春が追い付く二拍手前。

 私は、あの写真立をしっかりと体に括り付けると、外に出た。
 外は、雪が降り始めていた。気温は低いが、私にはデータとして以外、何も感じられない。だから、何も問題はなかった。

 私は、歩いて歩いて、歩き続けた。彼女との思い出の、あの場所を目指して、ただただ、歩き続けた。


「……」
 石段をやっとのことで登りきる。
 彼女が私を肩に乗せて参拝してくれるようになってからは、こんな苦労を感じたことはなかった。そのことが、余計寂しさを感じさせて――だけど、私はそんな気持ちを振り払うかのように、キッと前を向いた。


 そこには、その場所が、相も変わらず、ただ静かにあった。


「当然ですが、夜中に参拝者なんて、いませんね。私一人だけの、貸し切りで嬉しい限りです」

 柾の実家の方にも、人の気配は全く感じられない。きっと、皆、柾の元へと駆け付けている頃だろう。
 私は、写真立を背負いなおすと、三ノ鳥居の前でお辞儀をした。そして、厳かな心地で、拝殿へとまっすぐ進んでいく。

 しんしんと、雪が降り積もっていく中、私は、賽銭箱によじ登った。そして、用意していた五円玉を放り込む。からんころんと、無機質な音が、静かな空間に響いた。
 私は、賽銭箱から飛び降りると、改めて姿勢を正し、二回お辞儀をした。
 そして、手をぱんぱんと、合わせる。ふかふかな手の拍子は、くぐもった音がした。

「神様いつもお恵みをいただき、誠にありがとうございます。私は、〇〇区、〇〇町、〇番地に住む、三枝フユと申します。この度は、お願い事があって参りました。
……もしも、もしも、本当にそこに居られるなら、このふつつかな私の願い事を叶えていただけないでしょうか?」

 私は、かつて、ハル様から習った、お願い事の仕方を、
 私は、かつて、ハル様と共に参った、幸せな心地と共に、実行した。

「御柳柾の命を救ってはいただけないでしょうか?
あの男は、ただの器械である私を、
友人とし、家族とし、
大切に慈しみ、いつも傍で支えてくれ、守ってくださいました。
私にとって、そのような存在は、もうこの世に、あの男しか残されておりません。
そんな存在が、この世から失われることが、私にはとても耐えがたく、とても悲しく、
そして、あの男を大切に思う者達の、これからの悲しみを思うと、私はいてもたってもいられません。
私は、あの男に、死んでほしくありません。……あの男の命を助けてください」


 私は、心の中だけで願っていた言葉を、いつしか口に出して言っていた。
 そして、言った。暗い決意を込めて。だけど、どこか誇らしく思いながら、言った。


「その代わりに私の大切な物を差し上げます。私の命です」


 きっと、本当に神様がいるのなら、今「は?」と思ったはずである。
 そんないたずらが成功したような気がして、私は少しだけ可笑しな心地がして。
 けれど、これも最後だなあと思うと、切なくて。

「私は、器械です。当然、誰もが思うように、私には命がありません。持っている物と言えば、血の通っていない鉄の体ぐらいです。だけど、」

 私は前を見た。

「……彼らは、いつも私を一人の人間として、一つの命として、ここまで大切に慈しみ、守ってきてくださいました。
こんな張りぼての私なんかに、生きてと言ってくれ。
こんな空っぽの私なんかに、幸せになれと言ってくれ。
私は彼らに、空っぽの器に、命を注いでもらったんです」

 「だから」と私は続ける。

「私は、今日。彼らの愛を、もらった命を、仇にして返します。彼らが私に願った事――私が幸せに、自分を大切に、ずっと生きていてほしいという願いに、私は反抗します。これから先にあったはずの、幸せも何もかも捨てます。
彼らの願いをすべて裏切って、私は彼ら全員を悲しませてやります。要するに、私は、」

 私は、ほほ笑みながら言った。


「私は、私の存在のすべてを、あなたに差し上げます」


 私が話し終えると、あたりは再び、シンと静まり返った。
 一礼をする。しかし、何も起こらない。
 ただただ、静かに雪が降るだけである。


「……」
 賭け、みたいなものだった。
 駄目で、元々だった。

 暗い心地で私は思う。分かっていたはずだった。
 神様なんているはずもないから――。




――からん、ころん、かっしゃん。

「……!」
 何かが連続して落ちていく音がする。
 振り返ると、それは絵馬だった。
 絵馬掛所がうすぼんやり光っている。そこから、絵馬が落ちてきていた。

 私は、訳が分からないまま、そこへ行った。
 そして、落ちた絵馬を見て、ハッとしてそれを拾った。


『神様、一人ぼっちは寂しいです。私と一緒にいても、死なない友達がほしいです。 三枝 春』

『神様、死なない友達ができました。本当にありがとうございました。 三枝 春』


 次々と落ちていく絵馬を拾い上げ、読んでいく。読み終わるたびに、それは儚く空気へと溶けて、消えていく。


『神様、フユと喧嘩しました。謝れますように。 三枝 春』

『神様、フユと仲直りできました。本当にありがとうございました。 三枝 春』

『神様、最近フユの調子が悪いです。きちんと直してあげられますように。 三枝 春』

『神様、フユの修理が無事終わりました。ありがとうございました。 三枝 春』


『神様、柾が結婚してしまいました。悲しいけれど、フユがいます。
これからもずっと一緒にいられますように。 三枝 春』


『神様、フユが鈍感で私の気持ちに気づいてくれません。
私だって、心の機微ぐらいあります。フユだけには、見られてしまっているはずなのに。
フユがもっと、人間と、乙女の心を分かってくれるようになりますように。 三枝 春』


『神様、フユに思ってもないことを言って、傷つけてしまいました。
フユといつかきっと、仲直りできますよう。
フユといつかきっと、一緒に、また暮らせますように。 篠原 春』


 数百、いや、数千の願いが、落ちて、消えていく。
 そして、最後の一枚となった絵馬が落ちた。私はそれを拾い――



『たとえ私がいつかいなくなっても、
たとえ私がいつか守ってあげられなくなっても、
フユがずっと毎日、毎日。
ただ生きて、ただ幸せでありますよう、
神様、どうか後のことを、頼みます。 三枝(・・) 春』



