「車椅子で楽してんじゃねぇ。松葉杖使え。筋肉を鍛えろ」

 記憶の中の保健医以上に配慮のない口調で夏目が言うので「リハビリはしてるってば」と反論したのだが、夏目は一切聞かずにダンスフロアの片隅に広げた青いビニールシートの上でバケツに入ったコンクリート状の何かをかき混ぜている。
 これからマリを海に沈めるつもりだろうか。

〝明日から毎日来い〟

 昨日、こちらの都合を一切訊かずにそう告げると、夏目はマリを車椅子に座らせて、義足とヒールを強奪して、ローファーを元通り履かせて、そのままスタジオから追いだした。
 反論する余地も与えず「俺はこれから行くところがある」とマリをその場に置き去りにして消えてしまったので、怒りを通り越して呆れるしかない。
 やっぱり被験者になるのを断ってやろうかと思いながら一人で帰路についたのだが、結局来てしまったのだからマリも大概お人好しである。

「ねえ、それ何やってるの?」
「こんなもんか。こっち来い。車椅子使うなよ」

 質問には一切答えず、というより一瞥すらしないでコンクリートを混ぜ続ける夏目に苛立ちを覚えつつ(何が車椅子は使うなよ、だ。偉そうに)四つん這いになってビニールシートへ向かった。
 マリを視界の端に捉えた夏目が「バー持って立って」と顔もあげずに指差した先には、木製の手すりが壁に備えつけられている。
 ダンス教室の場合は〝手すり〟ではなく〝バー〟と呼ぶらしいが。

「こう?」

 バーを握りしめ腕と右足の力で立ちあがると、初めて夏目が顔をあげて「そのまま立ってろ」とバケツ(コンクリート入りのほうではなく、もう一つ用意されていたバケツだ。中には水に浸された包帯が入っている)と食用ラップを手に近寄ってきた。
 食用ラップ?

 マリの足下にバケツを置くと、突然夏目が着ていたシャツを脱ぎ始めた。
 そのうえ、

「スカート脱げ」
「はあっ?」

 どういうつもりだ。
 海に沈める前に味わっておこうとかそういう話か?

 一瞬そんなことを考えたが、基本的に半死体みたいな夏目がそんな生命力溢れる行為に乗じる姿が想像できない。
 (したくもないが)

「なんでっ……」

 言い返したときには夏目はすでにシャツを脱ぎ終わっていて、上半身裸の男が目の前にいたので続く言葉を失った。
 ぱくぱくと金魚みたいに口を開け閉めしていると、夏目の手がマリの腰に触れたのでびっくりして跳ねあがり、

「へんたいっ」
「いや俺はこのまましてもいいんだけど、制服汚れたら困るんじゃねぇの」

 困るとか困らないとかそういう問題ではない。
 片足しかないので逃げることもできず(車椅子で来るなと言ったのはこのためか)、そもそも人生初めての恐怖体験のせいで身体が固まって動けない。
 それを察したのか、夏目は仕方ないなとばかりに深いため息を一つつき、

「なんで俺が結ばないといけないんだ」
「は? え? どういうこと?」

 さっきまで着ていたシャツをマリの腰に回して結び始めた。

 男物のシャツはかなり大きく、腰回りをすっぽりと覆い隠した。
 そのまま夏目はファスナーに手をかけるとスカートを一気に引きおろす。

「ぎゃっ」
「うるせぇ」

 という淡白なやりとりのあとぱさりとスカートが床に落ちたが、さらし者になるはずだったパンツは夏目のシャツによって秘匿されたままだ。

「どういうこと?」

 もう一度問うと夏目は平然と、

「石膏で足の型を取るんだよ。スカートに石膏ついたら困るだろ?」

 つまりあれか。
 スカートを脱げと言ったのは石膏をつけて汚さないためで、夏目がシャツを脱いだのはスカートのかわりにパンツを覆えるものを用意した結果であって、それがなんの説明もないまま進められたからマリだけが勘違いしたと。

「まぎらわしいことすんなっ」
「何が?」

 夏目は一切理解していないらしく不機嫌そうにこちらを見あげてきたのでマリはもう呆れかえるしかない。
 マリが脳内で不戦敗を決定した頃、夏目はマリの両手を自分の肩に乗せ、

「はい、ジャンプ」
「よっ……」

 夏目の肩に全体重を乗せて飛びあがった瞬間、タイミングよくスカートが引っこ抜かれる。
 まるでテーブルクロス引きの曲芸だ。

「軽いなぁ。ちゃんと食べろよ」

 という夏目にだけは言われたくない台詞を聞きながら放り投げられるスカートを見送った。

 少し冷たい夏目の指先がシャツの中に差し込まれ、マリの短くなった足先に触れたので身体が跳ねた。
 途端に指先がその場で止まり、しかし離れることはなくて、接地面の体温が馴染んだところで再び近寄ってくる。
 手のひら全体が触れるまでにたっぷり一分くらいはかかった気がした。

(まさかあの夏目さんが気を使った?)

