陛下、恋をするならご令嬢に!~国王陛下は男装の騎士を片時も離さない~

 騎士団寮にしょんぼりと戻って一夜を明かし、翌日カテリナは久しぶりに実家に帰った。
 王城から徒歩圏内の閑静な住宅街、だがカテリナの実家は他のお屋敷と違う作りをしていて大変目立つ。
 母は元々他国出身の人で、父は生活習慣が違う母のために、ヴァイスラントでは一般的でない屋敷を建てたのだった。カテリナも理解しきれない複雑なルールで配置されたニレの木を騎士のように従えて、幾何学模様を描いた黒いレンガ造りの壁がそびえたっている。
 入口から二度曲がって青い輝石の飛び石を五つ数えたところ、ローズマリーの香る鈴を鳴らして、館の扉は開かれる。
 もっともカテリナは父との関係を伏せているために、いつもその奥にある裏口から召使いのふりをしてこっそり入るようにしていた。 
「ただいま……」
 まだ朝早いからと声をひそめたものの、素直なカテリナは帰ったら当然ただいまを言うように育っている。
 裏口の扉を開いたとき、早朝の常として屋敷は静まり返っていた。カテリナのただいまを聞いたのは、ご老人の常として早くに起きすぎてしまっていて、今は庭師として第二の人生を送っている先代の執事だった。
「……お嬢様」
 彼はやはりご老人の常として最近涙もろくなり、カテリナの姿をみとめるなり目を潤ませて、裏口に備えられているベルを素早く鳴らした。
 ちょっと過剰だとカテリナが思っている荘厳なベルと共に、屋敷中が一斉に動き出す。家中のカーテンが開かれて日の光が差し込み、厨房に火が入って、カテリナが気を利かせてだいぶ遠回りして居間に着いたときには、召使いたちが勢ぞろいしてカテリナを待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お待ちしておりました。……もう少しでお待ちできなくなるところでした」
 代表して一礼した執事は、確かにカテリナを待っていてくれたのだろう。一分の隙もなく髪も黒服も整えていたが、目の下には何日も寝ていないようなクマができていた。
 彼のほっそりとした端正な面差しと禁欲的なまなざしがだいぶやつれていて、カテリナは心配そうに言った。
「チャールズ、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「これが寝ていられますか!」
 副業として学校で行儀作法も教えているチャールズ・メイン卿は、普段の落ち着きを振り払って声を荒らげる。
「降臨祭がもう半分終わっております! この長期休暇こそ日頃の疲れを癒していただこうと、召使い一同準備しておりました。野蛮な男ばかりの騎士団で、お嬢様が日頃どれほどつらい思いを」
「してないよ。みんなで休憩時間の球技を楽しみにしてるよ」
 カテリナが澄んだまんまるの目で主張すると、チャールズは首を横に振った。
「旦那様がどれだけご心配されているか察してくださいませ。せっかくの降臨祭ですのに、お嬢様が仕事中だからと、お出かけにもならずに気を落としていらっしゃいました」
 そう言われるとカテリナも心が痛い。下を向いて、そうなんだ、としょげた彼女は、召使いたちが目を合わせてうなずきあったのに気づかなかった。
 申し訳なさから、カテリナはもぞもぞと問いかけを口にする。
「お父さんはどこ?」
「昨日から王城に呼ばれていらっしゃいます。国王陛下の降臨祭のダンスの相手が決まらないとのことで」
 たぶんそれは今頃決着がついていることだろう。カテリナはあいまいに笑って、そうなんだ、とこれにもしょげた様子で答えた。
 チャールズは、カテリナの沈んだ様子は父と入れ違いになってがっかりしたのだと思ったらしい。眉を上げて言葉を続けた。
「国王陛下のダンスなどどうでもよろしい。とにかくようやくお嬢様がお帰りになった、それが何よりです。旦那様も本音ではそうお考えですよ」
 元々は他国出身の母の筆頭従者であるチャールズは、今もまったく国王陛下に忠誠心がない。精霊との約束もどうでもいいと言い切るそのあっさりした価値観に、カテリナはいつもながらちょっと感心した。
 彼はふと何かに気づいたように目を見張って、カテリナに歩み寄る。
「ああ、またそのように髪をぞんざいに扱って。リリー様譲りの美しい御髪になんということをなさいます」
 チャールズはカテリナの帽子を恭しく取ると、縛って隠している黒髪が傷んでいないかというように懸命に手で梳いて整えていた。
 チャールズはカテリナが子どもの頃から髪を切るのを大反対していて、ヴァイスラントでは一般的な髪色である茶色に初めて染めたときは一晩寝込んだ。カテリナは自分のまっすぐで真っ黒な髪はそんなに好きではないのだが、チャールズは宝石のようにカテリナの髪に触れる。
 それは亡きカテリナの母が美しい黒髪で知られていた人だからなのだろうが、母が亡くなったときカテリナは幼すぎて、肖像画の中でしか母との共通点を探せない。母に仕えていたチャールズの手前、そんなに似てるかなとも言えなくて複雑だった。
 カテリナの髪を整え終えると、チャールズは手を叩いて使用人たちに命じる。
「さ、お嬢様に朝餉を」
 まもなく朝食が運ばれてきて、馴染んだ実家の朝が始まる。主人であるカテリナの父は元々庶民の出であるから、市場で買ってきたパンや野菜、小さなお店の牛乳、豪勢ではないけれどしっかり力のつく朝食が並ぶ。
 けれど食事が終わると、チャールズが選び抜いた侍女たちに囲まれて令嬢として過ごす時間が始まる。
「お嬢様、書庫に蔵書が増えましたよ」
「庭の薔薇が満開ですよ」
「お出でになりませんか?」
 カテリナの母は他国とはいえ身分の高い人で教養も深い人だったから、今もチャールズが家にちょっとした図書館並みの蔵書と華やかな庭園を整えていた。カテリナは美女軍団と勝手に名前をつけている侍女たちと、本を読んだり庭を散歩したりして休日を過ごす。
 母は幼い日に亡くしているが、愛情を持って育ててくれた執事も侍女たちもいて、何より父が側にいた。ひだまりのような家に帰って来ると、ここ数日の仕事づくめの日々の方が夢だったような気もしてくる。
 今度の父の誕生日のプレゼントを侍女たちとあれこれ考えていた、そんなときだった。
「お嬢様、見ていただきたいものがあるのですが」
 夕刻の頃まで好きなようにくつろいでいたカテリナに、チャールズが声をかけてきた。
 うん、どうしたのと言って、カテリナはチャールズに続いて自室に入る。
 そこに広げられていたものを見て、カテリナは息を呑んだ。チャールズは恭しくそれを示しながら言う。
「十七歳のとき、リリー様が初めてサロンにデビューされたときの衣装を仕立て直したものです」
 それは黒絹に銀糸で刺繍のほどこされた異国のドレスだった。ヴァイスラントで一般的なふんだんにあしらわれたレースと膨らんだ裾を持つ型ではなく、しなやかなラインとシンプルな裾で、ヴァイスラント国民の感覚では地味ともいえるものだった。
「きれい」
 でもそれを身に着けた母の肖像画は姫君のように可憐で、カテリナは子どもの頃から目を輝かせて見上げていた。思わずカテリナがつぶやくと、チャールズはためらいがちに言った。
「一度だけ……どうかこれをお召しになって、私とサロンに出かけてはくださいませんか?」
「え?」
 チャールズは願うようにカテリナを見て続ける。
「お嬢様が少年の格好を気に入っていらっしゃるのは知っています。けれどこれを着ていただきたい方は、もうお嬢様しかいらっしゃいませんから」
 カテリナはチャールズを見上げて、少しの間返す言葉に迷った。自分が母のように美しく着こなせるとは思わなかったが、彼の言う通り、自分が着なければ彼はこれを誰に着せようともしないのだろう。
 いつまでもチャールズに母の形見を保管させるのは、彼に重荷なんじゃないだろうか。そういう思いがあって、カテリナはうなずいていた。
「……うん。いいよ」
 結局チャールズの望むとおり、カテリナは侍女たちに手伝ってもらいながらドレスを身に着けることにした。
「お嬢様がドレスを! 私どもにお任せくださいませ」
 侍女たちに話したら、母が隣国にいた頃から仕えている侍女頭も含めて手放しで喜ばれた。彼女らは熱烈に目を輝かせてカテリナを取り囲むと、口々に言い合う。
「こちらはいかがですか?」
