく分かる。私が逆の立場だったら危険なところに行って欲しくないもの。でも、だからこそ龍花の町に残してきた皆が心配なの。波琉が危険だって思う場所にお父さんやお母さんたちはいるわけだから」
「煌理を残してきたよ?」
「でも、ずっとそばにいて守れるわけじゃないでしょう? 私がまた狙われるなら、むしろの方がいいと思うの」
そんなことを口にした瞬間、波琉の表情に苛立ちが浮かぶ。
「なにを馬鹿なことを言ってるの?」
低くなった声に、波琉が怒っているのが分かる。
けれど、ミトも引けない。
「だって、それなら堕ち神の注意を私に向けられて、波琉たちも堕ち神を探したり対処方法を考えたりしやすいでしょう?」
大事な人たちが傷つくぐらいならいくらでも自分の身を差し出す。
それぐらいの気持ちでいたが、それは波琉を怒らせるだけだった。
「ミトがそんな気持ちでいるなら、ミトを龍花の町に行かせるわけにはいかないよ」
今にも怒鳴りつけたいのを無理やり押さえつけているかのような静かな怒り。
波琉がこれほどに厳しい顔をミトに向けたのは初めてだったかもしれない。
「でも、波琉っ」
「駄目だ」
「波琉!」
ミトが波琉に手を伸ばすと、それは空を切り、代わりに抱きしめられる。
息苦しさを感じるほど強い抱擁にミトは身じろぐが、波琉は離さない。
「ミトを危険に晒せるわけないでしょう? そんなの天帝の命令だとしても許さないよ」
波琉の頑ななつぶやきは、否定などさせないと言わんばかりの強い拒否感があった。
そんないつもとは違う波琉の様子に、最初こそ意志を押し通すつもりでいたミトもどうしていいか迷いが生まれる。
「波琉……」
困り果てた弱々しい声で波琉の名前を呼ぶが、波琉は答えない。
代わりとばかりに、抱きしめる力が強くなる。
少し間を置いてから、波琉は責めるようにつぶやいた。
「ミトはひどいよ。目の前でミトが殺された時、そしてミトの魂を見失った時、僕がどれほど絶望したと思ってるの? 天界でミトの無事な姿を見た時にどれだけ安堵したか分からない?」
「ごめんなさい……」
「謝ってほしいわけじゃないよ。ミトには僕の目が届く場所で安全に守られてくれればいいんだ」
波琉から伝わる感情の中にあるミトへの依存。
「僕から離れていこうとするなんて許さない。ミトは僕のものでしょう?」
波琉から告げられる重い執着心に、ミトは恐れより嬉しさを感じた。
「波琉から離れようなんて思ってない。波琉が一緒にいてくれるって分かってるから、安心して龍花の町に戻れるの。私が危険な目に遭っても、今度は絶対に守ってくれるって信じてる」
ミトの方から波琉に背に腕を回し抱きつけば、波琉の体がビクリと反応した。
「ね、波琉?」
ミトが柔らかな声で問いかける。
「…………」
波琉はなにを思っているのか、言葉は返ってこない。
するとそこへ、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
そっと離れる波琉の温もりを残念に思いつつ、ミトは返事をする。
「どうぞ」
きっと女官だろうと思っていたが、入ってきたのは予想外の人物。
金赤の王、煌理の伴侶である千代子だった。
ミトは驚いで目を丸くする。
「千代子さん?」
千代子はミトに向かって柔らかく微笑んだ。
「ちゃんと天界に来られていたのね、よかったわ」
そこ声色からは安堵が伝わってくる。
波琉は千代子の背後を見て、他に誰もいないのを確認する。
「千代子だけ? 煌理は?」
「それが、先に私だけ戻っているようにと言われてしまって……」
千代子は困ったように苦笑する。
「堕ち神である玖楼様は私とも因縁があります。百年前の事件の当事者であり、キヨさんが死ぬ原因になったと逆恨みして、次に狙ってくる可能性は大いにありますから。なので、堕ち神が絶対に立ち入れない、安全が保証された天界にいる方がよいだろうと強く願われたのでひとり戻って参りました」
「確かにその通りだね。龍神ならまだしも、君もミトと同じで抵抗する力を持たないんだから、安全な天界にいるのが一番だ」
「そうですね。それに、ミトさんへのお届けものもありましたから」
波琉と会話していた千代子がミトに視線を向ける。
「私に届けものですか?」
「ええ。これを」
千代子は二通の手紙をミトに渡した。
なんら変哲もない、普通の封筒に入った手紙だ。
