そうこうしているうちに日はとっぷりと暮れて、スモッグで煙った青灰色の空に星が浮かび始めた。
太陽がいなくなれば涼しくなると思っていたのに、日中に貯め込んだ熱をここぞとばかりに吐きだしているアスファルトのせいで今もなお暑苦しかった。
結局この日、今年最初の37℃を記録したらしいのだが、それを知るのはこのベランダを降りてからになる。
誰もいなくなったベランダで木製ベンチに寝そべり、右足だけをプールに垂らしてひっかき回す。
飲みきれなかったビール瓶がつま先にあたったのでこつんと蹴り飛ばすと、小さな波が起きてマリの足元に戻ってきた。
花火をする前に槙島は酔いつぶれてしまい、夏目はベランダにほっぽりだしておくと主張したのだが、いくら夏でも放置して死なれでもしたら大変だ。
マリの説得によって今しがたリビングに搬送されたところ。
東京のくせにやけに星が綺麗だった。
星座なんてからっきしだったが一番光っている星を適当に三つ選び、指で作った三角形の頂点と重ね合わせてみる。
なんちゃって夏の大三角形の完成。
なんだか異様にでっかくなった。
これじゃない感がすごい。
ふと物音がして振り向くと夏目がぬぼうっと暗闇に立っていた。
「うわ、びっくりした。戻ってきたのなら声かけてよね」
「悪い」
夏目にしては殊勝な態度で謝ってきたので本物かどうか怪しくなる。
もしや暗闇に乗じて現れた妖怪がマリを騙そうとしているのでは。
眉間に皺を寄せて観察してみるが、顔の細部はよく見えなかったので答えはでなかった。
「ほら、お前も運んでやるから帰れ」
ぐいっと手を引っ張られたがまだ帰りたくない気持ちのほうが勝って全身の力が抜けていく。
仰け反って上下が反転した視界をぼんやりと眺めたとき、いいものを見つけて意気揚々と指差した。
「あれやったら帰る」
視線の先にあったのは槙島が持ってきた花火だった。
線香花火と鼠花火があったがもちろんマリの目的は線香花火だ。
鼠花火はせわしなく走り回るイメージで楽しいとは思えない。
草木に引火しても厄介だし。
「お前なあ」
「やったら帰る」
反論を強引にねじ伏せると夏目は困ったように口をもにょつかせたあと、大きなため息をついて「一本だけだぞ」と花火を拾いあげた。
「あ、自分で選ぶっ」
「こんなのどれも同じだろ」
「わかんないじゃん。一本だけなら一番寿命の長いやつがいい」
「へーへー。何でもいいからさっさと選んでくれ」
夏目が差しだした花火の束から一本引き抜く。
こよりのところが少しでも長いやつにした。
二番目に長いやつを差しだすと「俺はいいって」と呆れられたので、無理に握らせて夏目のポケットからライターを強奪。
二の句を継ぐ前に着火を試みる。
「こういうのは二人でやるから楽しいんじゃん」
しかし強奪したライターは丸いぎざぎざがついているタイプのもので、これをうまいこと回さないと着火ができない。
かすっ、かすっ。
不発の軽い音が何度も響き渡り、だんだんと親指の腹が痛くなってきた。
見かねた夏目がライターをかっさらい、じゅぽっ。
一瞬で火が灯り濃紺の空間が赤く染まった。
マリの花火に火をつけると、自分のぶんはマリの火種に押しつけて着火する。
初め小さかった火花がだんだんと大きくなり、ちりちりと弾ける音があたりを支配していた。
暖色の火花が青灰色の空を一瞬だけ押しやって、こぶし大までテリトリーを広げていく。
「線香花火ってさ、なんだか踊ってるみたいだよね」
「考えたこともねぇな」
ダンスをやっていたという割にはロマンにかける男だ。
槙島だったらロマンチックな言葉の一つや二つ吐きそうだが……と思ったところでべろべろに酔っぱらった槙島の顔が浮かんだ。
あの状態では何を言ったところでださいままだ。
「槙島さんって本当にチャンピオンなの?」
「踊ってるときはまあ……、それなりに見えるよ」
意地でも褒めないあたりが負けず嫌いっぽい。
ふと、まだ槙島が本気で踊っているところを見たことがないことに気づいた。
今度海外の試合にでると言っていたし、録画でも見せてもらおうか。
