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 波琉はミトが死んだ時のことを思い出す。

 他の龍神たちと堕ち神を探していた波琉は、ミトを守っていた己の力が掻き消えたのが分かりはっとする。
 動きを止めた波琉の異変に、一緒にいた煌理が気づいた。
「どうした?」
「ミトを守っていた力がなくなったみたいだ。煌理……」
「ここは気にするな」
「頼んだよ」
 煌理は波琉がなにも言わずとも理解していた。
 阿吽の呼吸で、波琉はありがたくその場を任せてミトのところを目指す。
 人の姿では時間がかかる。
 のんびりしていられないと、龍の姿となって空をかけ、学校を目指した。
 花の契りを交わしたおかげで、ミトとは魂のつながりができていた。
 それゆえ、ミトの居場所は誰に教えられずとも手に取るように分かるのは幸いだ。
 早めに花の契りを交わせたのは僥倖だったと波琉は思う。
 まさかミトの方から花の契りをしたいと言い出すとは思わなかった。
 まだ外の世界を知らないミトを手中に収めてしまっていいのかというわずかなためらいと、それを大きく上回る歓喜。
 花の契りを交わせばもう後戻りはできない。
 ミトを自分のものにできる仄暗い喜びが波琉の心を支配する。
 こんな胸の内は決してミトには見せられない。
 ミトは波琉のことをのんびりで優しい性格と思っているようで、波琉の過剰なスキンシップもなんだかんだ受け入れてくれている。
 けれど、波琉が向ける感情はミトの思うものとはきっと違う。
 もっとドロドロと絡め取るように恐ろしいものだ。
 確実に怖がらせるに違いない。
 自分にこんな感情があったのかと、ミトと出会ってから初めての気持ちをたくさん経験した。
 それがいいのか悪いのか分からないが、ミトに揺さぶられ振り回される自分を悪くないと思っている。
 唯一自分の感情を動かせる存在。
 もう手放すなど考えられない無二の愛すべき人。
 そんなミトになにがあったのか、気が気でならない波琉は全速力で空を飛ぶ。
 そして学校の屋上に着くと、人の姿に戻った。
 校舎内に入るには、龍の姿は大きすぎるのだ。
 ミトの無事を気配で感じてほっとした直後感じる堕ち神のわずかな神気。
 波琉は顔色を変えた。
 なぜ早々に気がつかなかったのかと後悔しつつ、頭の中はミトのことでいっぱいだ。
「ミトっ!」
 ここ最近ミトの命を狙っていたのは堕ち神だと波琉は気づいていた。
 しかし、理由が分からない。
 ミトは星奈の一族であるため、堕ち神である玖楼と同じ花印を持っていたキヨとは多少なりとも血のつながりがあるものの、百年前の話なのでミトとはほぼ無関係と言ってもいい。
 それなのになぜミトを執拗に狙うのか。
 焦りを隠さぬまま急いで向かうと、ミトのそばにいる千歳の姿をしたなにか。
 すぐにそれは千歳ではなく姿を変えた堕ち神だと分かり、波琉は一気に警戒する。
 いったいなにを企んでいるのか知らないが、ミトの安全を先に確保しようと体が動くが、一足遅くミトが倒れゆく姿がスローモーションのようにして波琉の目に入ってきた。
「ミト!」
 必死で手を伸ばすがそれは届かない。
 堕ち神は倒れたミトに近づき手を触れようとしていたが、そんなことを波琉が許すはずがなかった。
 爆発するような神気が堕ち神に襲いかかり、ミトに近づけないようにする。
 千歳の姿をした堕ち神はちっと舌打ちして悔しげな表情をする。
 しかし、紫紺の王を相手に分が悪いと感じたのか、ミトを名残惜しげに見つつ霞のように姿を消した。
 追おうと思えばできたが、ミトとを見比べてあきらめる。
 波琉にとって最優先すべきなのがどちらかなど、考えるまでもなかった。
 ミトに外傷はなかったが、堕ち神から攻撃を受けていた。
 人間でいうところの呪いのようなもの。
 堕ちたとはいえ元は神。その力と堕ちた者の怨嗟の念はミトを蝕んでいく。
 その力は予想以上に強く、波琉ですら手をこまねいていた。
「ミト、駄目だよ。まだ早い」
 鼓動を失っていくミトをつなぎ止めようと波琉はできる限りの力を尽くす。
 ようやくミトを縛りつけていた村から解放され自由を手に入れたところだ。
 まだまだ、ミトの人生はこれからだというのに……。
「ミト。ミトっ……」
 波琉が必死に呼びかけるが、ミトが答えることはなく、そのまま肉体の活動は停止してしまう。
「……っ」
 目を開けないミトの体を抱きしめ、波琉は悔しげに顔を歪めた。

