お前を求めている。
 その身を食らい尽くしてなお、お前を求めている。
 ではお前がいないこの夜は、いったい何の為にあるのだ?

「この鬼め!」
 快庵の目の前に長い棒が突き出された。快庵はおやおやと驚いた。
「この里から出て行け!」
 夕陽を背にしたその男の後ろから、わらわらと人々が手に武器を持って飛び出してきた。
「とっとと出て行くのだ!」
 棒を喉元ぎりぎりまで突き出され、快庵はため息をついた。
「なんだと言うのです。こんな痩せ衰えた坊主が何かできるとでもお思いか」
 快庵は被っている青い頭巾を少し持ち上げ、里人たちを見渡した。まず、目の前の男が目を丸くして棒を下げた。背後の人々も「違う」「鬼じゃない」とざわざわと騒ぎ出した。 快庵は一礼して苦笑した。
「諸国遍歴中の僧が、日も暮れてきたので一晩宿でもお借りしようかと思っただけですが」
 静かに快庵はそう告げた。人々の中から、この里の長らしき年配の男が進み出てきた。
「これはこれは失礼をいたしました。ほれ、皆の者、武器をしまえ」
 人々はほっとした様子で武器をしまった。「坊主だったから、俺はてっきり」「うむ。夕暮れの坊主は心臓に悪い」などと口々にささやきあっている。男はにこやかに快庵に笑いかけた。
「旅のお坊様。よろしければ私の屋敷でおもてなしいたしましょう」
 快庵はありがたく彼の屋敷に一晩宿を借りることとした。
 ひととおり食事が済むと、快庵は疑問に思っていたことを彼に問うた。
「何故、こんな老僧を鬼だと思われたのですか」
 男は、はは……と疲れたような笑いをし、ぽつりぽつりと語り始めた。

 翌日。まだ日の高いうちに快庵は里の近くにある山寺を目指していた。
「ひどいありさまだ」
 山門には荊が絡まっている。どこもかしこも苔が生え、蜘蛛の巣と燕の糞でみすぼらしく汚れていた。
 日が西の方に傾く頃、寺の前で快庵は手にした錫杖をしゃらりと鳴らせた。
「一晩の宿をお借りしたい」
 反応はなかった。それでも何度か声を上げていると、お堂の中から痩せこけた僧が出てきた。
「お前は何者だ」
 しわがれた声がそう尋ねた。よくよく見ると、ひどい衰弱の仕方ではあるが、まだ年の頃は三十路前ではないかと思われた。
 快庵は答えた。
「諸国遍歴の僧でございます。一晩の宿をお借りしたい」
「……勝手にしろ」
 そう言うと、その僧は再びお堂の中へ覚束ない足取りで入っていった。

 ーーどこだ。
 俺は暗闇の中で目を覚ました。
 ーーお前はどこだ。
 寝所の戸を開ける。鼻をひくつかせる。
 確か、今宵はここに生きた人肉があったはず。
 ーーお前の代わりの肉はどこだ。
 俺はお堂の中を駆けずりまわった。いない。 どこだ。どこだ。
 俺は庭に躍り出る。庭の中を駆けずり回っても、人肉はいない。
 また、俺を置いていくのか。
 俺は天の月に向けて手を伸ばした。

 あれはいつのことだったか。
 もう何十年も経っているように思える。
 俺はお前に出会った。出遭ってしまった。越の国でのことだった。
「まあ、美しい童だこと」
 里人がそう褒めそやすのを、俺は気分良く聞いていた。俺はお前を越の国から、俺の身の回りの世話をさせるために連れ帰ってきた。美しい少年を側に置くのは気分の良いものだ。 そう、最初はそれだけのつもりだった。
 