ダンススタジオに掲げられた幼い頃の夢を叶えた姿は、マリのように目標もなくその日その日を生きている人間にどう映るだろうか。
「そういえば、夏目さんって世界を目指さなかったの?」
メモの中に登場したかわいげのない子どもは絶対に夏目のはずなのに。
拙い文字で書かれた『世界に行けますように』という言葉がちらつく。
「忘れた」
夏目の線香花火から火の玉が落ちた。
プールの水面に触れてじゅっと短い音が鳴り、黒い煤が水中で霧散すると体積の多い水に紛れてもうわからなかった。
じっくり選んだかいもあってマリの花火はまだ元気だったので、つい「しゃーるうぃーだーんす」と口ずさんだ。
だが歌いきる前にマリの火の玉も落ちていき、水に溶けて見えなくなる。
「あーあ、終わっちゃった」
ほろほろと崩れる煤だまりを名残惜しんでぼやきつつ、向かいで同じように見送っていた夏目の顔を覗き見た。
伏し目から覗く灰色の瞳には水面が反射するきらきらした光が映り込んでいたが、それはたまに見せる少年のような目ではなくて。
ただ光を映すだけのスクリーンのようで、それでいて全てを拒絶するような、安易に踏み込めない深い感情がにじんでいる気がした。
(世界かあ……)
きっと夏目も一時は夢見たであろう場所は、マリには遠すぎて想像もできなかった。
しかし踊るからには一番になりたいという気持ちも少なからずあったりもして、この複雑な気持ちの行き着く先があの瞳なのかなと漠然と思う。
「部屋はいるか」
「ん」
膝を叩いて立ちあがった夏目がベンチに背中を向けて座り込み、マリも当然のようにその背に覆いかぶさると出口に向かって歩きだす。
短い左足から夏目の手が滑り落ちかけたので小さく跳ねて抱えなおしたとき、この足で一番になりたいと考えていたことに自分でびっくりした。
温室に入る瞬間、もう一度プールを振り返った。
(夏目さんの本気も、ちょっと見てみたいかも)
なんでダンスを辞めたのかはわからないが、槙島と一緒に世界を目指す夏目も面白いかもしれない。
それを引きだせるのはたぶん、人魚姫ではなくて両足生身のお姫様だろうけれど。
太陽がいなくなれば涼しくなると思っていたのに、日中に貯め込んだ熱をここぞとばかりに吐きだしているアスファルトのせいで今もなお暑苦しかった。
結局この日、今年最初の37℃を記録したらしいのだが、それを知るのはこのベランダを降りてからになる。
誰もいなくなったベランダで木製ベンチに寝そべり、右足だけをプールに垂らしてひっかき回す。
飲みきれなかったビール瓶がつま先にあたったのでこつんと蹴り飛ばすと、小さな波が起きてマリの足元に戻ってきた。
花火をする前に槙島は酔いつぶれてしまい、夏目はベランダにほっぽりだしておくと主張したのだが、いくら夏でも放置して死なれでもしたら大変だ。
マリの説得によって今しがたリビングに搬送されたところ。
東京のくせにやけに星が綺麗だった。
星座なんてからっきしだったが一番光っている星を適当に三つ選び、指で作った三角形の頂点と重ね合わせてみる。
なんちゃって夏の大三角形の完成。
なんだか異様にでっかくなった。
これじゃない感がすごい。
ふと物音がして振り向くと夏目がぬぼうっと暗闇に立っていた。
「うわ、びっくりした。戻ってきたのなら声かけてよね」
「悪い」
夏目にしては殊勝な態度で謝ってきたので本物かどうか怪しくなる。
もしや暗闇に乗じて現れた妖怪がマリを騙そうとしているのでは。
眉間に皺を寄せて観察してみるが、顔の細部はよく見えなかったので答えはでなかった。
「ほら、お前も運んでやるから帰れ」
ぐいっと手を引っ張られたがまだ帰りたくない気持ちのほうが勝って全身の力が抜けていく。
仰け反って上下が反転した視界をぼんやりと眺めたとき、いいものを見つけて意気揚々と指差した。
「あれやったら帰る」
視線の先にあったのは槙島が持ってきた花火だった。
線香花火と鼠花火があったがもちろんマリの目的は線香花火だ。
鼠花火はせわしなく走り回るイメージで楽しいとは思えない。
草木に引火しても厄介だし。
「お前なあ」
「やったら帰る」
