ゲシヒト・バルガス総帥、彼ほど星読み台に憎まれ、国民に愛されている人はいない。
彼は精霊の定めた運命をころころと変えて、誰も予想していなかった未来に着地してきた。
生まれた辺境の村でいつものように農作業をしていたところ、侵略してきた隣国の正規軍を斧一つで打ち負かしてしまったことに始まり、その後の隣国との戦で軍功を上げるかと思いきや、敵国の将軍も感涙するほど無駄な犠牲を嫌い、その結果として隣国の農村化という歴史学者も首を傾げるような現実に至った。
彼が天命に導かれた英雄か、ただ目の前のことに愚直に進み続けた農夫なのかは置いておいて、彼の後半の功績が隣国の王姉であったカテリナの母に恋をして、ただ彼女と結婚したいという個人的願望からの行動であったのは、カテリナだけでなく国民の大体が知っている。
星読み台の一室で、またもそんなゲシヒトの行動に振り回されている人々がいた。
王弟シエルは羊皮紙から顔を上げたものの、すぐに突っ伏すように頭を垂れた。
「何度見ても運命が変わってる。またゲシヒト総帥のせいなのか」
シエルがため息をついたのも無理はなく、ゲシヒトは星読み台が日夜力を尽くして読み解いた運命を朝飯前に変えてしまう。あらかじめ運命を定めた精霊も、ゲシヒトが突き進んだ先にある未来を見て「案外悪くないかも」と考えてしまっている節がある。
王妹マリアンヌは弟より強かった。目にしたものを受け入れずに跳ね返した。
「だめよ、シエル。今回こそは運命を変えられるわけにはいかないの」
まだ太陽が高く、本来の仕事が始まる前の星読み台でも、既に彼らの戦いが始まっていた。シエルが算式で導いた星の運命にも、王妹マリアンヌは断じて抵抗する心づもりだった。
「国王陛下は降臨祭の最後の日、最愛の人とダンスを踊る。私たちはその約束を果たさないと。……カテリナ」
「は」
カテリナは国王陛下にも隠している弟妹殿下の二人だけの密談の時間に、どうして自分が呼ばれているのかさっぱりわからないながらも、恐縮して頭を下げた。
「今日を含めて、降臨祭もあと四日です。私が陛下に引き合わせた三人の令嬢はわかったかしら?」
マリアンヌの問いかけに、カテリナは少し迷ってから告げた。
「二人でしたら、わかりました。アリーシャ嬢とローリー夫人ですね」
「もう一人もわかっているはずよ」
「で、でもそれは」
カテリナはごくんと息を呑んで言葉に詰まった。
カテリナが傍目にもわかるほどうろたえていると、シエルもくすっと笑って言葉を添えた。
「姉上のお考えはわかるな。本命が陛下を好きになってくれるように、いろいろ演出したんだろう」
「ええ。彼女は今回みたいな特別な機会を用意しないと、たぶんいくら王城に勤務していても陛下に接触しようとしなかったのですもの」
くるくると目を回して考えているカテリナに、ね、とマリアンヌは親しみをこめて呼びかけた。
「私はあなたをずっと前から知っていて、きっと陛下もあなたを気に入るとわかっていた。私のいたずらは、半分は成功したと思うの」
ふいにマリアンヌは青い瞳を輝かせて問いかける。
「カテリナ、今の気持ちを教えて。……陛下と最後のダンスを踊ってくれる?」
その言葉を聞いたとき、カテリナの中で小さな子どもが泣き出すような感覚があった。
だめ、それはだめ。小さなカテリナはわがままを言うように叫んで、どうしてと問いかける大人のカテリナの声をかき消した。
母の肖像画の前、大きな背中を丸めて震えていた父、みつめることしかできない自分。いつのことかは忘れてしまったのに、記憶の底に張り付いて離れない。
自分の手に涙が落ちた感覚で目が覚めた。カテリナと気づかわしげに声をかけられて顔を上げる。
「あ、あの、私にできることなら何なりとします」
カテリナは慌てて涙を拭って、けれどまだ溢れてくる涙に喉を詰まらせながら言った。
「た、大変な名誉とわかっています。でも、それでも私は……最後のダンスは、父と踊りたいのです」
姫君の言葉にきちんとした返答をと考えているのに、心は子どものような拙い言葉でカテリナの気持ちを告げさせた。
「私にとって最愛の人は父ですから」
最愛の人とダンスを踊るのは国王だけに決められたもので、一国民のカテリナはそのとおりにする必要はない。
それでもカテリナは、どうしても降臨祭の最終日に父とダンスを踊りたかった。二度と最愛の人に会うことの叶わない父に、一人でその日を過ごしてほしくなかった。
うつむいて黙ったカテリナは、マリアンヌとシエルの戸惑いの気配を感じていた。ダンスは王族にとっては儀式の一つで、カテリナの子どものわがままのような気持ちが伝わったかは定かでなかった。
シエルはマリアンヌをなだめるように見ると、彼はカテリナに言った。
「無理にとは言わないよ。ダンスの相手を選ぶのはその人次第だ。喜びを相手に伝えるダンスが哀しい儀式に変わってしまうのは、精霊の望むところじゃない」
シエルは助け舟を出したが、ちょっと考え込む時間があった。
カテリナもうつむいたまま考えていると、シエルは再び口を開く。
「でも僕は不思議に思う。精霊が、女の子を泣かせるような運命を選ぶかな」
シエルは席を立ってカテリナの椅子の前に屈むと、彼女と目線を合わせて言った。
「ゲシヒト総帥はよく運命を転じる。今回もそうなのだと思う。今運命のサイコロは転がっている最中なんじゃないかな」
顔を上げたカテリナと目が合うと、シエルは不思議な労わりを彼女に送ってみせた。
「そう、あと四日もあるんだよ。もうちょっと運命と踊ってもいいはずだ」
シエルがマリアンヌを振り向くと、王妹殿下は弟の言葉に少し考えたようだった。
ただマリアンヌは王に次ぐ立場から、確かな気がかりは口にしてみせた。
「星は今日動きを変えた。今のままでは国王陛下と最愛の人のダンスは叶わない」
シエルは星読み仕官として事実にうなずくと、マリアンヌはふいに責任を取り払ったような苦笑を浮かべた。
「……でも、運命は星が決めるもの。星に任せましょう」
マリアンヌは一息ついて、いたずらっぽくカテリナに目配せした。
「今夜もゲシヒト総帥にダンスパーティの招待状を送ってあるの。ぜひいらして」
カテリナはその言葉に慌てたが、マリアンヌはシエルと顔を見合わせて楽しそうに笑っていた。
カテリナが半日の星読み台への出張から戻ると、王城はあちこちで補強工事をしていた。
板を張ったり、通路を封鎖したり、仮設の雨どいを作ったり、手慣れた工事風景に、カテリナはなるほどと思う。
カテリナが工事現場を避けながら会議室に辿り着くと、終業時間に国王陛下その人から注意喚起があった。
「明日は昼から夜にかけて嵐になる。みな、安全第一で、極力外に出ないように」
ヴァイスラント公国の夏の風物詩として、必ず一度は大嵐が来る。古くは屋根が吹き飛んだり浸水したりと一大事だったのだが、星読み台の天気予報の精度が上がってからは国民も事前に対策できるようになったので、それほどひどい被害にはならない。
「あとは、くれぐれも飲みすぎないように。以上」
それより国王陛下自らお言葉をくださる理由は、陽気なヴァイスラント国民の常として、一日外に出られないとなると家の中で馬鹿騒ぎをする悪癖があるからだった。
「は」
それは王城に勤める者たちも同じで、みなしおらしく頭を垂れたものの、大手を振るって景気よく騒げる一日に内心浮かれているのがカテリナにも見て取れた。
いそいそと解散する仕官たちの顔が笑っているのを横目に、国王陛下はため息をついて腰を下ろした。みな退出した頃を見計らってカテリナが帰城の報告をしようと歩み寄ると、ギュンターはしれっと先に言葉を投げる。
「星は、私が最後のダンスを踊れないと告げただろう」
図星を指されてカテリナが言葉に詰まると、ギュンターは懐から手紙を取り出して見やった。
「そうだろうな。メイン卿のご令嬢に今夜のダンスパーティへお誘いの手紙を送ったが、卿から断りの手紙を受け取ったところだ」
