『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』魔王討伐編

 リヒト王子の妨害により『光の聖女』が魔王討伐に参加出来ない。
 そんな状況が一週間ほど続いた頃、騎士団の中には焦りや苛立ちを感じる者もいた。

 馬鹿げた話である。
 戦うために異世界から招かれた人間を、鳥のように囲って愛でるなんて、愚かしいとしか言えない。
 この行動により、リヒトの騎士団における評価は更に下がった。
 確かに、先日と同様の事件が起こる可能性はある。だがその上で戦うのが、『光の聖女』の役目なのだ。
 共に戦うためには信頼が必要だ。
 騎士は『光の聖女』を信じ命を託し、『光の聖女』は騎士を信じ命を託す。その信頼がなければ、『加護』は生まれない。

 そして魔王討伐の後から一週間。ローズはずっと、魔力の制御の訓練をしていた。

「なんとか、力の調整は出来るようになったでしょうか……?」

 遠くにある的を狙い魔法を放つ。
 もともと弓矢の訓練に使われる的であるが、漸く中心を集中して穿てるようになり、ローズは一安心した。
 測定不能の魔力。
 強すぎる魔力は、使いこなせなければ味方を危険にさらしてしまう可能性だってある。

「こんにちは。精が出ますね、ローズ様」
「こんにちは。ライゼン」

 アルフレッドは、今日もあの少年と一緒だった。
 ウィル・ゲートシュタイン。
 少し変わった少年だが、彼は光魔法と風魔法に適性を持つらしく、ユーリと同じく風魔法を組み合わせた剣の腕は確かなものだ。
 光属性も持つ彼には動物が集まりやすいらしく、よく毛やら羽やらを頭につけていた。
 そして彼の周りは、ローズの知る光属性の適正者同様、いつもどこか空気が澄んでいるようにローズは感じた。

「ウィル、挨拶」
「……おはようございます」
「おはようございます。ゲートシュタイン」
 ローズは笑顔でそう返した。だが、もうすぐ正午である。

「おはようじゃないだろ!? おはようはお前だけだ!」
「…………」
「おい。目を閉じるな!!」
「ライゼン、無理にゆするのは……」

 ローズは苦笑いした。
 幼馴染だという二人を見ていると、ローズは少しだけ昔が懐かしくなって胸が痛んだ。でも喧嘩をしている二人は、仲の良さがわかって微笑ましくも見えた。
 全力でぶつかりあえるのは、信頼し合っている証だ。

「ローズ様」
 そんなことを考えていると、ユーリに名前を呼ばれてローズは振り返った。
 アルフレッドとウィルは、ユーリに頭を下げる。

「ここにいらしたのですね」
「はい。新しい石にも慣れなくてはいけませんから」
 ローズは当然のように言った。
 ユーリは、彼女の前――遠くにある的を見て顔をこわばらせた。
 ――一体どうやったら。こんなことになるのだろう?

「それにしても……凄い精度ですね」
 ローズの魔法は的の真ん中の、更にその真ん中を正確に射抜いていた。

「そうですか?」
 一発で針に糸を通すような精密作業だ。しかも連続だなんて、並の技術と集中力では出来ない。
 ある意味、ローズの性格がとても良く出ているとも言えた。彼女は昔から大雑把なようで、無駄に細かいところまで気にする。

「ユーリだってできるでしょう?」
 ローズの問いにユーリは苦笑いした。
 自分が出来ることを努力すれば他人にも出来ると考えてしまうところは、才能がある人間の考え方だ。

「出来なくはありませんが、私の魔法の有効範囲はローズ様よりも狭いので、あまり得意ではないですね。接近戦が得意なのはそのためですし」
「そうなのですか?」

 ローズはきょとんとした。
 確かにユーリが風魔法を使う時、その範囲は決して広くなかったことを思い出した。

「グラン様にも、魔法そのものはそこまで強くないと言われましたし。私の剣は、魔法と自分の剣の組み合わせですから」
「それでも騎士団長なのだから、ユーリはすごいです」
「そ、そんなことは……」

 ローズに褒められてユーリは頬を染める。けれどその後、彼は小さな声でこう付け足した。

「……そもそも私が団長に選ばれたのは、ビーチェの推薦あってこそですし……」
「?」
 ユーリの言葉がよく聞こえず、ローズは首を傾げた。

「あの、ローズ様。もしよろしければ、これから少し付き合っていただけませんか?」
「……それは大丈夫ですが」
「ありがとうございます……!」
 ローズに見えないよう隠したユーリの手は、いつもより少し濡れていた。
「どこに行けばよいのです?」



「すいません。こんな所に付き合わせてしまって」
「構いませんよ」

 ユーリがローズを連れてきたのは、『春の丘』と呼ばれる場所だった。
 沢山の花が咲く『春の丘』には、薬草が植えられている場所もある。ユーリのローズへの『お願い』は、薬草摘みの手伝いだった。

「ローズ様なら、植物にも詳しいだろうと」
 リストを見ながら、もくもくと薬草を摘んでいくローズ。
 ユーリはそんな彼女を見て苦笑いした。パーティーの時も思ったが、この分野にまで造詣の深い令嬢は、この国だけでなく世界でもローズくらいだろう。

「そうですね」
 手袋を付けて作業をしていたローズは、作業が終わったのか立ち上がって手袋をはずした。

「……それなりに、勉強はしています」
 古来、光魔法と医学・薬学は、別個のものとして扱われてきた。
 光魔法は、ある一定の基準を満たす魔力を持つ人間であれば、一日以内の傷は、切り落とされた腕であろうと繋げることも可能だ。
 それはまさに、『魔法』というに相応しく。
 しかし人体に多くの影響を与える光魔法は、多くの魔力を消費する。
 故に光魔法による治療は、非常に高価なものになってしまう。

 この世界には、魔法を使える人間とそうでない人間がいる。
 魔法を使える人間は貴族に多く、これが経済的な格差に繋がっているとも言われており、魔法を使える者は民を思い行動するのが美徳・責務であるとされているが、流石に大きな病や怪我にまでは力は回らない。
 魔法を使った治療を、平民が受けることは難しい。
 それにローズやアカリのように規格外の潜在能力を持つ人間となると、どの国にも一人か二人しか生まれず、彼らが大掛かりな魔法を使うことは、国が止めることが多いのだ。

 それは王族の有事の際、彼らが常に魔法を使えるようにするためで、そもそも今のように魔王討伐に二人とも参加しているということは、異例中の異例だ。

 これまではそのように、別のものとして分けられていた魔法と知識であったが、最近になって魔力を持つとある変わり者の伯爵によって、距離は一気に縮まった。
 研究が進められたのは、ここ数十年のことだ。
 変わり者の伯爵家の当主が、自身の特殊な魔力を有効活用するために、研究を推し進めたと本で読んだのをローズは記憶していた。

 確か今、その研究はその後継者に受け継がれているとの話だった。ローズが、毒草を薬草として使用できると知っているのもそのためだ。

 話によると、次期伯爵としても信望を集めているその人物は、三年ほど前に死に至る病とされていた病気の特効薬の開発に成功したと、ローズは聞いたことがあった。
 ちなみに、アカリが触ろうとした毒草を城に植えるよう指示したのはリヒトの父のリカルドである。
 クリスタロス王国の城には、実は花に見せかけた薬草が多く植えられている。
 ――リヒトは知らなかったが。

「でもそういえば今日のこと、どうして本人が来なかったのですか?」
 今回の依頼は、ユーリではなくローズが指名されていた。
 紙に書かれた文字はきっちり整理されていて、こんな文字を書く人間なら大事な薬の原料の採集を、見ず知らずの他人に頼むなんて、ローズはとても思えなかった。

「私に頼んだ相手がここに来ると、花が異常成長してしまって景観を崩す恐れがあるので」
「?」
 ユーリはそう言うと苦笑いした。
 ローズは首を傾げた。
 植物の異常成長ということは、ユーリにこれを頼んだ人物は、地属性の適性を持つ人間ということだろうか。まあそもそも、ここ数十年薬学に興味がある人間となると、地属性に適性がある人間が多いのは事実だが――。

 成長を促進させる魔法を故意に使わない限り、異常成長など普通は有り得ない。
 自分に依頼した人物についてローズが思案していると、ユーリがローズに訊ねた。

「毒草と薬草を見分けるコツでもあるのですか?」
「あるにはありますが、ユーリには難しいと思いますよ」
「……どうしてですか?」
「見分けるには、地属性に適性が必要だからです」
「地属性の?」
「ええ。勿論知識は必要ですが、地属性に適性を持つ場合、植物の持つ能力というのは、なんとなくわかるんです。地面に根が広がっているから、その本質を理解できるといわれています。ただ適性があってもここまでで、どう組み合わせるべきかやどう魔法をかけるべきかということは、地属性のみではわからないので研究が必要なのです。毒と毒を混ぜることによって、薬になるという話も聞きますし」

 ローズは淡々と話す。

「刺されたら死に至ると恐れられていた海洋生物の持つ毒が、希釈することによって人体に影響のない麻酔になるという話も聞きますから、そもそも毒と薬、その他と分けることの自体が誤りなのかもしれません」
「そうなのですね……」

 ユーリはどれも初めて聞く内容ばかりで、頷くことしか出来なかった。
 まるで教師と生徒のように、ローズは首振り人形化しているユーリを見て少し笑うと、持ってきていた籠を彼に差し出した。

「ユーリ、そろそろお昼にしませんか?」



 春の丘にある大きな樹の下、二人は地面に座ると、今日の昼食を取り出した。
 柔らかな花の香り。すこし湿った土の匂い。そして、草木の微かな苦さと爽やかさが、風に乗って運ばれてくる。
 空は快晴。青い空はどこまでも澄んで見える。
 外で食べるのに、今日ほど適した日は無いだろう。

 今日の昼食はサンドイッチだ。
 ローズは、とりあえず一つ彼に渡した。
 元々アルフレッド達と一緒に食べようと思って持って来ていたので、ユーリの分は十分ある。

「ありがとうございます」
 ユーリはがぶりとサンドイッチに齧り付いた。
「おいしいですね」
「よかった。それ、私がつくったんですよ」
「……これをローズ様が!?」

 ローズの手料理。
 ユーリからすれば、それだけで感無量だ。
 てっきりミリアが作ったとばかり思っていたユーリは、もっと味わって食べればよかったと少しだけ後悔した。
 そんな時。

「懐かしいですね」
 ローズが空を見上げて言った。
 
「こうしていると、あの日々のことを思い出します」
 ローズは目を細めた。空には、鳥たちが悠々と飛びまわっている。

「そうですね」
 ユーリもローズに傚い、空を見上げて目を細めた。

「本当に懐かしい……あの頃は、こうやって過ごすことが、当たり前だと思っていました」
 ユーリの言葉にローズも頷く。

「あの頃の私は、小さくて弱くて。ユーリたちを見ていることしか出来なかった。こんなふうに、貴方と話す日が来ることなんて想像もしていませんでした。――でも、今は」

 ローズはそう言うと、目線を下げて自分の手を見た。

「昔は出来なかったことも、今は一人で出来るようになりました」
「ローズ様……」

 ユーリは彼女の名を口にしていた。
 今の彼女には強い意思と共に、誰かが繋ぎ止めなければ風に飛ばされてしまいそうな、そんな脆さを彼は感じた。
 ユーリはローズに向かって手を伸ばそうとした。
 けれど手が届く前に、ローズはきゅっと唇を噛んで、いつもの表情《かお》に戻ってしまった。

「ユーリ。先日の魔法陣について、なにかわかったことはありますか?」
「いいえ」
 ユーリは首を振った。
 本来であればユーリは、部下であるローズに情報を開示する責任は無い。

「一応指輪の調査は行ったのですが、式は完全に壊れていて復元も不可能とのことでした」
 だというのにその問いに答えてしまうのは、ユーリの甘さだった。

「そうですか……」
 ローズは、得た情報をもとに考え込む。
 魔力によって使える魔法の威力は変わるが、魔法は基本、属性への適性と式さえあれば発動出来る。そして解呪の式も含め、石に書き込まれた式は通常他の石に書き写すことが可能だ。

「それとローズ様の指輪の石についてですが、少し不可解なことがありまして。あの石がなんの石か、結局わからなかったそうです。ローズ様は石に荷物を収納されていたとのことですが、石は本来魔法式を書き込むことは出来ても、荷物の収納までは出来ないそうで……そこまで大きな空間を持つ石は、記録に無いとのことです」
「そうですか」

 あまり気にしていなかったが、やはり異常なことだったらしい。
 ローズは顔を顰めて考えていたが、ユーリにじっと顔を見られていることに気付いてから笑顔を作った。
 もともと気が強そうと言われる顏なのだ。これ以上怖い顔をしてはいけない。

「薬草も無事集まりましたし、ご飯も食べましたし帰りましょうか?」
 籠を持ち立ち上がったローズは、そう言うとユーリに手を差し出した。



 帰り道、ユーリはずっと先程のローズのことを考えていた。
 空を見上げる瞳、言葉。何もかもが、彼の不安を膨らませる。
 指輪のことだってそうだ。
 もう同じ魔法が使えないなら、今度は本当にローズは死んでしまうかもしれない。

「……ユーリ?」
 騎士団の門の前で、ユーリは扉を開こうとしたローズの前に立ち塞がった。

「……ローズ様。やはり貴方が、魔王と戦うなんて危険過ぎます」
 ユーリの瞳は不安に揺れる。
 そんな彼を、ローズは真っ直ぐに見つめていた。
 ローズはユーリの唇に人差し指を押し当てると、「お願い」とでもいうように少し悲しそうな顔をした。

「言わないでください。……私を、騎士でいさせてください」
「……っ!」

 自分の唇に触れる感触に、ユーリは声が出なかった。自分に向けられる何もかもが、彼から思考を奪ってしまう。
 ユーリではローズを止められない。
 動けないユーリを置いて、ローズは騎士団の門を開いた。

「お帰りなさい」
 門を抜けると、アルフレッドがローズにそう言って笑いかけた。

「ローズ様は、団長のことをどうお考えなのですか?」
「ユーリは、私の大切な幼馴染。過保護すぎるのは反省して欲しいけれど」
「手厳しいですね。そしてそんな相手にああ言われても、ローズ様は騎士をやめるつもりはない、と」
 アルフレッドは苦笑いする。

「私は今騎士をやめることは出来ない。約束したから。この国を守ると」

 ――誰と、とはローズは口にしなかった。
 ローズはそう言って遠くを見やる。まるで過去に思いを馳せるかのように。

「……やはり彼女は、騎士には相応しくない」

 その様子を見ていた小さな影は、静かに目を伏せてその場を去った。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ローズ・クロサイト様。会議への参加をお願いします」
「え?」

 翌日、ローズがいつも通りアルフレッド達と訓練をしていると、突然そう言われてローズは驚いた。

「なんでローズ様が……」
 しかし当のローズより、アルフレッドの方が驚いているようだった。
「そもそも会議とはなんなのですか?」
「……内容は僕にはわかりませんが、騎士団の会議には、統括する立場の人間のみが参加するものかと」

 アルフレッドは静かに答える。
 となると、ローズには余計に呼び出される理由がわからなかった。

「どうして私が?」
「副団長が、貴方も参加するようにと」
「副団長……?」 
 問いの答えに、ローズは更に首を傾げた。
 ローズは当の副団長とは、これまで一度も言葉を交わしたことが無かった。
 ローズは顔を顰めた。
 もしかしたらその副団長は、自分にとって警戒すべき相手なのかもしれない。ローズは何故かそう思った。

 会議の議長を努めたのは、先日の魔王討伐の際、ユーリの隣にいた少年だった。
 彼の補佐をしているのは、ローズを過去捕縛した少年だ。
 副団長とは彼だろうか? 黄緑の瞳と目が合ったが、すぐに視線を避けられる。ローズは机の下で拳を作った。
 やはり、良い印象を持たれていないのは確実らしい。

「資料の通り、魔力が高いとされている者たちから順に、眠りについています。王族だけでなく平民出の人間も含まれるとなると、王子のみを狙ったものとは考え難い。また同時期、魔王が巨大化したという記録が上がっています」

