降臨祭の初日、日帰りで終わったお忍びにカテリナは大打撃を受けた。
最愛の人を決めるにはあと九日あって、まだ時間は十分あると言い聞かせても、進展らしい進展がなかったからだった。
翌日の陛下の私室にて、書類仕事に励んではいるがあからさまに虚ろな目のカテリナの落胆ぶりは、付き合いの短いギュンターでさえ気づいた。
マリアンヌはこの騎士を国王付きにした理由を単に「異動」と言っていたが、ギュンターは時期的にどう考えても降臨祭のためだろうと察しがついていた。
「カティ、ここに。話しておくことがある」
ギュンターはカテリナを執務机の前に呼び寄せると、よくその目をみつめながら言った。
「わかっているかもしれないが君は誤解しやすい」
「はい」
「昨日、君なりに一生懸命動いたのはわかるが、勝手に宿を取ってきたのは適切でなかった。俺はただそれを伝えたかっただけで、怒っているわけじゃない」
ここで甘やかすのは彼のためにならないと、ギュンターなりに気遣って言葉を尽くしながら説明する。
「君はまだ着任して間もないのだから、わからないところは訊いても悪いわけじゃない。一人で考えて突っ走らない。いいな」
まだ数日しか見ていなくても、彼の仕事ぶりは悪くないと思っているから、あえて厳しく言う。
この少年はころっと大きな誤解をすることはあるが、書面を見ていれば真面目で誠実なのは十分わかっている。話し方も慎重で気配りもできている。
ちゃんと的確に軌道修正してやれば彼は大成する。ここに彼が来てからというもの、ギュンターにはある種の使命感がふつふつと湧いてくるのだった。
一方カテリナは、なぜ国王直々に仕事の進め方を指導されているのか理解はしていなかったが、ずいぶんと面倒見のいい人だなぁ、上司ってこんなに細かいことまで指導してくれるんだと感心して、素直に言葉の一つ一つを聞いていた。
「わかりました。お言葉のとおりにします」
よし、今日も一日がんばろう。わりとあっさりやる気を取り戻して自分の机に戻っていったカテリナを、ギュンターは目の端で見てうなずいた。
事務仕事を進めて半刻、カテリナははたと気づいて立ち上がった。陛下の執務机に歩み寄ると、自分の本来の仕事を口にする。
「陛下、今日のサロン行きはどうなさいますか」
「ん? ああ、誰か文句言ってきたら行こう」
陛下は手元の仕事に集中していて、生返事と共にぽろっと本音が出た。
カテリナは大きく息を呑んで、さすがにギュンターもその驚きように顔を上げた。
「どうした」
カテリナは真っ青になって震えていて、何か言いかけては言葉を呑み込んでいた。
こんな大事なことにどうして今まで気づかなかったのだろう。カテリナは頭の中で組み立てていた大いなる計画の欠陥を目の当たりにしていた。
何か変だと思ったら必ず基本に戻って考え直しなさいと、父に教えられていたはずだった。カテリナの父は前提をすっ飛ばして最終形ばかり組み立ててしまう娘のボードゲームを見ながら、いつも手がかりを教えてくれていた。
「あ、えと、今落ち着きます。少しお待ちください」
席を立ちかけたギュンターを制して、カテリナはあらためてそこに座る国王の姿を見た。
王妹殿下は彼を最愛の人のところへ導きなさいと言った。すでに王妹殿下は彼と三人の姫君が巡り合うように仕向けていて、カテリナもアリーシャと出会った途端、なるほどこの方が一人目だとすんなりと受け入れた。
王妹殿下が選んだ方なら、ヴァイスラント公国の王妃としてふさわしい方が勢ぞろいしているはずで、カテリナが見極める必要があるのだろうかと思っていた。
つまり見極めるのは、女性の王妃としての適性ではないのだ。カテリナが始終みつめているべきなのは、お相手の女性ではなく陛下の方だ。
カテリナは息を吸って、恐る恐る進言を口にした。
「恐れ多いことですが、陛下。陛下は降臨祭の最終日に最愛の人とワルツを踊らなければなりません」
「わかっている。だからアリーシャに頼もうと思っている」
「つまりアリーシャ様をお妃にお迎えするということですね?」
カテリナは単純ではあるが愚かではなく、実はギュンターがどう答えるは薄々気づいていた。
ギュンターは至極当たり前のことのように首を横に振って言った。
「それは無理だろう。アリーシャは従兄の子どもだぞ。一回りも年下で、常識的に考えて却下だ」
「国王陛下に常識は要りません!」
何となく気づいてはいたが、カテリナは事実を突きつけられて愕然とした。
全然良しを出さない細かさ、自室にこもって黙々と書面仕事をしている国王陛下。カテリナは素直だ堅物だと褒め言葉半分呆れ半分で言われてきたが、上には上がいるのだ。
しかもこの人には、そこに慎重さという余分な年の功がついてしまっていて……十日間のうちに最愛の人を選ぶつもりがない。
カテリナは組み立てていたボードゲームが反転したような気持ちになっていた。国王陛下の恋のために全力を尽くすつもりが、国王陛下は恋をしようとしていない。
けれど一度ごちゃごちゃ考えた手順を巻き戻して頭の中を真っ白にすると、星読み博士が精霊の訪れを知らせた日のことを思い出した。
精霊が望んでいるのは、国王と最愛の人とのワルツだと博士は言った。
そのときカテリナは国王陛下にお会いしたこともなかったけれど、ああ、ワルツを踊るんだと、朝に目を覚ますように当然に受け入れた。自分たち国民は最愛の人と踊る役目はないけれど、誰だって最後のワルツは特別なものだ。
……私も最愛の人と踊ってみたいなと思ったのは、別に今は関係がなくて。
「陛下の恋、僕が叶えてみせます」
余計なお世話かもしれないが、カテリナは心底黙って見ていられなかった。
まばたきをしたギュンターの目を見返して、カテリナは言う。
「命じられてもいないのに宿を取ってきたみたいに、叱られるかもしれません。国王陛下だって恋をするのは誰に指図されるものでもないし、最愛の人なんて十日間で決められるものじゃないと思われるでしょう。でも」
カテリナはそのまっすぐな目をギュンターに向けて、決意するように告げる。
「十日間、僕はどこへでもお供します。どの扉を開けるか慎重になってしまうお立場の陛下の代わりに、扉を開き続けますから。僕は信じられなくてもいいですから、精霊の奇跡を信じてみてください。……だって建国のとき、精霊が言っていたみたいに」
その言葉を言うと乙女じみていると思って、カテリナは言葉を引っ込めた。
ギュンターはカテリナを見上げたまま硬直したようで、少しの間黙っていた。
やがてぷっと吹き出して、いたずらっぽく目配せする。
「「最愛の人は、勇気を持って開いた扉の向こうであなたを待っている」。君は意外とロマンチストらしい」
ギュンターが笑いながらからかうので、カテリナは赤面して言い返す。
「誰だって最愛の人に巡り合いたいと思うでしょ!」
そのとき、一つだけ開いた窓から初夏の香りのする風が通り過ぎた。
二人顔を見合わせたまま時が止まったみたいに沈黙して、二人ともその正体がわからなかった。
ヴァイスラントではそういう沈黙を、精霊が通り過ぎた時間と言う。精霊がくすくす笑いながら見ていて、奇跡を与えてくれる前触れだという。
「……まあいいか」
ギュンターは席を立って、気まずさをごまかすように数歩歩きながら言った。
「マリアンヌの手前もあるし、サロンには行こう」
「では……」
「ただし」
ギュンターはカテリナの顔の前に指を立てて言った。
「ここでの仕事は続けるからな。君の書類で直したいところはまだ山ほどある。側を離れないように」
「はい!」
顔を輝かせてうなずいたカテリナと、少しばつが悪そうな顔をしたギュンターを、夏の香りの風は笑いながら外へと呼んでいた。
降臨祭の二日目に国王陛下がそのサロンを訪れるのは、誰でも予想の上でまるで公式行事のようだった。
王城の中庭に面した広々としたテラスに雑多な人々が行き来するのは、濁らない川の流れにたとえられる。そこでは堅苦しい芸術や学問より、日々愉快に過ごすための楽しみが集められている。