誰からだろうかと裏返して目を見張る。
「これ……」
「あなたのご両親からそれぞれ託されたものです。ミトさんに会えたら渡してほしいと」
二通の封筒の裏には、それぞれ『母より』『父より』と手書きで書かれている。
ミトはその文字を噛みしめるように指でゆっくりとなぞった。
「お父さん。お母さん……」
「最初こそ見ていられないほど憔悴されていましたが、あなたからの手紙が届くと大層喜んでおられましたよ」
やはり悲しませてしまっていたと知り、ミトは落ち込む。
しかし、「いいご両親ですね。ミトさんがどれだけ大切に育てられてきたのかよく分かりました」と、微笑ましそうに目を細める千代子の言葉に救われた気持ちになる。
「千代子さん、ありがとうございます」
大事そうに胸に抱きしめ、ミトははにかみながらお礼を言った。
「いいえ、感謝されるようなことはありません。逆にあなたは私を責める権利があります。百年前の出来事にあなたを巻き込んでしまったのですから。本当にごめんなさい」
千代子はミトの手に両手を添えて、申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
オロオロするミト。
「千代子さんが悪いわけじゃありません! 波琉にも言ったんですけど、悪いのは堕ち神なんですから」
まさか百年前の因縁が今も生きて害を及ぼすなど、千代子はもちろん、煌理も思わなかったはずだ。
ミトは自分の死について誰かを責めるつもりは一切なかった。
自分を殺したという堕ち神に対しても、ミトはどこか同情を禁じ得ず、少々複雑な気持ちだった。
もちろん、決して許される行いではなく、ショックであるのは変わらない。
自分の死によって、波琉を初め、両親など多くの人を悲しませる結果となってしまったのだ。
ミトは両親からの手紙に視線を落とす。
丁寧に封を開けて読む。
昌宏も志乃も、まず最初にミトの身を案じる言葉から始まり、それ以後も、自分たちのことよりもミトを心配する内容だった。
千代子が天界へ帰ると聞いて慌てて書いたのか、字が乱れて読みづらいところがいくつもあった。
それでも、手紙からは両親からの愛情がたくさん伝わってくる。
文章の中にある『いつまでも待っているから』という一文がミトに深く刺さる。
ああ、ふたりの子供でよかったーー。
そう思えるような手紙にミト嬉しくなるとともに、いつか別れの時は来るのだという波琉の言葉を思い出して涙があふれそうになった。
それをぐっと目をつぶることで耐えると、波琉がミトの肩を抱き寄せる。
ゆっくりと目を開ければ、心配そうな顔をする波琉が目に入ってきて、ミトは大丈夫だと伝えるように小さく笑った。
そして再度千代子へお礼を言う。
「ありがとうございます。千代子さん。肉体が安定するまで町には戻れないって波琉に止められていたんです。いつ帰れるか分からない状況に、このまま両親に会えないんじゃないかって不安な気持ちもあったので、せめて手紙だけでもやり取りができて嬉しいです」
「そうよね、あまりに突然のことだったもの。不安にもなりますよね」
「はい……」
ミトはこくりと頷く。
「けれど、数週間もすれば肉体が安定してちゃんと下界に行けますから、そこは安心して大丈夫ですよ。先輩の私が保証しますから」
「波琉から聞いていたので町に戻れるのは間違いはないと分かってはいたんですけど、龍神は時間の感覚が緩やかなので、一、二週間って言われても本当なのかなって。百年や二百年と間違ってないかビクビクしてしまって」
「ミト、信じてなかったの?」
「う、だって……。波琉ってのんびりしてるし、あまり時間とか気にしないし……」
疑われてショックだと言わんばかりの波琉に、ミトはばつが悪そうな顔をする。
その様子を見た千代子がクスクスと笑う。
「確かに時の流れに関して龍神の言葉は信用なりませんものね。一年も十年も大した違いなんてないと思っていますから」
その通りというように、こくこくとミトは無言で何度も頷いた。
「町に戻ったら皆いなくなってるんじゃないかって考えると怖くて……」
表情が沈んでいくミトを見て、波琉はなんとも言えない顔をしつつも、言葉をかけられずにいる。
そんな中、千代子は柔らかな表情を浮かべた。