カテリナは直立不動のまま、表情には混乱をありありと出していた。カテリナが仕官学校に入るとき、履歴書の身元保証人欄にはチャールズ・メイン卿と記している。メイン卿のご令嬢のことをご存じかと聞かれたらどうしようと、カテリナは冷たい汗を流した。
「まあいいか。メイン卿のご令嬢でないのは知っていることだし。……カティ」
ところがギュンターはその話題をあっさりと切り上げて、語気を強めてカテリナに言った。
「どうせ夜勤を引き受けた君に言っておくが、今回の嵐は大きいからな。急いで補強工事をしたとはいえ、王城の中もあちこち危ないところがある。明日は無理に出勤するんじゃないぞ」
いいなと念を押して、ギュンターはまだ少し未練がありそうな顔でチャールズから受け取った断り状に目を戻した。
カテリナは一礼して退出したが、彼女も先ほど父から手紙を受け取ったところだった。「今夜のパーティどうするの?」と伝書鳩を飛ばしたところ、父は「行かないもん。どうせカテリナちゃん夜勤するんでしょ」と拗ねきった返事だった。
恐れ多くも国王陛下と王妹殿下からのお誘いを行かないもんで片付ける父はどうかと思うが、カテリナも父との関係を伏せている以上、父と公の場に出るつもりはなかった。それより嵐の予報を聞くと万が一災害になったときに備えて、夜勤を引き受けるカテリナだった。
食堂で軽く夕食を取り、宿直室に入って仮眠を取ろうとしたが、まだ暗くならないうちから騎士団の詰め所で騒ぐ声が聞こえてきていた。みんなお酒好きだなぁと眠るのをあきらめてベッドから起き上がり、靴を磨いていたとき、ノックの音が聞こえた。
「カティ、ちょっと入ってもいいですか」
懐かしい呼び声を聞いて扉を開けると、騎士団の室長とウィラルドがそこにいた。この室長の「ちょっと」は良くない知らせの前触れだが、見上げた室長もウィラルドも苦笑しながら明るい顔をしていた。
「水をください。詰め所はだいぶ出来上がっていましたのでね」
頼まれてカテリナが二人に水を差し出すと、二人は礼を言ってそれを飲み干した。
ヴァイスラントの夏の常として、干し草を編んだ敷物の上で靴を脱いでそこで涼む。ただ明日の嵐に備えて窓は閉めてあって蒸し暑かった。
室長は既に中年に差し掛かる年だが、名門貴族の出だからか扇で仰いでいても実にお似合いの仕草だった。彼は一服すると、涼しげに切り出す。
「実は、あなたに再度の異動の話がありまして」
「あ、あの。室長」
カテリナは騎士を辞めることを伝えるなら今だと思った。女性であることも、総帥の娘であることも隠したまま騎士でいるのは限界を感じていると、騎士になったときからカテリナを見守ってきてくれた室長になら打ち明けられるような気がした。
室長はカテリナをみつめて、諭すように優しく言葉を続けた。
「私はあなたが何か話したがっている気配は感じていました。隠していることがあるとも。……でもそれは、国王陛下もお気づきになったのですよ」
カテリナが息を呑むと、室長は彼女が出張している間の出来事を話してくれた。
「今日、国王陛下が私とウィラルドを直々に呼び出しになり、「カティは真面目で一生懸命勤めているが、いつも周りに何かを隠している素振りがある」と仰っていました。「もし騎士でいることに生きづらさを感じているなら、私から文官や星読み仕官へ異動できるようはからうが、どう思うか」と」
国王陛下がそのように心配を抱いていたとは、カテリナは少しも気づかなかった。彼は今日だって明日の注意事項を手短に伝えただけで、カテリナ自身に問いかけたりはしなかった。
でも彼がカテリナのことを見ていなかったなら、明日嵐の中を出勤するなと念を押したりもしなかった。たった数日間側にいただけでも、カテリナの性格をよくわかっているのだった。
「まあ、ウィラルドがきっぱりお断りしてしまったのですが」
「え?」
カテリナがきょとんとしてウィラルドを振り向くと、彼は憮然として言った。
「「カティは騎士になりたくてなりたくて、一生懸命がんばってようやく騎士になったんです。隠し事が何ですか。誰もそんなこと気にしちゃいません」と言った」
「国王陛下に対して無礼ではありましたが、熱意は伝わったと思いますよ」
室長が苦笑交じりに言ったのも、カテリナは心の奥がぎゅっと絞られるような思いで聞いていた。
ためらいながら、ずっと問いかけたかった本音をぽつりと口にする。
「僕は……このままでもいいんですか?」
カテリナがウィラルドを見上げて震えると、彼はぼやくように言った。
「俺は間違ったことを言ったか?」
瞬間、カテリナは胸に迫った感情のままウィラルドに抱きついていた。
偽りを誰かに弾劾されるのを恐れていた。でも、それでいいと言ってくれた。ありがとうの言葉も喉の奥でぐしゃぐしゃになって、ただぎゅっとウィラルドにしがみつく。
「ちょ、カティ!」
動揺するウィラルドの声に、どっと部屋になだれ込んでくる同僚たちの声が重なる。
「ウィラルド、これで男になったつもりか?」
「数年上官やったくらいで、俺たちのカティをものにできると思うなよ!」
「次に異動させられるのお前だからな!」
聞き耳を立てていたらしい同僚たちは乱暴にウィラルドをカテリナから引きはがして、馬鹿騒ぎに巻き込んでいく。
景気よく抜かれる酒瓶の音、立ち込める酒気につまみの匂い、騎士団の夜は陽気に更けていく。
カテリナは今まで彼女を取り囲んでいて、偽りの自分さえも包んでいてくれる日常に、ちょっと泣きながら笑っていた。
夜勤明けの朝はいつもより遅くとも許されているのだが、その日はカテリナが目を覚ましたときもまだ暗かった。
起きる時間をまちがえてしまったのだろうかと窓を開けて中庭の花時計をのぞいたが、陽射しがまったく照っていないからか何の時間も示してはいなかった。雨も降っていなければ風も吹いていないのに、空は塗りつぶされたように黒く、不気味なくらいに辺りは静かだった。
騎士団の詰め所を見に行くと、昨夜の馬鹿騒ぎが利いたのか同僚たちは雑魚寝状態で眠っていた。カテリナは彼らを起こさないようにそっと扉を閉めて詰め所を後にすると、宿直室に戻った。
食堂はもう閉まっている時間のはずなので昨日買いだめしたパンで朝食を終えて、支度を整えて上層階に向かった。
昨日、国王陛下から王城に勤める者たちに事実上のお休みが言い渡されたからなのだろうが、それにしても誰ともすれ違わないのは奇妙だった。あちこち通行止めで遠回りをしたからか、カテリナの知る王城でもないようだった。
水槽の中を歩くような、どこか現実味のない気分で陛下の執務室に入ると、陛下だけは普段通りに仕事をしていた。
カテリナは当たり前の光景に安心して、あいさつの声をかけようとしたところで立ち止まる。
普段、カテリナが隅の机とセットで使っている椅子が、陛下の机の前に移動していた。今日はその椅子にかけて陛下の前で仕事をしている女性がいた。
王妹マリアンヌは陛下と言葉を交わすでもなく、分け隔てなく国民に見せる微笑もなく、ただ事務的に書類に加筆しては陛下に返していた。対する陛下も、マリアンヌの顔も見ずに書類を受け取り、手短に書類に目を通しては印を押すという動作を繰り返していた。
カテリナは恐ろしく素早く、感情を挟まない国王陛下と王妹殿下の執務風景を今初めて見たわけではなく、二人が良き仕事のパートナーであることは知っていた。ただ王妹マリアンヌは普段、国王陛下から外交を任されて大使たちの相手をしているから、こうして机に向かって国王陛下と事務仕事をしているのは珍しかった。
カテリナが声をかけられなかったのは、そこに兄妹の無二の信頼を見ていたからだった。マリアンヌが諸外国に誇る才媛であるのはずっと知っていた。けれど国王陛下が自分に一番近い椅子を誰のために用意しているのか、突然理解したのだった。