 会議の内容は、ローズが騎士としてではなく、公爵令嬢として父から話を聞いていた内容だった。
 あの魔王討伐作戦から一週間。
 世界中で高い魔力を持つという王子たちが眠りについているという話を、ローズは父から聞いていた。
 しかし魔王が大きくなっているという話は、初めて知る話だった。

「それは……」
「他国の王子たちが眠りについた時期は、魔王が巨大化した時期とも一致します」

 淡々と彼は話す。

「昨日、私は前回の討伐隊の際、襲撃を受けた地点まで向かった結果、各国から流れ出た魔力が、全て魔王に注がれていることが判明致しました。またこのことから、クリスタロス王国で十年前から眠り続けているお二方の魔力も、魔王の魔力の供給源になっていることがわかりました」

「なんだと!?」
 しかし明かされる内容が内容だけに、立ち上がって声を上げる者も居た。
 当然だ。

「このことに気付けなかったのは、私の落ち度です。申し訳ありません。魔王が復活したのが三カ月前。一○年も昔のことが、今になって影響を及ぼすとは考えておりませんでした。魔王は魔力の強い人間の生命活動を最低限に保ち、その器に本来満たされるべき魔力を、自らの力として吸収している可能性があります。三ヶ月前の魔王の復活は、彼らの魔力を十年間蓄えた結果、漸く復活出来たという見方もできるでしょう」

「……では、レオン様がこの国を脅かしていると?」
 老年の騎士の一人が、声を震わせて尋ねた。

「――その言い方は相応しくないでしょう。彼らは奪われているだけに過ぎない。魔法の行使を人は意識して行いますが、魔力の貯蔵・回復については、本人の意識は介在しないのですから」

 あくまで冷静に、ベアトリーチェは持論を述べる。

「おそらく魔王の核とは、魔力を吸収し貯蔵する力を持つ石なのでしょう。……これまで魔力を貯蔵出来る石は、神殿の石以外には存在しなかった。その石が人の生命力を奪うという話も聞いていない。けれど先日、ローズ様の指輪にかけられた保護魔法の発動により、『魔力を保存できる石』が他にも存在しうる可能性が出てきました。だからこそそのような石がもし存在し、かつ何らかの原因で闇の力の影響を受け、それがまるで生き物のように魔力を捕食し成長したのだとしたら――……」

 彼は静かに目を伏せる。

「もしかしたらその石のことを、私たちは『魔王』と呼び、恐れているに過ぎないのかもしれない」
「なん、だと……!?」
「それを証明するために貴方をお呼びしました。……ローズ様」

 一同に視線を向けられて、ローズはびくりと反応した。

「――私、ですか?」
「ええ。そのために、私に貴方の……」

 ベアトリーチェはローズに対し、好意的な表情を見せていた。
 ――今、この状況においてのみは。
 ローズは拳に力を籠めた。自分を見つめる彼の印象は、その外見とまるで一致しない。
 年の離れた大人が、年下相手に自分の都合のいいように話を進めているような――今日自分が呼ばれたのは、彼の陣地に無理やり引きずり込むためのような――そんな威圧感が、彼の言葉にはあった。

 飲みこまれる。
 ローズは、彼の瞳を精一杯見つめ返した。
 けれど相手は、ローズのことなど歯牙にもかけていないという様子だった。
 今のローズにとって、一秒は一日にだって感じられた。
 ――この人は、怖い。
 ローズがそう思い、彼が――ベアトリーチェが、薄く笑ったまさにその時。

「ローズ・クロサイト! 出てこい!」

 会議室の外から聞こえた声は、張り詰めた空気を断ち切った。
 怒っている、子どもの様な声。

「……何やら、外から声がしますね」
 ベアトリーチェは窓を向き目を細め、眉間に深い皺を作った。
 ローズは窓を開けると、風魔法を発動させて窓から外に飛び降りた。
 あまりの素早さに、誰も止めるものは居ない。
 ローズはふわりと地面に着地すると、声の主を見て顔を顰めた。
 建物の外には、ローズの元婚約者であるリヒトがいた。

「……リヒト様、何故ここに居らっしゃったのです?」
 険しい表情を浮かべるリヒト相手に、ローズは尋ねる。
 リヒトは、まさか窓から飛び降りるとは思っていなかったため目を瞬かせていたが、ローズの言葉に我に返ると、すぐさま彼女を罵った。

「ローズ! お前、俺に呪いをかけただろう!」
「人を悪人のように言わないでくださいますか? 私がそんなことをして、一体何の得になるというのです」
「じゃあなんで、俺の魔法が弱くなっているんだよ!」
「知りません。王子自身に身に覚えはないのですか? 最近変わったこと、など」
「あるわけないだろ!?」
 リヒトは憤慨した。

「人の魔力を奪うなんてそんな芸当、出来るのはお前くらいしか考えられない」

 リヒトはさも当然のように言った。
 とんだ偏見だ、とローズは思う。彼は自分のことを、いったいなんだと思っているのか……。

「あ」
 しかし会話をしているうちに、ローズはあることを思い出した。

「……そういえば私の話になりますが、先日の魔王討伐の際、以前いただいた指輪が壊れました」
「は……はあっ!? お、お前! あれは王家の財宝の一つだぞ!?」
 リヒトは焦っているようにローズには見えた。

「え?」
 ローズは首を傾げた。

「何故そんな大切なもの、私に下さったのです?」
「――それは……」
 ローズの問いに、リヒトは口ごもった。唇を噛んで、彼はローズから顔を背けた。

「……リヒト様?」
 ローズはリヒトに手を伸ばそうとした。しかしその行動は、冷たい声で遮られた。

「喧嘩はよそでやってくださいますか? ローズ様、リヒト様」

 ローズとは違い、階段で降りてきたらしい彼は、二人に侮蔑の目を向けていた。

「リヒト様。貴方には一国の王子として、このような行動は謹んでいただきたい」
「……!」
 まさか騎士団で叱られるなんて、リヒトは予想もしていなかったのだろう。碧の瞳が大きく見開かれる。

「レオン様とは大違い、ですね。――私は願えるなら、リヒト様ではなくレオン様のために戦いたかった」
 そして次に彼にかけられた言葉によって、リヒトの顔から表情が消えうせた。

「ビーチェ!」
 その姿を見て、ユーリは思わずベアトリーチェの名を呼んでいた。
 リヒトはローズを苦しめた。このことで、ユーリ自身リヒトを憎んでいるのは確かだった。
 それでも、ユーリにとってリヒトが幼馴染であることは変えられない。
 どんなに憎らしく思っても、トラウマを引きずり出すようなベアトリーチェの言葉を、ユーリは見過ごすことは出来なかった。

「ユーリ」
 そんなユーリの甘さに、ベアトリーチェはついに堪忍袋の緒が切れた。

「幼馴染相手とはいえど、貴方は甘すぎます」
 ベアトリーチェは厳しくユーリを叱責した。
 普段温厚な人間ほど怒らせると怖い。ユーリはそれ以上何も言えず口を噤んだ。

 クリスタロス王国には、もう一人王子が存在する。
 リヒトの兄、レオン・クリスタロス。
 幼い頃から魔法も碌に使えない出来そこないの弟《リヒト》と違い、兄であるレオン王子は当時世界中の王子と比べても一、二を争う程強い魔力を持ち、才能があると賞賛されて美しく立派な王子だった。

 誰もが彼を未来の王にと望んでいた。
 だからこそ一〇年前、レオンが原因不明のまま眠りについた時は、国中が悲しんだ。
 そして彼より明らかに劣るリヒトが次期王位継承者となり、彼はローズと婚約した。

 婚約は、不出来な彼を支えるためのものである――彼らを知る人間であればある程、二人の婚約はそう映った。
 レオンが眠りにつく前。
 当時一六歳だったベアトリーチェは、何度か彼と会ったことがある。
 レオンはベアトリーチェの体格や能力、性格を蔑むどころか高く評価し、ベアトリーチェを「副団長に相応しい人材」であると、当時の団長に推薦した。

『彼は、必ず役に立つ人間になるでしょう。団長には向いていない。けれど――彼には、補佐の才がある』

 当時のベアトリーチェは一人でしか戦う術を知らず、一人その能力を、接近戦に活かして戦っていた。
 しかし今のベアトリーチェは、後援を得意とする。
 彼は前団長に指名され、副団長の地位を得た。そして前団長が騎士団を去った時、ベアトリーチェは新しい団長として、ユーリを指名した。
 ――その未来を。まだ幼かったレオンは、見事に言い当てたのだ。

「レオン様さえいてくだされば、こんなことにはならなかったのに」

 それはリヒトに対しては禁句だ。
 でもベアトリーチェの言葉を、誰も否定しなかった。
 部下である彼が、自分たちの長であるユーリを叱っても、責めるものは誰も居ない。
 宴会の時の、ユーリに対する軽口だってそうだ。
 騎士団の誰もが、ユーリの実力は認めている。
 けれど精神面については、老年の騎士はまるで孫を見守るような視線をユーリに送る。
 ユーリ・セルジェスカが、騎士団長としてその座に居ることが出来るのは、彼を補佐するベアトリーチェへの信頼のおかげなのだ。
 その彼が、今の騎士団に不快感を示しているのだ。
 騎士団の中がぴりりとした空気に支配される。

「――静かにしていてください。ここは、子どもの遊び場ではないのですから」

 ベアトリーチェはそう言うと、固まったまま動けないリヒトたちに背を向け歩き出した。
 魔王が復活したというこの大事に、王家は婚約破棄、しかも騎士団は、公爵令嬢というお荷物な『騎士』を抱える羽目になった。
 彼女が来たせいで、騎士団の中は落ち着かない。
 騎士団を率いなければならないユーリは、ローズに気を取られて守るべき相手を間違える。
 国を守る騎士であるベアトリーチェにとって、公爵令嬢よりも『光の聖女』のほうが重要だ。
 まだ力を覚醒させていないとはいえ、今後の魔王討伐に役に立つのは、彼にはどう考えても『光の聖女』だとしか思えなかった。

 だから――アカリを危険に晒す可能性のあり、ユーリの立場を揺らがせるローズを、ベアトリーチェは認めることは出来なかった。

「……全く。これでは、私のほうが先に胃に穴が空いてしまいそうです」

 ベアトリーチェの退席により、会議は明日に持ち越しされることとなった。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その夜。
 ローズが帰宅し入浴を済ませて一人屋敷の中を歩いていると、暗い庭の中に思わぬ人物を発見して、彼女は思わず手にしていた灯りを落としかけた。
 夜の庭の中に、『光の聖女』であるアカリが立っていたのだ。
 ローズは窓を広くと、風魔法を使って庭に降りた。

「ローズさん!」
「あ、アカリ? なぜ貴方がこちらに……?」

 アカリが公爵家にはいるための解呪の式を持っているとも思えず、ローズは慌てた。普通式も無しに、敷地内に入ることは不可能だ。

「えっと、その……。私、この世界の鍵? には影響は受けない体質みたいで……」

 彼女の言葉の意味を理解するのに、ローズはいつもより時間を要した。つまり彼女には、鍵は意味をなさないらしい。

「アカリ。とにかく夜も遅いですし、ユーリを呼びます。貴方は私の部屋ヘ来てください」
「わっ」

 ローズはそう言うと、屋敷の人間に出来る限り彼女の存在がばれないよう、アカリを抱きかかえ、自分の部屋へと誘導した。

「すいません、こんな遅くに……ここが、ローズさんのお部屋なのですね」
 ローズの部屋に入ったアカリは、きょろきょろと部屋の中を見渡していた。
 ローズは魔法陣の書きこまれた紙にユーリへの手紙を書くと、鳥の形にして飛ばした。

「すいません。散らかってしまっていて」
 ローズはそう言ったものの、部屋は掃除したてのように綺麗だった。
 ローズの言葉にアカリは苦笑いした。

「ローズさんは、本当に何でもできる方なんですね」
「そうですか?」
「私とは大違い。私の部屋は……その、『散らかっている』と私が言う時は、本当に散らかってしまっているので……」
「……そうなのですか?」

 顔をゆがめるアカリを見て、ローズはくすりと笑ってたずねた。
 二人はたわいない話をした。
 ユーリが来るまで、ローズは彼女の話に相槌を打ちながら紅茶を淹れた。

「どうぞ」
 ローズはアカリに紅茶を出すと、彼女の前の椅子に座った。

「……美味しい」
 アカリは一口飲んで顔を綻ばせた。
 その表情からは、ローズに対する悪意は見えない。
 そもそも、信用していない相手から飲み物を受け取り口をつけるなんて、余程の馬鹿ではない限り有り得ない。

「……ローズさん」
 アカリは僅かに目線を下げたかと思うと、立ち上がって頭を下げた。

「ずっと、騎士団の討伐に参加できずすいませんでした。本当は、自分の役目を果たさなきゃいけないって思っていたんですが……リヒト様に、なかなか部屋から出してもらえなくて」
「……」

 アカリの言葉は、聞きようによってはローズに対する嫌味のようにもとれた。
 けれどローズは、アカリはもっと別のことを自分に伝えようとしているような気がした。
 それは――二人の関係について。

「リヒト様、言うんです。『また失敗したらどうするんだ』『今度はもっとつらい目に遭うかもしれない』って。まるで小さな子どもを守るみたいに、外から部屋に鍵を掛けて出してくれない」

 それが何によって、結びついたものなのか。

「リヒト様はもしかしたら、私と自分を重ねているのかもしれません。自分が出来ないから、私がまた失敗するのを恐れているというか。……でもそれって、私もだけど、自分も信じていないのと同じですよね……?」

 ローズは黙って彼女の話を聞いていた。
 周りの評価はどうであれ、ローズにはアカリが考えなしで動くような、自分勝手な人間だと思えなかった。
 そもそも繊細な感性が求められる光魔法に適性がある人間が、馬鹿な少女のわけがない。

「……リヒト様は」
 ローズは自分も一口紅茶を飲んでから口を開いた。

「昔から魔法が苦手なのです。だから、それは仕方がないのかもしれません。兄であったレオン様とは違って、彼は昔から魔法が使えていなかった。十五歳の魔力測定の際は、ある程度の数字が出ていたようでしたので、大丈夫かと思っていたのですが……」

「でも、この間は……?」
「そこが不思議なのです。ずっと使えていた魔法が使えないようになるなんて。だってあれでは、まるで昔の――……」

 ――昔の?
 ローズは、カップを持っていた手を止めた。
 魔力を貯めておける石。あの指輪が、そうであったなら。
 その石が壊れリヒトが魔法を使えなくなったということは、きっと偶然ではない。
 王家の財宝の一つの指輪。
 魔法を使えなくなり、驚いていたリヒト。きっと彼は知らなかった。その二つの指輪が、どんな力を持つのかを。
 ローズは思考を巡らせる。

「まさか……」
 自分が彼からもらった指輪は。
 指輪が壊れ、ローズの魔力が突然跳ね上がったのなら――。
 ローズは立ち上がり、銀色のフレームのガラスケースの中から、薔薇の形をした小箱を取り出した。
 中には真っ二つに割れた、リヒトから貰った指輪が入っている。

「ローズさん? 何を見て……」
 アカリはローズに駆け寄って小箱の中を覗いた。

「――その、指輪は……」
「アカリ、どうしたのです?」
「それは……せ、誓約の指輪です!」

 アカリは叫び、それから手で口をふさいだ。ローズには、彼女の行動の意味が理解出来なかった。
 王家の財宝。
 リヒトでさえ効果を知らず未知の力を秘めた指輪のことを、何故彼女が知っているのか。

「アカリ。貴方は……」

 そもそもおかしな点は他にもあった。
 鍵を無効化出来る力を持つ人間がいるとして、それが世間的に『鍵』だと認識されていると知っていた場合、そう簡単に突破しようとするものだろうか?
 『アカリ・ナナセ』は馬鹿じゃない。
 『鍵』という考え方が彼女にあるなら、その常識を崩そうとはしないだろう。
 今のローズにはそう思えた。

 他にも疑問点はある。
 アカリとローズが出逢ったのは、リヒトに彼女を紹介される前だった。
 だというのにアカリはその時からすでに、自分に対して怯えているように見えたことを、ローズは鮮明に覚えていた。
 挨拶しようとしたら、あからさまに怯えられて逃げられたので落ち込んだのだ。

『これまではちょっと怖かったんですけど、昨日守ってもらえて、今日相談にものってもらえて、もしかしたらローズさんは、私が思ってるよりずっと優しい人なんじゃないかって思って』

 彼女のあの言葉の中に、別の意味があったとしたら?
 アカリに抱いていた疑問が、凡そ解決出来るように思えた。
 ローズは意を決してアカリに尋ねた。

「貴方は、何か知っているのですか……?」

 この世界の秘密を。
 私と貴方が、出会う前に私を。
 普通に考えれば、ローズの質問はただの問いに過ぎない。
 けれどその問いに対し、あきらかな動揺を見せたアカリを見て、ローズは確信した。
 彼女は。『光の聖女』は。

 ずっと何か大切なことを、自分たちに故意に隠してきたのだと。

「アカリ。貴方は……。貴方は、何か知っているのですか……?」
「――私、は……」

 ローズの問いに、アカリは答えることが出来なかった。
 だがその行動こそ、彼女が何かを隠している証拠だった。
 ローズがアカリに触れようと手を伸ばした時、扉が勢いよく開いて、二人の間にミリアが割って入った。

「お嬢様に触れないでください!」
「――ミリア?」

 ローズは思わず目を丸くした。
 ユーリは呼んだが、ミリアにはアカリが居ることは伝えなかったのに――ユーリがやって来たことで、ミリアはアカリに気付いたのだろうか?