「そうよね。大事な人たちとの別れは考えるだけでとっても苦しいもの。寿命のない龍神は人間とは感覚が少し違うから、分かっているようでいて芯の部分では理解できないように思います」
千代子は百年前を生きた人間だ。
彼女の大事な人たちはもういないに違いない。
「波琉がいるから大丈夫だって思ってますけど、でも実際にその時が来ないと分からないです。私はまだ誰かの死を経験したことがないから……。千代子さんはどうでしたか?」
このようなことを聞くのは酷ではないのか。
問いかけてからミトは失敗したと後悔するが、一度発してしまった言葉を戻すことはできない。
千代子を傷つけたのではないかと心配するミトに、千代子は優しい笑みを浮かべた。
「確かに家族や友人との別れは悲しくて苦しくて胸が痛かったです。置いていかないでと、死人に泣き叫びながらすがりついたこともあります」
憂いを帯びた眼差しは、ここではない遠くを見ていた。
「けれど、人間の生より煌理様を選んだのを後悔したことは一度もないの」
千代子の目に力が宿る。
「嬉しい時も悲しい時も煌理様はそばにいてくださった。ともに生きる覚悟をした私と同じく、煌理様も私と生きる覚悟をしてくださっている。そんな煌理様を愛おしいと思っているうちは、私が後悔をすることはないでしょうね」
千代子からは煌理への確かな愛情が感じられる。
百年経っても変わらぬ気持ちは、素直にすごいと思えた。
「ミトさん。あなたは花の契りをしたのを後悔している?」
「してないです」
ミトは即答した。
迷いのない返答に千代子はふふっと笑う。
「だったらきっと大丈夫ですよ。辛い出来事もひとりなら難しくても、ふたりなら乗り越えられるはずです。だって夫婦は一蓮托生ですもの。波琉様はきっとあなたの心ごと守ってくださるわ」
「当然じゃないか」
波琉は愚問だとでも言うように眉間にしわを寄せる。
「なにがあっても僕はミトのそばにいるからね。覚悟ならいくらでもできているよ」
ミトに言い聞かせるように告げる波琉は少しムッとしている。
「波琉、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ。なんだか千代子の方がミトを分かっているような言い方をするから気に食わないだけ」
「あらあら、嫉妬させてしまったようですね」
少々不機嫌な波琉とは反対に、千代子はどこか楽しそうだ。
「先輩としてアドバイスするならば、今はまだ余計なことは考えず、大事な人たちと過ごすその時間を大切にしていけばいいと思いますよ」
経験をした千代子だからこそ、その言葉には重みがあった。
「はい。そうします……」
ミトは素直に受け入れた。
***
波琉はミトが死んだ時のことを思い出す。
他の龍神たちと堕ち神を探していた波琉は、ミトを守っていた己の力が掻き消えたのが分かりはっとする。
動きを止めた波琉の異変に、一緒にいた煌理が気づいた。
「どうした?」
「ミトを守っていた力がなくなったみたいだ。煌理……」
「ここは気にするな」
「頼んだよ」
煌理は波琉がなにも言わずとも理解していた。
阿吽の呼吸で、波琉はありがたくその場を任せてミトのところを目指す。
人の姿では時間がかかる。
のんびりしていられないと、龍の姿となって空をかけ、学校を目指した。
花の契りを交わしたおかげで、ミトとは魂のつながりができていた。
それゆえ、ミトの居場所は誰に教えられずとも手に取るように分かるのは幸いだ。
早めに花の契りを交わせたのは僥倖だったと波琉は思う。
まさかミトの方から花の契りをしたいと言い出すとは思わなかった。
まだ外の世界を知らないミトを手中に収めてしまっていいのかというわずかなためらいと、それを大きく上回る歓喜。
花の契りを交わせばもう後戻りはできない。
ミトを自分のものにできる仄暗い喜びが波琉の心を支配する。
こんな胸の内は決してミトには見せられない。
ミトは波琉のことをのんびりで優しい性格と思っているようで、波琉の過剰なスキンシップもなんだかんだ受け入れてくれている。
けれど、波琉が向ける感情はミトの思うものとはきっと違う。
もっとドロドロと絡め取るように恐ろしいものだ。
確実に怖がらせるに違いない。
自分にこんな感情があったのかと、ミトと出会ってから初めての気持ちをたくさん経験した。
それがいいのか悪いのか分からないが、ミトに揺さぶられ振り回される自分を悪くないと思っている。
