最強の暗殺者は田舎でのんびり暮らしたい。邪魔するやつはぶっ倒す。

 結局、予想外の温泉の事を除けば条件がいいこの宿に泊まることになった。

「本気で温泉に入る気か、あの坊ちゃん」

 名無しがフレドリックにそう問いかけると、フレドリックは苦笑いをして答えた。

「まぁ、本気だと思います。……こう言っては何ですが私は強く反対する気になれなくて」
「なんでだ」
「ライアン様にとってこれが人生で初めての旅、そして、場合によっては俗世との最後のふれあいになるかも……と思いますと……」

 フレドリックはそう言いながら俯いた。政情が不安定なうちはライアンは中央教会の外には出られないだろう。あの王太子次第では本来なら約束されていたはずの輝かしい未来を捨てて教会の中で老いて死んでいくのかもしれない。
 そう思うと不憫で、せめてこの最後の街で美味しい物を食べて珍しい温泉とやらを体験させてやりたいという気持ちがフレドリックにはあった。

「ふぅん……」
「入浴中の護衛は私がやりますから」
「それで済めばいいけどな……」

 名無しはそう呟いて、剣の手入れをはじめた。一方、隣のライアンとエミリアの部屋ではライアンがエミリアをしきりに温泉に誘っていた。

「だからエミリアも遠慮はしなくていいんだ」
「別に遠慮をしている訳では……」

 エミリアはほとほと困った顔をしてライアンの説得を聞いていた。

「エミリアは温泉に入ったことがあるのか?」
「え? いいえ……?」
「なら行こう。大体、そんなぼさぼさのぼろぼろで中央協会に戻っても笑われるぞ?」
「……ぼさぼさ? え……?」

 ライアンはこくりと頷いた。エミリアは不安になって荷物の中から小さな手鏡を取りだして自分を見た。確かに改めて見ると髪は痛んでいるし、肌の潤いが足りない気がする。尼僧になったからといってこれらがまったく気にならない訳ではない女心が頭をもたげる。

「うーん……」

 エミリアは考え込んでしまった。そこにライアンが追い打ちをかける。

「エミリア、教会に戻ったら二度と来れないんだぞ」



「……で、温泉に入りたいと」
「うん」
「そしてエミリアも」
「は、はい……」

 フレドリックの言葉にエミリアは小さくなった。ふぅ、とフレドリックはため息をついた。ライアンは予想していたがエミリアまでそう言い出すとは思わなかったのだ。フレドリックは後ろに立つ名無しを振り返った。

「……俺が護衛につく。それで問題ないだろう」

 エミリアが自分から何かしたい事を言い出したのなんて、一緒に町に出かけた時くらいだ。あれだって巡礼の路銀稼ぎが目的で、本当に自分の為に何かをしたいと言ったのはこれが初めてではないだろうか。名無しはフレドリックの言葉を聞いて思うところもあり、危険なのは承知で頷いた。

「アル、いいんですか」
「たまにはゆっくりしてこい」
「……ええ」

 エミリアは少しうきうきした気持ちを隠しきれずに頷いた。

「じゃあ話がついた所で食事にしますか」
「ああ」

 フレドリックが話しを遮り、一行は宿の食堂に向かった。酒を飲み過ぎて騒いでいるものなどもおらず、ここの客の客層がよく分かる。服装から見るに、羽振りのいい行商人が多いようだった。

「では前菜からです」

 こうして旅の最後の晩餐が始まった。フレドリックと名無しは酒を控えたが、ライアンは水で割ったワインを飲み、エミリアも少々ではあるがワインを口にした。

「悪くないワインだ」

 ライアンは満足そうに言った。前菜はきのこと野菜のマリネだったが特に文句も言わずに食べている。

「エミリア、もっと飲め」
「私はあまり……」

 ライアンにお代わりを勧められて手を振って断るエミリアを見て名無しは思わず小さく吹きだした。

「あんたけっこうイケる口じゃないか」
「ア、アル!! ……もう知りませんからね」
 
 名無しに笑われてエミリアは膨れながら杯を飲み干した。それから四人は次々と出てくるこの宿の特製ソースのかかった魚のフライや鹿を薬草で香り付けしたローストなどを平らげた。

「ここの女将は正直者のようだ」

 満足そうに口元を拭いながらライアンが言った。横のフレドリックも頷く。

「美味しゅうございましたな」

 食後に出てきた苺のカスタードパイとお茶を飲んで、くつろいだ雰囲気が一行を包んだ。

「野営同然のボロ屋とかしみったれた教会に比べたら天国だ。ははは」

 子供のくせにしかめ面をしている事が多いライアンも、この時ばかりは愉快そうであった。そして……食事を終えたらライアンの待望の温泉である。

「ここの廊下をまっすぐ行くと浴場施設に直結しております。雨の日も濡れないし、冬場も寒くないという訳です」
「ほーう」

 宿の女将の説明に、ライアンが感心したように声を出して廊下を眺めた。

「よし、早く行こう!」
「ライアン様、走らないでください!!」

 駆け足で進んで行くライアンをフレドリックが追いかける。ライアンもやはりまだ子供なのだ。しかし、その足がぴたりと止った。

「……ん? 入り口が二つ??」
「ああ、こっちが男でこっちが女だよ」

 入り口にいた監視員らしき男がライアンに言った。

「男女別なのか?」
「ああ。うんと小さい子供はどっちでもいいけど……ほらみんな裸だからなぁ」
「は、はだか?」

 ライアンはポカンとしてフレドリックを振り返った。

「フレドリック、温泉は裸で入るのか」
「そうですね……ライアン様も風呂は裸で入るでしょうに」
「赤の他人の前だぞ?」

 ライアンは混乱しているようだった。名無しはそんなライアンを見てぼそっと呟いた。

「別に男同士で何が困るんだ?」
「そ、そうか……そうだな……」

 結局ライアンは温泉への好奇心が勝ったようだった。大げさを腕を振り上げると男湯の方に向かっていく。

「では行ってきますんで」
「ああ」

 そして、後には名無しとエミリアが残された。

「あの……アルは?」
「護衛すると言ったろう。ここで待っているから早く浸かってこい」
「あ、はい……」

 エミリアは申し訳無さそうな顔をしながら、温泉の入り口に陣取った。

「兄ちゃんは入らないのかい」
「俺は護衛なんでな」
「女湯の中まで護衛できなくて残念だな。ははは」

 名無しは黙って監視員のおっさんの戯れ言を聞いていた。
「おおっ、これが……あっ、本当にお湯が流れている! これはどこかで沸かしたものではないのか?」
「山の地面の熱で温められてここまで来てるんですよ。さ、体を洗いましょう」