誰よりも遊興を愛し、楽しいことの前では誰しも貴族と微笑むそのサロンの女主人、その名をローリー夫人という。
ギュンターがカテリナを伴ってサロンに足を踏み入れたとき、ローリー夫人は席を立ち上がって滑るように国王陛下の前に参上した。
「陛下、よくいらしてくださいました。……と申し上げたいところですが、少々遅かったようです」
「降臨祭二日目にして、私は何かに乗り遅れてしまったのだろうか」
「乗り遅れたのは我々臣下の方です」
豊穣の母神にたたえられるローリー夫人は、はちみつ色の肌に銀髪という神秘的ないでたちをしていて、彼女の吸い込まれるような瞳でみつめられて否と言える男性はいないと言われている。
「降臨祭の最終日、陛下がどなたと踊るかは全国民の関心事で、私も及ばずながらこの慶事を盛り上げていたのですが」
「君は確か、賭け事はしないとご夫君に誓ったのではなかっただろうか」
「何せ建国以来の祭典ですから」
「賭けたんだな」
その浮世離れした風貌としっとりとした話し方に反して、彼女は溢れんばかりの庶民的関心を持っている。その世俗への愛が彼女のサロンに国一番のにぎわいを招いていた。
ローリー夫人は美酒を口にしたように嘆息して言った。
「二日目にして急上昇、まるで彗星のようです」
少女のように瞳にきらめきを宿して、ローリー夫人は壁際で控えていたカテリナを見やった。
「思えば精霊は、最愛の人は姫君とは一言も言っていませんでした。私も目を開かされる思いがしましたわ」
「待ってくれ。人の嗜好はそれぞれだが、君の嗜好に私を巻き込まないでくれ」
ギュンターは眉の辺りに彼本来の不機嫌をにじませながら、かろうじて相手は貴婦人と思いとどまる。
いつの間にそんな誤解がはびこったのか思い返したが、思い当たることばかりだった。ギュンターは降臨祭の前日も合わせるとここ三日間、片時もカテリナを側から離していない。
いやそれは、優秀なのに方向性をまちがえているそこの新米騎士をどうにか育成しようとしていたのであって、始終いらだちと爆発一歩手前の感情を行き来していた。好きで一緒にいたのではなく、ましてあちこちではびこったと思われる娯楽劇場のような幕はなかった。
「こんなに扱いに困る部下がいたことがなかっただけだ」
常に首根っこを押さえていないと不安だっただけで、断じて可愛がっていたわけではないと主張する。
カテリナを振り向くと、当の本人はまんまるな目できょとんとしていた。貴婦人方の妄想に利用されたことをわかっていないのか、自分に集中する視線にも不思議そうに首を傾げていた。
……可愛くはないと念のためもう一度心の中で繰り返して、ギュンターがカテリナから目を逸らしたときだった。
ローリー夫人は底の見えない微笑みを浮かべて扇を広げる。
「きっと陛下はそう仰ると思って、マリアンヌ様にお伺いを立てましたのよ」
ギュンターがいぶかしげに眉を上げると、ローリー夫人はひらりと扇で手招いた。
「いらっしゃい、ウィラルド」
ローリー夫人に呼ばれて彼女に歩み寄ったのは、騎士団服に身を包んだ青年だった。
ギュンターが見たところ年齢はカテリナの少し上くらいで、新米とはもういえないが、指揮官になれるほど年を重ねてはいない。
彼は小柄でふっくらしていて、髪や仕草はあまり構っておらず、顔立ちもお世辞にも整っているとはいえない。
何より顔色があまり良くなく、思いつめたような表情をしているのが、余計に彼を陰気に見せていた。
「カティ……」
けれど困ったように彼が名前を呼ぶと、カテリナはまるでのぼせたように赤面してうつむいた。そのくせ全身で彼を気にしているのが傍目にもわかって、初恋の人の前であがっているような反応だった。
ギュンターはその反応がなぜか不愉快で、早口に問いかける。
「彼は?」
「カティさんの上官、ウィラルド士官です」
「上官? カティは私の直属の部下のはずだが」
「いいえ、カティさんはマリアンヌ殿下の命で陛下にお仕えしていると伺いました。降臨祭が終われば、ウィラルド士官の下に戻るとも」
ローリー夫人は小首をかしげて、カテリナに話しかけた。
「カティさん。マリアンヌ様はあなたが望むなら、このまま陛下付きの騎士にしてもよいと仰せですが……」
「ごめんな、カティ」
ウィラルドはローリー夫人を押しのけるように言葉を挟んだ。
「俺がいい上官でなかったのはわかってる。いつもいらついてて、やりにくかったよな。細かいところにもケチつけるわりに、どうすればいいのかは指示できなくて」
「いいえ!」
カテリナはぱっと顔を上げてウィラルドに歩み寄る。
「僕がやりにくい新人だっただけです。ウィラルドさまは一生懸命指導してくださいました。それに、ウィラルドさまと僕は仕官学校で一緒だったから、上司と部下という立場にうまくなじめなかっただけで」
カテリナは首を横に振ると、つっかえながら言葉を口にする。
「ウィラルドさまを尊敬しています。ウィラルドさまの部下として働いた日々は幸せでした。降臨祭が終わったら、僕は……」
その先に続く言葉を聞きたくなくて、ギュンターは反射的に視界からカテリナを追い出そうとした。
彼が自分の部下であるのは、あくまでマリアンヌに命じられたからであって、しかも期限付きなのだ。
彼が自分をどう思っているかを、どうして考えなかったのだろう。考えてみたら祝祭の最中に来る日も来る日も書面仕事、それを自分は叱ってばかりで労ったことがあっただろうか。
「……まだこれはお話しするときではないと思います」
けれどカテリナはどこかあきらめたように言葉を切って、その先を告げることはなかった。
カテリナは気持ちを切り替えるように顔を上げてみせると、ギュンターには向けない親密さでウィラルドに話しかけた。
「心配してくださったんですね。でも陛下の元で働くのは、毎日驚くことばかりですけど、楽しいです」
カテリナはうなずいて約束するように言った。
「今は命じられた任務を精一杯果たしてみせます。僕は騎士ですから」
ウィラルドはうなずき返して、そうだよな、とつぶやいた。
「うん。カティらしい。わかったよ」
ウィラルドはカテリナのすぐ目の前まで歩み寄ると、ぽんとカテリナの頭を叩いて言った。
「俺、祝祭の間このサロンにいるから。困ったら頼ってくれよな」
「……ウィラルドさま」
顔を赤くして口の中で彼の名前を呼んだカテリナには、ギュンターを除いてサロン中から応援のまなざしが贈られたのだった。
カテリナには徒歩圏内に実家があるが、普段は王城の騎士団宿舎に住んでいる。
体を壊さないように夜は早く寝るんだよと教えた父の言葉を忘れたわけではないが、同僚が避ける夜勤は自分から取りに行った。ただ、体を壊さないだけの自己管理も生真面目に実行していた。
きちんと時間になったら夕食と仮眠を取り、間食もせず、王城をひととおり見回る以外は宿直室から一歩も出ない。まさかカテリナに限って勤務中にお酒を飲むはずもなく、普段後回しになっていることをしようと、夜勤中は要らない紙とまだ使える紙をより分けて縛る単純作業をするのが日課だった。
そんなカテリナであったので、王城で夜を明かすのは慣れている。ただし完全に仕事に励んでいるのであって、同じ頃同じ建物の中で夜遊びに励む方々がいることは知らなかった。
夜遊びの中心地、そこが王城の一角、昼間はローリー夫人のサロンと呼ばれている居酒屋ローリーである。
女主人ローリーは昼間と同じくどんな来客も快く迎えて、彼らの話を聞いてくれる。
「そうね、いろいろあるわね」
もっとも、出入りしていた子女たちが家に帰った後は、いい年した大人たちが子どものような顔をしてローリー夫人に甘えにやって来るのだった。
ローリー夫人はそのしとやかな話しぶりで、客人たちにささやく。
「でも奥さまにも言い分があると思うのよ。たとえば寂しいとき、どんな風に手に触れたか覚えていらっしゃる?」
ローリー夫人が傾けたグラスの中で、黄金色の酒気が揺らぐ。カテリナは飲んだことがないが、麦で出来た大人のお茶らしい。
