肉体と魂が馴染むまで天界で過ごすことが決まったミトは、宛てがわれた部屋で寝台に座りつつ窓の外を見ては、ほうっとため息のような息を漏らす。
 空は虹色に輝き、時折龍が空を駆ける。
 それぞれ違う色をした龍は、龍神の真の姿。
 移動する時は龍の姿を取ることが多いのだという。
 なんとも幻想的な光景だが、屋内では基本的に人の姿でいるようだ。
 波琉もずっと人の姿のまま。少しだけ残念に思うミトだった。
 そんなミトは紫紺の王の伴侶ということで、それはもう大げさなほど丁重に扱われている。
 花印を持った者が大切にされるのは龍花の町と似たようなものだったが、比較的近くにいた蒼真や千歳が気安かったためにあまり堅苦しさは感じていなかった。
 しかしここでは、真綿で包むかのように、それはもう慎重に遇されている。
 ミトは何度普通にしてくれと頼んだだろうか。
 けれど、皆ニコニコと微笑みを浮かべながら流される。
 食事から着替え、さらにはお風呂まで世話をされそうになり、さすがに固辞した。
 この波琉の住まう水宮殿に勤める女官は、龍花の町で言うところの神薙のような役職だ。
 王である波琉の身の回りのお世話をする役割を持っているので、必然と波琉の伴侶であるミトの世話をしてくれている。
 なぜだか分からないが、ものすごく歓迎されているのを肌で感じて首をかしげていると、理由は波琉の補佐である瑞貴が教えてくれた。
 波琉から紹介された瑞貴という人は、ミトを見つけ波琉に連絡を取った者だと聞いてすぐさま礼を言うと。
「とんでもありません。このたびは大変な目に遭われたようで心中お察しいたします。慣れない場所で気も滅入るでしょう。ご用がありましたらすぐに対応いたしますので、お気軽におっしゃってください」
 などと逆に気を遣われてしまう。
「堅苦しいよねぇ」
 などと、かしこまった瑞貴の態度に、波琉は茶化すように笑う。
 見るからに真面目そうな雰囲気を持った人であったが、同意するのも失礼だろうとミトは苦笑するしかなかった。
 けれど、自分に対して好意的な空気を感じたので、ミトは少しほっとする。
 ミトにとって天界は未知の世界だ。そこでどんな暮らしになるのか、龍神たちに自分は受け入れられるのか不安は当然あった。
 けれど、そんな心配を吹き飛ばすほどの高待遇。それを女官たちに指示しているのが瑞貴だというのだ。
 そんな瑞貴は、過剰なほど世話をされて恐縮し通しのミトに穏やかな笑みを向ける。
「皆喜んでいるのですよ。紫紺様の変わり様に。そして、紫紺様を変えてくださったあなた様に感謝しているのです」
「私はなにもしてませんけど?」
 ミトは首をかしげ否定するが、瑞貴は微笑ましそうに見つめてくるので、少々居心地が悪く感じるのが難点ではあるものの、天界での暮らしは不自由なく過ごしていた。
 けれどやはり気になるのは龍花の町にいる両親たちのことである。
 すぐにでも会いに行きたいが、新しい肉体と魂が馴染むまでは絶対に天界にいなければならないと強く説得されたので仕方がない。
 両親はミトが死んで大層悲しんだと波琉から聞いたものの、ミトと波琉が花の契りをしたことを知っている。
 花の契りの意味も。
 それでもやはり現在進行形で心配をかけているに違いない。
 自分が逆の立場だったらそうだと考えて、どうしたら両親を安心させられるかとミトが考えていると、波琉から提案がされた。
 手紙を書いたらどうかと。
「手紙ってそんな簡単にやり取りできるの?」
「向こう側から天界へ送ってくるのは誰か龍神の力を借りないと難しいけど、天界から町へ手紙を送るのは簡単だよ。天界から送られてきた手紙は神薙がちゃんと管理しているから、きちんと昌宏と志乃に渡されるはずだ。ふたりからの返信は期待できないのを承知の上なら手紙を送るよ」
「そうなんだ。本当はあっちの様子も気になるけど、返信がなくてもいい」
 とりあえず自分は無事であると伝えたい。
 死んでいて、さらには葬儀まで行われておきながら無事というのもおかしな気はするが、いたって健康そのものなのだから間違いではないのだ。
 ミトは簡単にだが、自分の近況と、天界で元気に過ごしていること。
 近々ちゃんと戻るから安心してくれという内容を書いた手紙を波琉に託す。
 それはその日のうちに龍花の町へ送られたようだ。
 返事がないのが残念ではあるが、戻ったらいくらでも話せばいい。
 ミトは絶対安静だと言われているので寝台に腰掛けながら、隣に座る波琉に問う。
「ねえ、波琉。いまいち肉体と魂が馴染むっていうのが分からないんだけど、私の状態はどんな感じなの? まったく変なところはないんだけど」
「違和感がないのはそれだけ順調に肉体と魂が馴染んできている証だよ。でもまだ駄目だからね」
「そっか」
 それを聞いたら俄然嬉しくなる。
