たぶん頭の中に蝉がいた。
右耳から入って出口がわからなくなり、頭蓋骨の中でわんわん鳴くからうるさくって敵わなかった。
逃げ場のなくなった音が身体を内側から押し広げ、一回りくらい世界が広がる。
身体の周りに薄い膜が張られたみたいで、それを意識すると身体が案外よく動いた。
拡張した世界は身体の一部で、強張った機械の足もすくいあげて動かしてくれるようになった。
熱に浮かされてぼうっとする。
もう何回転んだかわからない。
昔国語で習った中原中也の詩みたいにフロアをぬめっと揺蕩っていると、フロアが海原に見えてきた。
きっと人魚は水面が歩けて、海原のフロアで夜な夜な練習しただろう。
足音がうるさいと下で寝ているアジやカレイが目を覚ますから、そっと足をつけないと。
水飛沫があがるようでは半人前だ。
波紋がわずかに揺れるくらいの静けさで。
人魚姫は歩くたび鋭い剣を身体に突っ込まれるような痛みがあったらしいけれど、その感覚も今ならわかる。
機械仕掛けの足が下から身体を突き刺して、一歩踏みだすだけで激痛が走った。
でも、まだいける。
あとちょっとだった。
ほんのあと少しで感覚が掴めそうだった。
右足を前にだし、機械の足を時計回りに振って九十度回転。
自分を取り巻く薄い膜がメタリックな甲を押しだして指先まで伸ばす。
ゆっくり、ゆっくり。
綺麗なつま先のままで水面に降ろす。
ああ、太股吊りそう。
でも重力に負けておろすのはだめだ。
着地した瞬間に金属特有のごりっとしたかわいげのない音が鳴ってしまうから。
つま先が降りたら両足を揃え、背筋まっすぐで腰をおろす。
息を小さく吸って、膝を曲げたまま右足を前に突きだした。
機械仕掛けの膝は折れない。
やった、成功した。
気を抜くな。
右足で一歩踏みだし、軸に乗るようにして一気に腰をあげた。
びりびりびり。
昂揚感が脳天から足先までを駆け抜ける。
それは夏目が吐く麻薬の言葉にもよく似た、くらくらするような刺激で。
もう一回、もう一回と依存性の高い蠱惑的な痛み。
もう一回やろう。
勢いよく左足を振りだしたときだった。
すぱ――んと、左足が吹っ飛んだ。
ロボットアニメのロケットキックみたいに、太股から先が勢いよく飛びだして壁に激突。
金属特有の鈍った音が響いて静止した。
しかしマリは止まらない。
すでに重心だって左足へ移動していた。
床と断端の距離は約五十センチ。
地球に吸い寄せられるようにして、左足のほうから落ちていく。
側頭部が何かにぶつかった。
床はまだ遠いはずだ。
石膏と機械油の匂いに横から包み込まれ、
どすん、という音が左半身の下から聞こえた。
頭の中にいたはずの蝉がじじっと短く鳴いて飛び立った。
一時世界が無音になって停止する。
「痛って……」
マリの下敷きにされた夏目が顔を歪めて舌打ちをした。
「夏目、さん?」
予想外の展開にぽかんと固まる。
肩が夏目のみぞおちに食い込んでいたのか「うっ……」という呻き声をあげたので金縛りが解けた。
上体を起こして夏目に向き直ると、あっちも床から身を起こして、
「……ロアー、どうやったんだよ」
百年ぶりに人語を話したガーゴイル像のような緩慢さで口を開いた。
その顔は相変わらずのポーカーフェイス。
しかしわずかに悔しそうで。
「勝った」
「は?」
そこはかとない昂揚感を握りしめて宣言すると、ポーカーフェイスが一転してうろんげな顔に変わった。
それすらもマリにとっては嬉しい反応である。
「夏目さんの手を借りずに、このぽんこつ膝でできるようになってやったわ。まいったか」
「あのなあ」
気怠げに手を伸ばして義足を掴み、ソケットの中を覗き込んで渋い顔をする。
「だからって汗でソケットが滑り落ちるくらい踊るか普通」
眼前に突きつけられたソケットを見てぎょっとした。
底のほうに水たまりができている。
もしやと思い義足が吹っ飛んでいった軌道上に目をやると、ソケットからこぼれた汗が壁まで点在していた。
「そんなことある?」
「現になってるだろ。まさかお前、一晩中やってたんじゃないだろうな?」
「一晩中?」
意味がわからずに反復すると、夏目が尻ポケットからスマートフォンを取りだして放ってきた。
受け取って待ち受け画面を確認する。
七月十七日九時三十七分。……十七日?
