前国王の仕掛けた馬鹿騒ぎがひと段落した頃、中央広場から少し路地に入った商店街のテラスで、人々はこんがりと焼きあがったとうもろこしとお茶で一服を始めた。
辺境の特産物であるとうもろこしと麦のお茶は、麦のお酒と共に王都でも愛されている。カテリナも夏になると辺境で暮らしている祖父母がたくさん送ってくれるので、屋敷のみんなとおいしくいただくのが定番だった。
しかしギュンターを始めとしたその席の面々はお茶ととうもろこしに手をつけないまま黙っていた。代表としてギュンターが神妙に口を開くまで、立ち入りがたい空気が漂っていた。
「つまり船が難破して半月後には辺境に移り住んでいたんだな」
人々もちらちらと見ているように、国王陛下の休息所として選ばれたレストランのテラスだけは別世界だった。辺りにはとうもろこしとバターが程よく焦げる匂いが立ち込める中、おごそかな事実確認が行われていた。
「名前も身分も偽って、裏街で商いをしていたと」
国王陛下が向き合っているのはヘルベルト・ローリー、彼は行方不明になる二年前までは将軍の地位にあって、国王陛下の盟友でもあった。着任の間は戦争がなかったので軍功こそないが、カテリナの生まれる前に終わった隣国との戦争の後片付けに尽力した人物で、英雄といえばゲシヒト総帥、陰の功労者といえばヘルベルト将軍と並び称されていた。
ふいにギュンターはひとつため息をついて、国王からの指摘というよりは友人の苦言の口調で言った。
「……どうしてもっと早く帰ってこなかったんだ」
ヘルベルトは顔を上げて何か言いかけたが、不自然な距離を空けた隣に座るローリー夫人を横目で見てばつが悪そうな顔をした。その仕草を見て、ギュンターは言葉を続ける。
「一儲けすると言って出航したのに船ごと財産を失って格好がつかなかった、とか言うなよ」
「悪い。半分はそうだ」
「お前な」
「半分はまともな理由もあるんだ!」
呆れ調子で文句を言いかけたギュンターに、ヘルベルトは力を入れて言い返す。
「辺境は海の向こうに近いんだ。精霊の子どもたちの土地がすぐそこなんだ」
ヘルベルトが口にした隣国の呼び名を聞いて、ギュンターは友人が隠れていた理由をやっと理解できた気がした。
かつて戦争に突き進んだ隣国は、ヴァイスラントに敗北宣言をしたのと共に、精霊界にも全面的に門戸を開いた。ギュンターが先日体験した夏の怪奇現象のようなことは日常茶飯事で、動物が話しだすこともあれば、時々は死者も帰って来るのだという。
隣国は境界を越えてしまった。もう自分たちと一緒には暮らせない。ヴァイスラントの人々は亡くした人を想うような寂しさをもって、隣国の人々を見送った。
ギュンターも、隣国の選んだ道は国家や人間としてはもう共存できないと思っている。けれど精霊の子どもたちが自分の心に反したことはできないように、隣国の人々が心のままに選んだ境界の無い世界の生活を否定するつもりもなかった。
ヘルベルトは夢を見るように言葉を続ける。
「二年間、将軍って名前で行ってた頃とは全然違う世界だったんだ。……心配をかけたことはわかってるけどさ」
ヘルベルトはローリー夫人を気にしながら声を小さくした。ギュンターは、そういえば友人はこういう男だったとひっそりとため息をついた。
どこまでも情熱的、ただその熱っぽさのせいでいつまでも少年の心を捨てられず、ギュンターと一緒に学問に励んでいた頃から規則違反ばかりして教師に叱られていた。大人になってからもその基本は変わらず、実際に戦争が起こったらまちがいなく軍法違反で処罰されるとギュンターも心配していた。
どうしたものかとギュンターは口には出さずに頭を悩ませた。二年間国王にも連絡なく無断欠勤したこと、海の向こうには厳正な手続きを取ってから渡らなければいけないところ無断で行き来していたこと、裏町で商いとごまかしたが要するにグレーな仕事をしていたこと、ヘルベルトが処罰される理由は山ほどある。
ギュンターはうなってから口を開く。
「お前は筆頭貴族ローリー家の子息だろう。一族にも仕えてくれる者たちにも責任がある……と私が裁判をする前にだな」
ひとまずギュンターは国王としても友人としても言っておかなければいけないことを言って、同席したものの未だ一言もない女性を見た。
「ローリー夫人。この件で一番ご迷惑とご心配をかけられただろうあなたが、今どう思っていらっしゃるか教えてください」
意見を求められて、黙って夫をみつめていたローリー夫人はうなずいた。ヘルベルトは露骨に肩を緊張させて、子どもが叱られる前のように膝を閉じてローリー夫人をそろりと見返した。
