『The first dance is Waltz』
日が落ちて水平線が赤くなり始めた頃、アナウンスとともに九組のカップルがウッドデッキに集まった。
デッキにはダンス用の床材が敷かれており、暗くなった会場を照らすための屋外灯が橙色の光を放っている。
今回の出場組は全部で二十七組。
この人数が一度に踊れるほどウッドデッキは広くないので、九組ずつ三つのグループにわかれて踊る。
このグループのことをヒートと呼び、マリは第二ヒート、つまり二グループ目の出番だった。
「マリちゃん赤色のドレスにしたんだね。よく似合ってるよ」
こんなことを恥ずかしげもなくさらりと言えるのは当然槙島で、ウッドデッキの端っこで膝を抱えて座るマリの前にしゃがみ込み、頬杖をついてにこにことドレスの裾をつまみあげている。
熱帯魚のベタを思わせる、何層にもチュールが重なったワインレッドのドレスは確かにかわいいけれど似合っているかと訊かれると自信はない。
***
「ドレス、何色がいいんだよ」
昨日のレッスン後、例のごとく五階へ搬送されて断端を洗っていると、唐突に夏目が訊いてきた。
「わたし、ドレス着るの?」
「当然」
例によって例のごとく一言でばっさりと。
わかってはいたけれどちょっと訊いてみただけじゃんか。
(というか、まさか夏目さんが希望の色を訊いてくるなんて)
そんな配慮とは無縁の人だと思っていた。
……言えば、希望のドレスを用意してくれるのだろうか。
競技用のドレスがどこから供給されてくるのか知らないが、そういうのってレンタルしかり購入しかり、結構お高いのではなかろうか。
「お、お代は」
「うちにあるやつだからいらない」
なるほど、お教室ってことはドレスもあるのか。
前世で魔女がらみの高額詐欺にあっているので魔法使いの言葉には注意が必要だったが、お金の心配がないのなら……。
「……赤。赤がいい」
「赤ねぇ……」
濡れた手をワークパンツで拭いながらペチカのほうへ歩いていき、頭側のクローゼットをあけると中にはびっしりとドレスが詰まっていた(夏目の服は一着もない)。
赤色もちらほら見える中、夏目は何枚か捲くっていきとあるドレスの前で手を止めた。
***
そうして差しだされたのが今着ているドレスである。
背中がぱっくりと開いていて、大人っぽいというよりも妙に色っぽいドレスだ。
裾にかけてかなりのボリュームがあり、クローゼットから取りだしただけで風をはらんでふわりと広がっていた。
夏目が何を考えて選んだのかはわからない。
もしかすると(というよりほとんど確信をもって言うくらいには)何も考えていないのかもしれないが。
そのドレス姿を褒められるのは案外悪い気はしない。
(夏目さん、なんか言うかなあ……)
砂漠に花畑ができるくらいの期待値に思えたが、それでもこっそりとにやけたときだった。
「はいお終い」
背後から菜々子の声がして、手鏡でぱちんと襟足を叩かれた。
「痛っ」
受け取った手鏡を覗き込んでぎょっとする。
スプレーでがちがちに固められた頭の上には、ソフトクリームのごときシニヨンが乗っている。
しらーっとした気分であたりを見回すが、みんな同じような格好で平然としていた。
マリの感覚がおかしいのか。
「まったく。あんたが逃げ回るせいでこんな直前になっちゃったじゃない」
「だって更衣室がないなんて聞いてなかったし」
周囲にはテントのようなものが乱立していて、出場者の私服やら髪結い道具やらが散らばっている。
どうやら競技ダンスの世界において更衣室というものはないらしく、みな廊下で当然のように着替えていた。
一応女性はテントの中で着替えており、マリも菜々子が持ってきてくれたテントをあてがわれたのだが。
外にでれば機械仕掛けの足が目立ちまくるのは必然で、しかどうしてもそれが嫌だったので人がいなくなるまで逃げ続けたのだ。
ちなみに逃げ回っている間に夏目はさっさと支度を済ませてどこかへと消えてしまった。
「ほら立ちなさいよ」
菜々子が肘を掴んでぐいぐいと引っ張るその横を、着飾った女性がさっそうと通り抜けた。
当然、両足生身で。
ぷつんと何かが切れる音がした。
「やっぱり帰るっ」
四つん這いで出口へ向かおうとしたが菜々子がしつこく腕を引く。
「何言ってんの、もう前のヒート終わるってば」
「ちょ、その細腕のどこにそんな怪力がっ」
思ったままを口にしたのが運の尽きだった。
「はあっ? ナナ怪力じゃないもん! ……あ、慧ちゃん。この子なんとかして!」