そうだった、私に対するようにイライラする必要も、言葉を尽くして教える必要もない。……王妹殿下は、生まれながらの姫君だもの。
ふいにギュンターが顔を上げて、立ちすくんでいたカテリナを見た。
「おはよう。カティ、危ないところを通ってこなかっただろうな」
今空を覆う雲のようにカテリナが重い気持ちに押しつぶされそうになっていたとき、ギュンターが苦笑交じりに声をかけた。
まるで子ども扱いの言葉に普段ならむっとするはずが、はいとだけ答えて、カテリナはしょげて壁際に立った。
ギュンターはそんなカテリナに一瞬眉を上げたものの、席を立ったマリアンヌに目を移して言う。
「おっと、そろそろ昼だったか」
「ええ。風も出てきたようです。私は今のうちに自室に戻りますが……」
マリアンヌはふと窓の外を見て足を止めて、何事か思いをめぐらしたようだった。
「何か見えたか?」
問いかけた兄に、マリアンヌは考え事から覚めたような顔をして、首を横に振って微笑む。
「何でもありません。では、陛下。夜勤明けのカティさんにあまり無理をさせないよう」
マリアンヌはいつも通りの気配りを見せた後、悠として去っていった。
十年に一度の大きさの嵐という星読み台の知らせは確かなようだった。マリアンヌが去ってまもなく、窓を激しい雨が打ち、王城自体も風にあおられて少し揺れ始めた。
普段晴れ晴れとしたカテリナの心の中も、自分が座っている席が本来自分の席ではないと思うにつけ、曇り空が一向に晴れなかった。
「カティ、どうした。意見したいときは言えばいいんだぞ」
ギュンターが以前なら苛立つところでぎこちない声音で言ったことも、やっぱり自分は未熟なんだと落ち込んだ。
ギュンターはじろりとカテリナを見て言う。
「そろそろわかっていると思うが、俺は言われなければ気づかない人間なんだ。そんな俺でも最近気づいたが、君は呑みこんだ言葉がたくさんあるな?」
彼は目を上げて揺れたカテリナの目をとらえると、仕事の話をするようでそうでもないことにも触れた。
「君は言わないだけで思ってることがたくさんあるはずだ。もっとそれを口に出していい」
そう言われて、カテリナはなんだかむずかゆい感情に背中を押された。カテリナには子どもの頃から周りに隠していることがたくさんあったから、素直な反面、自分を守るために言葉を呑み込む癖もあった。早いうちから父に心配されていたそれを、出会って十日も経たないギュンターにも気づかれていると思うと、少し怖いようでうれしくもあった。
カテリナは一度うつむいてぽつりと言う。
「マリアンヌ様のように陛下を支えられる方は、きっと他にいないのだと思って」
「マリアンヌ?」
思わずカテリナが心に抱いた言葉をそのまま見せると、ギュンターはまったく想像していなかったことを言われたように目をまたたかせた。
カテリナが黙ってうなずくと、カテリナがどういう意図でそれを告げたのかギュンターにも伝わったらしい。
ギュンターはぷっと吹き出して、頬杖をついて言う。
「ははっ! 考えたこともなかったな。付き合いが誰より長いのは確かだが、マリアンヌは妹だぞ?」
「でも、精霊との約束は……!」
最愛の人とのダンスなんですと、カテリナが言葉にしようとしたとき、隣室で物音が響いた。
とっさに騎士としての役目を思い出してカテリナが隣室に走ると、今日はどこも閉じられているはずの窓が開け放たれて雨が入り込んでいた。
「殿下!」
そこに降り込んでくる雨に濡れながら立ちすくむ姫君をみつけて、カテリナは古い記憶を思い出していた。
今は多くの国民が忘れかかっていることだが、王妹マリアンヌは幼い頃、崩壊しかかっていた隣国から亡命してきた姫君だった。先王と先王妃は実の子と分け隔てなくマリアンヌを育て、ギュンターとシエルもそれを受け入れてきたから、マリアンヌも完全にヴァイスラントに馴染んでいるように見える。
それでもカテリナは同じように他国からやって来た母が心に残していたものがあるのだと、父やチャールズから聞いて育ってきた。
カテリナは雨の中に揺れるものを示して言う。
「……ツヴァイシュタットの旗が心配なんですね。私がお取りしますから、お待ちください」
マリアンヌが食い入るようにみつめる先、そこに彼女が幼い日に隣国から持ってきた旗が揺れていた。
ヴァイスラントの精霊は人々に好意的だが、隣国ツヴァイシュタットで信じられていた精霊は元々人間に敵対する恐ろしいものだった。隣国では、精霊が描かれた物は大切に扱わなければ人々に災いをもたらすと言われていた。
数十の旗の中で、黒髪に青い瞳の精霊の横顔が描かれた隣国の旗は、風にあおられて今にも破れてしまいそうだった。カテリナはどうにかマリアンヌを説得して下がらせると、雨の中ベランダに出る。
旗はベランダの外に向かってしなっていて、身を乗り出さないと手は届かないようだった。カテリナはベランダの端に移動して、少し背伸びをしながら虚空に手を伸ばす。
「カティ! 馬鹿、何をしてる!」
「大丈夫です! こういうことは得意なんです!」
背後でギュンターの怒声が聞こえたが、雨音にかき消されそうだった。カテリナは構わずベランダから身を乗り出しながら答える。
いつか父が母に言っていた。人が忘れ掛かっていて気に留めなくなっているものでも、誰かが大切に思っているのなら、それはまだ必要なものだから。大切なものを抱くように、手に取って守ってあげなさい。
昔、母が隣国から持ってきた物たちを捨てられずにいたとき、父がそう言って母を受け入れたように、カテリナもマリアンヌの心を守りたかった。
「……よし。これで……!」
やっとカテリナが旗をつかみ、引き寄せようとしたとき、頭上で雷鳴がとどろいた。
城が大きく揺れたのと共に、世界が落ちてくるような衝撃があった。
「カティ!」
ギュンターの腕がカテリナの体を抱えて部屋の内に引き込んだのと、どちらが先だったか。
荒くれた風に巻き込まれて旗が折れたのを見たのを最後に、カテリナの視界も反転した。
精霊は悪だと言われている国もあるが、星読み台を通じて精霊と長い交流をしてきたヴァイスラントでは、それは誤解だというのがほとんどの国民の考えだった。
男女の別がなく、人より遥かに長い時を生きる精霊は、人には理解できないものを理解していることもあれば、一方で人が気にすることを全然気にしていなかったりする。精霊とすれ違う原因は、精霊が人とは違う世界にいるために、人にとっては常識のようなことを知らないためだと言われていた。
星読み博士が言うには、精霊は幼い子どものようなところがあって、何かを一生懸命伝えようとしているのだが、その方法が独創的なので、昔は長年混乱したのだそうだ。
カテリナがそう思っていた頃、ギュンターも遠い目をして同じことを思ったらしい。
「たぶんこれが、噂に聞く幼精のいたずらなんだな」
ギュンターが渋い顔をしたのも無理はなく、先ほどからカテリナと彼は二人きりで国王陛下の執務室に閉じ込められている。
精霊の仕業だとわかったのは、本来あるはずの扉も窓も消えて、側にいたはずのマリアンヌの姿が見えないからだった。
カテリナはちょっと弾んだ声でギュンターに返す。
「「今外に出るのは危ない」って教えてくれたんですよ。さすが精霊、徹底してますね」
カテリナも、こういうことは星読み台発行の特集新聞でも、単に夏の怪奇現象としてもよく聞かされていた。それを初体験できたことの興奮から拳を握りしめて主張すると、ギュンターは呆れ顔でぼやいた。
「喜ぶな。大体は時間が経てば解けるというが、精霊の機嫌を損ねたらどうなるか知れんぞ」
大人しく座っていろと言いつけられて、カテリナはしぶしぶ隅の事務机に戻った。
そうは言っても幼精は細部にはこだわらないらしく、ギュンターとカテリナの手元に書類はなかった。怪奇現象の中でも仕事をしようとした生真面目な二人の希望は打ち砕かれて、ギュンターとカテリナの間に微妙な空気が流れた。