「……成就すれば、分かっていたことですが、これほどまでとは。ひどいですね……神様。これが代価ですか。私に、願った事の、取り返しのつかなさを実感させるための……」

 私は、空を見上げた。いつの間にか、目から涙が流れていた。それでも、静かに降ってくる雪の向こうを見つめて、ただただ語り掛ける。

「彼女のこんなにまでの切なる思いを、願いを、裏切ろうとしていることを私に知らせて……さすがですよ、神様。だけど、」

 私は、泣きながらも、微笑んだ。

「あいつの、柾の命に、それほどまでの価値があると分かって、私はとても光栄です」

 見えぬ相手を恨む心地もしない。
 ただただ、感謝の意がそこにはあった。

 私は、最後の一枚の絵馬を空にかざした。絵馬は、きらめく粒子となって空気に霧散していく。
 私は、すっとその場に直った。もう覚悟は決まっている。
 頭を下げ、神に感謝をささげた。
 すると、後ろで気配がした。
 誰もいない。雪が静かに舞うだけ。

 だけど分かった。

 三ノ鳥居の向こうに、誰かがいる。
 必死になって、叫んでいる。
 なんとなく、誰か分かって、私は、言った。

 彼に、最後の言葉を。

「ありがとうございました。
こんな私を愛してくださって。こんな私を慈しんでくださって。
こんな私と親友でいてくださって。
こんな私に、生きろ、幸せになれと言ってくださって。
だけど、私は、あなたの願いを裏切ります。ごめんなさい」

 私は、頭を下げた。そして、顔を上げると、ほほ笑んで続けた。

「魂のない私は、あなた方人間とは、生きている間のただの一度しか、共にいることができません。死に別れてしまえば、私は、もうその人には二度と会えないんです。
あなたが死んでしまったら、私はもうあなたに会えません。だけど、私が死んでしまっても、その後は無で、あなたには会えません。

どうせ、同じで、どちらを選んでも、二度とあなたに会えないのならば、私は自分の死を迷わず選びます。

あなたが、この世に生きて、これからの未来を幸せに、皆と共に生きていく。
あなたが、私にそう願ったように、私はあなたにもそう願います。

あなたは、それほどまでに大切な、私の親友でした」

 返事は当然聞こえない。だけど何を言っているのか、分かる。だから、私は、ちょっとだけ泣いて言った。

「できることならば。せめて。
あなた方が人生を満足し、終える
悲しくも、幸せな、その日まで。

ずっと一緒に、ずっと傍で見守って。
そして、ずっとずっと、あなたたちとの思い出を大切に胸に、
終わりのない、私の命の中、心の中で生き続けるあなたたちと共に、
まだ知らぬ、人の元へと、まだ知らぬ、広い世界へと、
歩いて行きたかった。

だけど、私は、そんなことよりも
あなたのほうが大切でした」

 頭の上で、嵐の気配もないのに、ゴロゴロと空が鳴り始めた。
 この後のことがなんとなく分かって、私は、拝殿のほうを向き直った。

「神様、ありがとうございました。後、最後に一つだけ。お願い事ではなく、あなた様に差し上げたいものがあるんです」

 私は、にこ、と笑うと、言った。

「私の記憶を――思い出を、いただいてもらえないでしょうか? これまで私が大切にしてきた思い出の、全部。

私が笑ったこと、
私が悲しんだこと、
私が怒ったこと、
私が嬉しかったこと、
私が必死になったこと、
私が誰かを愛したこと――

そのすべてを、誰か一人だけでも、この世界で知っている方がいると思えば、私は、私は――」

 私は、ほほ笑むと言った。

「何の悔いもなく、無に帰ることができます」

 閃光が空を走った。雪が本降りになる。
 いや、降ってきたものは雪ではなかった。
 降ってきたのは、ほんのり桃色に光る花――ライラックの花だった。
 花が、花が、あたりを埋め尽くそうと、降ってくる。
 香りなんて、データでしか感じられない。

 だけど、なぜか。
 その香りが辺りを、それはそれは、芳醇に漂っていることが分かった。

 桃色のライラックの花言葉は、確か、記憶――。

「聞き届けて、いただけたんですね……」

 花の降る空を見上げながら、私はつぶやく。
 もうこれで思い残すことは、何もない。


 後ろの気配が駆けだした。
 先程まで足止めをされていたその気配は、私をめがけてまっすぐに走ってくる。

 きっと私のために――。
 きっと私を抱きしめるために――。

 彼が手を伸ばす。
 私の名を叫ぶ。
 もう少しで手が届く。

 だけど、私は、振り返らずに、ほほ笑んで言った。

「うるさいです」
――そういう友達想いのところが、

「いいかげん、体に、家族の元に、戻ってください。柾」
――私は、いつも大好きでした。


 拝殿の前に、閃光と爆音が、落ちた。
「……」

 気が付くと、そこはどこか花畑であった。
 とても美しく、まるで絵のようで。

 頭から背を、ずっと撫でてくれている人がいる。
 自分は、誰かの膝の上で、誰かに撫でられていたようだった。
 顔を上げると、女性が、私を見つめていた。なぜか、悲しげな笑顔で、私を見つめていた。

「私の気が付くまで、ずっと、こうしていてくれたんですか?」
「ああ……」

 女性は、ほほ笑むと頷いた。
 その笑顔は、確かによく見知ったもののはずなのに、どうしてか思い出せない。
 それが、どうしてか切なくて。
 それが、どうしてか悲しくて。

「あなたは、誰ですか? どこかで、会ったはずなのに……」

 気づけば、私は目からボロボロと涙を流し始めていた。

「ずっと会いたかったはずなのに。ずっとずっと覚えていたかったはずなのに……何も思い出せない、何も分からない……。後悔はないはずなのに。なんでだろう、涙が止まらない……」

 それでも女性は、「いいんだよ」と私を抱きしめた。

「お前が覚えてなくても、私が覚えてる。私が、いつまでも、ずっとずっと覚えているから。
……お前は、ずっと私の傍にいてくれた。だから、今度は私が、ずっとずっとお前の傍にいてあげるから。……だから、泣くな」

