二章

 いまだ肉体が安定していないからという理由で、龍花の町に戻れずにいるミトには、日を追うごとに焦燥感が募る。
 天界の一日も人間界の一日も変わらないので、同じだけの時間が過ぎているかと思うと余計に焦るのだ。
 しかし、時間を気にしない龍神が住まう世界にはカレンダーも時計も存在せず、時間の感覚がよく分からなくなってきている。
 夜に寝て朝に起きるという規則正しい生活を心がけているが、自分の感覚と実際に過ぎ去った日にちが合っているのかミトは不安になってきていた。
 ミト自身の感覚ではとうに一週間は経っている気がするが、それも不確かだ。
 しかも、龍神は朝も夜も関係なく行動するので、真夜中と思われる暗い時間に、女官が普通に部屋に入ってきて掃除を始めたりするものだから、余計に体内時計がおかしくなる。
 さすがに夜中の突撃訪問は改善してくれと波琉に頼んだおかげで、夜中に押しかけられることはなくなり安堵した。
 人間であって人間ではない今のミトは、老いも空腹も感じなくなっているが、睡魔は普通にやって来る。
 そこは、睡眠を必要としない龍神と違うところだ。
 人間ではなく神に近い肉体といっても、神ではないので休息は必要という不完全な肉体。
どうして天帝はそんな肉体を与えるのだろうかとミトは疑問に思うが、王である波琉ですらそれには答えられない。
「そもそも花印の伴侶自体、天帝の気まぐれで生まれたものだからねぇ」
 といって、深く考える気はなさそうだ。
 天界での暮らしもだいぶ慣れてきてはいたが、早く龍花の町に帰りたい気持ちは日増しに大きくなる。
「波琉。まだ町に戻っちゃ駄目?」
「だーめ。まだ一週間も経っていないよ」
「結構経ったと思うんだけど」
 ミトの感覚ではとっくに一週間経過しているが、違うのだろうか。
「気のせい気のせい」
 波琉の否定の仕方は軽く、ごまかそうとしているようにも感じられて、本当なのか迷ってしまう。
 早く早くと焦るミトの気持ちとは反対に、波琉はのんびりとかまえており、それが少し腹立たしくて、じとっとした目で見つめた。
「そんな目をしても駄目なものは駄目だよ」
「むー」
 波琉の協力がなければ龍花の町には戻れないので、ミトも必死でお願いするが梨のつぶてだ。
 なんだかんだで上手くかわされてしまっている。
「早くお父さんとお母さんを安心させてあげたいのに……」
「その気持ちは分かるんだけど、正直言うと、僕は今の龍花の町にミトを行かせるのは反対なんだよねぇ」
「どうして?」
「ミトがどうしてここにいるか忘れたの? 堕ち神の問題はまだ片づいていないんだよ。煌理からも続報がないしね」
 ちゃんと覚えている。
 忘れたくとも忘れられるものではない事件なのだ。
「ミトのはやる気持ちは理解できるけど、それ以上に心配なんだよ。あの堕ち神は危険だ。もしまた狙われたらと考えると気が気じゃないんだ」
 不満と不安がないまぜになった声色で話す波琉の様子に、ミトにも迷いが生まれる。
「でも……」
 波琉の気持ちも分からないでもないが、両親を安心させたい気持ちが大きい。
 自分が死んでどれだけ悲しみ、落ち込んでいるだろうかと考えると、わがままだと理解しつつも戻りたい思いが先走る。
 口にせずともミトの表情から伝わったらしく、波琉は困った顔をする。
「天帝から与えられた肉体は不老だけど、不死ではないんだよ。それは龍神も同じだ」
「そうなの?」
 龍神と『死』という言葉が結びつかなかったが、波琉は頷く。
「そうだよ。天界から追放された龍神が堕ち神となり消滅するのと同じで、龍神だって死ぬんだよ。人間の世界で生きる者の死は次への生につながるけど、天界で生きる者の死は消滅を意味している」
「消滅……」
 なんとも恐ろしい言葉が波琉から発せられる。
「天帝から与えられた肉体を失うと魂ごと消えちゃうんだ。下界で生き物が死んでも輪廻の輪に組み込まれ次の生が待っているけど、天界で生きる者に次はない。生き返ることも生まれ変わることもできない」
