その日は夏目の部屋に泊まった。
家主は「二十一の男の部屋に十五の女が泊まるって意味わかってんのか」とどすの利いた声をあげたが、
「変なことする気なの夏目さん」
「冗談。誰がお前みたいなガキ」
「なら問題ないじゃん。それに半分死体みたいな夏目さんがそんな生命力溢れる行為をする姿が想像できない」
「お前、俺を何だと思って……」
という言葉を最後に、口をもにょっとさせて夏目が押し黙った。
ここで食い下がるのも自分はやる気満々ですと宣言することになるのであって、夏目は諦めてマリをペチカまで押しあげると自分はペチカ下の穴蔵に潜っていった(ソファは槙島が占拠中だ)。
部屋と同じテイストの東欧っぽい布団に包まると、石膏の匂いとは違う夏目の匂いがして、練習で疲れていたせいもあってか三秒も経たないうちにマリは深い眠りについた。
夢の中でもマリは踊っていた。
お相手は灰色の瞳をした名前も知らない王子様で、生身の両足で華麗なステップを披露する。
シャールウィーダーンス……シャ……ルウィ……ダァーン……ス……
繰り返されるメロディが次第にスローテンポになって鈍重になり、ノイズ交じりに変調し始めた。
生じたノイズが蟻の群れのように襲いかかりマリの左足を捉えると、水面のダンスフロアに叩きつけられる。
しかし王子様は気づくことなく別の女性の手を取って、踊りながらきらきらした世界へと消えていく。
待って、置いていかないで。
叫んだところで声にならない。
蟻のもつ強靭な顎が細胞を一つずつ分解してほろほろと崩し、左足がどんどん短くなっていく。
残った部分を必死にかき集めようとした。
瞬間、ごすっ、という砂山が波で抉られるような音がして、太股からごっそりともぎ取られる。
自慢の左足は、ぶくぶくと白い泡をあげて水底へと落ちていった。
やだよ、左足がないと世界にいけないんだよ。
王子様に置いていかれちゃうんだよ。
返して、返シテ、ヒダリアシ、カエシテ……。
「月島っ……」
耳に馴染んだ重低音で目が覚めた。
猛烈な痛みが左足を襲い、額にぶくぶくと冷や汗が浮かぶ。
自分が今どこにいるのかもわからなかったが、肩を揺すっている手にとにかくすがりついた。
「左の足首が痛いのっ」
「っ……」
暗がりに浮かぶ灰色の瞳が泣きそうに見えた。
しかしそれも一瞬のことで、肩を揺する手が左の太股へ移動した頃には身に覚えのある尊大な態度に変わっている。
喉のあたりで少しごろつく、耳心地のいい低い声がなんでもないことのように平然と告げた。
「お前の足は、ここまで。足首は、もうないんだ」
「でも痛いの。熱くて、ぼろぼろと崩れて、かき集めても手の中で粉々になって……」
「それは幻肢痛だから。落ち着けって。大丈夫だから」
何が大丈夫なのか。
足が砕けて水に溶けていくというのに。
体温の低い大きな手が左足をさする。
火照った皮膚がゆっくりと冷めていき、左足の先端を知覚させた。
左足は、太股の半分ほどの長さでぷつりと途切れている。
「あ、れ……足、ない? そっか、幻肢痛……」
まだずきずきと痛む左足首を感じながら、それでも頭がはっきりとしてきた。
幻肢痛。
事故などで手脚を失ったあと、失った部分がまだあるように感じて幻の手脚が痛む現象。
本来であれば切断直後に頻発する症状で、マリも十年前に苦しめられた記憶がある。
「なんで、今さら」
「義足を使ったからだろ。幻肢をイメージして義足を動かすと、脳が錯覚を起こして幻肢痛がひどくなることがある」
「義足……。そう、だった。生身の足は、もうないんだった……」
ようやく思考が追いついて幻肢から顔をあげた。
長身痩躯の影がベッドの端に座ってマリの足をさすっている。
かろうじて輪郭がわかる程度の暗がりの中で手を伸ばすと、陰の主が顔を寄せてさわらせてくれた。
ふわりと漂う匂いはマリを包んでいる布団と同じものだったが、そこに微かな石膏の匂いも混じる。
