「……お兄様」
 リヒトとレオンが、静かに火花を散らす一方で、ローズは兄ギルバートを前に、感情を抑えることができず駆け出した。 

「お兄様。……お兄様、お兄様……!」
 赤い瞳に涙をいっぱいにたたえ、愛しい人に手を伸ばす。
 ――生きている。生きているんだ。会いたかった。会いたかったあの兄が……!

「ローズ」
 ギルバートは、自分に抱きつくローズの頭を軽く拳で小突いた。

「こら、ローズ。はしたないぞ」
「ご、ごめんなさい……」

 猫に触られたくらいの衝撃。
 ローズは頬を赤く染め、兄から手を離し、兄が自分に触れた額にそっと手をのばした。
 自分の体の一部だというのに、なんだか特別な場所に思えてくる。

「お兄様が、戻ってきてくださったのだと思うと嬉しくて」
 その理由をローズはちゃんとわかっていた。  
 だってさっきの拳は――兄が自分を思ってくれている証なのだ。

「……お帰りを、お待ちしていました。この十年間、ずっと」

 ローズは涙を拭って、公爵令嬢らしく兄に笑ってみせた。
 それはローズが、この十年で身につけた笑顔だ。
 ギルバートは妹の表情《かお》を見て、成長が嬉しいのに胸が締め付けられた。
 自分は、彼女が――妹が。女性へと変わるために経験した時間を、共有することができなかったのだと、現実を突きつけられたような気がして。
 幼かった小さな妹。
 彼の知るローズは、自分たちが祖父に稽古をつけてもらったあとに、いつもサンドイッチを一緒に食べたあの頃のままで止まっている。
 顔にパンくずをつけて、自分が苦笑いしながらとってやる――そんな、遠い記憶のままで。

「仕方ないな」
 彼はふっといたずらっこのような笑みを浮かべると、大きな手を広げてローズをぎゅっと抱きしめた。
「今日だけだぞ?」
 確かに彼女は大きく成長した。
 もうあの頃のようには小さくなんてない。それでも彼にとって――ローズが妹であることは変わらない。

「ああ、そうだ」
 ギルバートは、思い出したように言った。

「家は俺が継ぐ。だからお前は、好きなように生きていい。どうせお前のことだ。俺が目覚めるまでは、自分が家を守らねばならないと、これまで頑張ってきてくれていたんだろ?」

 真実を見極める瞳――ローズの兄の魔力は、強くその瞳に現れた。
 ローズにとって兄は自分の兄で、何も言わなくても全てをわかってくれる、良き理解者だった。
 ただローズが真っ直ぐ過ぎたり思ったことを口にしてしまう悪癖は、主にこの兄のせいでもある。 
 ローズの気持ちを完全に把握するこの兄は、ローズの飾らない性格に一切傷つかないどころか、寧ろ好感を持ってしまい、注意することをしてこなかった。

 人間は使わない機能は退化させてしまう、怠惰な生き物なのだ。
 そしてローズの周りの人間たちは、リヒトを除いて全員彼女の感情を勝手に察してしまう、ローズに甘い人間ばかりだった。

「一人、苦労をさせてごめんな。もう大丈夫だ」
「……はい。お兄様」
 ギルバートはそう言うと、ローズの頭を優しく撫でた。

 ローズはリヒトとは違う。
 ローズは、ギルバートのために座を守ってきただけだ。その座にふさわしい人間が、戻れば譲り渡そうと思っていた人間と、返す気のない人間とでは全く違う。

 兄に頭を撫でられると安心する。
 あまりの多幸感に、ローズが目を瞑っていると、低い声で耳元で囁かれ、ローズは現実に引き戻された。

「感動の再会だね。でも、ローズ。君は僕には何も思わないの?」
「な、な、なな……」
「相変わらず、君はギルが大好きだね。僕だって十年ぶりだっていうのに、その反応はないんじゃないかな?」
「兄上、ローズに触らないでください!」
 ローズの髪に指を絡ませて遊ぶレオンに、リヒトは思わず叫んでいた。
「どうして?」
 レオンはリヒトに振り返って、『わからない』という顔をした。