 ミトの顔が強ばる。
「龍神である僕と違って、人間だったミトには身を守る力も攻撃する力もない。だからこそ、必要以上に気をつける必要があるんだ。どうかそれを忘れないで。無茶だけはしてほしくない」
 真剣な波琉の眼差しに、ミトは息を呑む。
 消えると聞かされ怖くないはずがない。
 それは死よりもっと恐ろしい事態だ。
 けれど、それでもやはり……。
「波琉が心配する理由はすごく分かる。私が逆の立場だったら危険なところに行って欲しくないもの。でも、だからこそ龍花の町に残してきた皆が心配なの。波琉が危険だって思う場所にお父さんやお母さんたちはいるわけだから」
「煌理を残してきたよ?」
「でも、ずっとそばにいて守れるわけじゃないでしょう? 私がまた狙われるなら、むしろの方がいいと思うの」
 そんなことを口にした瞬間、波琉の表情に苛立ちが浮かぶ。
「なにを馬鹿なことを言ってるの?」
 低くなった声に、波琉が怒っているのが分かる。
 けれど、ミトも引けない。
「だって、それなら堕ち神の注意を私に向けられて、波琉たちも堕ち神を探したり対処方法を考えたりしやすいでしょう?」
 大事な人たちが傷つくぐらいならいくらでも自分の身を差し出す。
 それぐらいの気持ちでいたが、それは波琉を怒らせるだけだった。
「ミトがそんな気持ちでいるなら、ミトを龍花の町に行かせるわけにはいかないよ」
 今にも怒鳴りつけたいのを無理やり押さえつけているかのような静かな怒り。
 波琉がこれほどに厳しい顔をミトに向けたのは初めてだったかもしれない。
「でも、波琉っ」
「駄目だ」
「波琉!」
 ミトが波琉に手を伸ばすと、それは空を切り、代わりに抱きしめられる。
 息苦しさを感じるほど強い抱擁にミトは身じろぐが、波琉は離さない。
「ミトを危険に晒せるわけないでしょう? そんなの天帝の命令だとしても許さないよ」
 波琉の頑ななつぶやきは、否定などさせないと言わんばかりの強い拒否感があった。
 そんないつもとは違う波琉の様子に、最初こそ意志を押し通すつもりでいたミトもどうしていいか迷いが生まれる。
「波琉……」
 困り果てた弱々しい声で波琉の名前を呼ぶが、波琉は答えない。
 代わりとばかりに、抱きしめる力が強くなる。
 少し間を置いてから、波琉は責めるようにつぶやいた。
「ミトはひどいよ。目の前でミトが殺された時、そしてミトの魂を見失った時、僕がどれほど絶望したと思ってるの? 天界でミトの無事な姿を見た時にどれだけ安堵したか分からない?」
「ごめんなさい……」
「謝ってほしいわけじゃないよ。ミトには僕の目が届く場所で安全に守られてくれればいいんだ」
 波琉から伝わる感情の中にあるミトへの依存。
「僕から離れていこうとするなんて許さない。ミトは僕のものでしょう?」
 波琉から告げられる重い執着心に、ミトは恐れより嬉しさを感じた。
「波琉から離れようなんて思ってない。波琉が一緒にいてくれるって分かってるから、安心して龍花の町に戻れるの。私が危険な目に遭っても、今度は絶対に守ってくれるって信じてる」
 ミトの方から波琉に背に腕を回し抱きつけば、波琉の体がビクリと反応した。
「ね、波琉?」
 ミトが柔らかな声で問いかける。
「…………」
 波琉はなにを思っているのか、言葉は返ってこない。
 するとそこへ、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
 そっと離れる波琉の温もりを残念に思いつつ、ミトは返事をする。
「どうぞ」
 きっと女官だろうと思っていたが、入ってきたのは予想外の人物。
 金赤の王、煌理の伴侶である千代子だった。
 ミトは驚いで目を丸くする。
「千代子さん?」
 千代子はミトに向かって柔らかく微笑んだ。
「ちゃんと天界に来られていたのね、よかったわ」
 そこ声色からは安堵が伝わってくる。
 波琉は千代子の背後を見て、他に誰もいないのを確認する。
