ふゆがきた
この五文字を君ならどう表現するのだろうか。考えながら白い息を吐く。
木の葉は落ちきって哀愁漂う木々たちが僕を見ている。


僕はいわゆる人間関係リセット症候群だ。
自分を出すのが怖くていつだって殻に籠ったまま、理想の着ぐるみを着て偽りながら生きている。
人間は多面的な生き物なのだから色んなあなたがいて当然なのよと言う人がいる。
なんだか的外れなことを言う人もいるものだなと僕は思う。
そういうことではないのだ。
そう言えたらどんなに楽だろうか。
この文字列を発するための口の動きを僕はまだ知らない。

唐突に自分を取り巻く世界を全て壊したくなるんだ。
スマートフォンの中に詰め込まれたとっても滑稽で美しい、小さくて広い世界を弱い僕の少し震えた指で壊す。
あーあ、終わった。
こんなの1種の自慰行為のようなものだ。
積み重ねてきた苦楽を全部ぶち壊して少しの快感に浸ってどうしようもない自己嫌悪に襲われて笑ってしまう。
何も変わらない、何も成長していない自分に腹が立って今日が終わる。


憎たらしい太陽め、そんなことを思いながらまた同じ道を歩いて、同じような顔した人間たちに貼り付けた笑顔を向ける。
でも今日は違う。今日でバイトをやめてやるんだ。僕に飲食店のバイトなんてやっぱり向いてなかったんだ。今までのバイトも長くは続かなかったことを思い出して足元へと目線が落ちる。ネガティブな思考とは対照的に足取りは舞踏会で踊る貴族のように軽やかだった。
申し訳なさそうな声と悲しそうな表情で
辞めさせてください、と言うだけで全部が終わる。良い社会人というのは仕事を辞める時に菓子折りを持って行くらしいとネットに書いてあったので家の近くの和菓子屋さんで購入した饅頭を持って行く。
やっと見慣れてきたドアを開いて
「おはようございます」と喉の奥から声絞り出す。よし、いつも通りだ。
休憩の時に菓子折りを持って切り出せばきっと許してもらえるだろう。シフトの埋め合わせを周りの人に押し付けてしまうことになるから最後の最後に迷惑なやつだったと嫌われてしまうかもしれないけれど、そんなことはどうでもいいか。
そんなことを考えていたら休憩の時間になった。
少し錆びたパイプ椅子に腰掛けて店長が来るのを待っているとドアが開いて、反射的に僕の腰が浮く。
「あっあの!」
目が合った相手は店長ではなくて、僕の苦手な先輩だった。
「どうしたの?血相変えて」
「いやなんでもないです。」持っていた菓子折りを後ろに隠す。
「今何隠したの見せて」
最悪だ。逃げられない。
「ただの菓子折りですけど...」
「え!嘘でしょ?!私に?!優しいね君は~!」
「あーそうなんですよ実は皆さんになにか差し入れしたくて。」諦めて事実をねじ曲げた。こんなにも弱いのか僕は。
無駄に可愛らしい猫なで声で僕の頭を撫でる。自意識過剰女め、お前のせいで僕の予定が狂ったじゃないか。
全ての気力が抜けてしまった。
先輩とシフトが被っていない日はもうあと2週間以上も先だ。
僕の人生はどうしてこうも上手くいかないのだろう。
休憩に入った人達が次々と饅頭に手を伸ばしてにこにこと感謝してくるのを見て僕も笑顔を作って、また精神が削られる。
先輩はというと心から他の人間の笑顔を見て喜んでいるようだった。感性、人間力の差だろうか。そういうのを真正面から見せつけてくる先輩のことがやっぱり大嫌いだ。
長い一日が終わってさっさと帰ろうと荷物をまとめていると先輩から声をかけられた。
「ねえ春田くん、今日この後予定ある?」
「特にないですけど...」早く帰りたいですとは言えずに尻すぼみになってしまう。
「じゃあちょっと1杯付き合ってよ」
ありきたりな言葉を探す。
「珍しいですね」
驚いた顔は瞬発的に出来ていただろうか。
めんどくさいという気持ちは現れていなかっただろうか。苦手だという気持ちはバレていないだろうか。頭をぐるぐるする感情を断ち切るように「やったー!じゃあいこうか!」と明るい声が飛び込んでくる。
本当に扱いにくい。そう思いながら彼女の歩く少し後ろから追いかける。
静寂が続いて澄んだ空気に先輩の声が響いた。
「君今日でここ辞めようとしてたでしょ」
「え」
次に僕の間の抜けた声が響いた。
「図星か。」
僕がなにか言い訳をする前に言いきられてしまった。
まあいいか、この際言ってやろう。
「先輩、リセット症候群って知ってますか。」できるだけ明るく振舞おうと声を張りながら先輩の方に顔を向けてみた。
「知っているよ。」そういう先輩の顔が今までに見たことがないくらい真剣でいつもより声が少し低かったから、僕の言葉の続きの促しているようで少したじろいだと同時に作った明るさが空回りしていることを見透かされて恥ずかしくなった。