少しひんやりとした頬を指先が捉えた。
「夏目、さん?」
「そう、俺。どこにいるかわかるか?」
「夏目さんの家」
「もう大丈夫そうだな」
影の主――夏目慧がこちらを向いて、わずかに笑っているのがなんとなくわかった。
「でもまだ痛い」
「揉んでてやるから目つぶって寝ろ。よい子はまだ寝てる時間だ」
「よい子って」
子ども扱いして。
窓から見える空はまだまだ暗くて、夜明けは程遠いように思えた。
だからといってこんなに痛むのに眠れるわけがない。
そう反論しようとしたのに、夏目のマッサージがいやにうまくて不思議と痛みが和らいでいく。
それこそ不安と一緒にぼろぼろと崩れて、水に溶けていくみたいだった。
意識がゆっくりと落ちていく。
しかし落ちきる寸前で夢の内容がフラッシュバックしてしまい、気をまぎらわせるために寝ぼけ半分で思考を捻る。
「わたしね、たぶん人魚姫の生まれ変わりなんだと思うの」
「うん」
でてきた話題は馬鹿らしい内容だった。
しかし普段なら率先して一蹴する夏目が珍しく否定しなかったので、つい口が滑っていく。
「海の魔女から両足を買ったときの借金返済が残っていてね、だから利息に左足を取られちゃったの」
「とんだ高利貸しだな」
「高利貸しって」
夏目の突っ込みが面白くてつい笑ってしまいながら「でもね、それは仕方がないことなの」と言葉を続けた。
「人魚は四百年も生きるのに人間ってたったの八十年くらいでしょう? 長く生きる人魚ならいっぱい恋愛をして真実の愛を見つけて支払えるけど、寿命の短い人間は真実の愛を見つける前に一生が終わっちゃうからいつまで経っても借金返済が終わらないんだよ。だから来世も、来来世も取り立て屋が来て、気づいたら利息がものすごく高くなってるんだと思うんだ」
「なんの話だ、それ」
「でも人魚は長く生きるかわりに死んだらそれっきりで、最後は泡になって消えちゃうの。反対に人間の魂は死んだあとも残って、天国へ行けるんだって。わたしはまだ借金が残っているから半人前の人間で、だから死んでも泡になって海を漂って、生まれ変わって返済しなきゃだめなんだ。でも左足だけは先に天国へ行っていて、わたしが来るのを待ってるの。足が痛むのはたぶん、天国で呼んでるから。向こうは痛みもないらしいし、早く完済してこっちにおいでって」
言い切ったらすっきりして、ふう、と小さく息をついた。
夏目の近くはどことなく青灰色に濁る仄暗い水底のようで、どっぷりと水に浸かってようやく鰓呼吸ができる。
夏目のそばにいないと窒息死寸前の人魚だなんて、なんか笑える。
吐きだしたぶんだけ痛みもどこかに逃げていったらしく、今は少し疼く程度だ。
これなら眠れそうな気がする。
うつらうつらと意識が夢と現実を行ったり来たりし始めたとき、夏目が独り言のような声で、
「そんないいところか、天国って」
ふてくされたように吐き捨てた。
「わかんないけど……、誰も帰ってこないから、いいところなんじゃないの?」
あくびを嚙み殺しておざなりに答えると、会話が途切れて沈黙が降りた。
そうなってくると眠気の臨界点をとうに突破していたマリは起きている理由がなくなり、誘われるまま夢の中へと落ちていく。
マリが意識を手放すかどうかという瀬戸際、夏目が小さく舌打ちをして、
「天国が一秒もいたくなくなるような悲惨なところだったらよかったのにな」
背筋を凍てつかせるほどひどく険を帯びた声音で呟いたのが最後に聞こえた。
七月と八月の狭間の日。
目が覚めてから知ったことだが、ベランダでは夢に落ちたマリと入れ替わるように、蝉の幼虫が地中から這いでてきて羽化を始めていたらしい。
朝になったときにはすでに幼虫はもぬけの殻で、そばでは黒くて硬くなった成虫が寿命のカウントダウンを始めていた。
そのときは夏だなあとしか思わなかったけれど。
まさかこの夜がマリにとってもお気楽な、白くてぶよぶよの自分いられる最後の日になるとは夢にも思っていなかった。