仕方なくギュンターの方が先に仕事をあきらめて、執務室に飾られている肖像画の前を歩く。
先王と先王妃は数年前に生前退位して、今は辺境で田舎暮らしをしている。だからまだ肖像画には覆いがされず、ギュンターの希望で、彼と二人の弟妹、先王と先王妃の国王一家がそろった肖像画が飾られていた。
「カティ、こちらに」
普段は背を向けている肖像画をギュンターは時間をかけてみつめると、ふいにカテリナを呼んだ。
カテリナが側に近づくと、ギュンターは並んで描かれた自分とマリアンヌを見ながら言った。
「すまなかったな」
「え?」
「ツヴァイシュタットの旗は、俺が気づくべきことだった」
少しの沈黙の後、それが真の精霊の狙いだとしたら相当手練れなのかもしれないが、ギュンターは普段被っている国王の仮面を外して、ただの兄の顔を見せた。
「どうして忘れていたんだろうな。マリアンヌが初めてやって来たとき、あの子はなかなか旗を手放そうとしなかった。昔から弱音一つ言わない子だったが、考えてみれば少し前までは戦争をしていた敵国に、両親から引き離されてやって来たんだ。心細くないはずがなかったのに」
カテリナはギュンターの苦い表情に、それが国王という公の立場では言いづらいことなのだと察した。
思い返せばマリアンヌはギュンターの私室にはほとんど出入りしなかった。アリーシャでも仕事中に訪れていたのだから、ギュンターの仕事のパートナーであるマリアンヌなら日常的に来訪してもおかしくなかった。
カテリナは、マリアンヌが自分を初めてギュンターのところに連れてきたときも、最小限のことを告げて去っていったマリアンヌを見ている。
「聞き分けの良すぎる子なんだ」
ギュンターは苦い声音で続ける。
「マリアンヌとは喧嘩一つしなかった。いつもマリアンヌが引き下がった。弟のシエルのように、わかりやすく反抗してはくれない」
ギュンターは頭を押さえてうなった。カテリナは手元に握ったままの、折れたツヴァイシュタットの旗を見下ろして、たぶんそうなのだろうと思った。
確かに王妹殿下はこの旗を気にしていることさえ口に出さなかった。たぶん幻想から覚めた後も、折れたことに文句一つ言わないだろう。
どうしたらと考えて、カテリナはふと心によぎったことを口にしていた。
「いたずらしてみたらどうでしょうか」
ギュンターが訝しげにカテリナを見て、彼女はひらめいた考えを続ける。
「マリアンヌ様がこの国にいらしたとき、陛下がマリアンヌ様に星の金貨を渡したニュースはみんな知ってます。マリアンヌ様が受け取らずに、列席者で一番幼かったアリーシャ様に譲ったのも話題になりました」
カテリナは容貌といい仕草といい、どこから見ても完璧な姫君として描かれたマリアンヌを見上げながら言う。
「誰より公正で、慈悲深いマリアンヌ様をいじめてはだめです。だからちょっといたずらするだけでちょうどいい。……降臨祭の最後の日、マリアンヌ様を突然ダンスに誘ってみたらどうでしょう」
「い、いや待て」
ギュンターは慌てて言葉を挟む。
「精霊との約束がかかった公式行事だぞ」
「心配ご無用です。精霊はそういういたずらが大好きです」
建国のときから伝わる数々の逸話に基づいて、カテリナは胸を張って断言する。
「国民一同、前夜祭から二日間かけて踊りに踊るんですから。その間陛下が妹君と踊っても僕たち国民は全然構いませんし、それが最後の方でも、いっそ本当の最後になっても、たぶんみんな自分のダンスに夢中で気づきませんよ」
カテリナはくすっと笑って肖像画を仰ぐ。
「降臨祭は、大切な人に言葉で想いを伝えるのが下手な人のために、精霊が特別な時間をくれるんじゃないでしょうか」
どこかで子どもが口笛を吹くような音が聞こえて、カテリナの視界がくるりと回転した。
精霊が見せる幻想はあるきっかけで、夢から覚めるようにあっけなく解けるという。カテリナもまばたきをしたときには、扉も窓もあるいつもの国王陛下の執務室にいた。
そこにはマリアンヌもいて、にこにこしながらカテリナとギュンターを見ていた。
「陛下、もう大丈夫ですからお離しください」
それより幻想の直前にそうだったようにギュンターが両腕でカテリナの体を抱き寄せていて、しかもマリアンヌの御前だった。
「あ、ああ。無事か、カティ」
「は、はい」
ギュンターが慌てて腕を解くと、カテリナも焦りながら一歩離れてわけもなく腕をさする。
微妙な沈黙と距離を取っている二人に、マリアンヌから声がかかる。
「ありがとう、カティ。もう少し遅ければ折れていたかもしれません」
マリアンヌに言われてカテリナが腕の中の旗を見ると、それは雨風に濡れてはいるものの無事なままだった。
カテリナは不思議な心地でギュンターを見やると、彼も夢から覚めたようにまじまじと見つめ返した。
「小降りになってきましたね。雨雲も、じきに海の向こうに帰るのでしょう」
マリアンヌが雲間から差し込む光に目を細めて言う。
降臨祭の八日目、子どもがわがままを叫ぶようにヴァイスラント中を吹き荒れた嵐は、こうして去っていったのだった。
建国のときに精霊がまたやって来ると約束した日、それが降臨祭の最終日と決められている。
初代国王は騒ぐことが大好きなヴァイスラントの国民性は当然知っていて、最終日から数えて十日間を降臨祭としたわけだが、公式見解では最終日以外はただの祝日だ。現在の国王ギュンターも、別段降臨祭に便乗して国民に何かの義務を課すつもりはないのだった。
しかしそんな良心的な国王の下、ヴァイスラント国民はのびのびと降臨祭を満喫していて、いつの間にか国民の手によって公式行事を創設することに成功していた。
「ということですので、陛下。早速サロンへお出ましください」
最終日の前日の朝、いつものように執務室で仕事を始めようとしたギュンターの下に、ある重臣が訪れて進言した。
ギュンターはむっつりと顔を引き結んで言う。
「どういうことかわからない上に、私は忙しいのだが」
「お忙しくはないはずです。昨日、マリアンヌ様が大方片付けてくださったとのことですから」
ギュンターが毎度心の中で舌打ちするこの重臣、ゲシヒト・バルガス総帥は、元が農夫であったとは思えないほど理詰めで動く男だった。
ギュンターはじろりとゲシヒトを見て言う。
「何より私はその行事について聞かされていない」
「はっ……申し訳ございません! 失念しておりました」
大いなる到達点に向けてあらゆる困難を乗り越えて進み、その過程で肝心なところをすっ飛ばすところなど、さすがカテリナの父親でもあった。
ゲシヒトは熊のような体躯を小さく丸めて謝罪する。
「私の責任です。荷物をまとめて午後にでも辺境に帰ります」
「帰るな、卿よ。あなたにはやってほしい仕事がまだ山ほどあるんだ」
その気概は大いに国を盛り立ててくれたのだが、未だに新米騎士並みの素直さで仕事に当たるので、ギュンターは彼の前でうっかり舌打ちもできないのだった。
「わかった。いや、何もわかってはいないがわかったことにして話を進める。私は何をすればいいんだ?」
ギュンターが油断したのは、いつもヴァイスラント国民が創設する公式行事はそんなに手間がかからないためだった。大体何か食べるか踊るかのどちらかで、国王たるものその程度の余興はたやすくこなしてみせなければならない。
ゲシヒトはすっきりと過去の苦難は忘れる性質で、陛下が同意してくださったと晴れやかにうなずいて言った。
「陛下には召し上がっていただきたいものがございます」
ゲシヒトは満面の笑顔で、ギュンターを導いて歩き出した。
彼が向かったのはローリー夫人のサロンで、衛兵が扉を開くとそこは一面ピンク色の世界だった。
花もカーテンもピンク、天井からひらひら下がるリボンも実に少女趣味で、イベントならではだった。ヴァイスラントの国民はこういう形から入る盛り上がり方が好きなので、ギュンターも慣れていた。
