ショッピングモールの突き当たりまで逃げてきたところで、夏目が壁にもたれかかってずるずるとかがみ込んだ。
かくんと首を折ってぜえぜえと息をする。
明らかにおかしな呼吸音だったが、そんな状態でもマリを抱えて離そうとしなかった。
「夏目さん、苦しいの?」
と訊いてみるが本当に苦しいようで返事も返ってこない。
目を閉じている夏目の頬に手を伸ばしてみてびくっとする。
冷たい。
氷のように。
普段から決して暖かいとは言えない夏目だったが、今は比べようもなく冷たかった。
王子が死ねば自分は助かるわけだしハッピーエンドになるのでは。
自分の言った言葉が呪いのように降りかかってきた。
面食らって頬に触れる指先が震える。
これが、ハッピーエンド……?
はっとして夏目の左手を取り、思わず一回目を逸らしてから恐る恐る視線を戻した。
手のひらの上で押し問答を繰り広げたカッターナイフは肉をずたずたに裂いていた。
白っぽい何か――骨、が、見えている。
落ち着け、骨が見えたからって何だ。
病院に行って縫ってもらえば傷跡は残るかもしれないがちゃんと塞がるに決まってる。
深呼吸をして思考を振り払うと来た道を振り返った。
赤い水たまりが一定間隔で点在しており、それを遡った先でカッターナイフを握ったタカヒロがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「どーんなーに上手に隠れてもーあーかい血潮が見えてるよーぅ」
土地勘のあるタカヒロはもう逃げ場がないことを知っているのか悠々と廊下を歩いてくる。
突き当たりはレストランだったようで、壁際に追い込まれた今となってはテラス席に逃げるくらいしかやりようがない。
サッシュリボンをほどいて気休め程度に夏目の手を縛ってから、
「バルコニーから飛び降りよう」
「だめだ」
一瞬で却下されて思わずむっとした。
「なんでよ。二階ならなんとかなるってば」
「ちっがう。このビルは傾斜地に建ってるんだよ。見ろ」
夏目の肩に手を置いてバルコニーの向こうを覗き込んだ。
地上があると思っていたところは空洞で、そこからさらに二階ぶんほど下がったところに駐車場がある。
バルコニーはその駐車場にせりだすような形になっていた。
商業施設の天井は一般家庭よりも高く作られているので……ここから飛び降りるとなると実質四から五階ぶんの高さを落ちることになる。
「じゃあどうするのよっ」
あの狂人を倒すとでも言うのか。
出血量が多いうえに普段の栄養失調もたたってへろへろの夏目と、一本足のマリと二人で。
無理だ、どう考えても。
「こうする」
と、夏目がおもむろに立ちあがってバルコニーへでた。
結局飛び降りる気か?
しかしバルコニーの縁には目もくれず、外壁のほうに向き直ったところで夏目の意図を理解した。
そこには工事用のエレベーター・リフトが設置されていた。
コンセントに挿すことで使用できる籠状のエレベーターで天井まで続いている。
おそらく天井に開いた穴を調べるのに業者が設置したのだろう。
「天井に逃げてやり過ごすの?」
問いかけてみたが夏目はふらふらとエレベーターに向かうだけで答えない。
マリを籠の中に降ろすと抜けていたコンセントを差し込んだ。
上下を示すランプがぱっと灯る。
まだ使えそうだった。
かつー……ん、かつうー……ん。
近づいてくる足音で我に返って夏目のほうに手を伸ばした。
「ほら、夏目さんも早く」
夏目は乗ってこなかった。
外枠の柱に設置された『上』ボタンを押すと、夏目を残したままリフトがあがっていく。
「嘘っ、なんでっ」
「ちょっとあいつに野暮用がある」
「何それ意味わかんない――」
喚いて飛び降りようとしたが「お前カンケーねえだろうが」と夏目がふっと笑って。
何だ、その顔は。
どういう感情だ。
急に動けなくなってしまったマリを力業で押し込めると、夏目はタカヒロのほうへと歩いていく。
上についたらすぐに下行きのボタンを押して、夏目を引っ張ってこなければ。
そう思っていたのに、リフトはあと少しで上端という位置で急停止した。
籠から身を乗りだすと、夏目がコンセントを引っこ抜いているのが見えた。
それとほぼ同時だった。
「あれ? 深雪はどこに行ったの?」
暗闇の中からタカヒロが姿を現したので抗議するタイミングを見失った。
西日に目を細めながら周囲を見回したタカヒロが顔をあげてこちらに気づき、浮かべていた薄ら笑いが引きつった。
肉が削げ落ちるように頬が下がっていき、
「くそお! 深雪っ! なんでっ、なんでなんでなんでなんでなんでっ――――!」