唯一自分の感情を動かせる存在。
もう手放すなど考えられない無二の愛すべき人。
そんなミトになにがあったのか、気が気でならない波琉は全速力で空を飛ぶ。
そして学校の屋上に着くと、人の姿に戻った。
校舎内に入るには、龍の姿は大きすぎるのだ。
ミトの無事を気配で感じてほっとした直後感じる堕ち神のわずかな神気。
波琉は顔色を変えた。
なぜ早々に気がつかなかったのかと後悔しつつ、頭の中はミトのことでいっぱいだ。
「ミトっ!」
ここ最近ミトの命を狙っていたのは堕ち神だと波琉は気づいていた。
しかし、理由が分からない。
ミトは星奈の一族であるため、堕ち神である玖楼と同じ花印を持っていたキヨとは多少なりとも血のつながりがあるものの、百年前の話なのでミトとはほぼ無関係と言ってもいい。
それなのになぜミトを執拗に狙うのか。
焦りを隠さぬまま急いで向かうと、ミトのそばにいる千歳の姿をしたなにか。
すぐにそれは千歳ではなく姿を変えた堕ち神だと分かり、波琉は一気に警戒する。
いったいなにを企んでいるのか知らないが、ミトの安全を先に確保しようと体が動くが、一足遅くミトが倒れゆく姿がスローモーションのようにして波琉の目に入ってきた。
「ミト!」
必死で手を伸ばすがそれは届かない。
堕ち神は倒れたミトに近づき手を触れようとしていたが、そんなことを波琉が許すはずがなかった。
爆発するような神気が堕ち神に襲いかかり、ミトに近づけないようにする。
千歳の姿をした堕ち神はちっと舌打ちして悔しげな表情をする。
しかし、紫紺の王を相手に分が悪いと感じたのか、ミトを名残惜しげに見つつ霞のように姿を消した。
追おうと思えばできたが、ミトとを見比べてあきらめる。
波琉にとって最優先すべきなのがどちらかなど、考えるまでもなかった。
ミトに外傷はなかったが、堕ち神から攻撃を受けていた。
人間でいうところの呪いのようなもの。
堕ちたとはいえ元は神。その力と堕ちた者の怨嗟の念はミトを蝕んでいく。
その力は予想以上に強く、波琉ですら手をこまねいていた。
「ミト、駄目だよ。まだ早い」
鼓動を失っていくミトをつなぎ止めようと波琉はできる限りの力を尽くす。
ようやくミトを縛りつけていた村から解放され自由を手に入れたところだ。
まだまだ、ミトの人生はこれからだというのに……。
「ミト。ミトっ……」
波琉が必死に呼びかけるが、ミトが答えることはなく、そのまま肉体の活動は停止してしまう。
「……っ」
目を開けないミトの体を抱きしめ、波琉は悔しげに顔を歪めた。
ミトを屋敷に連れ帰ると、出迎えた蒼真と尚之は波琉のただならぬ雰囲気に顔色を変える。
「紫紺様、どうなされたのです!?」
尚之がオロオロしながらミトに目を向ける。
まだ時間は経っていないので、寝ているようにしか見えないだろう。
「ミトの両親を呼んで」
「紫紺様?」
いつになく感情のない波琉の声に蒼真も尚之も驚いている。
「ミトはどうしたんですか?」
身動きすらしないミトの様子に、なにかしら察するものがあったのだろう。
硬い口調の蒼真の問いかけに、波琉は淡々と告げる。
「堕ち神に殺された」
ひゅっと息を呑む尚之と、顔を強ばらせる蒼真。
そのふたりを無視して、波琉はミトを部屋に連れていき布団の上に寝かせると、ミトの傍らで静かに目をつぶった。
しばらくして、両親が帰ってきた。
慌ただしい足音が近づいてくるかと思うと、昌宏と志乃が入ってくる。
連絡を受けて急いできたのだろう、息を切らせていた。
ふたりの顔はまだ信じきれていないという様子だ。
それも当然だろう。
朝までは普通にご飯を食べて、「いってらっしゃい」と送り出していたのだから。
「ミト、蒼真さんから連絡があったのよ。なんの冗談なの?」
「さすがにそのドッキリはたちが悪いぞ。早く起きなさい」
志乃がミトの手に触れると、ビクリと体を震わせた。
ミトの手は冷たく、だらりとしている。
「ああ……」
我が子の異常をようやく悟った志乃が震えた声を発するが、それは言葉にはなっていなかった。
その様子を見た昌宏も激しく動揺する。
「おい、ミト。冗談はよせ。起きろ!」
昌宏が必死にミトの肩を掴んで揺さぶるが、ミトの目が覚めるわけがなかった。
昌宏は無理やり体を起こそうとしたが、ミトの体は力なく崩れる。
