ロシア人だった祖父譲りの色の薄い目が嫌いだった。
鏡を直視できないでいると彼女が鏡面に向かって「顔をあげて」と殴り書き、上を向くように仕向けて読みあげさせる。
仏頂面が鏡に映ると「ほら、綺麗な灰色の目」と言って嬉しそうに笑う。
お節介だった。
一言で言えば。
今でも、彼女のはしゃいだ声を覚えている。
「慧はさ、留学どこいきたい?」
いつものスタジオ。
お気に入りの曲を聴きながら、彼女が開脚前屈をしつつ問う。
「どこでもいい」
「こぉら、夢もへったくれもないことゆうな」
「じゃあそっちは?」
「んーおじいさまのロシアとか?」
「却下」
「じゃあイギリスがいい」
「イギリス?」
「バッキンガム宮殿の衛兵に敬礼をして」
「無視されるのが落ちだ」
「赤い二階建てバスの二階に乗って」
「二階は揺れるらしい」
「社交界ご用達のボールルームで踊りあかすの」
「道場破りみたいだな」
「あーもう、慧は夢がないなあ」
そう言いながら、彼女に当てられてちょっと考える。
ロンドンの気取ったボールルームの前で燕尾服を着て待っている。
彼女はドレスを着たまま赤い二段バスでやってくる。
それでバスに乗ったのかと呆れながら問うと「だって着替えるの面倒くさいんだもん」と気軽に答えて。
行こっか、と白い手を差しだす。
こちらが乗り気でないのを知っている彼女は問答無用で右手をかっさらい、ほらほら、音楽始まっちゃうよなんて言いながら光の中に駆けていく。
しかし実際には、そんな場面は永遠に訪れることがなく。
茹だるような熱気が陽炎を生んで、庭の輪郭を曖昧にするような暑い日だった。
当時、彼女の定位置はペチカ下の穴蔵で、巣作りをするように部屋中のクッションをかき集めては押し込んでいた。
薬のせいでいつも眠そうにしていたが、クッションの間で膝を抱えて丸くなり、すやすやと眠る彼女の姿は、羽化を待つ蛹みたいでずっと見ていても飽きなかった。
その日も〝シャル・ウィ・ダンス〟の曲が温室の蓄音機から流れていて。
ダンス用義足の試作品を最終調整する予定で、もしうまくいったら持って帰ってくる約束だった。
ペチカ下でうとうとしていた彼女に「行ってくる」と声をかけると、
「帰ったらシャル・ウィ・ダンス踊ろう?」
下っ足らずにそんなことを言った。
〝いきなり踊れるもんじゃない〟なんて夢のないことは一切言わず、苦笑交じりに「了解」とだけ答えると頭を撫でて大学に向かった。
あのころはまだガキで、現実を覆い隠してくれるベランダに守られているだけの、お山の大将である事実に気づいていなかった。
現実から浮きあがって、自分たちは透明人間のつもりだった。
誰にも見られない箱庭に籠り、二人で透明人間でいる間は無敵タイムで、怖いものなんてまるでなく、失敗する未来があるなんて想像もしていなかった。
だから、彼女の心の機微にも気づけなくて。
足ができたらロンドンへ行こう。
赤い二階建てバスに乗って、ボールルームで道場破りして。
曲はシャル・ウィ・ダンス。
義足でホップアクションができるよう、足型構成にも少しだけこだわって。
そんなことを考えながら浮かれた足で帰宅をしたとき。
彼女は松葉杖をつきながら、ベランダを囲う扶壁の上で踊っていて。
〝shall we dance? shall we dance? shall we dance?……〟
口ずさみながらターンをした瞬間、一本しかない白い素足が扶壁の最上部を蹴り、誘うように手を差し伸べたまま自ら身を投げだした。
伸ばした手と手が一瞬触れただけですれ違い――。
彼女はそのまま、音楽がフェードアウトしていくように地上へと落ちていった。
彼女と最期に交わした〝Shall We Dance?〟の約束は、未だに果たせていない。