ぐしゃぐしゃに頭を掻きむしって身悶えながら叫ぶ。
顔を覆っている指の隙間から血走った双眸が覗き、ぎゅるぎゅると眼窩の中で暴れ回るように蠢いたあと夏目を捉えて停止した。
「お前が、僕から深雪を奪ったんだ。奪って、殺して」
「そうだよ。俺が憎いんだろ?」
なんで煽るようなことを言うのかっ。
案の定タカヒロがゆらりと顔をあげ、手に持っていたカッターナイフを差し向けると声を荒らげた。
「憎いっ。お前が殺したくせに代替品を見つけてまだ深雪と踊ってるなんて。なんでお前ばっかりがっ」
まくしたてた言葉がそこでぶつ切りになる。
カッターナイフを構えたタカヒロが地面を蹴った。
拙い足取りだった。
夏目なら十分に避けられるくらいの速力しかない。
そんな走り方だったのに。
夏目の左腕にカッターナイフが突き刺さってタカヒロは停止した。
白いシャツがみるみると赤く染まっていき、タカヒロが「あっ……」とか細い声をあげる。
「心臓はここじゃない」
カッターナイフを引き抜いてタカヒロに突き返す。
血糊で滑り落ちそうなそれをしっかりと握らせて、自分の心臓の位置まで引っ張ってきて、
「ここだ。殺したいなら今度はしくじるなよ」
何、を。
マリは絶句して二人を見ていた。
何を考えているのかっ。
タカヒロの息がどんどんと荒くなっていく。
震えていた手の振れ幅がだんだんと小さくなっていき、照準が心臓に合わさっていく。
「深雪、僕の深雪っ」とタカヒロが低く呻き、夏目がそれをどこか諦観したような目で見おろしている。
マリがここにいるのに、二人ともミユキしか見えていなかった。
もう何を言ったところで止まりそうもなかった。
どちらかが、もしくは両方が死ぬまで。
(ふ、ざけるな)
どこまでマリを虚仮にしたら気が済むのか。
いもしない人間を勝手に投影させて殺しあって自滅して、それを見せられているこの状況は何だ。
(ふざけるなっ……!)
網目状の床を蹴るとがしゃんという音がした。
二人がこちらに気づいて顔をあげる。
鉄柵に身を乗りあげると右足と腕の力だけで立ちあがる。
「おい、馬鹿っ」
「深雪っ、危ないだろ!」
未だにミユキと呼ぶ救いようのない狂人と、この状況で馬鹿と言ってのける王様態度にかちんときた。
馬鹿はどっちだ!
「どいつもこいつも、わたしを身代わりにして好き勝手言うな! わたしが死ねば二人とも願いが叶わなくなってお似合いだね! ざまあみろ!」
人生で一番大きな声をあげると、マリは一本しかない足で鉄柵を蹴った。
緩く吹く風がマリのミントグリーンのワンピースを絡め取り、エレベーター・リフトから――さらに言うならバルコニーから身を放りだす。
遙か下のほうに駐車場の白線が見えた。
わたしが死んでから後悔すればいい。
ふと、もしかしたら人魚姫もこんな気持ちで泡になったのかもしれないと思った。
あのお話は清廉潔白な女の子の話ではなくて、マリみたいなひねくれ者が自分そっちのけで楽しむ王子への腹いせに死んだ話――。
そうだったらたぶん、ようやく人魚姫のことが好きになれる。
「月島っ」
落下する風圧の中で顔を向けた。
ベランダの手すりに身体を押しつけ、血みどろの左手をめいっぱいに伸ばしている夏目がいた。
ちかちかと頭の中で光が爆ぜる。
納涼祭で逃げようとしたときのことが頭に浮かんだ。
魔法使いの魔力のせいか、あのとき同様に手が勝手に吸い寄せられる。
伸ばした手と手が一瞬触れただけですれ違い――。
間一髪、夏目がマリの手首を掴んだ。
しかし。
ぶちぶちっ、
肉の裂ける音がして、がくんと夏目の身体が重力に引っ張られた。
引きあげるどころかむしろ引きずられて、上半身が手すりに乗りあげると、そのまま二人一緒になって空中へと投げだされる。
それでも、手はつながったまま。
抱き寄せられて、二人、小さく丸まった。
ぐんぐんとアスファルトが迫ってくる中で、
マリは石膏の匂いに包まれながら、まだ動いていている夏目の心臓の音を聞いていた。
かくんと首を折ってぜえぜえと息をする。
明らかにおかしな呼吸音だったが、そんな状態でもマリを抱えて離そうとしなかった。
「夏目さん、苦しいの?」
と訊いてみるが本当に苦しいようで返事も返ってこない。
目を閉じている夏目の頬に手を伸ばしてみてびくっとする。
冷たい。
氷のように。
普段から決して暖かいとは言えない夏目だったが、今は比べようもなく冷たかった。
王子が死ねば自分は助かるわけだしハッピーエンドになるのでは。
自分の言った言葉が呪いのように降りかかってきた。
面食らって頬に触れる指先が震える。
これが、ハッピーエンド……?