「千代子だけ? 煌理は?」
「それが、先に私だけ戻っているようにと言われてしまって……」
 千代子は困ったように苦笑する。
「堕ち神である玖楼様は私とも因縁があります。百年前の事件の当事者であり、キヨさんが死ぬ原因になったと逆恨みして、次に狙ってくる可能性は大いにありますから。なので、堕ち神が絶対に立ち入れない、安全が保証された天界にいる方がよいだろうと強く願われたのでひとり戻って参りました」
「確かにその通りだね。龍神ならまだしも、君もミトと同じで抵抗する力を持たないんだから、安全な天界にいるのが一番だ」
「そうですね。それに、ミトさんへのお届けものもありましたから」
 波琉と会話していた千代子がミトに視線を向ける。
「私に届けものですか?」
「ええ。これを」
 千代子は二通の手紙をミトに渡した。
 なんら変哲もない、普通の封筒に入った手紙だ。
 誰からだろうかと裏返して目を見張る。
「これ……」
「あなたのご両親からそれぞれ託されたものです。ミトさんに会えたら渡してほしいと」
 二通の封筒の裏には、それぞれ『母より』『父より』と手書きで書かれている。
 ミトはその文字を噛みしめるように指でゆっくりとなぞった。
「お父さん。お母さん……」
「最初こそ見ていられないほど憔悴されていましたが、あなたからの手紙が届くと大層喜んでおられましたよ」
 やはり悲しませてしまっていたと知り、ミトは落ち込む。
 しかし、「いいご両親ですね。ミトさんがどれだけ大切に育てられてきたのかよく分かりました」と、微笑ましそうに目を細める千代子の言葉に救われた気持ちになる。
「千代子さん、ありがとうございます」
 大事そうに胸に抱きしめ、ミトははにかみながらお礼を言った。
「いいえ、感謝されるようなことはありません。逆にあなたは私を責める権利があります。百年前の出来事にあなたを巻き込んでしまったのですから。本当にごめんなさい」
 千代子はミトの手に両手を添えて、申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
 オロオロするミト。
「千代子さんが悪いわけじゃありません! 波琉にも言ったんですけど、悪いのは堕ち神なんですから」
 まさか百年前の因縁が今も生きて害を及ぼすなど、千代子はもちろん、煌理も思わなかったはずだ。
 ミトは自分の死について誰かを責めるつもりは一切なかった。
 自分を殺したという堕ち神に対しても、ミトはどこか同情を禁じ得ず、少々複雑な気持ちだった。
 もちろん、決して許される行いではなく、ショックであるのは変わらない。
 自分の死によって、波琉を初め、両親など多くの人を悲しませる結果となってしまったのだ。
 ミトは両親からの手紙に視線を落とす。
 丁寧に封を開けて読む。
 昌宏も志乃も、まず最初にミトの身を案じる言葉から始まり、それ以後も、自分たちのことよりもミトを心配する内容だった。
 千代子が天界へ帰ると聞いて慌てて書いたのか、字が乱れて読みづらいところがいくつもあった。
 それでも、手紙からは両親からの愛情がたくさん伝わってくる。
 文章の中にある『いつまでも待っているから』という一文がミトに深く刺さる。
 ああ、ふたりの子供でよかったーー。
 そう思えるような手紙にミト嬉しくなるとともに、いつか別れの時は来るのだという波琉の言葉を思い出して涙があふれそうになった。
 それをぐっと目をつぶることで耐えると、波琉がミトの肩を抱き寄せる。
 ゆっくりと目を開ければ、心配そうな顔をする波琉が目に入ってきて、ミトは大丈夫だと伝えるように小さく笑った。
 そして再度千代子へお礼を言う。
「ありがとうございます。千代子さん。肉体が安定するまで町には戻れないって波琉に止められていたんです。いつ帰れるか分からない状況に、このまま両親に会えないんじゃないかって不安な気持ちもあったので、せめて手紙だけでもやり取りができて嬉しいです」
