夜の始まりを告げる鐘が鳴ったとき、人々から上がった歓声とは裏腹にカテリナの心は力なくしぼんだ。
カテリナは夜になったらお休みを取らせてほしいと頼んでいて、王妹マリアンヌは残念そうではあったものの許してくれた。
けれど国王陛下にも伝えてあるそのことに後悔に似た感情を持っていて、ギュンターを見上げた自分が浮かない顔をしていた自覚はあった。
ちょうど国王陛下のために門扉は開かれ、彼は今まさにそこの主人として王城に立ち入る直前だった。
カテリナが見上げれば王城の室内は星々の海のように灯りがともされ、庭を挟んだ城門には次々と馬車が到着しつつあった。ここからは昼間のように騎士の警護は必要なく、陛下はただ選ばれた貴公子と貴婦人に囲まれて祭りの最高潮を迎えるのだろう。
ギュンターは一呼吸考えて、たぶん用意していたらしい精一杯の言葉をくれた。
「そんな顔をしなくていい。君は十日間よくやってくれた」
めったになかった優しい言葉を惜しみなく与えてくれたのも、本当に最後の夜なのだと悲しくなった。カテリナはにじみそうになる目を伏せて、早口にギュンターに言葉を返す。
「僕は結局、陛下が最後のダンスを踊るのを見届けることができませんでした」
「いいんだ。君のおかげで、私は今までこんなに楽しい十日間を過ごしたことはなかった」
無数の人々の生活を背負い、数えきれない人々のために仕事をしてきた彼は今一騎士のためだけに立ち止まって、ねぎらいの言葉を選んでくれた。
「ありがとう。カティ、握手をしてくれるか」
手を差し伸べられて、カテリナは言葉に詰まった。自分こそ、どれほどのことを陛下に教えてもらったか知れない。
鐘は鳴り続け、ヴァイスラント中が喜びの時を待つ。まもなく精霊はやって来る、愛する人の手を取る準備はできているかと、優しく人々を急かしているようだった。
カテリナがギュンターの手を掴むと、大きな手が彼女の手を包み込んだ。その温かさに胸がいっぱいになって、カテリナはぽろっと涙が落ちた。
遠くには、城門から入ってくるたくさんの人々とは逆に、王城から歩いて出ていく父の背中が見えた。今日一日、馬鹿騒ぎの最中では騎士団の従者たちさえ踊っていたのに、父が踊っている姿はついに見ることができなかった。
父が踊ったのは、子どもの頃、カテリナに母の踊り方を教えたときだけだった。父にとってダンスは母とのかけがえのない思い出の一部で、他人とは共有しない神聖なものなのだった。
カテリナのまなざしの先に気づいたのか、ギュンターは彼女の手を離す代わりに、彼女の帽子の上から優しく頭を叩いた。
「行きなさい。君の最愛の人のところに」
カテリナが顔を上げたとき、ギュンターは国王でも上司でもない顔をしていた気がした。
カテリナは精一杯の敬礼をして、振り向かずにそこを立ち去った。十日間の思い出に何度も胸が熱くなって、頬をつたってくるものは止められなかったが、立ち止まったりはしなかった。
実家に着くと、父は祭りに出かける衣装をいくつも用意して待っていてくれた。総帥にまでなったのに、父は自分の服を未だに数えるほどしか持っていない。けれどカテリナが男の格好の他にも、家でくつろぐときや近所に出かけるときには女の子の服も着たいだろうと、カテリナのためには服や装飾品にお金をかけることを惜しまないのだった。
カテリナは祭りの衣装を着る前に、父に用意していた言葉を告げた。
「お父さん、今日は私と踊ってくれる?」
母がお忍びのときに着ていたというワンピースを前に、カテリナは少しだけ緊張しながら父にねだった。
父は一瞬驚いた顔になって、照れくさそうに問い返す。
「……踊ってくれるのか」
「お父さんがよければ」
父は大きくうなずいて言った。