「君はもう、ローズとは何の関係も無い筈だろう?」
 レオンの言葉は正論だ。

「婚約破棄の事、聞いたよ。……可哀想に。たいへんだったね。それで提案なんだけど、当初の予定通り僕が国王となって、君が王妃となればすごく丸く収まると思うんだけどどう思う?」
「は!?」
 リヒトは、仰天した。
 サラリと『君はお役御免』と言われたようなものである。

「……レオン様……」
 ローズは、静かにその名呼んだ。
 リヒトの心臓は、どくどくと大きく跳ねる。

「――レオン様と結婚するくらいなら、リヒト様と結婚する方がましです」 

 ローズはレオンを睨み付けた。
 その言葉に、リヒトはほっと息を吐いた。
 そして、ローズの言葉に少しどきっとしたリヒトは、また余計なことを口にした。

「そ、それはお前が俺を好きだということか。……ま、まあ仕方がないな! そこまで言うなら再び婚約してやらなくも」
「何言っているんです? リヒト様の想い人はアカリでしょう? コロコロと心を変える不誠実な人は私は嫌いです」
「ローズさん! 私はリヒト様が好きなわけではありません! 婚約なんて嫌です!」
「アカリ!?」

 調子に乗ったら二人から同時のお断りを受け、リヒトは思わずアカリの名前を叫んだ。
 目を丸くして動けないリヒトを見て、レオンはくすくす笑う。
 そして彼は、次のからかいの標的をローズに変えた。

「だ、そうだ。なんだか思っていたより面白いことになっているじゃないか。そういえば、ローズ。ユーリからも求婚されたらしいけど……君の中で、彼はどのくらい夫に相応しい男なのかな?」 
「人の心で遊ばないでくださいますか!? だから私は貴方が苦手なのです。レオン様!」

 ローズは思わず声を荒げていた。
 忘れていた。彼は元々こういう人だった。
 外面がいいので周りから優秀ともてはやされていたが、実は面倒な性格をしていたレオン。
 ローズはそのことを、彼が長く眠っていたせいですっかり忘れていた。

 思い出は、美化されるものだ。
 遠くの風景を描くときに、青を混ぜることで奥行きが生まれるように。
 手の届かない時間が長いほど、人は思い出を飾って熱く胸を締め付ける。

「あははははは! ごめんごめん」 

 レオンは笑うのをやめて目を細めると、ローズの顎を指で持ち上げ目を見つめて囁いた。

「――まあ。僕は君のそういう真面目でまっすぐな所、昔から大好きだけど?」
「な……っ」

 紫の瞳は、嘘をついているようにはとても見えない。
 そしてその瞳は、これまでもこれからも――おそらくあらゆる人間を魅了する力を宿していた。

「い……一国の王子が『大好き』だなんて、軽々しく口になさらないでください!」

 昔はよかった。好きと言われて素直に嬉しかった。
 でも今、昔の面影はそのままに、美しく成長した彼に言われると何故か恥かしくなって、ローズは彼の手を払った。
 その瞬間。

「………ぷっ。く、くくくくくっ、はっ、あはははは!」

 レオンは再びお腹を抱えて笑いだした。

「はぁ……これくらいで真っ赤になるなんて、可愛いなあ。ローズは」

 笑いすぎて思わず泣いてしまったらしい。
 涙を指で拭いながらレオンは言う。どう考えても性格の悪い彼の行動に、ローズの堪忍袋の緒が切れた。

「レオン様!!!」
 ローズは彼の名を叫ぶと、幼い頃と同じように、レオンに向けて通常よりも強力な魔法を放った。
 水の魔法だ。リヒトの時は遠慮したローズだが、レオン相手ならば心は傷まない。