 女性は、ただただ私を抱きしめた。その肩が震えているのに気が付いて、彼女もまた、泣いているのが分かった。

「あなただって泣いているじゃありませんか」

 なぜか、そう悪態をつきたくなって言った。すると、女性は、ハッとした顔をして、涙をくっつけたまま――だけど、とてもうれしそうな顔をして、

「……お前は、お前でなくなっても、お前だな」
 と、笑った。

 その笑顔は、とても美しくて――、
 その笑顔は、なぜか、空っぽの記憶の中から、何か――ある言葉だけを、思い出させた。

「……月が、綺麗ですね」
 私は、その言葉を口に出した。快晴の青空に、月なんてどこにも出ていないのに、なぜかそう言わなければならない気がした。

 すると、女性はひどく驚いた顔をして――

 とても、幸せそうに、笑った。
「……」
 ふと目を覚ますと、朝日の差し込む静かな病室であった。


「柾さん…ッ!」
「お父さん!」

 その声に目をやると、妻が目を真っ赤にして自分の手を握ってくれていた。
 そして、娘がわんわん泣きながら、体に抱き着いてくる。

「俺は……?」

 何が何だか、よく分からなくて、今までのことを思い出す。
 そして、ハッとして――

「あいつッ…あいつはッ、どこだっ!」

 がばりと起き上がると、眩暈がした。妻が慌てて支えてくれるのに、心配をかけて悪いと思いつつも、立ち上がった。だけど、激痛が走って、それ以上その場から歩けなかった。

「柾さんっ、無理しないで! あなた、一ヶ月も寝たきりだったのよ!」
「うるさいッ、あいつはッ、フユはどこだ?! あいつ……」


「……馬鹿なことをしやがった!」


 動かない体を、それでも無理やり動かして。
 けれど、やっぱり、それ以上、前には進めなくて。
 そもそも、行ったところで、何もかもが手遅れなのは分かっていて。

「あいつッ……、ほんっとに、大馬鹿だ……」
 柾は片手を顔にやった。

「柾さん……?」

 顔に当てた指の間から、ぼろぼろとこぼれる涙。なぜなのか理解できない妻は、それでも、そっと両手で、夫の肩を抱いて寄り添った。

「夢を、見たんだ」
「……」
「あいつ、俺の家の神社で、自分の命を代価に、俺を助けることを、願いやがった……ッ」
「……」

 妻は驚いたように、口に手を当てた。

「今すぐ取り消せ、やめろって叫んでも、あいつ、聞いてくれなかった……。俺だって、お前の事が大切だ、死んでほしくないって言ったって。頼むからこれからを生きてくれ、幸せになってくれって言ったって。何も聞いてくれなかった……。
殴ってでも止めたかったよ……。けど、三ノ鳥居から、中へ入れなかった。そこに壁があるかのように、前に進めなかった……。だから、やっと前に進めるようになって、神様に叫んだのに。こいつは大切な親友なんだ、やめろって。俺は死んでもいいから、こいつの言う事を聞くな、取り消せって。なのに……。
雷があいつを撃って――吹っ飛ばされて俺、気が付いたらここに……」

「……夕べ、落雷の音が、一度だけ聞こえたのよ。それからだったわ……あなたの容体が持ち直したのは……」

 妻はそれ以上何も言えず、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「ほんっとに、ほんっとに、」
 俺は、ぐっとこぶしを握ると、床をごすっと、殴った。

「あいつは、最初から最後まで、立派な人間だった……ッ」


 窓から病室に、爽やかな雪の朝の、空気が流れ込む。
 冷たいはずのそれには、かすかに春の気配が潜んでいた。
 春になった。

 まだまだ、空気は寒い。だけど、境内の桜の芽は、敏感に春の気配を受け取っているのか、日枚に大きくなってきている。


「……柊、お前、また今年もか……」

 どっさりと中身の入った紙袋を、両手に持って、家から出てきた中学生の息子。
 忙しくて忘れていたが、今日はホワイトデー。
 石段を箒で掃いていた俺は、それを思い出すと同時に、ため息をついた。

「お前な、全部のチョコに、律儀にお返しなんてしなくてもいいんだぞ……。しかも手作りなんて。そんなことしてたら、女の子が変な期待をしちゃって、可哀そうだぞ……」

 すると、柊は、「だってえ……」と言った。

「俺さ、貸し借りって言うの嫌いなんだよ……。手作りチョコもらったら、ちゃんと同等のものをあげなきゃ、なんかせっかく一生懸命作ってくれたのに、申し訳ないじゃん?
例え、見返りを求めずにくれたんだとしても、俺はちゃんと、その心に見合ったもんを返したいんだよ……」

「お前、イケメンだな……」

 半分誉め言葉で、半分は呆れである。
 両親の良い所だけを受け継いで、毎日学校で黄色い声を浴びているらしい息子。
 だけど、割り切るところは、割り切らなければ。そのような態度が、逆に女の子に失礼だとは思わないのだろうか。

「じゃあ、早く行かないと、夕方までに配り切れないから。行ってきます」
「はいはい」

 俺は息子の背を見送り、再び石段を掃き始めた。
 すると、すっと、俺に手を出す者があった。

「お父さん、私、変わろうか?」
「いいよ、もう少しで終わりだし。お前も後もう少ししたら、新学期だろ。手伝いなんてもういいから、ゆっくりしてろ」

 俺は、巫女の服を着ている桜の肩を叩く。大学の春休みに、都会から帰ってきている桜は、お守りを授与したり、あちこち剪定や掃除をしたりと、かいがいしく働いてくれた。

「いいから、私がするって」
「はいはい」

 娘はこう言い出したら、聞かない頑固者である。俺は、苦笑いしながら、箒を渡した。
 すると、意外にも体にきていたらしく、腰が痛い。
 ふう、やれやれと、伸びをする。

「まったく、柊の奴、春休みだって言うのに、うちの手伝いなんて全くせずに、今日もお菓子作りよ。パティシエになるって、聞かないのよ。宮司の息子のくせに」
「まあまあ、良いじゃないか。夢は自由だ。お前だって、俺の跡なんて継がずに、好きなことをしてもいいんだぞ」

 自身の大学の、はるか後輩となった自分の娘。
 別に神社なんて継がなくても、女の子のなりたい仕事なんて、いくらでも他にあるだろうに、娘はあえてこの仕事を目指した。

「馬鹿言わないで。お父さんを助けたフユちゃんの、大切な場所だもの。私が守らなくて、誰が守るのよ?」

 桜は、空を見て、言った。目の前の娘は、かつてフユを失い、毎日泣いてばかりいた。
 そんな娘の為、そして自身と家族皆の為、退院してから、毎日、毎日。消えてしまったフユを何とか蘇らせる方法はないかと、探しつづけた。
 代価の決まり事からの抜け道はないかと、フユの記憶のバックアップデータや、設計図をコンピューターから引っ張り出そうとした。だが、ちゃんと保存してあったはずのそれは、すべて壊れていて――何度も開こうとするが開かず――そして、目の前で無情にも、消えた。