「女性は変化に敏感なのよ。殿方は変わらないものを求めがちだけど、長い時を共に過ごす伴侶を同じ形に縛るなんて無骨なことはおやめなさいな」
カテリナはうなずいて、身を乗り出して次のローリー夫人の言葉を待った。
そのやりとりの一部始終は隣のテーブルに席を置いたギュンターとカテリナも耳にしていた。
「カティ、メモは取らなくていい」
ギュンターが事も無げに告げて、カテリナは不満げに彼を見上げた。
「そろそろ本題ですよ」
「夫婦喧嘩に本題も閑話休題もない。ローリー夫人も適当に相槌を打ってるだけだ」
カテリナが目を戻すと、確かにローリー夫人の前に座った男爵の愚痴は娘の婿のことに移っていた。それもまもなく隣に座った別の男性の声が重なって、カテリナも話の筋を追うことができなくなる。
昼間のサロンはテーブルを囲んで椅子が花びらのように並べられているが、居酒屋ローリーは椅子もまばらに置いてある。灯りも控えめで、貴婦人方のおしゃべりも聞こえてこない。時々軽食を運ぶ給仕が回って来るくらいで人の移動もほとんどなく、心なしか時間の流れもゆっくりとしていた。
カテリナが見る限り、父が口うるさく彼女に立ち入りを禁止していた危ない場所ではなさそうだが、普段彼女を囲んでいる世界ではない。カテリナはそういう違いには気づいていて、手帳を懐にしまった。
違うというなら、国王陛下もいつもと違う。
カテリナが知る陛下はサロンに出入りする合間にでも仕事をするはずなのに、今夜の彼はまるで時間を浪費するのを楽しむように、もう一刻ほどもサロンの片隅に腰を下ろして、何をするでもなく物思いに耽っている。国王陛下という身分は背負っているので、女主人であるローリー夫人から一つテーブルが離れただけの席ではあるが、ローリー夫人も国王陛下を特別に扱っているわけではなかった。
カテリナは夜勤の間に暇に任せて紙の束をより分けたように、普段ならさほど関心を持っていないことを思い出していた。
いつかの娯楽新聞、そこにローリー夫人の特集があった。彼女の銀髪とはちみつ色の肌は、彼女の母が不義を犯したからといわれていた頃があったのだそうだ。
実際は祖母に辺境の血が入っているからなのよ。それで破談になった縁組もあったけれど、切れた縁の代わりに夫と出会えたと思うと、精霊に見放されてはいなかったみたいね。ローリー夫人自身はそう話していて、出生の逸話も話題の一つにしかしていなかったから、その記事を読んだカテリナも気に留めていなかった。
ふいにギュンターは頬杖をつくのをやめて、ローリー夫人に声をかけた。
「もう二年になるのか」
ギュンターが告げた言葉は、カテリナには独り言のように聞こえた。
「君がローリーの名を手放しても、ヘルベルトが君を責めるとは思えない」
国民の多くは彼女の夫が船旅に出たきり失踪したことを知っている。
新聞記者でさえご夫君のことを大きく書かないくらいには、ヴァイスラントの国民は彼女を気遣っていた。
だからギュンターの独り言は、ヘルベルト・ローリー将軍を盟友としていた国王陛下でなければ、誰も口にする日が来なかった言葉だったかもしれなかった。
ローリー夫人が話していた、破談になった縁組。カテリナは要らない紙により分けた娯楽新聞は、本当に要らない情報だったのか考えていた。
ギュンターがローリー夫人をみつめるまなざしが今も優しいのは、彼女が親友の妻だからなのか、それとも破談になった元婚約者だからなのか。
ローリー夫人はギュンターの言葉に苦笑してみせた。
「あなたは優しいわね。……だから嫌い」
ローリー夫人は柔らかい棘のような声色でギュンターを刺して、あとは彼の方を見ることなく他のテーブルのところに向かった。
カテリナはギュンターとローリー夫人の間に広がった距離をみつめながら、そこに一度ねじれた縁を見ていた。
精霊は人の知らない基準で恋を取り上げてしまうことがあるらしい。
そっと元に戻しておいてくれることもあるらしいけど、どういう基準なのかな。カテリナはうつむいて、難しい問題に考え込んだ。
ギュンターはふとカテリナの様子を見て言った。
「どうした、カティ。酔ったか」
カテリナはギュンターに返事をしようとしたが、その前に下を見て言葉を引っ込めた。
もし陛下が今もローリー夫人が好きだとしたら、最後のダンスの相手になれる。カテリナの望む仕事の完成形のはずなのに、どうしてかそれはカテリナの中で少しもやがかかっていた。
「カティ?」
ここは普段の執務室とも違うせいか、陛下も知らない人のように見えた。灰青の瞳が仕事中のように張りつめていなくて、かける声もなんだか優しい。
たとえば足を組んでグラスを持つ姿が精悍だと思っても……思うだけ損な気がして、カテリナは目を逸らした。
ギュンターはカテリナの顔を覗き込んで眉を寄せる。
「本当に体調が悪いのか?」
「申し訳ありません、陛下」
手を伸ばしたギュンターの前に、部屋の隅で様子をうかがっていたウィラルドが助け舟を出すように割って入った。
「カティはこういう場は慣れていないものですから。お酒も飲めないんです」
カテリナの肩に触れようとしたギュンターの手が、つかむものを失って宙に浮く。ウィラルドはカテリナの肩を抱いて椅子から立たせると、下からうかがいを投げかける。
「退出させても構いませんか?」
「体調が悪いなら……」
ウィラルドは一礼して、それ以上のギュンターの言葉を待たずに踵を返す。
顔を伏せて連れられて行くカテリナは体調が悪そうだったが、ギュンターはウィラルドがカテリナを見下ろす目が不愉快だった。
ギュンターの視線に気づいたのかウィラルドは顔を引き締めたが、大丈夫だよ、俺がついてると言ったときは、上司というより男性に近い声色だった。
ローリー夫人は後に残されたギュンターがウィラルドと同じ表情をしていたことに気づいていたが、大人の事情で黙っていたのだった。
カーテンごしに白い光を浴びて大きく伸びをしてから、カテリナは清々しい朝の空気を吸い込んだ。
物心ついてからというもの、およそ高い熱を出したこともなければ寝込んだこともないカテリナ、その健康の秘訣は事が大きくなる前の察知能力と、潔い撤退にあった。カテリナの大きく澄んだ心の目は自分の体に負荷がかかっていることを誰より早く見抜き、どんな楽しみがあろうと予定があろうと、布団をかぶって寝る健康第一習慣を身に着けていた。
慣れない陰の空気、好きじゃない酒の匂いを感じたときから、歯向かうのも鬱屈するのもやめた。そういう自分に、ちょっとだけ呆れることもある。
自分は事が起こったときに戦えないんじゃないかな。本当は騎士に向いてないのかもしれないと。
カテリナの上の二段ベッドでもぞりと動く気配がして、カテリナに声が投げかけられる。
「カティ、起きた?」
カテリナはここが騎士団寮の自室だと気づいて慌てた。騎士団は女人禁制ではないが、男として入隊した以上、本来の性別を知られるわけにはいかない。
カテリナはほとんど平らの胸の一番上までボタンが留まっているか一応確認すると、ベッドに下がるカーテンの隙間から顔を出して言う。
「おはようございます。ウィラルドさま、昨日はありがとうございました」
二段ベッドの上で、ウィラルドは気安く笑って返す。
「やめてくれよ。今の俺はカティの上官じゃないんだから」
ウィラルドは器用に片方の眉だけ上げて、ふと気づいたように顎をしゃくって何かを伝えてきた。
胸は見えていなかったが、はだけた肩に下ろした黒髪がそのまま流れていた。カテリナの体型は無理に偽らなくとも少年じみているが、光を抱いているような豊かで滑らかな黒髪は成長するにつれて女性的になっていて、普段はなるべく小さくなるように縛って、帽子の中に隠していた。
カテリナには、髪だけでは性別はわからないと言い切れる自信がない。一瞬ウィラルドが困ったように目を逸らしたために、カテリナの中に焦りがこみあげた。
「着替えます。すぐ終わりますから」
「いいよ。焦るな」
また伸びてきちゃった、そろそろ色も染めないといけないと思いながら、カテリナは慌てて着替えを始めた。