「ミリア!」
「……ユーリ」
 ミリアに遅れて、ユーリが部屋の中へと入って来る。
 焦っている彼の様子を見ると、自分の予想はやはり正しかったらしいとローズは思った。

「お嬢様! この女を信用してはいけません。彼女がお嬢様のことを、どう呼んでいたかご存知ですか? 彼女は――……お嬢様のことを『悪役令嬢』などと!」

 『悪役令嬢』? 
 ローズは首を傾げた。
 そんな言い方――まるで物語の中の登場人物《キャラクター》の呼び方のようではないか。
 ミリアの言葉に、アカリは動揺の色を強くした。
 やはり彼女は、何か自分たちに伝えていないことを知っている。
 ローズはミリアの言葉を聞いて改めてそう思った。
 だからこそ。

「そんなこと、今は関係ありません」

 ローズは冷静に言った。

「重要なのは状況を打開する策があるなら、それを試すことです。彼女が鍵となる情報を知っているならば、私はそれを知りたい」

 『お嬢様』の口調のローズに、ミリアはぎゅっと拳を握りしめた。
 男のような言葉遣いは、ミリアとローズの距離を近づけていた筈だったのに、今は公爵家の人間として、明確な線引きをされたようで。

「アカリ」
 ローズはアカリの手を握った。

「二人とも、部屋を出なさい」
 そして静かな声で、ローズは二人に命令した。

「お嬢様!」
「ミリア」
 興奮していたミリアは、ローズの言葉を納得できずにいた。
 今にもアカリに襲い掛かりそうなミリアを、ユーリが抑えこむ。

「どうして私のことではなく、彼女を信じようとなさるのですか!」
 その言葉は、彼女の心の叫びそのものだった。

「どう、して……ッ!」
 ミリアは顔を顰めて唇を噛みしめる。
 自分を傷付ける相手を、どうしてローズが庇うのかミリアには理解出来なかった。幼い頃からずっと彼女のことは、自分が守って来たはずなのに。
 それが、苦しくてたまらない。

「ミリア」
 ミリアの感情に気付いていたユーリは、冷静に彼女を諭した。
 ユーリは騎士だ。優しすぎる面はあるものの、上下関係への意識はミリアよりも強い。

「気持ちはわかるが、今は抑えろ。ローズ様も、何かお考えのことがあってだろう」
「……貴方に」
 冷静なユーリの言葉に、ミリアは反論した。
 三人は幼馴染で、二人は従妹だ。ミリアとユーリはよく似ている。しかし、過ごした時間の立場の違いは、今の二人の間に壁を作っていた。

「貴方に私の気持ちの何がわかると!? 私はずっと、ローズ様を見守って来たんです。私は、私は……!」
「わかってる。――でも」
 ユーリは静かに言う。
 騎士として、彼は自分を見出し育ててくれた公爵家の令嬢であるローズには逆らえない。

「ローズ様が、決められたことだ。俺たちが口を出していいことじゃない」
「……!」
 人には必ず立場がある。
 ローズは公爵令嬢。過去に何があったとしても、ミリアとユーリは所詮、彼女の家である公爵家の庇護下の人間でしかない。
 ミリアは結局、ユーリに引きずられるようにして部屋を出て行った。



 ローズは扉が閉まるのを確認して、指輪に触れ魔法を発動させた。
 それは闇魔法。
 あらゆるものを拒絶する。閉ざされた心は、いかなる言葉も受け付けない。
 部屋を煙水晶《スモーキークォーツ》のような色をした丸いドームは、アカリとローズを二人だけの世界に閉じ込める。

「魔法をかけました。これで外には何も聞こえません。だから安心してください」
 下を向いて一言も喋らないアカリに、ローズは優しく語りかける。

「アカリ」
 ローズはアカリの手を握って、懇願するように言った。
「教えてください。貴方の知ることを、私も知りたい」

「……私、都合がいいですよね」
 温かな熱を感じさせるローズの声とは違い、下を向いていたアカリが発した声は、どこまでも冷えていた。

「私の言うことなんて、誰も信じられるはずがない」
 彼女は涙を流さない。まるで泣くことを、自分に禁じているように。
 自分を否定する言葉を、彼女は並べる。

「アカリ。私は、貴方の言葉を信じます」
 そんなアカリに、ローズはもう一度言った。

「……ローズさんは」
 するとアカリはゆっくりと顔を上げて、信じられないという目でローズを見つめた。

「どうして私を、信じようとするんですか」
「それは……」

「私、やっぱり駄目なんです。ずっと誰とも関わってこなかったから、どう接していいかわからない。沢山ローズさんを傷付けたのに、いざ自分の味方かもしれないって思ったら頼ってしまう。縋ってしまう。……怒られて、当然です。でも、どう自分を変えたらいいかわからないんです。それに今の自分を変えようと思っても、過去を責められたら何も出来ない。変われない。私は、私は……。――私は、ここに居たいのに」
 
 ローズは、アカリの手を強く握った。
 ローズが握るアカリの手は小さく震える。

「アカリ。……私は、貴方を信じます」
 ローズはもう一度、アカリにそう告げた。
 そして少し声の調子を変えて、まるで悪戯っ子のような明るい声で、こんなことを言った。

「アカリ。この世界には、目を見たら相手が嘘を吐いているかどうか、わかる目があるんです」
「え?」
 ローズの言葉の意味が分からず、アカリは思わず声を漏らしていた。
 潤んだアカリの瞳と、ローズの視線が重なる。

「ああ、私にはありませんよ?」
 ローズは、そう言うとふっと笑った。
 少しだけ、遠い目をして。

「真実を見極める瞳を持つ――その人が、言っていたんです。信じなきゃなにも始まらない。だからお前は、信じて選べって」

『この世界には、特別な力なんて持っていない人間のほうがずっと多い。だからぶつかりもする。喧嘩もする。すれ違うことだってあるだろう。でも、それでいい。同じ世界を生きているんだ。だから選ばなきゃいけない。時には裏切られて、傷つくこともあるかもしれないけれど。信じなきゃ、何も始まらない。ローズ。信じるかどうかは、お前が決めろ。大丈夫。お前ならできる』

 ローズにそう言ったその人は、当時まだ幼い子どもだった。
 それでもその特殊な瞳故に世界を知りすぎた彼は、ローズには誰よりも大人に見えて、尊敬すべき相手だった。

「貴方の言葉は、確かに信じがたいかもしれない。でも私は、貴方を信じましょう。この国を好きだといった。守りたいのだと言ってくれた。あの時の貴方は、その言葉は、本物だったと思うから」
 ローズはアカリの手を両手で包み、それから彼女に微笑みかけた。

「――信じています。貴方はきっとこの国を守ってくれる、『光の聖女』なのだと」

 ローズの言葉に、アカリの頬を涙が伝った。

「……私は」
 涙はとめどなく流れ、地面に滴り落ちる。

「私、は……っ」
「大丈夫。不安、だったのでしょう? 気付かなくてごめんなさい。私は貴方がこの国に、この世界に来たことを、後悔なんてさせない。貴方は一人じゃない」

 ローズはアカリを優しく抱きしめた。暫く泣き止みそうにないアカリの頭を、ローズは優しく撫でてやる。

「辛い時は、泣いたっていいんです」

 アカリはその後泣きながら、自分が知る情報をローズに伝えた。
 『誓約の指輪』は、魔力を貯蔵させる力を持つ。
 指輪で結ばれた二人は魔力を分かち合い、コントロールすることが可能になる。

 それは『光の聖女』が、力の弱い王子リヒトのルートの際に、お互い支え合い結ばれるというストーリー展開で必要となるキーアイテムだ。
 またこの指輪と同じ魔力を貯蔵する力を持つのが、聖剣に嵌る石。
 魔力の弱い王子は聖剣を用い、聖女と共に魔王を倒す。
 聖剣で魔王の力を奪いつつ、指輪の魔力で攻撃するのだ。

 アカリの話はどれも、ローズにとって信じがたい話ばかりだった。
 何より――彼女が知るこの世界が『ゲーム』だということも、アカリがローズを恐れていた理由が、ローズという存在がアカリを脅かす存在だと考えていたという彼女の言葉を聞いたときは、ローズは動揺を隠すのに必死になった。

 話を整理すると、あの時の魔法はローズとリヒトを繋ぐ石に貯蔵されていた魔力を使い発動されたものであり、そのためにリヒトは魔法が使えなくなったということだった。
 ただこの保護魔法については、アカリは詳しく知らないとのことだった。
 自分の部屋にアカリを寝かせて、ローズは魔法を解いて部屋を出た。

「ミリア、ユーリ。私は彼女を信じます。異論はありませんね?」
「――はい」
「……はい」
 ミリアは、ユーリに遅れて返事をした。

「私は、彼女を信じます。彼女は、私の味方だと。……ユーリ。今日のことについては、明日までに報告します。すべてを話すことはできないけれど、今後必要なことは貴方にも伝えます」
「かしこまりました」
 ユーリはローズに首を垂れる。

「ミリア。こんな夜更けに申し訳ないけれど、行きたい場所があるんだ。ついて来てくれる?」
 ローズは、そんなミリアに対してわざと言葉を崩した。

「……かしこまりました。すぐ、用意いたします」
 ミリアはそう言うと、ローズに背を向けて廊下を歩いて行った。

「ローズ様……」
 ユーリは幼馴染の背を見送ってから、ローズの名前を呼んだ。
 アカリが眠ってしまった今、ユーリは手持無沙汰だった。

「ユーリ」
 ローズは、そんな彼に苦笑いした。
 彼は自分の立場を守る人だ。そんな彼だから、ローズは彼を信じて頼みごとが出来る。

「貴方はここで、彼女を守ってあげてください」
「……」
「リヒト様の言う通りです。違う世界から、たった一人この世界にやってきて、不安じゃない筈がなかった。……だから今は、せめて」
 ローズは自分の部屋の扉を眺めた。
 ――その部屋で眠る、少女のことを想って。

「出会いを――最初からやり直すことは出来ないけれど。私は、彼女に償いがしたい」

 ローズはユーリに向き直る。彼の瞳をまっすぐに見て、ローズは彼に言う。

「彼女を、守ってあげてください」
「かしこまりました」
 ユーリは静かに頭を下げた。
 そうしているうちに、準備が出来たミリアがローズを呼ぶ声が聞こえた。

「では、そろそろ私は行きます。後は頼みましたよ」
「ローズ様」
 自分に背を向けたローズに、ユーリは伝えたかった言葉をつげた。

「……ローズ様は、『悪役』令嬢なんかではありませんよ」

 ローズは立ち止まって、少し間をとってから、彼の方を振り返って苦笑いした。

「――貴方から見た私は、確かにそうでないのかもしれない。でも人というのは、立場や関係によって見え方が違うものです。だからせめてこれからは、私は彼女にとって、そうならないよう努力したいと思います」

 ローズは、アカリの涙を思い出す。
 泣いていた。泣かせてしまった。その原因は、まぎれもなく自分自身にある。だというなら、彼女にとってのこれまでの自分は、いい人間であったとはとても言えない。

「それに私は、『狡い人間』には違いないですから」

 ユーリに再び背を向ける。 
 自分一人にだけ聞こえるように、ローズは小さな声で呟いた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 馬車の馭者はミリアが務めた。
 夜の暗い道は凍てつくように寒い。
 馬を走らせるミリアの息は白く染まり、馬車の中のローズは、自身の息で曇るガラスの向こう側の景色を見つめていた。
 目的の地まで、ガラガラという静寂の中に響く音を聞きながら、ローズは静かに目を瞑っていた。

「お嬢様、到着しました」
 ミリアは馬車をとめると、扉を開いてローズの手を引いた。

「ありがとう。ミリア」
 ミリアに礼を言い、馬車から降りる。

「ローズ・クロサイトです」

 ローズはそれから神殿の扉の前まで歩き、自分の名前を口にした。
 すると扉がゆっくりと開き、中から明かりを持った真っ白な服の女性が、ローズに頭を下げた。

「ローズ様。どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」

 ローズはそう言うと会釈した。
 ローズはいつもどおり、ミリアに聖剣を預けた。ここより先は、武器の持ち込みが禁止されている。

「私は、こちらでお待ちしております」
 聖剣を受け取ったミリアは、静かにローズに頭を下げた。

「ありがとう」
 ローズはミリアに微笑みかけた。

 暗い道を照らすのは、小さな蝋燭の燈火だけ。
 その灯は二人が階段を歩く度に揺らめき、心許ない。
 階段を歩く音は一定で、一歩進むたびに、まるで異界に迷い込んだような畏怖を人に与える。
 静寂。
 ローズはいつになっても、この時間が慣れなかった。
 その時間はまるで、ローズにとって一日のようにも長く感じられた。

 階段をおりきると、ローズの前を歩いていた女性は、ゆっくりと扉を開いた。
 部屋の中に並べられた二つの棺。
 夜だというのに、その棺は白く光る粒子によって、明るく照らされていた。
 この国の中心にある、水晶の神殿。
 そこにはごく一部の人間だけが、立ち入りを許される場所がある。

 光魔法。
 アカリの体調が良くなったという話のように、この世界の光魔法には、力を循環させ、生命を維持させる力がある。

 この国の第一王子は、原因不明の病で十年間眠り続けている。
 食事をとらずとも眠り続ける人間を活かすには、強い光魔法が必要だった。
 リヒトには明かされていない、神殿の中の部屋。
 これこそがローズが、失敗したアカリの魔法を無理やり引き継いだ理由だ。
 生命を維持するための光魔法を、力の制御が出来ないアカリが破壊しかけた。
 だから、代わるしかなかった。でも何も知らない彼女を、ローズは責めることは出来なかった。

「……この場所だけは、ずっとあの日から変わりませんね」

 自分の口から零れた言葉に、泣きそうになって唇を噛む。
 十年前から、ローズはこの場所の管理を任されてきた。
 それはアカリが来るまでは、強力な光属性の魔法を使える人間が、この国にはローズしか居なかったせいだ。
 この世界には決まって不思議と、それぞれの属性に特化した人間が必ず国に一人は生まれる。
 彼らはそれぞれ属性に相応しい地位を与えられ、その力を国のために使うことを義務化されて生涯を終える。

 けれどクリスタロスにはずっと、光属性を持つ人間だけが不在だった。
 まるでアカリがくることを、世界が待っていたかのように。
 その席だけが、すっぽりと空いていた。
 だからこそ、十年前――全ての属性に適性を持つローズに、責任が降りかかった。