そうなってからようやく悟るのだ。
ミトが死んだと。
「そんな、そんな……」
状況を受け入れられない昌宏が矛先を向けたのは波琉だった。
「おい! どうしてミトがこんなことになってるんだ!」
「ごめん。堕ち神を甘くみていたみたいだ」
感情のない波琉の返答に、昌宏は激高して波琉の頬を殴りつけた。
がっという音がして、波琉の体が揺らぐ。
昌宏たちの後からやって来て、部屋の隅で控えていた蒼真が血相を変えて駆け寄り、もう一度殴ろうとしていた昌宏を羽交いじめにして止める。
当然だろう。
相手は龍神。それも紫紺の王なのだ。
そんな相手を殴るなどとんでもない行動だった。
「落ち着け!」
「これが落ち着いていられるか! ミトが! ミトが死んだんだぞ!」
あふれる涙を拭わぬまま波琉をにらみつける昌宏に、波琉はなにも言わない。
「どうして守ってくれなかったんだ!」
それは八つ当たりだった。
ミトを殺したのは波琉ではなく、ミトが死んで波琉も悲しくないはずがない。
それは分かっていても怒りと悲しみの持っていき場がないのだろう。
「お前がいながらどうしてっ!」
なおも叫ぶ昌宏の声を遮るように、志乃の声が響いた。
「やめて!」
志乃はミトの手を握りながら涙を流している。
「志乃……」
「波琉君が悪いんじゃないわ」
そのひと言で昌宏は黙り、力が抜けたように足から崩れ落ちる。
そして、声をあげて泣きだした。
「ミト、ごめんな。俺が守ってやれなかったから」
そう言って、悔しさでいっぱいの顔でミトに謝り続けていた。
しばらくして、次に屋敷を訪れたのはお世話係としてミトと行動をともにしているはずの千歳だ。
その顔色は悪く、ある程度の話は聞いていたようで、寝ているようにしか見えないミトの左右で泣く両親の姿に、千歳は呆然と立ち尽くしている。
そんな千歳に、蒼真は地を這うような声で迫った。
「千歳、どうしてミトがひとりで学校にいたんだ。世話係としてちゃんと帰ったか見届けるのがお前の責任だろ。それを怠るなんてなにしてやがる」
「……すみません」
千歳は反論することなく、肩を落として謝罪を口にする。
だが、実際その場に千歳がいたからといってなにができただろうか。
相手は堕ち神。
神薙とはいえ、ただの人間が龍神を相手にしてミトを守れるはずがない。
もしその場にいたら、千歳も生きている保証はなかった。
すると、尚之がどこからともなくハリセンを出して、蒼真の頭をバシッと叩いた。
「たわけ者! いい歳した大人が子供に八つ当たりをするでないわ!」
八つ当たりしている自覚があるからか、蒼真はばつが悪そうな顔をして視線を落とす。
そして、小さな声で「悪かった……」と口にする。
「いいえ、俺がもっと気にかけるべきでした」
深く頭を下げる千歳も、ただ謝ることしかできない。
ここにいる誰もが、悔しさでいっぱいになっていた。
「どうして、ミトは学校にいたんですか? ちゃんと車に乗って帰るのを見届けたはずなのに、確認のための電話をしてみたらまだ帰っていないって言われて……」
世話係として、ミトがちゃんと帰ったか確認するのは千歳の日課となっていた。
そこでまだ帰ってきていないことを知り、慌てて電話をかけたのだ。
くしくも、その時がまさにミトが堕ち神と遭遇していた時だった。
それを千歳は知らないので、なぜ帰っていなかったのか疑問だけが残っていた。
千歳の問いかけに蒼真が答える。
「忘れ物をしたらしい。それで学校へ引き返したのだと運転手が言っていた」
運転手はついていこうとしたが、すぐに戻るからとミトひとりで教室へ向かった。
千歳は悪くない。
責めるとしたら、度重なる危険に遭遇しながらも、波琉のおまじないがあるからと警戒心もなく動いたミト自身だ。
その後、ミトの葬儀は速やかに行われた。
嘆き悲しむミトの両親の姿を、少し離れたところから見ていた波琉に、煌理が近づいてくる。
「まさか堕ち神がここまでするとはな。波琉が救えないほど力が残っているのは予想外だ。普通の堕ち神なら、とっくに力が弱まっているはずなのだが、その逆だ。龍神たちには警戒を怠るなと言っておいた方がいいな」
「そうだね。もともと桂香の補佐だったらしいから、力もそこそこあったんだろうね。後は、弱まるどころか強まるほどの未練と執念をこの世に残しているってことかな」