カーテンに囲まれた限られた空間で手早く着替えるのは慣れているが、誰か様子を見に来たらと思うときはあった。学生の頃はもっと無遠慮にお互いの部屋に入り込む同級生もいたのに、その焦りは年々増している気がする。
「大丈夫だよ、カティ。この年で着替えなんて覗く奴いないよ」
カテリナは、たぶんウィラルドには本来の性別を知られているとわかっていた。
ウィラルドとカテリナは、学生時代からずっと同室で寝食を共にしてきた。頑なにいつもカーテンを引いて二段ベッドの下にこもり、着替えをするカテリナを見てきて察しがつかないほど、ウィラルドは周りが見えない人じゃない。
もしかしたら同僚たちだって知っているのかもしれないが、誰もカテリナにそのことを言わなかったし、貶めるようなこともしなかった。ちょうど平和な時代に生まれたのを誰に感謝すればいいのかわからないように、カテリナは誰一人名乗りを上げずに今の彼女のままでいさせてくれたことを周りに感謝している。
いつまでそういう周りの優しさに甘えているの? 時々カテリナの中には後ろめたさが飛来して、心を刺す。
父との関係を伏せている人は他にもいるだろう。騎士になったことだって、それ自体が悪いこととは思わない。けれどそういう選択を取ってきたカテリナをずっと心配してきた人を、カテリナは確実に一人知っている。
「そういえば最終日は実家に帰るんだってな。親父さんが喜ぶよ」
ウィラルドの言葉に、カテリナは喉元のボタンを留める手を一瞬だけ止めた。
誰に何を返せばいいのかはわからない。でもカテリナは父にだけは、いつか自分にできる精一杯の贈り物を返したいと思っていた。
一度息を吸ってボタンを留めると、カテリナはうなずいて、カーテンを引いた。
「……僕は最後のワルツを誰と踊るかは、もう決めてるんです」
ウィラルドが問い返す前に、カテリナはいつもの騎士団服を一分の乱れもなくきちんと着て、二段ベッドの脇に立っていた。
「仕事に行ってきます!」
晴れやかに宣言して敬礼をすると、カテリナは駆け足で寮を出た。
祝祭の最後の日に、自分は性別を明かそう。父との関係も周りに明らかにしよう。
……その結果騎士をやめなければいけないことになっても、それは星が決めた運命なのだから、受け入れて次の道に走り出そう。
四階まで階段を上り回廊を渡り、顔なじみになった近衛兵に敬礼して、その部屋をノックする。
返事がなくて近衛兵を振り向いたが、彼はどうぞと合図を送ってきた。カテリナは首をかしげながら陛下の自室に立ち入る。
いつになく早い時間だからまだ眠っている可能性も想像したが、ギュンターは既に自席に着いて書面仕事をしていた。
カテリナはあいさつを口にして席につけばよかったのに、余分な一言も付け加えた。
「おはようございます。朝食は召し上がったのですか」
反射的に心配したのはカテリナの職務ではないし、陛下に失礼な一言かもしれなかった。
けれどカテリナはつい思ってしまった。この人、誰か止めないと体を壊すんじゃないだろうか。自分がこの任を離れた後、ちゃんと止めてくれる人はいるんだろうか。
「体調は良くなったのか」
そんな心配は余計なお世話だとわかっていたけど、それを言うなら開口一番問われたことだって、別に彼が言わなくてもいいことのように思った。
一騎士が国王陛下の最愛の人を決められるはずもなく、彼がもう決めてしまったカテリナの選択を変えられるとも、もちろん思わなかった。
ギュンターはカテリナのすっきりした顔を見て安心したようで、カテリナの答えを聞くことなくうなずいた。
「あまり時間がない。今日は星読み台へ向かう仕事があるからな。急いで事務仕事を片付けるぞ」
けれどカテリナにはあと八日間、陛下の最愛の人を見極める仕事があって、祝祭の後のカテリナの未来は精霊だけが知っている。
カテリナもうなずき返してギュンターに答えた。
「お望みのとおりに」
もしかしたらふいに星が降るように小さな奇跡が待っているかもしれないと信じて、カテリナは今日も自分の席につく。
ヴァイスラント公国の星読み台は謎めいた伝統と歴史に包まれていて、古くは儀式でもなければ国王さえ立ち入ることが難しかった。
基本的な仕事は星を見て暦を作ること、吉兆の訪れを人々に伝えることで、その一つに降臨祭を行うこともあるのだが、星の読み方には国家機密も含まれるので、昔はあまり開放的にはできない事情があった。
過去、戦争のときなどは星がヴァイスラント公国に味方しているかという、圧力に満ちた仕事をしていた時代もあったわけで、それに比べれば流星群の鑑賞に応募してきた人々に抽選券を配っている今は、少なくともだいぶ平和に違いない。
そんな星読み台は王城から馬車で一刻ほど、周りに民家も何もない丘の上にぽつんと位置する。昔ならいざ知らず、今では子どもの遠足先にも選ばれているくらいで、もちろんカテリナも家の者に連れられて訪れたことがあった。
ところが星読み台の門戸をくぐり、子どもたちが目を輝かせる星々の海が天上に描かれた大広間に入った途端、カテリナは不安げな顔になった。
「どうした、カティ。今月の星占いがいまひとつだったような顔だな」
ギュンターは声をかけてしまってから、公務中だと思い出して後悔した。今日は国王が星読み台を訪れて博士の進言を受ける日で、降臨祭三日目の公式行事だ。博士と席に着く前とはいえ、一騎士に冗談交じりに話しかけていい場ではない。
カテリナもそれがわかっていたのか、ぺこりと一礼しただけで近衛兵の後ろに引っ込んだ。ギュンターはカテリナが時々見せる潔すぎるほどの聞き分けの良さで、それが自分の気のせいではなく、何かしらの理由からきたものだと感じ取った。
天窓からさんさんと光が差し込む応接室に通され、ギュンターが重厚な樫の木で出来たテーブルで星読み博士と向き合った途端、博士は愉快そうに切り出した。
「陛下、この機にご結婚されてはいかがですか」
「楽しんでおられるな、博士」
星読み博士は御年六十の小柄なご老人だが、決して俗世に疎いわけではない。
星読み博士が告げる占いは、流行の服の色を決めたりバターを品切れにしたりと、国民の行動を結構な頻度で左右する。
それに星読み博士の副業として結婚相談もあり、時に本気で国民の人生の命運を左右する。ただギュンターとしては、今まで自分が当事者でないために放っておいただけだ。
「何よりの慶事になりますが」
「場合によっては災難にもなるのでな」
もっとも星読み博士が国王の結婚を決めていた時代もあったので、この場合は笑えない冗談だった。
「何せ建国以来の祭典ですから」
「娘御と同じことを仰らないでくれ」
ローリー夫人を実娘に持つ星読み博士は、その話し方や含み笑いがさすが親子、よく似ていた。
博士は小さくため息をついて言う。
「確かに私をはじめとした国民は楽しんでおりますが、精霊はどうでしょうか」
とはいえ文官として最高位を持つ星読み博士、軽口から始めておいて、落としどころはそれなりに重い話を持ってくる。
「なぜ今、精霊がやって来るのを決めたのか、それは私たちには知るすべがありません。しかし相手は建国のときに約束を交わした精霊でございます。嘘やごまかしは通用しません」
ギュンターの目を下からでも見据えて、星読み博士は国王陛下の痛いところを突いた。
「陛下が気安さや無難さで最後のダンスの相手を選んだりなどしたら、どんな災いが降りかかるか知れませんぞ」
最後はきちんと耳に痛い進言で締めて、星読み博士との公式会談は終わった。
応接室から出たギュンターは、博士の言葉を真実と照らし合わせるくらいには賢王だった。
博士が言う通り、ギュンターは気安さや無難さでダンスの相手を考えている。アリーシャは日頃から付き合いがあるし、王族で、他の貴族との不公平にもならない。アリーシャ本人のためにもそれほど悪い話ではないはずだ。
「しかし結婚を十日間で決めるには……カティ?」
ついいつもの癖でカテリナに話しかけて、そういえば星読み博士との会談室に彼は入っていなかったことに遅れて気づいた。