 俺は月の光を浴びながら庭に倒れ込んだ。
 いつからだろう。何かが狂い始めてしまったのは。
 
 俺は徐々にお前に夢中になっていった。そして修行をおろそかにするようになっていった。それもそのはずだ。俺にとって、お前を愛撫するより大切なことなどなかったから。
「院主さま」
 お前は俺をそう呼んだ。
「ご覧ください。月が綺麗ですよ」
 愛し合う合間に、お前はよく戸の隙間から見える月を指さしては微笑んでいた。そしてうっとりと目を閉じた。
「松に吹く風が心地よいですね」
 それなのに。
「これはどういうことだ……?」
 敷物に横たわるお前は息をしていなかった。枕元では医師が「手は尽くしたのですが」と涙を堪えていた。
 どういうことだ。
 俺は泣いている気がする。が、涙は出てこない。
 俺は叫んでいる気がする。が、声は全く出てこない。
「では、この子を焼いて埋めましょう」
 は? 焼く?
 何を言っているのだ。この医師は。
「あ、な、何を!」
 目の前に血しぶきが上がった。
 ああ、そうか。戯言を申す口を切ろうと思ったが、手が少し滑ってしまったようだ。
 俺は枕元に跪いた。
「なあ、お前」
 俺はお前に頬ずりをした。指を絡ませる。
「俺には、お前を愛でること以外、何もない」
 そうして数日が過ぎた。俺はお前を昼夜を問わず愛していたが、徐々に肉が腐り始めてきた。
「もったいないではないか。お前が消えてしまう」
 俺はお前の肉を食い、骨をしゃぶった。が、それすら終わると、もう何も残るものはなかった。
 お前はどこだ。
 口の中にお前の味が広がっていく。
 どこだ。
 山を下りて、誰の物とも知れぬ墓を暴いた。まだ新しい死体は、かすかにお前の味を感じさせてくれた。
 でも、違う。これは違う。
 何度もお前を求めて墓を暴き、それに飽き足らなくなってくると、里をゆく人々を襲った。
 違う。
 お前はどこだ。
 お前はどこに行ってしまったんだ。

 朝日の眩しさに俺は目を覚ました。
 ぼうっとしながらお堂に入っていく。そこには、昨日の旅の坊主が座っていた。
「お前はずっとそこにいたか」
 俺が尋ねると、坊主は「いかにも」と頷いた。
 俺はがっくりと膝をついた。俺のような鬼畜の目では、このような尊い僧侶の姿を捕らえることはできぬらしい。
 坊主は静かに尋ねてきた。
「ひもじいのか? もし拙僧の肉でよければ、これで腹を満たしなさい」
 俺はその言葉を黙って聞いていた。そして、首をゆっくりと左右に振った。
 この坊主の肉では、己の腹は満たされない。いや、他の誰の肉であっても。
 お前の肉でしか、俺は満たされないのだ。 俺が項垂れていると、坊主はゆっくり立ち上がって俺の頭を軽く叩き、被っていた青い頭巾を被せた。そして、俺に向かって呟いた。
「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
 俺はぼんやりと顔を上げて坊主を見た。
 坊主は「この真意を探求しなさい」と静かに告げ、俺の前を立ち去った。
 月が入江を照らす。松に風が吹く。この永く清らかな宵は、何の為にあるのか。
 何の為にあるのか。
 永い、永いこの、お前と戯れることのできない宵。
 何の為にあるのか。
 お前がいないのに。

「おお、一年ぶりですな。旅のお坊様」
 神無月の初め頃、快庵が再びこの件の里に立ち寄ると、里の長が出迎えてくれた。
「いやあ、お坊様のおかげです。ここ一年、全く鬼は出てこなくなりました。鬼に怯えていたその前のあの一年が嘘のようです」
「一年でしたか」
 快庵は呟いた。長は「はい、一年ぶりでございます」と相槌を打った。快庵はあいまいに微笑んだ。
 あの寺の人食い僧の明けない永い夜は、たった一年のことであったのか。
 快庵は尋ねた。
「して、あの鬼は?」
 長は首を横に振った。
「存じません。生きているとは思えませぬが、恐ろしくて山に確かめに行ったものはおりませんので」

 翌日、快庵はまたあの山寺を目指していた。寺の荒れようは、昨年の比ではなかった。
 荻やススキが背丈まで生い茂り、道など見えたものではなかった。草木に置いた露はまるで時雨のように快庵に降り注いだ。
 寺の建物も朽ちて、何がどこにあるのかもよくわからない。それでも快庵は記憶を頼りにお堂のあったであろう場所を目指した。
「……こうげつてらししょうふうふく……」
 微かに声が聞こえた。その声の方に目を向けると、痩せ細った男が、草叢の中に座していた。髪と髭がぼうぼうに伸び、草叢に絡まっている。あの時の面影はみじんも感じられなかった。ただ、青い頭巾だけが、それが彼だということを伝えていた。
「えいやせいしょうなんのしょいぞ……」
 途切れ途切れにか細い声で男
は呟いている。
 快庵は男の側にゆき、杖を取り出した。
「作麼生!」
 頭を打つと、男の姿はたちまち消え失せた。
 あとには、青い頭巾が残るだけだった。

 
 





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