「ふ~ん、火山がなくても地面を掘ったら温泉が出てくる可能性もあるのね」
「うちの村でも試しに掘ってみたりするか」
「地下に水が溜まっていたら、可能性はありますね。でもよっぽど深く掘らないと駄目だと思いますよ」
たとえ東京でも地中を深く掘れば温泉が出るというのは有名な話だ。もちろん温泉としてやっていくほど十分な湯量があるかは別の話だ。
それに温泉を掘るのってものすごくお金がかかるんだよな……特に昔は温泉を掘るのは本当の博打だったらしい。大金をかけて地中を深く掘っても温泉としては使えないとかざらにあったらしいからな。
だけどこの世界には魔法があるから、簡単に穴を掘れる可能性もあるのか。土魔法とかで一瞬で穴を掘れたりしたら便利だろうな。そうすればあの幼女の神様の願い通り、こっちの世界でも火山がない場所で温泉宿を広げていくことができるかもしれない。
「ねえねえ、あのお風呂にあったシャンプーとかボディソープとかってどこで売っているの!」
「髪がサラサラになって、肌もスベスベになって本当にびっくりしました~」
女性陣が目を輝かせながら聞いてきた。やはり女性はそのあたりが気になるようだ。
「あれらの品は私の故郷でしか作られておりません。似たようなものならどこかで販売している可能性はありますけれどね」
「あ、そっか。そういえばここって私たちの国じゃないんだったよね」
「もしも可能なら売ってほしいですう!」
「申し訳ございません。当温泉宿にある物の販売はしていないんですよ」
一応やろうと思えばストアの能力で購入した物を販売することは可能なのだが、あまり異世界に元の世界の物や技術をばらまくのはよろしくない。
特にシャンプーやボディーソープなどは川などで使用すると魚などの生態系にも悪影響が出るし、容器のブラスチックなども自然に悪影響を与えてしまう。
異世界だし、少しくらいなら環境破壊をしても大丈夫ではないのかとも一瞬だけ頭をよぎったが、環境問題はひとりひとりがしっかりと意識することが大切なのである。
……まあそんなたいそうなことを言ってみたが、単純に商売になると交渉とかが面倒だし、あれを売れこれを売れだの面倒な輩が出てくることが間違いないだろうからな。
「そっかあ~残念……」
「ほしかったですう……」
「申し訳ございません。ですがこちらの温泉宿に来ればいつでも楽しめますので、またいつでもいらしてください」
「ほら、元気出せよ。また来ればいいだけの話だろ! いろんな街や村の宿に泊まったことはあるが、こんなに良い宿は初めてだ。あの温泉もとても気もちくて疲労や魔力まで回復するんだもんな」
「それにこの料理やお酒もとてもうまいし、これが金貨1枚なんて信じられないよ! ほら、2人とも。まだうまい料理と酒が残っているだろ。狩りを頑張ってまた来ようぜ!」
「そうね、絶対にまた来るわ!」
「はいです! 狩りを頑張って、絶対にまた来るです!」
「ありがとうございます。ぜひまたみなさんでお越しくださいね」
どうやらこのエルフのお客さんたちはまた来てくれるそうだ。ぜひとも他のお客さんたちと一緒で常連さんになってほしいものだ。
「ふう~ようやく落ち着いたみたいだな」
お客さんたちの食事が終わって、今は全員が部屋に戻っている。
散々何度も酒はゆっくりと飲むように伝えていたおかげで、なんとか酔いつぶれる前に解散してくれたみたいだ。ドワーフのお客さんとかは少し怪しいところだったが、幸いなことに手持ちがそこまでなかったため、強制的に打ち切りとなった。
下手をすればあのまま宴会場で酔いつぶれていたかもしれない。あとエルフのお客さんも怪しかったかもしれない。梅酒とかって飲みやすいわりに酒精は結構強いからな。
「それほど大きな問題はなさそうでしたね。お客様も十分に満足していたように見えました」
「うん。みんな本当においしそうに飲んだり食べたりしていたよね!」
「妾も腹が減ったのじゃ……」
「ああ、そうだな。反省会とか仕事の内容とかはまかないを食べながら話そう。今からさっと準備するから、ちょっとだけ手伝ってくれ」
ちなみに今の時間帯や夜の時間帯はロザリーの召喚魔法で召喚されたゴーレムたちがフロントに立っていてくれる。もしお客さんたちになにかあったら、すぐにロザリーを通して俺を起こしてくれる手筈となっている。
召喚魔法はロザリーが寝ていたとしても召喚し続けることが可能らしい。……便利すぎてブラック企業の上司とかに知られたら駄目なやつだよな。絶対に魔力が尽きるまで24時間連続で稼働とかさせられそうである。
「もちろんだよ。とってもおいしそうだったから楽しみだね!」
「ええ、あの煮付けといい天ぷらといい、とてもおいしそうでしたね」
「うむ、妾も楽しみじゃぞ!」
「……いや、あれはお客さん用だし、俺達のまかないはあんなに立派なもんを作らないぞ」
「ええっ!?」
「……っ!?」
「なんじゃと!?」
……いや、そんなに驚かれて困るんだけど。というかポエルのそんなに驚いた表情は初めて見たんだが……
「いや、さすがに毎日お客さんに出すような立派な食事を出すわけないだろ。これまでの料理はお客さんへ出すためにいろいろと研究していたから豪華だったかもしれないけれど、今日からは普通のまかないになるぞ」
これまではこっちの異世界の人たちに元の世界の味付けが受け入れられるかを確認するために、お客さんに出すくらいのクオリティの料理を出してきたが、今日からは温泉宿の営業が始まった。
さすがにまかないにまでそこまで手間をかけていられない。それに3人とも結構な量を食べるからな。毎回お客さん達と同じものを出していたら、食費がヤバいことになってしまう。
「嘘でしょ……」
「いえ、そんな話は聞いておりません」
「横暴なのじゃ!」
「いや、最初から話していたからな!?」
うちら従業員の食事はまかない料理だって最初から説明してきたぞ! なんで今初めて聞いたみたいな感じで言うんだよ。