げっ。
菜々子が眉間に青筋を浮かべ、腹いせにしか思えないタイミングで今最も呼んで欲しくない人物の名前を口にした。
かつかつとフロアを踏む音が近づいてきてマリの前でぴたりと止まる。
折り目が一つもないスラックスと黒光りするエナメルシューズが逃げ道を塞いだ。
「月島」
視界の上から骨張った大きな手が降りてきて、これが魔法というやつなのか、摩訶不思議な力によって吸い寄せられたマリの手は知らぬ間に夏目の左手を握っている。
マグロの一本釣りよろしくひょいっと釣りあげられ、呆然と、繋がったままの手を遡って夏目を見あげて。
誰だ、この生き物は。
目が合った瞬間、息の仕方を忘れてしまった。
そこにいたのはまさに〝王子〟……いや、〝王様〟という風格の、燕尾服を完璧に着こなす何かだった。
普段ぼさぼさの頭を今日ばかりは綺麗に整えていて、そうなってみれば背の高さも相まって見栄えがいいと言えなくもない。
マリや他人がやるとゲテモノにしかならない格好が正統派の装いに化けている。
といっても槙島のように王子様スマイルを振りまくわけではなく、なんらいつもと変わらない不機嫌顔をぶら下げて周囲の人間を睨みつけているのである。
にもかかわらず、そこにいたのは疑いようもなく王様だった。
夏目なのに夏目ではないというか、マリの未熟な語彙では〝何か〟としか表現できない違和感の塊に胸がざわつく。
夏目は四年前にダンスを辞めた人間であって、いくら練習に誘おうが床にへたばって半死体の様相を呈すばかりという、つまり何が言いたいかと言うと今この場にいる誰よりも踊りに関して不真面目極まりない……はずなのに。
どうしてだろうか。
今この場にいる誰よりも、ダンサーという言葉が似合ってしまうのは。
『ワルツ、第二ヒート』
アナウンスが白っぽい空間に響く。
こちらを向いていた夏目の瞳がダンスフロアに流れていくと、マリの視線もまったく同じ動きをしてフロアを捉えた。
第一ヒートのカップルがはけ、マリたちを誘うようにぽっかりと空間があいている。
「行くぞ」
声が遠く聞こえる。
夏目は隣にいるはずなのにそれでも距離を感じてしまうのは、たぶん彼の心はすでにフロアの中にあって、そしてマリの心はフロアよりもずっと遠くの……水平線の彼方とか、そんなところにあるからだ。
なんなんだ急に。
夏目だけダンサーになっちゃって、置いてきぼりにして。
辞めたんじゃなかったのか。
嘘つき、ずる、せこ。
首が重力に逆らえなくなってくてっと折れた。
なんだか知らないが最悪の気分だ。
見知らぬデパートで迷子になった子どもみたいな。
心細さを覚えて悪態をつくも結局は孤独感が増しただけ。
縋るような気持ちで振り返ってみたが、槙島は他人事のようにひらひらと手を振って送りだす。
ばいばいしないで、呼び戻して――願ってみたが効果はなく、夏目の手によって強引にフロアへ引きずりだされると会場中からどよめきがあがった。
理由はもちろん、マリの機械仕掛けの左足だ。
三拍子の曲が鳴り始める。
一分あたり八十四から九十拍のテンポを刻んでいるはずなのに、心臓がその二倍ほどの速さで拍動するせいで正しいリズムがわからない。
見なければいいのに客席を一望し、左足を指差して笑う観客を見つけてしまったマリの頭にぽんっと手が置かれた。
鷲づかみにして強引に顔をあげさせる。
灰色の瞳が一切笑わずにマリを見おろし、せっかく固めた髪をくしゃっと撫でて、
「俺だけを見とけ」
何、それ。
最初の三小節が終わる。
おそらくマリに視線が集まりだしていたがもう気にならなかった。
マリの目には、腕をあげてマリを待っている夏目しか見えない。
ここは海原のダンスフロア。
太陽が水平線に沈んで小魚たちは寝静まった頃。
マリの本日のお相手は、攻略に失敗すれば破滅フラグしか残らない難攻不落の王子様。
よそ見をしている暇なんて一秒たりともないはずだ。
一歩踏みだしたときだった。
夏目の灰色の瞳に青色が差した。
ラムネ瓶に閉じ込められたビー玉のような、きらきらしていて落ち着きのない少年のようなあの瞳。
ホールドを組んでいる間だけは、マリだけがこの瞳を独占できるのだ。
それはまるで、人魚姫が誰一人及ぶ者のいない美しい踊りを披露して、王子様の視線を釘づけにしたときのような。
今フロアで一番美しく踊れているという確信をくれる目で。
(あー、気持ちいい)
初めて夏目と踊ったときに感じた麻薬のようなスリルが、再び脳をずぶずぶに酔わせていた。