「悪くはないけど、もうひとこえほしいわ。お嬢様の御髪の色にぴったりのものがあるはずよ」
「ここで惜しむ理由はありません。あるもの全部出してきましょう!」
「そうね。絶対に負けられないわ!」
 何に勝つのかはカテリナにはわからなかったが、絶妙に統制の取れた侍女たちは手早くプランを練って取り掛かってくれた。
 カテリナだったら一結びで終わるところ、髪を編みこんで結いあげて、童顔だから似合わないよと断ったお化粧も、必ずお美しくいたしますからと断言して施してくれた。
「な、なんだかお姫様みたいだね」
 カテリナは普段着ないだけで、柔らかい生地の感触も繊細な花の模様も、別に嫌っているわけではない。初めて母と同じものに包まれることに気が付けば心は踊っていて、侍女たちを振り向いて喜んでいた。
 侍女頭は侍女たちと顔を見合わせて目を丸くすると、大真面目に指を立てて言った。
「何を当たり前のことを仰います。私どもにとっては、お嬢様はお生まれのときからお姫様ですよ」
 侍女頭はカテリナの髪を優しく整えながら、ふいに声をにじませた。
「リリー様も喜んでくださるはずです。……お嬢様がお生まれになったとき、いつか一緒にドレスを着てサロンに出かけましょうと、笑っていらしたから」
 カテリナは目を伏せて、今までドレスを着たことがなかったことを母に申し訳なく思った。
「さあ、お顔を上げてごらんくださいませ。バルガス家の誇る、唯一無二のお姫様ですよ」
 侍女頭は明るく声を上げて、姿見の前にカテリナを導こうとする。
 カテリナはちょっといたずら心がわいて、侍女頭に声をかけた。
「あ、待って。最初に見てもらう人は決めてるんだ」
 カテリナは口の前に指を当てて、そろそろと隣室に向かった。
「チャールズ、こっちを見て」
 カテリナは出来上がったドレス姿を自分で確かめる前に、隣室で待っているチャールズに見せるつもりでいた。
 母のドレスに恥じないように精一杯足運びも表情もおしとやかに、けれどうさぎのようにひょこりと、隣室に立ち入る。
「どうかな?」
 振り向いたチャールズは、しばらく言葉を失っているようだった。
 カテリナがドレスの裾をつまんでくるりと回ると、絹よりも鮮やかな黒髪も光を放つように輝いた。健康的でまっさらな肌に、頬と唇とだけにほんの少し差した朱が映えていた。
 感想を聞きたいカテリナが、チャールズ、とむくれてもう一度問いかけるまで、チャールズは身動き一つ取らずにカテリナをみつめていた。
 彼は息を詰めてカテリナをみつめた後、やっとというように言葉をこぼした。
「……まるで夢の中のようで、言葉がみつかりません」
 カテリナは冗談のように感じて、くすっと笑い返す。
「いいよ、無理しなくて。お母さんみたいにはいかないってわかってるもの」
 カテリナはいつものように気楽に言ったが、チャールズは嘆息して首を横に振った。
「いいえ。……いいえ。お嬢様はリリー様のすべてを受け継いでいらっしゃる」
「チャールズは褒めるのが上手だなぁ。そんなことより、行こうよ」
 カテリナは笑って、子どもが母親に甘える仕草でチャールズの腕に自分の手を添えた。
 チャールズは姫君をエスコートするうやうやしさでその手を取って、屋敷の外に待つ馬車へ向かった。
 走り出した馬車の中、隣に座るチャールズを見上げてカテリナは告げる。
「チャールズに恥をかかせたらごめんね」
「ご心配は無用です。私にお任せください」
「うん。頼りにしてるよ」
 貴族で、こういったエスコートも慣れているチャールズなら大丈夫だろうと思って、カテリナも安心できた。
 日が静まる頃に馬車は小さな館に着いて、チャールズに手を引かれて馬車を降りる。
 そこは庭に赤茶色の灯がともされ、にぎやかではないが心地よい笑い声を交わす貴婦人たちが行き来していた。
 彼女らの服装はカテリナと同じで隣国の名残があったが、交わす言葉はヴァイスラントのもので、静かに宵の時を共有していた。
「……私、何か変かな」
 馬車を降りるなりカテリナに集中した視線に、彼女は何か失敗をしてしまったのかと反射的にチャールズを見やる。
「姫君のご到着は人目を引くもの。さ、参りましょう」
 チャールズは安心させるように笑って、カテリナの手を引いて進む。
 灯りに照らし出されて陰をはらみながら花が咲く庭は、昼間とは違うひそやかさがあった。カテリナは緊張しながらチャールズの腕につかまって、そっと問いかける。
「ここは?」
「とても高貴な御方のサロンですよ。お嬢様をデビューさせるなら、このサロンと決めておりました」
 チャールズはぽつりと告げて、あるテーブルの前で立ち止まる。
 女主人らしい方の前で片膝をついてその手に口づけを落としたチャールズの隣で、カテリナも腰を折って礼を取る。
 顔を上げたカテリナはそこに王妹マリアンヌの微笑をみとめて、一瞬不思議な心地がした。
「……君は?」
 そしてマリアンヌの隣にギュンターが立っていることに気づく。
 彼が問いかけた声がいつも自分にかけられる声と違う気がして、どきりとしたのだった。
 社交的で知られるヴァイスラントの人々は、みな行きつけのお店を持っているように、出入りするサロンを持っている。
 そのもっとも代表的なものが王城の中にあるローリー夫人のサロンだが、サロンといえば人々がもう一つ思い浮かべるのが、王妹マリアンヌのサロンだった。
 マリアンヌのサロンは王妹殿下が開いているにもかかわらず、いつも数十人の小さな集まりで、年に数回しか開かれず、しかもどこで開かれているのかほとんど知る者がいない。
 カテリナに名をたずねたギュンターに、マリアンヌは優しく念を押した。
「陛下、名は問わないのがこのサロンの決まりですから」
 そんな小さなサロンなのに、サロンといえば人々が頭の片隅にマリアンヌのサロンを思い出すのは、招かれる人々の素性を詮索しない特別な集まりだからだった。
 その決まりは、精霊たちが名前を呼ばれるのを何より嫌うという言い伝えからきている。ヴァイスラントの建国の功労者である精霊も、気安く名前を呼ばれたことに立腹して王城の泉をピンク色に変えたという逸話が残っている。
 精霊の逸話が本当かどうかはピンク色の泉の所在と共に王城の七不思議のひとつだが、招かれる人々が一般的なサロンに出入りしたがらない人々であるのは事実だった。
 チャールズは許しを得て顔を上げると、マリアンヌに礼を述べた。
「お招きいただき光栄の至りです、殿下」
「私もお会いできてうれしいわ。今夜は、星々もご令嬢のデビューを祝福しているようね。素敵な夜をお過ごしになって」
 マリアンヌもチャールズと短く言葉をやりとりしたものの、サロンで活発に行われる紹介合戦もなく、カテリナに微笑んだだけだった。
 それでサロンのデビューが果たせるのか疑問を持つ者もいるが、名を知らしめてほしい令嬢はちゃんと相応のサロンが用意されている。カテリナとしても、チャールズがこのサロンを選んでくれたのは、父との関係を明かしたくないカテリナの気持ちに添ってくれたとわかっていた。
 ところが凪のようなあいさつを交わした二人とは対照的に、ギュンターが割り込むように言った。
「ま、待ってくれ。少し話がしたいんだ」
 普段呼吸でもするように女性に美辞麗句を贈るはずのギュンターは、言葉に詰まりながら口を開く。
「メイン卿にご令嬢がいらっしゃるとは知らなかった。……精霊と見まごうようなご令嬢だから、今までサロンにお出でにならなかったのかもしれないが」
 ギュンターは焦りながら言葉を重ねて、かといえばらしくない沈黙も作ってしまいながら告げる。
「ただ……驚いてしまった。すまない、誤解させるような言い方だったな。もっとふさわしい言葉があるはずなのに」
 ギュンターは一度目を伏せて、意を決したようにカテリナを見た。
「……お名前を教えてほしい。それで、私にエスコートの役目を与えてくださらないか」
 提案したギュンターの目は真剣で、それが知らない人のようで、カテリナはとっさに目を逸らした。怖いような気持ちになって、ぎゅっとチャールズの腕にすがる。
 マリアンヌとチャールズはギュンターの提案が性急に過ぎると気づいて、それをカテリナが拒んでいることも気づいた。こういった場を取り仕切る立場から、すぐにそれぞれの役目を果たす。
「殿下、少しお時間をいただけませんか」