「さすがにみんなの分の料理にまで高価な食材は使えないだろ。まあ普通の温泉宿とかだったら、余った食材とかで多少は豪華なまかないになるんだけど、ストアの能力があるから余った素材も出ないからなあ……」
実際にうちの実家でも余った食材やお客さんに出せないような食材を使って、日々の食事は普通の家に比べたらかなり豪華なものとなっていた気がする。刺身とかも数日に一度は食べられたからな。
しかしこのストアの能力で購入する物は必要最小限のものにすることができるし、魚は切り身単位で購入できる。野菜も一個から購入できるため、余る素材はほとんどないに等しい。
温泉宿を営業するにあたって無駄な食材が出ないことは非常にありがたいが、従業員的には嬉しくないのかもしれない。
「それでは食費を支払いますので、お客様と同じ料理をいただくということは可能ですか?」
「……まあ、それなら大丈夫だけれど、別にまかないもそこまで酷いものを出すつもりはないぞ。さすがに豪勢な料理は出せないけれどさ」
「じゃあ僕もお客様と同じ料理がいい! 食費くらいなら全然出すよ!」
「妾もそれでいいのじゃ! 給料とやらから引いておいてくれればよい」
「……わかった、じゃあそうするよ」
よくよく考えてみたら、確かにこの3人はお金のために働いている感じじゃなさそうだもんな。どちらかというと給料を上げるよりも日々の食事をグレードアップしてあげたほうが喜ぶのかもしれない。
……というかポエルに至っては天使は食事を必要としないんじゃなかったけ? まあそれほどこの宿の食事を楽しみにしているのなら嬉しい限りだ。
それにお客さんと同じ料理でいいなら、まかないと分けて作らなくていい分、手間はそれほどかからなくなるからありと言えばありか。
「よし、お待たせ。明日からはお客さんたちの分と一緒に作れるから、もっと早くできると思うよ」
今日お客さん達に提供していた料理を俺を含めた4人分新たに作り直した。明日からはお客さんの料理と一緒に作るので、もっと早い時間帯に従業員で晩ご飯を食べることができるだろう。
「待ちわびたのじゃ!」
「お腹空いた~」
「ええ、だいぶお腹が空きましたね」
ダウト! 天使は腹が空かないって話は忘れていないからな。
「それじゃあ今日は1日お疲れさま。まだ初日だけど、みんなのおかげで無事に乗り切れたよ。明日からもよろしく、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
キンッと透明なジョッキがぶつかって、ガラスの澄んだ音が鳴り響く。
お酒については平日だと次の日もあるから、1杯だけ許可することにしてある。さすがに無制限にすると酒に弱いロザリーあたりが次の日使い物にならなくなりそうだからな。
とはいえ、俺としても仕事終わりに1杯くらいは酒を飲みたいので、酒は1杯だけということにした。……元の世界でも仕事終わりのビールだけは欠かせなかったからな。……リアルに仕事終わりの1杯はその日の支えになるよね。
「ぶはあああ! やっぱり身体を動かしたあとの酒はたまらんのう!」
「いや、ロザリーはゴーレムたちに任せてほとんど身体を動かしてないだろ……」
相変わらず小さな身体でおっさんのようにビールを飲むロザリーに一応ツッコんでおいた。本人が動かなくとも、今もフロントで働いてくれているゴーレムたちの活躍は素晴らしいからまったく問題ないけど。
「うん、こっちの煮付けも本当においしいね! 脂の乗った魚の身にこの甘辛い味がしっかりと染み込んでいて、ホロリとくずれてたまらないよ!」
「それにこの味は白いご飯ととてもよく合いますね。そして相変わらず天ぷらもおいしいです」
魚の煮付けも意外と難しかったりするんだよな。あまり煮すぎると身が崩れてしまったり、味が染み込みすぎてしまったりして、その逆もまた然りだ。
うちの実家の板長はあんな田舎の温泉宿にはもったいないくらいの腕だったんだよな。そんな板長に小さいころから料理の腕を鍛えてもらったことは幸運だった。まあ、まさかその腕を異世界で振るうことになるとは思ってもいなかったけれど。
「さて、食べながらでいいから今日のことについて話そうか」
「とりあえず温泉宿の売り上げ的にはまったく問題なかったな」
実際のところ温泉宿の宿泊と食事の金額はこの世界の宿を基準に考えるとそこまで高額というわけではない。料理に関しても2食込みで追加銀貨3枚の約3000円という値段なので温泉旅館としては安めの料金設定だろう。
というのもポエルに確認したところ維持費がほとんどかからなそうなのだ。この温泉宿でかかる電気代、水道代、ガス代はポイントで支払われるのだが、そこまで大きな金額にならない。
そしてなにより、元の世界の温泉宿で結構かかっていた広告費が一切かからないことはとても助かる。魔法の引き戸のおかげでお客さんの呼び込みや宣伝をせずに集客できるという点は宿泊業については相当な強みだ。
「お酒の売り上げがかなりありましたからね」
「これだけおいしいお酒だもん! みんな飲んで当然だよ。お酒の苦手な僕でもおいしく飲めるからね」
「うむ! 長年生きてきた妾でもこれほどうまい酒など飲んだことがないからのう。みながあれだけ飲む気持ちはとてもわかるぞ! というわけでもう1杯お代わりなのじゃ!」
そう、この温泉宿の宿泊費の他にあるもうひとつの大きな収入源がお酒の販売である。よく飲まれるビールの原価が銅貨2枚として、銅貨8枚で販売するとその利益は銅貨6枚、なんとビール1杯で600円もの収入となるのだ。
ひとりあたり5杯も飲んだらそれだけで3000円もの純利益である。これって実は結構なことなんだよね。
とはいえ、お酒の値段をもっと下げてしまうと他の宿やお店のお客さんを根こそぎ奪ってしまったり、飲みすぎて潰れるお客さんが続出してしまうだろうから、これくらいがちょうど良いのだろう。