 ライアンとフレドリックが男湯で旅の垢を落としている頃、エミリアも女湯で手元の小さな容器を見つめていた。それは宿の女将から手渡されたものだ。

「女性のお客様にサービスしている、髪と肌の保湿にとってもいい薬草入りの軟膏(バーム)なんですよ。香りも良いので使ってみて下さい。気に入ったらこちらで売っておりますので」
「本当かしら……」

 エミリアは服を脱いで、脱衣場に置くとその小瓶を持って浴場へと入った。湯の蒸気と音を立てて流れ落ちる豊富なお湯にエミリアは目を丸くする。

「わぁ……」

 エミリアはとりあえず髪と体を洗った。そして湯船に浸かる。

「はぁっ……」

 エミリアは思わず深いため息をついた。温かいお湯がしみいるようだ。芯まで温まり、長い旅の疲れをほぐしてくれる。

「これは入っておいてよかったかも。でも……アルが気の毒ね」

 エミリアは表で自分を待っている名無しの事を気にしつつ、湯船を出た。そして例の容器を手にする。

「うん……香りは好きだわ」

 スッキリとした爽やかなグリーンフローラルの香り。指ですくって、エミリアは髪と肌に塗り込んだ。ぱさついた毛先には特に念入りに。

「これでいいのかしら……」

 髪はしっとりして、肌も水分を含んでもっちりとした気がする。旅の間中、あまりに手入れをしてなかったせいもあったと思うがエミリアは使い心地に満足した。

「いくら位なのかしら。そんなに高くないなら……」

 エミリアが自分の肌の弾力を確かめている、その時だった。湯気で白く曇った通気用の窓が突然割れ、三人の男が侵入してきた。

「キャーーーー!!」

 入浴中の裸の女達が悲鳴を上げ、桶や石鹸を投げつけた。しかし、ガチン! という音で一瞬静寂が訪れる。

「ええ!? あれ、剣よ! 武器を持ってるわ」

 再び浴場内は大混乱になった。侵入したのは黒装束の男が三人。そして剣を掲げて声を張り上げた。

「エミリアという女はここにいるか? いるのは分かっている、出て来い!」

 エミリアはサッと顔から血の気が引いた。こんな無防備なところに出てこなくてもいいのに。しかし、無関係な他の湯治客に迷惑をかける訳にはいかない。
 エミリアが体洗い用の手布でなんとか体を隠し立ち上がったその時だった。別の方向から悲鳴と怒号が聞こえる。

「きゃああ!」
「ちょっとあんた、そっちは女湯だって!」

 その声を無視してずんずん中に入ってきたのは名無しだった。名無しは三人の男を見据えながら両手剣を抜いた。

「な、こんな所まで……」

 男の一人が動揺して口走ると、名無しは鼻で笑った。

「こんな所まで襲いにきたのは誰だよ。無防備なところなら手を下せるとでも?」
「……」

 名無しは相手の無言を肯定と受け取った。途端に名無しの蹴りが放たれ、側頭にめり込んだ。

「……くっ」

 別の男が剣を振りかぶり名無しに襲いかかる。名無しは無表情のままその刃を躱してみぞおちを剣の柄で思い切りぶん殴る。

「ぎえっ」

 そして残った男は足を引っかけて転ばせて、上から踏んづけた。

「おい! そこの!」

 名無しが格闘している間に入浴客は逃げ出しており、ようやく中に入ってきた警備員が見たのはひっくり返った男と呆然としているエミリアと涼しい顔の名無しだった。

「痴漢を捕まえたぞ」
「……これ、が?」
「ち、違う!」

 名無しの足下の男が慌ててわめいたが、悲鳴を聞いてかけだした名無しを見ていた警備員は男達を縄でしばって連れて行ってしまった。

「まったく災難だったな、エミリア」
「……」

 名無しはエミリアを振り返った。途端、エミリアのビンタが名無しの頬に炸裂した。

「み、見ないでくださーーーーい!!」

 その音はビターン、と浴場内に良く響いた。



「……大変だったな」
「時に人生は理不尽です。さ、後は任せてアルも風呂に浸かってくるといい」

 赤い頬を抑えながら浴場を出た名無しは、ライアンとフレドリックに慰められた。

「ああ……そうする……」

 名無しは一人、むすっとしながら湯船に浸かった。

「……解せん」

 ヒリヒリとする頬をさすりながら名無しは呟いた。そして名無しが入浴を終えて部屋に戻ろうとする廊下にエミリアが立っていた。

「……アル」
「……」

 名無しは思わず一歩後ろに引いた。するとエミリアは頭を下げた。

「すみません助けてくれたのに、私ったら思わず……ヒドい事を」
「まあ、いいさ」

 名無しがそう言って軽く手を振ると、エミリアは気まずそうに目を泳がせた。

「でもあの……裸だったもので……」
「前は隠れていたぞ」

 それを聞いたエミリアの顔がゆでだこの様に真っ赤になった。

「やっぱ見たんじゃないですか!!」

 エミリアはそう言い残すと、バターンと大きな音を立てて扉を閉め、部屋に逃げ込んでしまった。

「……うーん、不可抗力なんだがな」

 名無しが首をひねりながら部屋に戻ると、聞き耳を立てていたらしいフレドリックが困ったような顔をしてベッドに腰掛けていた。

「女心は難しいものです。私はもう懲りております」
「……一緒にしないでくれ」

 名無しはぶっきらぼうにそう言うと変な疲れを感じてベッドに転がり込んだ。

「温泉は……疲れる……」
「いい加減にしないか」

 若干苛立ちを隠せない声色を出したのはライアンだった。エミリアは一言も発さず、食堂の片隅で朝食の席はなんとも言えない空気に包まれていた。

「……この街が最後の街なのだ。私はこんな辛気くさいのはごめんだな」
「ご、ごめんなさい」

 ようやくエミリアは絞り出すような声を出した。そう、この街が最後なのだ。四人揃っての旅もライアンとエミリアが襲撃の危険こそあれ、街という俗世にいられるのも。

「……」

 エミリアはちらりと名無しを見たが、名無しは素知らぬ顔で朝食を食べているだけだった。肌を見せてしまった事を気にしているのは自分だけか、とエミリアは小さくため息をついた。