『君だけが頼りだ。お願いだ。レオンを、息子を守ってくれ。この国の、次の王を』

 国王は幼いローズに頼るほかなかった。
 あれからもう十年。
 未だに、彼らが目覚める様子はない。

『君が居なければこの国は立ち行かなくなる!』

 ローズはパーティーの日の、王の言葉を思い出した。
 『リヒト王子』は、王には相応しくないのかもしれない。
 いいや、本当はきっとそんなこと――誰だって、最初から分かっていた。

 リヒト王子はレオン王子が目覚めるまでの、代わりの存在でしかないと。
 国王がリヒトとの婚約を認めたのはリヒトの為でなく、レオンを生かし続けるためにローズが必要だったからだということも。
 今はもう、過去の話だ。

 失ったものがある。
 大切な人、大切な人と過ごす時間、そして約束。
 失ってから、気付くことがある。
 当たり前の一日が、何よりも大切な、宝物であったことを。
 もう二度と、愛しいものを失わない。そのために努力することをやめない。
 たとえこの命が潰えても。自分の道は、自分で切り開く。

「大丈夫。私は強い」
 ローズは自分に言い聞かせるように呟く。
 しかし力の強さと心の強さは、イコールとは限らない。
 ローズは目を細めて自嘲する。
 ――くだらない子どもの口約束を、忘れられない自分は愚かだろうか。


『僕がこの国の王となって国を守ろう。僕は優秀だからね。僕以上に相応しい人間は居ないだろう?』
 ローズの記憶の中で、金髪の少年は紫の瞳を輝かせる。

『俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ』
 どことなくローズに似た、黒髪に赤に近い茶色の瞳をした少年は、大人びた声で言う。

『私も公爵令嬢として、お兄様と一緒にこの国の為に力を使います!』
 兄に後れをとらないよう、幼いローズが宣言する。

『私は、騎士になって、この国を守ります』
 三人の言葉のあとに、ユーリが剣を手に誓う。
 紫の瞳の少年は涼し気な笑みを浮かべ、自分と彼らの未来を語る。
 四人だけの、完成された未来の国を。

『僕としては、ローズが僕の王妃になってくれたら助かるなあ。僕が王様でギルが宰相で、ユーリが騎士団長。名案だとは思わない?』
『あっ。あの、兄上。ぼ、僕は……』

 同じように木の下で昼食をとっていたというのに、自分は何も言えないまま話を進められてしまったリヒトは、精一杯自らの存在を主張した。

『リヒトは才能がないんだから、どこかの令嬢と結婚でもすべきなんじゃないかな? 良かったね。王族に生まれたおかげで選り取り見取り』
 けれど彼の思いはすぐに、彼の兄によって否定される。

『そんな!』
 リヒトは立ち上がって、懸命に自らの心の叫びを訴えた。

『嫌です。僕だって、兄上たちと一緒がいいです!』
『――リヒト』
 そんな彼に、聞き分けのない子どもをなだめるように、彼の兄――レオンは言った。

『人にはね、向き不向きというものがあるんだよ。君は国王には向いていない。でも大丈夫。僕たち四人がいれば、この国は安泰だ』

 誰もが王に相応しいと疑わなかった第一王子のレオン、真実を見極める瞳を持つ公爵子息のギルバート、全ての魔法属性に適性を持つ公爵令嬢のローズ。そして、『剣聖』に才能を認められたユーリ。

 ローズは瞳を閉じる。
 あの日々の中でローズは、四人が揃っていれば、何もかもが上手くいくような気がしていた。

『君は、僕が守ってあげる』
『そうだな。お前は何も心配しなくていい。弟みたいなもんだしな』
『リヒト様、大丈夫ですよ』
『リヒト様は、この剣でお守りします』
『――……僕。僕、だって……』

 幼い頃――彼らが眠りにつく前のリヒトは、まだ自分のことを『僕』と言っていた。
 リヒトが『俺』といいだしたのは、彼らが眠りについた後。

『レオン様! ギルバート様!!』
『お兄様!! レオン様!!』
 まるで彼を弟のように可愛がっていたローズの兄、ギルバートの真似をするように、彼は自らを『俺』と言い始めた。

 幸せだった。『薔薇《ロード》色《クロス》の人生』。そんなものは要らないけれど、ただただ彼らと共にあることだけを、幼いローズは望んでいた。

『騎士団に入ります。いままで、お世話になりました』

 けれど子どもの願いは、ある日を境に打ち砕かれる。
 大切なものは全部、手のひらから滑り落ちる。
 指輪はもう無い。
 交わした約束の証は、どこにも残っていない。
 残された自分に出来るのは、大切な彼らと、ともに守ると誓ったこの愛しい国を、守るために努力することだけ。

『俺はアカリを選ぶ』

 指輪を受け取った――あの日高鳴ったこの胸が、今少しだけ痛むのは、きっと気のせいだから。
 子どもみたいに、泣いたりしない。

「私は、この国を愛しています。貴方が目覚めるその日まで、私がこの国を守ります」

 いつかまたあの日のように、笑い合える日が来ることを願い続ける。
 眺めるだけだった剣も、今なら自分だって扱える。
 血の滲むような努力した。いくら魔法に適性があったといっても、剣に才能があったと言われても、訓練しなくては完璧には使いこなせない。

 自分は公爵家の令嬢で、王子の婚約者なのだから――誰よりも、正しく在らねばならない。
 ずっと、そう思っていた。
 しかし婚約が破棄されたことで、ローズは自分の居場所を失った。だから騎士になると誓った。
 騎士になって――この国を、ユーリと共に守るのだ。

 交わした約束を覚えている。消えない心の痛みを知っている。かつて泣きたいときはいつだって、そばにいてくれた人はもういない。それがたまらなく苦しくても、今のこの状況は十年前から変わらない。

 あの日から、何度願ったことだろう。
 お願い、神様。もし貴方が本当に、この世界にいるのなら。

「レオン様。……お兄様」
 私を助けて。――どうか、二人を目覚めさせて。

 でもその度に、神などいないと知って、自分の力で前に進むしかないのだと知った。
 試せることは何でもやった。
 薬の研究もその為だ。欠片でもいい。状況を打開できる僅かな可能性があれば、ローズはあらゆるものに目を向けてきた。

 強くならねばならない。
 二人がいなくても、この国を守れるほど完璧に、自分を磨かなければ。

『真実を、見極めろ。お前ならできるよ。――だってお前は』
 頭を撫でる優しい手。
 『彼』がいた頃は、ローズはまだ子どもでいられた。
 でも今、『彼』はローズの頭を撫でてはくれない。
『この世界にたった一人の、俺の妹なんだから』

 真実を見極める瞳を持っていた少年。ユーリやミリアが語るあの方とは、彼のことだ。
 公爵子息、ギルバート・クロサイト。
 ローズが誰より慕っていた、ただ一人の兄。
 そして彼もまた一〇年前から、レオンとともに眠り続けている。

『お前に、儂のすべてを与えよう』
 そんな彼女だったからこそ、女児だったローズに、剣聖グランは剣を与えた。
 いくら才能があると言っても、公爵令嬢である孫娘に、剣を教えようと思う祖父はいない。
 剣を与えることは、彼女に茨の道を歩かせるかもしれないのだから。

 ローズは大きく息を吸い込む。
 凍てついた夜の空気が、彼女の心を冷やしていく。
 ローズは今日の会議のことを想い出した。
 ユーリの隣にいた少年。彼があの時、自分に言おうとした言葉を、ローズはなんとなくだが予測していた。確証はない。でもこれだけは、きっと正しい。

 ――先手を打たねば、戦わせてもらえなくなる。
 ローズは自嘲した。
 ローズは天然だ。そう言われる。

 けれど彼女は、決して馬鹿ではない。
 人がどうすれば自分に従ってくれるのか――その経験は、知識として蓄積される。
 普段は意図的にその行動を取ることはないが、必要なときは知識を利用する。ローズはその度に、自分が少しだけ嫌になった。

 アカリの言葉を信じたいと思った。それは事実だ。
 でも彼女を逃さないために、わざと手に触れたのは間違いない。
 ユーリのときだってそうだ。ミリアとよく似たユーリならば、同じことをやればユーリが発言を止めることを、予測した上で行動した。

 ――人は狡猾だというだろうか。何かを得るために、時折心に嘘を吐く私を。

 ローズは胸を押さえた。自分を偽るたびに、胸は痛んで自分が嫌いになりそうになる。
 けれど願いを叶える為ならば、ローズは自分を傷つける事を厭わない。
 今のローズのすべては、喪失から始まる。

 大切なものを失った。
 でもここは、この国は。愛する人たちとの思い出と、約束が詰まった場所だから。
 誰にも壊させたりしない。たとえこの命が潰えても、私が守ってみせる。
 ――だから。
 眠り続ける二人を前に、目に見えない剣が存在しているかのように、彼女は膝をついて手を合わせた。
 大丈夫。自分は強い。
 祈りの様な願いがこもる。それは彼女の、たったひとつの決意。

「私がこの国を守る。私はこの国に、忠誠を誓う」

 祖父から託された、剣とともに。
 ――たとえ、命が潰えても。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 魔王を倒すための打開策。アカリから齎された情報は、ユーリからベアトリーチェに伝えられた。

「――と、いうことだ」
「やられましたね。あの方も、馬鹿ではなかったということですか」
「え?」
「概ね予想通りです。それを裏付ける証拠がなかっただけで」

 ベアトリーチェは淡々とそう述べた。

「ローズ様が初めて訓練場を訪れられた時、扉を開いたのはユーリ、貴方の魔力でした」
「え……?」
「解呪の式はおそらくグラン様のものでしょう。しかし魔力は貴方のものだった。あの日の貴方の行動を調べ、貴方が招いていないということは分かりました。しかし、貴方の魔力が利用されたということを口にするのは憚られた」

 それを口にすれば、少なからずユーリの評価が下がる可能性があった。

「ユーリ。試験より前に、聖剣に触れたことは?」
「十年前になら……」
「ならばあの剣は、十年分の人の魔力を吸っている可能性があるということですか。……厄介なことこの上ないですね」

 ベアトリーチェの表情は厳しかった。

「予測するための情報は、あの場にいた全員が得ていたはずです。その確認をとるために、ローズ様にあの時剣を借りて実験をしようとしていました。リヒト様に邪魔をされて今日改めて行おうと思っていただけで」

 ベアトリーチェは目を伏せた。珍しく本気で怒ったことが、こんな実害を齎すとは思わなかった。
 ローズのことを甘く見過ぎていた。そんな過去の自分に、少し苛立つ。

「やはり聖剣があったからこそ扉が開いたということですね。……そうなると、リヒト様の指輪は没収させていただいた方がいいでしょう」
「何故?」
「ユーリ。そもそも何故ローズ様が騎士団に入れたか、考えなかったのですか?」
「……」
「どこにでも出入りできるようなものです。ローズ様はまだ聖剣を守る力があるにしても、リヒト様には不安要素しかありません」

 ベアトリーチェはリヒトに冷たい。でもそれは、正しい評価の上での態度だと彼は考えていた。

「まあ、お二人とも解呪の式のない扉を無理に開こうとするような方ではないでしょうし、そのせいでリヒト様もローズ様もお気づきにならなかったのでしょう。ローズ様の周りには過保護な方が多いようですし、本人以外でも鍵が開くということに対して、疑問を抱かなかったのも頷けます。後からでも気づいたことで評価を多少修正するにしても、やはり考えは足りないとは思いますが」

 与えられた情報を鵜呑みにし、疑問を持たない人間は表面しか見えていない。
 公爵令嬢として教育を受けているローズは、知識はあってもそれだけだ。ベアトリーチェはローズのことを、そう評価していた。

「でもまあ……これなら、聖剣を使って王子たちの魔力の流出を止めることが出来るかもしれません。先日の会議でも話しましたが、調査によると、眠り続けた王子たちの魔力は、魔王巨大化の力になっているのは間違いないようですから」
「……ただ、そうなると……やはり」

 ユーリは小さな声で呟く。

「ローズ様から剣をお借りする必要があります」
 ベアトリーチェははっきりと宣言した。

「……」
「先手を取られてしまいました。リヒト様がやってこられたので、少しかっとなってしまって日を改めたのは失敗でした。やはりあの時言っておくべきだった。慣れない人間に囲まれていれば、あの方も委縮して引き下がってくださるかもしれないと思ったのですが」
「どういうことだ?」

「あのとき私は、彼女に剣を差し出して下がれと言うつもりだったということです。断りづらい状況なら、彼女も頷くかもしれないでしょう?」

 ベアトリーチェの言葉は、ローズの感情を無視したものだ。

「しかし、あちらから言ってきたとなると難しいですね。もともとローズ様の剣は『聖剣』とは呼ばれていますが、グラン様が魔王を倒した際にそう呼ばれ始めただけのこと。あれはもともとグラン様の――レイバルト家に伝わる家宝であると聞いています。ローズ様は公爵家のご令嬢で、剣聖様の孫。そして、今は騎士団に籍を置いている。貴方を倒したという実績がある手前、今更彼女から剣を借りて作戦を実行することは不可能です。元々そうなるのが面倒だったので、あの場にお呼びして聖剣だけ借りようかとも思っていたのですが……」

 ベアトリーチェは溜め息を吐いた。
 舐めてかかっていた相手に完全にしてやられた。

「状況は見ての通り、先にあちらが気づいたと報告がきました。これでは彼女が魔王を倒せようが倒せまいが、聖剣を魔王討伐に利用したいと思うなら、まずは彼女が魔王と戦うことを、彼女が望むなら止めることは出来ません」

 なによりローズは、この国のために戦うことを望むと婚約破棄の際大勢の前で宣言している。
 今更彼女から剣を奪うことは、騎士団としては難しい。

「魔王の討伐は、これ以上長引かせられない。前回のように傷をつけるだけで終わっては、被害が増えるだけです。それに今の聖女様がローズ様を信頼しているならば、加護は使い物にはなるかもしれない」

 ベアトリーチェはアカリの心理をも冷静に分析する。
 共に戦うためには信頼が必要だ。
 騎士は『光の聖女』を信じ命を託し、『光の聖女』は騎士を信じ命を託す。その信頼がなければ、『加護』は生まれない。
 今の彼女が少なからずローズに心を開いているなら――可能性は、ある。

「ただ、加護で守られていて侵食は防げたとしても、ローズ様が押し負ければ終わりです」
 ベアトリーチェの言葉は冷たく聞こえる。

「ユーリ」
 けれどベアトリーチェがユーリを呼ぶ声だけは、いつものように柔らかかった。

「本当によいのですね?」
「ああ。……俺は、ローズ様を信じる」

 ベアトリーチェは静かに尋ねる。ユーリは首肯した。
 ローズがアカリを信じると言うなら、ユーリは今、彼女を信じるほかない。

「……わかりました」
 まっすぐな目をした年下の上司を見て、ベアトリーチェは目を伏せた。

「聖剣を借りている手前、彼女の願いを無視するわけにもいきません。けれど、彼女がもしこの戦いで命を落としても、どうか貴方は自分を責めないでください」
「……」
「私は全力で貴方方を支援しましょう。ですが、出来るのはそこまでです」

 ベアトリーチェのユーリを見る目は優しい。
 ユーリが騎士団長に就任してから、いつだって彼はユーリの未来の、その成長の為に行動してきた。
 だからこそ、ベアトリーチェは彼に告げた。厳しい現実を、ユーリの為に。

「ユーリ。貴方は、はっきり言ってまだ未熟です。人の命を背負うことは、今の貴方には難しい。優しさは美徳です。信じることは美しい。ただひたすら一つの決意を信条に掲げ、強さを求めることを否定はしない。でも人は、それだけでは生きてはいけない」

 ベアトリーチェは、沈黙ののちに彼に告げる。

「――私は。ずっと、それを感じて生きてきました」

 ベアトリーチェはユーリの導べだ。
 いつもは揺らぐことのない彼の瞳の変化に、ユーリは息を飲む。
 ユーリの知らないベアトリーチェの過去が、彼にその言葉を紡がせる。