俺の給料もみんなと同じくらい貰ったとして、ポエルを除いた3人分の給料で金貨90枚。毎月それ以上の利益は得られるだろうから、その分の利益はポイントとしてこの温泉宿の施設をより大きく快適にするために使っていくとしよう。
「そうだな、予想通りお酒の売り上げがだいぶあったよ。あと俺も我慢しているんだからお代わりは駄目だ。その代わりに週末の休みになったら、たくさん酒を飲んでもいいからな」
「おお、本当じゃな!」
「それは楽しみだね!」
「もしも嘘だったら、その時はどうなるかわかっておりますね?」
「どうするつもりなんだよ!?」
最近ポエルが天使というより悪魔にしか見えないんだけど! 天使のくせに拷問とかよく似合いそうだよな……
「まあ、1週間頑張ってくれたらのご褒美ってところだな。今日はみんな問題なくしっかりと働いてくれたし、明日からもこの調子で頼むな!」
「うん!」
「了解なのじゃ!」
「わかりました」
とりあえず温泉宿日ノ本の初日は問題もなく、お客さんにも満足してもらえたようだ。いや、まだ油断してはならない。明日の朝、すべてのお客さんがチェックアウトをして、ようやく1日目が終わるのだ。明日も引き続き頑張るとしよう
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ピピピピピッ
カチッ
「ふあ~あ」
布団から這い出して朝の5時40分前にセットしてあった目覚まし時計を止めた。
何か緊急事態が起きればロザリーのゴーレムが起こしてくれることになっていたが、夜中にドアを叩かれるようなことはなかったので、特に問題はなかったようだ。
2度寝したい衝動を抑えて、ストアで購入した寝間着から作業着である作務衣に着替える。
いつ新しい男性従業員を雇ってもいいように、4人くらいは入ることができるこの男性従業員用の部屋は広すぎて、俺ひとりではだいぶ持て余すんだよな。今はポイントが少なく、家具なんかもないからなおさら殺風景に見える。
「よし、準備オッケー。さて、朝食を作りますかね!」
身支度を整えてから厨房へ行くと、ちょうどみんなも起きてきたところだった。女性従業員用の部屋で3人一緒に寝ていたから少し……いや、かなり心配していたが、どうやら大きなトラブルもなかったようだ。
みんなとロザリーのゴーレムと一緒にお客さんと従業員分の朝食を準備した。
「むっ、五郎から呼び出しがあったのじゃ」
「了解、たぶん朝食を食べに来たんだろうな。フィアナ、案内を頼むぞ」
「うん、わかった」
フィアナがお客さんを食事処に案内して、厨房に戻ってきた。用件はやはり朝食のようで、お客さんはドワーフ3人だった。
ええ~と、エルフの4人組以外は和食のほうだったな。昨日のうちに今日の朝食は和食と洋食のどちらがいいかを確認してある。
ポエルと一緒に3人分の和食を運んだ。
「おはようございます、昨日はよく眠れましたか?」
「うむ、ぐっすりと眠れたぞ! とても柔らかくて寝心地の良いベッドじゃったな!」
「布団というやつも十分気持ちが良かったわい!」
「実を言うと昨日の酒が少しだけ残っておる。いくら酒精が強いとはいえ、前日の酒を残してしまうとは不覚じゃったわい……」
どうやら全員ぐっすりと眠れたらしい。
しかし、さすがにドワーフと言えど、あれだけ酒精が強い元の世界の酒は少し残ってしまったようだ。いくら酒に強いとはいえ、こちらの世界ではあれほど酒精の強い酒はなかっただろうからな。
「ほお~こいつは朝からいろいろな料理があるのう」
「うむ、この白い穀物は昨日もあったご飯というやつじゃな」
「はい、私の故郷の和食という料理はこのご飯にあうおかずを中心に作られています」
「こっちの茶色い汁は昨日の澄んだ汁とは違うのう」
「そっちは味噌汁と言って、海草や干した魚で出汁をとって豆を発酵させた調味料を加えたスープですね。少し独特な香りがするので、まずは一口味を見てもらえればと思います。それとご飯と味噌汁はお代わりが無料となっておりますよ」
和食と言えば白いご飯に味噌汁だ。味噌汁の具はシンプルに豆腐と長ネギにしてある。理想を言えば二日酔いに効果のあるシジミの味噌汁にしたいところだったのだが、うちの実家に来た外国人にはシジミやワカメなどが駄目な人は結構多かったんだよな……
他のおかずは焼きのり、卵焼き、焼き魚、おひたし、漬物などのザ・和食といった料理だ。和食には定番の生卵と納豆については卵を生で食べるか問題と納豆は最初にはハードルが高いということでやめておいた。
ちなみに従業員のみんなは生卵は大丈夫だったが、納豆はロザリーとフィアナが駄目だった。やはりあの独特の臭いとネバネバとした食感が駄目だったらしい。逆にポエルは納豆が気に入ったらしく、毎朝食べたいと言っていた。
俺も納豆は結構好きなほうだから気持ちは分かる。生卵とネギと海苔を加えた納豆はマジで好きなんだよね。まあ納豆に何を加えるか問題については実家でもいろいろと論争が勃発したので割愛するとしよう。
「ほう、そいつは嬉しいところじゃのう」
「飲み物はあちらのテーブルにお水とお茶と牛乳がありますので、こちらもご自由にお飲みください」
「……酒はないのかのう?」
「………………」
駄目だこのドワーフ……早く何とかしないと……
「朝食の際はお酒の販売はしておりません。朝からお酒に酔っ払って、帰る際に事故などを起こされては困りますからね」
さすがに朝にお酒の販売は行わない。ちゃんと休憩所にある自動販売機にもお酒は置いていないからな。
元の世界とは違って危険なことも多いこの世界の人里離れた場所で、朝から酒を飲んで酔っ払ってしまっては何かあった時が怖い。お客さんがうちの温泉宿で酔っ払ったことが原因で命を落としてしまったら、さすがに目覚めが悪いぞ。
「ぬう……それは残念じゃな」
いや、さっき少し酒が残っているって言ったばかりじゃん!