「……そろそろ部屋に戻って今後の段取りを話そう」

 そう言った名無しは、元々乏しい表情がさらに読み取りづらくなっていた。一行は食堂を
後にして部屋に戻ると、ライアンとエミリアの部屋に集合した。

「さて、これからの予定だが……私は買い物をしようと思う」
「ライアン!? 国境を突破しないと……」
「はぁ……ライアン様……」

 ライアンの突然の宣言に、エミリアは驚いた声を出しフレドリックはため息をつきながら頭を抱えた。

「何がおかしい。この機を逃せば私は一生人民の暮らしぶりを目にする事はないのだ」
「お気持ちは分かりますが……」

 ライアンはなにも我が儘だけで言っている訳では無かった。その命を狙われ、王宮を出てはじめて目にした外の世界でライアンは皮肉にも自分の国の民の姿を知った。そしてアーロイスの居る限り、二度と目にすることのないのだ。

「いいんじゃないか」

 ぽつりと口を開いたのは名無しだった。一番反対しそうな名無しの意外な発言に一行の視線が彼に集まった。

「俺は正規の手段で国境の関を通れない。暗闇が街を覆うまで待って突破する。その間は聖都で三人になってしまう」
「その時間は短いほどいい……ということですかな」
「ああ。関所の閉まるぎりぎりまでは当面やることはない」

 それを聞いたライアンはニンマリと笑った。

「で、あればその時間を無為に過ごすことは無かろう」
「ライアン様……迷子は絶対ダメですからね……」
「分かっておる!」

 フレドリックは眉根を寄せて、ライアンに言い含めた。鬱陶しそうに返事をしながらもライアンは嬉しそうだった。その笑顔に思わずエミリアの顔もほころんだ。

「……あんたは? どうする?」
「え? 私ですか?」

 名無しはエミリアに問いかけた。エミリアはしばらく考え込んだ。自分の場合は昨夜襲撃相手を撃退している。

「尼僧は華美だったり多くの私物を持つのはよくないとされていますが……ちょっと……気にはなります」

 エミリアは一人、巡礼者のローブを纏って街を巡ってきたが、旅の必需品を買うくらいでその格好で普通の村娘のように店を冷やかしたりは出来なかった。

「なら付いて行くか」
「はい……」

 そんな訳で三人は荷をまとめると、関所の閉まる直前の時間まで街で時間を潰すことになった。

「ライアン様は一体どこに行く気なのですか?」

 宿を出たフレドリックがライアンに聞いた。

「決めておらん」
「そ、そうですか……」
「ただ、今のうちに目に焼き付けておきたいのだ……」
「分かりました。お供します」

 それから四人は街の大通りへと出た。国境最後の街とだけあって商店の規模も大きく、土産物屋なども並んでいる。

「肉屋に八百屋……衣料に靴や小物に本に玩具に……人の生活が詰まってるな」
「さようですね」

 ライアンは感慨深げにその街なみを見つめた。ときおりその表情を曇らせながら。

「さぁ、陽気な曲のリクエストをいただきました、みなさんご存じの……」

 通りの中央にはオルガン弾きが曲を披露していた。その曲に周囲の人々は一緒に歌ったり、小さい子供達はくるくる回ったりした。

「……ふふ」

 ライアンは楽しげにその様子を見て微笑んだ。フレドリックはその様子を見てオルガン弾きに少々大目の投げ銭をしてやった。

「旦那様がた! よい旅を!」

 帽子を取って深々と挨拶するオルガン弾きを後にして、四人は土産物のエリアにたどり着いた。

「あ、これ……」

 それぞれ店先を冷やかしていたが、エミリアがふと足を止めた。それは庶民向けの小間物屋兼化粧品屋で、そこからふと香ってきた香りにエミリアは覚えがあった。

「お嬢さん、この街の名物の軟膏だよ。試してみるかい?」
「あ……昨日宿でちょっと使ってみました」

 そこでエミリアは宿で後で買おうと思っていたのにうやむやになっていた事を思い出した。

「そうかい、宿だとぼったくられるからウチで買った方がいいよ!」
「そ、そうですか……」

 威勢のいい店のおかみさんの売り文句に、エミリアは苦笑した。

「それ買うのか?」
「ええ、これくらいなら教会に持ち込んでも……香りも良かったです。私は好きです」
「ふうん」

 名無しはエミリアの持っていた軟膏の容器をひょいと掴んだ。爽やかなハーブ主体の香りはエミリアらしいと思った。少なくとも以前にいった隣町の女給の付けていた香水よりよっぽどましだ。無言で匂いを嗅いでいる名無しにエミリアは怖々と聞いた。

「……嫌いですか、こういうの」
「いいや。ただ……」
「なんですか」
「クロエにはまだこういうのは早いな」
「そっちですか……」

 エミリアはちょっと脱力して、こんな時もクロエの話になるのか、と思った。だがその直後にあんな小さなクロエに張り合ってどうする、と思った。
「はい、毎度ありーっ」
「はいどうも」

 お手入れ用の軟膏を買ったエミリアに他の土産物屋からも声がかかった。

「聖都訪問の記念のカップにお皿もあるよ!」
「名物聖都土産のプチケーキのセット!」

 それらの品物を聞いて名無しとエミリアは顔を見合わせた。

「エミリア、聖都にはまだついてないよな」
「……うーん、ユニオールからの物品の出し入れには結構規制がかかりますから……ここで買った方が楽ちんなんでしょうね」
「……あまり聖都と関係ないものもあるみたいだが」
「ふふふ……商魂たくましいですね」

 エミリアは活気ある街の様子に微笑んだ。エミリアは周囲を見回している名無しに話しかけた。

「クロエちゃんにお土産は何か買うのですか?」
「……帰りにしようと思う。荷物になるし」
「うーん、じゃあこれとかは?」

 エミリアは土産物屋の店先にあった聖都の紋章をモチーフにしたリボンを手に取った。

「アルは忘れてそのまま帰りそうですもの」
「……む、そうか?」
「これなら荷物にならないですし。そうだ、お世話になったし私が買います」

 エミリアはそのままリボンを持って会計に向かった。すると店員がエミリアに聞いて来た。

「お嬢さん、リボンもいいけどメダルは買いましたか?」
「え?」
「ありがたーい聖句とユニオールの中央教会の像をあしらった定番の土産物ですよー」
「えっと……それは……」

 自分はその教会に帰るんだが、とエミリアは心の中で思った。すると、隣にいた名無しがその小さなメダルを手にした。

「それは俺が買おう。エミリアの土産に」
「お返しのつもりですか? いいですって」
「はいはいご両人、二つ買えば解決、解決! ね?」

 一瞬揉め合った二人に店員はそう声をかけた。

「サービスで裏面に名前を彫ってあげますからね? お二人の名前は?」
「エ、エミリアです……」
「……アルフレッド」
「はいはい、では『エミリアからアルフレッドへ』と『アルフレッドからエミリアへ』ね!」