今、重大な話をおよそ三日半仕事を共にしただけの新米騎士に相談しようとしたが、それが自分の中でごく自然なことになっていた。
「はい、御前に」
「なぜ会談に随伴しなかった」
慌てて参上したカテリナに、ギュンターは不機嫌な声になってしまうのを止められなかった。会談は終わったとはいえまだ周りには近衛兵が控えている。穏やかで慈悲深くあるべきと心がけていたはずなのに、この少年といると身にまとった建前が簡単にはがれてしまう。
カテリナは珍しく目が泳いで、ギュンターの後から部屋を出た博士に気づくなり肩が上下した。
「おや、君は」
星読み博士はカテリナに気づいて、彼女の前で足を止めた。
「懐かしい。子どもの頃、熱心に星読み台に通っていたね?」
博士は気安く笑うと、思い返すようにカテリナをみつめた。
「君は大きくなったら星読み博士になりたかったんだろうね。でもメイン卿は「星読み台に住むなんて許しません」と大反対で。……ああ、なるほど」
ギュンターは博士の言葉に疑問符を浮かべたが、博士はギュンターを見て含み笑いをする。
「博士、どうなされた?」
「陛下のお耳に入れるのは今更ですが、世間ではなりたい職業第一位が星読み博士なのですよ」
それはギュンターも知っている。国王でないところが、今の時代の平和なところだと思っている。
「ちなみに結婚したい職業第一位も、星読み博士です」
それは裏を返せば女性の側からも人気があるということだが、この場合の博士の意図するところは不明だった。
「メイン卿は大切にお育てした御子を、星読み台にやりたくなかったんでしょうな。……いや、どこにもやりたくなかったのか」
博士は納得したようにうなずいて、ローリー夫人とよく似た笑みを浮かべた。
「一国民として、私も陛下の最後のダンスを楽しみにしております」
星読み博士は建国以来の祭典を楽しむと告げた言葉と同じ調子で言って、優雅に一礼したのだった。
建国以来初めてやって来た降臨祭、人々は心弾んで催し物に旅行にと出かけているが、その影でカテリナのように急きょ働くことになった人々もいる。
夏は暑ければ暑いほど商品が売れるように、商人にとって降臨祭はまさに天からの贈り物、過熱してくれればくれるほどいい。世間ではとにかく精霊と名付けられていれば宝飾品にお菓子、枕まで売れるわけで、それは何か間違っているのではという勢力も別にないわけだった。
星読み台の事務室の一角、王族が訪れるときには休憩室となる部屋で、ギュンターは足を休めていた。扉を開けてカテリナが入って来ると、ギュンターは彼女に言いつけた仕事の報告を求める。
「仕官室はどうだった」
「保冷室みたいでした」
カテリナはややあって不可解という風に答える。
カテリナはギュンターに命じられて、星読み台の仕官室の様子をうかがって戻ってきたところだった。
カテリナの見たところ、降臨祭の主催者である星読み台は、過熱しているようには思えなかった。それどころか星読み仕官たちはお互い言葉を交わす様子もなく、カテリナが国王陛下の命令でお邪魔しますと一言断って入ったときもほとんど無反応だった。
ギュンターは頬杖をついてカテリナの答えにうなずく。
「保冷室か。その表現は悪くない」
「どうしたんでしょうか。忙しい時期だとうかがっていたのですが」
国王陛下の本日の所定の公務、星読み博士との会談はとっくに終わっている。ところがギュンターは夕方になっても星読み台の一角に滞在し、しかもどうやら宿泊もするつもりでいるらしい。
「相変わらず苦戦しているのか」
ギュンターは目を伏せて独り言のように告げると、首を傾げたカテリナに告げた。
「カティ、今晩君に夜勤を命じる」
完璧主義、納得するまで絶対に良しを出さない国王陛下だったが、今までカテリナに夜を徹して仕事を命じたことはなかった。
「はい。お言葉通りに」
カテリナはきょとんと目を丸くしながらも即答したのだが、それを扉の外で聞いていた近衛兵たちはこっそり色めき立った。
近衛兵は陛下の部屋に夜のお相手を招くのも平常業務だったが、彼らの勤勉な上司は夜になればなるほど一人で仕事をする御方で、今までその重大な職務を果たさせてはくれなかった。
ついに一線を越えられるのですね、陛下。私たちの中では今夜が降臨祭最終日でもいいですよ。ちょっと涙ぐんで、近衛兵たちはお互いの肩を叩きあった。
夜勤に備えて仮眠を命じられたカテリナは、いつもより三割増しほど優しい近衛兵たちのまなざしに見送られて部屋を出た。
星読み台は夜に仕事をするのが常で、仮眠室は王城に比べても充実していた。個室で鍵もかかって、鏡や靴磨きも常備されている。王城の宿直室なら誰が来てもおかしくなく、身構える必要があったが、ここなら安心して眠ることができそうだった。
だからカテリナは実家にいるように、髪を解いて、服も夜着だけまとってベッドに入った。
誰にともなくおやすみなさいとあいさつして、カテリナは短い仮眠についた。
夢の中で、熱心に星読み台に通っていた子どもの頃を思い出していた。
満天の星空に目を輝かせて、大きくなったら星読み仕官になると父に言って大反対されてしまった。
単純に、女の子は星読み仕官になれないのだと言われたのかというと、実はヴァイスラント公国では少数だが女性の文官がいる。父はそういうところで嘘をつく人ではなく、そのために墓穴を掘る人でもあった。
だめ、カテリナちゃん。星読み仕官と結婚するくらいなら、パパのいる騎士団に入りなさい。
幼いカテリナは大きくうなずいて言った。
うん、お父さんと同じお仕事する!きらきらした目で将来の夢を決めたカテリナに、父はちょっと泣きたそうな顔をしていた。
力はあんまりないから仕官学校の頃から騎士に向いていないのはわかっていたが、父と同じ騎士団に入ったことに後悔はしていない。
祝祭が終わったら騎士をやめると決めたけれど、今も甘い希望は捨てられない。
たとえば誰かに、もう要らないと言われるときまでは騎士でいられたなら。カテリナはそんな淡い期待を持つ自分を知っている。
「僕なんて誰も要らない」
ふいに真っ暗な声を聞いて、カテリナは心の奥をぐさりと刺された思いがした。
飛び起きると、辺りはすっかり暗がりに沈んでいた。けれど隣の部屋で窓が開いて、誰かが外に出た気配を感じた。
カテリナは胸に迫る感情のまま、自分も窓を開けてベランダに出た。そこから屋根に向かって梯子が掛かっていて、誰かがそこを上る音が聞こえていた。
星を見るための暗闇が、本来の闇色で世界を染めているように見えた。カテリナは何かを考えたつもりはなく、梯子を上ってその人を追っていた。
人の顔も定かでなく、もしかしたら聞き間違いなのかもしれないけれど、駆け寄って屋根の端に立つその人を後ろから力いっぱい捕まえる。
「だめ! だめったらだめ!」
誰かが息を呑んで体を固くした。カテリナは子どもがわがままを言うように叫ぶ。
「お腹いっぱい食べて、嫌になるくらい寝ようよ! それでも元気にならなかったら、次の日も同じようにしたらいいじゃない!」
その人は誤解だとも言わず、カテリナを振り払うこともしなかった。聞こえていると信じて、カテリナはその人をぎゅうぎゅう抱きしめて言う。
「明日ご馳走するから、今日は寝よう!」
果たしてカテリナの現在の手厳しい上司が及第点を出すかは不明だったが、その言葉は一応誰かの耳には届いたらしい。
「……うん。わかった」
子犬がしゅんと頭を垂れるような声でカテリナに返して、その人はそろそろとカテリナの腕を離した。
カテリナの横を通っていったその人は、背格好からいくと少しカテリナより背が高いくらいで、そう年も変わらない少年のようだったが、すぐにすれ違ったから顔を見る時間はなかった。彼は大人しく梯子を下って、仮眠室に向かってくれた。
カテリナも後に続いて梯子を下りようとして、よかったと胸を撫でおろして……ふと普段は隠している胸のふくらみに気づく。
そういえば個室だからと安心して、髪も解いて下ろしていた。ついでに先ほど思いきり抱きついてしまっていた。