 遠回しに御前から去ることを提案したチャールズに、マリアンヌはそれでいいというようにうなずいた。
「ええ、ゆるりとお過ごしになって。……お嬢さん、あなたは祝福されているということを忘れないで」
 マリアンヌはチャールズに告げた後カテリナにも声をかけて、カテリナがチャールズと共に歩き去るままに任せた。
 カテリナはチャールズに手を引かれて離れる間、ギュンターが何か言いかけてこらえている気配を感じていた。カテリナはそれに振り向くのが怖くて、泣かないでいるのが精一杯でいるような顔をしていた。
 植木の陰になってギュンターの視線から出たのを確かめると、チャールズは心配そうに言った。
「申し訳ございませんでした、お嬢様。私のわがままでこのような場にお連れして」
 カテリナは元々話すのを得意にしているわけではないが、今の彼女は明らかに緊張していて楽しく談笑できる様子ではなかった。チャールズはカテリナの顔色が優れないのを見て取って、気づかわしげに顔をのぞきこむ。
「それにもっと早くおたずねするべきでした。そのご様子では、国王陛下にお仕えするのはつらかったでしょう」
「ち、違うよ」
 カテリナは顔を上げて、チャールズに言葉を返す。
「陛下は立派な方だよ。尊敬してるんだ」
「お嬢様は同じようなお顔で、前の上司の方も庇っていらっしゃいましたね」
 チャールズは眉を寄せてカテリナをみつめると、よろしいですか、と前置きして告げた。
「チャールズにとってはお嬢様だけがたった一人の姫君です。相手が国王陛下であってもマリアンヌ殿下であっても、お嬢様が快しとしないのであれば、先ほどのように私の手を握ってくださればよいのです」
 カテリナが生まれたときからそこにいて彼女をあやしていたチャールズは、執事というより母親代わりだった。ある種の女性的な勘で誰よりも早くカテリナのことを見抜く彼には、隠し事らしいことができたためしがない。
 カテリナは口をへの字にして、そうじゃないよ、と子どもが言い訳するように言った。
「陛下にお仕えするのは楽しいよ。ちょっとだけ、苦手なだけだよ」
 幸いなことにカテリナは嘘をついたわけではなかった。だからなのか、チャールズは一息ついて目から鋭さを消してくれた。
 チャールズはカテリナの手を取って歩きながら、星に話しかけるように言う。
「仕方のないことなのですよ。私もリリー様に初めてお会いしたときは、精霊が降りていらしたと思いましたから」
「お母さんはきれいな人だったものね」
 チャールズはうなずいたが、少し苦い口調で答えた。
「それは誰もが思ったことでしょう。けれど私がリリー様を仰ぎ見たのは、精霊に対するように特別な思いからでした」
 届かないところにある星を愛おしむように見上げる目で、チャールズはカテリナを見やる。
「「最初のダンスを踊った人とは結ばれない」と言われますね」
 カテリナは侍女たちが話していたことを思い出していた。母が初めてサロンを訪れてダンスを踊った相手は、同じ日に初めてサロンにデビューした貴公子のチャールズだったと。
 侍女たちが一緒に教えてくれたヴァイスラントの古い言い伝えは、少し残酷だと思う。カテリナのそういう思いが目に現れたのか、チャールズは優しく笑った。
「でも私はそれでよかったと思っています。精霊のように可愛らしい子がお生まれになって、育っていくのを今もみつめていられる」
 ふいにチャールズはカテリナの前で一礼すると、いたずらっぽく手を差し伸べる。
「お嬢様、最愛の人とダンスを踊るなんて、私から見たらまだまだ早いですよ。……まずは私と一曲、いかが?」
 カテリナは強張っていた心がその言葉で解けていって、いつものように屈託なく笑った。
「よろこんで」
 手を取り合ったカテリナたちをまもなくワルツの調べが包んで、最初のダンスは始まった。
 女性としてサロンにデビューしたその日は、カテリナにとって不思議な夜だった。
 子どもの頃から召使いの男の子たちと遊ぶ方が好きで、男の子の格好にも話し方にも、違和感は何もなかった。服の色を一つ決めるにも周りを気にする女の子たちの感覚は不思議で、男の子に比べて複雑でもあって、苦手な気持ちを持っていた。
 でも肖像画の母がまとっていたドレスとやさしさに憧れていたのは本当で、チャールズたちがしきりに教えてくれる女性の所作や教養を嫌ってもいなかった。花を見たらきれいと思うみたいに、心のどこかでドレスをまとってサロンに行ってみたいとも思っていて、チャールズに誘われて立ち入ったその世界に、宝石みたいな輝きをみつけていた。
 甘いお菓子と紅茶の香りも、心地よいと知った。チャールズと踊るダンスだって、家で冗談交じりに踊るのとは違う。
 星々の下でいつまでも、この時に浸っていられたら。そう思う気持ちも嘘じゃなかった。
 けれどチャールズと踊った後、カテリナは後ずさるような一言を口にしていた。
「お母さんだったら、早く帰りたいなんて言わなかったかな」
 ここには国王陛下がいる。国王陛下と一緒に過ごすことがどうして嫌なのと自分に問いかけると、嫌じゃないよ、苦手なだけだよと子どものような答えが返ってくる。降臨祭の半分、毎日のように一緒の部屋でお仕事をしていたじゃないと言い募っても、それとこれとは全然違うと苦しそうに言い逃れる。
「ありがとう。チャールズが連れてきてくれて嬉しかったよ。でも……なんだか、自分が自分じゃないみたいで」
 国王陛下の前で「カティ」として振舞えないのが、たまらなく気まずい。
 せっかく連れてきてくれたチャールズに申し訳なくて、顔を伏せて言うと、チャールズは考え込む素振りを見せた。
 チャールズはどうされたのですかと問い返すこともなく、ただ彼がいつもそうするように、カテリナの打ち明けた迷いに優しく応じた。
「リリー様にはお立場がございましたから、確かにいつでもご自分の意思でサロンを出られるわけではありませんでした。でも」
 一度言葉を切って、チャールズは続けた。
「今のお嬢様のように、早々に立ち去りたいと仰ったときもありましたよ。……怖がっていらしたのでしょうね」
「誰を?」
「リリー様が怖がったのは、旦那様しか存じ上げません」
 チャールズはちょっとだけ不機嫌に言ったが、すぐにカテリナの手を取って導いた。
「どうなのでしょう。星が定めているものなら私には留めようがないのでしょうが、今はお嬢様の小さなわがままを叶えてさしあげなければ」
 彼はそう言って、王妹マリアンヌの方に足を向けた。
 カテリナはチャールズにギュンターのことを告げなかったが、彼を気にしてサロンを後にしたいと考えたのは伝わっていたらしい。チャールズはマリアンヌからテーブルを三つほど挟んだところで待ち、ギュンターが彼女の側を離れたときを見計らって彼女に近づいた。
 そのとき、マリアンヌはこの国の姫君としての名に恥じない、誰に不公平にもならないまなざしと言葉で訪れる人たちを迎えていた。
 けれど歩み寄るチャールズを見てその意図を察したようだった。
 マリアンヌはグラスをテーブルに置き、少し外すことを周囲の人に告げると、一人チャールズに近づいた。
 二歩先でマリアンヌは立ち止まり、チャールズに声をかけた。
「まずはご令嬢にサロンへ来ていただきたかったの。感謝します、メイン卿」
 マリアンヌはチャールズがこの場を辞すことを告げる前に、その言葉を読み取ったようだった。
「お気になさらないで。ご令嬢に、サロンを嫌いになっていただきたくないの。初めてサロンを訪れるときは誰でも緊張するのだから、とても自然なことよ」
 マリアンヌは少し残念そうに目を伏せたが、すぐに微笑んで言った。
「これからですもの。またいらしてね」
 出会ってからどんなときも、この方は微笑みを絶やさない。すぐに顔に出てしまうカテリナには到底及ぶべくもない姿に、ただ仰ぎ見ることしかできない。
 カテリナはチャールズの腕から手を離して、初めて自分の言葉であいさつを述べる。 
「殿下、お招きいただき光栄でした。星の祝福を受けたように胸がいっぱいです。今日はこれで失礼しますが、必ずまた御前に参上します」
 せめてきっちりとお礼を述べて、騎士の誇りにかけて綺麗に礼を取る。
 カテリナが顔を上げると、マリアンヌはそれでいいというようにうなずいてくれた。