「そうよね、あまりに突然のことだったもの。不安にもなりますよね」
「はい……」
 ミトはこくりと頷く。
「けれど、数週間もすれば肉体が安定してちゃんと下界に行けますから、そこは安心して大丈夫ですよ。先輩の私が保証しますから」
「波琉から聞いていたので町に戻れるのは間違いはないと分かってはいたんですけど、龍神は時間の感覚が緩やかなので、一、二週間って言われても本当なのかなって。百年や二百年と間違ってないかビクビクしてしまって」
「ミト、信じてなかったの?」
「う、だって……。波琉ってのんびりしてるし、あまり時間とか気にしないし……」
 疑われてショックだと言わんばかりの波琉に、ミトはばつが悪そうな顔をする。
 その様子を見た千代子がクスクスと笑う。
「確かに時の流れに関して龍神の言葉は信用なりませんものね。一年も十年も大した違いなんてないと思っていますから」
 その通りというように、こくこくとミトは無言で何度も頷いた。
「町に戻ったら皆いなくなってるんじゃないかって考えると怖くて……」
 表情が沈んでいくミトを見て、波琉はなんとも言えない顔をしつつも、言葉をかけられずにいる。
 そんな中、千代子は柔らかな表情を浮かべた。
「そうよね。大事な人たちとの別れは考えるだけでとっても苦しいもの。寿命のない龍神は人間とは感覚が少し違うから、分かっているようでいて芯の部分では理解できないように思います」
 千代子は百年前を生きた人間だ。
 彼女の大事な人たちはもういないに違いない。
「波琉がいるから大丈夫だって思ってますけど、でも実際にその時が来ないと分からないです。私はまだ誰かの死を経験したことがないから……。千代子さんはどうでしたか?」
 このようなことを聞くのは酷ではないのか。
 問いかけてからミトは失敗したと後悔するが、一度発してしまった言葉を戻すことはできない。
千代子を傷つけたのではないかと心配するミトに、千代子は優しい笑みを浮かべた。
「確かに家族や友人との別れは悲しくて苦しくて胸が痛かったです。置いていかないでと、死人に泣き叫びながらすがりついたこともあります」
 憂いを帯びた眼差しは、ここではない遠くを見ていた。
「けれど、人間の生より煌理様を選んだのを後悔したことは一度もないの」
 千代子の目に力が宿る。
「嬉しい時も悲しい時も煌理様はそばにいてくださった。ともに生きる覚悟をした私と同じく、煌理様も私と生きる覚悟をしてくださっている。そんな煌理様を愛おしいと思っているうちは、私が後悔をすることはないでしょうね」
 千代子からは煌理への確かな愛情が感じられる。
 百年経っても変わらぬ気持ちは、素直にすごいと思えた。
「ミトさん。あなたは花の契りをしたのを後悔している?」
「してないです」
 ミトは即答した。
 迷いのない返答に千代子はふふっと笑う。
「だったらきっと大丈夫ですよ。辛い出来事もひとりなら難しくても、ふたりなら乗り越えられるはずです。だって夫婦は一蓮托生ですもの。波琉様はきっとあなたの心ごと守ってくださるわ」
「当然じゃないか」
 波琉は愚問だとでも言うように眉間にしわを寄せる。
「なにがあっても僕はミトのそばにいるからね。覚悟ならいくらでもできているよ」
 ミトに言い聞かせるように告げる波琉は少しムッとしている。
「波琉、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ。なんだか千代子の方がミトを分かっているような言い方をするから気に食わないだけ」
「あらあら、嫉妬させてしまったようですね」
 少々不機嫌な波琉とは反対に、千代子はどこか楽しそうだ。
「先輩としてアドバイスするならば、今はまだ余計なことは考えず、大事な人たちと過ごすその時間を大切にしていけばいいと思いますよ」
 経験をした千代子だからこそ、その言葉には重みがあった。
「はい。そうします……」
 ミトは素直に受け入れた。