「ローリー夫人があちこちにお声がけくださいましたので、朝から大変盛況しております」
精霊が好きだったというピンク色の牛乳でも飲めばいいのだろうかと、気楽な気持ちで辺りを見回していると、普段とは違う濃密な香りがギュンターを包んだ。
ギュンターは何の香りだろうとは思ったが、女性陣が集まるところにはよくあるような気がして、別段不審には思わなかった。
「こちらへどうぞ。ローリー夫人がお待ちです」
それはそうと、ゲシヒトは熊のような見た目に反して繊細な心配りができる男で、流れるようにギュンターを席に導いて、ローリー夫人への代理のあいさつもこなしていた。
「カティ、今後の参考によく見ておけ。随行というのはああやって……」
いつもの癖で斜め後ろに話しかけたがそこに少年騎士の姿はなく、ギュンターはそこに久方ぶりの令嬢の苦笑をみとめた。
「すっかりお側にいるのが当たり前になっているのね、カティさんは」
鈍さは自覚があるギュンターでも、さすがにアリーシャのその言葉が皮肉だとは気づいた。
「お隣、よろしいかしら?」
「あ、ああ」
優雅に隣の席に座るアリーシャに、振られて気まずいのは俺の方なんだがと思いつつ、アリーシャが怒っている気配をひしひしと感じて何とも言えないギュンターだった。
思い返せば今日は、カティは用事があるとかで、遅れて出勤してくる予定だった。今はなぜかお守りのようにカティに側にいてほしかったと、ギュンターは訳もなく冷や汗をかく。
ゲシヒトはローリー夫人の座る中央のテーブルの前で立ち上がって、列席者を目視で確認する。
「お揃いのようですね。では」
いつの間にか司会も担当しているらしいゲシヒトは、そつなく出席確認をしてから口を開く。
「降臨祭の成功を祈念して、陛下にチョコレートを召し上がっていただきます」
ここに来る間にゲシヒトから受けた説明によると、ギュンターはこの行事の最初にチョコレートを食べればいいらしい。
これまでに数々の行事で種々の食べ物を口にしてきたギュンター、別にチョコレートくらい笑顔で食べきってみせる自信がある。
「国民を代表して、アリーシャ嬢。よろしくお願いします」
問題は、この行事は「女性が初恋の男性にチョコレートを贈る」というもので、食べてもらえれば今の恋が成功するという、誰が決めたかわからないルールがあるのだそうだ。
ギュンターの元に進み出て、アリーシャが箱を差し出す。
「陛下、ヴァイスラントの男性代表としてお受け取りください」
「……ありがとう」
今の恋のためにチョコレートを食べさせられる過去の男の気持ちを考えてくれ。ギュンターはそんな素朴な疑問を世の男性たちにもっと持ってほしいと思いながら、お祭りに頭が春になっているヴァイスラント国民が聞くはずがないのもわかっていた。
ギュンターはアリーシャから星型の箱を受け取って、そこからチョコレートを取り出す。
口に入れて、一瞬そのあまりの苦さに噴きそうになった。目だけでアリーシャに訴えると、彼女は涼しげに微笑んで見せた。
ちなみに苦ければ苦いほど新しい恋がうまくいくらしい。繰り返すが、それを食べさせられる過去の男の気持ちをもう少し汲んでほしい。
カティ、何の用事かわからんが早く出勤しろ。ギュンターが心の中で叫んでいたのと同じ頃、カテリナは騎士団寮の一室でチョコレートを差し出していた。
カテリナのその日の姿は普段とは違っていて、見る人が見たら驚いたに違いなかった。
「ウィラルドさま、受け取ってくださいますか」
カテリナは騎士団寮の自室で着替えて髪も下ろし、地味ではあるが家でだけ着る女性の服装をまとっていた。
「こんなこと言ったら迷惑だってわかってます。私は女で、それで……騎士団に入ったときから、ウィラルドさまが好きだったってことも」
向かい合って立つウィラルドは、驚くさまもなく、ただ少し目を伏せてカテリナの言葉を聞いていた。
「降臨祭がなければ、私は何も打ち明けずに騎士をやめていました。でも降臨祭は、私を囲む幸せにも気づかせてくれた。私は騎士でいたいんです」
次第に声が小さくなって、カテリナは赤くなりながらぼそぼそと言う。
「ごめんなさい。黙ってて。……好きなんて言って」
また彼の下に戻るのを考えるなら、性別も好意のことも、言わない方がいいのはわかっていた。それでも言ってしまったのは、たぶんウィラルドに甘えていた。
そういうカテリナのことを理解した最初の他人も、きっとウィラルドに違いなかった。
「一応言っとくよ。カティはさ、真面目に仕事しようとするあまり、俺に好かれようってがんばってた気がする」
ウィラルドは目を上げてカテリナを見やりながら、上司らしい諭すような声音で言った。
「それはたぶん恋じゃないよって言ったら、カティの今の恋を否定することになるか?」
「今の恋? 私が?」
カテリナは目をまたたかせて、不思議そうに問い返す。
ウィラルドは苦笑してうなずくと、カテリナはうつむいて思いを巡らせる。
「カティは恋をしてるよ。俺にはわかる」
ウィラルドの目を見返して、カテリナはふいに息を呑む。
彼の意図するところに気づいて、カテリナはわたわたと混乱した。
「え、でも、嫌いじゃないだけで、ずっと苦手なだけで……!」
カテリナはさっきとは別の意味で赤くなって、首を横に振りながら否定する。
ウィラルドは笑い声を立てて、腰に手を当てて言う。
「気づいたか。さて、俺はどうしよう。……邪魔したいな。意地悪したい。どうしよっかな」
慌てるカテリナの前でウィラルドはうなって、カテリナの差し出したチョコレートの箱を見る。
「これを食べなかったら、まだ俺への初恋は継続って考えていい?」
目をくるくる回しているカテリナを面白そうに見て、ウィラルドはぱっとカテリナの手からチョコレートの箱を取った。
蓋を開けて一つ取り出すと、ウィラルドは悔しそうに言った。
「でもカティは俺よりあの人といる方が、楽しそうだしな」
ウィラルドはチョコレートを口にして、独り言のようにつぶやく。
「……甘い。ちょっと苦い」
それが幸いのように苦笑して、ウィラルドは初恋の味をかみしめたのだった。
太陽が高く上る少し前、カテリナが新行事を満喫して遅れて出勤すると、ギュンターはなぜか恨めしい目で彼女を迎えた。
カテリナはとっさに自分の格好を確認したが、いつも通り髪は縛って帽子に仕舞い、騎士団服は詰襟の一番上までボタンを留めていた。王城の一角で女性の姿でいたことはばれていないと胸を撫でおろして、そもそもなぜ女性であることをここまで隠す必要があるのか、ふと思いをめぐらせた。
王城には女性仕官も少ないながら勤務しているし、騎士団にはまだいないが入団を禁止されてはいない。ただどうしてか、今この場では女性の格好でいる自信がない。
この場だから……陛下の前だから? そう思ったとき、ウィラルドがカティは恋をしていると告げた言葉を思い出して、勝手に顔が赤くなった。
「すみません、新行事に参加していて遅くなりました」
混乱して自己申告をしたカテリナは、まったく言わなくていいことを報告していたが、過去の女性からのチョコレートの洗礼を受けたばかりの国王陛下はその正直さに気が抜けた。
ギュンターはため息をつきそうになるところをこらえて言う。
「君もヴァイスラント国民の一人だ。祭りを楽しんでいれば何より」
ギュンターは大人の余裕を見せるところだと、カテリナの遅刻の詳細は訊かないことにした。実際ははにかんで目を逸らしたカテリナが誰とほろ苦いやり取りをしたのか結構な手順まで想像しかかったのだが、それは要するに過去のことなのだ。
ギュンターとしては、ビターチョコレートの儀式はヴァイスラント国民の国王への催促だったのだと思っている。国王が最後のダンスを誰と踊るか国民は興味津々でみつめているのに、未だにギュンターは相手の名前すら明かしていない。アリーシャを応援していた国民も多数いたわけで、この機にギュンターへささやかな嫌がらせでもしようという思いだったのだろう。