 やはり、代価は代価。決まり事は決まり事――。

 当時の俺と家族皆、そのことが身に染みてわかり、絶望していた。

 けれど、今やその娘も、自身と並ぶほどの背の高さとなり――その凛々しい顔は、あの悲しい日々からの立ち直りと、成長を感じさせた。


「あ、」
 その時、ふと桜が、くすっと笑った。

「また来てるわよ。あの子。毎日、何を熱心に祈っているのかしらねえ」

 娘がほほ笑む先には、小学校一、二年生ぐらいだろう、女の子がいた。
 拝殿で、お辞儀をし、手を合わせている。

「本当だ、今日も来たんだな。本当、毎日毎日、何を願っているんだろうな」

 その女の子は、二年程前から、毎日ずっと参拝に来ていた。例え、大雨が降っていても、風が吹いていても、必ず、何かを熱心に祈りに来ていた。

「親御さんが御病気とか、そんな事情があるんだろうな……可哀そうに」

 俺は、そう推測をたてていた。それぐらいしか、あんなに幼い子が、毎日神社に拝みに来る理由がないはずだからである。

「世の中って、不条理だよな……。何か代償がないかぎりは、何も叶わないもんな……」

 俺は、女の子を見た後、空を見て、つぶやいた。

「ふう、お掃除完了。おっ、だいぶ、つぼみがふくらんできたな」


 俺はその日も、日課の石段掃除をしていた。他の神職に任せてもいいのだが、こうやって毎日、四季の移ろいを感じるのが、俺は好きだった。

 多分このつぼみの膨らみ具合だと、あと一週間もすれば、花開く。
 そうしたら、花見ついでにやってくる参拝客が増える。

「また今年も、忙しくなるな~。桜がいてくれたら、助かるんだけど」

 その頃には、娘は、向こうに帰ってしまっているだろう。自分と他の神職たちとで、何とかしなければ。

「……ん?」

 ふと視線に気づき、見ると、石段の下に男の子がいた。小学一年生ぐらいだろうか。
 絵本らしき本を抱きしめ――なぜか、俺の顔を、不思議そうに、見上げている。

「……」

 親は傍にいなさそうだから、近所の子だろうか。だけど、それにしては、見たことのない顔だった。

「……迷子?」

 こんな田舎町で、そんなことはないだろう。だけど、俺の顔を穴が開くほどに見つめてくるので、気にはなる。俺は、石段を下りると、男の子に話しかけた。

「君、どうしたの? おじさんの顔に、何かついている?」

 すると、男の子は、ぽかんとしていたが、ハッとしてぶんぶんと首を振った。

「いや、違うの。なんだか、おじさん、どっかで見たことあるなあって」
「……」

 以前、親御さんと参拝にでも来たことがあるのだろうか。それなら、俺の顔に見覚えがあってもおかしくはない。
 ふと、なんとはなしに男の子の胸元の本を見ると、『人魚姫』と題名が書かれている。男の子にしては、珍しいと思った。

「……おじさん、僕と前にどこかで会ったことある……?」

 ふと、男の子がそう聞いてきた。だから、俺は、首を横に振った。

「ごめん、ないよ。でも、おじさん、ここの神社で宮司さんをやっているんだ。だから、もし君がここへ来たことがあったら、おじさんは君のことを覚えていなくても、君はおじさんの顔を見たこと、あったかもねえ」

 すると、男の子は、ぶんぶんと首を横に振った。

「僕、昨日、この町へ引っ越してきたばかりなんだ。だから、ここ、来たことないの」
「……」

 誰か、よく似た人物に会ったことがあるのだろう。俺は「そっかそっか」と言う。

「じゃあ、引っ越してきたばかりの君は、ここの神様にあいさつしないとね」
「あいさつ?」
「うん、あいさつ。この土地……この町を守る神様に、これからこの町で暮らします。初めまして、よろしくお願いしますって、あいさつをするんだ。君も、初めてあった人には、『初めまして』って言うだろう?」
「ふうん、そうなんだ。分かった」

 男の子は、素直に頷いて笑った。
 俺は思う。
 今は何かと『くそおやじ』と言ってくる息子にも、こんなかわいい時期があったなあと。
 何だか、ちょっぴり寂しくて、けれど、自立を感じさせる息子でもあった。

「じゃあ、一緒にいこうか」

 俺が手を差し出すと、男の子は、絵本を大切そうに手提げにしまい、「うん」と小さな手を差し出してきた。
 そして、なぜか男の子は、俺の小指だけをきゅっと握った。

「……」

 柔らかな肌のその手は、なぜか、どこかで触ったことがある気がして、懐かしい気がした。
「ほら、ここが拝殿って言うんだ。この建物の向こうにもう一つ建物があって、そこに神様が住んでいるんだ」


 賽銭箱の前で、男の子に説明する。男の子は、奥を見て、不思議そうに言った。

「声もしないし、誰もいなさそうだよ? 本当にいるの?」
「いるよ、見えないけれど、本当に」

 ふと、あの夜のことを思い出して。
 何だか切ない思いがこみ上がってくるのを無視して、俺は笑顔で言った。

「おじさん、ここでお仕事している人だよね? 神様に会ったことがあるの?」
「う~ん、会ったことはないかなあ……」

 その存在を感じたことはあるが、とは言えなかった。
 そもそも、あんなこと、誰かに言っても信じてもらえるようなことではないし、信じられて真似されても困る。
 この神社で、願いの代価で犠牲になるのは、あいつで終わりにしなければならない。
 だから、あの夜のことは、俺たち家族以外には、絶対に知られてはいけない。

「神様は見えないからね。向こうからは見えていても、こっちからは見えないから、会えないんだ。だけど、ちゃんと聞いてくれているから、あいさつしようね」
「うん、わかった。神様~こんにちは~初めまして~」

 男の子は、ヤッホーと叫ぶように、口の横に手を当てて、言った。

「……」

 うっかり、俺はずっこけそうになった。けれど、改めて思い直す。
 俺は、普段から、この子と同い年ぐらいの、あの女の子ばかり見ているから、
 この年代なら、きちんと参拝の作法を身に着けているはずだと、思い込んでいた。
 けど、実際、あの女の子が特別なだけであって、こういう言動をする方が普通なのだろう。