 勢いのいい店員に押し切られる形で二人は記念メダルを買う事になってしまい、再び違いに顔を見合わせた。

「はいできた! 今日の記念に大事に持っておくといいよ!」
「……どうも」

 メダルを受け取った名無しは微妙な面持ちでエミリアに片方のメダルを渡した。エミリアは急に気恥ずかしくなってそれを受け取りながら落ち着きなく周囲を見渡した。

「ところでライアンとフレドリックはどこにいったんでしょう」
「ああ、そういえば……」

 その時、通りの向こうからライアンとフレドリックがやってくるのが見えた。

「なんではぐれてるんだ? アル、エミリア!」
「……なにか買ったのか?」
「ああ。これを買った」

 ライアンは嬉しそうにカップを差し出した。いかにも土産物の量産品のカップだ。

「ふうん……」
「底にローダックの国旗とユニオールの紋章が描かれてる。おもしろい」

 それはとても王族が使うべき食器ではなかったが、ライアンは満足そうだった。

「少し疲れた。休憩がてら何か食べよう」
「はいはい」

 一行はどこか軽食と飲み物を出してくれそうな店を探して再び移動をはじめた。エミリアは包みから先程のメダルを出して手にのせた。そしてその裏に刻まれた文字を小さく呟く。

「アルフォンスからエミリアへ……」
「なにやってる、行くぞエミリア! アル!」
「は、はい!!」



「……アル……」

 低くくぐもった呻き声が、暗い室内にやけに響いた。締め切られた窓は厚いカーテンに覆われよどんだ空気が籠もっている。

「……アル」
「その呼び方、やめてくださいませんか。もう子供じゃないんですから……兄上(・・)
「何をしにきたのだ……アーロイス」
「何って見舞いですよ。病の兄を見舞うのは当然じゃないですか?」

 苦しげな息を吐き、寝台に横たわるのはこの国の第一王子ロドリックだった。そしてその寝台の前に据えられた椅子に座っているのはこの兄に代わり王太子となったアーロイスであった。
 アーロイスは不機嫌そうに投げ出した足を組み直した。

「兄上もついてない……ライアンが療養先で失踪したかと思えばご自身も病に倒れられるとは」
「……アル。お前は……」
「……お大事に。では」

 アーロイスは席を立った。そして自室へ戻り、窓を開いた。アーロイスの部屋で待機していた大臣のフェレールは外の光の眩しさに少し目を細めた。

「……息が詰まる」
「いかがでしたが、ロドリック様のご様子は」
「フェレール、たいしたものだな。病人そのものだった。典医の回復魔法も効かないそうだ」
「古き呪術の法だそうで……」
「兄上はあのまま生かさず殺さずで構わん。さがれ」
「はっ……」

 フェレールが退出し、一人となったアーロイスはため息を吐いた。

「ライアン……か……どこに行ったのか……」

 アーロイスはライアンを赤子の頃から知っている。何事も飲み込みの早い、聡明な子供だった。欠点と言えば自尊心が高すぎるきらいがあったが、やがて王位に就くことを考えればそれもまた美点だった。

「……それでも摘まなくてはならない。邪魔な芽となるものは……」

 アーロイスは窓の外を眺めた。その下には庭園が広がっている。かつてそこで兄夫婦と生まれたてのライアンと一時を過ごした白い東屋も見える。アーロイスは王位の為にそういったものを捨て去り、臆病さを慎重さに変えて進むしかなかった。
やがて外がうっすらと暗くなり始めた。まもなく、夕暮れ時である。

「そろそろですかね」

 エミリアが空を見上げながら言うと、ライアンは頷いた。

「ああ……」
「ユニオールに入国すると、すぐに広場があります。中央教会の内部に入るには知らせを寄越さないといけませんし……どちらにせよその付近で一泊する必要がありますね」
「という事はその広場の近くに宿を取りますか……」

 エミリアとフレドリックの話を聞いていた名無しが口を開いた。

「その広場に何か目印になるものはあるか?」
「広場の南に聖人の像があります」
「じゃあ、そこに宿の場所を書いた紙でも挟んで置いてくれ。後から向かう」

 そして名無しはフレドリックを見つめた。

「それまでエミリアを頼めるか?」
「なにを今更……お任せください」

 フレドリックは名無しの肩を叩いた。そして、一行は関所に向かった。

「では、後ほど……」
「ああ」

 関所の列に加わった三人を見届けて、名無しはその場を離れた。ローダック王国との境、ユニオールの都市を護る市壁の一角の茂みに身を潜め、夜が更けて人気の無くなるのを待つ。

「そろそろか……」

 細い月が高く昇っている。名無しは鉤爪のついた縄を使って市壁を登りはじめた。壁の頂上付近で名無しが慎重に顔を出すと、見張りは居るもののこちらには気付いていないようだった。

「あっちむいてろ」

 名無しは小さな花火に火を付けると逆方向にそれを投げた。

「……ん? なんだ?」

 見張りの衛兵が花火の音と光に気をとられているうちに、名無しは市壁を超えた。ようやく聖都ユニオールの内部である。

「……」

 下から吹き上がってくる風に名無しの髪が揺れる、名無しは聖都ユニオールの全貌を眺めた。中央の小高い丘の上に夜の月の光でも浮かんで見える白い神殿。そしてさほど広くない市壁の中にひしめく建物たち。

「あれが、エミリアとライアンの目的地か」

 そして名無しは目を落とした。エミリアの言う通り、街の入り口には広場が広がっている。名無しは目的の像を目視で確認するとするすると下に降りていった。

「あっさりだったな」

 地面に足を降ろし、鉤爪つきのロープを回収した。あとは広場に向かってエミリア達の場所を特定して合流するだけである。

「だよなぁ、これだけ周囲を他国に囲まれていて不用心だよな」
「……!?」

 名無しは背後から急に発せられた声にバッと振り向いた。

「……よう」
「バード」

 名無しの手はすでに小剣に伸びている。

「どうしてここに?」
「どうして、か……結構長い話になりそうなんだが……」

 バードは組織の襲撃から唯一生き延びた男。今後は二度と会うことはないだろうとハーフェンの隣町で言って別れた。遠く離れたユニオールで、しかも名無しが一人になるこんなタイミングで再び出会うのがただの偶然だとは名無しには思えなかった。