「嘘、朝になってる……」
夏目が露骨にため息をつき、マリの左足を掴むとライナーを剥ぎとった。
「ぎゃっ、えっち」
「馬鹿言え。あーあやっぱり傷だらけじゃねえか」
女子高生を追い剥ぎして生足を拝むなんて一歩間違えれば事案物だが、夏目は一切無視してマリの断端を揉んだりさすったりしている(これでは事案ではなくて事件だ)。
刹那、ぴりっとした痛みが走って顔をしかめた。
夏目の奇行ばかりが目についていたが、確かに断端には皮膚が擦りむけたような傷や水ぶくれがある。
「これはさすがに手あてしないと」
言ったそばからマリに背を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れ」
「は?」
今度はマリがうろんげな顔になる。
乗れってつまり、背中にってこと?
「いやなんでっ……」
「救急箱、俺の部屋にしかない」
「部屋? 家この近くなの?」
「ここの五階」
夏目が上を指差したのでつられて天を仰いだ。
そういえばスタジオの上はビルになっていたっけ。
オフィスビルだと思っていたが住居もあるのか。
「なら松葉杖で行くよ。エレベーターあるんでしょ?」
「あるけど壊れてる」
エアコンといいエレベーターといい、このビルの管理はどうなっているのだ。
膝の状態はよくないので治療をすることに異論はなかったが、憎き夏目の背に乗るなんてものすごく嫌だ。
そもそもまだ敗北宣言を聞いていない。
「負けを認めるなら乗ってあげてもよくってよ?」
ふふんと鼻を鳴らして宣言すると夏目は眉間に皺を寄せ、
「なら放置すれば。もっと短くなっても知らないけど」
もっと短く?
すでにかなり短い左足を見おろした。
そういえば宗一郎が言っていた気がする。
汗は雑菌だらけだから清潔にしないと感染症を起こすよって。
傷があるならなおさらだ。
もし感染症になったら足の先から腐っていくから、広がらないように腐ったところをさらに切り落とすとかなんとか。
夏目が突き放すように立ちあがりかけたので慌てて手をついて制止した。
なんだか反省を示す猿みたいで滑稽だった。
右耳から入って出口がわからなくなり、頭蓋骨の中でわんわん鳴くからうるさくって敵わなかった。
逃げ場のなくなった音が身体を内側から押し広げ、一回りくらい世界が広がる。
身体の周りに薄い膜が張られたみたいで、それを意識すると身体が案外よく動いた。
拡張した世界は身体の一部で、強張った機械の足もすくいあげて動かしてくれるようになった。
熱に浮かされてぼうっとする。
もう何回転んだかわからない。
昔国語で習った中原中也の詩みたいにフロアをぬめっと揺蕩っていると、フロアが海原に見えてきた。
きっと人魚は水面が歩けて、海原のフロアで夜な夜な練習しただろう。
足音がうるさいと下で寝ているアジやカレイが目を覚ますから、そっと足をつけないと。
水飛沫があがるようでは半人前だ。
波紋がわずかに揺れるくらいの静けさで。
人魚姫は歩くたび鋭い剣を身体に突っ込まれるような痛みがあったらしいけれど、その感覚も今ならわかる。
機械仕掛けの足が下から身体を突き刺して、一歩踏みだすだけで激痛が走った。
でも、まだいける。
あとちょっとだった。
ほんのあと少しで感覚が掴めそうだった。
右足を前にだし、機械の足を時計回りに振って九十度回転。
自分を取り巻く薄い膜がメタリックな甲を押しだして指先まで伸ばす。
ゆっくり、ゆっくり。
綺麗なつま先のままで水面に降ろす。
ああ、太股吊りそう。
でも重力に負けておろすのはだめだ。
着地した瞬間に金属特有のごりっとしたかわいげのない音が鳴ってしまうから。
つま先が降りたら両足を揃え、背筋まっすぐで腰をおろす。
息を小さく吸って、膝を曲げたまま右足を前に突きだした。
機械仕掛けの膝は折れない。
やった、成功した。
気を抜くな。
右足で一歩踏みだし、軸に乗るようにして一気に腰をあげた。
びりびりびり。
昂揚感が脳天から足先までを駆け抜ける。
それは夏目が吐く麻薬の言葉にもよく似た、くらくらするような刺激で。
もう一回、もう一回と依存性の高い蠱惑的な痛み。
もう一回やろう。
勢いよく左足を振りだしたときだった。
すぱ――んと、左足が吹っ飛んだ。