「この程度で僕を傷つけられると思ってるんだ? 舐められたものだな」
 レオンなら、軽く防げると知っているから。
 レオンはローズが自分に向けた水を凍らせ、その氷を砕いてローズへと放った。 
 ローズは氷を炎で溶かすとレオンを睨みつけた。

 ある意味レオンやギルバートが眠りについたとき、幼い彼女がちゃんと光魔法を使うことができたのは、レオンがローズをからかって遊んでは、ローズがレオンに全力で魔法をぶつけていたせいかもしれないと、妹と幼馴染の攻防を眺めながらギルバートは思った。

 何事も、実用目的の時のほうが早く習得出来る。
 ローズの場合、結果それが喧嘩相手を守ることになったのだから、世の中何がためになるかわからないものである。

「なあリヒト」
 二人の喧嘩を何も言えずリヒトが眺めていると、ローズの兄であるギルバートが、リヒトの名を呼んだ。

「お前も馬鹿だよなあ。ローズとの婚約破棄がなければ、まだレオンに勝てる余地があったのに」
「……」

 公爵子息と第二王子。
 けれどその関係は、昔からずっと兄と弟だ。
 レオンとは違い年下を気遣うギルバートは、ローズの兄であると同時、リヒトにとっても尊敬すべき兄のような存在だった。
 そしてリヒトとレオンの関係もふまえると、寧ろギルバートのほうが、リヒトにとっては信頼を寄せていた「兄」だった。
 リヒトはギルバートの前ではレオンと同じく「弟」になる。
 「弟」だから、「兄」にタメ口を使われても怒らないし、むしろ自分の言葉を無意識に改める。

「レオンはああみえて、腹黒で狡猾だからな。お前、うかうかしていると、王位も好きな相手もかっさらわれるぞ」
「べ、別に今は好きなんかじゃ」
「本当に?」
「べ、別に……」

 真実を見極める瞳。
 特殊な力を宿した相手に見つめられていざ改めて問われると、リヒトは自分の気持ちを完全には否定出来なかった。

 自分が渡した指輪が壊れたと聞いた時は悲しかった。
 でも、壊れるまで持ってくれていて嬉しいとも思った。
 自分から婚約破棄したというのに、彼女の行動が気になって仕方がなかった。
 話しかけたら喧嘩になった。勢い余って決闘を申し込んだら恥を晒した。
 彼女が自分を庇ったときは胸が痛んだ。でも勘違いだと否定した。
 びしょ濡れの彼女を、気遣う幼馴染に腹がたった。思わず暴言を吐き、自分でもなぜそんなことを言ったかわからず、謝罪することができずその場をあとにした。
 ローズが他国の王子たちの求婚を断った時は安心したし、兄の求婚を断った時に自分の名前を出してくれた時はときめいたのも事実だ。
 でも今や『剣神』とまで呼ばれ、魔王を倒した相手と自分は、全く異なる人間のように思えて仕方がない。

 言葉に出来ない胸の苦しさは、ローズと婚約する前からずっと、リヒトが抱いてきた感情だ。
 年を重ねるにつれて大きくなった胸の痛み――それを彼は今、昔よりずっと強く感じていた。

「好きな女が自分より優秀だと嫌になるよな~~。わかるわかる。でも、そんな妹を望んだのは、他ならぬお前自身だぞ」

 ギルバートの言葉に、リヒトは目を伏せた。

『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺はそばにいる。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしたい。だから』
 婚約を申し込んだ。その日リヒトは、ローズに指輪を贈った。
『俺と、婚約して欲しい』
『――……はい。リヒト様』
 幼い日の約束が、リヒトの中に鮮明に蘇る。
 自分に微笑みかけてくれたあの日のローズの笑顔を思い出して、リヒトは顔を真っ赤に染めた。

 違う。こんなの、子どもの約束だ。認めない。有り得ない。公爵令嬢なのに騎士となって、魔王を倒すような人間だ。そんな相手を、好きになる男が居るわけがない。だから勿論、自分も。ローズを好きだなんて有り得ない。そうだ。違う。違う。違う! こんな、こんな感情は――……。