 ギュンターにもあいさつをするべきだとはわかっていたが、カテリナは彼には話しかける勇気がなかった。安心と寂しさの混ざり合ったような気持ちで周りを見回したカテリナを、マリアンヌが苦笑して見ていたのは気づかなかった。
 まだサロンを訪れて一刻と経っていなかったから、ダンスもチャールズと一度踊ったきりで、来客と会話することもできなかった。ただここのサロンの来客はみな物静かで距離を心得ている人々だったから、折を見て訪れたときには輪の中に入ることもできそうに思えた。
 陛下がいらっしゃらなければ今日だって、きっと何度もダンスができたもの。口をへの字にして思ったけれど、今までダンスにそれほどこだわっていなかった自分がダンスのことを残念がっているのは、今日が星のまたたく澄んだ夜だからに違いなかった。
 チャールズに手を引かれて庭を出て、館の門扉までやって来たときだった。
「待って!」
 まさか彼が追ってくるのは想像していなかったから、カテリナは呼び止めた声に硬直してしまった。
 振り向かないという選択もできたのかもしれないが、カテリナはごくんと緊張を呑み込んで、恐る恐る振り向く。
 そこに慌てて抜け出してきたのか供も連れず、ギュンターが立っていた。カテリナが知っているのは穏やかな王と不機嫌な上司で、少年のように性急に声をかけた彼は、知らない人のようだった。
「私は君に、何か失礼をしてしまったんだな。許してほしい」
 気落ちしたように目を伏せた彼に、カテリナは首を横に振った。乱暴なことを言われたわけでもないのに彼と話ができない自分が不思議で、誤解を解きたいのに、それがまったくの誤解でもないような気持ちに呑まれてしまった。
「今度いつ会えるかは……訊いてはいけないことなんだろうか」
 カテリナに訊ねるというより頼み込むような声音で、ギュンターは言葉をこぼした。
 カテリナは考えがまとまらないときは、どこかに突っ走るか、潔く逃げるかのどちらかだった。今は走る場所が見当たらないので逃げる一択だとわかっていたのに、なぜか世間の女性たちがよくするように、占いに頼るような気持ちで星をうかがっていた。
 星読み台で数式を書き上げて精霊の言葉を読み解くならいざ知らず、星は瞬間的に答えを出してはくれない。
 そんなこと言ったって、私にだってわからないよ。カテリナはとっさに子どもがすねたような顔で、ギュンターを見返してしまった。
「……あ」
 俗世を知らない精霊のようだったカテリナの表情に人間らしい不満が浮かんだのを見て、彼は閃いたようだった。
 ギュンターは一呼吸も置くことなく、命令じみた一言を放つ。
「また会ってくれ」
 瞬間、ギュンターがカテリナに言ったのは、いつもの声と同じだった。繕っている顔を一枚めくった、無神経だが的確で、有無を言わさない一言だった。
 カテリナは反射的にむっとして、嫌ですよと言いかけた。ところがその一言を告げる前に、ギュンターは手を伸ばしてカテリナの手に何かを握らせた。
 不思議ともう怖くなくて、カテリナはきょとんとして手のひらを開いた。そこに星の文様が描かれた金貨があって、それに息を呑んだのはカテリナではなく側にいたチャールズだった。
 昔、カテリナの母と父が海の向こうの王城で出会ったとき、母にひとめぼれした父が、ヴァイスラントの先王から賜った金貨をその場で母にプレゼントしたらしい。
 その逸話は娯楽新聞に載ってしまって、今でもサロンに出かける男性は、イミテーションの星の金貨をポケットに忍ばせていると聞く。
 とはいえヴァイスラント公国の女性たちはたくましく、意中でない男性からイミテーションをもらっても、その場であっさり捨ててしまうのもよくある話だった。カテリナもとっさに考えたのがそのよくある方だったから、ギュンターの一手はそんなに成功したとは言えない。
 ただ普段全然労わない彼が珍しく褒めたときみたいに、不意にぽとんと手に落とされた金貨は、カテリナの心に小さな音を立てて収まったようだった。
「はい!」
 気が付けば子どもが得意げに胸を張るみたいに笑い返して、カテリナは答えを待たずに馬車に乗った。
 走り出した馬車の中で手のひらの金貨をみつめて、カテリナはふふっと笑った。
 星がまたたく夜は、そんな風に過ぎていった。
 お休みが明けて朝、カテリナが王城に出勤すると、国王陛下と彼の私室の前で出会った。
 カテリナが出勤する前からギュンターが仕事をしているのはよくあることだが、そこはもちろん国王陛下の私室なのであって、カテリナは近衛兵にあいさつをしてから部屋に入れてもらう。国王陛下が自分で鍵をかけて部屋を出るという場面に出くわすのは、普通のようで全然普通ではない。
「おはよう」
 カテリナは昨夜のサロンのことを瞬間的に思い出して一歩後ずさろうとしたが、それを制するようにギュンターから鋭く言われた。
「……おはようございます。何をしていらっしゃるのですか」
「出勤だ。君も毎日そうしてるだろう」
 ギュンターはちらとカテリナを見て、目の前の扉に目を戻した。
「何も持たなくていいから一緒に来なさい」
 ギュンターはそう言って鍵を回し終えると、それを自分のポケットに仕舞って先に歩き出した。
 カテリナは肩掛けカバンをぱたこんと揺らしながら彼の後ろについていった。ギュンターは会議に出るときのような詰襟とサーコートという公務用の格好だが、彼がそういうときによく小脇に抱えている書類はまったくなく、仕事中の常である難しい顔もしていなかった。
 ギュンターは歩みを止めずに、ふいに後ろを歩くカテリナに声をかける。
「カティはどうして騎士になったんだ?」
 彼女は唐突なその質問に勘ぐる性格でもなく、素直に答える。
「父が騎士で、同じ仕事がしたいと思ったからです」
「奇遇だが私もそうだ。父が国王だったから、同じ仕事に就いた」
 ギュンターはちょっと声をもらして笑ったが、サロンで女性たちに見せる貴公子然としたものとは違う、なんだか気楽な笑い方だった。
「ずっと重荷ばかりだと考えていたが、この仕事をしていてよかったと初めて思ったよ」
 彼はそれきり別段何か言うことはなかったが、やけにすっきりした顔をして窓の外の晴れ渡った空を見て、つかつかと歩いていった。
 ギュンターが席に着いたのは四階の中央に位置する会議室だった。普段カテリナが事務仕事をしている彼の私室とは違って円卓になっていて、重臣たちが集まっては重要なことを決める、いわば公的な国王陛下の仕事場だった。
 カテリナが部屋を出ようとすると、またギュンターから鋭く声がかかる。
「待て、カティ。君はそこだ」
 カテリナも壁際で警護をしていたことはあるが、今日のように席を決められたのは初めてだった。さすがに重臣たちと同じ円卓ではないが、国王陛下に書類を差し出す斜め後ろの補助席に着くようにギュンターから言われて、肩掛けカバンを下ろしてメモの準備をした。
 陛下の隣であるマリアンヌ王妹殿下の席をはじめとしてまもなくすべての席は埋まり、定刻を確認すると、ギュンターから口を開いた。
「集まってくれて感謝する。たびたび議題に上った、降臨祭の最後のダンスのことだが、結論が出たのでみなに知らせようと思う」
 カテリナはメモに視線を落としながら緊張に身を固くした。それは自分が休暇中にもう決まっていると思っていたが、いざ耳にするとなると逃げ出したくなった。
 その瞬間に自分の仕事が終わってしまうから、熱心にいろいろなことを教えてくれた陛下が遠くにいってしまうから……陛下が最愛の人とダンスを踊るから。最後の一つは誰にとっても喜ばしいことのはずなのに、カテリナはなんだか喜ぶことができなかった。
 ギュンターは息を吸って、一同を見渡しながらその答えを告げた。
「決めた。降臨祭の最終日、私が贈った星の金貨を持って現れた女性とダンスを踊ろう」
 彼がそう言った途端、カテリナは昨夜、母から譲り受けたドレッサーの引き出しに大切に仕舞った金貨のことを思い出した。
 でもあれはイミテーションで、女性慣れしている陛下ならきっといろんな人に配っているもので、そう心の中で言い訳したカテリナに、至極真面目な陛下の声が聞こえてくる。
「私が星の金貨を渡した女性は三人だけだ。アリーシャ、ローリー夫人」
 ギュンターは目を伏せて、どこか独り言のように言った。
「もう一人は……すぐ側にいると知っているが、最終日に現れてくれるかはわからない」