 順調ということはそれだけ町に帰る日が近いという意味なのだから。
「待ち遠しいな」
 鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌で窓の外を眺めるミトを見つめる波琉は、わずかに沈んだ顔をしていた。
「ミト」
「なあに?」
「ミトは聡いから気づいてると思うけど、念のために言っておくよ」
 ミトは窓から波琉へ顔を向ける。
 弱々しさすら感じる波琉の眼差しは、ミトの覚悟を問うてくる。
「天帝から肉体を与えられた時点で、ミトは人間であって人間じゃなくなってしまっている。その肉体は限りなく神に近い存在となり、飢えることもなければ老いることもない」
「……うん」
 ミトは波琉の言わんとしていることが分かり、視線を下に落とした。
「龍花の町に行くことは可能だけど、人間でなくなったミトは、両親や他の者と同じ時間の流れを共有できない」
 代わりに、花の契りを交わした波琉と一緒の時間を手に入れた。
 それは喜びとともに悲しみを呼ぶ。
「ミトは今の若い姿のまま永遠を生きる。両親や友人が老いても、死んでも、ミトは今の容姿のまま、なにひとつ変わらず生き続けるんだよ」
「…………」
 ミトは顔を俯かせ沈黙する。
「それはきっとミトに大きな苦痛を与えることになるはずだ」
 波琉はきちんと説明する。
 ミトを想い、ミトのためにと、背けたい現実を非情に突きつける。
 波琉と生きると覚悟していたつもりだったが、両親や千歳、蒼真や尚之が年老い、いなくなっても自分が変わらぬ姿である光景を想像して、ミトは悲しくなった。
 だからといって、花の契りをしない方がよかったとは思わない。
 花の契りを交わしたおかげで、ミトは今ここにいられる。
 両親たちにもまた会うことができるのだから。
 改めて覚悟を自分に刻み込み、ミトを気遣う波琉に向かって微笑んだ。
「大丈夫だよ。花の契りを交わそうって言い出したのは私だもの。いつか来る別れの時はきっと悲しくて泣いちゃうと思う。でも、波琉がそばにいてくれるでしょう?」
「うん。なにがあろうと一緒にいるよ」
「だったら大丈夫。乗り越えられるよ」
 今はまだ考えたくない。
 けれどいつか来る親しい人たちとの別れの時。
 想像するだけでも胸が苦しくなるが、波琉がいるなら自分は大丈夫だと信じることができた。
 それに、悲しむのは早い。
 まだミトの愛する人たちは生きている。悲しむのはもっと後でいい。
 今は大事な人たちと会えることを喜ぶべきなのだ。
 波琉は手を伸ばしミトの頬にそっと触れる。
 ミトも波琉手のひらに頬を寄せると、優しい温もりが伝わってきた。
 自分がいるとミトを勇気づけてくれるかのような温かさに、ミトは波琉を見つめながら微笑んだ。
 そうすれば波琉もまた微笑み返してくれる。
 ふたりの間に必要以上の言葉はいらなかった。
 そんなものがなくても分かり合えていると感じられる信頼が、その目から伝わってくる。

 無言ながら穏やで優しい時間がすぎていく。
 しばらくして、ミトは口を開いた。
「堕ち神はあの後どうなったの? 捕まえた?」
 ミトは最後まで意識を保っていられなかったので、その後堕ち神がどうなったか知らずにいた。
「もしかして天界まで追いかけてきたりする?」
 だとしたらこんなにのんびりしていていいのだろうかと心配になったミトだが、それは杞憂だった。
「堕ち神は天界に立ち入ることはできないよ。そもそも天帝に天界を追放されたから堕ち神というんだしね。だからミトも天界にいる間は堕ち神の心配はしなくていいよ」
 それを聞いてミトはほっとする。けれど、すぐに別の懸念が浮かんだ。
「お父さんやお母さんや、他の身近な人が狙われたりしない?」
 そもそもなぜ自分が堕ち神に殺されたのかミトは理由を知らない。
 分からないからこそ、町に残してきた人たちが心配だった。
 波琉がいたなら助けてくれるかもしれないが、波琉はミトの目の前にいる。
 龍花の町でなにかあっても両親たちを救ってくれる人はいない。
 さすがの神薙でも、元龍神相手では対処できないだろう。
 ミトの不安を払拭するように波琉はニコリとする。
「それなら大丈夫。煌理を置いてきたからね。ミトの両親のことも町のことも煌理に任せてきたよ。町にいる龍神たちの指揮もしてくれているから」
「そうなんだ」
 それを聞いてミトは安堵する。
 煌理がどういう者か数度会っただけなのでミトは多くを知らないが、波琉と同じ王となればその力は聞かずとも想像できた。
 そして、波琉は信用できない者にミトの両親を任せたりはしないだろう。
 両親になにかあって一番悲しむのはミトであり、ミトを大事にする波琉が信用のおけない者に任せるはずがないのだから。
 けれど、まったく心配がなくなったわけではない。
