その日の朝は、道端の草に露が降りていた。
彼女と別れてから、既に三年が経っていた。
「フユちゃん、なにあれ、草がキラキラしてる」
「露ですよ」
「つゆ?」
私は、肩の上から、柾の娘――桜さんに言う。
「空気中の水蒸気が、露点以下の温度になると、物体に付着して水として現れる現象ですよ」
「すいひょーき? ……ろてん?」
「水蒸気ですよ。空気にはある程度、見えない粒子となった水が含まれているんです。露点っていうのは……」
「……おい、フユ。幼稚園児にそれはないだろ……」
柾は目を回しそうになってる桜さんの隣で、ボソッとつぶやいた。
「あのなあ、フユ。幼稚園児には、もっとロマンのある教え方をしろ。多少虚構が混ざってもいいから」
「柾、こういうことは頭の柔らかいうちに、しっかりと教えておいた方がいいんですよ。そうじゃないと、人間は、いつか魔法少女になれるとか、背中に羽が生えるとか、ありえない将来を期待するようになってしまうんです。
そして、二次元にしか恋ができないだとか、異世界に転生したいだとか、いい年越えても虚構の中から、現実の世界へと住み替えができない輩が生まれるんです」
「いや、そういうのは、そういうことが原因じゃないとは思うんだが……」
私は、あの日から、柾とその家族と共に暮らすことになった。今は、彼女の地元を離れ、遠く離れた都会で暮らしていた。
一歩外に出れば、所狭しとたてられた建物の波。さらに外へと出れば、絶えず周りを行き交う人の波。
初めての都会の暮らしは、当初は何が何だか訳がわからず、それらの波に何とか流されまいと、もがくだけだった。
だけど恐ろしいもので、今やそんな生活にも慣れ、まるで空気のように、それらの環境を、それが元から当たり前だったかのように、受け入れるようになっていた。
そして私は、柾と、その家族と共にある生活も、今や、それが元からそうであったかのように、受け入れるようになっていた。
だけど、私はやはり、ハル様のことを思わない日はなかった。
ちゃんと朝起きられているだろうか。
ちゃんと身だしなみをしているだろうか。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
ちゃんと揉め事を起こさないで、人と話せているだろうか。
ちゃんと寝ているだろうか。
……ちゃんと幸せに過ごしているだろうか。
柾たちといる間の、ふとした瞬間―特に桜さんが、何かをするたびに、私は彼女のことを思った。
ころころと子供らしく表情を変える桜さんは、彼女とはまったく違って。でも、そのことが、余計に彼女のことを思い出させた。
そして、彼女も道が違えば、こうだったのだろうか、と思うことも増えた。
「さあ、フユちゃん、ごはんですよ~」
桜さんは道端の草を摘むと、口の前に差し出してきた。私は、柾のじとっとした目線に、小さくため息をつくと、ウサギらしい演技を諦めてした。
「おいしいですね」
もぐもぐと、食べるふりをすると、柾は満足そうににやにやと笑ったので、何だかムカついた。
「じゃあ、お腹も一杯になったし、帰りましょうか」
「ええ~、もうお散歩おわりなの?」
桜さんが不服の目で柾を見上げると、柾も苦笑しつつ、私に首肯した。
「そろそろ日が沈むし、外も冷えてきたしね。いつまでも道草食ってたら、風邪ひくから」
「私は、道草、本当に食わされてたんですけどね……」
私がぼそりと言うと、柾は聞いてないふりをして、「さあ、行こうか」と桜さんの手を引いた。
――平和な一日だった。
私は、桜さんの肩の上で夕日を見つつ、そう思った。
そして、明日も、そういう平和な日で、これからもずっとそれが続いていくと、
それが自然の、森羅万象の摂理だと、
そう思わずとも、思ってしまっていた。
――だから、
日常が壊れる時は、いつだって
前触れなんか来てくれない事を、
私は、すっかりと忘れてしまっていたのだった。
その日の、深夜だった。
電話が鳴った。
私はたまたまその日、起きていた。桜さんの寝相がひどいので蹴とばされ、『異常振動あり』と自動起動――起きてしまったのだ。そして、仕方なく布団を直していた時だった。
電話には柾が出たらしかった。遠くでぼそぼそと何かを話しているが、真剣な声音を聞いていると、おそらく良い話ではないだろう。そうこうしているうちに、電話を終えた柾の足音がもみ路さんの部屋のほうに向かい――そして、私のいる部屋に向かっていることに気づいた。
「フユ、起きてるか」
「……はい。」
ドアが開くと、柾ともみ路さんがいた。
柾は、桜さんを起こさないようにか、落ち着き払っていた。しかし、抑えきれない焦燥が言動に表れている。
桜さんの部屋のドアを閉じると、柾は、私を自身の部屋へと連れて行った。そして、「落ち着いて聞いてほしい」と言った。
「ハルが、事故にあった。横断歩道を渡っていたところをはねられたらしい。あいつの実家の使用人さんから連絡があった」
「……!」
驚いて声も出せない私に、柾は「時間がない」と服を着替え始めた。
「今、ここから一時間ほどかかる所の病院にいる。急がないと、間に合わない」
「……」
――『間に合わない』?
――何が?
そう思いながらも、私には分かっていた。ただ、信じたくなかっただけだ。
「すまない、こんな大事な時に。後を頼む」
「フユちゃんの為ですもの。私は大丈夫。気をつけてね、柾さん」
もみ路さんがそう言うと、私をひっつかむかのようにして連れて、柾は玄関を出た。
扉が閉まる直前、お腹の膨らんだもみ路さんが、私をとても悲しそうな目で見ていた。
その目で確信した。信じたくなくても、理解してしまった。
ああ、彼女は、もう
「……柾、スピード落としてください」
私は、無言で車を飛ばす柾に、やっとのことで口を開いた。
しかし、柾は前を見たまま、何も言わない。
「……このままだと、事故を起こしますよ。もみ路さんが大事な時に、あなたに何かあれば、私はもみ路さんや桜さんに合わせる顔がありません」
「……大丈夫だ。ちゃんと、信号は守ってる」
「スピードは違反じゃないですか。信号も点滅しているだけで。
柾、落ち着いてください。死んでいく人間より、自分の家族――これから生まれる人間のことを思ってください」
そう言いつつも、私は思う。自身の大切な人がいなくなるというのに、こんなにも冷静である自分が嫌だ。
彼女は大事だ。だけど、柾も大事だ。そして、もみ路さんと桜さんと、新たに生まれてくる赤ちゃんも、大事だ。
だけど、彼女は、もう助からない。ならば、失われる命より、これからを生きる命を優先しなければならない。
こう思うのも自身がロボットであるからか。
不安におののく心臓がないから、混乱する脳がないから、体がないから、
彼女に対して、こんな時にこうも冷酷で在れるのか。
いや、そもそも私には、感情だって――
「お前は……」
すると、ちょうど赤信号で止まった柾は、泣きそうな顔でこちらを見た。
「なんで……なんで、こんな時まで、お前はそんなにできた人間なんだよ……」
――人間?