日が落ちて水平線が赤くなり始めた頃、アナウンスとともに九組のカップルがウッドデッキに集まった。
デッキにはダンス用の床材が敷かれており、暗くなった会場を照らすための屋外灯が橙色の光を放っている。
今回の出場組は全部で二十七組。
この人数が一度に踊れるほどウッドデッキは広くないので、九組ずつ三つのグループにわかれて踊る。
このグループのことをヒートと呼び、マリは第二ヒート、つまり二グループ目の出番だった。
「マリちゃん赤色のドレスにしたんだね。よく似合ってるよ」
こんなことを恥ずかしげもなくさらりと言えるのは当然槙島で、ウッドデッキの端っこで膝を抱えて座るマリの前にしゃがみ込み、頬杖をついてにこにことドレスの裾をつまみあげている。
熱帯魚のベタを思わせる、何層にもチュールが重なったワインレッドのドレスは確かにかわいいけれど似合っているかと訊かれると自信はない。
***
「ドレス、何色がいいんだよ」
昨日のレッスン後、例のごとく五階へ搬送されて断端を洗っていると、唐突に夏目が訊いてきた。
「わたし、ドレス着るの?」
「当然」
例によって例のごとく一言でばっさりと。
わかってはいたけれどちょっと訊いてみただけじゃんか。
(というか、まさか夏目さんが希望の色を訊いてくるなんて)
そんな配慮とは無縁の人だと思っていた。
……言えば、希望のドレスを用意してくれるのだろうか。
競技用のドレスがどこから供給されてくるのか知らないが、そういうのってレンタルしかり購入しかり、結構お高いのではなかろうか。
「お、お代は」
「うちにあるやつだからいらない」
なるほど、お教室ってことはドレスもあるのか。
前世で魔女がらみの高額詐欺にあっているので魔法使いの言葉には注意が必要だったが、お金の心配がないのなら……。
「……赤。赤がいい」
「赤ねぇ……」
濡れた手をワークパンツで拭いながらペチカのほうへ歩いていき、頭側のクローゼットをあけると中にはびっしりとドレスが詰まっていた(夏目の服は一着もない)。
赤色もちらほら見える中、夏目は何枚か捲くっていきとあるドレスの前で手を止めた。
***
そうして差しだされたのが今着ているドレスである。
背中がぱっくりと開いていて、大人っぽいというよりも妙に色っぽいドレスだ。
裾にかけてかなりのボリュームがあり、クローゼットから取りだしただけで風をはらんでふわりと広がっていた。
夏目が何を考えて選んだのかはわからない。
もしかすると(というよりほとんど確信をもって言うくらいには)何も考えていないのかもしれないが。
そのドレス姿を褒められるのは案外悪い気はしない。
(夏目さん、なんか言うかなあ……)
砂漠に花畑ができるくらいの期待値に思えたが、それでもこっそりとにやけたときだった。
「はいお終い」
背後から菜々子の声がして、手鏡でぱちんと襟足を叩かれた。
「痛っ」
受け取った手鏡を覗き込んでぎょっとする。
スプレーでがちがちに固められた頭の上には、ソフトクリームのごときシニヨンが乗っている。
しらーっとした気分であたりを見回すが、みんな同じような格好で平然としていた。
マリの感覚がおかしいのか。
「まったく。あんたが逃げ回るせいでこんな直前になっちゃったじゃない」
「だって更衣室がないなんて聞いてなかったし」
周囲にはテントのようなものが乱立していて、出場者の私服やら髪結い道具やらが散らばっている。
どうやら競技ダンスの世界において更衣室というものはないらしく、みな廊下で当然のように着替えていた。
一応女性はテントの中で着替えており、マリも菜々子が持ってきてくれたテントをあてがわれたのだが。
外にでれば機械仕掛けの足が目立ちまくるのは必然で、しかどうしてもそれが嫌だったので人がいなくなるまで逃げ続けたのだ。
ちなみに逃げ回っている間に夏目はさっさと支度を済ませてどこかへと消えてしまった。
「ほら立ちなさいよ」
菜々子が肘を掴んでぐいぐいと引っ張るその横を、着飾った女性がさっそうと通り抜けた。
当然、両足生身で。
ぷつんと何かが切れる音がした。
「やっぱり帰るっ」
四つん這いで出口へ向かおうとしたが菜々子がしつこく腕を引く。
「何言ってんの、もう前のヒート終わるってば」
「ちょ、その細腕のどこにそんな怪力がっ」
思ったままを口にしたのが運の尽きだった。
「はあっ? ナナ怪力じゃないもん! ……あ、慧ちゃん。この子なんとかして!」
げっ。