ローリー家は数々の宰相や将軍を輩出してきた名門貴族だ。しかし妻より二つ年下で、屋敷から出発する前には必ずシャツの襟を妻に直されていたというヘルベルトは、結構な数の国民が知っているとおり妻にまったく頭が上がっていなかった。
その妻と夫の力関係のまま、ローリー夫人が怒るなり泣くなりしたら、ヘルベルトも少しはその子どもじみた性格を直したのかもしれない。
ローリー夫人は息を吸って、じろりとヘルベルトを見やる。
「言いたいことはたくさんあるし、後で言うけど」
ローリー夫人はそう断ってから、憮然として両手を差し伸べた。
「……抱きしめて」
ヘルベルトの方が泣きそうな顔で、毎度新婚夫婦の熱の冷めやらぬ二人は、子どもじみた方法で仲直りするのだった。
その一部始終を眺めていたギュンターは、ローリー夫人に最後のダンスをお断りされるのは確定だと思いながら、それでよかったと感じていた。
精霊が望むのは国王と最愛の人とのダンスだが、女性の側からも国王が最愛の人、世間で言う両想いこそが降臨祭の最後にはふさわしいとギュンターだって思う。
ただ、ギュンターははた迷惑な二人の復縁劇を前にして、自分も最愛の人と、こういう馬鹿馬鹿しいくらいのあっけなさで結ばれるのを夢見た。
まったく今の状況では夢見ているだけなのだが、実は十日間くらいその夢は見ている。
カテリナがそっと歩み寄って来て、ギュンターに何かを差し出してくる。
「陛下、使ってください」
目元を押さえて沈黙したギュンターに何を勘違いしたのか、カテリナが渡そうとしたのはハンカチだった。
「要らん。泣きたいのは本当だが」
俺も理由さえ立てば、力いっぱい抱きしめたい人はいるんだがな。
つい三白眼でカテリナをにらんでしまってから、ギュンターは毎度反省するのだった。
午後になり、国王陛下の一行が訪れた劇場街ではどこも精霊にまつわる舞台で盛況していた。
ヴァイスラントの建国のときに現れた精霊は、明るく愛嬌たっぷりの性格をしていて、人々に愛される逸話をたくさん残していた。国王に為政者としての心構えや学問を教えた一方で、趣味は買い食いと水浴びで、王が少し目を離すとパンをくわえてもぐもぐしていたとか、儀式の途中で抜け出して、近所の子どもたちと海で泳いでいたとかいう話がいくつも記録されている。
ギュンターはそんな精霊にまつわる舞台を特等席で観劇しながら遠い目をする。
「最後に精霊とダンスを踊るところが、私へのあてつけのように見えるのは気のせいだろうか」
決まって演劇の最後には、初代国王に扮した俳優と精霊に扮した女優がダンスを踊る。ギュンターが半歩後ろに控えていたカテリナに言うと、カテリナは首を傾げて素直に問い返した。
「精霊が望むのは、国王陛下と最愛の人のダンスなのでは?」
「細かいところは気にしないのがヴァイスラントの国民性だからな」
ちなみに演劇の最後には観客も一緒に踊る決まりで、それを国王陛下にも適用するのがヴァイスラントだった。俳優や女優が舞台から降りてくるのを合図にして、劇場前の通りがダンス会場になる。そんなときは街を練り歩いている楽団が、ダンスにリズムを添えてくれる。
ダンスと音楽は兄弟にたとえられるもので、今日は一日中音楽が止むときはこない。ヴァイスラントの人々はダンスと共に音楽が大好きで、もし楽器がなければ手拍子や歌で応じてくれるのだった。
夜には王城で燕尾服の貴公子と着飾った貴婦人が集って正式な舞踏会が開かれるが、真昼の街でのダンスはもっと自由なもので、服装も客も選ばない。ギュンターは明るい緑色の生地に金糸で刺繍されたサーコート姿ではあるが、踊ることを考えてマントはカテリナに預けてある。いつもより表情も気楽で、ダンスの合間には近衛兵と冗談を言い合っていた。
折りたたんだギュンターのマントを抱えて控えていたカテリナに、ギュンターは気楽に言う。
「行ってくる。カティも踊ってこい。マントは椅子にでも置いておけ」
それを聞いたカテリナは、ふと浮き立つ音楽の中で思っていた。
……今なら陛下と私がダンスを踊っても変じゃないかも。なぜかそんな考えがよぎった自分に、カテリナはぶんぶんと首を横に振った。
男の格好をしている自分、しかもお付きの騎士と国王陛下がダンスを踊ったら変に決まっている。いや、普通とか変とか言う以前に、そんなことを望んでいいとは思えない。
なぜってそれは、と自分に言い聞かせる。
「だって私は今日までしかいないんだよ」