―私が、人間……?
柾は、ハンドルに殴り掛かるかのようにして、突っ伏した。
「あいつに早く会いたいから、俺にもっと飛ばせって言えるのに。あいつが死んじゃうって、わあわあ泣き叫んでも、我を失って暴れても、誰も文句は言えないのに……なんでお前はッ……そんなに優しい人間なんだ。
なんでお前は人間なのに、人間じゃないんだ。なんで神様は、お前を人間で生まれさせてくれなかったんだ。なんでハルは、お前にもっと早く出会えなかったんだ。なんで。なんで。なんで」
「……」
「神様は……、本当に、いないのか?」
「……」
私は、何も、言えなかった。
「いないだったら、いないでいいさ」
柾は、前を睨みつけるように見ると、アクセルを踏んだ。信号はまだ変わってはいない。
「俺らはそれでも、生きるしかない」
病院につくと、柾は私をつかんで、飛び込むように中へと入った。だが、慌てた看護師たちは、私たちを彼女の元へと通してはくれなかった。
身内でなければ、会わせることはできないと繰り返すばかりで、まったく話にならなかった。
『……』
どうしたらいいのか、と不安に思う私を、柾は何を思ったか、床へと落とした。
看護師たちは、私には気づいていない。頭上で医者や看護師たちと言い争っている柾は、手だけで『行け』と合図する。
「……」
私は、柾に感謝しつつ、廊下を走る。その先には、彼女がいるらしき、病室があった。
その病室は、いわゆる集中治療室、というものだろう。閉め切られていて、とても、入れそうにはない。……と、ふと、目の前を看護師が通った。どうやら、部屋の中に入るらしい。
「……」
私は、慌てて看護師を追いかけると、扉を開けるのと同時に、部屋に忍び込んだ。看護師が部屋を再び出るまでの間、私は、そばにあった機材の後ろに隠れていた。
「……」
看護師が出て行ってしまうと、恐る恐ると私は出て、ベッドのほうを見た。
そこには変わり果てた姿の彼女がいた。体中のほとんどが、赤く染まった包帯で巻かれ、あちこちに管がつながれていた。
「……ハル様」
ベッドによじ登ると、私は呼びかけた。
ずっと会いたかった、彼女。やっとのことで、会えた彼女。
しかし、彼女は、ぼんやりと目を開けて、窓から夜空を、何かを探すかのように、見ていた。
「……ハル様」
もう一度呼びかけると、彼女は、ゆっくりと私を見た。
「フユか……幻覚か?」
「幻覚じゃありません、本物です」
すると彼女は、虚ろだった目に、光を宿した。
そして、ふっと笑った。
「久しぶりだな……」
彼女は、ちょっとだけ目をそらして、言った。
「……あの時は悪かった。ずっと謝りたかった。ごめん。いい歳してるのに、自棄を起こしてな……。思ってもいないのに、あんな事を言って、お前を傷つけてしまった」
そして目を閉じると、ため息まじりに言った。
「子供っぽい癇癪などおこさずに、もっと冷静に考えればよかった。そのせいで、お前を傷つけて、自分も傷つけて……。
……私って、体だけ大きくなって、結局何もかも不器用な子供のままだったんだな……」
悲しく笑う彼女に、私は首を横に振る。
「……もういいですよ。私も、偉そうに言いました。あなたの気持ちをもっとよく考えて、そっとしてあげるべきでした」
私も「ごめんなさい」と頭を下げた。すると、彼女は自由に動かない腕を、それでも動かすと、私を撫でた。
「私は、これから死ぬんだな」
「……はい」
彼女に嘘は通じない。私は、泣きたい心地になりながら頷いた。すると、彼女は、寂しそうに、しかし、おかしそうに笑った。
「お前は、本当に、なんで人間に生まれてこなかったんだっていうぐらい、人間だな。私みたいな人間のために、泣くことなんてないのに」
「泣いてませんよ、涙腺なんてありませんもの」
「こんな時まで意地を張るなよ、泣きそうな顔してるくせに」
「そうプログラミングされているだけですってば」
「まだ私の言ったことを気にしてるのか? かわいいやつだな~」
「……正直言うと……機能上涙は出せませんが泣きたいです。ってか、あなたが、気にすることを言ったくせに……」
うりうりと片腹を指先で小突いてくるハル様を、じとーっと睨めば、彼女は「ごめんごめん」と苦笑いした。そして、真面目な顔をして私を見ると、言った。
「フユ、ありがとな。色々あったけど、今までずっと、私の傍にいてくれて」
「……ずっとじゃありません。三年ほど会ってないじゃないですか」
何だか、そんなことを言われたら、本当に彼女がいなくなるという現実を突きつけられている気がして――私は、少し悪態をついた。
そんなことをしても、状況が何も変わらないのは、分かってはいても、そうしないではいられなかった。
しかし、それでも彼女は、笑顔のままだった。
「会ってないときだって、お前はずっと私の心の支えになってくれた。だから、私にとっては、この十四年間、ずっとお前と一緒に居たんだ」
「……」
「いつだって、お前がいるから。同じ世界に、同じ空の下に、お前がいるから、頑張れたんだ。
いつか謝るんだって。そして、またいつか、一緒に楽しく暮らすんだって思って、頑張ってこれたんだ」
「……」
「全部、お前のおかげだよ」
「……ハル様」
彼女は、私の頭をわしわしと、撫でた。毛並みが乱れたのを見て、彼女はおかしそうに笑う。この笑顔も、もう今夜で最後なのだろう。私には愛しく、悲しく映った。
「そんな顔するなって、もう」
しかし、彼女はあっけからんと、楽しそうに言った。
それから、ちょっと遠い目をして、言った。
「それにしても、この十四年間、色々お前と楽しいことをしたなあ。ひまつぶしに爆弾を作ったら、失敗してうっかり部屋爆発させたり。
お前と競争させようとを亀をつくったら、凶暴なのができて、屋敷中暴れまわった挙句、お前に銃撃しだしたし」
「ロクな思い出、ないじゃないですか……?」
「そういうのも、今となっては、良い思い出なんだよ」
「……どこが?」
「……ははは。そういう顔を待ってました」
彼女は、くすくすと笑った。初めて見る、素直で屈託のない笑い。
最期だからこそ、意地も心の重りも、何もかも、取り払えたからこそ、
私が、私だけが、見られた顔だった。
「なあ、フユ……」
「……もう無理して話さなくていいですよ」
呼吸の乱れが、隠せなくなってきた彼女に、私は無理やり笑顔を張り付けて言った。
「私はずっと傍にいますから」
一分一秒でも、彼女と長くいたい。話さないことで、ほんのすこしだけでも。
ほんの少しだけでも長く、彼女と触れていたかった。
だけど、彼女は、首を横に振った。
「お前とまた会えたら、あの時のことを謝って。そして、言いたかったことがあるんだ」
「……何ですか?」
私は彼女の掌を両腕で抱くと、頬に擦り付けた。この愛おしい人の体温を、少しでも長い間感じていたくて。けれど、器械の体には、温度と湿度のデータ以外、何も伝わらなくて。
彼女は、何やら、もごもごと口を動かしていた。そして、不安そうに――まるで、子供が親に頼みごとをする直前のような顔をして――こちらを見ていた。
「常識的な人間がこんなことを聞いたら、馬鹿にするようなことなんだ。……何よりも、お前に馬鹿にされるのが怖くて、言いにくいんだが……」
「あなたの言う事を馬鹿になんてしませんよ。誰が大切な人が言う言葉を、馬鹿になんてするもんですか」
すると、彼女は、「そうか」と言って、安堵の笑みを浮かべた。
だけどすぐに、気恥ずかしそうな顔になってしまった。不思議そうな顔をする私に、彼女は、観念したかのように、しかし、絞り出すかのように言った。
「月が」
――月?