「君、神様へのあいさつの仕方はね、人間と同じじゃ駄目なんだ」
「そうなの?」

 男の子は、きょとんとして俺を見た。

「うん、そうなんだ。あのね、まず、お賽銭といって、ここへお金をを入れるんだ。何円でもいいけれど、五円玉がよく『ご縁がありますように』って、入れられるね。それから、二回お辞儀をして――」

 俺は、参拝の作法を教える。
 教え終わったとき、ふと、男の子の目が、ぼんやりと拝殿の奥を――どこか遠くを見つめているかのように見ているのに――気づいた。

「……あれ、なんでだろ……僕、それ、知ってる……」

 すると、次の瞬間、男の子の気配が変わった。
 目の前の、幼いはずの男の子が、背筋を伸ばし、すっと前へと進み出て、二度お辞儀をし、二度手を叩いた。

「神様いつもお恵みをいただき、誠にありがとうございます。私は、〇〇区、〇〇町、〇番地に住む、三枝フユと申します。この度は、お願い事があって参りました」
「……ッ!!?」

 俺は、驚愕に目を見開いた。
 男の子が、急にすらすらと話し始めたことは当然だったが、言わずもがな、その内容である。
 そんな俺の前で、男の子は、何かに憑りつかれたかのような目で、続ける。

「……もしも、もしも、本当にそこに居られるなら、――御柳柾の命を救ってはいただけないでしょうか? 私は、あの男に、死んでほしくありません。
……あの男の命を……「……それ以上ッ、言うなあッ!!!」

 俺は、あいつの、肩をつかんだ。
 あの日、あと少しで掴めなかった、その肩を。
 あの日、届かなかった声が、今度こそ、ちゃんと届いて――。


 しかし、男の子はきょとんとして、こちらを振り返った。


「おじさん、どうかしたの?」
「……えっ…?」

 不思議そうに、首をかしげる男の子を前に、俺は思わず目をこすった。
 男の子は、先程、財布を手提げから取り出した時の姿勢のまま、固まっている。
 俺は、夢でも見ていたのだろうか。
 確かに、こんなに何もかも知らなさそうな男の子が、急にすらすらとあんな言葉を言うはずがない。
 最近、疲れ気味だったからな。きっと昔の記憶が、白昼夢となって、男の子とかぶさっただけだ。

「ごめんね、ちょっと、眩暈がしただけだよ」

 男の子の肩から、手を離すと俺は、ぽんぽんと頭を撫でてあげた。
 男の子の、薄茶色のふわふわの髪の毛は、柔らかく、まるで羽毛のようだった。

「じゃあ、あいさつをしようか」
「うん!」

 気を取り直して言う俺に、男の子は頷くと、財布から五円玉を取り出した。
 賽銭箱に投げ入れると、からんころん、と音を立てて落ちた。
 男の子は、教えた通り、二回礼をした。
 そして、手を一度叩いて――


 その時、背後から風が吹いた。柔らかな、春の風だった。
 御幌がふわり、ふわりと揺れる。
 その風に乗り、桜の花びらが拝殿の中へと吹き込む。


 桜なんて、まだつぼみ――。


 俺がハッとしたその時、後ろから、ハアハアと、息を切らして誰かが走ってくる気配がした。
 俺は振り返る。そこには、汗だくで、真っ赤な顔をした女の子――毎日、神社にお参りに来る女の子がいて――。

「フユッ……!」

 女の子は、駆け出し、男の子に飛びついた。
 男の子を抱きしめ、わんわんと泣く。

「会いたかった…ッ。」
「ふぇ……?」

 抱き着かれたまま、ぽかんとしている男の子。

 だが――

 男の子の手から、手提げがするりと落ちた。
 顔をのぞかせる『人魚姫』の本――。

 ふと、その顔つきが急に大人びた気がして――。

 その時、雲一つないはずの空に、轟音と光が迸った。


「……ッ?!」

 次の瞬間、青空から、花が、花の雨が降ってきた。
 それは、あの日、あの夜見たものと同じ、桃色の花だった。
 空間が、花と香りで埋め尽くされる。


「……ッ、お父さん…ッ、大変、なにこれっ……!?」

 桜が、すっ転びそうになりつつ、社務所のほうから走ってきた。
 しかし、俺が子供たち二人を呆然と見ているのに気づくと、自らも、何かに気づいたかのように、そちらを見た。

「花が降る……」

 桜はつぶやき、「まさか」と言った。

「あの子、いや、あの子たち……」
「ああ……」



「そのまさかだよ」



「フユ、私はッ……」

 何かを言いかけた、彼女の口を、彼は親指を押し当てて、ふさいだ。
 そして、何かを彼女の耳元でささやいた。
 驚いた顔をして、彼の顔を見る彼女。
 そんな彼女の顔を見て、彼はどこか切なそうに笑うと、

「……きっと、これが、最後で――最初です」

 彼女の頬に手をやり、
 彼女の口に、唇を重ねた。

「……しょっぱいですね。こんなにも、私のことを思って泣いてくれるんですか。嬉しい限りです」
「……フユ……」

 彼は、唇を離すと、愛おしそうに彼女を抱きしめた。

「あなたの頬も、唇も、体も、これが、柔らかく、暖かく、いい香り、というものですね。……ああ、あなたの何もかもが、愛おしい」

 彼は、彼女の肩に顔をうずめるかのようにして、かき(いだ)いた。


 ふと、降り続ける花の勢いが、弱まり始める。
 彼は、名残惜しそうに顔を上げると、もう一度彼女の顔を見つめ、こちらを見た。

「柾、桜さん」

 彼は、笑った。とても嬉しそうに、笑った。

「幸せに、生きてくれて。――ありがとうございます」

 その間、きっと五分もなかった――。



花の雨が止んだ。



 現実離れした現実に、夢でも見ていたのだろうか、と桜と顔を見合わせる前で、男の子もまた、元の戸惑いの表情に戻った。
 そして、激しく泣き始めた女の子を、体にくっつけたまま、「おじさん、助けてぇ……。誰この子……」とこれまた、自分も泣き始めた。


「……」


 からん……。

 何かが落ちる音がした。
 俺は、どこか、狐につままれたかのような心地のまま、それを拾いに行く。
 絵馬掛所の下に落ちた絵馬。それを拾い上げる。

『フユにいつかまた、巡り合えますよう。
そして、今度こそ、ずっと、一緒にいられますよう。
そして、今度こそ、ずっと、ずっと、幸せでありますよう。』

 絵馬が、空気に溶けるかのように、粒子になって消える。後に残されたのは、焦げて、古ぼけた写真。
 裏返すと、『あなたを、愛しています。』の、あいつの字と、
 その隣に書かれた『私も、愛しています。』の、へたくそな字――。