カテリナは肩掛けカバンを下げると、近衛兵と目配せして言う。
「準備ができたそうです。参りましょう、陛下」
いや、国民に周知しようにも俺も彼女の名前を知らないんだがな。ギュンターはぱたぱたと駆け寄ったカテリナを見ながら心の中で愚痴ったが、もう少しの間は知らなくてもいいかと思って目を逸らした。
前夜祭に当たる今日から、ギュンターはヴァイスラントのあちこちで開かれている祭りを公式訪問するという立派な仕事がある。事務仕事もこの二日間は置いておいて、文字通りのお祭り騒ぎの中、踊りに踊るのがギュンターの仕事だ。
早速向かった会場は、海の近くにある夏の合宿所だった。砂浜に屋根だけ張り出した壁のない集会所が立ち、笛とリュートを用意した子どもたちとそれを見守る保護者たちが国王陛下の訪問を待ちわびていた。
だいぶ形だけになったとはいえ、ヴァイスラントにはまだ身分の違いがある。庶民の子どもたちは働くために執事学校や仕官学校といった職業学校に早くから通う一方、貴族の子どもたちはほとんど家庭教師だけで育って他の子どもと交わらない。
けれどどんな子どもも夏には海風に誘われて合宿所に集い、宵には男の子と女の子が共に踊るダンスパーティに行って、やがて大人になっていく。
ギュンターは代表で花束を差し出した少女に、屈みこんで手を差し伸べた。
「レディ、私と踊ってくださいますか?」
どんなに小さくとも女性はレディとして扱う、そんな国王陛下は本日も健在だった。ギュンターは六歳ほどの少女の手を取ると、さすが手慣れた様子で優雅に踊り始めた。
それを合図に少年少女の楽団は音楽を奏で、子どもたちも踊り始める。降臨祭と、これから彼らが将来をかけて踊るダンスの数々が喜びにあふれていてくれるよう、カテリナもほほえましい思いで見守っていた。
嵐が明けて空は晴れ渡り、潮風が香ばしく吹いていた。まだ本格的な夏の到来は先だが、まぶしい季節の前はカテリナも心が躍る。
ギュンターのサーコートの裾が風に揺れるさまが、昔ここに連れてきてくれたチャールズの後ろ姿と重なった。
カテリナが夏の合宿所に行ったのはずいぶん幼い頃だった。一体いつのことだったのかはっきりと思い出せないが、その日も一面青い空が広がっていて、潮風が今のように心地よく通り過ぎていた。
カテリナは父が庶民出身であったからその暮らしぶりは貴族然とはしていなかったが、母は隣国の王姉の身分だったから、執事のチャールズはカテリナの教育に大きな誇りと責任を持っていた。
それに父ゲシヒトも早くに妻を亡くして、妻の忘れ形見の一人娘に過保護になっていた。カテリナはそういう周りの感情を感じやすい子どもで、外に出てみんなと遊びたいとは口にできずにいた。
結局、来年には仕官学校に入るときになって、チャールズはカテリナをほとんど外の子どもと交わらせずにいたことに気づいて、カテリナに何度も謝ったのだった。別にいいよとカテリナは笑ったけれど、とても幼い頃何かの折にチャールズが連れて行ってくれた合宿所が楽しかったことだけは覚えていて、少しだけ寂しかった。
あの子はどうしてるかな。ふと思い出したのは、夏の日のひととき。
「踊らないの?」
ふいに声をかけられて、カテリナは過去と現在が潮風の中に混じったような思いがした。風にあおられて飛びそうになった帽子を押さえて振り向くと、隣に王弟シエルが座っていた。
シエルが目を向けた先では、陽気なリュートに合わせて子どもも保護者も、王城からやって来た従者たちも踊っていた。石段に座っているのはカテリナとシエルだけで、ぼんやりと思い出の中に浸っているのもカテリナだけのように見えた。
「ううん。今の言い方は素直じゃなかった。……僕と踊ってくれる?」
優しく言ったシエルの声音が、遠い日の誰かの声と重なる。
薫る潮風の中、隣に座った男の子がそうカテリナに言ったのはいつの夏だったかはもう思い出せないけれど、そのときの思いは覚えている。
僕は男で、ダンスは下手で、そんな言い訳を重ねて、男の子から隠すように手を引っ込めた。
「君は昔も今も、とってもかわいいから」
カテリナが驚いて目をまたたかせたとき、シエルはカテリナの手を取ってキスを落としていた。
シエルはすぐに手を離してくれたが、カテリナはとくとくと鼓動が早くなっているのが聞こえていた。
体温が感じられるくらいに近くに手を置いたまま、シエルは長いことカテリナの隣でパーティをみつめていた。
今夜、王都はどこも前夜祭に浮き立って、街は眠らないまま降臨祭の最終日を迎えるのだろう。
「カテリナちゃん、明日はどこに遊びに行こうね?」
カテリナはそんな感傷的なことを思ってはみたが、カテリナが実家に帰ると大体そうであるように、子どものようにはしゃぐ父をなだめる方が先だった。
カテリナは自分が保護者のように指を立てて父に言う。
「お父さん、夜更かししちゃだめだよ。もう大人なんだから」
「うん、うん」
夜のお茶を用意してくれたチャールズもにこにこしてうなずいていた。明日、カテリナが最後のダンスを父と踊るサプライズは、チャールズと話し合って、父には直前まで内緒なのだ。
父はうきうきと待ちきれない様子で、眉尻を下げて笑った。
「わかってる。カテリナちゃんが一緒にお祭りに行ってくれるだけでいい」
カテリナは結局最終日まで王城でお仕事だが、夜になったら実家に帰る。祭りも最高潮の頃、街はてんやわんやだから、親子関係を伏せてきた二人が連れ立っていても案外誰も気づかないかもしれない。
父とカテリナはいつものように長椅子に座って夜のひとときを過ごす。
「今日もパパ疲れたよ。王城は難しいことばっかだもん」
父は甘えんぼじみた情けない表情を浮かべながら、生まれながらの貴族のような仕草で紅茶を飲んでいた。父は辺境で農夫の子として生まれ育ち、騎士としても仕官としてもまるで教育など受けていないのに、誰も知らないところで努力を重ねて総帥の地位にまで上り詰めた。どこまでも確実に到達点にたどり着く人なのだ。
父は愚痴を言ったものの、実にこだわりなく笑った。
「いいけどね。ママと結婚したくて出世して、カテリナちゃんも元気に大きくなったから」
カテリナは家でのへなへなした父を見て子どもの頃こそ心配していたが、王城で鬼のように働く父を見てからは考えを改めた。カテリナの素直さは父譲りだとチャールズは言うが、父はカテリナのように潔い撤退はしない。戦争という過酷な時代を先頭で駆け抜けて、自分はこれでよかったと紅茶を片手に笑ってみせる父の強さを、カテリナは尊敬している。
ふわぁとカテリナは大きなあくびをして言う。
「そろそろ寝るよ。たぶん明日はすごく忙しいだろうし。おやすみ、お父さん」
父は紅茶を置いていつものように両手を差し伸べた。
「はいはい。おやすみ」
カテリナが夜のあいさつにぎゅっと抱きしめると、父はカテリナの背中をぽんと優しくたたいて笑った。
父の部屋から回廊を渡って自室に戻ったとき、馬車が屋敷の前に止まる音が聞こえた。
父はカテリナには告げないし同席もさせないが、夜に客を招くことがある。そういうときはカテリナの前で見せる甘い父親の顔ではないのだろうが、父が見せたがっていないものを見ようとは思わない。
もしかして新しいお母さんになる人なのかなと思ったこともあるが、父は社交界で貴婦人に好かれる細やかな気遣いもできる割に、未だに母一筋だった。彼女の残した忘れ形見のカテリナは、父からの愛情を独占してきた。
それはお父さんにとっていいことなのかな。ふとそう思うこともあるけれど、父に言えないくらいにはカテリナは父に甘えている。
カテリナはベッドに入ってしばらくは目を閉じていたが、明日は降臨祭の最終日だと思うといろいろなことが頭をよぎった。
精霊がやって来る日、ヴァイスラント中がダンスに興じる日、国王陛下に仕える最後の日。
