道端の草に落ちる露が、凍るようになった。


 あの日、彼女を失ってからというものの、私はただぼんやりと、毎日。窓から空を見て過ごしていた。
 柾たちも、気を使ってそっとしておいてくれた。その気遣いが、今の私には、ただただ、とてもありがたかった。


 彼女のお葬式には、出られなかった。夫方の意向で、密葬となったからだ。
 ただ奇妙なことに、いくら仲が悪かったとはいえ、彼女の父親すら呼ばれなかった。
 周囲の人たちは、皆奇妙に思い、彼女の夫の行動をいぶかしがるものも多かった。
 柾ともみ路さんも、ひき逃げされた妻の臨終に、現れもしなかった男のことを怪しんでいた。


 けれど、今の私には、そのような噂は、どうでもよかった。

 何を、どうあがいて、恨んでも、もう彼女には二度と会えないのだから。


「私、本当に、空っぽになっちゃいましたね……」

 自身の両手を見る。もう自分には、大切なものは何も残されていない。そして、その大切なものは、二度と見る事も、触れることも叶わないのだ。

「あはは……泣きそう。なのに、なんで私は涙が出ないんだろう……」

 せめて涙が出て、目の前の景色が見えなくなってくれたら、いつか彼女と見上げた空のことを思い出さずに済むのに。いつか彼女と見た、飛ぶ鳥を見なくて済むのに。


「死にたい」


 ふと、そんな言葉が口を突いて出た。出てしまってから、なるほどと頷く。死ねば、目の前のこの空は、見えなくなる。死ねば、今耳に聞こえている鳥の羽音は聞こえなくなる。


 死んだら、良いのだ。


 と思ってから、考え直す。私が「死にたい」というのはおこがましい。人が死ねば、あの世があるはずだが、器械である私には、そのあの世に行く資格すらない。

 「壊れ」なければ、ならないのだ。


 どうせ、いつ壊れたって、彼女にもう会えないのは同じだ。
 今日壊れたって、百年後に壊れたって同じことである。
 なら、この苦しみが長く続かないほうがいい。
 なら、今日にでも、いっそ――。


 私は、家を出た。虚ろな心地のまま、ただただ歩き続けた。ただただ、死に場所――壊れ場所を求めて、さまよい続けた。


 街で一番高いマンション
 ――だめだ。高所からの飛び降りは、下にいる人を道連れにするから迷惑千万だって、前に彼女が。

 深い河の橋の上
 ――だめだ。無駄に防水性を高めたから、水ぐらいでは浮くだけで機能停止にならないって、前に彼女が。

 ごみ処理施設の焼却炉
 ――だめだ。中の充電池が爆発して、周りに被害を与えかねないって、前に彼女が。


 彼女が、彼女が、彼女が……。


 考える傍から、頭が彼女のことがいっぱいになり、同時に悲しみで胸が破裂しそうになり、私は気が狂いそうになった。
 だから、私はもう、思考を放棄することにした。そして、その場に仰向けに倒れこんだ。

「もういいや……もう疲れた」

 そこはちょうど電車の踏切であった。丁度、体が線路の上にある。電車が通れば、私の何もかもを、一発で破壊してくれるだろう。

「ああ……綺麗だな……」

 目の前には、青空が天高く広がっていた。空気が冷えているから、とても澄んでいて……どこまでも高かった。

「この先に、天国があるんですかね。あっても、おかしくはない美しさですね」

 そういえば、前に、庭の芝生の上で、こうやって彼女と二人で仰向けになって寝転んだことがあった。その時に、いつもは現実的な彼女が、嬉しそうに、『あの空の上にお母さんがいるんだ』と言っていたことを思い出す。
 あの時の笑顔はとても綺麗で。私は空の美しさよりも、彼女のことしか覚えていなかった。

「あの日の空も、こんなふうに綺麗だったんですかね……」

 踏切の警報音が鳴り出す。辺りには誰もいない。とても静かだった。

「ハル様……。私などいなくても、今のあなたにはお母様がいますから、大丈夫ですよね」

 線路を通して、振動が近づいてくる。私は、空に向かってほほ笑むと、目を閉じた。



「こんのっ、くっそウサギがあああ……!!」
「……っ!!?」

 次の瞬間、何かに吹っ飛ばされて、私は踏切の外までもんどりうった。一拍遅れて、目の前を、電車が通過する。電車が通過し終わった頃、踏切の向こう側を走ってくる者があった。

