顔面を叩きつける雨のせいで目が覚めた。
 いや、おかげというべきか。
 夏にかこつけてベランダで寝始めたのはいいが、最後に見たのは夕日だったはずなのに今や雨雲が漂っているとは言え明らかに日中の明るさである。

(一晩経ってるだろ、これ……)

 舌打ちをしながら身体を起こした。
 彼女と同じ薬だからと飲んでいるのだが、あれはどうにも眠くなりすぎる。

「疲れた」

 寝起きで言うのも変な言葉だったが、つい、ぽろっと口をついてでた。

 ふと、した瞬間に。
 どうしても足が動かなくなって、立ち止まりそうになる。
 義足を作り続けることでかろうじて繋がっている命だったが、時折りどうしても疲れてしまって、もし目の前に崖が現れたら、ふらっと飛び降りてしまいそうになる。
 ああ疲れたな、もう歩けないなと道のど真ん中に突っ立って微動だにできなくなる中、街はいつもと変わらずに(せわ)しなさそうで、自分だけ透明人間になってしまったみたいにそこにいる現実感がない。
 彼女といたときは透明人間でいることが心地よかったのに、今は疎外感と孤独感で胸が詰まった。

「疲れたな、ほんと」

 手で顔を覆い、疲労を吐きだすように大きく息をつく。

 誰も、俺の傷に触れるな。
 この痛みが唯一の道標で、これを見失ったらもう本当に歩けない。
 疲れを理由に立ち止まって、ふらっと崖から飛び降りてしまう。
 約束を果たせなかったら、きっと行き着く先は契約不履行者が落ちる地獄で、天国にいるであろう彼女とは永遠に会えない。
 あるいは。
 あいつが言うように契約を果たすまで生まれ変わり、現実という地獄を生きるのか。

 ふらつく足で階段を五階分下ってようやくスタジオに着いたが、案の定すでにもぬけの殻だった。
 確か風呂場にタオルがあったはず。
 バスルームのドアをあけ、しかしぎょっとして踏みだした足を引っ込めた。

 正面にある鏡が粉々に割れている。
 破片がシンクにも零れていてとてもではないが顔を洗える状態ではない。
 鏡があったはずの真下には、鈍色に光る人工足が放り投げられていた。

「あー、慧。生きてたんだ」

 背後からぬるっとした声がかかったと思ったときには声の主の顎が肩に乗っていて、剣山と化した床を指差していた。

「あれはそのままでいいってさ。マリちゃんが片づけるって」

 ということはこの器物損壊の犯人もあいつということになる。

「義足をなんだと思ってんだ。高いんだぞ、あれ……」

 呆れかえってため息すらでずに、ミラーボールのように光り輝く床を眺めた。

「片づけるって、あいつどこにいるんだよ」

 まさかまた一晩中踊っていたとか言うんじゃないだろうなとあたりを見回したが、がらんどうのスタジオには祐介以外誰もいなかった。
 しかしあいつは鬱憤が溜まると踊りで発散するという悪癖があるので油断ならない。
 怒られたくなくてどこかに隠れているのでは。

 鬱憤と表現してみたものの、その原因が前回も今回も自分にあることは自覚しているので、怒らないとは思う。
 たぶん。

「今日は来ないよ。デートらしいから」
「デート? あいつが?」
「そ。担当美容師とデートだってさあ。だから明日来るって。あーあ、俺が誘おうと思ってたのに先越されちゃったなあ」

 肩にかかっていた体重が引いた。
 祐介がふてくされた顔でフロアにへたり込み柔軟を始める。
 そういえば海外のコンペにでると言っていたのを思いだす。
 納涼祭も終わったのでようやく練習を始めるらしい(というか、〝俺が誘おうと思っていた〟ってなんだ)。
 情報量が多すぎて寝起きの頭では整理しきれず、とりあえず端的に。

「お前、ああいうのが趣味だったか?」
「えーかわいいじゃん? 無防備な子羊ちゃんって感じでさ。俺、〝運命の王子様〟っぽいし」
「は? なんだそれ」
「慧には教えなーい」

 現役選手らしい見事な開脚を披露して床にべたっと身体を貼りつけながら、挑発するようにこちらを仰ぎ見てにやにやと笑う。
 そう言えばあいつも王子様やら人魚姫やらの話をしていた。
 こちらはまったく内容が理解できなかったが、祐介にはあれが理解できて、しかも王子様とやらに当てはまるのだろうか。

「気になる?」
「誰が」

 挑発に乗ってやる理由もないのでこちらから視線をはずしてもう一度バスルームの床を眺めた。
 明日までこのままというのもどうかと思うし、そもそもあの不自由な足でどうやって片づけるつもりなのか。
 もう一方の足もガラス片が突き刺さってぐちゃぐちゃになる未来が見えて思わずため息が漏れた。

「……ちりとりと箒買ってくる」
「あ、ついでにバナナもおねがーい」

 軽口は無視してポケットをまさぐり、財布が入っていることを確認するとスタジオをでた。
 雨は夕立だったらしく駄々っ子みたいに泣きわめいたあと、かわり映えのないかんかん照りに戻っていた。