「そういえば、君」
気まずそうに梯子を下りたカテリナをその人は待っていて、一歩カテリナに近づく。彼は目を覗き込むように少し屈みながらカテリナに話しかけた。
「僕は寝るけど、君は」
「あ、うん。それでいいと思う。じゃ、僕これで」
これ以上顔を見られたくなくて、急いで自分の仮眠室に引っ込もうとしたカテリナに、彼がふわりと笑った気配がした。
「ありがとう」
たぶん言葉と同時に、カテリナの唇に柔らかい感触があった。
温かいような、少しくすぐったいような、それが彼女にとって初めてのキスだとまだ頭が追い付かないまま、唇は離れていく。
彼は暗がりの中で踵を返して部屋の中に入っていったが、カテリナはしばらくの間ベランダに立って、自らに起きた大事件に打ち震えていたのだった。
仮眠から目覚めて星読み台で一夜を過ごした日、それはカテリナにとって新しい扉を開いた日になった。
もっとも近衛兵たちが想像したような甘く情熱的な共同作業を陛下と成したわけではなく、ある意味で大人への階段を駆け上って、そして新しい扉の向こうで力尽きた。
「よくやった、カティ」
星読み台に設けられた臨時の国王陛下の執務室で、まさか陛下から聞けるとは思わなかった労いの言葉をもらっても、カテリナはしばらく机の一点をみつめたまま動けなかった。
机には一面、カテリナの身長ぎりぎりまで積まれた書類とインクの切れた数本のペンが転がっている。足元にはもちろん、部屋の至るところにもうず高く書類が積まれて、陛下もその隙間からカテリナに声をかけたのだった。
一晩、カテリナは陛下の元で星読み台の秘された職務に就いていた。その職務というのは星の配置や動きから精霊の言葉を解読するという、一見夢のある仕事だった。
たとえ星が半刻と同じ配置をしておらず、二度と同じ配置に戻らないとしても、それを一晩愚直に追い続けるのが星読み台の仕事だと知ることになった。
カテリナはまだ呆然としながらギュンターに訊ねる。
「これで本当に当たるんでしょうか」
「外れることもある。ところが恐ろしいことに、大体精霊の言う通りになる」
カテリナが独り言のようにつぶやくと、ギュンターもさすがに疲れた様子で言った。
「恵みも災いも、人には見えないものの答えを、精霊はめったに間違えたりしない。教え方が多少迷惑なだけだ」
精霊の言葉である星の解読法則は、建国のときから変わっていないという。国防に関わるので一般国民には法則を知らせていないが、この仕事に就いて一日のカテリナでも一応理解できる難易度で、ギュンターに教わりながらではあるが実際の解読もできた。一晩でペンが五本インク切れになるほど絶え間なく数式を書き続けただけだ。
「ちなみに今日の君の運勢は、「悪くない」。たぶん精霊の言う通りになるだろう」
ギュンターは年の功だけ余裕を持っていたのか、ちゃっかり個人的な星占いも収集していたらしかった。
ギュンターは少し考えてカテリナに問う。
「君は星読み仕官に向いているな。どう思う?」
騎士をやめたら星読み仕官になるのもいいかもしれない。そう思っていたはずだが、カテリナは即答できなかった。
昼間の星読み仕官室の冷え方が理解できた。彼らは一種の冬眠に入っていて、夜にできるだけ力を温存していたらしかった。
「もう少し陛下の下で働かせてください」
転職の理想と現実を前に少しだけ弱気になったカテリナは、それほど陛下に悪い印象ではなかったらしい。
そうかとほっとしたようにうなずいた陛下にカテリナは気づかず、なんだか声が優しいことも麻痺した耳ではぼんやりと聞くしかできなかった。
「疲れただろう。帰りの馬車では寝ていることを許す。あと、王城に帰る前に少し休んで、朝食を取ってきなさい」
「お言葉のとおりに」
カテリナはのろのろと立ち上がって一礼した。ギュンターは苦笑して、転ぶなよ、と子どもにするように言ってから、ふと扉の方を見た。
「わかっていたつもりだが、やはり来なかったな」
カテリナがギュンターを見ると、彼もやはり疲れていたのか、普段口にしない弱音のような言葉を口にした。
「星読み台には弟がいるんだ。真面目で素直なんだが、年が離れすぎていて言葉をかけ間違えたように思う。……もうずっと私と口を利かない。星読み博士から仕事に苦戦しているとは聞いているが、俺が仕官室に立ち入って労いをするのも、今更遅いのだろう」
カテリナは思わず掛ける言葉を探したが、事は国王と王弟の関係で、たやすい解決は通用しないような気がした。カテリナが父と喧嘩したときは、怒りながらも永遠に縁が切れることなど想像もしていないが、王と王弟という立場はもっと難しいに違いなかった。
ギュンターはため息をついて言う。
「君は少し弟に似ている。悪いな、こんな話をして。だからどうということもないんだ」
行ってくれとギュンターが先に話を打ち切って、カテリナは部屋を去るしかなかった。
廊下を渡りながら、あまり回っていない頭でギュンターの言葉を思っていた。陛下はアリーシャのことも年が離れているから結婚などと言っていたことがある。ヴァイスラントでは別に十歳程度の年の差結婚、珍しくはないのにとカテリナは不思議に思っていたが、それは王弟とのことがあったからのようだった。
言葉一つで永遠に縁が切れたりなんてしないんじゃないかな。そう思うくらいには、カテリナは家族に甘えている。
階下に降りて食堂に入り、パンとスープを受け取って席に向かった。
パンをかじりながら、自分だったらどうやって仲直りするだろうと考えていたときだった。
「昨日はありがとう」
夜を徹しての仕事の後、カテリナのようにぼんやり朝食を取っている仕官たちの物音の中で、聞き覚えのある声が耳に入った。
瞬間的に顔に熱が蘇って恐る恐る隣を見ると、ブロンドに灰青の瞳、明るい陽射しの中で見れば実に陛下とよく似ている少年が、控えめに笑いかけていた。
シエル王弟殿下はカテリナの一つ年下、次期星読み博士となるべく勤め始めて一年になると聞いている。王族という立場上、あくまで名誉職であって実務に詳しくなくともという陰口に苦しみながら、星読み台で昼夜問わず仕官たちと仕事に打ち込んでいて、王城にもほとんど帰ってこない人だった。
「カティというんだね。今日の服装は何だか雰囲気が違う。素敵だ」
昨日は暗かったから声を聞かれなければ同一人物とはわからないかも。そういう甘い考えはあっさり覆されたが、さすが陛下の弟君、女性には流れるような褒め言葉だった。
カテリナは何か言い訳しようと思ったが、何を言い訳していいかわからなかった。女性ということを知られた以上に、王弟殿下と初めてのキスをしてしまったその事実は、カテリナにとって大事件だがこの場で口にすべきことでもない。
けれどシエルはそれ以上カテリナに追及することはなく、友達にするように声をかけた。
「さ、食べよう」
顔を赤くしたり青くしたり忙しいカテリナの心の動揺を知ってか知らずか、シエルは優雅に笑って手元に目を戻した。
周りで食器の擦れる音が鳴る中、しばらくシエルは無言で朝食を取っていた。さすが育ちがいいのか、音も立てなければ味気のないパンでも美味しそうに口にする。カテリナはその仕草に少しみとれてから自分も食事をしようとしたが、いくらカテリナでもこの場合何事もなかったかのように過ぎてはいけないと知っていた。
ごくんと息を呑んで、カテリナは頭を下げる。
「昨夜は無礼を申し上げて、大変申し訳ありませんでした」
「……ん、ううん」
まだ十六歳とは思えない落ち着いた物腰を持つ殿下、そういう噂は聞いていた。けれどカテリナを振り向こうとして目を伏せたのは、少年が年相応に言葉に詰まる様子だった。
食べよう、と彼はもう一度早口に言った。カテリナもつられて言葉に詰まって、二人の間に沈黙が下りた。
王弟殿下も昨日のことは勢いだったのだろうし、先ほど陛下から聞いたように国王陛下と喧嘩中でもあるしと、カテリナはこの場合関係ないこともぐるぐる考える。
シエルは息を吸って、照れくさそうに言った。
「一つだけ聞いて。だからどうということもないのだけど」
