槙島が一足先に五階へ向かい、マリは例のごとく夏目に背負われて階段を上った。
 義足は重いのでダンスフロアに置いてきた。
 部屋につくなり「あけろ」といういつも通りの横暴な指示。
 ワークパンツのポケットから鍵を取りだしてドアをあけた。

 というか、この部屋にベランダなんてあっただろうか。
 ものでごった返した室内を進み、突き当たりにぶち当たったところで右に九十度向きを変えた。
 ペチカと壁のわずかな隙間が一段低くなっており、その向こうに扉がついていた。
 アニメ映画で見た魔法使いの家のドアによく似ていて、ノブを回せばいろいろな場所へつながりそうだった。

「あけろ」

 偉そうな声も気にならないくらい心が浮き足立っていた。
 ドアをあけると薄暗かった室内に光が差し込んできて目がくらむ。
 何度も瞬きをして、ようやく世界の輪郭がはっきりした。

 つながったのはガラス張りの温室だった。
 プランターに植えられた草木は道端にも生えていそうな野草だったが、それが木製の温室によく馴染んでいた。
 突き当たりの角には大きな机と天井まで届く本棚があり、そこだけが唯一太陽光をさえぎっている。
 しかし本棚の隙間から漏れる光は印象的で、ガラスを透過した光よりも綺麗だった。

「あいつ、プールまでだしてやがる」

 夏目の声で窓の外を見ると、かなり広いベランダがあった。
 おそらくリビングの三倍はある空間で、見渡す限り草、草、草。
 外の景色は一切見えず、くらくらするほどの青葉の匂いが五感を狂わせている。
 まるで中世貴族の庭園に迷い込んだように現実味がない。

 ガラス戸を通って外にでる。
 草を踏まずに歩けるのは中央に敷かれた石畳くらいで、道の先では子ども用のビニールプールに水を張ってスイカを浮かべている槙島がいた。
 こちらに気づくと腐りかけた木製ベンチをプール脇に引き寄せて「マリちゃん、ここ」とぽんぽん叩く。

「ここ本当にビルの五階?」
「階段上ってきただろ」

 何を言ってるんだという顔でマリをベンチに降ろしたが信じられないのだから仕方がない。
 夏目はふうと息をついて地べたに座り込み、マリが座っているベンチにもたれてシャツの襟ぐりをぱたぱたと。
 草木があるのでアスファルト地獄よりかは幾分か涼しかったが、低体温の夏目にはのぼせあがる気温なのだろう。
 顔が若干火照っている。

「そおりゃっ」

 突然視界の外から奇声があがり、続けて夏目の「つめたっ……」というややローテンションの声がした。

 奇声の主は水鉄砲を前に突きだし狙いを定めた格好のままにやにやと笑っている。
 対する被害者のほうは額を撃ち抜かれ、ぽたぽたと垂れる水が鼻を避けて目と口に入ってしまい、ぺっと吐きだしながらまっすぐに狙撃手を睨んでいた。

「お前……」
「はーい、命中一! 慧死亡ぅ」
「くだらない。不意打ちなら誰でも当てられるだろ」
「あーはいはい、わかってるわかってる。負けを認めたくないんでしょ? いいよ、そういうことにしておいてあげるよ」

 槙島が水鉄砲を持ったまま両手をあげて降参を示すと、夏目が鋭い舌打ちを放った。

 瞬間、夏目の長い腕が槙島から水鉄砲を奪い取り「月島」というかけ声とともに後方に投げる。
 あわあわと受け取っている間にばしゃんという湿った音がした。
 見れば夏目が濡れるのも気にせずに槙島をプールに突き飛ばして馬乗りになり、指で作った銃を額に突きつけて。

「ばーん」

 何が起こったのかわからない槙島は目をぱちくりと開閉させて夏目を見あげている。
 背が高いのが幸いして、後頭部はプールの縁に乗りあげているので水死は免れそうだった。

「月島、とどめ」

 夏目の一言ではっとなり、ベンチから身を乗りだすと顔を狙って乱射する。

「うりゃあっ」
「ちょ、二人がかりずるい」
「カップルなんだから当然」

 さらりと言われた一言に一瞬固まった。
 ダンスのペアという意味だと、緩慢な脳が算出したので止まっていた息を吐いてからまた乱射。
 ダンス用語というのにはなかなか慣れない。

「あーもうびしょびしょ……」

 水が尽きてマリの攻撃がやむと槙島が這いでてきた。
 とほほという効果音が似合う様子で濡れた手をぷらぷらさせて水気を払う。
 たまらずマリが吹きだすとさらに肩を落として「俺かっこわるぅ」と拗ねてしまった。

「あーおかし。夏目さんがこんなことするなんて思わなかった」
「何言ってんの。慧ほど負けず嫌いなやついないって。昔なんてさあ」
「よし、もういっぺん死ね」

 せっかくプールから這いでてきた槙島の前に夏目が立ち塞がる。
 こめかみを引きつらせて槙島が口をつぐむと夏目は満足そうに再び地べたへと座り込んだ。
 何を言いかけたのかすごく気になるが、今度はマリがプールに突き落とされかねないのでぐっとこらえる。