「俺が好きなのはアカリです! 可愛くて小さくて女の子らしくて、俺の一歩後ろをついてきてくれる、まさに理想の女性です!」
「本当にそうか? よく考えてみろ。異世界から来た少女が他とは違うし、ローズより女の子っぽいから、『お前は変わっているな』みたいな感じで聖女殿にも話しかけたんじゃないか?」
「何故俺とアカリとの出会いを知っているんですか!?」
「え? 今のは適当に言ったのに、まさか本当にあたってたのか? お前ちょろすぎないか? それで、やっぱ馬鹿だろ」

 ギルバートは呆れた顔で言った。

「……自分が誰を好きかもわからないなんて五歳児以下だぞ」
「意味が分からないことを言わないでください。俺は自分の好きな相手くらい、ちゃんとわかっています!」

 ギルバートとリヒトが長く話していると、喧嘩を終えた(終わらないので諦めた)ローズが、ギルバートのもとに駆け寄ってきた。

「お兄様、何を話していらっしゃるのですか?」
「べ、別にお前には関係ない!」
 リヒトは、反射的にそう答えた。
「そうですか……」 
 ローズは少ししょんぼりした。

「あれ? リヒト……おかしいな。君、それがこの国を……いや、この世界を救ってくれた、ローズに対する態度なのかな?」
 そんなローズを見て、レオンはリヒトに冷ややかな視線を向けてから、にっこりと笑った。

「ひっっっ!」
 百獣の王(レオン)小動物(リヒト)相手に、鋭く尖った牙を見せてていた。
 リヒトは、今にも自分に食らいつきそうな(あつ)に震えた。

「おい。弟をいじめるなよ。完全に怯えられてるじゃないか」
 二人を見て、リヒトを弟分として可愛がっていたギルバートは助け舟を出した。
 しかしそれは、今のレオンには通じなかった。

「ええ? どうして怯えてるのかな? リヒト。……悲しいなあ。僕はずっと、君に逢いたかったっていうのに」
「あ、兄上?」
 顔を近づけられ、リヒトはびくりとする。
 兄であるレオンはそんなリヒトに、冷ややかに目を細めて耳元で囁いた。

「君みたいにいじめがいのある子は、めったにいないからね。ねえ? 昔から僕に勝てなくて、一人泣いていたリヒト?」

 リヒトにだけ聞こえる声で。

「ローズと婚約破棄なんてしなければ、まだ希望はあったのにね。指輪も壊れて魔法も碌に使えないんじゃ、父上は僕と君、どちらを選ぶだろうね?」

 それだけ言うと、レオンはすぐにリヒトから離れた。
 リヒトの中に、昔の記憶が蘇る。
 どんなに頑張っても追いつけない。地べたに体をつけて動けない。そんな自分を見下ろして、薄く笑っていた兄の姿を。
 弟の顔から色が消えたのを見て、レオンは誰にも自分の表情が見えないよう顔を背け、笑うわけでなく苦笑いして、少し思案するような素振りを見せた。
 けれどそれは一瞬で、ローズの方を見るときには、レオンはいつもの『第一王子(レオン)』の顔に戻っていた。
 
 指輪は元々、クリスタロス王国の次期国王が、婚約者と結婚するまで婚約の証として贈り、結婚までの間お互い身につけるものだ。
「信じあう二人は絆で結ばれお互いを守る」なんてことを、かつての所有者だったレオンは父から聞いたことがあったが、まさか本当に魔力を共有化し、婚約者を守る強力な保護魔法が掛けられていたなんて、レオンすら知らなかった。