シエルは陛下のような前置きをして、カテリナを見やった。
「昨日の夜は、見えなかったものがずっとそこにあったみたいな気持ちだった」
シエルは先に食事を終えて、恋人に呼びかけるように言った。
「またね、精霊さん」
カテリナは頭を下げて王弟殿下が退出するのを見送りながら、彼とこれから何度も会いそうな気がしていた。
昨日の夜は精霊のくれた偶然だったのかもしれない。カテリナは夢みたいな考えに苦笑しながら、それも素敵なことのように感じていた。
精霊は建国のとき、必ずまたヴァイスラントを訪れると王に約束した。
それはいつでしょうかと王が問うと、精霊はいつになるのか私にもわからないと自信なさげに目を逸らした。
それなら約束しない方がいいのではと親切心で王が言ったそうだが、精霊は私が訪れたいのだから約束させなさいと拗ねた。
精霊に男女の別はないが、かの精霊は幼い日に母を亡くした王の、母代わりのような存在だったらしい。王はわかりましたとうなずいて、精霊がやって来る日までの十日間に祭りを開くことを決めた。
精霊が去る日、王は建国を導いてくれた精霊に精一杯の贈り物を用意したそうだが、精霊は受け取らなかった。
王はお金と権力を勝手に使ってはだめ。去り際まで王を諭して、精霊はふと子どものように目を輝かせた。
そうだ。いつか私が訪れる日、あなたが最愛の人とワルツを踊るのを見てみたいな。
精霊は笑って星の輝く夜に去って、以後王の存命中も、その後も、星の配置で言葉を伝えてくれたが、二度とヴァイスラントを訪れることはなかった。
結局、王は老いて亡くなるとき、子どもたちにいつか精霊との約束を果たしてくれるよう言伝ていった。
現在のヴァイスラントの人々は、そんな昔話を思い返して様々な憶測を繰り広げる。
「当時の王の元を訪れなかったのは、精霊は王を愛していて、王が最愛の人と結ばれたのを見たくなかったからではないかしら」
降臨祭も四日目、ローリー夫人のサロンでも話題といえば一番白熱するのが王の最後のダンスのことだ。
「いくら母代わりとはいえ、むしろ母代わりだからこそ、息子の嫁には複雑な思いを抱きませんこと?」
「わかりすぎて嫌ですわ。洗濯物の畳み方一つでも合いませんものね」
サロンの貴婦人方は身分もそれぞれであるが、ヴァイスラントはわりと自由な気風の国民柄なので、話す内容も実に遠慮がない。
「当時の王のお妃は、実に肝の据わった方でしたしね。王が亡くなるときに、「あなたがワルツを踊るのが下手だから精霊も見に来なかったのよ」と言いきったくらいですから」
「あら? 私は、「私が十二人も産んであげたんだから誰かが果たしてくれるでしょ」だった覚えが」
「さすがは建国を成したお妃でいらっしゃいます」
貴婦人方は何一つ結論に至らないまま大いに納得して、あっさりその話題を切り上げた。
「それで、今日でございますね」
貴婦人方は扇ごしに中央の席に座ったローリー夫人を見て、声をひそめて問いかける。
「……ローリー夫人のお見込みでは、今日これからこのサロンで、陛下がアリーシャ嬢に最後のダンスを申し込むと」
ローリー夫人は微笑みをたたえたまま、ええ、と答えた。
「陛下はとても実務に長けた方でいらっしゃいます。お相手となる方のご身分はもちろん、お話を持ち掛ける場所のふさわしさ、令嬢のドレスを仕立てる時間にご自分の仕事の空き状況まで考慮して、最善の時が今日ですから」
貴婦人方は感心してため息をついたが、ローリー夫人だけは違う意味で息をついた。
「女性の扱いに長けているかというと、必ずしもそうではありませんが」
陛下の本日の星占いは凶と出ていることを、星読み博士の娘であるローリー夫人は知っていた。
衛兵が扉を開き、国王陛下がサロンに到着する。例によってここのところ片時も陛下が側から離さない騎士が、一歩遅れて一礼して入室した。
ギュンターは貴婦人方に笑顔と美辞麗句を振りまき、いつものようにサロンの歓待を受け始めた。お顔立ちが良く人当たりもいい陛下、貴婦人方の評判はもちろん良好で、ローリー夫人のように多少陛下の男性への人当たりの悪さを知っている女性でなければ、理想的な男性だった。
「陛下、アリーシャ嬢がご到着です」
まもなく衛兵がギュンターに近寄って告げる。陛下は当然その予定を知っていたのか、一つうなずこうとしたときだった。
「あの、それが」
衛兵は言葉に詰まり、陛下の耳元で何かを付け加える。ギュンターはその言葉に目を見張って、衛兵を振り向いた。
「アリーシャ嬢……ならびに、シエル王弟殿下のお着きです」
アリーシャをエスコートして現れた少年を見て、サロンの貴婦人方よりギュンターが一番驚いていた。
今日のシエルは星読み仕官服ではなく、男性王族の平服であるサーコートに身を包んでいて、裾さばきも軽やかにサロンへ現れた。
シエルとアリーシャは幼馴染で、成長してからも付き合いがあるとはギュンターも聞いていた。けれどシエルは一年前に星読み台の仕事に就いてからほとんど王城に戻ることはなく、こういった社交界に現れるのも久しぶりだった。
ただギュンターの前でいつもそうであるように、シエルはギュンターに一礼はしたものの、すぐに言葉を拒絶するように兄の前を離れた。ギュンターもどのように言葉をかければいいかわからないまま、弟を引き留めることはしなかった。
やはり嫌われているのだとギュンターが気を落としていると、不思議なことが起こった。
「カティ、ごきげんよう。降臨祭だからね。僕もちょっとご馳走を食べに来たよ」
シエルはギュンターの一歩後ろに控えていたカテリナに、昔はギュンターにも見せてくれた親しげな表情で、そっと話しかけた。
カテリナは慌てて膝をついて謝辞を述べたが、少し安心したように笑いかけたようだった。
ギュンターはつい、いつシエルと知り合ったのかとカテリナに問いかけようとして、さすがに今日の一番の目的を頭に置き直した。
「ごきげんよう。お招きいただき感謝申し上げますわ、ローリー夫人」
ギュンターがアリーシャに向き直ると、彼女はふんわりとした羽のような水色のドレスを精霊のように着こなし、令嬢の名に恥じない優雅なめくばせと言葉遣いでローリー夫人に応えていた。ギュンターのまなざしに気づくと一礼して、ごきげんいかが、と笑った。
付き合いも長く、人柄もよく知っているアリーシャとは数えきれないほどダンスを踊った。ただ降臨祭の最後のダンスは特別で、ギュンターといえどその言葉を口にするのは緊張した。
ギュンターは一度息を吸って心を落ち着けた。それからアリーシャの席の横に歩み寄ると、一礼して手を差し出した。
「アリーシャ。降臨祭の最後の日、私とダンスを踊ってくれないか」
普段流れるように出てくる美辞麗句も口にする気が起きなくて、ギュンターは最小限の誘い文句を告げた。
ギュンターも自分らしくない、そっけない言葉になってしまった自覚はあった。降臨祭の最後を飾るダンスの相手を頼むには、あまりにあっけなかったと思う。
ただそれが国王陛下の一つの言葉には違いなく、ギュンターを含む周囲の人々はその答えに神経を集中させて聞いていた。
一瞬アリーシャの表情に浮かんだのはまちがいなく喜びだった。まばたきをして、光をたたえた瞳でギュンターを見上げた。
けれど彼女はすぐにそれを哀しい笑顔で覆って言う。
「……それは精霊の願いではないと思います」
ギュンターにはアリーシャが何を言ったのかわからなかった。一つだけ、願いという言葉が耳に残った。
精霊の願いは一つだけ、見たいのは王と最愛の人とのダンスだけ。簡単なその一つのことが、建国以来一度も叶わなかった。
なぜかを知っているのは精霊だけで、国王であるギュンターすら精霊の思いははかれなかった。
「今日はそのことを申し上げに来ましたのよ。わたくしはこれで失礼しますわ」
周囲の貴婦人方も硬直する中、アリーシャは踵を返して扉に向かう。
「アリーシャ様、お待ちください!」
誰も動けなかった中、カテリナが弾けるように叫んでアリーシャを追った。
「待て!」