 ミトを屋敷に連れ帰ると、出迎えた蒼真と尚之は波琉のただならぬ雰囲気に顔色を変える。
「紫紺様、どうなされたのです!?」
 尚之がオロオロしながらミトに目を向ける。
 まだ時間は経っていないので、寝ているようにしか見えないだろう。
「ミトの両親を呼んで」
「紫紺様?」
 いつになく感情のない波琉の声に蒼真も尚之も驚いている。
「ミトはどうしたんですか?」
 身動きすらしないミトの様子に、なにかしら察するものがあったのだろう。
 硬い口調の蒼真の問いかけに、波琉は淡々と告げる。
「堕ち神に殺された」
 ひゅっと息を呑む尚之と、顔を強ばらせる蒼真。
 そのふたりを無視して、波琉はミトを部屋に連れていき布団の上に寝かせると、ミトの傍らで静かに目をつぶった。

 しばらくして、両親が帰ってきた。
 慌ただしい足音が近づいてくるかと思うと、昌宏と志乃が入ってくる。
 連絡を受けて急いできたのだろう、息を切らせていた。
 ふたりの顔はまだ信じきれていないという様子だ。
 それも当然だろう。
 朝までは普通にご飯を食べて、「いってらっしゃい」と送り出していたのだから。
「ミト、蒼真さんから連絡があったのよ。なんの冗談なの?」
「さすがにそのドッキリはたちが悪いぞ。早く起きなさい」
 志乃がミトの手に触れると、ビクリと体を震わせた。
 ミトの手は冷たく、だらりとしている。
「ああ……」
 我が子の異常をようやく悟った志乃が震えた声を発するが、それは言葉にはなっていなかった。
 その様子を見た昌宏も激しく動揺する。
「おい、ミト。冗談はよせ。起きろ!」
 昌宏が必死にミトの肩を掴んで揺さぶるが、ミトの目が覚めるわけがなかった。
 昌宏は無理やり体を起こそうとしたが、ミトの体は力なく崩れる。
 そうなってからようやく悟るのだ。
 ミトが死んだと。
「そんな、そんな……」
 状況を受け入れられない昌宏が矛先を向けたのは波琉だった。
「おい! どうしてミトがこんなことになってるんだ!」
「ごめん。堕ち神を甘くみていたみたいだ」
 感情のない波琉の返答に、昌宏は激高して波琉の頬を殴りつけた。
 がっという音がして、波琉の体が揺らぐ。
 昌宏たちの後からやって来て、部屋の隅で控えていた蒼真が血相を変えて駆け寄り、もう一度殴ろうとしていた昌宏を羽交いじめにして止める。
 当然だろう。
 相手は龍神。それも紫紺の王なのだ。
 そんな相手を殴るなどとんでもない行動だった。
「落ち着け!」
「これが落ち着いていられるか! ミトが! ミトが死んだんだぞ!」
 あふれる涙を拭わぬまま波琉をにらみつける昌宏に、波琉はなにも言わない。
「どうして守ってくれなかったんだ!」
 それは八つ当たりだった。
 ミトを殺したのは波琉ではなく、ミトが死んで波琉も悲しくないはずがない。
 それは分かっていても怒りと悲しみの持っていき場がないのだろう。
「お前がいながらどうしてっ!」
 なおも叫ぶ昌宏の声を遮るように、志乃の声が響いた。
「やめて!」
 志乃はミトの手を握りながら涙を流している。
「志乃……」
「波琉君が悪いんじゃないわ」
 そのひと言で昌宏は黙り、力が抜けたように足から崩れ落ちる。
 そして、声をあげて泣きだした。
「ミト、ごめんな。俺が守ってやれなかったから」
 そう言って、悔しさでいっぱいの顔でミトに謝り続けていた。