「お酒はぜひともまたのご利用時に楽しんでください。こちらの朝食も自信を持っておすすめできますから」
「おお、そうじゃな! あのとてつもなくうまかった酒はまた来た時に味あわせてもらうとしよう!」
「うむ、今度この宿に来る時は、もっと金を持ってくるからな」
どうやらドワーフのお客さんはまた来てくれそうだ。まあ、たとえお金があったとしても、酔いつぶれそうなら全力で止めさせてもらうがな。
「お待たせしました。こちらが朝食になります」
続いてエルフの4人も朝食を取るということで、ポエルと一緒に4人分の朝食を運んできた。
「おおっ、こいつは朝から豪勢だ!」
「うん、こっちの野菜にはおいしい味が付いているし、このパンも外はカリッとして中はフワフワでとってもおいしいわ!」
洋食のメニューはトースト、サラダ、スクランブルエッグ、ベーコン、ソーセージ、コーンスープなどのシンプルな料理となっている。
しかし、サラダにかかっているドレッシングやコショウにケチャップなどはそれだけでも十分に珍しい。他にも白く柔らかいパンやコーンスープなどはこちらの世界では十分なご馳走になっているようだ。
「それにしても昨日の夜も風呂へ入ったうえに、今日も朝から風呂に入れるなんて罰が当たるんじゃないかと思うよ」
「やっぱり温泉はとても気持ちが良かったですう~」
どうやらエルフさん達は朝から温泉を楽しんでくれたようだ。
この温泉宿の温泉は深夜以外解放している。ポエルたち天使のみなさんのおかげで、この温泉宿の温泉には自動清掃機能が付与されているため、浴槽を清掃をする必要がない。だが掃除が不要とはいえ、脱衣所に問題はないかを朝と夜にはチェックしている。
温泉宿でも朝に入れる宿と入れない宿に分かれているが、当然お客さんとしては朝にも入れるほうがありがたいよな。俺も旅行で温泉宿に泊まる時は朝も温泉に入れるかどうかをしっかりとチェックしている。
「ありがとうございます。今日の温泉は昨日の温泉とはお湯が違うんですけれど、いかがでしたか?」
「ああ、昨日とはお湯が全然違っていてびっくりしたぞ!」
「でも今日の温泉もとっても気持ちよかったわよ! まさか全然違う温泉を味わえるなんて思ってもいなかったわ! 本当にすごい魔道具ね!」
そう、この温泉宿では毎日温泉の泉質を変えている。昨日は単純温泉であったが、今日は酸性泉に変更してある。
酸性泉の特徴は強い酸性のお湯で、少しとろみがあって肌がピリピリする。殺菌効果が強くて湿疹やアトピーなどの皮膚病や傷の治療に強い効果があり、疲労回復効果も高い。その代わりにあんまり長湯をせずに、温泉から出る際には水で洗い流してもらうよう注意書きを記載してある。
元の世界で言うと草津の湯がこの酸性泉にあたるのだが、浸かり過ぎを防ぐためにいくつかの温泉を渡るめぐり湯が禁止されていたりするからな。
「本当に気持ち良かったから、また入りにきたいです~」
「ねえ~! 美容にもいいみたいだし、絶対にまた来るわよ!」
「ええ、いつでもお待ちしておりますよ」
どうやらエルフの4人組もまた来てくれそうかな。こっちの世界でも女性が強いのは変わらないらしい。まあ男性のエルフたちも昨日の食事や今日の朝食には満足してくれているみたいだし、また来てくれるだろう。
「それじゃあ世話になったな」
「温泉ってやつも、酒や飯も本当に最高だったぜ!」
「ええ、絶対にまた来るわね!」
「ありがとうございます。またこちらの温泉宿にお越しいただける際には、営業時間中にこちらの名刺を持って引き戸のある場所に来ていただければ、引き戸が現れます。もしも引き戸が現れないようなら、その際はすでにお部屋が一杯ということになります」
冒険者の3人組がチェックアウトをするので、お見送りをしている。その際にこの温泉宿へ来ることができる名刺を2枚渡した。
名刺と言っても、白い紙の表にはこの世界の共通語で温泉宿日ノ本、そして裏には温泉マークが書いてあるというシンプルなものである。
「おう。絶対に失くさないようにしないとな」
「あとはここに来るときは早く来ねえといけねえな。扉の前まで来て、泊まれないなんて最悪じゃねえか!」
名刺は1枚紛失した時のためにパーティ単位で2枚渡している。
この温泉宿は週休2日で、泊まる際には16時から受付を開始している。しかし温泉宿である以上、部屋の数は限られているため、部屋が一杯になってしまったら、引き戸を閉じてしまう。
以前に来られたお客様たちの受付は16時から開始して、17時ごろまでに客室が埋まらない場合には引き戸の条件を指定して新しいお客さんを呼ぶといった営業体制にする予定である。客室の数は少しずつ増やしていくことにしよう。
とはいえ常連さんばっかりになってしまっては目的である温泉宿を広めていくということができなくなってしまう。できるだけ新しいお客さんを呼んで温泉宿の噂を広めていけば、きっと少しずつ温泉宿が広まっていくだろう。
まあ、天然の温泉というのはかなり珍しいから、最初は銭湯付きの宿からだろうけどな。
「それではご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「「「またのお越しをお待ちしております」」」
俺が頭を下げたあとに従業員の3人が頭を下げて冒険者のお客さんを見送る。
そして同様にもう2組のお客さんも全員で見送った。
「ふう~とりあえずご苦労さま。まだ1日目だけれど、みんな本当によくやってくれたよ」
お客さんを見送ったあとは従業員全員で集まって仕事のことについて話し合う。基本的にお客さんがチェックアウトしたあとか晩ご飯の時に、その日の出来事について従業員で報告し合って共有をする。仕事上でのホウレンソウはマジで大事!
「こっちとしては細かなことはあるけれど、あとは経験をどんどん積んでもらえれば大丈夫っていう感想かな。みんなはどうだった。温泉宿の仕事はこんな感じになるけれど続けられそう?」
「そうですね、今のところは問題なさそうです。知らない人を接客するというのは意外と大変なのですね。ですが、以前までの職場があまりにも酷かったので、まったく気になりません」
「そ、そうか、それはよかった……」
ポエルは駄女神の下でだいぶブラックな環境にいたらしいからな。さすがにそれより酷いと言われていないようでよかったよ。
「あとは日々のまかないの食事の量をもう少し増やしてくれれば文句はありませんね」
3人とも相談して、俺も含めたみんなのまかないはお客さんと同じ料理を作ることになった。手間的には4人分多く作るだけなので、大した手間ではないからな。大体の材料費だけを給料から引くようになる。
この温泉宿で出す食事の量についてだが、俺の実家で出している食事の量よりも多くしてある。こちらの世界のほうが、運動をしてお腹を空かせた冒険者のようなお客さんが多いだろうからな。
料理に関してはそこまで利益が出ていないのだが、その分の利益はお酒で稼いでいるというわけだ。
「いや、あれでも普通の宿の食事よりは量を多くしてあるから、これ以上は駄目だな。あんまり食べすぎると健康にもよくないぞ」
「………………ちっ」
うわ、舌打ちしやがったよ、この天使!? あの冒険者のリーダーもポエルを見て少し見惚れていたみたいだけど、中身はこんなんだからな!