「ユーリ。だからもう一度、貴方にお尋ねします」
 何も言えずにいるユーリに、ベアトリーチェは再び尋ねた。

「貴方は、彼女が生きて自分のところに戻ってきてくれると、そう信じているのですか?」
「ローズ様は……」
 ユーリは、これまでのローズの姿を思い出した。
 ローズが魔王討伐に参加して以来、彼の髪はずっとローズから貰った赤い紐で結ばれている。

「――必ず、生きて戻られる!」
 ユーリは沈黙ののちベアトリーチェに答えた。
 本当は少しだけ、不安な所はある。けれど自分が否定すれば、ローズの願いは叶わない。

「そうですか」
 ベアトリーチェは静かに頷いた。
 本当は聞く前から、彼には答えがわかっていた。
 愛する人の願いを叶えたい。
 風魔法に適性のあるユーリの愛情は、風のようにローズの周りを揺蕩い、守る。
 でも、だからこそ――もしローズが打ち負けた時に、ユーリは深く傷つくのだ。

「貴方がそう信じて彼女が戻らないなら、やはりその時の責任は彼女にある」
「――?」
「ローズ様は、魔王に対抗しうる力をお持ちです。けれど彼女には、何よりも大切なことが欠けている」

 ユーリには、ベアトリーチェの言葉の意味が分からない。
 それが二人の差だ。六年という年月《としつき》。過去が違えば、見える世界は違う。

「それに彼女が気付くことさえできれば」

 ベアトリーチェは窓の外の空を見上げた。
 そうして彼は、自身の剣に彫り込まれた薔薇の細工を指でなぞって言った。

「道は自ずと開かれることでしょう」



 ローズの魔王討伐参加が正式に決まり、いよいよ当日となった朝。
 公爵家の家人たちは、ローズのために仕事の手を止めて彼女を見送った。
 ローズを囲むように人が立つ。
 父である公爵は彼女を無言で抱きしめ、他の者たちは祈るように彼女の手を握った。
 最後はミリアだった。
 彼女は前に足を踏み出したが、他の人間のようにローズに触れることはなかった。

「お嬢様は、人が良すぎます。私がどんなにお嬢様を傷つけるものを排除しようと思っても、一人先に進まれたら、お守りできないではないですか」

 ただ彼女は、いつものようにローズに言葉を向けた。

「ごめんなさい」
 ローズは思わず頭を下げた。
 だからミリアが――どんな顔をして自分を見ているか、ローズにはわからなかった。

「いいんです。もうわかっています。諦めました。だってそれが貴方なのですから。私の、私の大切な……」
「ミリア……?」

 ローズは顔を上げた。
 声が震えていたから泣いているのかと思ったが、そこにはいつも通りの顔をした彼女がいた。

「私は、ついていくことを許されません。だから、これを」

 ミリアはそう言うと、自分の手に嵌めていた腕輪をローズへと渡した。

「私のかわりに、連れて行ってください」
「……でも、ミリア。これは貴方の……」

 ローズは腕輪を受け取るのをためらった。
 魔法を使うための石は非常に高価で、ミリアはその給金の多くを、石の購入に当ててきたことを知っている。
 腕輪の中の石には、アルグノーベンで代々受け継がれてきたものだってある。
 けれどミリアは譲らない。なかなか受け取らないローズの腕に、彼女はそっと輪を通した。

「――私は」
 ミリアは、精一杯の笑顔をローズに向けた。

「私はここで、お嬢様をお待ちしています」

 立ち入ることの許されない、そんな線引きが確かにあっても。
 心だけはどうか、貴方のお傍に。
 揺れる馬車の中で、ローズはアカリの話を聞いていた。
 真実を打ち明けた彼女の顔は、決戦前だというのに明るく、懸命にローズに自分の知識を伝えようとしては少し空回りしてしまっていた。
 人は簡単には変われない。
 人の評価を変えることは、きっともっと難しい。
 それでもローズは、彼女の成長を見守りたいと思った。

「乙女ゲームっていうのは、私の世界にある、男性キャラクターとの恋愛を楽しむものなんです。私はあまり体が強くなくて、恋とかそういうこともよくわからなくて」

 アカリの言葉は、ローズには理解できないものも多かった。
 ローズは相づちを打って話を聞いていた。
 ただ少しだけ、彼女の話で気になる言葉があり、ローズはアカリに尋ねた。

「……その、攻略対象? というのは、なんなのですか?」
「ええと。私がしていたゲーム『Happiness』には、主人公に恋をする相手は六人いるんです。五人は最初から開放されていて、魔王を倒したら最後の一人が開放されるっていうシステムで……」
 アカリは話ながら指を折った。

「台詞や行動の選択肢を自分で選び、望む相手と幸せな結末にたどり着く。これが乙女ゲームの最終目標です。選択を誤れば、badendという可能性もあるので、そこは注意しなくちゃいけなくて……」
「選択……」

「このゲームの中で、ローズさんはレオンさんの婚約者で。リヒト様はレオンさんのせいで自信がなく、ユーリさんは立場もあって、負けることに対してひどく怯えるキャラクターなんです。だから、主人公は彼らにこう言うんです。リヒト様には、『貴方には貴方のいいところがある』。ユーリさんにはお守りを渡して、『大丈夫』って言って。ローズさんのお兄さんはちょっと変わった方で……唯一主人公の心だけがわからないから、『運命だ』って言って口説いてくるキャラクターで。レオンさんは、ローズさんという婚約者がいるのに、主人公に軽口を叩いてきて。ローズさんは、ゲームの中でそんな私にいじわるをしてくる人で……」

「……」
 ローズはアカリの話を聞きながら、かつて彼女が自分のことを例えた言葉を思い出していた。

「ゲームの途中で召喚されたので、私はここまでしか知らないのですが……私の世界では、ネットの小説で『悪役令嬢』っていうのが流行っていたので、『悪役令嬢』が出てくるゲームっていうので噂にもなっていたようなんです」

「その、悪役令嬢というのは何なのですか?」
 ローズはアカリに尋ねた。

「『悪役令嬢』は、乙女ゲームの主人公に対していじわるしてくる貴族のお嬢様です。……私の世界では、そんな小説が流行っていたんです。だいたいは王子とか立場がある人と婚約をしているんですが、主人公をいじめるせいで王子から心変わりされて、没落したり追放されたり、悪いと死ぬっていうパターンもあるんですけど……って、あ! ……す、すいませんっ!」

 不吉なことを言ってしまい、アカリは慌てて謝罪した。

「こんな時に、すいません。ただ私、ずっと怖かったんです。この世界は、私の知るゲームの世界とは何かが違う。転生者の『悪役令嬢』の出てくる小説では、ヒロインが悪者になることがあるから。その場合badendは私の方。私は、ローズさんに糾弾されるのが……ずっと、怖かったんです」
「アカリ……」

「今はローズさんがそんな人じゃないって、ちゃんとわかってます。それに私、この世界が好きです。私はこれからも、この場所に居たい。ローズさんと一緒に、幸福な未来を迎えたい」

 アカリはそう言うとローズに笑いかけた。
 けれどローズは、彼女に笑みを返すことが出来なかった。

「……その世界では、魔王は居ても王子たちが眠りについていないんですね」
「はい」
「それは……きっと、楽しい世界なのでしょうね」

 その声は、少しだけ震えていた。

「……ローズさん?」
 アカリはローズの名を呼んだ。
 けれど返事がなかったため、アカリは話題を変えることにした。

「そういえばユーリさんって、今日は髪を結んでますよね。あれって、ローズさんがあげたものなんですか?」
「ユーリの髪紐は、私が以前渡したものですね。負けて死ぬのが怖いと言っていたので、お守りに魔除けとして赤い紐を手に結んであげたんですが……」

 ローズはアカリのために、笑みを作った。

「髪紐として利用しているのは少し驚きました」
「……」
 
 アカリはローズには告げなかったが、ユーリにお守りを渡すという行動は、『Happiness』であればヒロインの行動そのものだった。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 指輪の石が魔力を貯蔵し、共有するものであったように。
 聖剣に嵌められた石が『魔王の核』と同じ力を持ち、魔力を貯蔵する力があるならば、聖剣を使い魔王への王子たちの魔力の供給を、止めることが可能である可能性が高い。

 魔力の少ない者が持てば、聖剣は魔王に直接的な打撃と共に、魔王の魔力を奪う力となるかもしれない。
 調査の結果聖剣には、器に収まりきらない、回復する魔力を石に貯め込む性質があることが発覚した。

 強力な魔法を使わない限り、通常人は器に満たせない魔力をわずかにこぼす。
 聖剣は、どうやらその魔力を吸い取る力を持つらしかった。

 そして不思議なことに、聖剣は魔力を貯蔵出来るが、魔法を発動させるために使うことはできないこともわかった。
 つまり聖剣は、『魔力の貯蔵出来て鍵としては使用できる』ものの、魔法の使用には使えない。

 溢れた魔力を吸収する性質を持つ。
 それがおそらく、アカリが『誓約の指輪』だと言った二つの指輪と、聖剣の石の特性。
 指輪には更に、所有者の魔力の共有する能力が付加されていると考えられた。
 
 だったら数多くの王子たちが眠りに付いた今、彼らの魔力を魔王の回復に利用されるよりは、聖剣を使って力の供給を止めるほうが理に適う。

 魔王の力は、近ければ近いほど影響を受ける。
 もし石が、流れ出る魔力との距離が近いほど吸収力を上げるならば、聖剣を魔力の供給源の近くに置けばいい。
 この世界にある各国の王都に存在する神殿には、ある一つの共通点がある。
 それは各国の神殿に一つずつある水晶が、現存する限り唯一魔力をためおくことができる性質を備えており、光魔法のみだがその石を使い魔法が使えること。

 そしてその石は、かつては空をも貫く巨大な水晶だったと言うまことしやかな話があり、各国にあるその水晶は、もとは一つの石である場合の性質を備えているという点だ。

 言い伝えでは、「空を貫く同じ水から生まれた水晶は、その心を共にする」というものがあり、そのおかげか神殿の石は、他国との交信が可能だ。

 ただ、特定の国を指定できない機能でありすべての国に情報が伝わるため、この石の力は、有事の際にしか使われていない。

 ベアトリーチェはこの石を使えば、もしかしたら水晶を媒介にして、他国の王子たちの、魔王への魔力の供給を止めることができるかもしれないと考えた。
 特殊に特殊を重ねる行為だ。
 各国で生命維持のために神殿で眠る王子たちに水晶に触れてもらい、クリスタロス王国の水晶に聖剣を固定する。
 この作戦は成功した。魔王の巨大化が止まったのだ。

 聖剣を持たないローズには、代わりに騎士団で使われている剣が手渡された。
 今や彼女の力を、制限するものはない。
 測定が出来ない――その魔力を、強力な魔法に変換し彼女が戦えば、勝機はある。
 しかし同時に、ローズは魔王の格好の餌だ。
 彼女が魔王に取り込まれたら、この世界は終焉を迎えてしまうかもしれない。
 それを防ぐために、アカリは欠かせない存在だった。

 『光の聖女』は魔王と戦う者たちに、守護の魔法を与えてきたということが、世界の過去の事象、未来を記録する神殿の書物には書かれていた。

 彼女たちしか持ち得ない、力の名は『加護』。
 それは願いと祈りによって、世界を脅かす存在に対抗するために、身体能力の向上と、目には見えない防御壁を纏わせることのできる魔法だという。

 アカリはまだ、力を完全には使いこなせていない。 
 アカリの『加護』が破られたら、ローズは『魔王』に飲み込まれる。
 ローズの命は、アカリに預けられたも同然だった。

 アカリの手は震えていた。
 式典のときと同じように、失敗したらどうしよう? もし、今度失敗したとしても――今度は自分を支えてくれる人は、隣にはいてくれない。
 ローズは震えるアカリの手を、そっと自分の手で包んだ。

「ローズ、さん……」
「――いいですか? アカリ」
 自分を不安げに見つめるアカリに、ローズは静かな声で言った。

「魔法は、心から生まれます。自分を信じること。自分なら出来るーーそう、思うこと。貴女に足りないのは、自信です」
「自信……」
「大丈夫」
 ローズは優しく笑う。

「――貴方なら出来る」

 ローズの手は温かい。
 アカリはその温もりを、失いたくないと思った。
 自分は『光の聖女』。祈り、願うことしか出来なくても。それが誰かの役に立つなら。自分は願い、祈ろう。たとえそれがどんなに、叶えることが難しいことであっても。
 この思いは、届くと信じて。

「――はい」
 アカリは静かに頷いた。
「私が、ローズさんをお守りします」
 ユーリとベアトリーチェは、頷くアカリを見て、自分の剣を握る手に力を込めた。

 『天剣』、『地剣』。
 騎士団の双璧とされる二人の青年は、空を見上げていた。
 今回の魔王討伐作戦はローズ、アカリ、ユーリ、ベアトリーチェを中心に行われる。
  
 作戦はこうだ。
 アカリが『加護』でローズを守り、ベアトリーチェが土の階段を作りローズとユーリは魔王の近くまで近付く。
 ユーリに『加護』はかかっていないため、ユーリは自身の魔法の有効範囲ぎりぎりを見極め、ローズを魔王の核の上へと風魔法を使って押し上げ、ローズが核を破壊する。
 最後は、ローズ一人で核を壊さねばならない。
 
 ローズはいつもとは違う剣に力を込めた。
 全ての力を、一撃に込める。
 大丈夫。自分なら出来る。たとえお祖父のときのように、聖剣がこの手になくても。
 騎士団に入団したときと同じように――自分の力で、道を切り開く。
 そう思って瞳をとじて、彼女はゆっくりと瞼を上げ前を見据えた。

「それでは、始めましょう」
 『地剣』の作る柱が、空へと伸びていく。
 まるで天へと繋ぐ階段だ。
 ベアトリーチェが、『地剣』と呼ばれる理由はここにある。
 圧倒的な回復力を持つ魔力を以て、地形をも動かす力。
 しかしその力をもってしても、魔王の頭上には到達できない。
 『地剣』の力は天を目指せても、空に届くことはない。

「ローズ様!」
 続いてユーリの風魔法。ローズは加速し、空を飛んだ。
 ローズは魔王の攻撃のため、魔力を温存する必要がある。ユーリはそのためのアシストだ。
 魔王の腐食の力が、ユーリの服を僅かに溶かす。
 ローズを無事送り出したユーリは、後方へと下がった。

『僕の住んでいた地域では、お祭りの時に男装した女性が、神への捧げものとして剣で舞うんです』

 空を舞う。髪は宙で円を描いて、まるで神に祈りを捧げる巫女のようだ。
 神を呼ぶ舞。
 ローズはふと思い出す。
 『剣神』の名は嬉しかったけど、本当は少しだけ寂しくなった。

 神様なんていないと、どこかでいつもその存在を否定していたから。
 どうせ叶わないと諦めて、自分一人で何でもしようとしたから。
 でも、それじゃ駄目だった。何も変わりはしなかった。
 だからお願いーーローズは、心の中で呟いた。
 
 今もう一度、貴方に願う。
 貴方に願うことを諦めていた、私に力を貸して。私はとても弱いから、きっと一人きりでは世界を変えられない。
 泣いていいと人には言って、自分は泣くことなんてできず、苦しいときに私は、結局自分しか信じられなかった。
 これまでの、そんな弱い私に。
 神様、どうか一度だけでいい。
 ――愛する人と。彼らと守ると約束したこの国を、守る力を私に与えてください。

「この国は、私が守る」

 『剣神』は魔法を発動させる。
 天と地を繋ぐ、神の一撃。
 雷撃は、魔王の動きを止める。
 ローズは剣を振り下ろした。剣に雷をまとわせる。『加護』に守られたローズに、傷は生まれない。
 けれど。

「……っ!!」
 魔王の核は、世界中の魔力を吸っている。核は、ローズの力に対抗する力を発していた。その力は、ローズ一人の力より強かった。
 押し負ける。このままじゃ、私は……。

 ――死んで、しまうの?
 ローズは、アカリの言葉を思い出した。
 『悪役令嬢』の終わりは、決して良いものとは言えないようだった。高慢な彼女は、王子に婚約破棄されて、悪い時には死に至る。