 どこからだしてきたのかスコップをひっさげて槙島が現れ、バルコニーは一気にスイカ割り大会へと移行した。
 トップバッターは槙島。
 目元をはちまきで隠したあと「マリちゃんがいいって言うまで俺を回して」と言ってしまったのが運の尽きだった。
 夏目がろくろを回すような勢いでぐるぐると回すのだが、マリが声をあげようとすると口を塞ぐ。
 意図を理解して肩で笑いながら槙島の行く末を見守っていると、

「えっ、ちょっと長くない? 嘘、もう無理だってば。マリちゃん、いるんだよね? もうお終いって言ってもよくない? あれっ?」

 だんだんとか細くなっていく声に腹がよじれるくらい笑ったあと「ストップ」と言ったが時すでに遅し。
 へべれけになった槙島が地面に突っ伏して嗚咽を漏らす。
 到底スコップを抱えて歩けるような状況ではない。

「あーもう信じらんないっ。絶対慧の差し金でしょ! 水鉄砲根に持ちすぎっ」

 プールで冷やしていた缶ビールを引っつかんで一気に飲み干し嗚咽を消し去るが、今度は違う意味で酔っぱらってぶうぶう文句を垂れている。
 夏目は知らん顔で二メートル近く伸びたひまわりを見あげていた。

 案の定夏目はスイカ割りをパスしたのでマリがスコップを振りおろし、砕けた部分を拾い集めてむさぼり食う。
 先ほどの仕返しとばかりに槙島が種を飛ばしたが、飛距離が伸びずに石畳に落っこちるばかりだ。

「お前ちゃんと掃除しろよ。来年スイカまみれになっても困る」

 と夏目が不平を垂れると、今度はこれ見よがしに地面へと種を吐いて「頼む、スイカできてくれぇ」と祈祷し始める始末。

「やめてよ、槙島さん。笑わせないで」

 笑いすぎて一向にマリのスイカは減る気配がなく、その間に槙島が怒濤の如く食べまくって種を量産していった。

 スイカを食べ終わるといよいよすることもなくなり、大の大人が二人集まった自然な流れとして酒宴が始まった。
 ビニールプールを瓶ビールとチューハイが芋洗い状態で埋め尽くしており、瓶の海流に割って入っていく申し訳程度のラムネ瓶がマリの取りぶんだった。

「かあーっ。炎天下のビールほどおいしいものはないねぇ」

 ビールをラッパ飲みしながら槙島が吠えた。

「うわ、槙島さんおっさんくさい」
「何とでも言え。ビールの前では全てが無礼講よ」
「そんなおいしいの、ビールって」

 興味本位で顔を寄せると、すでに据わった目をしている槙島が不敵に笑って飲み口を差しだしてきた。
 つんとするアルコールの匂いに若干むせ返る。

「マリちゃんも舐めてみる? ラムネなんかおこちゃまにしか思えなくなるよ」
「こいつ未成年」
「えーじゃあ一口だけ」
「おい」

 忠告を無視して手を伸ばしたが、掴む前に瓶が視界から消え失せた。
 槙島と二人できょとんとした顔になる。

 夏目がビール瓶を奪い取って一気飲みしていた。
 琥珀色の液体がみるみるうちに夏目の身体に吸い込まれていき、ものの数秒で空っぽになると空き瓶を投げだして口元を押さえる。
 顔色がいつもよりも蒼ざめていた。

「夏目さんってお酒強いの?」
「いや、飲めないってわけじゃないけど強いってわけでもないよ」

 今にも死にそうな夏目にかわって槙島が答える。
 ならなんで一気飲みなんて。
 対して強くもない人間がしていいものではないだろう。

「あーくそ、吐きそ」

 とかなんとか言いながら、夏目がポケットに左手を突っ込んだ。
 煙草を取りだし火をつけるとぶうたれた顔で煙を吹かす。
 かなり赤くなった空に灰白色の筋が昇っていく。

「槙島さんは煙草吸わないの?」
「俺はやらなぁい。肺が悪くなると踊りきれないもん」

 そういえばこの人はアマチュアのチャンピオンだった。
 やる気のない夏目とつるんでいるせいでどうにもその事実を忘れそうになる。

 でも、それだけではなくて。
 おそらく最大の原因は、槙島と踊ってもびりびりとしないからだ。

 確かにすごく上手だし、夏目よりも優しくサポートしてくれるし、踊っている姿は本物の王子様も顔負けなのだが。
 夏目と踊ったときのような、あの蠱惑的な刺激がどうしてもしないのだ。
 単に初心者のマリに合わせて本領が発揮できていないだけかもしれないが。

「ねえ、煙草はおいしい?」

 ベンチに座るマリより胴体一つぶん低いところにある夏目の口元へ手を伸ばすと、さっと手の届かないところまで煙草を逃がして「これはマジでだめ」

「けちんぼ」
「けちで結構」
「そうだあ、そんなけちは放っておいて酒を飲もう」

 と、三本目のビールを手に槙島が近寄ってきた。普段王子な槙島の豹変ぶりがすさまじい。

「こいつ絡み酒なんだよ。こうなると潰れるまで飲み続けるからほっとけ」

 説明するそばから今度は夏目に絡んで酒を押しつけ、飲まないでいるとぶうたれて自らプールへダイブ。
 これ、本当に放っておいて大丈夫なのだろうか。

「大人なんだか子どもなんだか……」

 マリの正直な感想は、しかし槙島の奇声によって掻き消されてしまった。