「花印の伴侶に溺れた龍神の成れの果てがそれとは、やり切れないな……」
「けれど、煌理も気持ちは分からなくないでしよう?」
煌理は否定しなかった。
波琉の気持ちと同じく、千代子という花印の伴侶を心から愛しているからこそだ。
波琉とて、もしミト苦しんだ果てに殺されたら恨みもする。
なにせ、ミトを殺された今の波琉こそが、憎しみに身を焦がすほど、堕ち神に復讐したいと思っているのだから。
暗い光を宿した波琉の目に気がついている煌理は、心配そうに問いかける。
「波琉、葬儀を終えたのなら、こんなところで油を売っていないで早く天界へ行ったらどうなんだ? すでに花の契りは終えていたのだろう? それなら、そう悲しむこともあるまい。天界で肉体を得た後に連れてこればいいのだから」
「……そうもいかなくなった」
ためらいがちに、一瞬の間を開けた波琉に、煌理は首をひねる。
「どうしてだ?」
「ミトの魂を見失った」
「なっ!」
驚愕に彩られる煌理の表情。
それもそのはず。
花の契りを交わした伴侶が死ぬと、龍神はその伴侶の魂を抱き天界へと連れていって、天帝に新たな肉体を授けてもらうのだ。
そうしてようやく花印の伴侶は、天界の住人として認められる。
そもそも、花の契りをしていれば、魂はつながり、伴侶の魂を見失うことなどありえない。
「どういうことだ!」
「分からない。つながりは感じるのに、わざと隠されているようにミトの魂を見つけられないんだ。このままだと、いつまでも天界へ連れていけない……」
静かに話しているものの、波琉の声には焦りが見えた。
「しばらく堕ち神の捜索より、ミトの魂を探すことに専念させてもらうよ」
「ああ、それがいい」
ことの重大性が理解できているだけに、煌理から反対の声は出なかった。
煌理に甘えてミトの魂を探し続ける毎日。
いったいどこへ行ってしまったのか。
波琉に焦燥感が募っていく。
そんな時、天界から手紙が届いた。
送り主は波琉の補佐をしている瑞貴だった。
こんな時に仕事の話だったら破り捨てようと考えつつ、手紙の内容を読んだ波琉は町のことを煌理に任せてすぐに天界へと戻ったのだった。
***
「うん。もうちょっとって感じだね」
「やったー!」
腕を上げて喜ぶミト。
もうすぐ肉体が安定すると波琉からお墨つきをもらったのだ。
その元気な姿に安堵しているのは、波琉だけでなく瑞貴もだった。
微笑ましそうに笑みを浮かべている。
「よかったですね。ミト様のような形で天界へ来られる方はこれまでいなかったので、どうなることかと心配しましたけれど、何事もなく幸いです」
「ほんとだよねー。夢を通って天界へ来るなんて、さすがの僕も予想外だよ。下界でミトの魂が見つからないはずさ。堕ち神に渡さないために天帝も慌てて介入してくれたんだろうね」
「ん? どういうこと?」
ミトの魂を堕ち神が狙っていたとも取れる波琉の発言。
ミトは意味が分からず首をかしげる。
「ミトには今度説明するよ」
「うん……」
そうきっぱりと言われてしまえばミトも深く追求できない。
時々こうして波琉はミトに隠す素振りがある。
後でと言いつつ、そのままなあなあにされているような気がしてならない。
けれど、緩い空気感を持ち、優しい雰囲気をまとう波琉だが、その意思は強く、こうと決めたら揺るがない。
そんなところはやはり龍神たちをまとめる王のひとりなのだなと感じさせる。
ミトあきらめ話を変えた。
「波琉は何度も天帝のおかげとかお礼を言わなきゃとか言ってるけど、もしここに来られたのが天帝のおかげなら、私からもお礼を言いたいんだけど会える?」
途端に波琉も瑞貴も困った表情をする。
「んー、それは難しいかな。天帝は人前に姿を現すような方じゃないから」
「そうなの? よく分からないけど、天帝ってどういう人なの?」
できれば会ってお礼が言いたかったが、波琉や瑞貴の様子を見ていると、簡単に会える人ではないということは伝わってきた。
「そうだねぇ。人間に天帝を理解してもらえるように説明をするのは難しいんだけど、ミトでも分かりやすく簡単に言うと、僕たち龍神を創造した親であり主人。そして、天界の頂点にいる王かな。そんな天帝の手足となって働く下僕が僕たち龍神ってわけだよ」
「下僕……」
あんまりな言い方にミトは頬をヒクつかせるが、波琉はいたって普通だ。