 そんなのは、嫌。
 ローズはそう思ったが、今の彼女には、もう何も出来なかった。
 一日に使える魔力量は限られている。 
 測定不能とはいっても、それは彼女が、この世界では魔力を蓄えておける量が人より多く、強大な魔法を扱えるというだけに過ぎない。

 石に組み込まれた式は雷撃のみ。
 強力な魔法故に、どうせ使えないと他の魔法式は書きこまなかった。自ら敷いた背水の陣は、彼女に退路を与えない。
 甘かった。自分なら、魔王を倒せると驕っていた。その結末がこれだ。
 弱くなる心が、ローズの魔法を弱めてしまう。

「ローズさん!」
 核が壊れない。
 その様子を見て、アカリは彼女の名前を叫んだ。遥か上空にいるローズには、アカリの声は届かない。
 光魔法しか使えないアカリでは、物理的な魔法でローズを救うことは難しい。
 アカリは、懸命に祈りを捧げた。
 
 ――どうか、どうかこの世界で。ただ一人私を信じてくれると言ってくれたあの人を――ローズさんを死なせないで。どうか彼女に『加護』を与えてください。

 すると、その時。
 ――お嬢様!
 ローズにはどこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 温かい。

「――ミリ、ア……?」
 指輪とは別に、腕に嵌められた一つの腕輪。
 不思議と今のローズにはその腕輪が、まるで自分の手を包み込むように温かく感じられた。

 気付く。
 いつだって貴方は、私を守ってくれる。そう、私は一人じゃない。
 神様に祈る前に、もっと早く気付くべきことがあった。
 それは――こんな弱い私を、信じてくれている人がいることだ。
 待っている。待っているんだ。
 私をここまで導いてくれた、送り出してくれた人たちが居るなら。私は、帰らなきゃいけない。

 失ったものがある。愛しい人との約束。そのために自分が苦しんできた、同じ痛みを。今度は私自身が、大切な人たちに背負わせようとしていた。

 どうして気付かなかったんだろう。
 『命が潰えても(しんでもいい)』という自分の思いが、言葉が、大切な人たちを傷付けてしまっていたことを。

『私はここでお嬢様をお待ちしております』
『貴方は、前線に立って戦うべき人じゃない。あの方だって、望まれない筈です!』

 ユーリの言う『あの方』が、誰なのか気付いていないふりをしたのは、自分の弱さを隠すためだ。

『お前なら出来るよ』
 優しい言葉をいつもくれた。
 頭を撫でて笑ってくれた。
 そんな大好きで大切な人が、たとえこの先も二度と目覚めなくても。
 自分を待っている、生きている人が居るならば、こんなところで死ぬわけにはいかない。

「……私は」
 ローズは剣を握る手に力を込めた。

「一人じゃない……っ!」

 ――信じられている。それに気付く、それだけで。どうして心は、こんなにも熱く滾るの?

 だからローズは、もう一度決意した。今度は揺るがないように。
 この体に宿る力の、その一滴まで。使い切ってでも倒してみせる。
 そして。
 生きて、彼らのもとに帰るのだ。
 魔法は心から生まれる。

「私は負けない」
 ローズは雷撃の威力を強め、そしてミリアの腕輪の式を展開した。
 ローズの剣はずんと重みを増して、核に力を加える。
 その様子を見て、『地剣』ベアトリーチェ・ロッドは口元を緩めた。

 ――これなら、戦える。

 バチバチという火花が強くなり、パキッという軽い音がして、『魔王』は霧散した。

「やった……!」
 ユーリは、魔王が崩れていく姿を見て思わずそう口にしていた。
 全て、これで終わりだ。誰もがそう思って疑わなかった時、ローズだけが一人、戦いを終えていなかった。
 魔王を倒し、ユーリの居る後方へ下がろうと思ったが、体が動かなかったのだ。

 ――駄目!
 体に力が入らない。まるで水の中で溺れるように、体の力が抜けていく。
 このままじゃ墜落する。
 ローズはきゅっと目を瞑った。
 死んでもいいと思っていた。それなのに今は、死がひどく怖い。

「ローズ様!」
 ユーリは彼女の名を叫び、墜落する彼女の体を受け止めた。

「ユー……リ……」
 先程まで強力な魔法を使っていたとは思えない。ローズの身体は、ユーリにはとても軽く感じられた。

「ローズ様。もう……もう、大丈夫、です」
 ユーリの声は震えている。
 傷だらけの自分を見つめて、今にも泣いてしまいそうな彼の声が、ローズの心に小さなさざ波を起こしていた。

 ――大丈夫。大丈夫だから。だから、だから泣かないで……。
 ローズは彼の頬に手を伸ばそうとしたけれど、体に力が入らなかった。
 ローズは霞む視界でユーリを見つめた。

 ユーリは、ローズにとって大切な幼馴染だ。婚約破棄されて落ち込んだ自分のために、求婚までして励まそうとしてくれた。
 ユーリは優しくて誠実な人だ、とローズは思う。
 彼は騎士で、今は自分の上司で。四つ年上の彼は、少し抜けているところもあるけれど、未熟で力不足な自分のことを、きっとこれからも精一杯守ってくれるような気がする。

「魔王は、もう居ません」
 彼は言う。

「貴方が、倒したんです」
「……いい、え……」

 ローズは途切れ途切れの、消え入りそうな声で否定した。
 今だからこそ、ローズは思う。
 独りよがりな自分を、変えていかなければ。
 一人じゃ何もできなかった。魔王を倒せたのは騎士団とアカリとミリアが――沢山の人達がいたおかけだ。
 自分は何もわかっていなかった。わかっているつもりでいただけだ。
 リヒトの言葉は、強ち間違ってはいない。

 ――弱さを肯定しない、認めないことが、きっとこれまでの自分に足りなかったこと。

「みん、なが……貴方が、いてくれた、おかげです」
 停滞していた物語を動かす。
 今は不思議と、アカリがこの世界に招かれたのは、そのためのような気がした。
 だからそう――どんな出会いも、無駄じゃないと信じたい。今の彼女は、そう思った。
 弱弱しく自分に微笑みかける初恋の相手に、ユーリは鼓動を速くした。

「ローズ様……!」
 感情が溢れてしまう。
 魔王は居ない。ローズが倒した。約束は、もう出来ないというのに。――気持ちが抑えられない。

「ローズ様。やっぱり、諦めるなんて無理です。力も、地位も。貴方に自分は足りないかもしれないけれど。それでも、それでも俺は……俺は、ずっと……ずっと、貴方が」

 ローズに対しては、いつも『私』というユーリだったが、今は取り繕うことなんて出来なかった。

「――貴方のことが、好きなんです」

「…………」
 ローズから返答はない。

「…………ローズ、様……?」
 ユーリは彼女の名を呼んだ。
「ローズ様、一体どうなされたのですか!?」
「ローズさん!」
 異変に気付いたアカリも駆け寄る。

「ユーリ、聖女様。……大丈夫です」
 動揺する二人とは対称的に、ベアトリーチェだけは冷静だった。彼はゆっくりと、ローズの元へと近寄る。
「ローズ様の魔力の器は大きい。けれど回復は、私のようにははやくない」

 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリの腕に抱かれたローズの顔にかかった髪を、そっと指で払った。
 ローズは目を閉じていて、静かに寝息をたてている。

「大丈夫。分不相応な魔法は――と、以前仰っていたように、今は疲れて眠られているだけです」
 ベアトリーチェは微笑を浮かべ、子どもにするように優しくローズの頭を撫でた。

「――……よく、頑張られましたね」
 小さな声で囁く。
 これまで、ベアトリーチェはローズのことを、ユーリを通してでしか知らなかった。
 だからこそ彼は、彼女を戦わせることには反対だった。
 眠り続ける二人の少年。
 二人のことがあり、自分の命を捨ててでも国を守ろうと戦う彼女は、決して強くなんかない。死んでいいと簡単に口にする人間を、戦場に送るわけには行かない。そんな決意は、もろく瓦解するからだ。

 立ち止まって振り返る、横を見たそのときに。自分を見守っていてくれる人たちを思い出す。
 そうでなければ、人間は生死を分けるとき、(かんたんなほう)を選んでしまう。
 生きることは戦いだ。そして、自分が帰るべき場所が無い人間は、本当の意味では戦えない。

 この戦いで、彼女はそれに気づくことが出来たのだろう。
 ベアトリーチェは眠り続けるローズに、心の中で囁いた。

『ようこそ。クリスタロス王国騎士団へ。私はベアトリーチェ・ロッド。この騎士団の副団長をつとめております』

 彼女が目を覚ましたら、まずは自己紹介から始めよう。

 ユーリは彼の上司だが、年下だしローズには甘い。
 だからベアトリーチェは、自分だけはローズに厳しく接しなければならないと思っていた。
 それに今のユーリはきっと、ローズを失うことに耐えられない。

 かつて自分を倒した年下の少年。
 そんな彼に、『天剣』の名を与えたのはベアトリーチェ自身だ。
 そして前騎士団長に副団長に指名された彼は、団長が騎士団を去ったときに後継として、ユーリを指名した。

 誰を支え、導き、育てたいと思うのか。
 ベアトリーチェはユーリの未熟さを理解しながらも彼を選んだ。その未来に期待して。
 だから自分が騎士団長として選んだ器を壊すその存在を、目障りにも思ったことは否定できない。

『副団長として、私は貴方が騎士として生きることを認めることはできない』

 ローズにそう告げ、追い出そうかと思ったのも事実だ。
 でも、今は。
 今は彼女のことを、一人の騎士として認めたい――そう、彼は思った。

 騎士団の団員に仲間として認められるには、本当の意味で騎士団を支えているベアトリーチェに認められなければならない。
 ローズは本人の知らぬところで、彼の信を得ることに成功した。

「大丈夫。数日すれば元気になられます。だから、今はどうか――眠らせてあげましょう」
 彼はそう言うと、今度はアカリの方を向いた。

「聖女様」
「はっはい!」
 アカリは慌てて返事をした。

「ローズ様の回復は、貴方に頼んでもよろしいですか?」
「え?」
 突然のベアトリーチェのお願いに、アカリは目を丸くした。

「貴方が倒れられたときは、ローズ様がリヒト様の目を盗んで、光魔法をかけてくださっていたんですよ。そうでなければ、あんなに早く目覚められるはずがない」

 ベアトリーチェはアカリに優しく微笑んだ。
 厳しさと優しさを併せ持つ。
 そんな彼に微笑まれ、アカリはどきりと胸を高鳴らせた。
 ユーリより小さく幼く見えるベアトリーチェだが、見た目トは異なる落ち着いた雰囲気が、不思議な彼特有の色香を作り上げている。
 四人の中で本当は誰より年上の彼は、アカリがローズのことを見つめる瞳の優しさに気付いていた。

 敵対していた筈の二人の少女。
 騎士団に報告に上がった情報だけでは説明出来ない。何がきっかけで、アカリがローズに心を許したかはベアトリーチェにはわからない。それでも長く騎士団に在籍し、年下であるユーリの相棒として選び、騎士団を支えている彼の洞察力は伊達ではなかった。

「……わかりました」
 きゅっと拳を握りしめ、顔を上げたアカリを見て、ベアトリーチェは小さな子どもの成長を見守るような、優しい大人の目を向けていた。
 ユーリは心の何処かで、アカリを信じられずにいた。
 けれど年上の相棒に『貴方も』と目で促され、ユーリはアカリに頭を下げた。

「ローズ様のことを、どうか宜しくお願いいたします」
 アカリはまさかの相手からの言葉に、目を瞬かせた。
 不思議と力が湧いてくる。
 アカリはローズの親しい相手に認められたことが、心から嬉しかった。

「私に――お任せ、ください!」
 アカリはそう言って、満面の笑みを浮かべた。
 手のぬくもりを、忘れない。
 ローズが、自分を信じると言ってくれたその言葉が、今のアカリを強くしていた。

『貴方なら出来る』

 言葉は、自分とは違う誰かに伝え残すために、物や思いを、音や文字で表したものだ。
 ローズがアカリに伝えた言葉は、彼女が慕っていた兄から受け継いだもので、そのことをアカリは知らない。
 それでも言葉は受け継がれる。
 見えないところでそうやって、人と人は繋がっていく。
 時間も、空間も、飛び越えて。
 人と人との物語は重なる。

 アカリの笑顔を見て、ユーリもまた驚いていた。
 それは『光の聖女』アカリ・ナナセが、この世界に来て初めて、心から笑った瞬間のように彼には思えた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ありがとう。アカリのおかげです」
「ローズさん……」

 目を覚ましたローズは、自分の手を握ってずっと光魔法をかけてくれていたらしいアカリに礼を言った。
 一ヶ月くらいは寝込むのも覚悟していたが、体も軽いし彼女の反応を見る限り、そこまで時間は経っていないらしい。

「これからも私、ローズさんのためにも精一杯頑張ります!」
「頼りにしています」
「はい!」 
 アカリは元気よく返事をした。

 レオンたちとは違い、ローズは単に魔力の使い過ぎだ。
 ローズが眠っていた場所は、アカリの部屋の隣だった。
 本当は、自分がつきっきりで面倒を見るから、アカリは自分の部屋でローズに光魔法をかけたいと頼んだが、アカリが無理をしすぎる可能性への危惧と、聖女の部屋への出入りすることは周囲が気を遣うということで、隣の部屋になったとアカリに聞かされたときは、ローズは少し笑ってしまった。

 今の彼女は、心から自分のことを思ってくれているのだと――そう、わかって。
 話をしながら、二人は部屋の外へ出た。 
 
 ローズは目を細めた。
 久しぶりに見あげた空は、どこまでも遠く高く、澄んで見えた。
 それはまるで自分がこの世界にとって、ちっぽけな一人の人間にしか過ぎないと告げるように。
 人は神様にはなれない。一人きりの力では、世界は変えられない。
 今の彼女はその事実を、自然と受け入れられる気がした。

「そう言えば」
 その時ローズはふと、最後のアカリへの疑問を思い出した。

「……アカリ。貴方に対してあと一つだけ、疑問に思っていたことがあったのですが聞いてもいいですか?」
「はい。なんですか?」
 アカリはきょとんとした顔をしていた。

「パーティーの日に、貴方が泣いていたのは何故ですか?」
「……それは」 
  
 ローズの問いに、アカリの表情が少し曇る。
 アカリは、自分より身長の高いローズに少ししゃがむよう手で合図をすると、ローズの耳元で真実を打ち明けた。

「もともと私はゲームの中でしか男の人を知らなくて怖いというのもあるんですが、この世界に来てちょっと困った体の変化が一つだけあって。実は男の人に肌を直接触れられると、泣いてしまうんです……」

 アカリはそれだけ伝えると、顔を赤くしてローズから離れた。

「え?」
 ローズは予想していなかった答えに思わず声を漏らした。
 ――それでは、あの日の彼女の涙は……。

「あの日はリヒト様に顔を触られたので……」
「…………そういえばそうでしたね」
「となるともしかして、魔王討伐の際の人選は、自分に触らない可能性が高い人間ですか?」
「配慮してくれそうな人なら平気かなって……大勢の前で泣くわけにもいかないですし……」

 アルフレッドは明らかに誤解していたし、自分も誤解していたし、このことは周りに明らかに方がいいのだろうか? ローズがそんなことを考えていると。

「アカリに触れるな!」
 叫ぶリヒトの声が聞こえて、ローズは背後を振り返った。

「見て見ろ。泣いてるじゃないか!!」
 リヒトは今、アカリに触れている。

「リヒト様」
 どうせ頓珍漢なことを言う彼のことだ。
 アカリがローズに光魔法をかけていたのだって、敵にも優しい『光の聖女』は流石だとか思っているんだろう。
 ローズは彼を見ながら、冷ややかな心で彼の間違いを予測していた。
 真実を知った今のローズは、少しだけリヒトにむかっときていた。
 彼が傷付くかもしれないが、本当のことを教えなくては気が済まない。

 ――アカリがなんですって? ……そんなの、貴方が勝手に思い込んでいるだけ。貴方は、彼女と心で結び合ってなどいないのですよ。
 そう思う今のローズは、多分彼女にしては珍しく、いじわるたっぷりの『悪役令嬢』に違いなかった。