お祭りにふさわしくない言葉は心でつぶやいただけだったのに、家々に幾重にも反響するようにして戻ってきた。
カテリナは人波の中で立ち止まって、違和感に気づいた。人々は踊っているのに、音楽が聞こえない。まるで世界が半分切り取られて壁の向こうに行ってしまったように、カテリナは音のない世界に立っていた。
覆いかぶさるような寂しさに震えると、そんなカテリナに声がかかる。
「大丈夫。ただの幼精のいたずらだよ」
ふいに人波から抜けてカテリナに歩み寄ったのは王弟シエルだった。彼が先ほどまで奏でていたリュートを手で弾くと、遠い残響がどこかで鳴って消えた。
カテリナが以前経験したときと同じで、これも夏の怪奇現象でよく聞くものだったのに、自分の声がきっかけでここに落ちてしまったような気がして怖かった。シエルを見返したカテリナの目にその不安が現れたのか、彼は苦笑してうなずく。
「わかるよ。僕も初めて起こったときは怖かった。……覚えてるかな、星読み台で僕と会ったときのこと」
「で、殿下。無理にお話しいただく必要はありません」
カテリナはそのときのシエルの真っ暗な声を思い出して、触れてはいけない話題だと留めた。あのとき「自分など要らない」と王弟殿下が思いつめた理由はわからないが、日々を楽しめるようになったのなら、それでまた傷ついてほしくない。
シエルはカテリナを優しくなだめて言う。
「いいんだ。僕のそのときの悩みはもう終わったこと。でも今は、君にかかったまじないを解いてあげないと」
シエルは噴水の脇に掛けてカテリナを呼んだ。カテリナは少し迷ってから、そっと彼の隣に腰を下ろす。
辺り一面、ダンスに興じる人々に囲まれているのに、音楽がないだけで独りぼっちのような気分だった。湧き上がる噴水も受け止めてくれる音がないと寂しげだった。当たり前にあるものがない世界で、カテリナは迷子の子どものような顔をしていた。
シエルはため息をついて一言告げる。
「兄上は無神経なんだよね」
いきなりシエルが告げた言葉に大きくうなずきかけて、カテリナは慌ててシエルを見返した。
「あ、君もわかるって顔だ。いや、兄上にいいところはいっぱいあるんだよ。よく考えると優しいとか、これ以上ないくらい面倒見がいいとかね。でももうちょっと気を遣ってほしいって思うときがあるんだよね」
「……女性には気を遣っていらっしゃいますよ」
極めて控えめにカテリナが反論すると、シエルはぷっと笑って言った。
「そう、そこ。兄弟でもそうだったんだよ。子どもの頃、姉上は女の子だし隣国から来たばかりでもあったから気を遣ってたんだけど、男兄弟の僕には投げやりそのものでさ。あんまり腹が立ったから、兄上と口を利かないって決めて」
聞いてよかったのかわからない兄弟喧嘩の真相にカテリナが目を回していると、シエルは苦い顔をして告げた。
「今はかえって僕の方が扱いづらそうにしてる。そんなとき、君が兄上と一緒に星読み台に来た。……出会って数日の君の方が、兄上と打ち解けているみたいに見えた」
カテリナは、それは違うとシエルを見返して首を横に振った。
けれどカテリナが言葉にしなくても、今のシエルは彼の兄のことを理解しているようだった。
「そうじゃない。兄上はずっと、心配そうに僕を見ていたよ。それが当たり前になって、僕が見なくなっただけなんだ」
ふいにシエルはカテリナを見て、その瞳に映る世界の形をのぞくようにして首を傾げた。
「君の十日間の仕事は、じきに鳴る日暮れの鐘で終わる。君を縛ることは、この仕事を命じた姉上にだってできないけど」
カテリナがふいに瞳に浮かべた寂しさを見て、シエルは笑った。
「本当に見えないかな。もう君はみつけてると思うんだけど。……僕がそれを証明してみせるよ」
シエルはカテリナを引き寄せて、抱きしめながら頬にキスを落とした。
好き。音のない世界でシエルの声だけが響いて、カテリナは頬を紅潮させながら言っていた。
「ごめんなさい! 私、好きな人がいるんです!」
瞬間、子どもの口笛のような音が聞こえて、世界が生まれ変わるように音楽が溢れかえった。
陽気なリズムと人の笑い声、足音さえもにぎやかで、カテリナは全身でそれを受け止めた。
そんなカテリナとシエルを見て、ギュンターだけが「あ」という口のまま停止した。シエルはくすっと笑って、カテリナの頭をぽんと叩く。
「うん。知ってる」
幼精のいたずらは、キス一つで簡単に解ける。
それは建国のときの王弟殿下、つまり初代星読み博士が発明した伝統的な方法だったが、国王陛下に大誤解を招いたようだった。
シエルは晴れやかに笑って、またカテリナの額にキスを落とした。
