「何なのよ、これは?!」
液体窒素の蒸気を怒号が吹き飛ばした。極低温から蘇った男は看護師につかみかかり、鼻骨をへし折ったところで永遠の眠りについた。
真っ白な床に女の大脳だったものが散らばっている。もう一人の看護師が護身用の銃を棺桶の列に向けている。
開かずのフロアが冷凍睡眠保険会社の施設だったことは外部監査の洗い直しで判っていた。つい、数日前の事だ。
ところが、その全容は個人情報保護と厳重なセキュリティーの壁に阻まれて歴史の闇に葬られていた。何しろ大深度掘削用のシールドマシンで地下70メートルに設えられた区画だ。
増改築を繰り返した病院の図面にも記されておらず、独立した電源と自己修復装置を備えたAIドローンによって人知れず維持されてきた。
これからも百年、千年、万年と機械の墓守に管理されただろう。院長の公私混同を止めさせるため自己破産申請されるまでは。
冬眠保険会社のモデルケースとして利権と引き換えに歴代院長の独断で密約が更新され、数十名の老若男女が生きたまま氷漬けになっていた。
破産管財人立ち合いのもとで被保険者が順番に解凍されていく。法の厳格化によって安楽死じたいが非人道的行為とみなされたのだが、未来を大金で買った加入者たちは納得しない。
会員の大半は大阪万博の会期中に入眠したらしく、車が空を飛ぶようなレトロフューチャーを本気で信じていたようだ。
夢から醒めた途端に地獄へ叩きつけられた者たちの大半は失意のあまり精神を病み、そのごく一部が暴力的手段に訴えた。
凍った霊廟の問題は柳月台記念病院だけにとどまらず、東海省近畿市の各地に広がっていた。人民解放軍は東海省の各病院に院内憲兵を派遣して不測の事態に備えていたが、暴力行為は増える一方だ。
保険局と人民警察が手際よく現場検証と遺体の処理を進めていく。保安医の雅麗姫は慎重に次の解凍を見守っていた。院内憲兵が突撃歩槍をガラスケースに向けている。
若い女の患者はカーキ色の軍服に囲まれて怯えた様子だ。
「挙起手来!」
雅麗姫はゆっくりと慎重に距離を縮める。女がキョトンとしているので、彼女はもう一度言い直した。「手おとなしい、あげて下さい」
「何なのよ、アンタ? それにお母さんは何処?」
女はパニック状態だ。無理もない。致死性免疫疾患で余命いくばくもない母のために身体を売り、後天性免疫不全症候群を発症した。命を投げうって財を築き、遠い未来に望みをかけた。
それなのに眠りを妨げられ、迷彩柄のスカートを履いた女たちに銃を突きつけられている。
「わたわた、私は……」
院内憲兵が機転を利かせて雅麗姫の腰もとに手をまわした。タイトスカートのポケットから同時通訳が流れ始める。
「麻生妃花よ。隣で眠っている筈の母がいないってどういうことなの? 特亜海上火災冷凍と直接話がしたい」
翻訳機が雅麗姫に「破產了」と耳打ちした。彼女はどう切り出したものか判断に困った。
特亜海上火災冷凍はアメリカに資産を凍結されている。

雅麗姫が言葉を選んでいると「過剰な情報開示はよくない」、と憲兵がたしなめた。急激な変化に妃花を混乱させるからだ。
しかし、いつまでも辛い現実を告げないわけにはいかない。
「お気の毒ですが、その会社はもうありません」
「そういうと思った」
麻生妃花は織り込み済みだったらしく、棺桶に備え付けの契約書を探し始めた。それらも破産管財人が回収している。
「その前に服を着ましょう。いくら女子しかいないと言っても、道徳警察が容赦しません」
雅麗姫は裸の女に色気のないリハビリパンツと病衣を羽織らせた。MCU(回復期集中治療室)に妃花を運び、所定の検査を済ませたのち、鎮静剤で眠らせた。
数日が過ぎて、精神状態が落ち着いた頃に雅麗姫が現在時刻と位置を教えた。
「今日はキリスト生誕後2037年8月30日星期天です。ここは東海省近畿市の人民施療中心。柳月台記念病院という名前でした」
雅麗姫が噛んで含めるように必要最低限の情報を与えた。あとは妃花がよほど鈍感でなければ、院内にあふれる漢字表記にそろそろ気づいているだろう。
「日中が調和したのね」
彼女は古びた知識で勝手に自己完結した。人類の進歩と調和。万博のテーマだ。平和で薔薇色の未来を誰もが幻想した。彼女はその後の暗黒を知らない。そこで自信たっぷりに、契約書の件を切り出した。
「首都が北京になっても契約は有効なはずよ。特亜海上火災冷凍はプランAからZまで安定した収入源を確保してくれた。国際金融市場から油田の分譲採掘権まで組み込んであるはず」
妃花が言うにはカリブ海のオランダ領シント・マルテン島に基金を設立して租税回避(タックスヘイブン)してあるという。冷凍睡眠は莫大な維持費がかかる。世界情勢がどう転んでも盤石な資金源が確保されている。
筈だった。
美国(アメリカ)が貿易戦争で世界経済を滅茶苦茶にしたのですよ」
厳しい現実をしるやいなや、雅麗姫が駄々っ子のように手足をばたつかせた。
若草色の病衣から白いリハビリパンツが見え隠れする。そこで雅麗姫は朗報を伝えた。
「貴女のお母さま。麻生ジュンさんは科学院で経過観察中ですから心配ありません」
中南海政府はジュンの亡骸を軌道上の天宮五号に運び込んだ。冷凍睡眠の貴重な資料だという点は伏せておく。
「宇宙ステーションはあるのね? でも、車は空を飛んでいないし、月ロケットもない」
妃花はパビリオンで観た未来像と現実のギャップに不満そうだった。コンピューター技術だけは異常に突出している。
「中国五千年の医学で母と私が治るのなら言うことはないのだけど」
その言葉に雅麗姫はギクッとした。人民共和国が不可逆的かつ完全な民主化を目指しているとはいえ、少し前なら反革命発言として摘発された。
「祖国は常に世界の医療を率先しています。それを貴女が支えるのです」
雅麗姫の話によると麻生母娘は医学増進の尖兵として中南海政府に協力することになるという。具体的には出入国管理局が身柄を預かり、厳正な審査を経て教化キャンプに送られる。
そこでみっちり北京語と改革開放思想を叩きこまれたうえで、研究機関に引き渡される。
牧歌的な高度成長期に生まれ育った妃花はキャンプと聞いて遠足程度にしか思ってない。どのみち保安医である雅麗姫にとって関係のない事だった。彼女の任務は院内の揉め事を治めること。
今は負のレガシーである冷眠区画の閉鎖と歴代院長の遺した禍根を追求し、関係者を一人残らず摘発すること。仄かな希望を燃やす妃花を一般病棟に移し、ナースステーションに引き継いだ。
空になった車椅子を看護師に返そうとした時、受付の女性が妃花に声をかけた。
「麻生妃花さんに面会の申し込みです」
同時に複数の看護師が雅麗姫に寄り添い、背中を押した。
「えっ? ジェニナック? ドイツ人の親類はいないわ!」
妃花が激しくかぶりをふって受付嬢と言い争っている。異変を感じた雅麗姫が振り返ると、看護師がドアの外へ追い立てた。。
「個人情報になりますので」
自動ドアがピシャリと閉まる。と、同時に閃光が明滅した。悲鳴に発砲音が続く。雅麗姫は看護師を捩じ上げ、床に転がした。