反論を強引にねじ伏せると夏目は困ったように口をもにょつかせたあと、大きなため息をついて「一本だけだぞ」と花火を拾いあげた。
「あ、自分で選ぶっ」
「こんなのどれも同じだろ」
「わかんないじゃん。一本だけなら一番寿命の長いやつがいい」
「へーへー。何でもいいからさっさと選んでくれ」
夏目が差しだした花火の束から一本引き抜く。
こよりのところが少しでも長いやつにした。
二番目に長いやつを差しだすと「俺はいいって」と呆れられたので、無理に握らせて夏目のポケットからライターを強奪。
二の句を継ぐ前に着火を試みる。
「こういうのは二人でやるから楽しいんじゃん」
しかし強奪したライターは丸いぎざぎざがついているタイプのもので、これをうまいこと回さないと着火ができない。
かすっ、かすっ。
不発の軽い音が何度も響き渡り、だんだんと親指の腹が痛くなってきた。
見かねた夏目がライターをかっさらい、じゅぽっ。
一瞬で火が灯り濃紺の空間が赤く染まった。
マリの花火に火をつけると、自分のぶんはマリの火種に押しつけて着火する。
初め小さかった火花がだんだんと大きくなり、ちりちりと弾ける音があたりを支配していた。
暖色の火花が青灰色の空を一瞬だけ押しやって、こぶし大までテリトリーを広げていく。
「線香花火ってさ、なんだか踊ってるみたいだよね」
「考えたこともねぇな」
ダンスをやっていたという割にはロマンにかける男だ。
槙島だったらロマンチックな言葉の一つや二つ吐きそうだが……と思ったところでべろべろに酔っぱらった槙島の顔が浮かんだ。
あの状態では何を言ったところでださいままだ。
「槙島さんって本当にチャンピオンなの?」
「踊ってるときはまあ……、それなりに見えるよ」
意地でも褒めないあたりが負けず嫌いっぽい。
ふと、まだ槙島が本気で踊っているところを見たことがないことに気づいた。
今度海外の試合にでると言っていたし、録画でも見せてもらおうか。
ダンススタジオに掲げられた幼い頃の夢を叶えた姿は、マリのように目標もなくその日その日を生きている人間にどう映るだろうか。
「そういえば、夏目さんって世界を目指さなかったの?」
メモの中に登場したかわいげのない子どもは絶対に夏目のはずなのに。
拙い文字で書かれた『世界に行けますように』という言葉がちらつく。
「忘れた」
夏目の線香花火から火の玉が落ちた。
プールの水面に触れてじゅっと短い音が鳴り、黒い煤が水中で霧散すると体積の多い水に紛れてもうわからなかった。
じっくり選んだかいもあってマリの花火はまだ元気だったので、つい「しゃーるうぃーだーんす」と口ずさんだ。
だが歌いきる前にマリの火の玉も落ちていき、水に溶けて見えなくなる。
「あーあ、終わっちゃった」
ほろほろと崩れる煤だまりを名残惜しんでぼやきつつ、向かいで同じように見送っていた夏目の顔を覗き見た。
伏し目から覗く灰色の瞳には水面が反射するきらきらした光が映り込んでいたが、それはたまに見せる少年のような目ではなくて。
ただ光を映すだけのスクリーンのようで、それでいて全てを拒絶するような、安易に踏み込めない深い感情がにじんでいる気がした。
(世界かあ……)
きっと夏目も一時は夢見たであろう場所は、マリには遠すぎて想像もできなかった。
しかし踊るからには一番になりたいという気持ちも少なからずあったりもして、この複雑な気持ちの行き着く先があの瞳なのかなと漠然と思う。
「部屋はいるか」
「ん」
膝を叩いて立ちあがった夏目がベンチに背中を向けて座り込み、マリも当然のようにその背に覆いかぶさると出口に向かって歩きだす。
短い左足から夏目の手が滑り落ちかけたので小さく跳ねて抱えなおしたとき、この足で一番になりたいと考えていたことに自分でびっくりした。
温室に入る瞬間、もう一度プールを振り返った。
(夏目さんの本気も、ちょっと見てみたいかも)
なんでダンスを辞めたのかはわからないが、槙島と一緒に世界を目指す夏目も面白いかもしれない。
それを引きだせるのはたぶん、人魚姫ではなくて両足生身のお姫様だろうけれど。