「……ははは」

 俺は、空を見上げて笑った。
 心の底から嬉しくて、笑っているはずなのに、涙が止まらなかった。

「お父さん……」
 隣にそっと寄り添いに来た桜も、目から絶えず涙を流している。俺は頷くと、再び空を見上げて言った。


「神様、あんた、」


 泣きながら、俺はくすっと笑った。


「……ほんっと、イケメンだな」


 照れたほっぺの色のつぼみが、返事をするかように、そっと揺れた。
「お前……毎日毎日、よくもこう……。遠慮と言う言葉を知らないのか……?」


 俺は、目の前で、お菓子をほおばる女の子を、ため息をつきながら見た。

「そういうお前だって、私を追い返したりせずに、結局はお菓子をくれるじゃないか。そういう、なあなあな姿勢が原因だと思うけれど」

 女の子――今は、風間弥生と名乗る、元、三枝ハルは、柾の家の縁側で、柾の息子の柊が作ったお菓子を頂戴していた。

「それにお前の息子だって、試作品を食べてもらうの、喜んでいるじゃないか。こっちは育ち盛りのお腹が膨れて、そっちは味を評価してもらえる。うぃんうぃんの関係だと思うけれど」
「……はいはい」

 俺は諦め半分に頷きながら、彼女の隣に座って、頭を抱えた。
 しかし、こういうやり取りはもう二度とできないはずのものだったと考えると、何だかおかしく、結局は許してしまう心地になってしまう。


「……それはそうと、お前な。こうやってまた生まれ変わったんなら、もっと早く言いに来いよ。それなら、もっと早くにフユが見つかるよう、俺も一緒になって祈ってやったと言うのに」

「柾。願い事って言うのは、人には黙っているからこそ、叶うとも言えるんだぞ。むやみやたらに話したら、逆に会えなくなるかもしれなかったんだから」
「確かに、それはそうだな……」

 願掛け、というのは、そういうものだったな、と思い出す。

「……そういえば、あいつとは同じクラスになったんだってな。昨日、あいつが来て、『弥生ちゃんと、一緒のクラスになったの。二年一組っ!』って嬉しそうに言ってたけど」

 初対面でいきなり抱き着かれて、泣かれて、彼にとって、一時は恐怖の対象となっていた彼女。いまや、すっかりと仲良くなり、彼は彼女に、この町で初めての友達として、よく懐いていた。


 そのはずなのに、


「……」

 彼女は、何を思い出したのか、ぷすぅと頬を膨らませた。

「どうしたんだ。もう喧嘩でもしたのか?」

 すると、彼女は、首を横に振って、いらいらしながら言った。

「……あいつ、フユの奴……。毎日毎日、女の子にイチャイチャされて……。
『かわいい~、かわいい~』って、毎日上級生の女どもに、撫でられているんだよ……。私と言うものがいながら……」

「ああ……確かにわかるな、その子たちの気持ち……。まるで、北欧の少年みたいな可愛さだもんな」

 フユ……今は、二ノ瀬冬樹と名乗っている彼は、初めて会った時から思っていたが、あまりにも可愛すぎる男の子だった。
 色白で、ふわふわとした色素の薄い髪の毛。きれいに整った顔立ちではあるが、ほっぺはふくふくと柔らかそうで。
 初めて会った日に、探検がてら、一人で町を歩いていたみたいだが、よくもまあ、誰か悪い人に、誘拐されなかったものだと思っていた。

「転校生ってだけで、物珍しさで人気なのに、可愛いと来たら、もう大人気のなんのって……。
まあ、結局もみくちゃにされて、『弥生ちゃん、助けてぇ』って後ろに隠れに来るから、許すけどな。
もし、一瞬でも、鼻の下を伸ばして喜んだりしたら、遠慮なく殴り飛ばすつもりだし」

「お前な……せっかくまた会えたんだから、大切にしてあげろよな……」

 俺がそういうと、「まあ、そうだな」と、彼女は素直に頷く。

「フユは、私の夫にしないといけないからな。大切に、大切にしないと。
あいつは、私と違って記憶がないからな。こうしてまた巡り合えたものの、結局、ゼロからのスタートだ。
神も残酷だな。記憶がない挙句に、あんなにも可愛く生み出されては……。しかも、あの調子だと、将来的にはかなりのイケメンになる……、どれだけライバルがわんさか出てくるか……。

神の野郎、簡単には、私にフユをよこすつもりはないという事か。ならば私は、他の女に取られないよう、今からしっかり、篭絡するだけだ」

「篭絡……。今何歳だ、お前……」

「前の歳と合わせたら、三十代半ばだから、篭絡と言う言葉は、おかしくはない」
「おばショタか……。あかん、聞きたくなかった。変な想像図が今脳裏に……」

 俺は、あの純粋な男の子が、以前の姿の彼女に捕まって泣いているところを想像してしまい、慌てて首を振って打消した。

「まあ、という訳で、私たちが結婚する時は、この神社で結婚式を挙げてやるから。もちろんタダにしてくれよな」
「お前……一体何年後の話を……。鬼が笑って笑って、笑い転げまくるぞ……」

「好きなだけ笑わせてやればいい。私は有言実行するのがモットーだから、覚悟しておけ」
「へいへい……」

 適当に相槌を打つ。ただ、適当と言うには、天邪鬼だったかもしれない。

「家族が増えたら、もちろんお宮参りにも来いよな。孫だと思ってかわいがってやるから。後、七五三もな」

 そう言うと、ぼっと、音が聞こえるほどに真っ赤になった。
 「ははは、大成功」と笑うと、俺は、ぽんぽんと彼女の肩をたたく。すると、彼女は「柾ぃ……!」と真っ赤なまま、しかし、それ以上は何も言えずに、睨んでいる。