私は、今日は月が出ていないことに気づいた。
代わりに窓からは、都会にしては、星が良く見えている。
「月が、綺麗ですね」
「……っ!」
私は、驚いた顔をして、彼女を見た。
そんな
まさか
「……」
固まる私を、彼女は愛おしそうに撫でつつ、しかし不安そうにこちらを見てくる。
「……今日は、新月、です」
やっとのことで、言えた言葉に、彼女はクスリと笑う。
「お前の考えていることが、手に取るようにわかるぞ。『そんな、器械の私に』なんて考えているだろう?」
「だって……。それに、私なんかの、何が……」
只の器械の私に、そんな恐れ多い感情を向けられるなんて、ありえない。それに、例え私が人間だったとしても、何故私などを選ぶのか。
すると、彼女は、優しく微笑んだ。
「お前が、良いんだよ。お前は、私の傍にずっといてくれて、ずっと私のことを支えてくれた。……昔、柾が好きで、あいつの結婚の時に結構へこんだんだが、その時さ、気づいたんだ。私の傍には、まだお前がいるってことに。
そして、柾よりも、お前といる時のほうが、自分らしくいられるようになっていたことに。
何も気取らずに、共に過ごせる、腹を割って話せる、大切なたった一つの存在」
「……」
「この気持ちがはっきりしたのは、私が結婚してからだ。……お前だけが、本気で笑いあって、本気で喧嘩しあえる……。もしも世界が終わる時がきたら、他の誰でもない、ただお前と寄り添っていたい。……そんな大事な存在だったんだ」
「気づくのが、遅すぎたな」と寂しく笑う彼女に、私は首を横に振ろうとした。
けれど、器械の自身が――彼女の思いに答える資格もない空っぽの玩具が、そんなことをできるわけがない。
ただ、黙ってうつむく私に、彼女は、それでもほほ笑んでいた。そして、私の頬を撫でると、あごに手を添え、自分の方を向かせた。
「……お前は、もう少し、うぬぼれたっていいんだぞ」
「うぬぼれ……?」
「自分は、器械じゃない、人間なんだって。うぬぼれて。もっと自分の存在を、気持ちを、自分の物として、大切にして。誇って、奢って生きてもいいんだぞ」
「そんな、私なんかが……」
私は、小さく首を横に振った。そんな私に、彼女は「仕方ないなあ」と笑うと、酸素吸入器のマスクをずらした。慌てる私にかまわず、彼女は自身の唇に、親指を押し当てた。
そして、彼女は、不思議そうに見ていた私の唇に――その親指を押し当てた。
「……っ」
「フフッ…お前。こういう時は、そんな顔をするのか……」
驚いて、口を両手で押さえてどきまぎとしている私に、彼女は心底おかしそうに笑った。
だが、苦しいのか、せき込んだ彼女。慌ててマスクを直す私に、彼女は「大丈夫だ」と呼吸を整えると、真剣な顔をして言った。
「これは、私からの最後の頼みだと思って聞いてくれないか?」
「はい……」
私が返事をすると、彼女は続けた。
「返事をさ。あの世で聞かせてくれないか? 人間として生きて、自分の感情に素直に生きて。人間の気持ちをもっと知って。……お前は色恋なんて、考えたこともないだろうから。
私にできなかった――私がしなかった、広い世界を知って、色々な人間と出会って。その上で、私を選ぶかどうか、いつかあの世で返事を聞かせてほしい」
「……」
あの世、なんてあるのだろうか。
理不尽な人生を歩んできた彼女を、助ける者は誰もいなかったこの世。こんなこの世に、神さえ、いるかどうか分からないっていうのに。あの世なんてあるのだろうか?
そもそも、あったとしても、器械の自分に、死んだ――壊れた後など、あるのだろうか?