 相手にも準備があるのだからと前もってダンスの相手を決めようとしていた陛下としては、まったくらしくない不確かな選択だった。重臣たちとしても陛下の相手が決まらないことには精霊との約束が守れないわけで、反対は必至のようにも見えた。
 陛下の隣で身じろぎをして、最初に意見を述べたのはマリアンヌだった。
「最愛の人は陛下の御心にあるということですね」
 マリアンヌは誰よりも陛下と長く過ごしてきた落ち着きをもって、重臣たちの不安を優しくなだめた。
「おそらくもう陛下の御心は決まっていらっしゃる。けれどその女性が自分を選んでくれるかどうかだけが、陛下にはわからない」
「……そうだ」
 ギュンターが深くうなずくと、マリアンヌはうなずき返した。
「では、私には反対の理由がありません。それこそが精霊の望みだと思うからです」
 マリアンヌが微笑んで一同を見やると、重臣たちは今この国で王に次ぐ高貴の意思の力に怯んだ。
「ご意見のある方はいらっしゃいますか?」
 結局その場で反対の意見は出ることなく、御前会議は解散となった。
 カテリナが肩掛けカバンにメモを仕舞って退出しようとすると、マリアンヌから声をかけられた。
「カティさん。陛下のお側を片時も離れないでくださいね」
 お願いの形を取った命令と気づいてカテリナが大きな目でまばたきをすると、マリアンヌは笑って陛下を振り向く。
「陛下もそろそろ、最後のダンスより降臨祭の後のことが気になっていらっしゃる頃かしら」
「マリアンヌ」
 ギュンターは怒ったような声で言ったが、本気で怒ってはいないとマリアンヌにはわかっているようで、彼女は楽しそうに笑っていた。
 そういうところは長い間築いた信頼関係でしかできないものだとカテリナが感服していると、ふいに二人の前に進み出た者がいた。
「失礼。折り入って、陛下とマリアンヌ殿下にお願いしたいことがございます」
 熊のような見上げるばかりの巨体を案外繊細な仕草で丸めて礼を取り、王と王妹の前に膝をついて二人を見上げた男は、カテリナもよく知っている。
 カテリナは素直だまっすぐだと言われるが、その元となる彼は、敵地で最後の一人になっても戦い続けて、命がかかった会談でも王に自国にとって最良の選択を進言した忠臣だ。
「可及的速やかに、カティを騎士団に返していただきたい」
 彼はカテリナの元上司の上司のそのまただいぶ上の総帥、ゲシヒト・バルガスという難しい名前なのだが、もっと簡単な名前もある。
「……カティがいないと夜も眠れない者もいますから」
 顔を伏せてつぶやいた言葉こそが彼の本音だと知っているのは、カテリナが彼の実の娘だからだった。
 父が下を向いた目がだいぶ潤んでいて、今にも泣きそうな顔になっているのを、カテリナだけが知っていた。
 ゲシヒト・バルガス総帥、彼ほど星読み台に憎まれ、国民に愛されている人はいない。
 彼は精霊の定めた運命をころころと変えて、誰も予想していなかった未来に着地してきた。
 生まれた辺境の村でいつものように農作業をしていたところ、侵略してきた隣国の正規軍を斧一つで打ち負かしてしまったことに始まり、その後の隣国との戦で軍功を上げるかと思いきや、敵国の将軍も感涙するほど無駄な犠牲を嫌い、その結果として隣国の農村化という歴史学者も首を傾げるような現実に至った。
 彼が天命に導かれた英雄か、ただ目の前のことに愚直に進み続けた農夫なのかは置いておいて、彼の後半の功績が隣国の王姉であったカテリナの母に恋をして、ただ彼女と結婚したいという個人的願望からの行動であったのは、カテリナだけでなく国民の大体が知っている。
 星読み台の一室で、またもそんなゲシヒトの行動に振り回されている人々がいた。
 王弟シエルは羊皮紙から顔を上げたものの、すぐに突っ伏すように頭を垂れた。
「何度見ても運命が変わってる。またゲシヒト総帥のせいなのか」
 シエルがため息をついたのも無理はなく、ゲシヒトは星読み台が日夜力を尽くして読み解いた運命を朝飯前に変えてしまう。あらかじめ運命を定めた精霊も、ゲシヒトが突き進んだ先にある未来を見て「案外悪くないかも」と考えてしまっている節がある。
 王妹マリアンヌは弟より強かった。目にしたものを受け入れずに跳ね返した。
「だめよ、シエル。今回こそは運命を変えられるわけにはいかないの」
 まだ太陽が高く、本来の仕事が始まる前の星読み台でも、既に彼らの戦いが始まっていた。シエルが算式で導いた星の運命にも、王妹マリアンヌは断じて抵抗する心づもりだった。
「国王陛下は降臨祭の最後の日、最愛の人とダンスを踊る。私たちはその約束を果たさないと。……カテリナ」
「は」
 カテリナは国王陛下にも隠している弟妹殿下の二人だけの密談の時間に、どうして自分が呼ばれているのかさっぱりわからないながらも、恐縮して頭を下げた。
「今日を含めて、降臨祭もあと四日です。私が陛下に引き合わせた三人の令嬢はわかったかしら?」
 マリアンヌの問いかけに、カテリナは少し迷ってから告げた。
「二人でしたら、わかりました。アリーシャ嬢とローリー夫人ですね」
「もう一人もわかっているはずよ」
「で、でもそれは」
 カテリナはごくんと息を呑んで言葉に詰まった。
 カテリナが傍目にもわかるほどうろたえていると、シエルもくすっと笑って言葉を添えた。
「姉上のお考えはわかるな。本命が陛下を好きになってくれるように、いろいろ演出したんだろう」
「ええ。彼女は今回みたいな特別な機会を用意しないと、たぶんいくら王城に勤務していても陛下に接触しようとしなかったのですもの」
 くるくると目を回して考えているカテリナに、ね、とマリアンヌは親しみをこめて呼びかけた。
「私はあなたをずっと前から知っていて、きっと陛下もあなたを気に入るとわかっていた。私のいたずらは、半分は成功したと思うの」
 ふいにマリアンヌは青い瞳を輝かせて問いかける。
「カテリナ、今の気持ちを教えて。……陛下と最後のダンスを踊ってくれる?」
 その言葉を聞いたとき、カテリナの中で小さな子どもが泣き出すような感覚があった。
 だめ、それはだめ。小さなカテリナはわがままを言うように叫んで、どうしてと問いかける大人のカテリナの声をかき消した。
 母の肖像画の前、大きな背中を丸めて震えていた父、みつめることしかできない自分。いつのことかは忘れてしまったのに、記憶の底に張り付いて離れない。
 自分の手に涙が落ちた感覚で目が覚めた。カテリナと気づかわしげに声をかけられて顔を上げる。
「あ、あの、私にできることなら何なりとします」
 カテリナは慌てて涙を拭って、けれどまだ溢れてくる涙に喉を詰まらせながら言った。
「た、大変な名誉とわかっています。でも、それでも私は……最後のダンスは、父と踊りたいのです」
 姫君の言葉にきちんとした返答をと考えているのに、心は子どものような拙い言葉でカテリナの気持ちを告げさせた。
「私にとって最愛の人は父ですから」
 最愛の人とダンスを踊るのは国王だけに決められたもので、一国民のカテリナはそのとおりにする必要はない。
 それでもカテリナは、どうしても降臨祭の最終日に父とダンスを踊りたかった。二度と最愛の人に会うことの叶わない父に、一人でその日を過ごしてほしくなかった。
 うつむいて黙ったカテリナは、マリアンヌとシエルの戸惑いの気配を感じていた。ダンスは王族にとっては儀式の一つで、カテリナの子どものわがままのような気持ちが伝わったかは定かでなかった。
 シエルはマリアンヌをなだめるように見ると、彼はカテリナに言った。
「無理にとは言わないよ。ダンスの相手を選ぶのはその人次第だ。喜びを相手に伝えるダンスが哀しい儀式に変わってしまうのは、精霊の望むところじゃない」
 シエルは助け舟を出したが、ちょっと考え込む時間があった。
 カテリナもうつむいたまま考えていると、シエルは再び口を開く。
「でも僕は不思議に思う。精霊が、女の子を泣かせるような運命を選ぶかな」
 シエルは席を立ってカテリナの椅子の前に屈むと、彼女と目線を合わせて言った。
「ゲシヒト総帥はよく運命を転じる。今回もそうなのだと思う。今運命のサイコロは転がっている最中なんじゃないかな」
 顔を上げたカテリナと目が合うと、シエルは不思議な労わりを彼女に送ってみせた。
「そう、あと四日もあるんだよ。もうちょっと運命と踊ってもいいはずだ」