はっとして夏目の左手を取り、思わず一回目を逸らしてから恐る恐る視線を戻した。
手のひらの上で押し問答を繰り広げたカッターナイフは肉をずたずたに裂いていた。
白っぽい何か――骨、が、見えている。
落ち着け、骨が見えたからって何だ。
病院に行って縫ってもらえば傷跡は残るかもしれないがちゃんと塞がるに決まってる。
深呼吸をして思考を振り払うと来た道を振り返った。
赤い水たまりが一定間隔で点在しており、それを遡った先でカッターナイフを握ったタカヒロがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「どーんなーに上手に隠れてもーあーかい血潮が見えてるよーぅ」
土地勘のあるタカヒロはもう逃げ場がないことを知っているのか悠々と廊下を歩いてくる。
突き当たりはレストランだったようで、壁際に追い込まれた今となってはテラス席に逃げるくらいしかやりようがない。
サッシュリボンをほどいて気休め程度に夏目の手を縛ってから、
「バルコニーから飛び降りよう」
「だめだ」
一瞬で却下されて思わずむっとした。
「なんでよ。二階ならなんとかなるってば」
「ちっがう。このビルは傾斜地に建ってるんだよ。見ろ」
夏目の肩に手を置いてバルコニーの向こうを覗き込んだ。
地上があると思っていたところは空洞で、そこからさらに二階ぶんほど下がったところに駐車場がある。
バルコニーはその駐車場にせりだすような形になっていた。
商業施設の天井は一般家庭よりも高く作られているので……ここから飛び降りるとなると実質四から五階ぶんの高さを落ちることになる。
「じゃあどうするのよっ」
あの狂人を倒すとでも言うのか。
出血量が多いうえに普段の栄養失調もたたってへろへろの夏目と、一本足のマリと二人で。
無理だ、どう考えても。
「こうする」
と、夏目がおもむろに立ちあがってバルコニーへでた。
結局飛び降りる気か?
しかしバルコニーの縁には目もくれず、外壁のほうに向き直ったところで夏目の意図を理解した。
そこには工事用のエレベーター・リフトが設置されていた。
コンセントに挿すことで使用できる籠状のエレベーターで天井まで続いている。
おそらく天井に開いた穴を調べるのに業者が設置したのだろう。
「天井に逃げてやり過ごすの?」
問いかけてみたが夏目はふらふらとエレベーターに向かうだけで答えない。
マリを籠の中に降ろすと抜けていたコンセントを差し込んだ。
上下を示すランプがぱっと灯る。
まだ使えそうだった。
かつー……ん、かつうー……ん。
近づいてくる足音で我に返って夏目のほうに手を伸ばした。
「ほら、夏目さんも早く」
夏目は乗ってこなかった。
外枠の柱に設置された『上』ボタンを押すと、夏目を残したままリフトがあがっていく。
「嘘っ、なんでっ」
「ちょっとあいつに野暮用がある」
「何それ意味わかんない――」
喚いて飛び降りようとしたが「お前カンケーねえだろうが」と夏目がふっと笑って。
何だ、その顔は。
どういう感情だ。
急に動けなくなってしまったマリを力業で押し込めると、夏目はタカヒロのほうへと歩いていく。
上についたらすぐに下行きのボタンを押して、夏目を引っ張ってこなければ。
そう思っていたのに、リフトはあと少しで上端という位置で急停止した。
籠から身を乗りだすと、夏目がコンセントを引っこ抜いているのが見えた。
それとほぼ同時だった。
「あれ? 深雪はどこに行ったの?」
暗闇の中からタカヒロが姿を現したので抗議するタイミングを見失った。
西日に目を細めながら周囲を見回したタカヒロが顔をあげてこちらに気づき、浮かべていた薄ら笑いが引きつった。
肉が削げ落ちるように頬が下がっていき、
「くそお! 深雪っ! なんでっ、なんでなんでなんでなんでなんでっ――――!」
ぐしゃぐしゃに頭を掻きむしって身悶えながら叫ぶ。