私にとって残酷な約束――。
しかし、彼女の笑みを見れば、その約束を拒否することなど、できなかった。
「……分かりました」
やっとのことで、頷くと、彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。
「……これで、お別れだな」
「……ええ」
彼女の脈はどんどん弱くなっていた。それでも、かろうじて平静を保っているのは、きっと私の為なのだろう。私に最後まで、心配をかけたくないのだ。
それが彼女だ。どんな時でも、決して弱音は吐かない。
頑固で、かたくなで、
けれど、ただただ優しかった。
「ハル様……」
言いたい言葉は、心にたくさん浮かんでくるのに、これから消えていく彼女を目の前にしたら、喉が悲しみに押しつぶされるようで、何も言えなかった。
ただ、やっとのことで、一言だけ、はっきりと言えた。
「私は、あなたに出会えて、幸せでした」
すると、彼女は、とてもうれしそうに笑って――
そのまま目を閉じた。
「ハル様……ねえ、ハル様……?」
力の抜けた手に縋りつく。だけど、彼女から返事はない。
「ハル様……ッ」
私は泣いた。涙なんて出ない。ただただ、声の限り、叫ぶようにして泣いた。泣き叫んだ。
そんなことしたって、彼女は蘇らないと分かっているはずなのに。
再び、目を開けるはずもないことは、分かっているはずなのに。
泣かずにはいられなかった。
笑う彼女。
怒る彼女。
泣く彼女。
照れる彼女。
そのすべてが私の宝物だった。
なのに、その彼女はこの世界のどこにもいない。
もう、二度と会えない。
きっと、私が、死んだとしても――。
私は、部屋に医師たちが駆け込んできても、追い出されても、ずっとずっと泣き続けた。
「……フユ」
柾が、隣でずっと座っていてくれたのに気づいたのは、空が白み始めたころだった。
道端の草に落ちる露が、凍るようになった。
あの日、彼女を失ってからというものの、私はただぼんやりと、毎日。窓から空を見て過ごしていた。
柾たちも、気を使ってそっとしておいてくれた。その気遣いが、今の私には、ただただ、とてもありがたかった。
彼女のお葬式には、出られなかった。夫方の意向で、密葬となったからだ。
ただ奇妙なことに、いくら仲が悪かったとはいえ、彼女の父親すら呼ばれなかった。
周囲の人たちは、皆奇妙に思い、彼女の夫の行動をいぶかしがるものも多かった。
柾ともみ路さんも、ひき逃げされた妻の臨終に、現れもしなかった男のことを怪しんでいた。
けれど、今の私には、そのような噂は、どうでもよかった。
何を、どうあがいて、恨んでも、もう彼女には二度と会えないのだから。
「私、本当に、空っぽになっちゃいましたね……」
自身の両手を見る。もう自分には、大切なものは何も残されていない。そして、その大切なものは、二度と見る事も、触れることも叶わないのだ。
「あはは……泣きそう。なのに、なんで私は涙が出ないんだろう……」
せめて涙が出て、目の前の景色が見えなくなってくれたら、いつか彼女と見上げた空のことを思い出さずに済むのに。いつか彼女と見た、飛ぶ鳥を見なくて済むのに。
「死にたい」
ふと、そんな言葉が口を突いて出た。出てしまってから、なるほどと頷く。死ねば、目の前のこの空は、見えなくなる。死ねば、今耳に聞こえている鳥の羽音は聞こえなくなる。
死んだら、良いのだ。
と思ってから、考え直す。私が「死にたい」というのはおこがましい。人が死ねば、あの世があるはずだが、器械である私には、そのあの世に行く資格すらない。
「壊れ」なければ、ならないのだ。
どうせ、いつ壊れたって、彼女にもう会えないのは同じだ。
今日壊れたって、百年後に壊れたって同じことである。
なら、この苦しみが長く続かないほうがいい。
なら、今日にでも、いっそ――。
私は、家を出た。虚ろな心地のまま、ただただ歩き続けた。ただただ、死に場所――壊れ場所を求めて、さまよい続けた。
街で一番高いマンション
――だめだ。高所からの飛び降りは、下にいる人を道連れにするから迷惑千万だって、前に彼女が。
深い河の橋の上
――だめだ。無駄に防水性を高めたから、水ぐらいでは浮くだけで機能停止にならないって、前に彼女が。
ごみ処理施設の焼却炉
――だめだ。中の充電池が爆発して、周りに被害を与えかねないって、前に彼女が。
彼女が、彼女が、彼女が……。
考える傍から、頭が彼女のことがいっぱいになり、同時に悲しみで胸が破裂しそうになり、私は気が狂いそうになった。
だから、私はもう、思考を放棄することにした。そして、その場に仰向けに倒れこんだ。
「もういいや……もう疲れた」
そこはちょうど電車の踏切であった。丁度、体が線路の上にある。電車が通れば、私の何もかもを、一発で破壊してくれるだろう。
「ああ……綺麗だな……」
目の前には、青空が天高く広がっていた。空気が冷えているから、とても澄んでいて……どこまでも高かった。
「この先に、天国があるんですかね。あっても、おかしくはない美しさですね」
そういえば、前に、庭の芝生の上で、こうやって彼女と二人で仰向けになって寝転んだことがあった。その時に、いつもは現実的な彼女が、嬉しそうに、『あの空の上にお母さんがいるんだ』と言っていたことを思い出す。
あの時の笑顔はとても綺麗で。私は空の美しさよりも、彼女のことしか覚えていなかった。
「あの日の空も、こんなふうに綺麗だったんですかね……」
踏切の警報音が鳴り出す。辺りには誰もいない。とても静かだった。
「ハル様……。私などいなくても、今のあなたにはお母様がいますから、大丈夫ですよね」
線路を通して、振動が近づいてくる。私は、空に向かってほほ笑むと、目を閉じた。
「こんのっ、くっそウサギがあああ……!!」
「……っ!!?」
次の瞬間、何かに吹っ飛ばされて、私は踏切の外までもんどりうった。一拍遅れて、目の前を、電車が通過する。電車が通過し終わった頃、踏切の向こう側を走ってくる者があった。
「てめえ、勝手に家出ていきやがったと思ったら、何してやがんだ! 俺が昔、野球してなかったら、今頃お前、木っ端みじんのミンチだったんだぞ、このドアホ!」
息を切らした柾のその言葉に、恐る恐る自身の脇に落ちているものを見ると、スマートフォンだった。画面が粉々に割れて、液晶もところどころ変になって……要するに大惨事になっている。
どうやら私を見つけるなり間に合わないと悟った柾は、百メートル近くもある道の向こうから、スマートフォンを投げつけて、私を吹っ飛ばしたらしかった。
「……どうして助けるんですか。ほっといてくださったらよかったのに」
私は、終えることができなかった暗い心地のままに、ぼそりと言った。すると柾は、「お前は、馬鹿か!」と叫んだ。
「ほっとけるかよ。友達が苦しんで、苦しんで、もうどうすることもできなくなって。それで、死を選ぼうとしてる場面を見て、ほっとける人間がいるかよ!」
「……私を友達なんて、馬鹿ですか。ただの器械ですよ。玩具ですよ。私が壊れたって、代わりはいくらだっているんですよ。なのにあなたは、本当に…」
――馬鹿ですね。
という言葉は、言葉にできなかった。
――え……?