まあ、仕事はちゃんとやってくれて、お客さんにはこんな態度を取らなかったからいいんだけどさ。
「僕も全然大丈夫だよ! お客様と話すのは少しドキドキするけれど、みんな笑顔でお酒や料理をとってもおいしそうに食べてくれるから、本当にやりがいのある仕事だね!」
「おお、フィアナがそう言ってくれるのは嬉しいな。お客さんたちもフィアナがそう思って笑顔で接客してくれると嬉しいと思うぞ」
やりがいのある仕事、そうフィアナが思ってくれているのならなによりだ。接客業でのやりがいは、お客さんが楽しんでくれているのを見たり、接客したお客さんたちから感謝の気持ちを伝えられることだものな。
「それになにより、いつもみたいに寝ずに働かなくてもいいし、命のやり取りをしなくてもいいから最高だね!」
「ああ……うん、そうだな……」
本当にこの元勇者は不憫すぎる……その条件だと、ここの仕事だけじゃなくて、大抵の仕事が当てはまるんだけど……
「妾もまったく問題ないぞ! やはり、人とのふれあいというものは大事じゃな。それにここにおるといろんな種族たちの者が楽しんでいる姿を見られて、とても楽しいのじゃ!」
「それは俺も思った。いろんな種族のお客さんが来てくれて、この温泉宿の温泉や料理やお酒を楽しんでくれるのを見るのは俺まで楽しくなってくるよ」
昨日来てくれたお客さんたちは人族にドワーフにエルフと、全員が違う種族だったが、その全員が楽しそうに過ごしてくれていた。そんな姿を見るのは温泉宿を経営している側としても楽しくなってくる。
「あえて言うのなら、もう少し妾の作業を減らしてもらってもいいのじゃがな」
「……いや、ロザリー本人はもっと働いてもいいくらいだぞ」
あくまで動いてくれているのは召喚したゴーレムたちで、ロザリー本人はみんなの中で一番働いていないからな……本当にこのヒキニートは……
とりあえず3人とも問題なくこの仕事を続けてくれそうなことには少しほっとした。
とはいえまだ安心はできない。まだたった1日が終わっただけだからな。少なくとも休みの日までは気を引き締めていこう!
「よし、それじゃあ今日の営業を始めるぞ」
「はい」
「うん!」
「おうなのじゃ!」
この温泉宿日ノ本の営業を始めて2日目。
1日目のお客さんがチェックアウトしたあとは客室の掃除を手分けしておこなった。といっても清掃自体はフィアナの浄化魔法があるので、前日泊まったお客さんが使用したタオルや浴衣だけは洗濯して新しいものを置いたり、ベッドシーツを綺麗にしたりといったことをするくらいだ。
そして昼食を取ってからしばらくの間は休憩時間となる。この温泉宿の勤務時間は朝の6時から11時まで。それからは昼食を含めて各自の自由時間となって、夕方の16時から20時までの実働9時間体制だ。
温泉宿の性質上、朝と夜はどうしても忙しくなるため、このような変則的なシフトとなっている。……うん、これでも実家の温泉宿よりもホワイトな環境なんだぜ。
「今日は1組多い4組を招くから、昨日よりも忙しくなるからよろしく頼むぞ」
昨日は3組をこの温泉宿に招いたが、今日は4組を招く。みんなも思っていたよりも動けていたし、なによりロザリーの召喚魔法で召喚したゴーレムたちがとても優秀だ。
これならおそらく5組でも大丈夫だが、今週は1週目だし4組にする。まずは俺を含めてもう少し仕事に慣れていくことが先決だ。
「いらっしゃいませ、ようこそ温泉宿日ノ本へ」
「うおっ、なんだよここは!?」
「なに、これ!?」
今日も昨日と同じで温泉宿に入ってきて、とても警戒している人たちが多い。やはり人気のないところにある引き戸は怪しさしかないもんな。
今日最初のお客さんは4人組の冒険者パーティだが、2人が人族でもう2人は獣人族と種族が異なるパーティのようだ。
ネコの獣人と思われるネコミミとネコの尻尾が付いている男女のペアと人族の男女のペアだ。……もしかするとカップル2組のパーティだったりするのかな。
「そちらの扉は魔道具となっていて、こことはみなさんがいる国とは別の場所と繋がっております。ここは温泉という地中から湧き上がるお湯を使ったお風呂に入れる宿となっておりますよ」
リア充たちは爆発してほしいと思いつつも、やってきたお客さんに笑顔で対応する。
まあ、実家の温泉宿にカップルで来るお客さんなんて山ほどいたからな。年齢イコール彼女いない歴の俺にとってはカップルや新婚さんを笑顔で迎えることは非常に辛いことであったが、悲しいことに散々鍛えられているのである。
今回やってきた獣人の男女はそこまで毛深いというわけではなく、ネコミミと尻尾以外は普通の人族にしか見えないレベルだ。前に行った異世界の街で見かけた犬の獣人はもっと毛深かかったし、獣人といってもその個人によって毛深さが異なるのだろう。
「転移の魔道具……こんなの初めて見たわ!」
こっちの女性の獣人さんは茶色いショートカットの髪から同じ茶色いネコミミ2つがぴょこんと飛び出ており、ショートパンツの後ろからはこれまた茶色い猫の尻尾が飛び出している。……尻尾の付け根がどうなっているのか、非常に気になるところではあるな。
「や、宿ってことはここに泊まれんのか?」
「はい、おひとり様1泊銀貨7枚、晩ご飯と朝ご飯の2食付き金貨1枚でお泊りになれます。泊まる泊まらないにかかわらず、お帰りはそちらの引き戸から元いた場所に戻ることが可能となっております」
「はあ~そりゃすごいな」
お客さんの大体がここまでくると警戒心をある程度解いて話を聞いてくれる。元の世界だったら最後まで警戒心を解いてくれないと思うが、魔法がある世界ならではだな。