「嬉しいよ。ああ、本当だ。お父さんと踊ってくれ」
「うん! ちょっと待っててね!」
カテリナも笑い返して白いワンピースを手に取ると、隣室に飛び込んで急いで支度をした。
着替えて戻ってきたカテリナに、父はもぞもぞと言葉を濁す。
「カテリナちゃん、そのスカートはちょっと足が見えすぎじゃないかい?」
「そうなの? チャールズは、お母さんが初デートのときに着たらお父さんがすごく喜んでたって」
「それは……ほら、パパもまだ若かったから」
普段男装しているカテリナは、夏なら手足が見えるなど日常茶飯事なのであまり気にしていなかった。女性で手足が見えると注目の的だということをどう教えようかゲシヒトが迷っていると、カテリナは潔く決めてしまう。
「ん、これにする! 侍女のみんなも似合うって言ってくれたし」
うなずいて見守っていたチャールズは、だからカテリナに似合うから心配なんだってとゲシヒトが言いたかったことは知っていたが、こういう機会でもないとカテリナがそれを着てくれないので黙って見送ることにしたのだった。
一歩街に出ればそこは真昼のようなにぎやかさで、すぐにカテリナと父も祭りの一部になった。ひたすら買い食いをするのもよし、一晩中踊りあかすのもよし、降臨祭は国民に何も強いるものではない。
父に甘く浸けたりんごのお菓子を買ってもらって、野菜のお面を被って、河畔に出たら星を見上げる。またたく星々は落ちてきそうなほどたくさん輝いていて、カテリナは父に問いかけた。
「今日は奇跡が降る夜なんだって。でも奇跡って見たことないな。どんなものなんだろ」
「そうだな。めったに降るものじゃないからなぁ」
父はカテリナの隣で星を見上げながら黙った。
涼しい風が流れたとき、父は飛来した思い出に口を開かされたようだった。
「でもパパは奇跡、見たことあるよ。……カテリナが生まれた夜だ」
カテリナが振り向くと、父はカテリナには見えないものをみつめるように目を細めていた。
「リリーは体が弱かったから、子どもは無事に生まれないと言われていたんだ。ひどい難産で、夜遅くになっても生まれなくて、リリーも苦しそうなのに、どうしてやったらいいのかもわからなくて」
ふいに父はカテリナを見下ろして笑った。
「そんな心配なんて嘘みたいに、カテリナは突然、元気いっぱいに飛び出してきたんだよ。大きな声で泣いて、いっぱい食べて、病気もしない。まっすぐで、いつでも前を見て走っていく。パパはさ」
父の声が震えて、彼は目をにじませながら指先で目をこすった。
「そりゃ嬉しいよ。カテリナが踊ってくれたら。ずっと一緒にいてくれたら。いつまでもパパのところに帰ってきてくれたら。……でも、パパはさ」
カテリナの肩に手を置いて、父は言葉に詰まりながら言った。
「……同じくらい、カテリナがパパのところから元気に飛び出してくれるのだって、うれしいんだよ」
カテリナが息を呑んだとき、父は懐から何かを取り出してカテリナに差し出した。
「ごめんね。何度もカテリナが引き出しを開くのをつい見ちゃってさ」
父はカテリナがギュンターからもらった星の金貨を彼女の手に包むと、その上から大きな手で包み込んだ。
男性の手、けれどそれに包まれるときの気持ちが違うのに気づいて、カテリナはまだ揺れる目で父を見上げた。
「カテリナはパパの仕事の邪魔をしちゃいけないって、周りにパパのこと黙ってきたね。でもパパはカテリナのことでどんなこと言われたって仕事してみせるし」
父はうなずいてカテリナを見つめ返す。
「……そんなことよりパパは、カテリナに自分の望むように生きてほしいよ」
そのときに父の手から流れ込んだものは、きっと勇気という名前のものだった。
