「やっほー。マリちゃんいるんでしょ? 打ちあげしよーう」
どのくらい経ったかわからないが、スタジオのドアが開く音と同時に槙島の緩い声が飛び込んできた。
「お兄ちゃん、エアコン」「今壊れてるらしいよ」「は? じゃあナナ帰る」という騒々しくも平和な口論が聞こえてきて、ようやく引き出しから視線を剥がすと振り返った。
「えっ、どうしたのマリちゃん。顔蒼いよ?」
フロアには今まさにあがり込もうとしている槙島兄妹しかいなかった。
槙島兄が靴をほっぽり投げて近寄ってきたので腕を掴む。
マリと槙島の間に挟まれた義足ががちゃんと不協和音を響かせた。
今思えば、なんで夏目は義足作りなんてものに没頭しているのか。
すごい選手だったのに、踊っているときは誰よりも輝いているのに、なんでダンスを辞めてしまったのか。
その原因がミユキに、そして事故にあるのだとしたら?
「夏目さんが義足を作っているのは、ミユキのためなの?」
槙島兄はきょとんと、妹はあからさまに「げ」という顔をした。
二人に促されるままフロアに車座に座って、打ちあげ用に槙島が持参したラムネを手に取った。
栓を押し込んでビー玉を中に落とし入れると、途端にしゅわしゅわっと泡が吹きだして制服のスカートに染みを作った。
「まあはっきり言うなら、マリちゃんの言ったとおりだよ。慧が義足を作り始めたのは十七のとき。深雪が事故に遭って二ヶ月後のことだった」
ハイネケンを傾けながら槙島が先ほどの問いを肯定する。
きんきんに冷えたボトルの表面から水滴が滑り落ち、槙島にもたれかかってスマホをいじっていた菜々子の画面に雫を垂らす。
彼女は顔に似合わない舌打ちをして槙島のシャツで画面を拭った。
「深雪は慧と同い年で、二人は十一歳から組んで踊ってた。気づけば賞レースでは上位独占の有名カップルになっていて、そのうち二人は当然の流れのようにつきあいだしてた」
菜々子のスマートフォンからゲームオーバーを知らせる音が流れた。
計ったようなタイミングだった。
無駄にポップな和音にかぶせるように槙島が続ける。
「でも高校二年のときに深雪は事故に遭って、左足を太股から切断。事故から二年後、彼女はここのベランダから跳び降りて自殺した」
死んだ?――踊っているときよりも喉が渇いて、しかし何故だかソーダ水が喉を通らない。
無理矢理飲みこむと気管に入り込んだのか、つんとした痛みが胸の深いところを刺した。
正確には〝転落事故〟とされたらしい。
高校二年で留学を目前に控えた頃。
よそ見運転のトラックに撥ねられた深雪は、足を切断するかそのまま死ぬかの二択を迫られ、足を切断した。
その頃すでに夏目と深雪は恋人同士であり、高校卒業と同時にこのビルの五階で一緒に暮らし始めた。
しかし半年も経たないうちに、深雪は死んでしまった。
「夏目がダンスを辞めたのは深雪が事故に遭った直後だよ。当時どうやって見つけたのか、いつの間にか義肢装具士に弟子入りしていて、大学もそっち系に進んでた。深雪ともう一度踊ろうとしていたみたいでね。足の型も何度も取っていたし、リハビリも夏目がやっていた。でもとうとう完成する前に死んでしまった」
振り返って半開きのマッドサイエンティスト工房を眺めた。
あそこに飾られている足型の抜け殻が深雪のものだと理解するのにそう時間はかからなかった。
足のデッサンも、段ボールにぶっささっている無数の足も、全て深雪のレプリカであり、抜け殻なのだ。