「お前を殺さなくてはならなくなったので、ここで待ってた」
「……」
「非情に残念だ」

 バードは軽薄な口調と裏腹に名無しから一切視線を外さず、長剣を引き抜いた。

「ここを特定するのは簡単だったが、お前達ずいぶんゆっくりしてくるもんだから参った参った」
「大人しく引退してろよ……おっさん」

 名無しも双剣を抜き、刃をバードに向けて構えた。

「それがなー、大金積まれちゃ事情が変わるってもんでさ。あの王子、心底お前が怖いらしい」
「アーロイスの事か」
「あんまり段取り悪いんで俺が声かけられちゃってさー……」
「……」
「……かわいいなぁ、クロエちゃんだっけ」
「!」

 バードの口から出たクロエの名前を聞いた名無しは小剣を握り治した。その反応を見たバードは面白そうに名無しを眺めた。

「おお、人間らしくなっちゃって」
「クロエをどうした……」
「それ知る意味あるか? ……お前はここで死ぬのに!」

 突然バードの長剣が名無しを切りつけた。予備動作無しのその動きを名無しはすんでの所で躱した。

「クロエに何かしたのか! 答えろ!」

 今度は名無しが小剣を振りかざし、バードに襲いかかる。バードは軽やかに名無しの放つ刃を避けた。

「くそっ!」

 ギイン、と名無しの剣とバードの剣がかち合った。そしてお互いにすぐに距離をとる。

「……はぁ」

 バードの動きは無駄が無く、名無しは正直手こずっていた。名無しと同じ、殺さなければ死ぬ、という状況の中で磨かれた剣筋だ。

「いい村だった、見知らぬ俺に誰も彼も親切だった」
「黙れ!!」

 名無しは地面を蹴り上げ、一気に距離を詰めると、バードの首をめがけ小剣を振った。

「……おいおい」
「……」

 名無しの小剣は確かにバードの首筋に当たった。一文字の傷口からはつっと赤いちが流れる。

「一撃で殺すのが基本だろうが」

 名無しの刃はバードに当たる直前で僅かにぶれた。致命傷とならなかった首筋の傷をバードは撫でると、冗談じみた口調をひっこめ唸るように呟いた。

「こんなんじゃ死なねぇよ……!!」

 バードは長剣を構え治し、名無しに駆け寄った。そして名無しにその切っ先を向けた。確実にその命を刈取る為に。
 バードの剣筋を二本の小剣で受け流し、名無しはさっと距離を取る。

「殺す気で来ないで俺が止められるとでも……? なめられたもんだ……」

 バードは不愉快そうに顔を歪めて言いい、名無しを剣で切りつけた。深く踏み込んだその切っ先が名無しの頬を掠め、赤い筋が走る。

「それとも尼さんの尻を追いかけて府抜けたか?」
「……」

 名無しは二歩、後ろに下がり下がった。そして一気に跳躍してバードの懐へと入り込む。名無しの小剣の刃が描く弧をバードは首を逸らして避けた。
 しかし、一手では終わらない。名無しは目にも止らぬ早さで切っ先をバードに繰り出した。

「はっ、ほっ、ほっ」

 バードは長剣を盾のようにしてその刃の嵐をかいくぐった。バードが一瞬の間を突いて名無しに切りつけようとして、ようやく名無しはバードから距離を取った。

「そうそう、懐に入らなきゃお前の小剣は意味が無い……俺はそう言ったよな」
「……さぁ?」
「お前はいっつもそうだなあ。周りの人間の事をすぐに忘れちまう」

 バードは剣の構えを崩す事無く言葉を続けた。

「無理もないか。覚えてたってみんな死んでく。辛いだけだもんな」
「……バード、少しお喋りがすぎるな」

 名無しの呻くような声を無視してバードは言葉を続ける。

「そうやって自分を殺して生きてきた……至極真っ当だと俺は思う」
「うるさい!」
「でなきゃ、任務とはいえ魔王だとかなんだかよく分からねぇ化け物の前に放り出されて平気でいられる訳がない」
「黙れ……!!」

 名無しは地面を蹴る。バードの言葉に忘れかけていたあの冷たい炎が体の芯に点る。

「あ……ぐっ!」

 その次の瞬間、バードの長剣は地面に落ちた。それを握っていた指と一緒に。ぽたぽたと流れる血を抑えてバードは呻いた。

「……とっとと帰れ」

 名無しは吐き捨てるように言った言葉に、バードは脂汗をかきながら哄笑した。

「帰る……? はは……そんな場所ないだろ。俺はどこまででもお前を追う。剣が無くても罠や毒だってある。お前が俺を殺さない限り……」
「バード……」

 名無しがバードを見つめると、バードはにやりと笑ってふらりと立ち上がった。

「お前が護っているお嬢さんを狙ってもいいし、かわいいクロエちゃんを吊し切りにしてもいいかもな!」
「貴様ぁ!」

 その途端、名無しの小剣はバードの腹部に深々と刺さっていた。

「ぐふっ……そうだ……それでいい……」
「何がだ!!」

 名無しの中で感情が吹き荒れ、その勢いのまま名無しはバードを怒鳴りつけた。

「俺は……戻れない……畑を耕して草むしりして、たまに美味いもの食べて……そんなの……だから俺はいつまでもいつまでも誰かの命を刈って生きるしかない」

 バードの口から血があふれ出た。名無しはそれを見下ろしながら体の中の炎がじょじょに収まっていくのを感じていた。

「そんなのってねぇよな……」
「バード……それは……」
「お前はまともなんだよ、ははは……羨ましいな」

 喋る度にバードの腹部からも血が流れ続ける。バードはその腹部に刺さった小剣を引き抜いた。そしてその剣についた血を名無しに振り飛ばした。
 名無しはびしゃりと音を立てて顔に飛び、前髪から垂れ落ちる血の滴を黙って拭った。

「……これでいい加減俺の事は忘れない……か……ねぇ、名無し……」
「アルフレッドだ」
「へ……」
「俺の名前はアルフレッド……」
「そっか……へへ……洒落た名前だ……いいんじゃないか……」

