来てしまった。
 馬鹿なのかわたしは。

 スタジオのドアノブに手をかけてから正気に戻って固まった。
 いろいろとむしゃくしゃしていたので踊って鬱憤を晴らしたいなあと受診の帰り道に考えていたらすぐこれだ。
 我ながらあほだ。
 あほの馬鹿だ。

 タカヒロに襲われた日、いくら口で言っても止まらない二人にむかっときて飛び降りたのも我ながら馬鹿だと思う。
 下手をしたら普通に死んでいたところだが、バルコニーの下に生け垣があってそこに突っ込んだおかげでマリはほぼ無傷だった。

(……まあ、生け垣だけじゃなく夏目さんも下敷きにしたんだけど)

 生け垣と夏目の身体がクッションになり落下に関しては無傷で済んだが、逃げ回ったときにできた断端の傷のためにしばらく受診回数が増えている。
 宗一郎にはこっぴどく叱られるしむしゃくしゃが募っていた。

 あれから一週間、毎日病院に行っているが夏目には会っていない。
 事件の被害者ということで面会制限がかかっているのもあったが、それよりも。

(どんな顔して会えばいいって言うのよ)

 昔の女のかわりにされていました、そうしたらもっとこじらせた人間に襲われました、二人にむかついたので衝動的に死のうとしました、なんて。
 しかしあそこで飛び降りなければ確実に夏目は殺されていただろうし(あれだけ煽っていれば自殺と言えなくもないが)人魚姫として飛び降りたのは間違っていなかったのだと言い訳。

 王子が死ねば自分は助かるわけだしハッピーエンドになるのでは。

 何度目かになる自問自答に、今度こそ「そんなわけあるか」と返答してドアノブを引いた。
 人魚姫のハッピーエンドは、そんなエピローグなんかではなくて――。

 ドアをあけた先に人影が見えて、びくっと肩が跳ねた。
 誰だ?
 こちらに背を向けて、スタジオ全体を見るように立ち尽くしている。

 ひょろっと背の高い長身痩躯で、陰気そうなのに無駄に姿勢がよくて、紙粘土みたいなものがこびりついた白いシャツとワークパンツを穿いている人物。

「な、んでいるの?」

 つい声にだすと、墨色の髪が振り返った。
 いつもの蒼白い顔をより一層不健康な色に染めて不機嫌そうに睨みおろし、

「なんでいるんだ?」

 まったく同じことを訊いてきた。
 動揺してハンドル操作を見誤り、玄関のたたきにどんっとぶつかる。

 ふわっと、石膏の匂いが降ってきた。
 夏目が右手を伸ばして座面をすくいあげ、車体をフロアに引きあげる。
 袖から覗く右腕には何故だか歯型がついていた。

「車輪汚れてるよ? いいの?」
「別に。ここだってたいして綺麗じゃない」

 既視感のある台詞だった。
 フロアに乗りあげると夏目はマリと向かい合って腰をおろし、

「で? なんでここにいるんだよ」

 不機嫌そうに言い置いて頭を掻きむしる。

「それはこっちの台詞。入院中でしょ、夏目さん」
「抜けてきた」
「はあっ? なんで?」

 病院を抜けだすなんて何を考えているのか。
 かつて自分がしたことは棚にあげて睨みつけると、きょとんとした顔を浮かべた夏目が小首をかしげた。

「……さあ、なんでだろ?」

 馬鹿なのか、この男は。
 自分のことなのに当事者意識がなさすぎる。

「というか、お前は何しにここ来たんだって。普通もう来ないだろ。馬鹿なのか?」

 馬鹿に馬鹿呼ばわりされてかちんときて、しかし踊りに来たなんて恥ずかしくって言えず、

「鏡! 鏡の掃除に!」

 必死に絞りだした言い訳は「あー……そういえば」という言葉を聞く限り説得力があったようだ。
 ふらりと夏目が立ちあがってバスルームへ行き、でてきたときには義足を抱えていた。
 マリが投げつけてそのまま放置されていたものだ。

「何するの?」
「直す」

 言いながら今度はマッドサイエンティスト工房へ行き、工具の入った箱を持ってきてマリの前に座りなおした。

「壊れたの、それ」
「誰かさんに投げられたからな。お前、これが精密機械だってわかってる?」
「し、知ってるけど!」

 右手で工具箱をあけると中をまさぐる。
 お目当ての道具を手に取ると、あぐらをかいて足の間に義足を挟んだ。
 関節のところに右手でドライバーを差し込むが、ぷるぷると震えてねじ穴に先が入らない。
 そういえば夏目は左利きだったっけ。