「だから意地悪したくなったんだ」
とはいえこれも、伝統的なヴァイスラントの兄弟喧嘩の一幕なのだった。
夜の始まりを告げる鐘が鳴ったとき、人々から上がった歓声とは裏腹にカテリナの心は力なくしぼんだ。
カテリナは夜になったらお休みを取らせてほしいと頼んでいて、王妹マリアンヌは残念そうではあったものの許してくれた。
けれど国王陛下にも伝えてあるそのことに後悔に似た感情を持っていて、ギュンターを見上げた自分が浮かない顔をしていた自覚はあった。
ちょうど国王陛下のために門扉は開かれ、彼は今まさにそこの主人として王城に立ち入る直前だった。
カテリナが見上げれば王城の室内は星々の海のように灯りがともされ、庭を挟んだ城門には次々と馬車が到着しつつあった。ここからは昼間のように騎士の警護は必要なく、陛下はただ選ばれた貴公子と貴婦人に囲まれて祭りの最高潮を迎えるのだろう。
ギュンターは一呼吸考えて、たぶん用意していたらしい精一杯の言葉をくれた。
「そんな顔をしなくていい。君は十日間よくやってくれた」
めったになかった優しい言葉を惜しみなく与えてくれたのも、本当に最後の夜なのだと悲しくなった。カテリナはにじみそうになる目を伏せて、早口にギュンターに言葉を返す。
「僕は結局、陛下が最後のダンスを踊るのを見届けることができませんでした」
「いいんだ。君のおかげで、私は今までこんなに楽しい十日間を過ごしたことはなかった」
無数の人々の生活を背負い、数えきれない人々のために仕事をしてきた彼は今一騎士のためだけに立ち止まって、ねぎらいの言葉を選んでくれた。
「ありがとう。カティ、握手をしてくれるか」
手を差し伸べられて、カテリナは言葉に詰まった。自分こそ、どれほどのことを陛下に教えてもらったか知れない。
鐘は鳴り続け、ヴァイスラント中が喜びの時を待つ。まもなく精霊はやって来る、愛する人の手を取る準備はできているかと、優しく人々を急かしているようだった。
カテリナがギュンターの手を掴むと、大きな手が彼女の手を包み込んだ。その温かさに胸がいっぱいになって、カテリナはぽろっと涙が落ちた。
遠くには、城門から入ってくるたくさんの人々とは逆に、王城から歩いて出ていく父の背中が見えた。今日一日、馬鹿騒ぎの最中では騎士団の従者たちさえ踊っていたのに、父が踊っている姿はついに見ることができなかった。
父が踊ったのは、子どもの頃、カテリナに母の踊り方を教えたときだけだった。父にとってダンスは母とのかけがえのない思い出の一部で、他人とは共有しない神聖なものなのだった。
カテリナのまなざしの先に気づいたのか、ギュンターは彼女の手を離す代わりに、彼女の帽子の上から優しく頭を叩いた。
「行きなさい。君の最愛の人のところに」
カテリナが顔を上げたとき、ギュンターは国王でも上司でもない顔をしていた気がした。
カテリナは精一杯の敬礼をして、振り向かずにそこを立ち去った。十日間の思い出に何度も胸が熱くなって、頬をつたってくるものは止められなかったが、立ち止まったりはしなかった。
実家に着くと、父は祭りに出かける衣装をいくつも用意して待っていてくれた。総帥にまでなったのに、父は自分の服を未だに数えるほどしか持っていない。けれどカテリナが男の格好の他にも、家でくつろぐときや近所に出かけるときには女の子の服も着たいだろうと、カテリナのためには服や装飾品にお金をかけることを惜しまないのだった。
カテリナは祭りの衣装を着る前に、父に用意していた言葉を告げた。
「お父さん、今日は私と踊ってくれる?」
母がお忍びのときに着ていたというワンピースを前に、カテリナは少しだけ緊張しながら父にねだった。
父は一瞬驚いた顔になって、照れくさそうに問い返す。
「……踊ってくれるのか」
「お父さんがよければ」
父は大きくうなずいて言った。
「嬉しいよ。ああ、本当だ。お父さんと踊ってくれ」
「うん! ちょっと待っててね!」
カテリナも笑い返して白いワンピースを手に取ると、隣室に飛び込んで急いで支度をした。
着替えて戻ってきたカテリナに、父はもぞもぞと言葉を濁す。
「カテリナちゃん、そのスカートはちょっと足が見えすぎじゃないかい?」
「そうなの? チャールズは、お母さんが初デートのときに着たらお父さんがすごく喜んでたって」
「それは……ほら、パパもまだ若かったから」
普段男装しているカテリナは、夏なら手足が見えるなど日常茶飯事なのであまり気にしていなかった。女性で手足が見えると注目の的だということをどう教えようかゲシヒトが迷っていると、カテリナは潔く決めてしまう。