「まずは、今度、縁結びの祈祷をしてやるよ。もちろん祈祷料は、タダ――だと神様は叶えないだろうから、俺持ちでな。奮発してやるよ」
「……」

 彼女は、真っ赤なまま、睨み続けている。だから、俺は立ち上がると、社務所のほうへと歩き始めた。

「あーそうか、いらないのか。いらんならいいが」
「……いるっ!」

 立ち上がって慌てて返事した彼女に、俺は振り返り、にやにやと笑う。彼女は、してやられたという顔をしたが、悪い気はしていないようだった。


「まーさーきーさーん。こんにちは――!」

 すると、その時、声がした。見れば、彼が手を振りながら、小道から庭の方へむかってきていた。
 噂をすれば。
 俺は、彼の声に返事をした後、いまだに顔の赤い彼女を振り返り、にやりと笑う。

「……今度とは言わず、今からフユをだまして、縁結びの祈祷をするか? お前、『一緒に神主のお仕事を見学しよう』って誘え。
どうせ、縁結びって言葉も知らんだろうし、祈祷を聞いたところで、バレるはずがねえ」

「……いいなそれ。大賛成」

 彼女は、にやっと悪い笑みを返す。


「どしたの? 二人とも……?」

 そこへ、とてとてと走ってきた彼は、悪だくみを考えている二人を、そうとも知らず、不思議そうに見た。
 そんな彼を見て、二人はまた、顔を見合わせ、けらけらと笑う。

「……? 変なキノコでも食べた?」

 きょとんとして、言う彼。

「いいや、別に。ただなんとなく面白かっただけ」
「そうなの?」

 彼女は立ち上がると、首を傾げる彼の手を取った。

「なあ、冬樹。今から一緒に神主のお仕事を見学しよう? 柾が特別に見せてくれるって」
「ほんと? 見る見る! 僕一度、柾さんがお仕事している所、見てみたかったんだ!」
「よかった。じゃあ、行こう!」

 彼女は、駆けだした。しっかりと、彼の手を握り締めて。


「おい、こら待て! 今から準備するから、ここで待っとけ……って聞いてないな、あいつら」

 二人を、俺は慌てて追おうとして、けれど、思わず立ち止まった。
 風が吹いた。暖かい春の風。
 それは、散り始めた桜達の枝を揺らし、その花びらを空へと巻き上げる。
 花びらが空間を、一色に満たす。
 そんな空間の中を突き進む彼らを見て、俺は微笑んだ。


「……変わってしまっても、変わらないな」


 彼女に微笑みかける彼。
 彼に微笑み返す彼女。

 それらはかつて失われ、
 今は、形を変えて、
 けれど、それは確かに同じ――

 平穏で、だけど、幸せな日常。


 そんな日常を、祝うかのように、
 写真立の前に、
 そより、と桜の花びらが舞い降りた。
 彼女を見かけたのは、雲一つない、透き通るような、青い空の下だった。


 おそらく今生で最後になるだろう、氏神の(やしろ)への参詣の帰り道。
 花嫁行列の中、白無垢の美しい花嫁は、清々しい瞳で前を向き、夫となる男の手を取り、凛として歩いてゆく。
 私は、思わず足を止め、彼女を見ていた。


――そして、


 銀杏の葉が舞い散る風の中、この時期に咲くはずもない花の香りがした。
 私が彼女に再び会うことになったのは、それからひと月もしないうちだった。


「その木、切るんですか」

 業者の者たちが、せわしなく庭を行き来するのを、庭の片隅で座って見ていた私に、声をかけるものがあった。振り返ると、生け垣の切り株の向こう――道路で、通行人らしき女性が、こちらを見ている。

「こんにちは……。ご近所さんですか? ……庭木を切ってしまわないといけなくなりまして。今日一日、騒音でご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが……」

 私が、おぼつかなくなった足でなんとか立ち上がって頭を下げようとしたとき、彼女はそんな私を気遣ってか、慌てて座ったままでいるように促した。

「……みんな切ってしまうのですか? あの木も……?」

 彼女は、庭の真ん中に生えている、ライラックの木を指さし聞いた。なぜだか、とても複雑そうで――悲しそうな顔をしていた。

「……年を取りすぎて、家の管理もままならなくなってしまってね。来月から施設に入ることになって、その前に自分の周辺の整理を……この屋敷を解体することにしたんだ。
……年を取るというのは嫌なものだね。自宅の管理どころか、自分の四肢の自由すら制御できなくなってくる。だから、大切なものすら、守ることができなくなる……」

 私は、大切な木――桃色のライラックの木の幹にチェーンソーの刃が入れられるのを、両手で杖を握り締め、見つめていた。  
 もともとは二本あったその木も、今は一本しかない。紫色の方はとうに枯れてしまって、樹木医に診せると寿命だということだった。残った一本も近年はめっきり弱ってしまって、花をつけない年もあった。

 それでも大切だった。自身のかつての思い出が、大切な者達が、確かにそこに在ったという証明であったから。そして、忘れてはいけない、自身が背負っていくべき業の象徴でもあったから。

 だから、守りたかった。
 だから、一縷の望みにかけて、良いと言う方法を山ほど試し、今日の日までなんとか命をつなげてきた。


 だけど、今や、それは叶わない。自由の利かなくなった手と、足を見て、そして現実(まえ)を見る。
 切られて失われていくモノを、私はただ見つめているしかない。


「いくら大切なものでも、あの世までは持っていけないから、これでよかったんだ」

 木の命を絶つ音が、あたりに響く。
 私はその音を聞かないように、自らに言い聞かせるようにつぶやく。そうしないと、理性を失い、叫び出しそうだったからだ。


「……確かに、大切なものは、あの世までは持っていけませんね。けれど、」

 静かに女性がつぶやいたのに、私は振り返った。いつの間にか女性は、私の後ろにに立っていた。女性は木が切られ、倒れていくのをつらそうに、しかしどこか清々しい表情で眺めている。

「憶いは、持っていけます。大切な憶いは。
もしも、忘れてしまっても、覚えていなくても、魂の奥底には相変わらずに、いつもそこに在る」

「……」

「憶いの象徴だったものが、例えこの世から消えてしまっても。なくなってしまっても。
自分自身がしっかりと、その憶いを大切に胸に(いだ)いていれば、形は消えても失われない。……私はそう思うんですよ」

 私は、その清々しい表情に、どこかで見覚えがあった。
 そうして自身の記憶を思い返した時、私は、目の前の彼女があの日見た花嫁だという事に気づいた。

「お嬢さん、この間、あちらの神社の方で、結婚式を挙げていらした方でしょうか?」

 ふと口をついて出た問いに、彼女はどきりとしたようだった。

「確かにこの間、結婚式をあそこで挙げましたが……その時、参詣されていたのですか?」
「……氏神様に今までお世話になりましたと、挨拶をしに行った帰りに見かけてね。
人生最後のお参りにと行ったから、とても良いものを見せてくださったと思っていたんですよ」