河畔に止まった馬車が開いて、現れたチャールズは帽子を取るなりにっこりと笑った。
カテリナは夜になったらお休みを取らせてほしいと頼んでいて、王妹マリアンヌは残念そうではあったものの許してくれた。
けれど国王陛下にも伝えてあるそのことに後悔に似た感情を持っていて、ギュンターを見上げた自分が浮かない顔をしていた自覚はあった。
ちょうど国王陛下のために門扉は開かれ、彼は今まさにそこの主人として王城に立ち入る直前だった。
カテリナが見上げれば王城の室内は星々の海のように灯りがともされ、庭を挟んだ城門には次々と馬車が到着しつつあった。ここからは昼間のように騎士の警護は必要なく、陛下はただ選ばれた貴公子と貴婦人に囲まれて祭りの最高潮を迎えるのだろう。
ギュンターは一呼吸考えて、たぶん用意していたらしい精一杯の言葉をくれた。
「そんな顔をしなくていい。君は十日間よくやってくれた」
めったになかった優しい言葉を惜しみなく与えてくれたのも、本当に最後の夜なのだと悲しくなった。カテリナはにじみそうになる目を伏せて、早口にギュンターに言葉を返す。
「僕は結局、陛下が最後のダンスを踊るのを見届けることができませんでした」
「いいんだ。君のおかげで、私は今までこんなに楽しい十日間を過ごしたことはなかった」
無数の人々の生活を背負い、数えきれない人々のために仕事をしてきた彼は今一騎士のためだけに立ち止まって、ねぎらいの言葉を選んでくれた。
「ありがとう。カティ、握手をしてくれるか」
手を差し伸べられて、カテリナは言葉に詰まった。自分こそ、どれほどのことを陛下に教えてもらったか知れない。
鐘は鳴り続け、ヴァイスラント中が喜びの時を待つ。まもなく精霊はやって来る、愛する人の手を取る準備はできているかと、優しく人々を急かしているようだった。
カテリナがギュンターの手を掴むと、大きな手が彼女の手を包み込んだ。その温かさに胸がいっぱいになって、カテリナはぽろっと涙が落ちた。
遠くには、城門から入ってくるたくさんの人々とは逆に、王城から歩いて出ていく父の背中が見えた。今日一日、馬鹿騒ぎの最中では騎士団の従者たちさえ踊っていたのに、父が踊っている姿はついに見ることができなかった。
父が踊ったのは、子どもの頃、カテリナに母の踊り方を教えたときだけだった。父にとってダンスは母とのかけがえのない思い出の一部で、他人とは共有しない神聖なものなのだった。
カテリナのまなざしの先に気づいたのか、ギュンターは彼女の手を離す代わりに、彼女の帽子の上から優しく頭を叩いた。
「行きなさい。君の最愛の人のところに」
カテリナが顔を上げたとき、ギュンターは国王でも上司でもない顔をしていた気がした。
カテリナは精一杯の敬礼をして、振り向かずにそこを立ち去った。十日間の思い出に何度も胸が熱くなって、頬をつたってくるものは止められなかったが、立ち止まったりはしなかった。
実家に着くと、父は祭りに出かける衣装をいくつも用意して待っていてくれた。総帥にまでなったのに、父は自分の服を未だに数えるほどしか持っていない。けれどカテリナが男の格好の他にも、家でくつろぐときや近所に出かけるときには女の子の服も着たいだろうと、カテリナのためには服や装飾品にお金をかけることを惜しまないのだった。
カテリナは祭りの衣装を着る前に、父に用意していた言葉を告げた。
「お父さん、今日は私と踊ってくれる?」
母がお忍びのときに着ていたというワンピースを前に、カテリナは少しだけ緊張しながら父にねだった。
父は一瞬驚いた顔になって、照れくさそうに問い返す。
「……踊ってくれるのか」
「お父さんがよければ」
父は大きくうなずいて言った。
「嬉しいよ。ああ、本当だ。お父さんと踊ってくれ」