家主は「二十一の男の部屋に十五の女が泊まるって意味わかってんのか」とどすの利いた声をあげたが、
「変なことする気なの夏目さん」
「冗談。誰がお前みたいなガキ」
「なら問題ないじゃん。それに半分死体みたいな夏目さんがそんな生命力溢れる行為をする姿が想像できない」
「お前、俺を何だと思って……」
という言葉を最後に、口をもにょっとさせて夏目が押し黙った。
ここで食い下がるのも自分はやる気満々ですと宣言することになるのであって、夏目は諦めてマリをペチカまで押しあげると自分はペチカ下の穴蔵に潜っていった(ソファは槙島が占拠中だ)。
部屋と同じテイストの東欧っぽい布団に包まると、石膏の匂いとは違う夏目の匂いがして、練習で疲れていたせいもあってか三秒も経たないうちにマリは深い眠りについた。
夢の中でもマリは踊っていた。
お相手は灰色の瞳をした名前も知らない王子様で、生身の両足で華麗なステップを披露する。
シャールウィーダーンス……シャ……ルウィ……ダァーン……ス……
繰り返されるメロディが次第にスローテンポになって鈍重になり、ノイズ交じりに変調し始めた。
生じたノイズが蟻の群れのように襲いかかりマリの左足を捉えると、水面のダンスフロアに叩きつけられる。
しかし王子様は気づくことなく別の女性の手を取って、踊りながらきらきらした世界へと消えていく。
待って、置いていかないで。
叫んだところで声にならない。
蟻のもつ強靭な顎が細胞を一つずつ分解してほろほろと崩し、左足がどんどん短くなっていく。
残った部分を必死にかき集めようとした。
瞬間、ごすっ、という砂山が波で抉られるような音がして、太股からごっそりともぎ取られる。
自慢の左足は、ぶくぶくと白い泡をあげて水底へと落ちていった。
やだよ、左足がないと世界にいけないんだよ。
王子様に置いていかれちゃうんだよ。
返して、返シテ、ヒダリアシ、カエシテ……。
「月島っ……」
耳に馴染んだ重低音で目が覚めた。
猛烈な痛みが左足を襲い、額にぶくぶくと冷や汗が浮かぶ。
自分が今どこにいるのかもわからなかったが、肩を揺すっている手にとにかくすがりついた。
「左の足首が痛いのっ」
「っ……」
暗がりに浮かぶ灰色の瞳が泣きそうに見えた。
しかしそれも一瞬のことで、肩を揺する手が左の太股へ移動した頃には身に覚えのある尊大な態度に変わっている。
喉のあたりで少しごろつく、耳心地のいい低い声がなんでもないことのように平然と告げた。
「お前の足は、ここまで。足首は、もうないんだ」
「でも痛いの。熱くて、ぼろぼろと崩れて、かき集めても手の中で粉々になって……」
「それは幻肢痛だから。落ち着けって。大丈夫だから」
何が大丈夫なのか。
足が砕けて水に溶けていくというのに。
体温の低い大きな手が左足をさする。
火照った皮膚がゆっくりと冷めていき、左足の先端を知覚させた。
左足は、太股の半分ほどの長さでぷつりと途切れている。
「あ、れ……足、ない? そっか、幻肢痛……」
まだずきずきと痛む左足首を感じながら、それでも頭がはっきりとしてきた。
幻肢痛。
事故などで手脚を失ったあと、失った部分がまだあるように感じて幻の手脚が痛む現象。
本来であれば切断直後に頻発する症状で、マリも十年前に苦しめられた記憶がある。
「なんで、今さら」
「義足を使ったからだろ。幻肢をイメージして義足を動かすと、脳が錯覚を起こして幻肢痛がひどくなることがある」
「義足……。そう、だった。生身の足は、もうないんだった……」
ようやく思考が追いついて幻肢から顔をあげた。
長身痩躯の影がベッドの端に座ってマリの足をさすっている。
かろうじて輪郭がわかる程度の暗がりの中で手を伸ばすと、陰の主が顔を寄せてさわらせてくれた。
ふわりと漂う匂いはマリを包んでいる布団と同じものだったが、そこに微かな石膏の匂いも混じる。
少しひんやりとした頬を指先が捉えた。