「ん、これにする! 侍女のみんなも似合うって言ってくれたし」
うなずいて見守っていたチャールズは、だからカテリナに似合うから心配なんだってとゲシヒトが言いたかったことは知っていたが、こういう機会でもないとカテリナがそれを着てくれないので黙って見送ることにしたのだった。
一歩街に出ればそこは真昼のようなにぎやかさで、すぐにカテリナと父も祭りの一部になった。ひたすら買い食いをするのもよし、一晩中踊りあかすのもよし、降臨祭は国民に何も強いるものではない。
父に甘く浸けたりんごのお菓子を買ってもらって、野菜のお面を被って、河畔に出たら星を見上げる。またたく星々は落ちてきそうなほどたくさん輝いていて、カテリナは父に問いかけた。
「今日は奇跡が降る夜なんだって。でも奇跡って見たことないな。どんなものなんだろ」
「そうだな。めったに降るものじゃないからなぁ」
父はカテリナの隣で星を見上げながら黙った。
涼しい風が流れたとき、父は飛来した思い出に口を開かされたようだった。
「でもパパは奇跡、見たことあるよ。……カテリナが生まれた夜だ」
カテリナが振り向くと、父はカテリナには見えないものをみつめるように目を細めていた。
「リリーは体が弱かったから、子どもは無事に生まれないと言われていたんだ。ひどい難産で、夜遅くになっても生まれなくて、リリーも苦しそうなのに、どうしてやったらいいのかもわからなくて」
ふいに父はカテリナを見下ろして笑った。
「そんな心配なんて嘘みたいに、カテリナは突然、元気いっぱいに飛び出してきたんだよ。大きな声で泣いて、いっぱい食べて、病気もしない。まっすぐで、いつでも前を見て走っていく。パパはさ」
父の声が震えて、彼は目をにじませながら指先で目をこすった。
「そりゃ嬉しいよ。カテリナが踊ってくれたら。ずっと一緒にいてくれたら。いつまでもパパのところに帰ってきてくれたら。……でも、パパはさ」
カテリナの肩に手を置いて、父は言葉に詰まりながら言った。
「……同じくらい、カテリナがパパのところから元気に飛び出してくれるのだって、うれしいんだよ」
カテリナが息を呑んだとき、父は懐から何かを取り出してカテリナに差し出した。
「ごめんね。何度もカテリナが引き出しを開くのをつい見ちゃってさ」
父はカテリナがギュンターからもらった星の金貨を彼女の手に包むと、その上から大きな手で包み込んだ。
男性の手、けれどそれに包まれるときの気持ちが違うのに気づいて、カテリナはまだ揺れる目で父を見上げた。
「カテリナはパパの仕事の邪魔をしちゃいけないって、周りにパパのこと黙ってきたね。でもパパはカテリナのことでどんなこと言われたって仕事してみせるし」
父はうなずいてカテリナを見つめ返す。
「……そんなことよりパパは、カテリナに自分の望むように生きてほしいよ」
そのときに父の手から流れ込んだものは、きっと勇気という名前のものだった。
河畔に止まった馬車が開いて、現れたチャールズは帽子を取るなりにっこりと笑った。
何度も考えたのに、どうしても思い出せない。ギュンターはまたふとそう思って、意識が浮くような気持ちになった。
王城の大広間には大輪の花びらのように壁一面に灯りがともり、中央の階段を下りた先には正装に身を包んだ貴公子や貴婦人たちが集う。歴代の王の肖像画が彼らを見下ろすと共に、ギュンターも現在の王としてヴァイスラントの繁栄をみつめていた。
ギュンターは精霊が本当に現れるかどうかより、この十日間を人々が楽しんで幕を閉じるならば、それが何よりだと思っていた。精霊との約束を果たすのが国王としての責務だが、歴代の王が誰一人果たしたことがないそれを、この平和な時代にたまたま在位している自分が果たせるかというと、どうも自信がない。
王弟シエルはそんなギュンターに近づくと、困ったなという風に言った。
「兄上、上の空でいらっしゃいますね」
グラスを渡して弟が苦笑交じりにからかったのはもっともで、ギュンターは舞踏会が始まってからというものまだ一度も踊っていなかった。本来なら国王のダンスを合図に始まるものだというのにシエルに代行してもらったほどで、まったく踊ろうという気がないのだ。
ギュンターはうなってぼそりと言う。
「考えるべきことも、やるべきことも山ほどあるんだがな」