「うん! ちょっと待っててね!」
カテリナも笑い返して白いワンピースを手に取ると、隣室に飛び込んで急いで支度をした。
着替えて戻ってきたカテリナに、父はもぞもぞと言葉を濁す。
「カテリナちゃん、そのスカートはちょっと足が見えすぎじゃないかい?」
「そうなの? チャールズは、お母さんが初デートのときに着たらお父さんがすごく喜んでたって」
「それは……ほら、パパもまだ若かったから」
普段男装しているカテリナは、夏なら手足が見えるなど日常茶飯事なのであまり気にしていなかった。女性で手足が見えると注目の的だということをどう教えようかゲシヒトが迷っていると、カテリナは潔く決めてしまう。
「ん、これにする! 侍女のみんなも似合うって言ってくれたし」
うなずいて見守っていたチャールズは、だからカテリナに似合うから心配なんだってとゲシヒトが言いたかったことは知っていたが、こういう機会でもないとカテリナがそれを着てくれないので黙って見送ることにしたのだった。
一歩街に出ればそこは真昼のようなにぎやかさで、すぐにカテリナと父も祭りの一部になった。ひたすら買い食いをするのもよし、一晩中踊りあかすのもよし、降臨祭は国民に何も強いるものではない。
父に甘く浸けたりんごのお菓子を買ってもらって、野菜のお面を被って、河畔に出たら星を見上げる。またたく星々は落ちてきそうなほどたくさん輝いていて、カテリナは父に問いかけた。
「今日は奇跡が降る夜なんだって。でも奇跡って見たことないな。どんなものなんだろ」
「そうだな。めったに降るものじゃないからなぁ」
父はカテリナの隣で星を見上げながら黙った。
涼しい風が流れたとき、父は飛来した思い出に口を開かされたようだった。
「でもパパは奇跡、見たことあるよ。……カテリナが生まれた夜だ」
カテリナが振り向くと、父はカテリナには見えないものをみつめるように目を細めていた。
「リリーは体が弱かったから、子どもは無事に生まれないと言われていたんだ。ひどい難産で、夜遅くになっても生まれなくて、リリーも苦しそうなのに、どうしてやったらいいのかもわからなくて」
ふいに父はカテリナを見下ろして笑った。
「そんな心配なんて嘘みたいに、カテリナは突然、元気いっぱいに飛び出してきたんだよ。大きな声で泣いて、いっぱい食べて、病気もしない。まっすぐで、いつでも前を見て走っていく。パパはさ」
父の声が震えて、彼は目をにじませながら指先で目をこすった。
「そりゃ嬉しいよ。カテリナが踊ってくれたら。ずっと一緒にいてくれたら。いつまでもパパのところに帰ってきてくれたら。……でも、パパはさ」
カテリナの肩に手を置いて、父は言葉に詰まりながら言った。
「……同じくらい、カテリナがパパのところから元気に飛び出してくれるのだって、うれしいんだよ」
カテリナが息を呑んだとき、父は懐から何かを取り出してカテリナに差し出した。
「ごめんね。何度もカテリナが引き出しを開くのをつい見ちゃってさ」
父はカテリナがギュンターからもらった星の金貨を彼女の手に包むと、その上から大きな手で包み込んだ。
男性の手、けれどそれに包まれるときの気持ちが違うのに気づいて、カテリナはまだ揺れる目で父を見上げた。
「カテリナはパパの仕事の邪魔をしちゃいけないって、周りにパパのこと黙ってきたね。でもパパはカテリナのことでどんなこと言われたって仕事してみせるし」
父はうなずいてカテリナを見つめ返す。
「……そんなことよりパパは、カテリナに自分の望むように生きてほしいよ」
そのときに父の手から流れ込んだものは、きっと勇気という名前のものだった。
河畔に止まった馬車が開いて、現れたチャールズは帽子を取るなりにっこりと笑った。