「深雪が死んだあとも夏目の義足作りは終わらなかった。だけど下腿切断でダンスをやりたいなんていう人間が見つからなくてね。ずっと試作段階で止まっていたんだけど、教室を覗くマリちゃんを見てぴんときたわけ。この子なら被験者にぴったりだって」
蝉の声がぎゃんぎゃんと響くスタジオなのに、槙島の甘い声はよく通っていた。
柔らかい輪郭とは裏腹に一音一音がアイスピックで突き刺すような鋭利さだ。
しかしそんな声も途絶えると、菜々子のスマートフォンから響く電子音がやたらと大きく聞こえた。
ぴこぴこ。ぴるるん。ぴぴぴぴぴ。
「いいこと教えてあげる」
画面から顔もあげずに菜々子が言った。
「その義足にはみゆちゃんの踊りを解析したデータと、ナナがみゆちゃんを完コピして踊ったデータが入ってる。つまりあんたは、自分でなんて一ミリも踊ってなかったの。みゆちゃんの軌跡をなぞってただけ。自分がパートナーにでもなったつもりだった? 頭の中が花畑すぎて笑えるんですけど。あんたはただの劣化コピーに過ぎないってのにさ」
いつもだったら割って入る槙島が、今日に限っては菜々子の言葉をさえぎらない。
それが何よりも事実だと告げているようだった。
「……でもミユキはもう死んでるのに、なんでまだ義足を作ってるの?」
再び静まり返った室内を、乾いた声が心もとなく揺さぶった。
「たぶん慧は、義足が完成したら死ぬんだと思うよ」
「え?」
「完成した義足を持ってあの世に行って、向こうで深雪と踊るつもりなんじゃないかなあ」
「何、それ。じゃあ槙島さんたちは義足が完成したら夏目さんが死ぬとわかっていてわたしにアルバイトを持ちかけたの? なんで、そんなこと」
「もう一度あいつと戦うためだよ」
じじっ。
窓枠にへばりついていた蝉が飛び立つ。
マリは抱えていた義足から顔をあげた。
「あいつともう一度戦うためにプロ転向しないで今日まで来たんだ。一度も勝てないままあいつにダンスを辞められたら困るんだよね。どんな手を使ってでもあいつをダンスフロアに引きずりだして、叩きのめして、殺してやる。競技者としても、人間としても」
顔は王子様のままだったが、瞳の奥には納涼祭で垣間見た貪欲で強欲で狂暴な光が浮かんでいた。
しかし手に持っていたハイネケンを一気に飲み干すと、そのうすら寒い瞳は消えている。
「……ま、というわけでマリちゃんには感謝してもしきれないんだよ。本当にありがとうね」
鳴り響いていた電子音が唐突に切れて、再びゲームオーバーのメロディが流れる。
舌打ちとともに顔をあげた菜々子が槙島によく似たぞっとする瞳でマリを睨み、
「だから言ったじゃん。操り人形でいいのかって」
天使が囁くような声音で正反対の言葉を吐いた。
どのくらい経ったかわからないが、スタジオのドアが開く音と同時に槙島の緩い声が飛び込んできた。
「お兄ちゃん、エアコン」「今壊れてるらしいよ」「は? じゃあナナ帰る」という騒々しくも平和な口論が聞こえてきて、ようやく引き出しから視線を剥がすと振り返った。
「えっ、どうしたのマリちゃん。顔蒼いよ?」
フロアには今まさにあがり込もうとしている槙島兄妹しかいなかった。
槙島兄が靴をほっぽり投げて近寄ってきたので腕を掴む。
マリと槙島の間に挟まれた義足ががちゃんと不協和音を響かせた。
今思えば、なんで夏目は義足作りなんてものに没頭しているのか。
すごい選手だったのに、踊っているときは誰よりも輝いているのに、なんでダンスを辞めてしまったのか。
その原因がミユキに、そして事故にあるのだとしたら?