目から流れるものがあった。どうやら、どこかが壊れて、オイルが漏れてしまったらしい。彼女はもういないから、後で、修理屋で直してもらわないと……。
「……お前」
柾は、はっとした顔をすると、殴ろうと振り上げていた拳を下に降ろした。
彼は何を勘違いしているか分からないが、これは嬉し涙なんかではない。断じて違う。違うはずなのに……。
「本当に、あなたは、馬鹿です」
私は立ち上がって、そうはっきり言った。だけど、柾は怒らなかった。
「私の、大馬鹿な親友です」
私は、絶えず流れてくるオイルを手で拭った。オイルにしては、やたら水っぽいから、水滴が、たまたまボディ内に溜まっていたに違いない。そう思うことにしたけれど。
なんだか、そう思いこもうとする自分すら、可笑しく、馬鹿馬鹿しくなってきて。
「ははは……私には、まだ、あったじゃないですか。大切な物が……」
親友が、まだ私にはあるじゃないか。
私が泣きながら、可笑しそうに笑うと、なぜか柾まで笑い出した。同じように泣きながら。
もし近くに誰かいたら、きっとおかしな二人組だと思われたに違いないが、誰もいなかったから、私たちは思いっきり笑いながら、泣くことができた。
「お前、やっと認めやがったか。俺のこと友達だって」
「友達だなんて認めてないですよ。親友だって言ったんです」
「お前なあ……。そういう素直じゃないとこ、ホント好きだぞ」
「何ですか、気持ち悪い」
お互い、泣きながら笑いあっていると、ふと着信音が鳴った。
柾のスマートフォンは、ボロボロになりながらもまだ、電話としての機能をかろうじて維持していたらしい。柾は、割れた液晶を何とか操作すると、耳に当てた。
「もしもし、え……産まれそう?」
「えっ…もみ路さんですか!?」
私は、もみ路さんが確か出産予定日を過ぎていたことを思い出し、慌てて柾の肩に乗って、電話に耳をそばだてた。
「え、あ、うん……すぐ家帰るから待ってて! ちょ…ちょっと、フユどうしよ、陣痛始まったって!」
「わ、私に言わないでくださいよ! あなたのほうが二回目でしょ?! 私、こういうの、さっぱりわかりませんよ!」
ぴょんと柾の肩から飛び降りると、私は、両手を振って後ずさった。
「んなこといったって、俺もどうすればいいか、わからんもんは、わからんし!」
「とにかく、落ち着いて! まずは、奥さんを病院へ連れて行きますよ!」
「そういや、前もそうだった!」
「今更思い出すって、どれだけパニくってんですか!」
「う、うるさい! とにかく、行くぞ!」
柾は、私をひっつかむと、家への道のりを駆けだした。
もみ路さんが無事、赤ちゃんを産んだのは、その日の夜だった。
「猿みたい」
桜さんは、初めて見る生まれたての赤ん坊を、ベッドに肘をついて不思議そうに見ていた。
「……」
私も、桜さんの肩から、生まれたての彼女の弟を、なんとなく不思議に思いながら見ていた。
こんなにも小さいのに、いつかは倍以上に大きくなって。
こんなにも何も世界のことをわかってなさそうなのに、
いつかは柾みたいに、しっかりとした、一人の人間となり、
母親の腕から旅立っていくと思うと、それはとても果てしなく、神秘に満ちたことのように思えたからである。
「フユちゃん、触ってみる?」
もみ路さんがにこりと笑いかけてくれるのに頷くと、私は、そっと赤ん坊の頬に触れてみた。
自分には感覚神経がないから、感触は主観的にはわからないが、数値的にはとても柔らかく、優しく温かいということが分かった。
「……」
私も、このぬくもりが、柔らかさが、
数字じゃなくて、そうであると心で感じることができたら。
私は、何だかとても寂しい心地になった。
だから、そんな心地を見ないふりをして、ただただ願う。
この子の未来に、幸多からんことを。
かつては、ハル様もこの子のように、この世にこうして、幸せになるために生まれた。
だけど、ハル様の、彼女の父親の、そして私の。小さな道の誤りの繰り返しが、だんだんと取り返しがつかなくなって。
はるか幸せから遠くに来てしまってから、それに気づいて。
どうか、せめて桜さんやこの子だけは、そんなことにならないよう。
私がいます。
これからも傍に。
私が彼女にできなかったことを、今度こそ。この子たちに。
私は決意をした。そして、赤ん坊の手に触れる。指切りなどできない。けれど、赤ん坊は、私の手を、約束するかのように、きゅっと握ってくれた。
「メリークリスマス! フユちゃん、見てみて~!」
朝っぱらから桜さんが、部屋をハイテンションで走り回っている。サンタさんにプレゼントをもらったのがよっぽど嬉しいらしく、プレゼントの箱を掲げたまま、くるくると踊るように走り回っていた。
ちなみに、サンタは柾である。
昨日桜さんが寝静まってから、コソ泥のように抜き足差し足で部屋に入ってきた時は、思わず吹き出して桜さんを起こしてしまいそうになった。
「そんなに走り回ったら、危ないですよ! 転びますよ」
と、言ったのと、ぽてっと桜さんが転んだのは同時だった。
「……」
急にシーンとなる部屋。多分泣き出す五秒前。
私は、急いで耳をふさいで準備する。
「……」
が、いつまでたっても、初撃の大音響が来ない。頭がキーンとなるから、一発目は必ず躱さなければならないのだが、それが来ないのだ。
「……いたた……転んじゃった」
「……え、大丈夫なんですか?」
「……何が?」
きょとんと首をかしげる桜さんに、私は、「いえ…」と首を振る。
桜さんは、転んだことなど、なかったかのように鼻歌を歌いながら、プレゼントの包みを開け始める。
「……」
そういえば、もう来年の春から、小学生ですもんね……。
いつまでも、転んだらすぐに泣くような子供のままではない。
年月の流れとは、遅いようで、ある日突然早いことに気づくものなのか。
悟った心地になり、私はしみじみとした。
「買い物~買い物~たのし~な~」
その日の夕方。赤ん坊のお世話で忙しいもみ路さんのため、私は柾と桜さんと、近所のスーパーへと買い物に出かけていた。
「おかし、おかし~」
「こらっ、まて。勝手に走るな! また迷子になるぞ!」
入るなり、とてとてと駆けていく桜さんを慌てて追いかける柾。
「あのね、あのね、お父さん。これと、これとこれ買って~」
「駄目だ、駄目だ。一個だけな」
「え~~けちぃ」
私はそのやり取りを聞きながら、桜さんはやっぱりまだまだ子供だと、何だかほっとした。
買い物を終え、柾が車に沢山の荷物を積みこむのを、手伝えないもどかしさで見ていた時だった。
「こんにちは」
なんとなく、聞いたことのある声だな、と呑気に後ろを振り返った私は、そのことをすぐさま後悔した。
「……」
目の前に、久しぶりに見る男が立っていた。
「久しぶりだね、フユ」
「……」
それは、自身の生みの親――彼女の父親だった。私が最後に会った時よりも、はるかにやつれて老けていたが、見間違えるはずもない。
「柾君も久しぶりだね。随分と立派になって。君が大学に行った……ハルが四年生の時以来か」
「……」
柾も何も言わず、黙っていた。今更現れたこの男に、柾もまた警戒しているのが分かった。
桜さんを背に隠し、じっと睨みつける。
そんな私たちの反応に、男はあきらめたかのように、無理やりつくっていた笑顔を消した。すると、やつれた顔が、尚更疲れ切って見えた。そして、居住まいを直すと、言った。
「……少し、頼みたいことがあってね」
「……」
私は、何も言えず、ただ、男が口を動かすのを見ていた。
「フユを、返してもらえないだろうか?」
は……?