 ミトは波琉のおまじないがありながら隙を狙われ殺されてしまったのだ。
 けれど、それを口になどできるわけがない。
 波琉を責めるつもりはなくとも、波琉が落ち込んでしまうのは明らかだ。
「早くお父さんとお母さんに会いたいな……」
 ミトのつぶやきはどこか寂しさを含んでいた。
 そんなミトを前に波琉は立ち上がると、突然「ちょっと待ってて」と言って部屋を出ていった。
 首を捻りつつ、大人しく待っていたミトの部屋に、見慣れた白い毛の生き物が飛び込んできて、寝台に座っていたミトを押し倒した。
『ミト~』
 ハッハッと息を荒くしてミトの上にのしかかったのは、犬のシロだ。
 ここにいるはずのない存在に押し倒された状態でミトは目を丸くする。
「えっ、シロ?」
『そうだよー』
「なんで?」
 一瞬ここが天界なのか龍花の町なのか分からなくなるミトのところにさらに近づく存在があった。
『こら、シロ。ミトはまだ安静にしてないといけないって言われたでしょう』
 そう言ってシロを叱るのは、猫のクロだ。
「クロ?」
『私もいるわよー』
 と言って飛んで入ってきたのは、スズメのチコだ。
「チコまで!?」
 状況が理解できないミトに、クスクスという波琉の笑い声が届いた。
 目を向ければ、ドッキリが成功したと言わんばかりに笑う波琉が入ってきた。
「波琉。どういうこと? どうしてシロとクロとチコが天界にいるの?」
 驚きを隠せないミトは、シロが上からどいたことで身を起こした。
 尻尾をブンブン振るシロの頭を撫ればフワフワと心地よく、それが幻でないと分かる。
「ここは天界でしょう?」
 分かっていながら確認するミトは、かなり混乱していた。
「驚いた?」
 茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべる波琉。
「そりゃあ、もちろん。どうして皆がここにいるの?」
 波琉はミトの隣に腰を下ろし、説明する。
「シロたちがミトを心配していたから連れてきたんだよ。ミトが天界に来るより少し前にね、シロたちに僕の眷属にならないかって提案をしたんだ」
「眷属?」
「まあ、簡単に言うと、龍神の下僕みたいなものかな? 下僕って言ってもなにかさせたいわけじゃなくて、ミトが天界に来た時に一緒に連れてきたら賑やかでいいなって思っただけなんだけどね」
 “下僕”と言われるとあまりいい言葉ではない印象を受けるが、シロたちが気にしている様子はない。
「眷属にすると天界にも連れてこられるし、寿命も気にしなくていいんだよ。動物は人間よりずっと寿命が短いでしょう? 僕自身もシロたちを気に入ってたから、いっそのこと眷属にしようかなって」
「じゃあ、シロたちは眷属になるのを受け入れたから天界にいるの?」
 いったいいつの間にそんなやり取りをしていたのかと、ミトは驚く。
「うん。眷属にならないと天界には連れてこられないからね。僕が驚くほど即答だったよ」
『波琉がね、ミトとずっと一緒にいたくないかって聞くから、いたい~って答えたの』
 嬉しそうに尻尾を激しく振りながら告げるシロは、あまり理解しないまま眷属になったように思う。
 もとより考えるよりまず行動というシロは、感情に流されるまま答えたに違いない。
 けれど、クロやチコは違うはずだ。
「クロとチコは眷属になってよかったの?」
『ええ。シロだけだとかわいそうだしね』
『ミトとずっと一緒にいられるっていうし、断る理由なんてないもの』
 シロの保護者とも言えるクロと、チコはなんてことないように答える。
 かなり人生を左右する大きな選択のはずなのに、シロからもクロからもチコからも、真剣味を感じられなかった。
 むしろそんなに簡単に決めてよかったのかと、ミトが心配になるほど軽い空気を発している。
「本当によかったの?」
『ミトは私たちがいるのは嫌なの?』
 少し拗ねたように問うクロに、ミトは慌てて否定する。
「そんなことないよ。ずっといられるなら嬉しいもの!」
『だったらいいじゃない。これからも私たちはミトの味方よ』
 ミトははっと息を呑む。
「…………」
 不意打ちすぎてミトは上手く言葉が出てこなかった。
 いつか家族にも友人にも置いていかれる未来。
 しかし、少なくともこの二匹と一羽は長い時を一緒にいてくれるという。
 これほど心強く、そして頼りになる味方はいない。
「波琉、ありがとう」
 シロたちを眷属に迎え入れたのもミトのためなのだろう。
 いつもミトのために動いてくれる波琉への感謝は、ひと言では伝えきれないほど大きく、どうやって返していけばいいのかと悩んでしまう。
 波琉の気遣いに泣きそうになりながら、ミトは感謝を伝えた。
「私の花印が波琉と同じでよかった……」
 他の誰でもない波琉だったことに、名前しか知らない天帝にお礼を伝えたくなった。