菜々子が眉間に青筋を浮かべ、腹いせにしか思えないタイミングで今最も呼んで欲しくない人物の名前を口にした。
かつかつとフロアを踏む音が近づいてきてマリの前でぴたりと止まる。
折り目が一つもないスラックスと黒光りするエナメルシューズが逃げ道を塞いだ。
「月島」
視界の上から骨張った大きな手が降りてきて、これが魔法というやつなのか、摩訶不思議な力によって吸い寄せられたマリの手は知らぬ間に夏目の左手を握っている。
マグロの一本釣りよろしくひょいっと釣りあげられ、呆然と、繋がったままの手を遡って夏目を見あげて。
誰だ、この生き物は。
目が合った瞬間、息の仕方を忘れてしまった。
そこにいたのはまさに〝王子〟……いや、〝王様〟という風格の、燕尾服を完璧に着こなす何かだった。
普段ぼさぼさの頭を今日ばかりは綺麗に整えていて、そうなってみれば背の高さも相まって見栄えがいいと言えなくもない。
マリや他人がやるとゲテモノにしかならない格好が正統派の装いに化けている。
といっても槙島のように王子様スマイルを振りまくわけではなく、なんらいつもと変わらない不機嫌顔をぶら下げて周囲の人間を睨みつけているのである。
にもかかわらず、そこにいたのは疑いようもなく王様だった。
夏目なのに夏目ではないというか、マリの未熟な語彙では〝何か〟としか表現できない違和感の塊に胸がざわつく。
夏目は四年前にダンスを辞めた人間であって、いくら練習に誘おうが床にへたばって半死体の様相を呈すばかりという、つまり何が言いたいかと言うと今この場にいる誰よりも踊りに関して不真面目極まりない……はずなのに。
どうしてだろうか。
今この場にいる誰よりも、ダンサーという言葉が似合ってしまうのは。
『ワルツ、第二ヒート』
アナウンスが白っぽい空間に響く。
こちらを向いていた夏目の瞳がダンスフロアに流れていくと、マリの視線もまったく同じ動きをしてフロアを捉えた。
第一ヒートのカップルがはけ、マリたちを誘うようにぽっかりと空間があいている。
「行くぞ」
声が遠く聞こえる。
夏目は隣にいるはずなのにそれでも距離を感じてしまうのは、たぶん彼の心はすでにフロアの中にあって、そしてマリの心はフロアよりもずっと遠くの……水平線の彼方とか、そんなところにあるからだ。
なんなんだ急に。
夏目だけダンサーになっちゃって、置いてきぼりにして。
辞めたんじゃなかったのか。
嘘つき、ずる、せこ。
首が重力に逆らえなくなってくてっと折れた。
なんだか知らないが最悪の気分だ。
見知らぬデパートで迷子になった子どもみたいな。
心細さを覚えて悪態をつくも結局は孤独感が増しただけ。
縋るような気持ちで振り返ってみたが、槙島は他人事のようにひらひらと手を振って送りだす。
ばいばいしないで、呼び戻して――願ってみたが効果はなく、夏目の手によって強引にフロアへ引きずりだされると会場中からどよめきがあがった。
理由はもちろん、マリの機械仕掛けの左足だ。
三拍子の曲が鳴り始める。
一分あたり八十四から九十拍のテンポを刻んでいるはずなのに、心臓がその二倍ほどの速さで拍動するせいで正しいリズムがわからない。
見なければいいのに客席を一望し、左足を指差して笑う観客を見つけてしまったマリの頭にぽんっと手が置かれた。
鷲づかみにして強引に顔をあげさせる。
灰色の瞳が一切笑わずにマリを見おろし、せっかく固めた髪をくしゃっと撫でて、
「俺だけを見とけ」
何、それ。
最初の三小節が終わる。
おそらくマリに視線が集まりだしていたがもう気にならなかった。
マリの目には、腕をあげてマリを待っている夏目しか見えない。
ここは海原のダンスフロア。
太陽が水平線に沈んで小魚たちは寝静まった頃。
マリの本日のお相手は、攻略に失敗すれば破滅フラグしか残らない難攻不落の王子様。
よそ見をしている暇なんて一秒たりともないはずだ。
一歩踏みだしたときだった。
夏目の灰色の瞳に青色が差した。
ラムネ瓶に閉じ込められたビー玉のような、きらきらしていて落ち着きのない少年のようなあの瞳。
ホールドを組んでいる間だけは、マリだけがこの瞳を独占できるのだ。
それはまるで、人魚姫が誰一人及ぶ者のいない美しい踊りを披露して、王子様の視線を釘づけにしたときのような。
今フロアで一番美しく踊れているという確信をくれる目で。
(あー、気持ちいい)
初めて夏目と踊ったときに感じた麻薬のようなスリルが、再び脳をずぶずぶに酔わせていた。