 しばらくして、次に屋敷を訪れたのはお世話係としてミトと行動をともにしているはずの千歳だ。
 その顔色は悪く、ある程度の話は聞いていたようで、寝ているようにしか見えないミトの左右で泣く両親の姿に、千歳は呆然と立ち尽くしている。
 そんな千歳に、蒼真は地を這うような声で迫った。
「千歳、どうしてミトがひとりで学校にいたんだ。世話係としてちゃんと帰ったか見届けるのがお前の責任だろ。それを怠るなんてなにしてやがる」
「……すみません」
 千歳は反論することなく、肩を落として謝罪を口にする。
 だが、実際その場に千歳がいたからといってなにができただろうか。
 相手は堕ち神。
 神薙とはいえ、ただの人間が龍神を相手にしてミトを守れるはずがない。
 もしその場にいたら、千歳も生きている保証はなかった。
 すると、尚之がどこからともなくハリセンを出して、蒼真の頭をバシッと叩いた。
「たわけ者! いい歳した大人が子供に八つ当たりをするでないわ!」
 八つ当たりしている自覚があるからか、蒼真はばつが悪そうな顔をして視線を落とす。
 そして、小さな声で「悪かった……」と口にする。
「いいえ、俺がもっと気にかけるべきでした」
 深く頭を下げる千歳も、ただ謝ることしかできない。
 ここにいる誰もが、悔しさでいっぱいになっていた。
「どうして、ミトは学校にいたんですか? ちゃんと車に乗って帰るのを見届けたはずなのに、確認のための電話をしてみたらまだ帰っていないって言われて……」
 世話係として、ミトがちゃんと帰ったか確認するのは千歳の日課となっていた。
 そこでまだ帰ってきていないことを知り、慌てて電話をかけたのだ。
 くしくも、その時がまさにミトが堕ち神と遭遇していた時だった。
 それを千歳は知らないので、なぜ帰っていなかったのか疑問だけが残っていた。
 千歳の問いかけに蒼真が答える。
「忘れ物をしたらしい。それで学校へ引き返したのだと運転手が言っていた」
 運転手はついていこうとしたが、すぐに戻るからとミトひとりで教室へ向かった。
 千歳は悪くない。
 責めるとしたら、度重なる危険に遭遇しながらも、波琉のおまじないがあるからと警戒心もなく動いたミト自身だ。

 その後、ミトの葬儀は速やかに行われた。
 嘆き悲しむミトの両親の姿を、少し離れたところから見ていた波琉に、煌理が近づいてくる。
「まさか堕ち神がここまでするとはな。波琉が救えないほど力が残っているのは予想外だ。普通の堕ち神なら、とっくに力が弱まっているはずなのだが、その逆だ。龍神たちには警戒を怠るなと言っておいた方がいいな」
「そうだね。もともと桂香の補佐だったらしいから、力もそこそこあったんだろうね。後は、弱まるどころか強まるほどの未練と執念をこの世に残しているってことかな」
「花印の伴侶に溺れた龍神の成れの果てがそれとは、やり切れないな……」
「けれど、煌理も気持ちは分からなくないでしよう?」
 煌理は否定しなかった。
 波琉の気持ちと同じく、千代子という花印の伴侶を心から愛しているからこそだ。
 波琉とて、もしミト苦しんだ果てに殺されたら恨みもする。
 なにせ、ミトを殺された今の波琉こそが、憎しみに身を焦がすほど、堕ち神に復讐したいと思っているのだから。
 暗い光を宿した波琉の目に気がついている煌理は、心配そうに問いかける。
「波琉、葬儀を終えたのなら、こんなところで油を売っていないで早く天界へ行ったらどうなんだ? すでに花の契りは終えていたのだろう? それなら、そう悲しむこともあるまい。天界で肉体を得た後に連れてこればいいのだから」
「……そうもいかなくなった」
 ためらいがちに、一瞬の間を開けた波琉に、煌理は首をひねる。
「どうしてだ?」
「ミトの魂を見失った」
「なっ!」
 驚愕に彩られる煌理の表情。
 それもそのはず。
 花の契りを交わした伴侶が死ぬと、龍神はその伴侶の魂を抱き天界へと連れていって、天帝に新たな肉体を授けてもらうのだ。
 そうしてようやく花印の伴侶は、天界の住人として認められる。
 そもそも、花の契りをしていれば、魂はつながり、伴侶の魂を見失うことなどありえない。
「どういうことだ!」
「分からない。つながりは感じるのに、わざと隠されているようにミトの魂を見つけられないんだ。このままだと、いつまでも天界へ連れていけない……」
 静かに話しているものの、波琉の声には焦りが見えた。
「しばらく堕ち神の捜索より、ミトの魂を探すことに専念させてもらうよ」
「ああ、それがいい」
 ことの重大性が理解できているだけに、煌理から反対の声は出なかった。
 煌理に甘えてミトの魂を探し続ける毎日。
 いったいどこへ行ってしまったのか。
 波琉に焦燥感が募っていく。
 そんな時、天界から手紙が届いた。
 送り主は波琉の補佐をしている瑞貴だった。
 こんな時に仕事の話だったら破り捨てようと考えつつ、手紙の内容を読んだ波琉は町のことを煌理に任せてすぐに天界へと戻ったのだった。