待って、最後の一つはただの異動だよと焦ったが、その一つが無性に頭の中をぐるぐると回る。ギュンターに書類のことで叱られたとき、星読み台に出かけたとき、ふいに彼が何か言っただけの記憶、たった十日間だったのに一生分彼の下で働いていたみたいに心に焼き付いている。
一生が終わるわけじゃないんだよ。そう思った自分の心の声がとても悲しそうで、カテリナはベッドを抜け出していた。
庭に出て星を仰ぐと、零れ落ちてきそうなほどたくさんの星が見えていた。精霊は星の降る夜にやって来ると言うけれど、今夜だって夜気は深く澄んで、宝物のように星々を包んでいた。
ふいに星が流れて、カテリナは思わず願っていた。明日はいつもより少しだけ長い一日であってほしいと。
精霊はきっと今頃たくさんの人に願いをかけられていて、カテリナの他愛ない願い事を聞いている時間はないだろうけど、そんなことを思った。
カテリナが部屋に戻ると、チャールズの苦笑に迎えられた。カテリナが眠れない日はいつもそうやって、カテリナが夜気に冷えてしまわないように戻って来るまで心配しながら待っているのだった。
「明日は降臨祭の最後の日だね」
カテリナが照れ隠しに言うと、チャールズはカテリナに温かいミルクを差し出しながら返す。
「終わりたくないというお顔ですね」
「でも元通りになるだけなんだ」
「いいえ。精霊でもない限り、同じ形でいることなどありませんよ」
チャールズはちらと父の部屋の方を見やって言う。
「たとえば今夜のように、シエル王弟殿下がお嬢様を訪ねていらっしゃるようになった」
「え?」
カテリナは慌てて聞き返したが、チャールズは安心させるように言った。
「お嬢様は私の娘ということになっています。旦那様は、メイン卿は彼女を連れて降臨祭に出かけていて不在とでもお伝えしているでしょう」
それは降臨祭が終わった後は通じない言い訳になる。カテリナがどうしようと目を伏せると、チャールズは言葉を続ける。
「それに、私は毎日のように国王陛下からお手紙をいただくようになりました。ご令嬢をまた、サロンに連れてきてもらえないかと」
今度は、カテリナは息を呑んで言葉に詰まった。どうしようと考えるより、なんだか嬉しいような、くすぐったいような気持ちで言葉が思い浮かばなかった。
どうにか自分のそういう感情のうねりを収めて、カテリナはチャールズを見上げる。
「ごめん。チャールズにもお父さんにも迷惑をかけて」
チャールズは首を横に振って、いいえ、と言葉を返す。
「ダンスのお誘いを断るのは女性の権利です。私たちが断るまでもなく、お嬢様は相手が国王陛下だろうとお断りできるんですよ」
チャールズはカテリナをいたずらっぽく見つめ返して言った。
「でもチャールズにだけ、お嬢様は今誰のことが気になっているか教えてくださいませんか?」
カテリナは下を向いて赤くなると、チャールズを見上げて、また下を向いて、何度か同じことをしていた。
もぞもぞとカテリナが口にした名前を精霊が聞いていたかどうかは、夜が明けるまでまだわからないのだった。
やって来た降臨祭の最終日、ギュンターが朝一番に確認したのは本日の予定だった。
何事も事前に把握したいタイプの国王陛下は、精霊との約束までに至る行程としてもちろん十日間とも予定を組んであるが、特に最終日は細かい手順まで頭に叩き込んでおきたかった。ついでに何事も紙で見たいタイプでもあったので、朝から入念に書類を読み込んでいた。
そんなギュンターの元にゲシヒトはやって来て、今日も今日とて仕事を押し込んでくる。
「陛下。辺境から挑戦状が届きました」
ギュンターの本日の予定でまだ決まっていないのは一番重要な最後のダンスの相手だったはずだが、直前になって飛び込んでくる予定外のことももちろんある。
「常々、予定とは事前に知らせておくものだと」
「辺境に王都の決まり事は通用しませんから」
舌打ちをして文句を言いかけたギュンターに、辺境の常識人ゲシヒト総帥は澄んだ目でうなずいて手紙を差し出した。
ギュンターは渋々手紙に目を通すと、そこは寛大な君主らしくわかったと言いかけて、別紙の末尾の方で目を留めた。
「……父上のなさることらしい」
少しだけ笑みをこぼして手紙を折りたたむと、ギュンターはカテリナに振り向いて出発を告げた。
馬車で半刻、国王陛下はヴァイスラント国民の憩いの場である中央広場に来ていた。ここは噴水から放射線状に石畳が伸び、市場も劇場も、もちろん王城も徒歩圏内に位置するヴァイスラントの中心地点で、数々の祝祭の開始を見届けてきた場所でもあった。
本日は最終日ということもあり、集まった国民たちの衣装もまた手が込んでいた。ふんだんにレースのあしらわれたドレス姿の女性もいれば、視線を集めるほど短いスカートと見えるか見えないか程度に胸を隠した女性もいて、ヴァイスラントの夏がどれほど開放的か証明していた。
「カティ、近衛兵の中に隠れているように」
その中には結構な数の動物の被り物をした男たちがいて、ギュンターは薄々と嫌な予感はしていた。首を傾げたカテリナに念を押してから、広場の中心に用意された開会の演台に向かう。
暗記はしているが一応手元に用意したあいさつ文に目を落として、ギュンターが祭りの始まりを宣言しようとした、そのとき。
「よく聞け! ここは俺たち辺境の戦士が乗っ取った!」
人波の中から声が上がって、動物の被り物をした男たちが女性たちの手をつかむ。
「娘ども、言う事をきかねぇと食っちまうぞ!」
悲鳴というより黄色い声を上げて逃げ惑う女性たちを追って、広場は騒々しさに満ち溢れた。ここぞとばかりに女性に触る男、それを叩き返す女性、舞い上がる土埃に誰かが落とし物を探す声、国一番の広場が狭く感じるほど人が方々に散っていく。
ギュンターが朝聞かされたこの公式行事は、今現在辺境で田舎暮らしをしている前国王が参加者を急募したもので、辺境の戦士が攻めてきたという設定だ。前国王自ら宣戦布告の手紙をギュンターに送ってきて、そこには戦わなければ予告した女性たちをさらうと書いてあった。
「おっと、美人発見! もらってくぜ!」
予定通り辺境の戦士が列席していたローリー夫人をみつけて、その手をつかんだ。ギュンターの視線に気づくと、にやりと笑って何かを投げてくる。
ギュンターに投げられたのはとうもろこしだった。これで叩きあうのが公式ルールとのことだが、それを国王にも適用するところがヴァイスラントだ。
朝から体力を使う行事をふっかけてくるなと、ギュンターは遠い目をしながらとうもろこしを受け取った。国王として祭りが盛り上がるのは喜ばしいが、ただでさえお祭り好きのヴァイスラント国民をさらに過熱させないでほしい。
ついでにさらう女性リストにカティの名前もあったので、ギュンターは一抹の不安がよぎって少年騎士を振り向いた。
「陛下! がんばってください!」
カテリナはというと、自分が狙われていることなど露知らず、どこからか取り出した狼の被り物をして拳を握りしめていた。その童顔で被ると子犬にしか見えなくて、周りの近衛兵たちはほのぼのした目をしてカテリナの被り物をぽんぽんと叩いていた。
「よそ見をしてる場合か?」
被り物をした男たちは役柄そう言ったのか、素朴に国王に訊きたかったのかはわからないが、ギュンターは決闘を挑まれた国王の役になりきらなければならないのを思い出す。
ギュンターがとうもろこしを持って進み出ると、辺境の戦士たちは自ら道を開いてギュンターを戦いの場へ導いた。その中から獅子の被り物をした一人の戦士が進み出て、ギュンターに対峙する。
背格好からするとギュンターと同じくらいの背丈の青年で、年も近いように感じた。無類のお祭り好きの父が現れると思っていたので、ギュンターは多少訝しみながらもとうもろこしを構える。
一振り目でぶつかったときから、相手は剣を振るったことがあると気づいた。ギュンターは戦争を経験していないとはいえ剣技の訓練は受けているが、ぶつかったときの握力は相手の方が上のように感じた。