 それきりバードは動かなくなった。名無しは自分の小剣をバードから回収し、その開きっぱなしの瞼を閉ざした。

「バード……俺も思い出した。あんたの仕事の流儀は……」

 クロエの元に行ったのは本当だったのだろう。しかしバードがその流儀にそって行動しているとすれば……村もクロエもきっと無事だ。

「標的以外は狙わない……それが一流だって。あんた、そう言って自慢してたっけ……」

 名無しはしばらくバードの亡骸の横に座り込み、夜風に吹かれていた。



「いくらなんでも遅い……」

 広場の像を見下ろせる部屋に宿を取ったライアン達はずっと窓の外を窺いながら名無しがやってくるのを待っていた。さすがにいらだった口調でライアンが呟いた。

「市壁を突破できなかったんでしょうか……」
「簡単そうに言ってましたがね……私が様子を見てきましょう」
「それならみんなで……」
「あっ」

 エミリアとフレドリックが揉め合っている間も窓の外を見つめていたライアンが声を上げた。

「あれ、アルじゃないか?」

 ライアンの声に二人は一斉に窓に駆け寄った。月明かりに黒っぽい人物が広場の像を探っているのが見えた。

「心配させおって!」
「まぁまぁ、待ちましょう」

 夕方に中央教会には到着の知らせを送ったし、あとはほんの少しの距離を護衛すればすむのだ。フレドリックは旅の終わりをようやく感じる事が出来ていた。

「……またせた」

 そして扉が開き、名無しが部屋に現れた。

「遅かった……な……」

 名無しの到着の遅れに文句を言おうとしたライアンだったが、姿を見せた名無しの姿に一瞬息を飲んだ。

「アル! 怪我をしているのですか?」

 エミリアは名無しの頬に走る傷に思わず駆け寄った。

「少し……かすり傷だ」

 ライアンとエミリアが戸惑う中、フレドリックは厳しい表情で名無しに問いかけた。

「その血の匂い……怪我のものではありませんな……何がありました」
「……」

 その問いかけに、名無しは無表情に見つめ返すだけだった。
「……待たせてすまなかった」

 ようやく名無しが発した声は掠れていて、一同は今までにない名無しの様子に戸惑いを覚えた。

「とりあえず……浄化の魔法を。それから頬の傷も治しましょう」

 エミリアが名無しに近づき、その肩に触れた。途端、びくっと名無しは体を震わせた。

「アル……?」
「あ、いや……なんでもない。頼んだ、エミリア」
「ええ」

 エミリアの掌から溢れた光が名無しの体に降りかかった血糊をぬぐい去っていく。

「アル、少しピリッとしますよ」

 そう言ってエミリアは名無しの頬に触れた時、異常な程の皮膚の冷たさに驚いた。頬の傷の血は止まり、うっすらと跡を残すだけになったが、名無しの強ばった表情は変わらないままだった。

「……終わりました」
「ああ」

 エミリアの視線を避けるように俯いた名無しを見て、エミリアは固唾を飲んで見守っていたライアンとフレドリックに声をかけた。

「少し……アルと二人きりにさせて貰ってもいいですか?」
「あ、ああ……」
「行きましょう、ライアン様」

 二人が扉を閉めるのを見届けて、エミリアは名無しに向き合った。

「とりあえず座りましょう?」

 エミリアは名無しの手を取ってベッドに腰掛けさせた。その時、名無しの右手が不自然に握られている事に気が付いた。

「アル、何を握っているの?」
「あ……これ……」

 名無しはようやく掌を開いた。そこから切り落とした指が三本現れ、一つは床に転がり落ちた。

「……っ」

 エミリアは思わず悲鳴を上げそうになるのを堪えた。名無しはかがんで床の指を拾い上げた。

「落ちた……」
「誰の、指……ですか」

 驚きと単純な恐怖を押さえ込みながら、なんとかエミリアが息を飲みながら問いかけると、名無しはエミリアを見上げて答えた。

「これ? これか……バードのだ」
「バード……?」
「元の仕事仲間だ。そして俺を殺しに来た……あ、また落ちた」

 名無しの掌からまたバードの指が転がり落ちた。そう、名無しの手は細かく震えていた。

「これ、使ってください」
「……すまん」

 エミリアはハンカチを取りだして名無しに渡した。名無しがそこにバードの指を包んだのを見届けて、エミリアは名無しの両手を掴んだ。

「人を……殺してきたのですね」
「ああ……殺さないと無理だった。それに……あいつ……」

 そこまで言うと、名無しは口ごもり、また俯いた。

「アル、どうしたんです?」
「あいつは……死にたがってた……」
「そう……」
「だからって殺したかった訳じゃないんだ、エミリア」
「分かってますよ。アル。分かってます」

 エミリアは名無しの手をぎゅっと握って答えた。名無しは俯いたまま、ぽそりと呟いた。それは誰に聞かせるでもない小さな呟きだった。

「……分からん」
「なにがですか?」
「今まで何人も殺した。まして俺を殺しに来た奴を殺して……なんで」

 そこまで言って名無しは口ごもった。エミリアは名無しの手を優しくさすった。少しでもこの温かさが伝わればと。

「……怖いと思った」
「……そう、ですか」

 エミリアは責めるでもなく、ただひたすらに名無しの冷たい固い手を握り頷いた。

「アルは何が怖いのですか?」
「うん……それは……なんて言うか」

 その問いかけに名無しはしばし考え込んだ。うまく話さなくたっていい。そう思いを籠めてエミリアは名無しを見つめた。

「バードが言ってたんだ……自分は帰る所なんてないって……俺も、そう思ってた。そんな事が怖いなんていままで思わなかった」
「それは……」
「俺はバードみたいになるのが……怖い」
「大丈夫ですよ。アルには帰る所がちゃんとあるでしょう」

 名無しはその言葉を聞いて一旦頷いたが、すぐに首を振った。
「それだけじゃない。俺の殺してきた人間にだってちゃんと帰る所が……」
「アル!」

 エミリアは思わず名無しの肩を掴んだ。

「……ハーフェンの村の事を思い出してください。みんな優しかったでしょう?」
「それは……本当の俺を知らないからだ。……本当の俺は……汚い」

 エミリアはその言葉を聞いた瞬間、名無しを抱きしめていた。

「アルはそんな人間じゃありません!」
「……」
「アルはここまで私を守ってくれましたよね? 放っておいたっていいのに。そんな人が汚い訳ありません」
「でも……」

 肩の向こうで名無しがそう呟くのを聞いて、その言葉を遮ってエミリアは大声で叫んだ。

「私は! アルに幸せになって欲しいんです。いままで辛い事があった分! あの村で、笑って過ごして欲しいんです」
「……なんでそこまで」
「まだ分からないんですか? アルはもう私にとって他人じゃないんです!」
「……」