 私はにこやかにほほ笑むと、言った。

「ご主人も男前で、とても優しそうな方だったし、あなたもそれはそれは幸せそうな顔をしていたから……とても良い方に巡り合えたのですね。私みたいな男を選ばなくて大正解ですよ……」

 と言ってしまってから、私はしまった、と思った。これから幸せいっぱいの新妻に、不吉な事など言うべきではない。するとやはり、彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。


 かつて研究者だった私には、その研究のせいで、娘を犠牲にし、不幸にしてしまった過去がある。
 厳密に言えば、娘を最初から不幸にしていたのは私のせいであった。
 だが、自身の研究が発端である、或る事件をきっかけに、私は世間から憐れまれ――あるいは無能な父親として批判され――とにかく、私は世間から様々な形で噂されていた。

 あんなに大きな事件だ。私と同じ町に住んでいるのであろう彼女なら、その噂を知らないはずがない。だからこそ、この表情なのだろう。


「……お嬢さん、私はね、娘を殺したんです」
「……」

 彼女は、ぴくりと震えた後、固まってしまった。
 やはり、私についての噂は知っているようであった。
 私は、倒された後、裁断され運ばれていくライラックに視線を戻し、続ける。

「あの木は、娘が大切にしていた木でしてね。……娘が大切な()と一緒に植えた木だったんですよ」
「……」

「娘を死に追いやった私はね、娘が……いや、娘を大切にしていたその()に謝った後、死ぬつもりでした。だけど、その()に気づかれて、叱られてしまいましてね。
自分の蒔いた種から生えたものは、全部枯れるまで世話をしろって。……そうして地べたを這ってでも、最期まで生きろって言われましてね。……そうやって苦しんで生き抜くことで、迷惑かけた者たち、全部に償えって……」

 視界が、次第にぼやけてかすんでいく。

「私は、もうそうは長くない。自分の体のことは、自分が一番よく分かっている」
「……」

 私は、空を見た。瞬きすれば、ほろりと目から雫が零れ落ち、景色が鮮やかに映る。
 青く高い空が、ただ静かに、そこにはあった。

「私は、充分苦しめただろうか。充分償うことができただろうか……」

 私は()を振り返りかけて、その存在のとうに失われていることを思い出す。
 その問いに答えてくれるものは、もう、永遠にない。


「……もう、充分、だと思いますよ」


 振り返ると、彼女はこちらを見ていた。奇妙な表情であった。それは、同情心から相手を、その場限りの建前で慰めようとしてする表情ではなかった。

「何がとか、どうしてそう言えるのか、とまではうまく言えませんが。だけど。充分、だと思いますよ。私は」

 彼女の表情は、呆れ半分、諦め半分を含んだ、微笑みであった。まるで、友人や家族の大失敗を、仕方なく許すかのような表情であった。
 友人でもない、ましてや家族でもない赤の他人にそんな表情をする彼女を、不思議に思いながら見ていると、彼女は続けて言った。

「それでも納得がいかないのなら、後はあの世で奥様(・・)に謝ってから、ぼこぼこに殴られればよろしいですよ。そうすれば、その苦しみも悩みも、きっと晴れますから」
「……ッ。」

 いつか、妻と娘に、あの世でぼこぼこに殴られること。

 自身がいつも胸の内で望んでいたことを言われ、一瞬息をつめた私に、彼女はにこりと笑いかけた。そして、すっと前へと歩み出ると、先程までライラックのあった場所にしゃがんだ。

 彼女は地面から何かを拾い上げると、それを手に持ち、私に問いかけた。
 それは、ライラックの小枝だった。

「これ、いただいても?」
「え、ええ、よろしいですが……そんなものを、何に?」
「内緒ですよ」

 彼女はいたずらっぽく、笑った。
 まるで、いたずらっ子が、小さなたくらみを隠す時のように。



『おとーさん』
 こんな表情を、実の娘から、かつて向けられたことを思い出す。
 それは、娘の顔を面と向かって見られなくなる前の、はるか昔の事。

『ないしょ』
 くくくと笑い、背に何かを隠す娘。そのかつての他愛ない日々の笑顔と、目の前の女性が重なって見えた。


 そのことは、先程心の中に芽生えた霞のような何かに、疑念と言う実体を取らせるには、充分な出来事であった。



「それでは、いただいて帰りますね」



 女性は私の前まで戻ると、お礼を言い、頭を下げた。そして、屋敷をぐるりと懐かしむかのような目で見た後、庭に視線を戻し、そして再び私を見た。
 彼女は、笑った。少しだけ、寂しそうな色がその目に映ったのは、疑念を、確信に変えるのには充分であった。

「では、私はこれで失礼いたします」

 女性は、私に再び頭を下げると、踵を返した。

「待ってくれ!」

 私は、慌てて立ち上がった。だが、よろけて椅子のひじ掛けにもたれかかった。
 彼女は立ち止まると、そんな私を振り返らず、言った。

「幸せですよ。私は今」
「……」

 彼女が、自身の腹を愛おしそうに撫でたのに、私はハッとする。

「とても。とてもとても長かったですが、積年の想いも叶いましたし。」
「……? ………ッ!」

 その言葉の意味に気づき、驚愕する私に、彼女は肩越しに振り返って微笑みかけた。

「だから、もう恨んでもいない。憎んでもいない。それに……ずっと、見てきた(・・・・)から。もう充分、気持ちは受け取ったから」
「……そうか」

 ほう、と長い息をついてから、私は立ち上がった。立ち上がって、彼女に向き合った。
 そして、微笑み返した。

「体を、大事にな」
「……ええ、あなたも」

 彼女はふふふと、笑った。

「くれぐれもお体をご自愛ください。きっとあなたの奥様は、拳を鍛えて待っているでしょうから。
体力を残しておかなくては、きっとすべての拳を受け止めきれないでしょうから。」
「ああ、そうさせてもらうよ」

 私は、静かにほほ笑み、頷いた。


「では、それでは」
「ええ、それでは」


 きっと、もう、今生で彼女と出会うことはないだろう。
 だけど。


――また、いつか。


 私は、再び庭を向いた。遠ざかっていく彼女の気配を背に、目を閉じ、ほほ笑む。
 彼女もまた、同じことを思っているのだろうと、感じながら。