 自分がローズを選んでいればこの先も、指輪の力が明らかになることは無かったかもしれない。そうレオンは考えた。
 歴代のクリスタロス王国の王と王妃は、魔力が同程度の人間が選ばれている。
 リヒトとローズの間に圧倒的ともいえる魔力差があったからこそわかっただけで、そもそもあの保護魔法が発動されるような状況は、ローズのように戦場に所持者が身を置いていない限り有り得ない。

 だとしたらあの石は何のために……? あの石は何なのか……? そもそも指輪の石と聖剣の石が違う家にあったことが不可解だ。レオンは明晰な頭脳で理由を考えてはみたものの、結局答えが出ず考えるのをやめた。

「僕の留守中、国を守ってくれてありがとう。迷惑をかけてすまなかったね。クリスタロス王国第一王子として、君に心からの感謝を」

 レオンは静かに礼を述べる。その声色や表情は、やはり国を統べる王に相応しい。

「いいえ。当然のことをしたまでです」

 ローズはそれだけ言って頭は下げたが、膝をつくようなことはしなかった。
 レオンはそんなローズを見て、面白いと心のなかでくっくと笑う。

 ――彼女は騎士としても公爵令嬢としても、自分を王として選んだわけではないらしい。

 出来損ないの弟と自分とではどちらにつくべきかは明らかで、彼女はそれがわからぬほど、愚かな人間ではないはずなのに――レオンはふっと笑って、さっそく『一手』を投じた。
 これは彼にとって、ただの盤上遊戯。
 先手有利の王位継承争い(あそび)なんて、レオンにとってはただの暇つぶしにしかならない。
 唇に、薄く浮かべる笑みは王の風格。
 すらりと長く延びる指は、優雅に糸を束ね、人を操る傀儡師だ。
 さあ。最少の手で王の座を得るために、動かすべき駒はどれ?

「ああそうだ。ローズ」
 レオンは、さも今思いたかのような声音で言った。

「魔王を倒したんだ。これは語り継がねばならない。なにか残さねばいけないね」
「別にいりませんが……」
「必要なんだよ。この国のために。君のお祖父様のグラン様のだって、ちゃんとあったはずだろう?」
「まあ、それはありましたが……」

 ローズはレオンに言われて渋々頷いた。ローズは別に、英雄になりたくて戦ったわけではない。
 ましてそれを英雄譚として残すなんて、ローズの考えにはなかった。
 アカリはローズたちを少し離れた場所で眺めつつ、一人こんなことを呟いた。
「ローズさんの物語、ですか。もし、私が書くなら。そうですね、題名(タイトル)は――」
 昔読んだ小説を思い出し、彼女は微かに笑う。

「『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』といったところでしょうか? 」

 アカリはそう口にして、過去の自分からは考えられない変化に気づいて目を細めた。
 病室のベッドの上で、ずっと窓の外を眺めていた。
 その日々の中で、自分が読んできた物語や、プレイしたゲームの知識が役に立つなんて思っても見なかった。
 それが結果一人の少女を――ローズを傷つけたことは確かだ。
 傷付けた罪は消えない。 
 でも、それでも。――もし、許されるなら。
 いつか彼女の物語を。私と、彼らの物語を。この世界に伝えたいと、アカリは思った。 
 お伽話のように美しい、この世界で見つけた、運命が変わる物語(じんせい)を。

「それだ!」
 その時、指をさして叫ばれて、アカリはびくりと体を跳ねさせた。

「は、はい?」
「『令嬢騎士』――うん。これなら、しっかりくるだろう」
 レオンは頷く。相変わらず、マイペースな王様っぷりである。
 略された!? 
 アカリ少しは混乱した。
 幸いどうやら、全部は聞こえていなかったらしい。アカリは胸を撫で下ろした。

 ローズ・クロサイト。
 公爵令嬢。第二王子の元婚約者。婚約破棄をされ、騎士団長を倒し入団を許可される。『剣神』の名を与えられ、魔王討伐に成功。この功績により、彼女の英雄譚は『令嬢騎士物語』として後世に残ることになる――。