己の存在を卑下してるわけでもなく、天帝に対して悪意があるわけでもない。
ただ、事実をのほほんと伝えてくる。
「あっ、それから、四人の王を決めたのも天帝だね。拒否権なしの強制だよ。本当に参っちゃうよね」
ニコニコと笑顔を浮かべる波琉は。
「誰かに押しつけたいんだけどね~。瑞貴を推薦してみよっか」
などと軽口を叩いて、真面目な顔をした瑞貴に「やめてください」と本気で嫌がられている。
「波琉みたいな四人の王様なら天帝に会えるの?」
「うーん。僕たちでも難しいかな。ていうか無理? 天帝にはこれまで会ったこともないし」
「えっ! 一度もないの!?」
「そうだよ」
波琉はなんてことないように話している上、瑞貴も驚いていないところを見るに、事実なのだろう。
「えっ、だって、四人の王様を決めたんだよね?」
「うん。会わなくても天帝の意思は伝わるからね。僕を始め、龍神なら誰だってね。お告げみたいな感じかな」
「でもでも、会ったこともない人の言葉をどうして信じられるの?」
人間であるミトには理解不能だ。
騙されているとは思わないのだろうかと疑問が湧く。
「それが龍神という生き物だからとしか言いようがないね。そういう風に創られたんだよ、龍神はね。天帝はちゃんと存在している。それを疑う龍神はいないよ」
波琉が瑞貴に目配せすれば、瑞貴もこくりと頷いた。
「そうなんだ……」
ミトにはまったくもって理解できない不思議な世界だと感心した。
肉体は安定しつつも、まだ少し時間が必要だ。
ミトは静かにその時を待っているのだが、その間、波琉はミトのそばを離れようとしない。
長椅子でふたり並んで座り、ぴったりくっついてニコニコしている。
「波琉、お仕事大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫」
と、即答する波琉に、ミトは疑いの眼差しだ。
なにせ、今朝も瑞貴がひどい剣幕でミトの部屋にやってきたかと思うと、波琉の居場所を聞いてきたのだ。
見渡す限り波琉がいなかったためすぐに退出していったが、まるではかったかのように入れ違いに波琉が入ってきた。
そして、また瑞貴が様子を見に来ると波琉は姿を消し、いなくなると戻ってくる。
まるでかくれんぼであった。
その様子を見れば嫌でも瑞貴から逃げていると察せられる。
瑞貴は「仕事が進まない!」と愚痴をこぼしていたので、ミトは仕事の心配しているのだが、波琉は我関せずという様子だ。
本当に大丈夫なのだろうか……。
そんな心配をしつつふたりでのんびりしていると、ミトの部屋にぴょこっと白いうさぎが姿を見せた。
「うさぎ?」
一羽だけかと思ったうさぎは、次から次へとミトの部屋に入り込んできて、あっという間に占拠されてしまった。
目を丸くするミトに、波琉は苦笑する。
「桂香が下界から連れてきた眷属だよ。うさぎ好きで、なにかと理由をつけて贈ってくるんだ。いつの間にかこんなに増えちゃって困ったものだよ」
実際に困っているのか、迷惑そうな波琉の膝にうさぎがびょこんと乗った。
それを合図に、次々にうさぎが波琉の体に飛び乗っていく。
「わっ!」
ミトは驚きのあまり波琉からとっさに離れると、さらにうさぎが波琉の上に突撃していき、波琉は押し倒された状態になった。
「は、波琉、大丈夫……?」
「ミト、ひどい。ひとりだけ逃げたね」
恨めしげな眼差しを向けられ、ミトは反応に困る。
「ごめん、つい」
頭で考えるより先に、反射的に体が動いてしまったので仕方ない。
しかし、波琉からしたら裏切り行為に等しかったようだ。
「まったく、なんなの?」
波琉は困惑顔でうさぎたちを見ていると……。
「やっと捕まえましたよ」
その声にびくっと体を震わせた波琉がゆっくりと部屋の扉方向に目を向けると、青筋を浮かべながら笑みを浮かべる瑞貴が立っていた。
「あ、やばい……」
波琉が危険を感じた時には遅く、瑞貴はうさぎの中から波琉を引きずり出すと、うさぎたちに笑みを向けた。
「よくやりましたよ、あなたたち。後でご褒美をあげます」
うさぎたちは嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを表した。
「瑞貴、ここまでやる? 一応僕紫紺の王なんだけど……」
「あなたを捕まえるのに手段は選んでいられませんから」