 エミリアは名無しの背にしっかりとしがみついた。そうでもしないと名無しが遠く知らないところに行ってしまいそうで恐ろしかった。

「……いくら聖職者でも……人間の手なんてちっぽけです。ですからこの手に触れた人は出来るだけ笑顔でいて欲しいんです……」
「エミリア……」

 名無しの肩をエミリアの涙が温かく濡らした。ずっと鼻をすすりながらエミリアは顔を上げた。

「それじゃ駄目ですかね……」
「いや……」

 名無しはエミリアの肩を掴んで上半身を起こした。そして今度は真っ直ぐにエミリアを見て言った。

「ありがとう」
「……いえ」

 その名無しの表情を見てようやく安堵したエミリアは、今度は凄い格好でベッドの上にいることに気が付いた。

「わっ!」
「どうした?」
「あの……その……駄目ですね! 聖女になるというのに泣いたりして!」

 途端に湧き上がってきた羞恥心に、エミリアはさっと立ち上がった。

「……ちょっとは落ち着きましたか?」
「ああ」

 名無しはそう言って薄く微笑んだ。エミリアはそんな名無しの額に手をやった。

「今度はなんだ?」
「アル、今から昏睡の魔法をかけます。今日はゆっくりと眠った方がいいです」
「だが……護衛は?」
「中央教会に伝令を寄越しました。これから到着しない方が不自然です。いざと言うときはフレドリックさんもいます。だから……」
「……分かった」

 名無しが頷くと、エミリアは微笑みながら昏睡の魔法を名無しにかけた。エミリアの手から発せられた光が名無しの頭部を包み混み、名無しはパタンとベッドに倒れ込んだ。

「……おやすみなさい。アル」

 エミリアは名無しの額にかかった髪をそっと直してやると、静かに部屋を出て行った。
 名無しは数年ぶりの深い眠りに落ちていた。そして夢を見ていた。
 ――村は焼け野原で、煤をつけたまま呆然と道端から名無しはそれを眺めていた。幾日そうしていただろう。もう起き上がる気力も無くなった頃に、馬車が通りかかった。

「あーあ、なんだこりゃ夜盗の仕業かね。なーんも残っちゃいないや頭領」
「バード、俺達はしけた盗みをしにきた訳じゃない……と、なんか居るぞ」

 その声に名無しは僅かな力を振り絞って振り向いた。

「なんだガキか……。あの村の生き残りか? おいぼうず」
「……家、なくなっちゃった」
「そうか、名前は?」
「……名前……」

 名無しはいくら考えても自分の名前が出て来なかった。頭領と呼ばれた男はふん、と鼻を鳴らすと名無しの頭を掴んでその目を覗き混んだ。

「……じゃあ、名無しでいいか。おい名無し、ここで死ぬかもうちょっと後で死ぬかどっちがいい?」
「おいおい頭領、その汚ねぇガキ連れて帰るつもりですかい」
「お前には聞いて無い。おい名無し、俺はそんなに待たねぇ。今決めろ」

 名無しは乾いた唇を舐めた。ぼんやりした頭でたった一つだけ覚えている事があった。

「……死ねない。母さんが、生きろって言った」
「そうか」
「子育てしてる場合じゃないでしょうに」
「こういうのが案外化けたりするかもしれねえよ」

 知らない大人達の会話を遠くに聞きながら、名無しは燃えさかる梁に押しつぶされながら名無しに被さった母親の事を思い出していた。

「母さん……」

 名無しは目を開けた。そこはユニオールの中央広場に面した宿の一室だった。

「昔の夢なんて……」

 そもそも夢なんて名無しは滅多に見る事が無かった。やはり深く眠ったせいかと名無しは横になったまま考えた。

「よく眠ってましたな、アル」
「……おはよう、フレドリック」
「ライアン様とエミリアはまだ眠っとるようです。迎えは昼過ぎですからもう少し寝かせておいてあげましょう」

 フレドリックはベッドから起き上がると例の魔道具の湯沸かしでお湯を沸かしはじめた。

「お茶飲みますか?」
「ああ……貰う」

 やがて部屋中に芳しい茶の香りが広がってきた。フレドリックは湯気の立ったカップを手渡した。

「あの後、エミリアから聞きました。命を狙ってきた相手を討ったとか」
「……ああ」
「私はあなたを問い詰めましたな。なぜ殺さないのかと」

 フレドリックは熱いお茶を一口啜った。

「安易にもの申してすまなかった」
「いや……殺した事自体に後悔は無い。……フレドリック、あんたが剣をとるのもよく分かってる」

 バードを前にクロエや村の皆の顔がちらついた時、名無しは刃を繰り出すことに躊躇をしなかった。

「何かを、誰かを守る為なら……また誰かを殺す事もあるだろう」

 ただ、もう名無しは何も考えず言われるままに命を奪うような真似は出来ないだろうと思った。そう意識するとグラグラしていた足下がしゃんとした気分になる。

「それがアルが自分で決めた生き方なら」
「自分の生き方……そうだな」
「……いい顔をしてますな」
「え?」

 フレドリックにそう言われて名無しが顔を上げると、フレドリックはにやっと笑った。

「やはり一晩ぐっすり眠ったのが良かったんでしょうか。私は思わず万が一の事を考えて文句を言ってしまいましたけど」
「……そうか」
「おかげで私が寝不足です……ちょっと眠りますかね」
「あ、ちょっと待った」

 お茶を飲み終えて仮眠を取ろうとするフレドリックを名無しは呼び止めた。

「今回、俺を襲撃した奴の後ろで手を引いているのは恐らくアーロイスだ」
「……どういう事です」
「奴は俺の存在を恐れているようだ」
「……なぜ」

 フレドリックは名無しに向き直り、向かいに座って低い声で問いかけた。

「……アーロイスは魔王討伐の功績から王太子になった……これは間違いないな?」
「ええ、その通りです。決定打となったのはそれですな」
「しかし、その魔王を殺したのは……俺だ」
「なんと……」

 各地で起こった魔物の活発化。その元凶として魔王の復活が囁かれ、居場所を特定する為に実力ある魔術師達がかけずり回った。そしてようやく分かった場所にアーロイスを中心とした討伐隊が向かった。ローダック王国に代々伝わる、魔王殺しの聖剣を携えて。

「だが、アーロイスは剣を振れなかった。代わりに俺がとどめを刺した」

 長い時の流れの中で伝承は薄れ、魔王という存在が人に害なす事は分かっても何をしでかすのか分かっていなかった。名無しは目的地までのアーロイスの護衛であり、また万が一の場合の捨て駒だった。どうなっても後腐れの無い、どうでもいい命。それが名無しだった。

「この事は今はもう俺しか知らない」
「それでは……立太子した事自体が仕組まれた事だったと……」

 フレドリックは息を飲んだ。

「すまんな。あんた達には大事な事だったのに」
「いえ、身を潜めていたのでしょう?……しかし……あの男はどこまで……」

 歯ぎしりをしながらフレドリックは拳を握りしめた。

「俺も見つからないと思ったんだがな……」

 名無しは顔を曇らせた。バードはどこまで雇い主に報告を入れていたのだろうか。ハーフェンの村に居た事をアーロイスが知っていたら……。しかし聞きだそうにももうバードは居ない。