「てめえ、勝手に家出ていきやがったと思ったら、何してやがんだ! 俺が昔、野球してなかったら、今頃お前、木っ端みじんのミンチだったんだぞ、このドアホ!」

 息を切らした柾のその言葉に、恐る恐る自身の脇に落ちているものを見ると、スマートフォンだった。画面が粉々に割れて、液晶もところどころ変になって……要するに大惨事になっている。
 どうやら私を見つけるなり間に合わないと悟った柾は、百メートル近くもある道の向こうから、スマートフォンを投げつけて、私を吹っ飛ばしたらしかった。

「……どうして助けるんですか。ほっといてくださったらよかったのに」

 私は、終えることができなかった暗い心地のままに、ぼそりと言った。すると柾は、「お前は、馬鹿か!」と叫んだ。

「ほっとけるかよ。友達が苦しんで、苦しんで、もうどうすることもできなくなって。それで、死を選ぼうとしてる場面を見て、ほっとける人間がいるかよ!」
「……私を友達なんて、馬鹿ですか。ただの器械ですよ。玩具(おもちゃ)ですよ。私が壊れたって、代わりはいくらだっているんですよ。なのにあなたは、本当に…」

――馬鹿ですね。

 という言葉は、言葉にできなかった。

――え……?

 目から流れるものがあった。どうやら、どこかが壊れて、オイルが漏れてしまったらしい。彼女はもういないから、後で、修理屋で直してもらわないと……。


「……お前」


 柾は、はっとした顔をすると、殴ろうと振り上げていた拳を下に降ろした。
 彼は何を勘違いしているか分からないが、これは嬉し涙なんかではない。断じて違う。違うはずなのに……。

「本当に、あなたは、馬鹿です」

 私は立ち上がって、そうはっきり言った。だけど、柾は怒らなかった。

「私の、大馬鹿な親友です」

 私は、絶えず流れてくるオイルを手で拭った。オイルにしては、やたら水っぽいから、水滴が、たまたまボディ内に溜まっていたに違いない。そう思うことにしたけれど。
 なんだか、そう思いこもうとする自分すら、可笑しく、馬鹿馬鹿しくなってきて。

「ははは……私には、まだ、あったじゃないですか。大切な物が……」


 親友が、まだ私にはあるじゃないか。


 私が泣きながら、可笑しそうに笑うと、なぜか柾まで笑い出した。同じように泣きながら。
 もし近くに誰かいたら、きっとおかしな二人組だと思われたに違いないが、誰もいなかったから、私たちは思いっきり笑いながら、泣くことができた。

「お前、やっと認めやがったか。俺のこと友達だって」
「友達だなんて認めてないですよ。親友だって言ったんです」
「お前なあ……。そういう素直じゃないとこ、ホント好きだぞ」
「何ですか、気持ち悪い」

 お互い、泣きながら笑いあっていると、ふと着信音が鳴った。
 柾のスマートフォンは、ボロボロになりながらもまだ、電話としての機能をかろうじて維持していたらしい。柾は、割れた液晶を何とか操作すると、耳に当てた。

「もしもし、え……産まれそう?」
「えっ…もみ路さんですか!?」

 私は、もみ路さんが確か出産予定日を過ぎていたことを思い出し、慌てて柾の肩に乗って、電話に耳をそばだてた。

「え、あ、うん……すぐ家帰るから待ってて! ちょ…ちょっと、フユどうしよ、陣痛始まったって!」
「わ、私に言わないでくださいよ! あなたのほうが二回目でしょ?! 私、こういうの、さっぱりわかりませんよ!」

 ぴょんと柾の肩から飛び降りると、私は、両手を振って後ずさった。

「んなこといったって、俺もどうすればいいか、わからんもんは、わからんし!」
「とにかく、落ち着いて! まずは、奥さんを病院へ連れて行きますよ!」
「そういや、前もそうだった!」
「今更思い出すって、どれだけパニくってんですか!」
「う、うるさい! とにかく、行くぞ!」

 柾は、私をひっつかむと、家への道のりを駆けだした。