 槙島から夏目の腕のことは聞いていたが、改めて見るとショックだった。
 もとはといえばミユキが発端でありマリは巻き込まれただけなのだが、やはり責任を感じてしまう。

「貸して」

 車椅子からずり落ちてフロアに座り込むとドライバーを強奪した。
 夏目がなんのつもりだとでも言いたげな顔をしたが構わずにねじを回す。

「そっち終わったらこっちも」
「こう?」
「まあそんな感じ」

 気づけば右に左に指示をだし、いつも通りの尊大な態度でマリをこき使いだした。
 仕方なく言われたとおりにメンテナンスをしていく。

 蒸し暑いフロアに金属をいじる音だけがかちゃかちゃと響いている。
 ここ最近劇的に速まっていた時間がまたゆっくりとした流れに戻っていた。
 一時(いつとき)はもう二度と戻れないのではないかと思った、緩やかな時間。

「ねえ、夏目さん」
「んー?」

 気のない返答。
 人工関節を曲げ伸ばして滑らかさを確認するのに夢中だ。

「もしもわたしがミユキよりもいい女になったらどうする?」
「ありえん」

 一蹴された。
 わかってはいたけれどもむかついて、

「たとえばの話じゃん。もしミユキよりも上手に踊れたらどうすんのかって訊いてんのよ」
「はあ? なんだその面倒くさい質問は」

 今度は足首の関節を曲げ伸ばしながら、それでも少しだけ顔をしかめて考えたあと、

「そしたら、まあ……また世界を目指すのも、悪くないかもな」

 何、それ。

 ぞくりと背筋が震えあがった。
 でもそれは一切不快な感覚ではなく、もっと昂揚する、麻薬のような感覚だった。
 とげとげしていた心が少しだけ丸くなる。

 ならもう少しだけ、頑張ってみるか。
 身代わりのままで終わるのは癪に障るので。

 人魚姫のハッピーエンドはそんなんじゃなくて――先ほど考えていた言葉の続きが頭をよぎった。

 人魚姫のハッピーエンドは、やはり王子様に見初められることなのだと最近思うようになった。
 お姫様のかわりに愛されていた人魚姫が、努力の末に王子様の視界に入って選ばれる。
 これこそが真のハッピーエンドだ。

 きっとマリがまだ人間になれないのは、人魚姫が逃げたから。

 努力は苦しい。
 自分ではなくお姫様ばかりを目で追う王子を見ているのが辛い。
 だから逃げた。
 王子と人間のお姫様、二人の幸せを願って泡になって消えたのではない。
 あれは負け犬の自殺だ。
 人魚姫は清廉潔白ではなくて、もっと人間くさくて馬鹿馬鹿しいほど精神の脆弱な負け犬だ。
 そして逃げ続けているから、まだマリは人間になれない。

 だったら、逃げずに闘えばいいんでしょう?

 誰にともなく訊いた。
 もしかしたら天国にいるという神様に向かってかもしれない。
 いつまでも白くてぶよぶよのままでいられるわけではないから。
 だから宣戦布告だ、よく聞け神様。

 魔法使いであり、もしかしたら王子様かもしれない夏目をまっすぐに見据え、

「わたし、やってやるわよ。もっともっと練習して、うまくなってみせるから」

 夏目が顔をあげた。
 何か言いたそうに渋面を浮かべたので先手を打って逃げ道を塞ぐ。

「夏目さんがなんと言おうとも、もう一度踊る。約束、したじゃん」

 怯みそうになる心を奮い立たせて言い切った。
 夏目は少し困ったような顔を浮かべて口をもにょつかせたあと、はあ、と大きなため息をついてうなだれて。

 そして諦めたように手を伸ばした。

「俺と、踊ってくれる?」
「もちろん」

 再び既視感のある台詞だった。
 マリは今度こそ自分の言葉で答える。
 魔法使いに言わされた言葉ではなくて、しっかり、はっきり。

 ただほんの少しだけ……。
 思ったよりも高くついたラストダンス延長に対する支払いは、当分の間マリを苦しめるだろうなあと目眩がしたけれど。

 傷だらけの足に義足をつけた。
 宗一郎が見ていたら卒倒しそうだなと内心で笑う。
 マリと向かい合った夏目が肉付きの薄い頬の片側を少しだけあげてだるそうに笑い、慇懃(いんぎん)(こうべ)を垂れて左手を差しだした。

 麻痺してくたっと手首から折れ曲がった手。
 いつもその手を取ろうかと迷いっぱなしだったマリのかわりに、無理矢理に握ってくれた手。
 しかしもう、夏目から握ることはできないから、今度はマリからしっかりと握る。

 夏目が低い声でシャル・ウィ・ダンスのメロディを歌って、一歩踏みだした。

 今はまだ身代わりでも、そのうちいつか見返してやる。
 マリの最大のライバルは、ミユキであり夏目だ。
 そう心に誓って、満身創痍の二人、時間を忘れて踊り明かした。

 最後の小さな星が、空から消え去るまで。                     了