ロボットアニメのロケットキックみたいに、太股から先が勢いよく飛びだして壁に激突。
金属特有の鈍った音が響いて静止した。
しかしマリは止まらない。
すでに重心だって左足へ移動していた。
床と断端の距離は約五十センチ。
地球に吸い寄せられるようにして、左足のほうから落ちていく。
側頭部が何かにぶつかった。
床はまだ遠いはずだ。
石膏と機械油の匂いに横から包み込まれ、
どすん、という音が左半身の下から聞こえた。
頭の中にいたはずの蝉がじじっと短く鳴いて飛び立った。
一時世界が無音になって停止する。
「痛って……」
マリの下敷きにされた夏目が顔を歪めて舌打ちをした。
「夏目、さん?」
予想外の展開にぽかんと固まる。
肩が夏目のみぞおちに食い込んでいたのか「うっ……」という呻き声をあげたので金縛りが解けた。
上体を起こして夏目に向き直ると、あっちも床から身を起こして、
「……ロアー、どうやったんだよ」
百年ぶりに人語を話したガーゴイル像のような緩慢さで口を開いた。
その顔は相変わらずのポーカーフェイス。
しかしわずかに悔しそうで。
「勝った」
「は?」
そこはかとない昂揚感を握りしめて宣言すると、ポーカーフェイスが一転してうろんげな顔に変わった。
それすらもマリにとっては嬉しい反応である。
「夏目さんの手を借りずに、このぽんこつ膝でできるようになってやったわ。まいったか」
「あのなあ」
気怠げに手を伸ばして義足を掴み、ソケットの中を覗き込んで渋い顔をする。
「だからって汗でソケットが滑り落ちるくらい踊るか普通」
眼前に突きつけられたソケットを見てぎょっとした。
底のほうに水たまりができている。
もしやと思い義足が吹っ飛んでいった軌道上に目をやると、ソケットからこぼれた汗が壁まで点在していた。
「そんなことある?」
「現になってるだろ。まさかお前、一晩中やってたんじゃないだろうな?」
「一晩中?」
意味がわからずに反復すると、夏目が尻ポケットからスマートフォンを取りだして放ってきた。
受け取って待ち受け画面を確認する。
七月十七日九時三十七分。……十七日?
「嘘、朝になってる……」
夏目が露骨にため息をつき、マリの左足を掴むとライナーを剥ぎとった。
「ぎゃっ、えっち」
「馬鹿言え。あーあやっぱり傷だらけじゃねえか」
女子高生を追い剥ぎして生足を拝むなんて一歩間違えれば事案物だが、夏目は一切無視してマリの断端を揉んだりさすったりしている(これでは事案ではなくて事件だ)。
刹那、ぴりっとした痛みが走って顔をしかめた。
夏目の奇行ばかりが目についていたが、確かに断端には皮膚が擦りむけたような傷や水ぶくれがある。
「これはさすがに手あてしないと」
言ったそばからマリに背を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れ」
「は?」
今度はマリがうろんげな顔になる。
乗れってつまり、背中にってこと?
「いやなんでっ……」
「救急箱、俺の部屋にしかない」
「部屋? 家この近くなの?」
「ここの五階」
夏目が上を指差したのでつられて天を仰いだ。
そういえばスタジオの上はビルになっていたっけ。
オフィスビルだと思っていたが住居もあるのか。
「なら松葉杖で行くよ。エレベーターあるんでしょ?」
「あるけど壊れてる」
エアコンといいエレベーターといい、このビルの管理はどうなっているのだ。
膝の状態はよくないので治療をすることに異論はなかったが、憎き夏目の背に乗るなんてものすごく嫌だ。
そもそもまだ敗北宣言を聞いていない。
「負けを認めるなら乗ってあげてもよくってよ?」
ふふんと鼻を鳴らして宣言すると夏目は眉間に皺を寄せ、
「なら放置すれば。もっと短くなっても知らないけど」
もっと短く?
すでにかなり短い左足を見おろした。
そういえば宗一郎が言っていた気がする。
汗は雑菌だらけだから清潔にしないと感染症を起こすよって。
傷があるならなおさらだ。
もし感染症になったら足の先から腐っていくから、広がらないように腐ったところをさらに切り落とすとかなんとか。
夏目が突き放すように立ちあがりかけたので慌てて手をついて制止した。
なんだか反省を示す猿みたいで滑稽だった。