「今この男、なんといった?」と理解の遅い私より、柾が先に行動を起こしていた。
さっと私をつかみ上げると、桜さんに抱かせ、その前に自分は守るように立ちふさがった。
「お断りします」
柾は、はっきりとそう言った。すると、男は、少し困ったような顔をして、言った。
「……もとはと言えば、私が作って、ハルにあげた物だ……。嫁入り先にも居ないし、家に帰っても、使用人たちは何故か、頑として娘の部屋には入れてくれないし。
君なら何か知っていると思って聞きに来たのだが、まさか君が持っていたとは。……娘の遺品なのだから、返してはくれないかね」
「……お帰りください、三枝さん。あなたはご存じないかもしれませんが、フユの所有権は、既に私、御柳柾にあります」
柾は、毅然として言った。
「……相続の話でいうのならば、私は彼女の生前……二年前に、彼女との間で、フユの譲渡の契約を結んでおります。嘘だと思うのなら、交わした契約内容の書面もあります」
「……いつの間に」
「そのいきさつも知らない程の呆れた男に、どうこうと説明するつもりも義理もないので」
柾は冷ややかな目で、男を見た。
「え……」
そんな話、私は初耳であった。そもそも、柾が私の知らぬ間に彼女と会い、そのような話をしていたなどと、寝耳に水だった。
その話を聞いた男は、小さくため息をついたようであった。そして、うつむいて、何かをつぶやいた。
「……あの男から守るためか。……周到さだけは、完璧だったって言うのに……」
「なんで、あいつ自身は、あんなにもあっさりと……」
「……ぼそぼそ言うのはご勝手ですが、そこへ他人を巻き込まないでいただきたい。迷惑をかけるならよそへ行ってください。私たちはこれで失礼しますよ」
柾は、桜さんの肩を守るように抱くと、車に乗せた。
エンジンをかけるなり、「いつもと違う道を通って帰るぞ」と、柾が私に言うのに、私は「もちろんです」と頷いた。
ただ、頷いてから、思った。
何故、あの男は、私たちが買い物をしていたスーパーの前で、私たちを待っていたのか。
「……」
つまり、最初から、私たちの居場所が割れていた。
行動がばれていたなら、家の場所など、とうに割れているはずである。
「柾……あの男、諦めずにまた来ますよ……。たぶん、今度は直接家に来るのでは?」
「……そういう事か。……くっそ、すぐに引っ越しなんてできねえし……。逃げ場ねえじゃんか……」
柾は、前髪をくしゃりとつかんだ。
「……柾、あの、先程の話なんですが……」
「……」
言わずとも、柾には、分かったらしい。私の視線に、耐えきれなくなった柾は、「お前には絶対に言うなって言われていたんだけどな」と、諦めたかのように、口を開いた。
「あいつ……、夫が色々と危険な奴だと、知ってな……二年前、こっそりと俺のところへやってきたんだ。有名企業の看板の裏で、金と名声の為ならばと、世間に言えないようなことを色々とやっている奴だったらしい。
ハルの奴……そいつに、もしもお前の存在を知られたら、お前を奪って、分解して、体の技術を奪おうとするだろうと心配していてな……。
もし、自分に何かあったときに、お前には決して手が出せないよう、記憶のバックアップのデータも含めて、お前に関する何もかも、所有権を手放したんだよ……。自身のところから、完全にデータも何もかも、破棄してな……」
「……何かあったとき……? ……まさか…」
「……ああ、そのまさかは、多分今となっては、既に現実になっている。だけど、警察も結局手を出せずじまいなところを見るに、一般人の俺達にはどうすることもできない。ただ、ハルの冥福を祈ることぐらいしか……」
柾は、小さく「くそっ」と悪態をついた。悔しそうに、遠く遥か前を睨んでいる。
「……」
そんな危険な男のもとに、彼女は一人ぼっちでずっと、
そんなことも知らず、私は、柾たちと毎日、呑気に楽しく暮らしていて――。
私は、結局、彼女に守られるばっかりで。
「……私は、何にも、守ってあげられなかった……」
ぽつりとこぼした言葉に、柾は片手をポンと私の頭の上に乗せた。
「……お前が気にすることじゃねえよ……。悪いのは、お前じゃない」
「だけど」
「何もかも悪いのは、ハルを放置した糞野郎と、ハルを殺した糞野郎だ。お前は何一つ悪くない」
「……」
そうは思いたくても、
自分のふがいなさが、身に染みて――
私はただただ、自身の小さな両手を見つめて、
私はただただ、無力な自身を、恨んだ。
翌朝。
柾は仕事に行く前、もみ路さんにしっかりと家の戸締りを頼んでいた。
そして、誰かが来ても、知り合いではない限り、決して扉は開けないように
変だと思ったらすぐに電話をするか、警察を呼ぶようにと、出て行った。
幼稚園も冬休みなため、私は朝から桜さんと部屋で、おままごとをしていた。今では桜さんも成長していて、私の口におもちゃのニンジンやら、ピーマンやらをつっこんでくるようなことはしない。
私は、色々な意味で嬉しく思いつつも、その成長に、何だか置いてけぼりをされたような心地がして、しんみりとしていた。
「よし、おままごとは今日は終わり! 次は、本を読んであげるね、フユちゃん」
桜さんは、ごそごそと「なんの本がいいかなあ」と、本棚をあさっていた。そして、ある一冊の本を持ってきた。確か、『人魚姫』を有名な映画会社がアニメ化して、それを絵本にしたもののはずだ。
ふと私は、あの日の記憶を思い出した。
あの日、彼女は、『人魚姫』を確か「暗くて救いのない話」と言っていた。
だが、桜さんが何度も読んでくれたそれは、人魚のお姫様が王子様に恋をし、悪い魔女に足の代価として声を取られるものの、王子様が魔女を倒し、声も取り戻して、王子様と結婚して幸せに暮らす話だった。
彼女は、冗談を言っていたのだろうか。
それとも、彼女は、何か別の物語と、間違っていたのだろうか。
ならそれは、一体何の物語だったのだろうか。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そんなことを考えていた時だった。
「……フユちゃん」