 シエルがマリアンヌを振り向くと、王妹殿下は弟の言葉に少し考えたようだった。
 ただマリアンヌは王に次ぐ立場から、確かな気がかりは口にしてみせた。
「星は今日動きを変えた。今のままでは国王陛下と最愛の人のダンスは叶わない」
 シエルは星読み仕官として事実にうなずくと、マリアンヌはふいに責任を取り払ったような苦笑を浮かべた。
「……でも、運命は星が決めるもの。星に任せましょう」
 マリアンヌは一息ついて、いたずらっぽくカテリナに目配せした。
「今夜もゲシヒト総帥にダンスパーティの招待状を送ってあるの。ぜひいらして」
 カテリナはその言葉に慌てたが、マリアンヌはシエルと顔を見合わせて楽しそうに笑っていた。
 カテリナが半日の星読み台への出張から戻ると、王城はあちこちで補強工事をしていた。
 板を張ったり、通路を封鎖したり、仮設の雨どいを作ったり、手慣れた工事風景に、カテリナはなるほどと思う。
 カテリナが工事現場を避けながら会議室に辿り着くと、終業時間に国王陛下その人から注意喚起があった。
「明日は昼から夜にかけて嵐になる。みな、安全第一で、極力外に出ないように」
 ヴァイスラント公国の夏の風物詩として、必ず一度は大嵐が来る。古くは屋根が吹き飛んだり浸水したりと一大事だったのだが、星読み台の天気予報の精度が上がってからは国民も事前に対策できるようになったので、それほどひどい被害にはならない。
「あとは、くれぐれも飲みすぎないように。以上」
 それより国王陛下自らお言葉をくださる理由は、陽気なヴァイスラント国民の常として、一日外に出られないとなると家の中で馬鹿騒ぎをする悪癖があるからだった。
「は」
 それは王城に勤める者たちも同じで、みなしおらしく頭を垂れたものの、大手を振るって景気よく騒げる一日に内心浮かれているのがカテリナにも見て取れた。
 いそいそと解散する仕官たちの顔が笑っているのを横目に、国王陛下はため息をついて腰を下ろした。みな退出した頃を見計らってカテリナが帰城の報告をしようと歩み寄ると、ギュンターはしれっと先に言葉を投げる。
「星は、私が最後のダンスを踊れないと告げただろう」
 図星を指されてカテリナが言葉に詰まると、ギュンターは懐から手紙を取り出して見やった。
「そうだろうな。メイン卿のご令嬢に今夜のダンスパーティへお誘いの手紙を送ったが、卿から断りの手紙を受け取ったところだ」
 カテリナは直立不動のまま、表情には混乱をありありと出していた。カテリナが仕官学校に入るとき、履歴書の身元保証人欄にはチャールズ・メイン卿と記している。メイン卿のご令嬢のことをご存じかと聞かれたらどうしようと、カテリナは冷たい汗を流した。
「まあいいか。メイン卿のご令嬢でないのは知っていることだし。……カティ」
 ところがギュンターはその話題をあっさりと切り上げて、語気を強めてカテリナに言った。
「どうせ夜勤を引き受けた君に言っておくが、今回の嵐は大きいからな。急いで補強工事をしたとはいえ、王城の中もあちこち危ないところがある。明日は無理に出勤するんじゃないぞ」
 いいなと念を押して、ギュンターはまだ少し未練がありそうな顔でチャールズから受け取った断り状に目を戻した。
 カテリナは一礼して退出したが、彼女も先ほど父から手紙を受け取ったところだった。「今夜のパーティどうするの?」と伝書鳩を飛ばしたところ、父は「行かないもん。どうせカテリナちゃん夜勤するんでしょ」と拗ねきった返事だった。
 恐れ多くも国王陛下と王妹殿下からのお誘いを行かないもんで片付ける父はどうかと思うが、カテリナも父との関係を伏せている以上、父と公の場に出るつもりはなかった。それより嵐の予報を聞くと万が一災害になったときに備えて、夜勤を引き受けるカテリナだった。
 食堂で軽く夕食を取り、宿直室に入って仮眠を取ろうとしたが、まだ暗くならないうちから騎士団の詰め所で騒ぐ声が聞こえてきていた。みんなお酒好きだなぁと眠るのをあきらめてベッドから起き上がり、靴を磨いていたとき、ノックの音が聞こえた。
「カティ、ちょっと入ってもいいですか」
 懐かしい呼び声を聞いて扉を開けると、騎士団の室長とウィラルドがそこにいた。この室長の「ちょっと」は良くない知らせの前触れだが、見上げた室長もウィラルドも苦笑しながら明るい顔をしていた。
「水をください。詰め所はだいぶ出来上がっていましたのでね」
 頼まれてカテリナが二人に水を差し出すと、二人は礼を言ってそれを飲み干した。
 ヴァイスラントの夏の常として、干し草を編んだ敷物の上で靴を脱いでそこで涼む。ただ明日の嵐に備えて窓は閉めてあって蒸し暑かった。
 室長は既に中年に差し掛かる年だが、名門貴族の出だからか扇で仰いでいても実にお似合いの仕草だった。彼は一服すると、涼しげに切り出す。
「実は、あなたに再度の異動の話がありまして」
「あ、あの。室長」
 カテリナは騎士を辞めることを伝えるなら今だと思った。女性であることも、総帥の娘であることも隠したまま騎士でいるのは限界を感じていると、騎士になったときからカテリナを見守ってきてくれた室長になら打ち明けられるような気がした。
 室長はカテリナをみつめて、諭すように優しく言葉を続けた。
「私はあなたが何か話したがっている気配は感じていました。隠していることがあるとも。……でもそれは、国王陛下もお気づきになったのですよ」
 カテリナが息を呑むと、室長は彼女が出張している間の出来事を話してくれた。
「今日、国王陛下が私とウィラルドを直々に呼び出しになり、「カティは真面目で一生懸命勤めているが、いつも周りに何かを隠している素振りがある」と仰っていました。「もし騎士でいることに生きづらさを感じているなら、私から文官や星読み仕官へ異動できるようはからうが、どう思うか」と」
 国王陛下がそのように心配を抱いていたとは、カテリナは少しも気づかなかった。彼は今日だって明日の注意事項を手短に伝えただけで、カテリナ自身に問いかけたりはしなかった。
 でも彼がカテリナのことを見ていなかったなら、明日嵐の中を出勤するなと念を押したりもしなかった。たった数日間側にいただけでも、カテリナの性格をよくわかっているのだった。
「まあ、ウィラルドがきっぱりお断りしてしまったのですが」
「え?」
 カテリナがきょとんとしてウィラルドを振り向くと、彼は憮然として言った。
「「カティは騎士になりたくてなりたくて、一生懸命がんばってようやく騎士になったんです。隠し事が何ですか。誰もそんなこと気にしちゃいません」と言った」
「国王陛下に対して無礼ではありましたが、熱意は伝わったと思いますよ」
 室長が苦笑交じりに言ったのも、カテリナは心の奥がぎゅっと絞られるような思いで聞いていた。
 ためらいながら、ずっと問いかけたかった本音をぽつりと口にする。
「僕は……このままでもいいんですか?」
 カテリナがウィラルドを見上げて震えると、彼はぼやくように言った。
「俺は間違ったことを言ったか?」
 瞬間、カテリナは胸に迫った感情のままウィラルドに抱きついていた。
 偽りを誰かに弾劾されるのを恐れていた。でも、それでいいと言ってくれた。ありがとうの言葉も喉の奥でぐしゃぐしゃになって、ただぎゅっとウィラルドにしがみつく。
「ちょ、カティ!」
 動揺するウィラルドの声に、どっと部屋になだれ込んでくる同僚たちの声が重なる。
「ウィラルド、これで男になったつもりか?」
「数年上官やったくらいで、俺たちのカティをものにできると思うなよ!」
「次に異動させられるのお前だからな!」
 聞き耳を立てていたらしい同僚たちは乱暴にウィラルドをカテリナから引きはがして、馬鹿騒ぎに巻き込んでいく。
 景気よく抜かれる酒瓶の音、立ち込める酒気につまみの匂い、騎士団の夜は陽気に更けていく。
 カテリナは今まで彼女を取り囲んでいて、偽りの自分さえも包んでいてくれる日常に、ちょっと泣きながら笑っていた。
 夜勤明けの朝はいつもより遅くとも許されているのだが、その日はカテリナが目を覚ましたときもまだ暗かった。
 起きる時間をまちがえてしまったのだろうかと窓を開けて中庭の花時計をのぞいたが、陽射しがまったく照っていないからか何の時間も示してはいなかった。雨も降っていなければ風も吹いていないのに、空は塗りつぶされたように黒く、不気味なくらいに辺りは静かだった。