やる気とかそんな子どもの言い訳みたいなことを言っている場合ではなく、星読み台や王族や重臣たち、そして名も知らない数々の国民が国王と最愛の人のダンスを望んでいるのだから、ギュンターはそれを果たす義務がある。実際、ギュンターも十日間そのゴールに向けて努力してきたし、真剣にダンスの相手を考えたはずだった。
ところが今の自分ときたらどうだ。完全に言い訳だが彼女が側を去ったその瞬間から、ダンスのことなんて考えたくもなくなってしまった。正直眼下で踊る人々も、為政者の慈愛の心で見るどころか、いいよな相手がいる奴はそりゃ楽しかろうとどこかの負け犬のような目で見ていて、玉座に座ったまま腰が上がらない。
最愛の人のところに行きなさいなどと格好つけるんじゃなかった。精霊のように夜空をくるりと回せるのなら、彼女の手を握ったときに時を戻したい。
ギュンターは考えることにも嫌気がさして、お手上げ状態で告げた。
「マリアンヌ、私はもう国王として駄目だ。代理で最後のダンスを踊ってくれ」
隣の席の妹にこぼした言葉は、笑えるほどに本音だった。今夜、抜け殻のように玉座についた時点でその結末は見えていた。
泣き言を告げたふがいない兄に、マリアンヌは隣の席で奇妙なほどゆっくりと振り向いた。一呼吸分だけため息をついて、おもむろに答える。
「……怒るわよ」
一瞬、その声とまなざしはマリアンヌのものではないように感じた。ギュンターが息を呑んだとき、一番近くの壁で灯っていた灯りが消える。
宵闇にまぎれこんだ風が草原をなでていくように、静かに燭台の灯りが消えていく。はじめはざわめいた人々も、訪れた暗闇は不思議と恐ろしいものではなく、まもなく広間は水に広がった波紋が溶けていくように静けさに満ちた。
眠りに落ちる直前のように、ギュンターはまたふと考えていた。彼女と……カティと初めて出会ったときのことを。
これほど頭を占めている存在が初めて現れたときなのだから、それは劇的なものだと思うのだが、どうにもその瞬間が思い出せない。
ギュンターがマリアンヌと何か話していて、カティはその間に他の仕官と混じって部屋に入ったらしい。カティという名前はマリアンヌから紹介があったと思う。あいさつくらいはしたはずで、最初は普通にギュンターの警護をしていた。
でも気が付けばギュンターが書類仕事を言いつけて、半分叱っていたが、言葉を交わすようになった。ギュンターとしては、あまり良くは思われていないと自覚していた。カティが自分を見るまなざしは女性が男性を好むものではなかった。ギュンターだって、仕事なのだからそれでいいと思っていた。
……嘘を言うなと、一体いつ自分の本音に気づいたのだろう。事あるごとにカティを構うシエルや元上官がうらやましいと、足踏みするくらいに悔しく思ったはずではなかったか。
ふいに風は動きを変え、大広間に息吹のように吹き込んでくる。
「みなさん! 大丈夫ですか!?」
一つだけ灯った燭台を持って大広間に飛び込んできた少女を見て、ギュンターは最初のときなど別にどちらでもいいのだと気づいた。
少なくとも、美しい少女を見染め、出会ってすぐ惹かれ合った、そんな恋物語の始まりじゃなかった。
紅茶色の大きな澄んだ目を持つ、小柄で、時にへんてこな誤解をするまっすぐな騎士。いつの間にかギュンターの日常に転がり込んできた少女、それがギュンターにとって無性に愛おしいのだと、ただ認めるときが来たのだった。
そのとき、暗闇が晴れ渡るように開けた。
ギュンターは果てなく続く草原で、無数の星が降る音を聞いていた。冷えてはいないのに意識は冴え渡り、周りに人はいないのに喧噪に包まれていた。
そこに満ちているのは歌のような息吹のような風で、ギュンターの周りをくるくると回って、笑っているようだった。
ギュンターの前に進み出て、彼女は言う。
「陛下、僕……いいえ。私の秘密と嘘を聞いてくださいますか」
けれどギュンターが今聞きたいのは彼女の声だけで、みつめたいと願うのも、宝石もくすむような星々の光ではなく、そこに立つ彼女の澄んだ瞳だけだった。
「ああ。……ただその前に一つ、俺の願いも聞いてくれるか」
せっかく華やかに装った白いドレスに灰をこぼして、しかも子どもみたいに鼻の頭に黒いすすまでつけた彼女は、ギュンターが問いかけると、一瞬不思議そうに大きな目を見開いた。
彼女は母親譲りのその容姿で、女性の格好をしたら精霊のような光をまとうのだが、ギュンターは今も彼女のそういうとぼけた表情の方が何百倍も可愛いように思う。
「カテリナ・バルガス嬢」
胸に手を当てて一礼をすると、ギュンターはいつからか彼女にだけ言いたかった言葉を告げた。
「私と最後のワルツを踊ってくれませんか?」