「僕はそれなんです。突然世界を壊して全部を捨てて逃げ出したくなる。全部終わらせて殻にずっと閉じこもっていたくなる。作った自分を守るには、自分自身が弱すぎて耐えられなくなる。だから僕のことを何も知らないところへ転々とするんです。」先輩の目を見ながら話していたのに気づけば視線は自分の足元に落ちていて、足取りは重かった。
そして早口で捲し立てるように話してしまったことをすぐに後悔した。少しでも間が開いて笑われたり攻撃されたりするのが嫌だった。
虚勢を張っていることはきっとバレバレだろうなと思いながら気まずい空気が流れる。
「君は妖精さんみたいだね。」先輩は言った。聞き間違えたと思った。何を言っているのか分からなくて目線が先輩の方へ向く。
先輩は優しい笑顔で笑っていた。
「泣いているよ。話してくれてありがとう。」
先輩から差し出されたハンカチが手の上に乗って初めて泣いていることに気がついた。
僕は人に助けを求めたかったのかもしれない。こんなありきたりなことがこの世界にはきっといくらでもどこにでもあって、でも僕はそれに救われた。
道の脇でひとしきり泣いて僕は聞いた。
「妖精みたいと言うのはどういうことですか」
少し間が空いて先輩は言った。
「そのままの意味だよ。キラキラとしていてとても素敵。でも内側は得体が知れなくて、踏み込むと消えてしまいそうで、私たちの前に現れたと思ったらいつの間にか消えてしまう気まぐれさんなのよ。猫でもいいかなと思ったけれど猫ほど君は人と密接な関係を持っていないでしょう。」
先輩はケラケラと笑って言う。
「タイムマシーンに乗りたいなあ」と
本当に突飛なことを言うなと思いながら
一つ一つ僕が言葉を拾っていく。
「それはどういう意味ですか。」
「君は本当に私の言葉を知りたがるね。
解釈なんて人それぞれだよ、ただ私が今言ったことは...そうだな。
例えてみれば君はセーブポイントを作っているにもかかわらずそのデータを全消しするのが好きないわゆる変わり者だ。
君を馬鹿にしている訳では無いからそんな顔はしないでと言いたいところだけど、そっちの方が人間らしくていいね。君の感情を初めて感じられたよ。
話を続けようか。
だけどそこには確かに君の経験してきたこと、あるいはものや出会った人がいるはずなんだ。
リセットされているように見えてそれは見えている背景が変わった、くらいの小さなアップデートだよ。
君にとっては大きいかもしれないけれどね。だから私は過去に戻って君のセーブポイントを1つ1つ回ってみたいと思ったんだ。
今君が私と出会ってここにいるまでの過程を単純に知ってみたいと思った。
好奇心だ。ただそれだけだよ。たくさんのセーブポイントを持つことはたくさんの世界を持っていることと同義だと私は考えている。
そのセーブポイントにはもう戻れないと思っているから君はそれをリセットだと呼んでいる。
しかしながらそれは本当に戻ることのできないリセットされたものなのだろうか?
私はそうは思わない。
切っても切れない縁というのを私は信じているから、何かの縁で巡り会うものが自分の人生において本当に必要なものなのだと思っている。
そうでないものはきっと必要不可欠ではなかったんだよ。
そしてそれらを失った後に惜しかったと執着心が湧くならば自分から手繰り寄せることもある程度は可能だ。
リセットしたものの欠片を集めていけばいい。その時、それらは君を受け入れてくれるかもしれないし、そうではないかもしれない。
けれど当たってみる価値はあると思う。
私はこの世界に居るし、帰ってきたくなったら帰っておいでとは言っておくね。
帰りたくない世界ができたらそれが君の望む自分と世界のあり方なんじゃないかな、と先輩らしく偉そうなことを言ってみるよ。
君からしたら何も知らないのに何を言っているんだこいつはと思うかもしれないね。
けれど私は君を心から素敵だと思っている。それだけ持って行ってくれるなら、君が今ここでどこか違う世界に飛び込むと言おうが構わない。
天国を知るのは私が死んでからで充分だよ。」その時の先輩の笑顔が今までで1番可愛らしかった。




先輩と話したあの日はもう何年も前の話だ。あの後どうやって帰ったか分からない。ただ自分の中の今まで感じたことの無い不思議な感情が怖くて、無我夢中に走ったのを覚えている。間違いなくあの日あの瞬間に僕はまたリセットした。先輩も視界に入らなかった。ただ言葉だけは確かに残ってしまった。
先輩はよく分からなくて掴みどころのない変な人で初めて僕の心に触れてきた大嫌いでたまらなく愛おしい人だった。
僕たちの集合場所は天国で日時は歳を重ねてからだ。その時にはこの世界での土産話を眠くなるほど沢山聞かせようと今はただ少し胸が踊っている。