「ねえ、せっかくなら泊まってみましょうよ! あんな場所で野営するよりも、こんな立派なお風呂もある宿に泊まれるなんて最高じゃない!」
こっちの冒険者っぽい格好をした人族の女性は緑色の髪をしている。元の世界では完全にコスプレにしか見えないが、こちらの世界では地毛なのかな。
……あれ、人族の女の子のほうが、男のほうのネコの獣人さんに腕を絡ませている。それにネコの獣人の女の子と人族の男の距離も近い。どうやら獣人同士と人族同士のカップルというわけではなく、別の種族同士のカップルのようだ。
こっちの世界には種族間の壁というものはないみたいだ。まあ、種族間同士でいがみ合っているような世界よりも全然いい。
「ああ、俺も賛成だ。多少金はかかるけれど、こんな立派な宿に泊まれるなんて最高だな。それにこんな体験めったにできるもんじゃないぞ!」
「私も賛成! あんな場所で野宿するよりも、お金を払ってでも宿に泊まれるほうがいいわ!」
「よし、それじゃあ決まりだな。俺もあの国とは別の場所の料理は楽しみだからな。4人分食事付きで金貨4枚だな」
「ありがとうございます。4名様ご案内です」
「……ちなみになんだが、2人部屋を2つ借りることはできないのか?」
「大変申し訳ございません。当温泉宿はまだできたばかりで4~5人部屋しかないのです。4~5人部屋を2部屋お貸しすることはできるのですが、その場合には料金も倍になってしまいますが、いかがいたしましょうか?」
「そうか……それなら元の部屋で大丈夫だ」
「承知しました」
まあ、温泉宿で泊まるのならカップル同士の2人部屋に泊まりたい気持ちはあるだろうな。だが、残念ながらこの温泉宿には2人部屋はない。
この世界は魔物や盗賊が出たりする世界なので、1~2人で行動することは非常に稀で、基本3~5人で行動するパーティを狙うほうがコスパ的にも良いのである。
……決して俺がカップルを憎んでいるとか、新婚は爆発しろとか妬んでいるわけではないからな。うん、お客様は基本的には神様だから!
「な、なんだここは!?」
「なんじゃこりゃあああ!」
「いらっしゃいませ、ようこそ温泉宿日ノ本へ」
人族2人と獣人2人のパーティの次にやってきたのは男5人の人族のパーティだ。ポエルから聞いていたとおり、この世界で一番多い種族は人族だから、当然この温泉宿にやってくるお客さんの多くは人族になりそうである。
「や、宿だと!?」
「な、なんであんな場所に宿なんかが!?」
他のお客さんたちと同様にナイフや剣を構えてこちらを警戒している。
……それにしてもこの温泉宿にやってきた他のお客さんたちと比べると、なにやら人相が悪くて防具などもつけておらず、動物か魔物の毛皮でできたような服を着ている。
これじゃあどう見ても……いや、人を見た目で判断するのはよくないな。
「そちらの引き戸は魔道具となっておりまして、いろいろな場所からこの宿につながっています。おひとり様1泊銀貨7枚、晩ご飯と朝ご飯の2食付きで金貨1枚で宿泊が可能ですよ」
「転移ができる魔道具か……こいつは高価そうな代物に違えねえな。それにここにあるのは見たこともねえ高そうなもんばっかりだ!」
「お頭……そっちに綺麗な女もいますぜ!」
「それに男はこいつだけで、しかもめちゃくちゃ弱そうですぜ!」
俺の話はそっちのけで、温泉宿の引き戸や宿にある掛け軸や花瓶などを値踏みするような目で窺い、さらには俺の隣にいるフィアナやフロントのほうにいるポエルとロザリーをジロジロと見ている。
「……どうします、お泊りになられますか?」
おそらくないと分かっているが、一応お頭と呼ばれていた一番大柄な男に話しかけた。
「へっへっへっ、悪いが金を払う気はねえ! だが、この宿のすべては俺たちがもらうぜ! てめえはいらねえから、命が惜しけりゃ女を置いてとっとと消えろ」
……まあそういうことになるよね。どうやら見た目通りのやつらだったようだ。
「てめえら、女は殺すんじゃねえぞ! あとでたっぷりと楽しませてもらうからな!」
「へへっ、久しぶりの女だな。今から楽しみだぜ!」
「俺は奥にいる銀髪の女がいいな! いや、こっちの金髪の女も捨てがてえ!」
……なにやら、すでにこのあとのことを想像しているようだ。それにしても本当にこんなろくでもないやつらがいるような世界なんだな。
「フィアナ、大丈夫そう?」
話していることは完全に雑魚キャラのセリフなんだが、大の男が武器を持って5人もいると、さすがに不安になってくる。なんだったら、この時点で俺はすでにビビっているぞ。
「うん、全然問題ないよ。半殺しでいい?」
「あっ、うん……」
どうやら元勇者のフィアナにとってはこの盗賊風の男たちは大した脅威ではないらしい。それにしてもいきなり半殺しか……いや、こういう危険な世界だし、常習犯っぽいし、なにより向こうから武器をこちらに向けているから問題ないだろう。
むしろ即斬っちゃってもいいくらいだけど、さすがに営業2日目にこの温泉宿内で人死沙汰は勘弁である。
「半殺し? 武器も持っていない女が言うじゃねえか」
「へへっ、すぐにヒーヒー言わせてや……ふがっ!?」
「げふっ!?」
「ごふぇ!」
完全に素手で女性のフィアナをなめていた盗賊っぽい男たちが、いきなり地面に突っ伏してそのまま動かなくなった。
「いででででで!?」
そして先ほどまで俺の隣にいたはずのフィアナが、いつの間にか移動しており、お頭と呼ばれていた大柄な男を地面に倒して右腕の関節を決めていた。
ものすごいスピードだな……俺にはまったく見えなかったが、一瞬で決着がついてしまったようだ。
「一応ボスっぽいやつは気絶させてないけれど、なにか聞くこととかある?」