幸い真夜中の鐘が鳴る前で、もっと幸いだったのは、そんなギュンターにカテリナは照れくさそうに手を預けたことだった。
星降る草原の中で、二人はダンスを始めた。はじめはぎこちなく、裾を踏みそうになったり、リズムをまちがえたり、軽やかとはとてもいえないダンスだった。
失敗のたび二人で顔を見合わせて、時にむっとして、うまくいったときは思わず笑って、ダンスは続いていく。
いつしか音楽に合わせて人々がダンスを踊る王城の中に戻ってきていても、二人はお互いの手を離さないまま踊っていた。
「で、黙っていたことと、嘘をついていたことだが」
ギュンターがいつものように不愛想に切り出すと、カテリナはかえって安心して口を開いた。
「いつから気づいていらっしゃったんですか? 私がゲシヒト総帥の娘で、女性だということ」
「アリーシャに振られた辺りから」
「えっ!」
本気でダンスの足を止めかけたカテリナを回転させて、ギュンターは遠い目をする。
「遅すぎたくらいだと思うが? ゲシヒト総帥は毎日顔を合わせてる重臣だし、君は華奢すぎる。当然、気づいていたのは俺だけじゃないと思うが」
ギュンターが舞踏会の中に通した最小限の近衛兵たちを振り向くと、彼らは一様に深くうなずいてみせた。
「……まじめに悩んだのに」
思わずカテリナがへこむと、ギュンターは付け加えた。
「まあ名前は父上の馬鹿げた挑戦状で最終日にようやくわかったし、君が隠していることをわざわざ言うつもりはなかったがな」
くるりと回転、軽くステップ、ワルツは彼らの十日間の奮闘などどこ吹く風で続く。
ふとまた燭台の灯りが一つ消えて、カテリナがそちらを見た時、マリアンヌの微笑みに出会った。
精霊界ではみんな一緒にいられるから、もう会いに行く必要はなくなったんだけど。いつかのように半分切り取られた世界から、カテリナの耳に声が届く。
でもね、どうしても子どもたちの運命を変えたいときが今もあるから。あなたたちの人生って、ヴァイスラント公国のワルツみたいに長いし。
まだまだがんばって。じきに忙しないくらいにぎやかな贈り物がいっぱい届くから、楽しみにしててね!
マリアンヌの声のようでそうではない声はそれきり消えて、カテリナは白昼夢のような瞬間から覚めた。
「どうした?」
「あ……」
ギュンターに問いかけられて、カテリナはぽつりとつぶやいた。
子どもの頃の記憶はあいまいで、それははっきりと確信を持てるものではなかったけれど、カテリナは言葉を口にしていた。
「……お母さんの声に似てたような」
カテリナはそう言ったものの、長いことで有名なヴァイスラントのワルツはまだ半分残っていて、すぐに次のステップに気を取られた。
その夜、流星群と共に精霊もあらゆるところで目撃情報が語られたが、精霊の言葉はしばらく星読み台にも解読できなかった。
けれどその日カテリナの耳に届いた言葉の意味は、一年後に妃となったカテリナのお腹に触れていたとき、奇跡的にギュンターが閃いて解明したのだった。
国民のことを広く知るのは良いことと、国王ギュンターは毎朝仕事はじめにひととおり民の発行する新聞にも目を通している。
「「アリーシャ嬢への公開求婚者数がついに二十人を突破。お相手予想の決戦投票はローリー夫人のサロンにて。」……構わんが、敗れた男にもそれなりに配慮してくれるように願おう」
日々国王の下に届く新聞には、国民の関心事が載っている。ヴァイスラント国民は素直に関心のあるところに熱狂して、それが時々残酷な気もする。
「「海辺の新ハイリゾートオープン! 星読み台に次ぐ愛のスポットとなるか!?」……素晴らしいな。もっとやってくれ」
ギュンターが新聞をめくると、美男美女の姿絵とともに新しい娯楽施設が宣伝されている。ギュンターは言葉の内容とは裏腹に、ふてくされたようにぼやいた。
「「結婚前のお泊り、親に申告する? しない? 本社調査では、しない派が九割を占めた」……」
「兄上、お気持ちは察しますが、どんどん業務とは逸れていますよ」
朝の紅茶をたしなみながら、向かいの席で同じように新聞に目を通していた王妹マリアンヌがついに進言した。
ギュンターは新聞を折りたたんで黙った。マリアンヌは多少そんな兄を不憫そうに見ながら言う。
「会えないんですね、カティに」
「……こんなに接点がなかったとは知らなかった」
ギュンターは頭を押さえてぼそぼそとつぶやく。
「カティは勤務中には一切執務室から出てこない。昼休みは最小限の動きで食堂に行くだけだし、勤務が終わったら速やかに帰宅。アフターファイブに飲みに行ったりサロンに出入りするなんてこともない。休日はほぼ自宅で家族との時間を最重要視している」