もみ路さんは不安そうに赤ん坊を抱くと、私を見た。私は廊下にそろりとでると、インターフォンの画面を見上げた。そこにいたのは、予想を裏切ることなく、あの男であった。
「静かにして、居留守を使いましょう」
「ええ……」
しかし、男はあきらめなかった。何度もチャイムを、一定の間隔を開けて押し続けている。そのたびに、ガチャガチャとノブを回してくるのは、恐怖以外のなんでもなかった。
「しつこい、ですね……」
「柾さんに、電話しましょう……」
「それがいいですね」
もみ路さんは電話した。しかし、呼出音がなるだけで、つながらない。年末年始は、神職は忙しいから、きっと出られないのだろう。
「次は警察ですね」
「ええ……」
と、ふと、静かになった。
画面には誰も映っていない。あきらめたのだろうか。
念には念を入れて、三十分ほどしてから、そっと、玄関を開けて辺りをうかがった。
誰もいなかった。
「あきらめた、ようですね」
「よかったわ……」
私は、もみ路さんと顔を見合せ、ふうとため息をついた。
「幼稚園、行きたくない」
明日から冬休みが明ける日。桜さんは私を抱いたまま、ゴロゴロと床の上を転がって、駄々をこねていた。
「ずっとフユちゃんと遊んでるぅ。めんどくさいから、やだあ」
「こまったわね」と頬に手を当てるもみ路さんに、私は、「まあ、明日になれば気が変わりますよ」と苦笑いしながら言った。
あの日以来、不安な年末を過ごしたが、あの男はもうやってくることはなかった。
柾は、職場の人にも事情を話して、できるだけ、電話を家に掛けてきてくれた。だけど、あの日以来、逆に気味の悪いぐらいに、あの男からの音沙汰はなかった。
「にしても、去年も、あっという間に一年が過ぎましたね」
「ほんとねえ。年を取るたびに、毎日があっという間ねえ。なのに、体は確実に老けてきて、いやんなっちゃう。小じわも目立ってきたし、いつの間にか、白髪まで生えてきたのよ~」
「いえいえ、まだまだお美しいですよ」と言えば、「やだねえ、お世辞ばっかりうまくなっちゃってえ」とぺしりとはたかれた。
老ける、か。
機械である私には、寿命などないし、老ける、ということもない。たとえ、経年劣化があろうとも、その部分を取り換えれば元通りだ。
そこまで考えてから、私は急にその場に一人、取り残された気分になった。
いつかは、柾ももみ路さんも、私より先にいなくなってしまうだろう。桜さんや赤ん坊の柊さんも、いつかは大人になって、いつかは年老いて、いなくなってしまう。
自身も何らかの影響で、いつか完全に機能停止になる可能性はないとは言いきれない。
けれども、普通に考えると、いつかはきっと、皆、私を置いていなくなってしまうだろう。
いつかは、一人ぼっちになってしまう……?
ただただ終わりのない期間を、幾度もの別れの寂しさを抱え、自分だけが延々と生きていく。
それは、とても恐ろしいことのような気がした。
――だけど、
ふと私は、彼女を失った後の、自分のことを思い出し、思った。
彼女との思い出を抱きつつ、彼女が知らぬ時間を、彼女が出会えなかった人々と共に歩んでいく。
彼女が見られなかった、これからを、未来を歩んでいける。
彼女の代わりに、私が――。
それはとても、寂しくも、幸せな事のように思えた。
……と、
――ピンポーン
チャイムが鳴った。
もみ路さんと私は身構えた。あの日から来客などなかった。久しぶりの来客は、そうでなくとも、あの男が来た可能性を予期させたからだ。
果たして、モニターに映っていたのは、あの男だった。
「しつこいですね……」
もみ路さんが震えながら、柾の電話番号をスマートフォンに表示させた時だった。
何やら、ドアノブから、ウィーン、かちゃかちゃと謎の音がして――
ドアが、開いた。
「は……?」
恐怖でスマートフォンを落としてしまうもみ路さん。私はその前に、守るかのように立ちふさがった。
――あの野郎、ピッキングしやがった……。
玄関に入ってきた男のその手には何やら、一般的な針金ではなく、電動ドライバーのような器械が握られていた。
どうやらこのままでは私を手に入れられないと踏んだ男は、この一週間の間に、頭脳と技術の無駄遣いの結晶を作り上げ、動員したらしい。
こういうところが、ハル様に遺伝したのか。きっと彼女は、その事実を否定したがるだろうが、私の経験上はそう認めざるを得ず、それが尚更癪に障った。
「だから、オートロックマンションに住めと、あれほど……」
私が、腹ただしげにつぶやくと、もみ路さんが震えた声で言った。
「いつか、実家に帰るから、そこまでお金をかけていられないって言ってたのが、仇になっちゃったわね……柾さんのバカ、甲斐性なし」
「ほんとそうです……って、もみ路さん、今はそれどころじゃないです! 警察!」
私が呑気に頷きかけて……我に返って、叫んだ時だった。
「すまなかった……!」
土下座した。
誰がとは、目の前の男が、玄関で、である。
「許してくれ、とは言わない。ただ、すまなかった……」
男が、泣いていた。やつれた皺だらけの顔を、さらにくしゃくしゃにして、泣いていた。
「……」
私は急なことに、理解が追い付かず、固まった。そんな私の前で、男は頭を下げ続ける。
「ハルを、ほっておいたことも! ハルをあんな奴の所へ行かせたことも! 全部、私のせいだ。馬鹿な私がやってしまった、取り返しのつかないことだ。……私がハルを殺したようなもんだ」
「……」
男は、ごめんなさい、ごめんなさいと、子供のように何度も繰り返した。
大の男が、泣きじゃくるその姿は、ただただ哀れで、私ですらうっかりと、同情を禁じえなかった。
だが、この男は、信用できない。今更、何を言っているのか。
「泣き落としですか? えらく舐められたものですね」
しかし、男にはそんな悪態も聞こえていない。ただただ、泣き続けていた。
ただただ、声を上げて泣き続けていた。
「……」
噓泣き……?
……いや、それにしては、哀しすぎる泣き方……
色々な人の泣き方を見てきた訳ではないから、そういう泣き方であると確実な判断はできない。ただ、自身の主観としては、とても哀しい、泣き方だった。
何を思えば、こんなにも哀しい涙を流すことになるのか。
それは、ハル様への、後悔と、謝罪の気持ち――?