声援を受けながら二度三度ととうもろこしを交わし合って、この男はどこかで会ったことがあると思った。ただその正体を詮索するより気にかかるのが、視界の隅で戦うカティの姿だった。
事もあろうにゲシヒト総帥にとうもろこしで挑むカティは、素手のゲシヒトの方が圧倒的に優勢だった。子犬のように飛びつくカティを、ゲシヒトはなんだか嬉しそうにあしらっていた。
これは余興の一つで、負ければ確かに国王として格好は悪いだろうが、本気で国を奪われるわけではない。
そうはいっても、ギュンターだって面白くないことはある。
「馬鹿者、相手を考えろ!」
ただ国王の誇りとして叫んだというより、反射的に視界の隅の少年騎士を叱る言葉で、ギュンターは対峙した相手のとうもろこしを弾き飛ばしていた。
いかん、今完全に素の自分だったと反省しながらギュンターが上がった息を落ち着かせていると、弾き飛ばされた相手が口を開いた。
「……そりゃわかってるけど、やっぱ腹立つじゃんよ」
聞き覚えのある声にギュンターが目をまたたかせると、彼は獅子の被り物を外してみせた。
「バーバラの旦那は俺なのに」
ローリー夫人が息を呑んで、祭りに浮き立っていた周りの国民たちも思わず二度見した。
子どもがすねて甘えるような顔でローリー夫人を見た男、行方不明になっていた彼女のご夫君、ヘルベルト・ローリー将軍その人がそこにいたからだった。
前国王の仕掛けた馬鹿騒ぎがひと段落した頃、中央広場から少し路地に入った商店街のテラスで、人々はこんがりと焼きあがったとうもろこしとお茶で一服を始めた。
辺境の特産物であるとうもろこしと麦のお茶は、麦のお酒と共に王都でも愛されている。カテリナも夏になると辺境で暮らしている祖父母がたくさん送ってくれるので、屋敷のみんなとおいしくいただくのが定番だった。
しかしギュンターを始めとしたその席の面々はお茶ととうもろこしに手をつけないまま黙っていた。代表としてギュンターが神妙に口を開くまで、立ち入りがたい空気が漂っていた。
「つまり船が難破して半月後には辺境に移り住んでいたんだな」
人々もちらちらと見ているように、国王陛下の休息所として選ばれたレストランのテラスだけは別世界だった。辺りにはとうもろこしとバターが程よく焦げる匂いが立ち込める中、おごそかな事実確認が行われていた。
「名前も身分も偽って、裏街で商いをしていたと」
国王陛下が向き合っているのはヘルベルト・ローリー、彼は行方不明になる二年前までは将軍の地位にあって、国王陛下の盟友でもあった。着任の間は戦争がなかったので軍功こそないが、カテリナの生まれる前に終わった隣国との戦争の後片付けに尽力した人物で、英雄といえばゲシヒト総帥、陰の功労者といえばヘルベルト将軍と並び称されていた。
ふいにギュンターはひとつため息をついて、国王からの指摘というよりは友人の苦言の口調で言った。
「……どうしてもっと早く帰ってこなかったんだ」
ヘルベルトは顔を上げて何か言いかけたが、不自然な距離を空けた隣に座るローリー夫人を横目で見てばつが悪そうな顔をした。その仕草を見て、ギュンターは言葉を続ける。
「一儲けすると言って出航したのに船ごと財産を失って格好がつかなかった、とか言うなよ」
「悪い。半分はそうだ」
「お前な」
「半分はまともな理由もあるんだ!」
呆れ調子で文句を言いかけたギュンターに、ヘルベルトは力を入れて言い返す。
「辺境は海の向こうに近いんだ。精霊の子どもたちの土地がすぐそこなんだ」
ヘルベルトが口にした隣国の呼び名を聞いて、ギュンターは友人が隠れていた理由をやっと理解できた気がした。
かつて戦争に突き進んだ隣国は、ヴァイスラントに敗北宣言をしたのと共に、精霊界にも全面的に門戸を開いた。ギュンターが先日体験した夏の怪奇現象のようなことは日常茶飯事で、動物が話しだすこともあれば、時々は死者も帰って来るのだという。
隣国は境界を越えてしまった。もう自分たちと一緒には暮らせない。ヴァイスラントの人々は亡くした人を想うような寂しさをもって、隣国の人々を見送った。
ギュンターも、隣国の選んだ道は国家や人間としてはもう共存できないと思っている。けれど精霊の子どもたちが自分の心に反したことはできないように、隣国の人々が心のままに選んだ境界の無い世界の生活を否定するつもりもなかった。
ヘルベルトは夢を見るように言葉を続ける。
「二年間、将軍って名前で行ってた頃とは全然違う世界だったんだ。……心配をかけたことはわかってるけどさ」
ヘルベルトはローリー夫人を気にしながら声を小さくした。ギュンターは、そういえば友人はこういう男だったとひっそりとため息をついた。
どこまでも情熱的、ただその熱っぽさのせいでいつまでも少年の心を捨てられず、ギュンターと一緒に学問に励んでいた頃から規則違反ばかりして教師に叱られていた。大人になってからもその基本は変わらず、実際に戦争が起こったらまちがいなく軍法違反で処罰されるとギュンターも心配していた。
どうしたものかとギュンターは口には出さずに頭を悩ませた。二年間国王にも連絡なく無断欠勤したこと、海の向こうには厳正な手続きを取ってから渡らなければいけないところ無断で行き来していたこと、裏町で商いとごまかしたが要するにグレーな仕事をしていたこと、ヘルベルトが処罰される理由は山ほどある。
ギュンターはうなってから口を開く。
「お前は筆頭貴族ローリー家の子息だろう。一族にも仕えてくれる者たちにも責任がある……と私が裁判をする前にだな」
ひとまずギュンターは国王としても友人としても言っておかなければいけないことを言って、同席したものの未だ一言もない女性を見た。
「ローリー夫人。この件で一番ご迷惑とご心配をかけられただろうあなたが、今どう思っていらっしゃるか教えてください」
意見を求められて、黙って夫をみつめていたローリー夫人はうなずいた。ヘルベルトは露骨に肩を緊張させて、子どもが叱られる前のように膝を閉じてローリー夫人をそろりと見返した。
ローリー家は数々の宰相や将軍を輩出してきた名門貴族だ。しかし妻より二つ年下で、屋敷から出発する前には必ずシャツの襟を妻に直されていたというヘルベルトは、結構な数の国民が知っているとおり妻にまったく頭が上がっていなかった。
その妻と夫の力関係のまま、ローリー夫人が怒るなり泣くなりしたら、ヘルベルトも少しはその子どもじみた性格を直したのかもしれない。
ローリー夫人は息を吸って、じろりとヘルベルトを見やる。
「言いたいことはたくさんあるし、後で言うけど」
ローリー夫人はそう断ってから、憮然として両手を差し伸べた。
「……抱きしめて」
ヘルベルトの方が泣きそうな顔で、毎度新婚夫婦の熱の冷めやらぬ二人は、子どもじみた方法で仲直りするのだった。
その一部始終を眺めていたギュンターは、ローリー夫人に最後のダンスをお断りされるのは確定だと思いながら、それでよかったと感じていた。
精霊が望むのは国王と最愛の人とのダンスだが、女性の側からも国王が最愛の人、世間で言う両想いこそが降臨祭の最後にはふさわしいとギュンターだって思う。
ただ、ギュンターははた迷惑な二人の復縁劇を前にして、自分も最愛の人と、こういう馬鹿馬鹿しいくらいのあっけなさで結ばれるのを夢見た。
まったく今の状況では夢見ているだけなのだが、実は十日間くらいその夢は見ている。
カテリナがそっと歩み寄って来て、ギュンターに何かを差し出してくる。
「陛下、使ってください」
目元を押さえて沈黙したギュンターに何を勘違いしたのか、カテリナが渡そうとしたのはハンカチだった。
「要らん。泣きたいのは本当だが」
俺も理由さえ立てば、力いっぱい抱きしめたい人はいるんだがな。
つい三白眼でカテリナをにらんでしまってから、ギュンターは毎度反省するのだった。