「……私は決めました。この老いぼれの命のある限り、あのアーロイスを必ず討ち取ります」
「……」

 名無しは複雑な思いでフレドリックの決意を聞いていた。
「アル、大丈夫か?」

 その時部屋に入ってきたのはライアンだった。眠たそうに目をこすっている。

「ああ。昨夜は心配かけたみたいだな」
「……ふん」
「ライアン様もお茶飲みますか?」
「ああ。エミリアが着替えしてるからこっち来たんだ」

 フレドリックからお茶を受け取ったライアンはふうふうとそれを冷ましながら愚痴りだした。

「まぁそれは丁寧に髪を梳いていた」
「無理もないです。未来の聖女様の凱旋になるのですから。そこの広場から中央教会までみんながエミリアに注目する事になるでしょう。ライアン様も寝癖を直しましょう」
「ん? どこだ?」

 寝癖の場所を探しているライアンとブラシを荷物から取りだそうとしているフレドリックを横目に、名無しは窓の外を見つめた。もう間もなく中央教会からの迎えが来る。そうしたらこの旅は終わる。ほんの数日のはずなのに、名無しはひどく長かった旅に思えた。

「……お待たせしました」
「おう」

 しばらくすると、久し振りに巡礼者のローブを身に纏ったエミリアが部屋に現れた。

「まだ時間はあります。少し何か食べておいた方がいい。部屋に持って来させましょう」
「ええ」

 それから軽い朝食を終えて、四人は一緒の部屋で迎えを待っていた。

「……教会の暮らしはどんなだろう」
「すぐに慣れますよ。この旅を乗り越えてきたライアンなら大丈夫です」

 少し不安そうに呟いたライアンにエミリアは優しく微笑んだ。

「もちろん住居房は別ですが礼拝堂などの共用部分では顔を合わせるかもしれません。何かあったら言ってくださいね」
「うむ」
「フレドリックさんはライアンを送ったらどうするんですか?」
「……しばらくこのユニオールに留まります。ライアン様が落ち着くまでは……」
「そうですか」

 エミリアはそうして名無しに視線を移した。

「これでやっとハーフェンの村に帰れますね」
「……ああ」
「司祭様にお世話になりましたと伝えてください。それからクロエちゃんや村のみんなにも」
「分かった」
「ここまでありがとうございました。結局アルの力を随分借りてしまいました」

 名無しは黙って首を振った。

「あんたは最後まで自分の足で歩いた。俺はちょっと露払いをしただけさ」
「感謝します……心から」

 エミリアがお礼の言葉をのべた時、部屋の扉が叩かれた。

「エミリア殿、ライアン殿お迎えにあがりました」

 扉の奥にいたのは遣いとしてやってきた中央教会の僧侶達であった。

「エミリア殿、よくぞ無事で戻られた」
「それにしてもライアン殿と一緒とは……」
「たまたまです。これも神のお導きでしょう」

 エミリアは僧侶達に笑顔でそう答えると立ち上がった。

「では行きましょう」

 エミリアの顔つきが変わった。ライアンに振り回されていた時や、村の祭りを楽しげに眺めていた時や、名無しの思いを黙って聞いてくれた時とは違う厳しい表情が顔に現れていた。

「……そうだな」

 皆でまとめた荷物を手に宿の外を出るとすでに見物人が何人も待ち構えていた。

「さあ、エミリア殿。教会まであと少し。その偉業を見守ろうと多くの人が集まっています」
「ええ」

 エミリアは一行の先頭に立って歩き始めた。人垣がそれに合わせて移動して行く。その後ろを名無し達は付いていった。

「……エミリアを妨害していた者達もこの光景を見ているのだろうな」
「ライアン様っ」

 薄く笑いながら歩くライアンをフレドリックはたしなめた。民衆の好奇の目に晒されながら丘の上の白い教会に向かう。街を離れ、道には緑が多くなり、とうとう長い階段の前まで来た。見上げるほど巨大な中央教会の本部にはいくつもの尖塔が立っており塀で覆われていた。開け放たれた門には何人もの僧侶と尼僧が待機して、エミリアの到着に歓声と拍手の音をあげた。

「……お付きの方がついてこられるのはここまでです」

 その時くるり、と迎えの僧侶が名無しとフレドリックを振り返って告げた。

「……分かった」

 少し離れてどこか懐かしそうに中央教会の建物を見上げていたエミリアだったが、ライアンの肩にそっと手を添えると名無し達に近寄った。

「ライアン……ここで二人とはお別れです」
「……うん。アル、ここまで協力に感謝する。そして、フレドリック」

 ライアンはフレドリックの大きな体を見上げた。

「常に身を案じ、ここまで導いてくれた事。誠に大義であった」
「ライアン様……」

 フレドリックの目にうっすらと涙がにじんだ。

「とりあえず、この勝負は一旦我々の勝ちだ。しかし……」
「ええ。必ずお迎えに参ります」

 ライアンは無言で頷いた。世俗から切り離された空間に隔離される事となっても自分が生き延びる意味を、ライアンはフレドリックの分厚い手を握りながら噛みしめた。

「フレドリックさんお疲れ様でした。アルも……本当にありがとう」

 エミリアも二人を見つめて頭を下げた。そしてそのまま門の向こうに向かおうとするエミリアの肩越しに名無しは思わず声をかけた。

「エミリア、この先は俺は付いて行ってやれない」
「ええ、大丈夫です。分かってます……この先は私の問題です」
「……ああ」
「私を支えてくれる人の為に、この巡礼で手を差し伸べてくれた人の為に立ち止まる訳にはいきません。その中にはアル……あなたもいます」

 エミリアは少し寂しそうに笑った。この先二度と会うことの無いだろう名無しをしっかりと見つめて。

「最後に良い旅が出来ました。……幸せに、なってくださいね」
「……約束する」

 名無しは言葉少なに答えた。そのままエミリアは未練を振り払うように名無し達に背を向けると、ライアンを連れて門の中へと進んでいった。二人が中に入るとゆっくりと門は閉まっていく。中から聞こえる歓声。そして門はぴったりと閉じて二人の姿は見えなくなった。

「……行ってしまいましたな」
「……だな」
「おかしなもんです。ここを目指してきたはずなのに……」

 フレドリックが横で鼻をすすり上げているのを聞きながら、名無しは教会の厚い木の門を見つめていた。

「さよなら……エミリア、ライアン」

 名無しが小さく呟いた声は木の葉の揺れる音に紛れていった。