「いや、特に聞くことはないかな」
「いでで! 放しやがれこの胸なしクソ女……ぎゃあああああ!」
バキッという変な音がしたと思ったら、大柄な男の腕が変な方向へ曲がった。
いや、さすがに腕を決められている状態でフィアナが一番気にしていそうなことを言うとか頭悪すぎるだろ……
うわっ、人の腕ってあんな方向に曲がるんだな……
「もう、うるさいからちょっと黙っててよ!」
「ふげっ!」
そしてフィアナが大柄な男の首に手刀を決めると、大柄な男は一瞬で気を失った。なるほど、他の男たちもあの一瞬でこうやって気絶させたようだ。
これが元勇者であるフィアナの実力か。実際にフィアナの戦闘を見た……いや、正確には見られなかったのだが、少なくともフィアナの実力は多少なりともわかった。
素手でこの力なら、収納魔法に収納してあるという聖剣を使えば、大抵の相手はフィアナの敵ではないのだろう。
「お、おい。なんだか騒がしいけれど、なにかあったのか……ってなんだこれ!?」
「きゃっ!」
先ほど案内したお客さんが騒ぎを聞きつけて宿の入り口まで来たようだ。
「お騒がせして申し訳ございません。この宿のお金と女性従業員を襲ってきたので、当従業員が対処しました」
「うわ、すごい! 武装した男5人をお姉さんひとりでやっつけちゃったのね! 怪我とかありませんか?」
「はい、僕はこう見えても結構強いので、全然大丈夫ですよ!」
「彼女は女性ですが、こう見えてもかなりの腕利きですので、当温泉宿にいる間は安心してお過ごしくださいね」
結構どころか元勇者なんだけれどね……
とりあえずフィアナのおかげで問題なく強盗や盗賊にも対処できそうなことはわかった。さて、こいつらはどうするかな。
「さて、問題はこいつらをどうするかだな……」
温泉宿のフロントには拘束された5人の男がいる。フィアナが気絶させている間に武装を解いてロープで縛り拘束している。
盗賊たちが現れることは想定しており、どのように対応するのかは考えていたが、拘束したあとのことはまだ考えていなかった。まさか営業2日目にそんなやつらが現れるとは思ってもいなかったからな……
この引き戸もさすがに宿へ来たら犯罪を犯す者なんて、未来や人の内心までを見通すことはできないようだ。
「普通に元の場所に戻して処刑すればいいのではないですか?」
「………………」
相変わらずポエルは天使のくせに慈悲はまったくないようだ……
とはいえ、これに関しては俺もそれが一番手っ取り早いとも思っている。こいつらは俺たちを襲おうとしていたわけだし、正当防衛も十分に主張できるだろう。
「基本的に盗賊や強盗は斬っても罪にはならないし、僕もいつもそのまま斬るか衛兵に突き出しているよ。でも街までこいつらを引き渡すのも難しいし、手間がかかるんだよね」
フィアナの言う通り、一番いいのは近くの街の衛兵に突き出すことだが、この温泉宿の引き戸は街の指定ができないし、近くの街までこいつらを連行していくのはとても手間がかかる。
それに衛兵にこの温泉宿のことを説明するのも難しいもんな……
「うむ、妾も賛成じゃな。こうした輩は魔族にもよくいたが、変に情けをかけて解放すればまた同じことを繰り返して、他の善良な民たちが被害を被るだけなのじゃ」
そう、ロザリーの言う通り、ここで変な情を出してこいつらをこのまま解放をしてしまえば、きっとこいつらはまた同じことを繰り返すだろう。そしてその不利益を被るのは別の冒険者か商人か村人たちである。
こいつらを出禁にすればもうこの宿に来ることはできないが、そのまま解放して他の人が困るのは嫌だな。
「そうなんだよな……とりあえず、そのまま解放するのはなしだな。だからといって、こんなやつらを殺して俺たちの手を汚すのも嫌だしなあ……」
さすがにそんな汚れ仕事をみんなに任せるのも嫌だし、俺自身が人を殺すなんて絶対にやりたくない。
そもそも俺にそんなことができるわけないんだよ……
「ふむ……じゃったらこういうのはどうじゃ?」
「うん?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お頭、お頭!」
「……ああん?」
なんだ、頭がボーっとしやがるぜ……
「いてえ!」
頭がはっきりすると、今度はいきなり右腕が痛み始めた。
ちくしょう、あのクソ女に右腕を折られたんだったな。くそっ、覚えていやがれ! アジトに戻って仲間を全員連れてもう一度あの宿を襲ってやる!
あの女が魔法を使ったのかは知らねえが、気が付けば仲間が全員気を失っていた。だが、アジトに戻れば俺の部下が30人はいる。今度は相手が何か魔法を使う前に全員で突っ込んでやればいい!
そしてあの女が自分から殺せというくらいまで追い込んでやるぜ!
「お頭……」
「野郎ども、一度アジトに戻るぞ! 他の仲間を連れて全員であの宿を襲うぞ!」
「いえ……その……アジトはどこなんでしょう?」
「なに?」
部下に言われて気付いた。
ここはどこだ? 俺たちは街からアジトに戻る途中の岩場で野営をしようとしていたところで、あのおかしな扉を見つけたはずだ。だが今は一面広がる森の中にいる。
夢……ってことはないな。俺の愛剣もねえし、持ち物も何ひとつねえ。そしてなにより、この右腕の痛みは本物だ。
「森の中か。あのあたりの森だとカウエナの森あたりになんのか……いや、あの森からならどっかに山が見えるはずだが、それも見えねえ……いったいどうなっていやがるんだ……」
あのあたりの森ならカウエナの森で間違いないはずなんだが、このあたりならどこからでも見えるはずの一番大きい山が見えねえ。いったいここはどこなんだ?