カティと呼んでから、ギュンターは我に返った。
ギュンターは反射的にアリーシャではなくカテリナを呼び止めてしまった自分に、後で気づいた。
けれどアリーシャとカテリナ、どちらもギュンターの言葉を拒絶するように、扉の向こうに去っていった。
バルコニーに出てアリーシャが空を仰ぐと、一日の終わりの壮大な幕引きが広がっていた。
王城の屋上に続くそのバルコニーは、屋上に旗を飾るときに兵士たちが使うだけの通用路だったから、実はそこで星が綺麗に見えることを知っている者は少ない。
ヴァイスラントでは王族から庶民まで星を見る習慣がある。夕陽が綺麗な日は星も美しく見える夜になると喜ばれる。星の告げること、それはさだめなのだから、国民は吉も凶も受け入れてきた。
知っているわと、アリーシャは澄んだ外気に答えた。星占いで教えられるまでもなく、今日は幸運が降ると知っていた。アリーシャは王家に連なる血筋で、サロンでも理想の令嬢と誉れ高く、陛下自身とも長い付き合いだった。陛下が最後のダンスにアリーシャを誘うのは、まるで公務のような必然だった。
ふいに背後の窓が開いて、慌ただしく足音が近づく。
「アリーシャ様!」
でも人の心はいつだって定めたとおりにいかない。それを証明するように、少年騎士はバルコニーに飛び込んできた。
アリーシャがサロンから立ち去ったのはまだ正午過ぎだった。従者を通して、アリーシャは自邸に帰ったと陛下に言伝ておいた。アリーシャが隠れ家のようなここで日が暮れるまで、文字通りたそがれているとはたぶん陛下も思っていないことだろう。
少年騎士は声をかけたものの、近づくのはためらっているようだった。少しの間があって、言葉を選びながら話しかけてくる。
「立ち入ってしまって申し訳ありません。お部屋の前でお待ちしていましたが、ずいぶん長いこと出ていらっしゃらないので」
アリーシャがようやく振り向くと、あまりに澄んでいて大きな目と目が合った。
降臨祭の前日、陛下にお気に入りの部下ができたらしいと耳にしたのが始まりだった。そのときはまさかその従者がアリーシャの運命まで変えるとは思ってもみなかった。
降臨祭が始まって早々、自室で仕事をしていた陛下を気楽な思いでお忍びに誘い出した。
けれどそこで陛下がその従者に見せたのは、アリーシャには決して見せない表情だった。陛下の態度はアリーシャや他の女性に対するように甘くはなく、だからかえって本心で彼に接しているとわかった。
出会って数日の従者と私、どちらが大事なの。陛下に問いかけるまでもなかったのは、元々陛下がアリーシャに恋をしていないのを知っていたから。
「陛下は何かアリーシャ様に失礼をしてしまったのでしょうか?」
一人になりたいアリーシャを追いかけてみつけてしまう、彼の愚直さに子どもなのかともう少しで怒り出したくなった。でもそれはたぶんアリーシャの方で目を曇らせている。彼のそのまっすぐさは、アリーシャが認めないだけで、人を惹きつける彼自身の輝きに違いなかった。
アリーシャは役者がするように顎を上げて、尊大に笑った。
「私の負けよ」
現に、アリーシャのところまでたどり着いたのはこの少年の力だった。バルコニーに唯一続く部屋の主であるマリアンヌ王妹殿下もアリーシャを一人にしておいたのに、彼だけは突破してきたのだから。
「悔しいわ。誰かに負けたことなんてなかったもの」
アリーシャがせめてもの仕返しに意地悪を言うと、少年はアリーシャの言葉の意味を考え込んだようだった。
陛下からダンスに誘われて、負けとはどういう意味なのか。もしこの少年が陛下くらい鈍かったなら、そう思ったのかもしれない。
でもアリーシャはこの少年を、陛下とは別の性質を持つ者だと知っている。
「あなたは女の子ね」
彼女がはっと息を呑む気配がした。アリーシャが告げた事実は彼女が思うよりたくさんの人が知っていると思うのだが、実際気づいていない人もいるのだから、精霊もいたずらなことをするものだ。
「聞いて」
他ならぬ陛下とかね。アリーシャはさすがにそれについては思うだけにして、負けたボードゲームを振り返るように話を始めた。
「子どもの頃に、ここで初めて陛下に星の見方を教えていただいたの。陛下は自分より小さいもの、弱いものにとても親切でいらっしゃるのね。たぶん他にもたくさん同じことをしていただいた子女はいると思うのだけど、うれしかったわ」
暑さの静まった後の夏の宵、張りつめた空気に星の輝きが際立つ冬の夜、季節は着実に巡っていった。子どもが大人になるように、少女のささやかな憧れが恋心に育っていっても、アリーシャを責められる者はいなかっただろう。
アリーシャは人より意地が強いと自覚していた。身分も容姿も恵まれているとわかっていたから、装いも教養も磨きぬいて、いずれは陛下の横に並ぶのだと思っていた。
ふいにアリーシャは苦笑して、そろそろ見え始めた一番星を仰いだ。
「なんてね。実は星のこと、陛下に教えられるまでもなく大体知ってたのよ。星を教えてくださる殿方だってたくさんいらっしゃるんですもの」
アリーシャも王家に連なる子女、幼い頃から親切にしてくれる大人も言い寄る男性もいた。確かに身分は陛下より上の男性はいないが、陛下よりお顔立ちのいい方も優しい男性も知っている。
「でも陛下だから、教えてもらいたかったのよ……」
星がいくつも空に現れていく。夜の幕開けの前で、アリーシャは自分の中にだけある小さな星のような思い出を見ていた。
いつだったか、陛下には特別な星があると耳にした。アリーシャは興味を惹かれて、どの星なのですか、名前を教えてくださいなと陛下に問いかけた。
ところがそれに対する陛下の反応は、普段の朗らかな態度が嘘のように不機嫌だった。彼は憮然として、めったに見えない六等星だよ、小さすぎてたぶん今日も見えないんじゃないかなと言った。
でもいつからか、陛下に星の見方を教わっているとき、彼が夜空に何かを探していることに気づいた。目を凝らして、時々怒っているような顔もしていた。
後で聞いたのは、その星は陛下が子どもの頃名前をつけたという話だった。だから星読み台で調べれば位置も名前も知ることができたが、アリーシャは陛下から教えてもらうことにこだわって調べなかった。
陛下もいつまでも子どもの頃名付けた星にこだわるはずもないと思っていた。アリーシャはいつしか星の名を訊くのをやめて、陛下も二度と同じ話をすることはなかった。
でも降臨祭が始まった日、陛下と久しぶりに星を見る機会があった。そのときふと隣を見たら、陛下は例の怒ったような顔で星を探していた。
どの星を探しているのですか。思わずアリーシャが問いかけると、陛下はたぶんアリーシャの言葉を聞いていなくて、上の空で独り言をもらした。
……カティ、どうしてくれよう。特別な星を探すのと同じ目をして、陛下はその名前をぼやいたのだった。
たったそれだけのことで、それが好意なのか愚痴なのかも傍からはわからない一瞬だったのに、アリーシャは何だか急に、陛下は普通の一人の男性だと思った。
アリーシャが他にたくさん素敵な人はいたのに陛下に恋をしてしまったみたいに、陛下だって数多の星を見上げながらたった一つの星を探してしまうのだと。
アリーシャは少女騎士を正面からみつめて、残酷な事実を告げた。
「陛下の最愛の人は私じゃない。まだ決まってもいない。だからお断りしただけのことよ」
バルコニーから見下ろせば、あちこちで星を見る人々がいた。中にはアリーシャに気づいて手を振る友達もいて、今日もヴァイスラントはこんなに平和だ。
「私でありたかったわ」
横目で見やると、少女騎士はずっと考え込んでいて、アリーシャを連れ戻すでもなく反論するでもなく、首をふるふると振って、その綺麗な目でくるくると悩んでいるようだった。
陛下の思い、この少女の思い、それを恋というかは精霊しか知らないとして、国王と最愛の人とのダンスは叶うのだろうか。
アリーシャにだってわからなかったが、見上げた空は満天の輝きが始まっていて、今日はどんな小さな星も見えそうな気がしていた。