「なあ。……あれ、お前とめなくていいのか?」
「どうしてですか?」

 トントン拍子で話が進む。
 その様子を眺めながら、ギルバートはリヒトに尋ねた。

「いや、だってあれって――後世まで、お前の浅はかさが語り継がれるっていうことだろ?」
「は?」
「ローズのことを語るには、騎士になるきっかけの話が必要だ。となると、お前の婚約破棄が最初に来るだろ。人の話を最後まで聞かないやつは多いし、本も最初しか読まないやつは多いが、最後まで話を知らないやつでも、こんなめちゃくちゃな冒頭忘れられる人間なんかいないぞ?」

 ギルバートは、レオンの考えていることを理解していた。
 レオンは間違いなく、リヒトを次期国王という座から引きずり下ろすために、ローズを利用するつもりだろう。
 このままレオンに任せれば、リヒトは誰の目にも明らかな、悪者として描かれるに違いない。

「つまり子どもから老人まで、国民の誰もが、お前の馬鹿さを知るわけだ?」
 しかし裏を返せば、レオンの悪意にすぐに気付けないリヒトは、やはり兄に劣る存在に違いなかった。

「――いくら今のレオンが、十年分のハンデがあるとしても、お前が相応しくないと判断されたら終わりだぞ。俺とレオンが、なんでこの世界で十年も前に眠ったかわからないわけじゃないだろう?」
「……」

「魔力は、年齢によって使える量が変わる。器、とでも言うべきか。その器に魔力が蓄積される速さは生まれつきだが、貯めておける量は年齢によって大きくなるのが定説だ。大体一五歳で器の大きさは決まる。十年前――少なくとも俺とレオンは、指輪によってお前と魔力を共有する前のローズよりも、ずっと強い魔力を持つ人間として、魔王の糧に選ばれたんだぞ? そのレオンが――お前より国王に相応しいと、周りが思わないとでも思っているのか?」

 ギルバートの言うことは正しかった。
 ローズのように全属性は使えないとはいえ、レオンとギルバートの魔力は幼い頃から、他を圧倒していた。
 幼い頃のローズよりも。

「――次の国王、変わるかもな」
「え。あ、え……え、ええ?」
「うん……。まあ、頑張れ。お前の想い人? とやらはローズが好きらしいが、人間国王になれなくても、本命と結婚できなくても、生きてはいけるぞ?」

 ぽん、と肩を叩かれて、リヒトは呆然とした。

「え………………」
 それは確かに生きてはいけるけども。その未来(けつまつ)は悲しすぎる――と思って。

「どうなさいました? リヒト様。なにやら、顔色がお悪いようですが……」
「お、俺に触るな!」
 リヒトは反射的に、ローズの手を振り払った。

「あの……リヒト様?」

 困惑顔のローズは凛々しい男装で、とてもリヒトが守れるような、弱くて可愛い女の子ではない。
 でも、顔は確かに彼女で――幼い頃のかつての約束を思い出して、リヒトは整理しきれない自分の感情に、胸が押しつぶされそうなほど苦しくなった。

 どうして自分には、力がないのだろう。どうして彼女はいつも、自分の前を進んでいってしまうんだろう。
 追いつきたい人たちにはいつだって、追いかけても、手を伸ばしても届かない。

『君は、僕が守ってあげる』
『大丈夫ですよ。リヒト様』
『――……僕。僕、だって……』

 遠い日の言葉の中に込められた思いは、今も彼の中で燻り続ける。
 才能のある人間に、才能のない人間の気持ちはわからない。
 彼らの間には確かに、見えない壁が存在していた。

「もう嫌だ。昔から、お前と関わると碌なことが無い……!」
 ふるふると体を震わせて、それから彼は、力いっぱい声を張り上げた。

「お前と関わるのは、これ以上、もう、もうっ、もうっっ! たくさんだ~~っ!!」

 リヒトの悲痛な叫び声は、抜けるような青空に、どこまでも、どこまでも響いていた――……。