 騎士団の詰め所を見に行くと、昨夜の馬鹿騒ぎが利いたのか同僚たちは雑魚寝状態で眠っていた。カテリナは彼らを起こさないようにそっと扉を閉めて詰め所を後にすると、宿直室に戻った。
 食堂はもう閉まっている時間のはずなので昨日買いだめしたパンで朝食を終えて、支度を整えて上層階に向かった。
 昨日、国王陛下から王城に勤める者たちに事実上のお休みが言い渡されたからなのだろうが、それにしても誰ともすれ違わないのは奇妙だった。あちこち通行止めで遠回りをしたからか、カテリナの知る王城でもないようだった。
 水槽の中を歩くような、どこか現実味のない気分で陛下の執務室に入ると、陛下だけは普段通りに仕事をしていた。
 カテリナは当たり前の光景に安心して、あいさつの声をかけようとしたところで立ち止まる。
 普段、カテリナが隅の机とセットで使っている椅子が、陛下の机の前に移動していた。今日はその椅子にかけて陛下の前で仕事をしている女性がいた。
 王妹マリアンヌは陛下と言葉を交わすでもなく、分け隔てなく国民に見せる微笑もなく、ただ事務的に書類に加筆しては陛下に返していた。対する陛下も、マリアンヌの顔も見ずに書類を受け取り、手短に書類に目を通しては印を押すという動作を繰り返していた。
 カテリナは恐ろしく素早く、感情を挟まない国王陛下と王妹殿下の執務風景を今初めて見たわけではなく、二人が良き仕事のパートナーであることは知っていた。ただ王妹マリアンヌは普段、国王陛下から外交を任されて大使たちの相手をしているから、こうして机に向かって国王陛下と事務仕事をしているのは珍しかった。
 カテリナが声をかけられなかったのは、そこに兄妹の無二の信頼を見ていたからだった。マリアンヌが諸外国に誇る才媛であるのはずっと知っていた。けれど国王陛下が自分に一番近い椅子を誰のために用意しているのか、突然理解したのだった。
 そうだった、私に対するようにイライラする必要も、言葉を尽くして教える必要もない。……王妹殿下は、生まれながらの姫君だもの。
 ふいにギュンターが顔を上げて、立ちすくんでいたカテリナを見た。
「おはよう。カティ、危ないところを通ってこなかっただろうな」
 今空を覆う雲のようにカテリナが重い気持ちに押しつぶされそうになっていたとき、ギュンターが苦笑交じりに声をかけた。
 まるで子ども扱いの言葉に普段ならむっとするはずが、はいとだけ答えて、カテリナはしょげて壁際に立った。
 ギュンターはそんなカテリナに一瞬眉を上げたものの、席を立ったマリアンヌに目を移して言う。
「おっと、そろそろ昼だったか」
「ええ。風も出てきたようです。私は今のうちに自室に戻りますが……」
 マリアンヌはふと窓の外を見て足を止めて、何事か思いをめぐらしたようだった。
「何か見えたか?」
 問いかけた兄に、マリアンヌは考え事から覚めたような顔をして、首を横に振って微笑む。
「何でもありません。では、陛下。夜勤明けのカティさんにあまり無理をさせないよう」
 マリアンヌはいつも通りの気配りを見せた後、悠として去っていった。
 十年に一度の大きさの嵐という星読み台の知らせは確かなようだった。マリアンヌが去ってまもなく、窓を激しい雨が打ち、王城自体も風にあおられて少し揺れ始めた。
 普段晴れ晴れとしたカテリナの心の中も、自分が座っている席が本来自分の席ではないと思うにつけ、曇り空が一向に晴れなかった。
「カティ、どうした。意見したいときは言えばいいんだぞ」
 ギュンターが以前なら苛立つところでぎこちない声音で言ったことも、やっぱり自分は未熟なんだと落ち込んだ。
 ギュンターはじろりとカテリナを見て言う。
「そろそろわかっていると思うが、俺は言われなければ気づかない人間なんだ。そんな俺でも最近気づいたが、君は呑みこんだ言葉がたくさんあるな?」
 彼は目を上げて揺れたカテリナの目をとらえると、仕事の話をするようでそうでもないことにも触れた。
「君は言わないだけで思ってることがたくさんあるはずだ。もっとそれを口に出していい」
 そう言われて、カテリナはなんだかむずかゆい感情に背中を押された。カテリナには子どもの頃から周りに隠していることがたくさんあったから、素直な反面、自分を守るために言葉を呑み込む癖もあった。早いうちから父に心配されていたそれを、出会って十日も経たないギュンターにも気づかれていると思うと、少し怖いようでうれしくもあった。
 カテリナは一度うつむいてぽつりと言う。
「マリアンヌ様のように陛下を支えられる方は、きっと他にいないのだと思って」
「マリアンヌ?」
 思わずカテリナが心に抱いた言葉をそのまま見せると、ギュンターはまったく想像していなかったことを言われたように目をまたたかせた。
 カテリナが黙ってうなずくと、カテリナがどういう意図でそれを告げたのかギュンターにも伝わったらしい。
 ギュンターはぷっと吹き出して、頬杖をついて言う。
「ははっ! 考えたこともなかったな。付き合いが誰より長いのは確かだが、マリアンヌは妹だぞ?」
「でも、精霊との約束は……!」
 最愛の人とのダンスなんですと、カテリナが言葉にしようとしたとき、隣室で物音が響いた。
 とっさに騎士としての役目を思い出してカテリナが隣室に走ると、今日はどこも閉じられているはずの窓が開け放たれて雨が入り込んでいた。
「殿下!」
 そこに降り込んでくる雨に濡れながら立ちすくむ姫君をみつけて、カテリナは古い記憶を思い出していた。
 今は多くの国民が忘れかかっていることだが、王妹マリアンヌは幼い頃、崩壊しかかっていた隣国から亡命してきた姫君だった。先王と先王妃は実の子と分け隔てなくマリアンヌを育て、ギュンターとシエルもそれを受け入れてきたから、マリアンヌも完全にヴァイスラントに馴染んでいるように見える。
 それでもカテリナは同じように他国からやって来た母が心に残していたものがあるのだと、父やチャールズから聞いて育ってきた。
 カテリナは雨の中に揺れるものを示して言う。
「……ツヴァイシュタットの旗が心配なんですね。私がお取りしますから、お待ちください」
 マリアンヌが食い入るようにみつめる先、そこに彼女が幼い日に隣国から持ってきた旗が揺れていた。
 ヴァイスラントの精霊は人々に好意的だが、隣国ツヴァイシュタットで信じられていた精霊は元々人間に敵対する恐ろしいものだった。隣国では、精霊が描かれた物は大切に扱わなければ人々に災いをもたらすと言われていた。
 数十の旗の中で、黒髪に青い瞳の精霊の横顔が描かれた隣国の旗は、風にあおられて今にも破れてしまいそうだった。カテリナはどうにかマリアンヌを説得して下がらせると、雨の中ベランダに出る。
 旗はベランダの外に向かってしなっていて、身を乗り出さないと手は届かないようだった。カテリナはベランダの端に移動して、少し背伸びをしながら虚空に手を伸ばす。
「カティ! 馬鹿、何をしてる!」
「大丈夫です! こういうことは得意なんです!」
 背後でギュンターの怒声が聞こえたが、雨音にかき消されそうだった。カテリナは構わずベランダから身を乗り出しながら答える。
 いつか父が母に言っていた。人が忘れ掛かっていて気に留めなくなっているものでも、誰かが大切に思っているのなら、それはまだ必要なものだから。大切なものを抱くように、手に取って守ってあげなさい。
 昔、母が隣国から持ってきた物たちを捨てられずにいたとき、父がそう言って母を受け入れたように、カテリナもマリアンヌの心を守りたかった。
「……よし。これで……!」
 やっとカテリナが旗をつかみ、引き寄せようとしたとき、頭上で雷鳴がとどろいた。
 城が大きく揺れたのと共に、世界が落ちてくるような衝撃があった。
「カティ!」
 ギュンターの腕がカテリナの体を抱えて部屋の内に引き込んだのと、どちらが先だったか。
 荒くれた風に巻き込まれて旗が折れたのを見たのを最後に、カテリナの視界も反転した。
 精霊は悪だと言われている国もあるが、星読み台を通じて精霊と長い交流をしてきたヴァイスラントでは、それは誤解だというのがほとんどの国民の考えだった。