この男は、ハル様のことを、ほんの少しだけでも、愛おしく思っていたということ――?
「……フユちゃん」
もみ路さんが、おろおろとして、私に話しかけた。彼女も、どう対処したらいいのか、迷っているのだろう。
私も、どうしたらいいのか、どうしたら正しいのか、すぐには分からなかった。ただ、そうこうしている間に、外の廊下には、この騒ぎを聞きつけ、人が現れ始めていた。
「……」
ここで取るべき行動としては、とりあえず警察を呼んで、この男に帰ってもらうことだろう。後のことは、柾に相談してから、判断すればいい。それが正解のはずである。
だが、私は、そうすると、何だか二度とこの男に会えない気がして――いや、それはそれでいいのだが、この男の哀しい泣き方の真意が、この男のハル様への気持ちが、二度と問いただせない気がして――。
普通のAIなら、絶対に選ばないだろう回答。柾に、絶対に最も怒られるであろう回答。
――不正解を、あえて選ぶことにした。
「……もみ路さん、柾に電話をかけてください」
「……ええ」
もみ路さんは、落としていたスマートフォンを拾うと、画面を触った。
「この男と話をしてきます。そう柾に伝えます」
「え…!? ちょっと?! フユちゃん?!」
もみ路さんが、仰天している。私は、悪いと思いながらも、強い調子で頼んだ。
「いいから、よろしくお願いします」
「……」
もみ路さんは黙って、呼出音のなる電話を、不安そうに私に渡した。
慌てた様子で、電話に出た柾にも、申し訳ないと思いながら、私は口を開いた。
「柾、あの男が、家に来ました。玄関の床で泣いて、土下座して謝っているんです。『私がハルを殺したようなもんだ』って」
『……土下座…? ……演技に決まっているだろう、そんなもの。というか、玄関の床?! お前、まさか泣き落とされて、ドアを開けたのか?』
「……いいえ、開けたというか、こじ開けられて入ってきたんですが」
『はあ?!』
「自作の器械で、ピッキングして入ってきました」
『おまっ……、なんでさっさと警察を呼ばない!?』
柾が、素っ頓狂な声を上げた。あまりにも大声だったため、耳がキーンとする。まあ、そう思うのは、一般的な思考としては、当たり前だろう。
「まあまあ、ちょっと、落ち着いて話を聞いてください、柾」
『ピッキングされて、家に侵入してこられて落ち着いていられるか、馬鹿! さっさと警察を呼べ! 俺もすぐそっちへ行く!』
「……呼びません」
私は一つ呼吸をすると、思い切ったように言った。
「これから、私は、この男が何を考えてここへ来たのか、今まで何を考えて生きてきたのか、この男と話しに行きます」
『……はあっ?!』
これまた柾が、大声を上げたので、私は慌てて電話から耳を離した。しかし、言いたいことは言わなければと、私は声をもっと大きくして、言った。
「この男が今まで、ハル様に、何を思って生きてきたのか、聞いてみたくなりました。この機会を逃すと、もう聞けない気がして。だから、私はこの男についていきます」
『おまっ…何を考えてんだ?! 借金が原因で、あの社長の下で、操り人形にされているそいつを、信用なんか一ミリもだってできる訳がないだろう?!』
「私もその通りだと思います。だけど」
私は、手を握り締めると、言った。
「このまま何も知らないままだと私は、一生後悔する気がして」
『……』
「ハル様が、ずっと知らなかったこと。ハル様が、知りたくても聞けなかったこと。せめて私が知ってあげなくては……。
彼女が一ミリも愛されていなかった、幸せになる事を一ミリも望まれていなかった
……そんなことはなかったと、せめてこの世界の中で、私だけでも知ってあげないと」
私は、ぐっと腹に力を込めて言った。
「私は、」
「彼女は……彼女の一生は、『とても可哀そうだったね』の一言で、終わらせたくないんです。」
『……』
柾は、しばらく何も言わず、黙っていた。だけど、ふうと息をつく音が聞こえて、その後で静かに言った。
『……分かった。ただし、その男の元へは行かないよな』
元へ、と言うのは、一緒に住むという事だろう。
「いいえ、もちろん。私の家は、ここだけです』
すると、柾は、強い調子で言った。
『必ず、帰って来いよ、必ず。……約束だ。男と男の約束だからな。絶対に破るなよ』
「男と男って、前にも言いましたが、私に性別はないのですが……」
『お前な……こんな時に、そういう細かい所を気にするなよ』
柾は、「変なところばっか、ハルに似やがって」とぼやいた。だが、私にとって、彼女に似ていると言われるのは、大歓迎であった。
「いいですよ。約束。男と男の、約束です」
私は、ほほ笑むと頷いた。柾も『仕方ない』といったふうに、あきらめ半分で「ああ」と頷いた。
『……何かおかしいと思ったら、すぐに迎えに行く。GPS、ちゃんとバレないように、オンにしておけよ。ハルが体内に後付けた物だから、その男は知らないはずだ』
「ええ……」
『後……お前に何かあったら、泣く人間がいることを、絶対に忘れるなよ』
「ええ……」
私は、不安そうに見つめているもみ路さんと桜さんを見て、幸せな心地でほほ笑む。
「もみ路さん、今回の件ですが、私はこの男と……」
電話を切り、これからの次第を伝えようとした私に、桜さんがとてとてと、駆け寄ってきた。
「フユちゃん、どっか行っちゃうの?」
泣きそうな顔で、私を抱きしめる桜さんに、私は安心させるかのようにほほ笑んだ。
「大丈夫、少しご用事ができただけですから。それを終えたらきっと帰ってきますから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとですよ」
すると、桜さんは、しばらく小さく「うう……」と泣きそうに唸っていた。
しかし、ごしごしと、目を腕でこすると、言った。
「うん、桜、我慢する。だから、ほんとに帰ってきてよ」
「はい」
「嘘ついたら、ハリセンボン飲ますからね」
「針、千本ですよ」
「ちっちゃいとこ、うるさい」
「はいはい」
桜さんが、ぷうと頬を膨らませるのに、私は苦笑しつつ、思う。
――本当に成長したな。
私は、愛おしい心地で、彼女の頭を撫でた。
私は、こんなにも必要とされて、
私は、こんなにも必要として、
本当に、幸せ、です。
あなたたちがくれた、この愛おしい毎日は、
あなたたちが、守ってくれた。
今度は、きっと私も一緒に守りますから。
だから、今回だけは、わがままを聞いてください。