「アカリが泣いているのは貴方のせいです。アカリは男性が怖いそうで、触られると泣いてしまうそうですよ」

 正しくは、この世界に来て唯一の、彼女の体の異常らしいけれど。
 ローズのことを、全て正しいと肯定する人間は沢山居る。
 けれど彼女自身は、自分が抱えるものが、正しいものばかりではないと気付いていた。
 自分はきっと、強くない。強くあろうとしているだけ。だからこそ心の何処かで、誰かに怒ったり、妬んだりする心が無いとは言えない。
 婚約破棄されたあの日。
 自分が口にした言葉はきっと、強がりだったのだろうとローズは思った。

 魔法は心から生まれる。全属性に適性を持つということは、人より深く多くの感情を抱いてしまうということだ。
 清廉なばかりでは居られない。
 ローズだって、いろんな気持ちを抱えて生きている。

「え……」
「……じゃあ、あの日、アカリが泣いていたのは……」
「リヒト様が顔を触ったからです。――さぞや、怖かったことでしょう」

 皮肉たっぷりにローズは言う。

「で、でも! 服を掴んでくれていた!」
「予想でしかありませんが、手を繋ごうといって拒否されて、袖を掴むということで落ち着いたのではありませんか? リヒト様はアカリが照れて手を握らないのだと勘違い、とか……」
「……」
「そのお顔ですと、正解のようですね」

 はあああと、ローズは大袈裟に溜息を吐いた。

「リヒト様はどうやら、弱者の気持ちは分かっても、恋心を理解するのは苦手なご様子ですね」
「そ、そんなわけ!!」

 リヒトは慌てた。彼女が自分に告げた言葉で、自分の世界がひっくり返されてしまう。

「あ、アカリ……」
 リヒトはローズの隣にいたアカリに視線を移して尋ねた。

「アカリは……俺のこと、好きだよな……?」
 アカリは視線を逸らした。
 ローズに真実を話して和解した今、アカリが自分の気持ちを偽る必要はなかった。

「リヒト様」
 ローズは、冷ややかな声でかつての婚約者の名前を呼んだ。

「まさかとは思いますが、あのパーティーの前にも、同じことを彼女に訊ねたわけではありませんよね?」
「……」
「異世界から召喚されて、頼る相手の無い彼女です。仮にも一国の王子である方にそう訊ねられたら、否定する方が難しいのではないでしょうか」
「そんな……」
「ろ、ローズさん!」

 リヒトは呆然とした。
 そんな彼を、アカリは更に絶望に突き落とした。

「私、ローズさんと一緒にいたいです。ずっと一緒に過ごしたいです。私を傍に置いて下さい。……邪魔は、邪魔はしませんから!」

 そして『ヒロイン(アカリ)』は、敵である筈の『悪役令嬢(ローズ)』に縋りついた。

「アカリ、辛かったですね。大丈夫です。これからは、私が貴方の味方です」

 よしよし。
 自分に抱き付くアカリの頭を、ローズは優しく撫でる。
 アカリの頬が少しだけ赤く染まる。
 何故二人がこんなに仲良く? そしてどうしてアカリは照れているんだ……? 自分はアカリに碌に触らせてもらえなかっただけに、リヒトは呆然と二人を見つめていた。

「リヒト様」
 ローズはアカリからリヒトに視線を戻した。

「今度私の友人を泣かせたらどうなるか……リヒト様であろうと、容赦は致しません」
 強い意思を感じさせるローズの赤い瞳に睨まれて、リヒトは蛇に睨まれた蛙宜しく体を硬直させた。

「……!」
 ローズが本気を出せばリヒトは一瞬でやられる。
 蛇に丸のみにされる蛙のように、リヒトには成す術がない。
 そんな圧力を感じて、リヒトは沈黙を続けるしかなかった。
 するとどこからか丁度、彼を揶揄するかのように声が聞こえてきた。

 いやはや。同類を憂う仲間意識は、種族をも超えるらしい。リヒトの瞳によく似た色の蛙は、ぴょんぴょんと跳ねながら、鳴き声を響かせる。
 ゲコ、ゲコゲコ。ゲコゲコゲコゲコ。
 蛙はリヒトの周りを飛び跳ねる。
 リヒトはかんに触るも、むやみやたらに生き物を殺せるような人間でもなく、下を向き恥辱に震えていた。
 その光景の、滑稽さといったら。
 王族を嘲笑するような不敬は誰もしなかったが、彼の立場さえなかったら、今頃爆笑だったにちがいない。
 ただ発端となったローズは、気が晴れたのか満足した顔をしたのちに、どこか寂しそうに目を細めた。
 彼女に抱き付いていたアカリは、ローズの変化に気付いて少し顔を上げてから、微かに胸が痛むのを感じた。



 ひゅ――おおおおおお――――。
 どこからか生き物の鳴き声が聞こえ、空に浮かぶ日輪を、巨大な翼が隠す。
 けれどそれは魔王ではない。
 翼を羽ばたかせる音を聞いて、ローズたちは手で陽の光を隠しながら空を見上げた。

「――え?」
 ローズは顔を僅かに顰め、アカリは大きく目を見開く。
 そこにいたのは沢山の翼を持つ生き物たちと、眠りについたはずの各国の王子たちだった。
 国を負うに相応しい、見目美しい顔をした青年たちは、ローズとアカリに向かって口々に言う。

「『光の聖女』アカリ・ナナセ様! 『剣神』ローズ・クロサイト様!」
「どうか我が国に来ていただきたい。貴方方は、私の命の恩人です」
「是非。私の国に!」
「どうか私と――結婚してくださいませんか?」

 ローズはとっさにアカリを抱き寄せた。
 男が怖いという彼女を、ましてや触られたら泣いてしまうという彼女を、一人他国の王子に嫁がせるなんて、ローズには出来ない。

「申し訳ございませんが、お断りいたします」
「ろ、ローズさん……?」
「私はこの国から出るつもりはありませんので。……そして、彼女も」

 ローズ様はアカリを自分へ引き寄せ、そして微笑んだ。

「私は彼女と共にこの場所で、この国を――世界を守ります」
 その光景はまるでおとぎ話のハッピーエンドで、王子が姫に愛を誓う場面のようだった。

「ローズさん!」
 ローズはアカリに両手を包まれ、乙女のきらきらした瞳で見つめられ少し動揺した。

「……アカリ?」
「私、決めました。これからはローズさんとtrueendを目指して頑張ります!」

「?????」
 ローズは意味が分からず首を傾げた。
 そこへ眠っていたローズが目覚めたとの知らせをきいたミリアとユーリが、遅れて駆けつける。

「こ、これは一体、どういうことなのですか……?」
「しかし、彼らが目覚めたということはつまり……」

 ミリアとユーリは、目の前の光景に目を丸くした。
 何故他国の王子たちがここにいて、そして何故アカリがローズに迫っているのか二人にはいまいち理解できなかった。

「ローズ」

 その時だった。
 ローズの名を、誰かが優しい声で呼んだ。
 忘れられるはずがない。ローズは振り返って、愛しい彼らの名を呼んだ。

「お兄様……? レオン様……?」

 十年間待ち続けた。その願いがやっと――……。
 泣きそうになるローズに、兄であるギルバートは優しく笑みを作った。
 そうやって瞳だけで心を通わせる二人とは異なり、リヒトの兄レオンは、一歩前に足を踏み出して言った。

「ただいま。留守を任せて、悪かったね」

 リヒトの兄、レオン・クリスタロス。
 彼の後ろには、軍服に身を包んだベアトリーチェが控えていた。
 弟であるリヒトとは違い、王族としての美貌と気品を兼ね備えた彼は、自らの不在をそう述べる。

 ここは自分の国で、次の王は自分だと。そうみなに告げるように。
 彼の言葉に、その場に控えていた人間たちは目を見張った。
 金の髪に紫の瞳。
 光を浴びてきらきらと輝くその姿は――まさに『先導者』と呼ぶに相応しい。
 ベアトリーチェはレオンに膝をついて首を垂れた。レオンを囲む騎士たちも、次々に彼に倣う。

『やっと王が。次の王が、帰還なされたぞ』
 その光景を見たリヒトには、彼らの心の声が聞こえるような気がした。
「ただいま。――リヒト」
 たった一言で人々を従えさせたレオンを前に、リヒトは動けずにいた。

 ずっと待っていたはずなのに。兄が帰ってきて、みんな喜んでいるはずなのに。胸が苦しいのは、どうしてだろう?

「おかえりなさいませ。……兄上」
 リヒトは後ろめたさで、レオンの顔を真っ直ぐ見ることが出来なかった。
 ただ彼に出来たのは、レオンの前に膝をつかずに、立ち竦むことだけだった。
 膝をつくのは、王のすることではない。
 服従の意を一瞬でも示せば、牙は喉元に食らいつき、リヒトは簡単に負けてしまう。そして、彼の糧にされてしまうのだ。リヒトの居場所を奪い、自らが次期国王となるための。

 『百獣の王(レオン・クリスタロス)』。
 王となるべくして生まれたような、そんな名前を持つリヒトの兄は、弟を見てふっと笑った。
 どうやら弟は、自分と戦うつもりでいるらしい。
 けれど弱者の精一杯の抵抗なんて、絶対的な強者の前には、ただの悪あがきにしかうつらない。
 それが価値のあることなのか。それとも愚かなことなのか。
 答えはまだわからない。
 二人のどちらが王になるのか――未来はまだ、決まっていないのだから。

「……お兄様」
 リヒトとレオンが、静かに火花を散らす一方で、ローズは兄ギルバートを前に、感情を抑えることができず駆け出した。 

「お兄様。……お兄様、お兄様……!」
 赤い瞳に涙をいっぱいにたたえ、愛しい人に手を伸ばす。
 ――生きている。生きているんだ。会いたかった。会いたかったあの兄が……!

「ローズ」
 ギルバートは、自分に抱きつくローズの頭を軽く拳で小突いた。

「こら、ローズ。はしたないぞ」
「ご、ごめんなさい……」

 猫に触られたくらいの衝撃。
 ローズは頬を赤く染め、兄から手を離し、兄が自分に触れた額にそっと手をのばした。
 自分の体の一部だというのに、なんだか特別な場所に思えてくる。

「お兄様が、戻ってきてくださったのだと思うと嬉しくて」
 その理由をローズはちゃんとわかっていた。  
 だってさっきの拳は――兄が自分を思ってくれている証なのだ。

「……お帰りを、お待ちしていました。この十年間、ずっと」

 ローズは涙を拭って、公爵令嬢らしく兄に笑ってみせた。
 それはローズが、この十年で身につけた笑顔だ。
 ギルバートは妹の表情《かお》を見て、成長が嬉しいのに胸が締め付けられた。
 自分は、彼女が――妹が。女性へと変わるために経験した時間を、共有することができなかったのだと、現実を突きつけられたような気がして。
 幼かった小さな妹。
 彼の知るローズは、自分たちが祖父に稽古をつけてもらったあとに、いつもサンドイッチを一緒に食べたあの頃のままで止まっている。
 顔にパンくずをつけて、自分が苦笑いしながらとってやる――そんな、遠い記憶のままで。

「仕方ないな」
 彼はふっといたずらっこのような笑みを浮かべると、大きな手を広げてローズをぎゅっと抱きしめた。
「今日だけだぞ?」
 確かに彼女は大きく成長した。
 もうあの頃のようには小さくなんてない。それでも彼にとって――ローズが妹であることは変わらない。

「ああ、そうだ」
 ギルバートは、思い出したように言った。

「家は俺が継ぐ。だからお前は、好きなように生きていい。どうせお前のことだ。俺が目覚めるまでは、自分が家を守らねばならないと、これまで頑張ってきてくれていたんだろ?」

 真実を見極める瞳――ローズの兄の魔力は、強くその瞳に現れた。
 ローズにとって兄は自分の兄で、何も言わなくても全てをわかってくれる、良き理解者だった。
 ただローズが真っ直ぐ過ぎたり思ったことを口にしてしまう悪癖は、主にこの兄のせいでもある。 
 ローズの気持ちを完全に把握するこの兄は、ローズの飾らない性格に一切傷つかないどころか、寧ろ好感を持ってしまい、注意することをしてこなかった。

 人間は使わない機能は退化させてしまう、怠惰な生き物なのだ。
 そしてローズの周りの人間たちは、リヒトを除いて全員彼女の感情を勝手に察してしまう、ローズに甘い人間ばかりだった。

「一人、苦労をさせてごめんな。もう大丈夫だ」
「……はい。お兄様」
 ギルバートはそう言うと、ローズの頭を優しく撫でた。

 ローズはリヒトとは違う。
 ローズは、ギルバートのために座を守ってきただけだ。その座にふさわしい人間が、戻れば譲り渡そうと思っていた人間と、返す気のない人間とでは全く違う。

 兄に頭を撫でられると安心する。
 あまりの多幸感に、ローズが目を瞑っていると、低い声で耳元で囁かれ、ローズは現実に引き戻された。

「感動の再会だね。でも、ローズ。君は僕には何も思わないの?」
「な、な、なな……」
「相変わらず、君はギルが大好きだね。僕だって十年ぶりだっていうのに、その反応はないんじゃないかな?」
「兄上、ローズに触らないでください!」
 ローズの髪に指を絡ませて遊ぶレオンに、リヒトは思わず叫んでいた。
「どうして?」
 レオンはリヒトに振り返って、『わからない』という顔をした。

「君はもう、ローズとは何の関係も無い筈だろう?」
 レオンの言葉は正論だ。

「婚約破棄の事、聞いたよ。……可哀想に。たいへんだったね。それで提案なんだけど、当初の予定通り僕が国王となって、君が王妃となればすごく丸く収まると思うんだけどどう思う?」
「は!?」
 リヒトは、仰天した。
 サラリと『君はお役御免』と言われたようなものである。

「……レオン様……」
 ローズは、静かにその名呼んだ。
 リヒトの心臓は、どくどくと大きく跳ねる。

「――レオン様と結婚するくらいなら、リヒト様と結婚する方がましです」 

 ローズはレオンを睨み付けた。
 その言葉に、リヒトはほっと息を吐いた。
 そして、ローズの言葉に少しどきっとしたリヒトは、また余計なことを口にした。

「そ、それはお前が俺を好きだということか。……ま、まあ仕方がないな! そこまで言うなら再び婚約してやらなくも」
「何言っているんです? リヒト様の想い人はアカリでしょう? コロコロと心を変える不誠実な人は私は嫌いです」
「ローズさん! 私はリヒト様が好きなわけではありません! 婚約なんて嫌です!」
「アカリ!?」

 調子に乗ったら二人から同時のお断りを受け、リヒトは思わずアカリの名前を叫んだ。
 目を丸くして動けないリヒトを見て、レオンはくすくす笑う。
 そして彼は、次のからかいの標的をローズに変えた。

「だ、そうだ。なんだか思っていたより面白いことになっているじゃないか。そういえば、ローズ。ユーリからも求婚されたらしいけど……君の中で、彼はどのくらい夫に相応しい男なのかな?」 
「人の心で遊ばないでくださいますか!? だから私は貴方が苦手なのです。レオン様!」

 ローズは思わず声を荒げていた。
 忘れていた。彼は元々こういう人だった。
 外面がいいので周りから優秀ともてはやされていたが、実は面倒な性格をしていたレオン。
 ローズはそのことを、彼が長く眠っていたせいですっかり忘れていた。

 思い出は、美化されるものだ。
 遠くの風景を描くときに、青を混ぜることで奥行きが生まれるように。
 手の届かない時間が長いほど、人は思い出を飾って熱く胸を締め付ける。

「あははははは! ごめんごめん」 

 レオンは笑うのをやめて目を細めると、ローズの顎を指で持ち上げ目を見つめて囁いた。

「――まあ。僕は君のそういう真面目でまっすぐな所、昔から大好きだけど?」
「な……っ」

 紫の瞳は、嘘をついているようにはとても見えない。
 そしてその瞳は、これまでもこれからも――おそらくあらゆる人間を魅了する力を宿していた。

「い……一国の王子が『大好き』だなんて、軽々しく口になさらないでください!」

 昔はよかった。好きと言われて素直に嬉しかった。
 でも今、昔の面影はそのままに、美しく成長した彼に言われると何故か恥かしくなって、ローズは彼の手を払った。
 その瞬間。