顔を覆っている指の隙間から血走った双眸が覗き、ぎゅるぎゅると眼窩の中で暴れ回るように蠢いたあと夏目を捉えて停止した。
「お前が、僕から深雪を奪ったんだ。奪って、殺して」
「そうだよ。俺が憎いんだろ?」
なんで煽るようなことを言うのかっ。
案の定タカヒロがゆらりと顔をあげ、手に持っていたカッターナイフを差し向けると声を荒らげた。
「憎いっ。お前が殺したくせに代替品を見つけてまだ深雪と踊ってるなんて。なんでお前ばっかりがっ」
まくしたてた言葉がそこでぶつ切りになる。
カッターナイフを構えたタカヒロが地面を蹴った。
拙い足取りだった。
夏目なら十分に避けられるくらいの速力しかない。
そんな走り方だったのに。
夏目の左腕にカッターナイフが突き刺さってタカヒロは停止した。
白いシャツがみるみると赤く染まっていき、タカヒロが「あっ……」とか細い声をあげる。
「心臓はここじゃない」
カッターナイフを引き抜いてタカヒロに突き返す。
血糊で滑り落ちそうなそれをしっかりと握らせて、自分の心臓の位置まで引っ張ってきて、
「ここだ。殺したいなら今度はしくじるなよ」
何、を。
マリは絶句して二人を見ていた。
何を考えているのかっ。
タカヒロの息がどんどんと荒くなっていく。
震えていた手の振れ幅がだんだんと小さくなっていき、照準が心臓に合わさっていく。
「深雪、僕の深雪っ」とタカヒロが低く呻き、夏目がそれをどこか諦観したような目で見おろしている。
マリがここにいるのに、二人ともミユキしか見えていなかった。
もう何を言ったところで止まりそうもなかった。
どちらかが、もしくは両方が死ぬまで。
(ふ、ざけるな)
どこまでマリを虚仮にしたら気が済むのか。
いもしない人間を勝手に投影させて殺しあって自滅して、それを見せられているこの状況は何だ。
(ふざけるなっ……!)
網目状の床を蹴るとがしゃんという音がした。
二人がこちらに気づいて顔をあげる。
鉄柵に身を乗りあげると右足と腕の力だけで立ちあがる。
「おい、馬鹿っ」
「深雪っ、危ないだろ!」
未だにミユキと呼ぶ救いようのない狂人と、この状況で馬鹿と言ってのける王様態度にかちんときた。
馬鹿はどっちだ!
「どいつもこいつも、わたしを身代わりにして好き勝手言うな! わたしが死ねば二人とも願いが叶わなくなってお似合いだね! ざまあみろ!」
人生で一番大きな声をあげると、マリは一本しかない足で鉄柵を蹴った。
緩く吹く風がマリのミントグリーンのワンピースを絡め取り、エレベーター・リフトから――さらに言うならバルコニーから身を放りだす。
遙か下のほうに駐車場の白線が見えた。
わたしが死んでから後悔すればいい。
ふと、もしかしたら人魚姫もこんな気持ちで泡になったのかもしれないと思った。
あのお話は清廉潔白な女の子の話ではなくて、マリみたいなひねくれ者が自分そっちのけで楽しむ王子への腹いせに死んだ話――。
そうだったらたぶん、ようやく人魚姫のことが好きになれる。
「月島っ」
落下する風圧の中で顔を向けた。
ベランダの手すりに身体を押しつけ、血みどろの左手をめいっぱいに伸ばしている夏目がいた。
ちかちかと頭の中で光が爆ぜる。
納涼祭で逃げようとしたときのことが頭に浮かんだ。
魔法使いの魔力のせいか、あのとき同様に手が勝手に吸い寄せられる。
伸ばした手と手が一瞬触れただけですれ違い――。
間一髪、夏目がマリの手首を掴んだ。
しかし。
ぶちぶちっ、
肉の裂ける音がして、がくんと夏目の身体が重力に引っ張られた。
引きあげるどころかむしろ引きずられて、上半身が手すりに乗りあげると、そのまま二人一緒になって空中へと投げだされる。
それでも、手はつながったまま。
抱き寄せられて、二人、小さく丸まった。
ぐんぐんとアスファルトが迫ってくる中で、
マリは石膏の匂いに包まれながら、まだ動いていている夏目の心臓の音を聞いていた。