どうやらうさぎを差し向けてきたのは瑞貴のようだ。
「さあ、溜まった仕事を片づけてもらいますよ」
「え~」
波琉は不満げな声をあげるも、瑞貴はかまわず無理やり連行していく。
その様子は、王を相手にするにはやや雑な扱いのように思えるが、普段のふたりの関係性がよく分かるやり取りだった。
残されたのはミトとたくさんのうさぎたちだ。
すると、白いうさぎがぴょんとミトの膝の上に乗り、キュルンとした愛らしいまん丸な目でミトを見あげる。
「かわいいっ!」
胸を撃ち抜かれたようにときめくミトは、うさぎを手に乗せて頬ずりした。
ふわふわとした毛がミトの頬を撫でる。
「モフモフだ~」
シロやクロにも負けない柔らかな毛を堪能していると、千代子がやって来た。
千代子は金赤の王の住まう宮殿には帰らずに、しばらく水宮殿に滞在することにしたようで、こうしてちょくちょくミトの様子をうかがいにくる。
ミトとしては、右も左も分からぬ天界で、人間の世界を知る元人間の千代子がいてくれるのは安心感を抱くので助かっていた。
「ミトさん、調子はいかがですか?」
「元気です。波琉からももうすぐ安定するだろうって言われました」
「それはよかったです」
優しく笑う千代子の存在は志乃を思い出させて、少し寂しさを覚える。
そのたびに早く帰りたいと、考えてしまう。
「波琉は瑞貴さんに強制連行されちゃいました」
基本的に龍神には『様』という敬称を使うミトだったが、瑞貴にそうしたところ、王たる波琉を呼び捨てにしているのに自分を様づけする必要はないと固辞されてしまった。
かといって呼び捨てになどできず、妥協案として『瑞貴さん』となった。
ミトはうさぎを膝の上に置いて、千代子には向かいの席を勧める。
椅子に腰を下ろした千代子はクスクスと笑った。
「そのようですね。先ほど瑞貴様に連れていかれる波琉様を拝見しましたから」
「紫紺の王っていうから、もっと仰々しい扱いをされているのかなと思ったんですけど、気さくな感じなんですね」
その中でも特に瑞貴は容赦がない。
龍花の町で、波琉は不発弾でも扱うかのように、それはもう慎重かつ丁寧に遇されていた。
いや、ある程度砕けた態度の蒼真という例外はある。
それでも、一定の礼儀は弁えていた。
「波琉様は四人の王の中でも温厚で有名な方ですからね。怒られた姿を見たことがある者など稀ではないでしょうか? そんな性格の方なので瑞貴様を初め、波琉様に遠慮がない上、水宮殿に仕える方々は気さくな方が多い印象ですね」
「そうなんでね」
ミトにも気安く接してくれる龍神たちのその気性は、波琉が王だからのようだ。
「これが漆黒の王である桂香様ですと、首を跳ねられかねませんから」
「え、冗談……ですよね?」
千代子は答えず無言で微笑むだけ。
ミトは頬を引きつらせた。
苛烈な性格の王だとは聞いたが、そこまでとは思わずビビるミト。
「で、できればお会いするのは遠慮したいですね……」
「波琉様の伴侶である以上、それは難しいかもしれませんが、お会いするのはずっと先のことですよ。王同士は何百年単位で会わないのが普通ですから」
すぐではないと聞いてほっとするミトだったが、期待はそうそうに裏切られる。
千代子と他愛ない会話を楽しんでいると……。
「ここが波琉の女の部屋か?」
なんの前触れもなく無遠慮に部屋の中に入ってきた女性に、ミトは目を丸くする。
艶やかな黒く長い髪に黒よりも黒い漆黒の瞳を持った、美しい女性。
ミトと歳の頃は同じか少し若いだろうか。
お人形のように整った容姿ながら、気の強そうな目。
手に持った扇子をミトに突きつけた。
「お前が波琉の女か?」
あまりにも堂々たる振る舞いに、ミトが困惑していると、千代子が立ち上がって驚いた声をあげる。
「桂香様! どうしてこちらに?」
千代子から発せられた『桂香』という名前を先ほど聞いたばかりのミトは唖然とする。
「えっ、千代子さん、もしかして漆黒の王様ですか?」
千代子は困惑顔でこくりと頷いた。
ミトはさらに驚く。
苛烈と聞く漆黒の王。
女性だとは聞いていたが、ミトの想像していた人物像よりずっと若い。
龍神なので実際はミトが生まれるはるか昔から存在しているのだろうが、見た目だけならミトの方が年上に見える。
この人が漆黒の王、桂花……。
※試し読みはここまでとなります。ありがとうございました。