「ちっ……まあいい。とりあえず他のやつらを起こして移動するぞ。武器がねえのはちと不安だが、どうせこの辺りにはつええ魔物なんていねえからどうとでもなる」
「はい、さすがお頭っす!」
「さっさとアジトに戻ってもう一度あの岩場に行くぞ。あのクソ女どもに痛い目を見させてやらねえとな!」
「うっす!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「これでよしっと。これ以降は俺たちのかかわることではないな。……まあ十中八九死ぬだろうけれど、俺たちを殺そうとしていたわけだし、自業自得ということで」
「川や果物もあったし、運が良ければ数年くらいは生きられるかもしれないのじゃ」
例の拘束した盗賊たちだが、持ち物をすべて没収したのち、拘束を解いて引き戸の外に解放した。ただし、解放した場所はこいつらがこの温泉宿にやって来た場所ではなく、ロザリーが引きこもっていた森の中だ。
さきほどのロザリーの提案は、ロザリーが20年近く引きこもっていた森にあいつらを捨ててくるという提案だった。なんでもその森は人族の領域からも魔族の領域からも相当な距離が離れているらしく、他の人に迷惑をかける可能性もないらしい。
川もいくつかあるし、食べられる草や果物なんかもあって、その森で生き延びることは十分に可能なようだ。……ただ、その森には凶暴な魔物が多いらしいから、その森で寿命をまっとうできる可能性は限りなく低いだろう。
「悪党相手ならそこまで気にする必要ないのにね。ヒトヨシさんが嫌だったら僕がやるのに」
悪党相手には容赦がない。ただ、どちらかというとこれは完全に俺のエゴになる。
やっていることは処刑と似たようなものだが、さすがに直接手を下すのはちょっとな……
一応生き延びられる可能性はあることだし、これからも強盗が来たらこの対応にするとしよう。
「よし、今日もすぐに部屋が埋まってくれたな」
先ほどの盗賊のようなやつらのあとは、まともなお客さんが来てくれて、すぐに4組の客室が埋まってくれた。やはりこの世界では宿を求めている人は多くいるようだ。
「それにしても様々な種族のお客様がいらっしゃいますね」
「確かにそれは俺も思ったな」
今日この温泉宿に泊まってくれたお客さんは人族とネコの獣人の冒険者パーティ、4人組の人族の冒険者パーティ、3人組の鳥人族の旅人、3人組の人族の商人だった。
今のところは半分くらいが人族で、残り半分が様々な種族だった。鳥人族という種族は異世界の街でも見たことがなかったが、腕の内側に羽があって、短い時間なら飛ぶことも可能らしい。
「その割には魔族はおらんかったのう」
「魔族と人族の停戦協定が結ばれてからまだそれほど時間も経っていないからね。それによく使われているこの通貨は魔族が大勢いる領地では使われていないからかも」
確かに引き戸の条件でその辺りは絞っている。やはり停戦協定が結ばれても人族の領域に魔族が来るのはまだまだ先の話らしい。
個人的にはもっと商人とかが来るのかとも思っていたけれど、2日間で1組しか来ていない。やはり商人は1~2人で移動しているか、護衛を連れてもっと大人数で移動をしており、3~5人の条件に引っかからないのだろうな。
今回来てくれた3人組の商人さんは大きな背荷物を背負って小さな村を回る行商人さんだった。
「それと最初は全員が警戒しておりましたが、先ほどのゴミどもを除いたすべてのお客様が宿泊されてくれましたね」
……まあ、さっきのやつらがお客さんではなく、ゴミみたいなやつだったのは否定しない。
「やっぱり最初は怪しいと思っていても、宿だと思ったら珍しいから泊まってみたくなるんだと思うよ」
もちろん多少お金を払っても宿に泊まれるという魅力もあるが、やはり話のネタや経験として泊まりたいという気持ちが大きいんだろうな。ここからリピーターを獲得できるかが、この温泉宿の課題といったところだろう。
「あとはみんなみたいに綺麗な女性たちが出迎えてくれる宿に泊まりたいと思えるのもあるだろうね」
多少はみんなのモチベーションを上げるお世辞だが、半分以上は本音だったりもする。男として美人の女将さんがいる温泉宿には泊まりたくなるものなのである。
「えへへ~そんな綺麗だなんて!」
「ふっふっふ、わかっておるではないか!」
……相変わらずフィアナとロザリーはチョロすぎて逆に心配になるな。まあ半分以上は本音だから問題ないだろう。
「ヒトヨシ様も限りなく稀有で希少な変わった性癖を持っているお客様には需要があると思いますよ」
「やかましい!」
むしろ俺に需要がある人のほうがおかしいみたいな言い方はやめい!
素直に褒めたのにけなされたぞ!? もう褒めてやらんからな!
「いやあ、このビールというお酒や料理は本当においしいですな!」
「ええ。こっちのすき焼きという料理は初めて食べましたが、この濃厚で甘辛い味付けは素晴らしいですね!」
「サバの味噌煮という料理の味付けもたまりませんよ! それにそっちの野菜の揚げびたしという料理も最高です。まさか野菜がこれほどおいしく感じるとは!」
今日のメニューは小鉢とサバの味噌煮、ナスやアスパラガスやオクラの揚げびたしとメインのすき焼きである。基本的にこの宿の晩ご飯のメニューは肉と魚と野菜をバランスよく提供している。
今料理を味わっているのは男3人組の商人たちだ。この温泉宿にやってきた時は3人ともとても大きな背荷物をしょっていた。先ほど話を聞いたところ、大きな街を回るわけではなく、大きな商人たちがまわらないような小さな村々を回る行商人らしい。
異世界の村々を回る行商人か。きっと様々な苦労があるのだろうから簡単に言うものでもないかもしれないれけど、かなり羨ましく思っている。いろんな村や街を回って旅をするのってなんだか憧れるよね!
「満足してくれたようで、こちらとしてもとても嬉しいですよ」
「なにせ日々の食事は固い干し肉や塩漬けにしたしょっぱい保存食ですからね。行商の途中でこれほどおいしい食事を取れるとは思ってもおりませんでしたよ!」
「それにあの温泉というお風呂もとても素晴らしかったですよ! 旅の疲れが一瞬で吹き飛びました!」
「しかし道中でこれだけ快適な思いをするとあとが辛いかもしれません。ここにいつでも来られれば最高なんですけどね」
「こればっかりは難しいですからね。また引き戸が現れた場所に来る際にはぜひまた寄ってください」
この商人さんたちは様々な村を回っているが、引き戸が現れた場所を回るのは3~4か月に1回ほどらしい。一度引き戸が現れた場所に固定されるとなると、新しい場所を旅する旅人たちはこの温泉宿をあまり利用できないのかもしれない。
「逆にいつでも泊まれるようになってしまったらすぐに破産してしまいますので、ある意味良かったとも言えますね」
「はは、確かにそうですね」
確かにいつでも来られると、お金がすぐになくなってしまうのかもしれない。人は一度贅沢な味を味わってしまうとそれを繰り返したくなるものだよな。
「なあ、お兄さんたち。少しそっちの席にお邪魔してもいいか?」
話をしていると、商人の人たちの席に鳥人族3人組のお客さんたちがやってきた。