「夏目、さん?」
「そう、俺。どこにいるかわかるか?」
「夏目さんの家」
「もう大丈夫そうだな」
影の主――夏目慧がこちらを向いて、わずかに笑っているのがなんとなくわかった。
「でもまだ痛い」
「揉んでてやるから目つぶって寝ろ。よい子はまだ寝てる時間だ」
「よい子って」
子ども扱いして。
窓から見える空はまだまだ暗くて、夜明けは程遠いように思えた。
だからといってこんなに痛むのに眠れるわけがない。
そう反論しようとしたのに、夏目のマッサージがいやにうまくて不思議と痛みが和らいでいく。
それこそ不安と一緒にぼろぼろと崩れて、水に溶けていくみたいだった。
意識がゆっくりと落ちていく。
しかし落ちきる寸前で夢の内容がフラッシュバックしてしまい、気をまぎらわせるために寝ぼけ半分で思考を捻る。
「わたしね、たぶん人魚姫の生まれ変わりなんだと思うの」
「うん」
でてきた話題は馬鹿らしい内容だった。
しかし普段なら率先して一蹴する夏目が珍しく否定しなかったので、つい口が滑っていく。
「海の魔女から両足を買ったときの借金返済が残っていてね、だから利息に左足を取られちゃったの」
「とんだ高利貸しだな」
「高利貸しって」
夏目の突っ込みが面白くてつい笑ってしまいながら「でもね、それは仕方がないことなの」と言葉を続けた。
「人魚は四百年も生きるのに人間ってたったの八十年くらいでしょう? 長く生きる人魚ならいっぱい恋愛をして真実の愛を見つけて支払えるけど、寿命の短い人間は真実の愛を見つける前に一生が終わっちゃうからいつまで経っても借金返済が終わらないんだよ。だから来世も、来来世も取り立て屋が来て、気づいたら利息がものすごく高くなってるんだと思うんだ」
「なんの話だ、それ」
「でも人魚は長く生きるかわりに死んだらそれっきりで、最後は泡になって消えちゃうの。反対に人間の魂は死んだあとも残って、天国へ行けるんだって。わたしはまだ借金が残っているから半人前の人間で、だから死んでも泡になって海を漂って、生まれ変わって返済しなきゃだめなんだ。でも左足だけは先に天国へ行っていて、わたしが来るのを待ってるの。足が痛むのはたぶん、天国で呼んでるから。向こうは痛みもないらしいし、早く完済してこっちにおいでって」
言い切ったらすっきりして、ふう、と小さく息をついた。
夏目の近くはどことなく青灰色に濁る仄暗い水底のようで、どっぷりと水に浸かってようやく鰓呼吸ができる。
夏目のそばにいないと窒息死寸前の人魚だなんて、なんか笑える。
吐きだしたぶんだけ痛みもどこかに逃げていったらしく、今は少し疼く程度だ。
これなら眠れそうな気がする。
うつらうつらと意識が夢と現実を行ったり来たりし始めたとき、夏目が独り言のような声で、
「そんないいところか、天国って」
ふてくされたように吐き捨てた。
「わかんないけど……、誰も帰ってこないから、いいところなんじゃないの?」
あくびを嚙み殺しておざなりに答えると、会話が途切れて沈黙が降りた。
そうなってくると眠気の臨界点をとうに突破していたマリは起きている理由がなくなり、誘われるまま夢の中へと落ちていく。
マリが意識を手放すかどうかという瀬戸際、夏目が小さく舌打ちをして、
「天国が一秒もいたくなくなるような悲惨なところだったらよかったのにな」
背筋を凍てつかせるほどひどく険を帯びた声音で呟いたのが最後に聞こえた。
七月と八月の狭間の日。
目が覚めてから知ったことだが、ベランダでは夢に落ちたマリと入れ替わるように、蝉の幼虫が地中から這いでてきて羽化を始めていたらしい。
朝になったときにはすでに幼虫はもぬけの殻で、そばでは黒くて硬くなった成虫が寿命のカウントダウンを始めていた。
そのときは夏だなあとしか思わなかったけれど。
まさかこの夜がマリにとってもお気楽な、白くてぶよぶよの自分いられる最後の日になるとは夢にも思っていなかった。