「………ぷっ。く、くくくくくっ、はっ、あはははは!」

 レオンは再びお腹を抱えて笑いだした。

「はぁ……これくらいで真っ赤になるなんて、可愛いなあ。ローズは」

 笑いすぎて思わず泣いてしまったらしい。
 涙を指で拭いながらレオンは言う。どう考えても性格の悪い彼の行動に、ローズの堪忍袋の緒が切れた。

「レオン様!!!」
 ローズは彼の名を叫ぶと、幼い頃と同じように、レオンに向けて通常よりも強力な魔法を放った。
 水の魔法だ。リヒトの時は遠慮したローズだが、レオン相手ならば心は傷まない。

「この程度で僕を傷つけられると思ってるんだ? 舐められたものだな」
 レオンなら、軽く防げると知っているから。
 レオンはローズが自分に向けた水を凍らせ、その氷を砕いてローズへと放った。 
 ローズは氷を炎で溶かすとレオンを睨みつけた。

 ある意味レオンやギルバートが眠りについたとき、幼い彼女がちゃんと光魔法を使うことができたのは、レオンがローズをからかって遊んでは、ローズがレオンに全力で魔法をぶつけていたせいかもしれないと、妹と幼馴染の攻防を眺めながらギルバートは思った。

 何事も、実用目的の時のほうが早く習得出来る。
 ローズの場合、結果それが喧嘩相手を守ることになったのだから、世の中何がためになるかわからないものである。

「なあリヒト」
 二人の喧嘩を何も言えずリヒトが眺めていると、ローズの兄であるギルバートが、リヒトの名を呼んだ。

「お前も馬鹿だよなあ。ローズとの婚約破棄がなければ、まだレオンに勝てる余地があったのに」
「……」

 公爵子息と第二王子。
 けれどその関係は、昔からずっと兄と弟だ。
 レオンとは違い年下を気遣うギルバートは、ローズの兄であると同時、リヒトにとっても尊敬すべき兄のような存在だった。
 そしてリヒトとレオンの関係もふまえると、寧ろギルバートのほうが、リヒトにとっては信頼を寄せていた「兄」だった。
 リヒトはギルバートの前ではレオンと同じく「弟」になる。
 「弟」だから、「兄」にタメ口を使われても怒らないし、むしろ自分の言葉を無意識に改める。

「レオンはああみえて、腹黒で狡猾だからな。お前、うかうかしていると、王位も好きな相手もかっさらわれるぞ」
「べ、別に今は好きなんかじゃ」
「本当に?」
「べ、別に……」

 真実を見極める瞳。
 特殊な力を宿した相手に見つめられていざ改めて問われると、リヒトは自分の気持ちを完全には否定出来なかった。

 自分が渡した指輪が壊れたと聞いた時は悲しかった。
 でも、壊れるまで持ってくれていて嬉しいとも思った。
 自分から婚約破棄したというのに、彼女の行動が気になって仕方がなかった。
 話しかけたら喧嘩になった。勢い余って決闘を申し込んだら恥を晒した。
 彼女が自分を庇ったときは胸が痛んだ。でも勘違いだと否定した。
 びしょ濡れの彼女を、気遣う幼馴染に腹がたった。思わず暴言を吐き、自分でもなぜそんなことを言ったかわからず、謝罪することができずその場をあとにした。
 ローズが他国の王子たちの求婚を断った時は安心したし、兄の求婚を断った時に自分の名前を出してくれた時はときめいたのも事実だ。
 でも今や『剣神』とまで呼ばれ、魔王を倒した相手と自分は、全く異なる人間のように思えて仕方がない。

 言葉に出来ない胸の苦しさは、ローズと婚約する前からずっと、リヒトが抱いてきた感情だ。
 年を重ねるにつれて大きくなった胸の痛み――それを彼は今、昔よりずっと強く感じていた。

「好きな女が自分より優秀だと嫌になるよな~~。わかるわかる。でも、そんな妹を望んだのは、他ならぬお前自身だぞ」

 ギルバートの言葉に、リヒトは目を伏せた。

『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺はそばにいる。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしたい。だから』
 婚約を申し込んだ。その日リヒトは、ローズに指輪を贈った。
『俺と、婚約して欲しい』
『――……はい。リヒト様』
 幼い日の約束が、リヒトの中に鮮明に蘇る。
 自分に微笑みかけてくれたあの日のローズの笑顔を思い出して、リヒトは顔を真っ赤に染めた。

 違う。こんなの、子どもの約束だ。認めない。有り得ない。公爵令嬢なのに騎士となって、魔王を倒すような人間だ。そんな相手を、好きになる男が居るわけがない。だから勿論、自分も。ローズを好きだなんて有り得ない。そうだ。違う。違う。違う! こんな、こんな感情は――……。

「俺が好きなのはアカリです! 可愛くて小さくて女の子らしくて、俺の一歩後ろをついてきてくれる、まさに理想の女性です!」
「本当にそうか? よく考えてみろ。異世界から来た少女が他とは違うし、ローズより女の子っぽいから、『お前は変わっているな』みたいな感じで聖女殿にも話しかけたんじゃないか?」
「何故俺とアカリとの出会いを知っているんですか!?」
「え? 今のは適当に言ったのに、まさか本当にあたってたのか? お前ちょろすぎないか? それで、やっぱ馬鹿だろ」

 ギルバートは呆れた顔で言った。

「……自分が誰を好きかもわからないなんて五歳児以下だぞ」
「意味が分からないことを言わないでください。俺は自分の好きな相手くらい、ちゃんとわかっています!」

 ギルバートとリヒトが長く話していると、喧嘩を終えた(終わらないので諦めた)ローズが、ギルバートのもとに駆け寄ってきた。

「お兄様、何を話していらっしゃるのですか?」
「べ、別にお前には関係ない!」
 リヒトは、反射的にそう答えた。
「そうですか……」 
 ローズは少ししょんぼりした。

「あれ? リヒト……おかしいな。君、それがこの国を……いや、この世界を救ってくれた、ローズに対する態度なのかな?」
 そんなローズを見て、レオンはリヒトに冷ややかな視線を向けてから、にっこりと笑った。

「ひっっっ!」
 百獣の王(レオン)小動物(リヒト)相手に、鋭く尖った牙を見せてていた。
 リヒトは、今にも自分に食らいつきそうな(あつ)に震えた。

「おい。弟をいじめるなよ。完全に怯えられてるじゃないか」
 二人を見て、リヒトを弟分として可愛がっていたギルバートは助け舟を出した。
 しかしそれは、今のレオンには通じなかった。

「ええ? どうして怯えてるのかな? リヒト。……悲しいなあ。僕はずっと、君に逢いたかったっていうのに」
「あ、兄上?」
 顔を近づけられ、リヒトはびくりとする。
 兄であるレオンはそんなリヒトに、冷ややかに目を細めて耳元で囁いた。

「君みたいにいじめがいのある子は、めったにいないからね。ねえ? 昔から僕に勝てなくて、一人泣いていたリヒト?」

 リヒトにだけ聞こえる声で。

「ローズと婚約破棄なんてしなければ、まだ希望はあったのにね。指輪も壊れて魔法も碌に使えないんじゃ、父上は僕と君、どちらを選ぶだろうね?」

 それだけ言うと、レオンはすぐにリヒトから離れた。
 リヒトの中に、昔の記憶が蘇る。
 どんなに頑張っても追いつけない。地べたに体をつけて動けない。そんな自分を見下ろして、薄く笑っていた兄の姿を。
 弟の顔から色が消えたのを見て、レオンは誰にも自分の表情が見えないよう顔を背け、笑うわけでなく苦笑いして、少し思案するような素振りを見せた。
 けれどそれは一瞬で、ローズの方を見るときには、レオンはいつもの『第一王子(レオン)』の顔に戻っていた。
 
 指輪は元々、クリスタロス王国の次期国王が、婚約者と結婚するまで婚約の証として贈り、結婚までの間お互い身につけるものだ。
「信じあう二人は絆で結ばれお互いを守る」なんてことを、かつての所有者だったレオンは父から聞いたことがあったが、まさか本当に魔力を共有化し、婚約者を守る強力な保護魔法が掛けられていたなんて、レオンすら知らなかった。

 自分がローズを選んでいればこの先も、指輪の力が明らかになることは無かったかもしれない。そうレオンは考えた。
 歴代のクリスタロス王国の王と王妃は、魔力が同程度の人間が選ばれている。
 リヒトとローズの間に圧倒的ともいえる魔力差があったからこそわかっただけで、そもそもあの保護魔法が発動されるような状況は、ローズのように戦場に所持者が身を置いていない限り有り得ない。

 だとしたらあの石は何のために……? あの石は何なのか……? そもそも指輪の石と聖剣の石が違う家にあったことが不可解だ。レオンは明晰な頭脳で理由を考えてはみたものの、結局答えが出ず考えるのをやめた。

「僕の留守中、国を守ってくれてありがとう。迷惑をかけてすまなかったね。クリスタロス王国第一王子として、君に心からの感謝を」

 レオンは静かに礼を述べる。その声色や表情は、やはり国を統べる王に相応しい。

「いいえ。当然のことをしたまでです」

 ローズはそれだけ言って頭は下げたが、膝をつくようなことはしなかった。
 レオンはそんなローズを見て、面白いと心のなかでくっくと笑う。

 ――彼女は騎士としても公爵令嬢としても、自分を王として選んだわけではないらしい。

 出来損ないの弟と自分とではどちらにつくべきかは明らかで、彼女はそれがわからぬほど、愚かな人間ではないはずなのに――レオンはふっと笑って、さっそく『一手』を投じた。
 これは彼にとって、ただの盤上遊戯。
 先手有利の王位継承争い(あそび)なんて、レオンにとってはただの暇つぶしにしかならない。
 唇に、薄く浮かべる笑みは王の風格。
 すらりと長く延びる指は、優雅に糸を束ね、人を操る傀儡師だ。
 さあ。最少の手で王の座を得るために、動かすべき駒はどれ?

「ああそうだ。ローズ」
 レオンは、さも今思いたかのような声音で言った。

「魔王を倒したんだ。これは語り継がねばならない。なにか残さねばいけないね」
「別にいりませんが……」
「必要なんだよ。この国のために。君のお祖父様のグラン様のだって、ちゃんとあったはずだろう?」
「まあ、それはありましたが……」

 ローズはレオンに言われて渋々頷いた。ローズは別に、英雄になりたくて戦ったわけではない。
 ましてそれを英雄譚として残すなんて、ローズの考えにはなかった。
 アカリはローズたちを少し離れた場所で眺めつつ、一人こんなことを呟いた。
「ローズさんの物語、ですか。もし、私が書くなら。そうですね、題名(タイトル)は――」
 昔読んだ小説を思い出し、彼女は微かに笑う。

「『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』といったところでしょうか? 」

 アカリはそう口にして、過去の自分からは考えられない変化に気づいて目を細めた。
 病室のベッドの上で、ずっと窓の外を眺めていた。
 その日々の中で、自分が読んできた物語や、プレイしたゲームの知識が役に立つなんて思っても見なかった。
 それが結果一人の少女を――ローズを傷つけたことは確かだ。
 傷付けた罪は消えない。 
 でも、それでも。――もし、許されるなら。
 いつか彼女の物語を。私と、彼らの物語を。この世界に伝えたいと、アカリは思った。 
 お伽話のように美しい、この世界で見つけた、運命が変わる物語(じんせい)を。

「それだ!」
 その時、指をさして叫ばれて、アカリはびくりと体を跳ねさせた。

「は、はい?」
「『令嬢騎士』――うん。これなら、しっかりくるだろう」
 レオンは頷く。相変わらず、マイペースな王様っぷりである。
 略された!? 
 アカリ少しは混乱した。
 幸いどうやら、全部は聞こえていなかったらしい。アカリは胸を撫で下ろした。

 ローズ・クロサイト。
 公爵令嬢。第二王子の元婚約者。婚約破棄をされ、騎士団長を倒し入団を許可される。『剣神』の名を与えられ、魔王討伐に成功。この功績により、彼女の英雄譚は『令嬢騎士物語』として後世に残ることになる――。

「なあ。……あれ、お前とめなくていいのか?」
「どうしてですか?」

 トントン拍子で話が進む。
 その様子を眺めながら、ギルバートはリヒトに尋ねた。

「いや、だってあれって――後世まで、お前の浅はかさが語り継がれるっていうことだろ?」
「は?」
「ローズのことを語るには、騎士になるきっかけの話が必要だ。となると、お前の婚約破棄が最初に来るだろ。人の話を最後まで聞かないやつは多いし、本も最初しか読まないやつは多いが、最後まで話を知らないやつでも、こんなめちゃくちゃな冒頭忘れられる人間なんかいないぞ?」

 ギルバートは、レオンの考えていることを理解していた。
 レオンは間違いなく、リヒトを次期国王という座から引きずり下ろすために、ローズを利用するつもりだろう。
 このままレオンに任せれば、リヒトは誰の目にも明らかな、悪者として描かれるに違いない。

「つまり子どもから老人まで、国民の誰もが、お前の馬鹿さを知るわけだ?」
 しかし裏を返せば、レオンの悪意にすぐに気付けないリヒトは、やはり兄に劣る存在に違いなかった。

「――いくら今のレオンが、十年分のハンデがあるとしても、お前が相応しくないと判断されたら終わりだぞ。俺とレオンが、なんでこの世界で十年も前に眠ったかわからないわけじゃないだろう?」
「……」

「魔力は、年齢によって使える量が変わる。器、とでも言うべきか。その器に魔力が蓄積される速さは生まれつきだが、貯めておける量は年齢によって大きくなるのが定説だ。大体一五歳で器の大きさは決まる。十年前――少なくとも俺とレオンは、指輪によってお前と魔力を共有する前のローズよりも、ずっと強い魔力を持つ人間として、魔王の糧に選ばれたんだぞ? そのレオンが――お前より国王に相応しいと、周りが思わないとでも思っているのか?」

 ギルバートの言うことは正しかった。
 ローズのように全属性は使えないとはいえ、レオンとギルバートの魔力は幼い頃から、他を圧倒していた。
 幼い頃のローズよりも。

「――次の国王、変わるかもな」
「え。あ、え……え、ええ?」
「うん……。まあ、頑張れ。お前の想い人? とやらはローズが好きらしいが、人間国王になれなくても、本命と結婚できなくても、生きてはいけるぞ?」

 ぽん、と肩を叩かれて、リヒトは呆然とした。

「え………………」
 それは確かに生きてはいけるけども。その未来(けつまつ)は悲しすぎる――と思って。

「どうなさいました? リヒト様。なにやら、顔色がお悪いようですが……」
「お、俺に触るな!」
 リヒトは反射的に、ローズの手を振り払った。

「あの……リヒト様?」

 困惑顔のローズは凛々しい男装で、とてもリヒトが守れるような、弱くて可愛い女の子ではない。
 でも、顔は確かに彼女で――幼い頃のかつての約束を思い出して、リヒトは整理しきれない自分の感情に、胸が押しつぶされそうなほど苦しくなった。

 どうして自分には、力がないのだろう。どうして彼女はいつも、自分の前を進んでいってしまうんだろう。
 追いつきたい人たちにはいつだって、追いかけても、手を伸ばしても届かない。

『君は、僕が守ってあげる』
『大丈夫ですよ。リヒト様』
『――……僕。僕、だって……』

 遠い日の言葉の中に込められた思いは、今も彼の中で燻り続ける。
 才能のある人間に、才能のない人間の気持ちはわからない。
 彼らの間には確かに、見えない壁が存在していた。

「もう嫌だ。昔から、お前と関わると碌なことが無い……!」
 ふるふると体を震わせて、それから彼は、力いっぱい声を張り上げた。

「お前と関わるのは、これ以上、もう、もうっ、もうっっ! たくさんだ~~っ!!」

 リヒトの悲痛な叫び声は、抜けるような青空に、どこまでも、どこまでも響いていた――……。


                   

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