鏡を直視できないでいると彼女が鏡面に向かって「顔をあげて」と殴り書き、上を向くように仕向けて読みあげさせる。
仏頂面が鏡に映ると「ほら、綺麗な灰色の目」と言って嬉しそうに笑う。
お節介だった。
一言で言えば。
今でも、彼女のはしゃいだ声を覚えている。
「慧はさ、留学どこいきたい?」
いつものスタジオ。
お気に入りの曲を聴きながら、彼女が開脚前屈をしつつ問う。
「どこでもいい」
「こぉら、夢もへったくれもないことゆうな」
「じゃあそっちは?」
「んーおじいさまのロシアとか?」
「却下」
「じゃあイギリスがいい」
「イギリス?」
「バッキンガム宮殿の衛兵に敬礼をして」
「無視されるのが落ちだ」
「赤い二階建てバスの二階に乗って」
「二階は揺れるらしい」
「社交界ご用達のボールルームで踊りあかすの」
「道場破りみたいだな」
「あーもう、慧は夢がないなあ」
そう言いながら、彼女に当てられてちょっと考える。
ロンドンの気取ったボールルームの前で燕尾服を着て待っている。
彼女はドレスを着たまま赤い二段バスでやってくる。
それでバスに乗ったのかと呆れながら問うと「だって着替えるの面倒くさいんだもん」と気軽に答えて。
行こっか、と白い手を差しだす。
こちらが乗り気でないのを知っている彼女は問答無用で右手をかっさらい、ほらほら、音楽始まっちゃうよなんて言いながら光の中に駆けていく。
しかし実際には、そんな場面は永遠に訪れることがなく。
茹だるような熱気が陽炎を生んで、庭の輪郭を曖昧にするような暑い日だった。
当時、彼女の定位置はペチカ下の穴蔵で、巣作りをするように部屋中のクッションをかき集めては押し込んでいた。
薬のせいでいつも眠そうにしていたが、クッションの間で膝を抱えて丸くなり、すやすやと眠る彼女の姿は、羽化を待つ蛹みたいでずっと見ていても飽きなかった。
その日も〝シャル・ウィ・ダンス〟の曲が温室の蓄音機から流れていて。
ダンス用義足の試作品を最終調整する予定で、もしうまくいったら持って帰ってくる約束だった。
ペチカ下でうとうとしていた彼女に「行ってくる」と声をかけると、
「帰ったらシャル・ウィ・ダンス踊ろう?」
下っ足らずにそんなことを言った。
〝いきなり踊れるもんじゃない〟なんて夢のないことは一切言わず、苦笑交じりに「了解」とだけ答えると頭を撫でて大学に向かった。
あのころはまだガキで、現実を覆い隠してくれるベランダに守られているだけの、お山の大将である事実に気づいていなかった。
現実から浮きあがって、自分たちは透明人間のつもりだった。
誰にも見られない箱庭に籠り、二人で透明人間でいる間は無敵タイムで、怖いものなんてまるでなく、失敗する未来があるなんて想像もしていなかった。
だから、彼女の心の機微にも気づけなくて。
足ができたらロンドンへ行こう。
赤い二階建てバスに乗って、ボールルームで道場破りして。
曲はシャル・ウィ・ダンス。
義足でホップアクションができるよう、足型構成にも少しだけこだわって。
そんなことを考えながら浮かれた足で帰宅をしたとき。
彼女は松葉杖をつきながら、ベランダを囲う扶壁の上で踊っていて。
〝shall we dance? shall we dance? shall we dance?……〟
口ずさみながらターンをした瞬間、一本しかない白い素足が扶壁の最上部を蹴り、誘うように手を差し伸べたまま自ら身を投げだした。
伸ばした手と手が一瞬触れただけですれ違い――。
彼女はそのまま、音楽がフェードアウトしていくように地上へと落ちていった。
彼女と最期に交わした〝Shall We Dance?〟の約束は、未だに果たせていない。