 顔を覗き込むと不遜なポーカーフェイスがたちまちに歪んで

「何?」

 と不機嫌そうな声。

 そんなわけなかった。
 そうだよなあと一人でうんうん頷いているとことさら不審な顔を向けられる。
 何よ、そっちが先に不審な行動を取ったくせに。

 実際に義足を使う状況を想定して、シリコン製のライナーを装着してから型を作り始めた。
 地肌に石膏がつかないように夏目が食用ラップを巻いていく。
 短くなった左足だけではなく、股間と腰を通って右足の太股にまでぐるぐると巻かれたので簀巻きにされる受刑者の気分だった。
 やはり海に沈められるのでは。

「というか、なんで足の型を取るの?」
「義足を作るために決まってんだろ」
「いや、それくらいはわかるけど」

 拒否はしていたものの、義足を作る工程はさすがに理解している。
 義足と短くなった足をつなぐ部分をソケットと呼ぶのだが、足の切断面に合わせて作るため一人一人石膏で型を取るのがセオリーだ。
 しかし、

「昨日のやつでもぴったりだったじゃん」

 昨日の義足があれば型など不要な気もするのだが。

「あれはお前を騙すためにそれっぽく見せただけ。使えば使うほど粗がでて傷の原因になる」
「うわ、詐欺」
「何とでも言え。そもそもお前は普通の使い方をしないんだから正確な型は必要不可欠」

 お前は、というか、夏目が、普通の使い方をさせてくれないんだけど。

 見おろせば腰回りに顔を(うず)めるような体勢で無心にラップを巻いている夏目の背中が見えた。
 間接的とはいえ女子高生の股間にさわっているのだから少しくらいは面白みのある反応を返すだろうと期待したのに、首筋からわずかに見えた顔はまさに〝無〟表情だった。

 ラップを巻き終えるとペンに持ち替え、ぐにぐにとまさぐって骨を見つけては印をつけていく。
 この上から石膏を塗れば型の内側にインクが移って、骨の位置が記録されるらしい。

「こんなもんか。あとは……」

 突然だった。
 夏目の腕が後方に回り込むと、左手を尻の割れ目に差し込んだのだ。

「うわ、へんたいっ」
「うるっさい。耳元で喚くな。坐骨の位置を確認してるだけだろーが」
「坐骨?」
「左右一個ずつある骨盤の一番下の骨。これ」

 説明のつもりでぐりぐりと押しながら

「肉薄いなあ。褥瘡(じよくそう)できるぞ」

 と何やら意味不明な単語を言った。
 いい意味でないことは明らかだったので「貧相で悪うございましたね」と吐き捨てる。
 第一、女子高生の尻をまさぐって無表情なのが気に食わない。

「そんな触んないでよ」
「坐骨が一番大事なんだぞ。体重支えて、義足の荷重バランスを取るのがこの坐骨で」

 と話す間もずっと坐骨をさわっている。

(義足馬鹿め)

 前から思っていたが、夏目の場合は人間として優先されるべきものの前にマッドサイエンティストとしての人格が居座っている気がする。
 ラムネの成分とか、義足のこととか、女子高生の股間をさわっても成人男子にあるまじき反応を示すところとか。

 一般人としては二の次以前に考えることすらしないものが、夏目の中では最優先事項になる。
 こういうときだけ饒舌だし。

 科学者(この場合は職人?)ってみんなこうなのか。
 偏見かもしれないが典型的なザ・理系という感じがする。

 と、シャツの中に頭を突っ込んで位置を目視し始めたので今度こそ本当に顔が赤くなった。
 今日は無地のパンツなのにっ。
 いや別に夏目相手に着飾る必要なんてないけれど、見られるからには女子高生としての意地があるというかっ。

「もう、いい加減に」
「やっほー慧、マリちゃん。差し入れ持ってきた――」

 最悪のタイミングで玄関の戸が開き、人なつっこい笑みを浮かべた槙島が顔をだした。
 ぎくしゃくと戸口のほうを向くマリと、まるで暖簾をくぐるようにシャツの中から無表情をだした夏目。
 その手は依然としてシャツの中に突っ込まれており、端から見れば坐骨をさわっているとはわからないわけで。
 槙島は掲げていたビニール袋をゆっくりと降ろしながら、

「――んだけど、俺すっごい邪魔しちゃったカンジ?」
「誤解!」

 全力で否定したのはマリだけで、夏目は槙島を一瞥しただけでシャツの中へと戻っていこうとしたのでのを思いっきり突き飛ばしてやった。