八月になった。

 七月末の荒天が嘘のように青く晴れる日が続いている。
 しかし空が晴れていようとも、気分は薄曇りが続いている。

 『夜練事件』。
 その言葉が耳から離れない。

 もう二年も前のことだ。
 中学三年生の夏に事件は起こった。

 国立浜松大学の附属中学校から私立遠衛学園高等部に進学したのは(きた)亮平(りょうへい)名鳥(なとり)侑馬(ゆうま)広河(ひろかわ)里々(りり)()、そして俺の四人だけ。
ついでにいうなら沼津の高専に進んだのは塩見(しおみ)慶之(よしゆき)だけだった。

 慶之はもう将来を見据えて進路を決めていたけれど、俺たち四人はそうではない。
 何もなければ県立高校に進んでいただろう。
 成績だけでいえば、俺たちは問題なくそこに進学できた。

 遠衛に入学したことを後悔はしていない。
 ここで出会ったヤツらと、ここで過ごした時間のことを思えば、遠衛に入ってよかったと、今では自信を持っていえる。

 それでも過去を塗り替えることはできない。
 過去はふとした拍子に顔を覗かせ、現在があの頃の続きであることを思い出させてくる。

 これまでも何かの連想であの事件を思い出したことは何度かあった。

 でも、他人から面と向かって口にされたのは久しぶりだった。

 妹ちゃんも附属中学の出身だ。
 俺たちの一つ下だから、事件当時は二年生だった。
 直接関わってはいないはずだが、間接的に知っていてもおかしくはない。

 妹ちゃんはどこまで何を知っている?
 それが今現在とどう関係する?

 わからないことだらけではある。
 訊いてみたいとも思う。

 しかし思い出したくないという気持ちの方が遥かに大きい。

 それに、 妹ちゃんには会いたくない。
 情けない限りではあるが、俺は妹ちゃんが怖い。

 あの日、妹ちゃんから『事件』について思い出せと言われた直後に、慶之とおばさんは帰ってきた。
 近所だからと二人は徒歩で出掛けていたようで、濡れ鼠になって帰ってきた。
 タオルを用意したり風呂を用意したりとおおわらわで、その後妹ちゃんと二人になることはなかった。

 なくてよかった。
 もちろん訊きたいことは山のようにある。
 しかし、今はそんな気になれない。

 今俺は学校へ向かっている。
 図書室で借りていた参考書を返すため、そして次の参考書と問題集を借りるというためだ。
 八月の図書室開放日は少ない。
 特にお盆の前後はずっと閉じたままになる。
 勉強の進み具合いからいっても、今日のうちに新しいものを借りておきたかった。

 八月に入ると、折り返し地点という言葉を思い浮かべるようになった。
 夏休みは半分には程遠いけれどカウント・ダウンは始まっている。

 それだけじゃない。
 この夏休みは、高校生活三年間の折り返し地点でもある。

 ついこの間高校受験が終わったばかりなのに、次の受験がもう迫っている。
 一年半後にはどこかの大学のキャンパスに出かけて行き、入試の問題用紙をめくっている。

 侑馬は昨年から通っている塾の夏休み特訓で忙しいし、亮平もこの夏は予備校の夏期講習に通っている。
 侑馬は法学部志望だし、亮平は医学部志望だ。
 どれだけ勉強しても足りるということはないのだろう。

 誰も立ち止まってはいられない。
 あの頃に戻りたいと思っている俺であってもそれは同じだ。
 冷房の効いた図書室で夏休みの宿題を進め、今日返す問題集の残りを終えてと、夕方の閉館までみっちり勉強した。

 高校生活の折り返し地点である今は、もしかしたら俺たちの関係そのものの折り返し地点なのではないだろうか。
 大学へ進み、就職し、地元を離れ、この関係も次第に希薄になっていく。

 仄かに紅みを帯び始めた空を見上げる帰り道には、そんなことを考えてしまう。

 学校から家に帰るときは、いつも秋葉街道(あきはかいどう)を北上する。
 秋葉街道は片側二車線の国道で、浜松を縦断する大動脈だ。

 遥か北に聳える山の影を見晴るかすたび、俺の中ではこの道の先にある思い出がよみがえる。

 浜名湖と浜松の市街地をぐるり囲むように一周するローカル線、天竜浜名湖鉄道(てんりゅうはまなこてつどう)
 秋葉街道はその|天浜線(てんはません)と交差する。

 天浜線に乗ったのは小学校三年生の秋のことだった。

 もう八年も前になる。

 俺に慶之、亮平に侑馬、そしてリリイ。
 五人が揃ったのは、あのときが初めてだった。