「夏目さんが義足を作っているのは、ミユキのためなの?」
槙島兄はきょとんと、妹はあからさまに「げ」という顔をした。
二人に促されるままフロアに車座に座って、打ちあげ用に槙島が持参したラムネを手に取った。
栓を押し込んでビー玉を中に落とし入れると、途端にしゅわしゅわっと泡が吹きだして制服のスカートに染みを作った。
「まあはっきり言うなら、マリちゃんの言ったとおりだよ。慧が義足を作り始めたのは十七のとき。深雪が事故に遭って二ヶ月後のことだった」
ハイネケンを傾けながら槙島が先ほどの問いを肯定する。
きんきんに冷えたボトルの表面から水滴が滑り落ち、槙島にもたれかかってスマホをいじっていた菜々子の画面に雫を垂らす。
彼女は顔に似合わない舌打ちをして槙島のシャツで画面を拭った。
「深雪は慧と同い年で、二人は十一歳から組んで踊ってた。気づけば賞レースでは上位独占の有名カップルになっていて、そのうち二人は当然の流れのようにつきあいだしてた」
菜々子のスマートフォンからゲームオーバーを知らせる音が流れた。
計ったようなタイミングだった。
無駄にポップな和音にかぶせるように槙島が続ける。
「でも高校二年のときに深雪は事故に遭って、左足を太股から切断。事故から二年後、彼女はここのベランダから跳び降りて自殺した」
死んだ?――踊っているときよりも喉が渇いて、しかし何故だかソーダ水が喉を通らない。
無理矢理飲みこむと気管に入り込んだのか、つんとした痛みが胸の深いところを刺した。
正確には〝転落事故〟とされたらしい。
高校二年で留学を目前に控えた頃。
よそ見運転のトラックに撥ねられた深雪は、足を切断するかそのまま死ぬかの二択を迫られ、足を切断した。
その頃すでに夏目と深雪は恋人同士であり、高校卒業と同時にこのビルの五階で一緒に暮らし始めた。
しかし半年も経たないうちに、深雪は死んでしまった。
「夏目がダンスを辞めたのは深雪が事故に遭った直後だよ。当時どうやって見つけたのか、いつの間にか義肢装具士に弟子入りしていて、大学もそっち系に進んでた。深雪ともう一度踊ろうとしていたみたいでね。足の型も何度も取っていたし、リハビリも夏目がやっていた。でもとうとう完成する前に死んでしまった」
振り返って半開きのマッドサイエンティスト工房を眺めた。
あそこに飾られている足型の抜け殻が深雪のものだと理解するのにそう時間はかからなかった。
足のデッサンも、段ボールにぶっささっている無数の足も、全て深雪のレプリカであり、抜け殻なのだ。
「深雪が死んだあとも夏目の義足作りは終わらなかった。だけど下腿切断でダンスをやりたいなんていう人間が見つからなくてね。ずっと試作段階で止まっていたんだけど、教室を覗くマリちゃんを見てぴんときたわけ。この子なら被験者にぴったりだって」
蝉の声がぎゃんぎゃんと響くスタジオなのに、槙島の甘い声はよく通っていた。
柔らかい輪郭とは裏腹に一音一音がアイスピックで突き刺すような鋭利さだ。
しかしそんな声も途絶えると、菜々子のスマートフォンから響く電子音がやたらと大きく聞こえた。
ぴこぴこ。ぴるるん。ぴぴぴぴぴ。
「いいこと教えてあげる」
画面から顔もあげずに菜々子が言った。
「その義足にはみゆちゃんの踊りを解析したデータと、ナナがみゆちゃんを完コピして踊ったデータが入ってる。つまりあんたは、自分でなんて一ミリも踊ってなかったの。みゆちゃんの軌跡をなぞってただけ。自分がパートナーにでもなったつもりだった? 頭の中が花畑すぎて笑えるんですけど。あんたはただの劣化コピーに過ぎないってのにさ」
いつもだったら割って入る槙島が、今日に限っては菜々子の言葉をさえぎらない。
それが何よりも事実だと告げているようだった。
「……でもミユキはもう死んでるのに、なんでまだ義足を作ってるの?」
再び静まり返った室内を、乾いた声が心もとなく揺さぶった。
「たぶん慧は、義足が完成したら死ぬんだと思うよ」
「え?」
「完成した義足を持ってあの世に行って、向こうで深雪と踊るつもりなんじゃないかなあ」
「何、それ。じゃあ槙島さんたちは義足が完成したら夏目さんが死ぬとわかっていてわたしにアルバイトを持ちかけたの? なんで、そんなこと」
「もう一度あいつと戦うためだよ」
じじっ。
窓枠にへばりついていた蝉が飛び立つ。
マリは抱えていた義足から顔をあげた。
「あいつともう一度戦うためにプロ転向しないで今日まで来たんだ。一度も勝てないままあいつにダンスを辞められたら困るんだよね。どんな手を使ってでもあいつをダンスフロアに引きずりだして、叩きのめして、殺してやる。競技者としても、人間としても」
顔は王子様のままだったが、瞳の奥には納涼祭で垣間見た貪欲で強欲で狂暴な光が浮かんでいた。
しかし手に持っていたハイネケンを一気に飲み干すと、そのうすら寒い瞳は消えている。
「……ま、というわけでマリちゃんには感謝してもしきれないんだよ。本当にありがとうね」
鳴り響いていた電子音が唐突に切れて、再びゲームオーバーのメロディが流れる。
舌打ちとともに顔をあげた菜々子が槙島によく似たぞっとする瞳でマリを睨み、
「だから言ったじゃん。操り人形でいいのかって」
天使が囁くような声音で正反対の言葉を吐いた。