「完璧にカティの動きを把握していらっしゃる」
「真面目ないい子なんだ。模範すぎて涙が出る。……だが」
ギュンターはそこにカテリナがいるように三白眼でにらむ。
「精霊との約束だった最後のダンスを踊ったんだ。お忍びどころか仲睦まじく公式に二人で一緒に出かけて、何だったら泊まりもして、しかるべき時に結婚する仲のはずだ。久しぶりに会ったと思ったら、「父が残業続きだから早く帰ってお粥を作ってあげないと」は無いぞ」
「ゲシヒト総帥は無人島に漂着しても、手斧一つで無事生還した人ですからね」
マリアンヌは一応兄に同意してから、そろりと言い返した。
「ただ、カティは一般的なヴァイスラント国民よりだいぶ奥手で純粋でしょう? そういう少女だから惹かれたのだと、兄上だってわかっていらっしゃるはず」
「……まあそれを言われると痛いんだが」
アリーシャ嬢やローリー夫人のような社交的で手慣れた女性たちだったら、今のような悩みはなかっただろうとギュンターも思う。けれど今となってはカテリナ以外を選ぶなど考えもつかないわけで、だからこそ早くカテリナを捕まえてしまいたいのだが、ここのところすれ違ってばかりなのだった。
「また私の座っているここに異動させれば手っ取り早いですが」
「それは二度としない」
「あら」
マリアンヌが意外そうに眉を上げると、ギュンターはむくれたように、とはいえ固い意志をもって告げた。
「俺はカティを部下にしたいわけじゃない。伴侶にしたいから、距離を守ってるだけだ」
椅子から立ち、窓辺でたそがれた兄の背中を見て、マリアンヌは苦笑する。
「強がりはほどほどに。恋をしたら、誰だってルール違反ばかりするものですよ」
ギュンターは妹の言葉を耳に痛く聞きながら、たぶん今日も澄んだ大きな目をした少女の姿ばかり探しているのだろうなと思ったのだった。
ぱたぱたと聞き覚えのある足音を聞いて、ギュンターは自然と心が弾むのを感じていた。
「遅くなりました!」
ギュンターの執務室の扉を勢いよく開いて、カテリナは息せき切って飛び込んできた。
カテリナの手には旅行鞄、頭には子どもが夏休みに被るような麦わら帽、ただその格好は白いワンピース姿だった。ギュンターは露わになったカテリナの足に喜ぶのは止められなかったが、表向きは不機嫌そうな顔を作る。
「確かに遅かったな」
「上官と室長と執事と父と家のみんなに許可を取っていたので」
「まったくお忍びになってないが、まあいいだろう。あと、まずはこれを着ること」
ギュンターはここまでカテリナがその白い足を人目にさらしてきたことを許せないと思いながらも、ひとまず彼女にマントを着せかけてそれ以上の露出を防いだ。
夏もじきに終わり、大きな祭りも大方終わっているが、カテリナとギュンターにはまだ消化していない夏休みがある。ギュンターはカテリナに手紙を送って、その休みを一緒に取らないかと誘ったのだった。
同じ王城で働いているのに通信手段は手紙、しかもカテリナの側は全然忍んでいないお忍びだが、とりあえず二人で新しい海辺のリゾートに泊りがけ旅行をすることになっている。
「陛下、怒っていらっしゃるんですか?」
カテリナはその素直さと一緒に持っている繊細さでギュンターの表情を見て取って、申し訳なさそうに問いかけた。
ギュンターはカテリナに会ったら山ほど言いたい文句があった。父を始めとした家族に比べて自分の扱いときたらどうだ、君は国王の想い人としての自覚はあるのか、そんな無防備な短いスカートで走ってきて、俺にどうしろと言うんだ、などなど。
「馬鹿、うれしいだけだ」
ギュンターは目を逸らして早口に言うと、ほら、と手を差し出した。不思議そうにその手を見たカテリナに、ギュンターは急かす。
「手を貸せ。それから、今後俺のことはギュンターと呼ぶように」
まばたきをしたカテリナの手をつかんで、ギュンターはもう片方の手で荷物を奪った。
じわじわと赤くなるカテリナを横目で見て、ギュンターはふと考える。
「……さて、どこまでしていいんだ」
思わず願望を口にしてしまって、カテリナに聞きとがめられる前に歩き始める。
頭の中を巡る欲望は星の数ほどあるが、たぶん今回の旅行で叶うのはほんの一部だろう。ギュンターにはそれだけは確信があるが、ふいに星が降る日があるように、ヴァイスラントではいつ運命が動き出すかはわからない。
それは星のまたたく夜に二人で出かけた、そんな日常のひとときだった。