 男女の別がなく、人より遥かに長い時を生きる精霊は、人には理解できないものを理解していることもあれば、一方で人が気にすることを全然気にしていなかったりする。精霊とすれ違う原因は、精霊が人とは違う世界にいるために、人にとっては常識のようなことを知らないためだと言われていた。
 星読み博士が言うには、精霊は幼い子どものようなところがあって、何かを一生懸命伝えようとしているのだが、その方法が独創的なので、昔は長年混乱したのだそうだ。
 カテリナがそう思っていた頃、ギュンターも遠い目をして同じことを思ったらしい。
「たぶんこれが、噂に聞く幼精のいたずらなんだな」
 ギュンターが渋い顔をしたのも無理はなく、先ほどからカテリナと彼は二人きりで国王陛下の執務室に閉じ込められている。
 精霊の仕業だとわかったのは、本来あるはずの扉も窓も消えて、側にいたはずのマリアンヌの姿が見えないからだった。
 カテリナはちょっと弾んだ声でギュンターに返す。
「「今外に出るのは危ない」って教えてくれたんですよ。さすが精霊、徹底してますね」
 カテリナも、こういうことは星読み台発行の特集新聞でも、単に夏の怪奇現象としてもよく聞かされていた。それを初体験できたことの興奮から拳を握りしめて主張すると、ギュンターは呆れ顔でぼやいた。
「喜ぶな。大体は時間が経てば解けるというが、精霊の機嫌を損ねたらどうなるか知れんぞ」
 大人しく座っていろと言いつけられて、カテリナはしぶしぶ隅の事務机に戻った。
 そうは言っても幼精は細部にはこだわらないらしく、ギュンターとカテリナの手元に書類はなかった。怪奇現象の中でも仕事をしようとした生真面目な二人の希望は打ち砕かれて、ギュンターとカテリナの間に微妙な空気が流れた。
 仕方なくギュンターの方が先に仕事をあきらめて、執務室に飾られている肖像画の前を歩く。
 先王と先王妃は数年前に生前退位して、今は辺境で田舎暮らしをしている。だからまだ肖像画には覆いがされず、ギュンターの希望で、彼と二人の弟妹、先王と先王妃の国王一家がそろった肖像画が飾られていた。
「カティ、こちらに」
 普段は背を向けている肖像画をギュンターは時間をかけてみつめると、ふいにカテリナを呼んだ。
 カテリナが側に近づくと、ギュンターは並んで描かれた自分とマリアンヌを見ながら言った。
「すまなかったな」
「え?」
「ツヴァイシュタットの旗は、俺が気づくべきことだった」
 少しの沈黙の後、それが真の精霊の狙いだとしたら相当手練れなのかもしれないが、ギュンターは普段被っている国王の仮面を外して、ただの兄の顔を見せた。
「どうして忘れていたんだろうな。マリアンヌが初めてやって来たとき、あの子はなかなか旗を手放そうとしなかった。昔から弱音一つ言わない子だったが、考えてみれば少し前までは戦争をしていた敵国に、両親から引き離されてやって来たんだ。心細くないはずがなかったのに」
 カテリナはギュンターの苦い表情に、それが国王という公の立場では言いづらいことなのだと察した。
 思い返せばマリアンヌはギュンターの私室にはほとんど出入りしなかった。アリーシャでも仕事中に訪れていたのだから、ギュンターの仕事のパートナーであるマリアンヌなら日常的に来訪してもおかしくなかった。
 カテリナは、マリアンヌが自分を初めてギュンターのところに連れてきたときも、最小限のことを告げて去っていったマリアンヌを見ている。
「聞き分けの良すぎる子なんだ」
 ギュンターは苦い声音で続ける。
「マリアンヌとは喧嘩一つしなかった。いつもマリアンヌが引き下がった。弟のシエルのように、わかりやすく反抗してはくれない」
 ギュンターは頭を押さえてうなった。カテリナは手元に握ったままの、折れたツヴァイシュタットの旗を見下ろして、たぶんそうなのだろうと思った。
 確かに王妹殿下はこの旗を気にしていることさえ口に出さなかった。たぶん幻想から覚めた後も、折れたことに文句一つ言わないだろう。
 どうしたらと考えて、カテリナはふと心によぎったことを口にしていた。
「いたずらしてみたらどうでしょうか」
 ギュンターが訝しげにカテリナを見て、彼女はひらめいた考えを続ける。
「マリアンヌ様がこの国にいらしたとき、陛下がマリアンヌ様に星の金貨を渡したニュースはみんな知ってます。マリアンヌ様が受け取らずに、列席者で一番幼かったアリーシャ様に譲ったのも話題になりました」
 カテリナは容貌といい仕草といい、どこから見ても完璧な姫君として描かれたマリアンヌを見上げながら言う。
「誰より公正で、慈悲深いマリアンヌ様をいじめてはだめです。だからちょっといたずらするだけでちょうどいい。……降臨祭の最後の日、マリアンヌ様を突然ダンスに誘ってみたらどうでしょう」
「い、いや待て」
 ギュンターは慌てて言葉を挟む。
「精霊との約束がかかった公式行事だぞ」
「心配ご無用です。精霊はそういういたずらが大好きです」
 建国のときから伝わる数々の逸話に基づいて、カテリナは胸を張って断言する。
「国民一同、前夜祭から二日間かけて踊りに踊るんですから。その間陛下が妹君と踊っても僕たち国民は全然構いませんし、それが最後の方でも、いっそ本当の最後になっても、たぶんみんな自分のダンスに夢中で気づきませんよ」
 カテリナはくすっと笑って肖像画を仰ぐ。
「降臨祭は、大切な人に言葉で想いを伝えるのが下手な人のために、精霊が特別な時間をくれるんじゃないでしょうか」
 どこかで子どもが口笛を吹くような音が聞こえて、カテリナの視界がくるりと回転した。
 精霊が見せる幻想はあるきっかけで、夢から覚めるようにあっけなく解けるという。カテリナもまばたきをしたときには、扉も窓もあるいつもの国王陛下の執務室にいた。
 そこにはマリアンヌもいて、にこにこしながらカテリナとギュンターを見ていた。
「陛下、もう大丈夫ですからお離しください」
 それより幻想の直前にそうだったようにギュンターが両腕でカテリナの体を抱き寄せていて、しかもマリアンヌの御前だった。
「あ、ああ。無事か、カティ」
「は、はい」
 ギュンターが慌てて腕を解くと、カテリナも焦りながら一歩離れてわけもなく腕をさする。
 微妙な沈黙と距離を取っている二人に、マリアンヌから声がかかる。
「ありがとう、カティ。もう少し遅ければ折れていたかもしれません」
 マリアンヌに言われてカテリナが腕の中の旗を見ると、それは雨風に濡れてはいるものの無事なままだった。
 カテリナは不思議な心地でギュンターを見やると、彼も夢から覚めたようにまじまじと見つめ返した。
「小降りになってきましたね。雨雲も、じきに海の向こうに帰るのでしょう」
 マリアンヌが雲間から差し込む光に目を細めて言う。
 降臨祭の八日目、子どもがわがままを叫ぶようにヴァイスラント中を吹き荒れた嵐は、こうして去っていったのだった。
 建国のときに精霊がまたやって来ると約束した日、それが降臨祭の最終日と決められている。
 初代国王は騒ぐことが大好きなヴァイスラントの国民性は当然知っていて、最終日から数えて十日間を降臨祭としたわけだが、公式見解では最終日以外はただの祝日だ。現在の国王ギュンターも、別段降臨祭に便乗して国民に何かの義務を課すつもりはないのだった。
 しかしそんな良心的な国王の下、ヴァイスラント国民はのびのびと降臨祭を満喫していて、いつの間にか国民の手によって公式行事を創設することに成功していた。
「ということですので、陛下。早速サロンへお出ましください」
 最終日の前日の朝、いつものように執務室で仕事を始めようとしたギュンターの下に、ある重臣が訪れて進言した。
 ギュンターはむっつりと顔を引き結んで言う。
「どういうことかわからない上に、私は忙しいのだが」
「お忙しくはないはずです。昨日、マリアンヌ様が大方片付けてくださったとのことですから」
 ギュンターが毎度心の中で舌打ちするこの重臣、ゲシヒト・バルガス総帥は、元が農夫であったとは思えないほど理詰めで動く男だった。
 ギュンターはじろりとゲシヒトを見て言う。
「何より私はその行事について聞かされていない」
「はっ……申し訳ございません! 失念しておりました」
 大いなる到達点に向けてあらゆる困難を乗り越えて進み、その過程で肝心なところをすっ飛ばすところなど、さすがカテリナの父親でもあった。
 ゲシヒトは熊のような体躯を小さく丸めて謝罪する。
「私の責任です。荷物をまとめて午後にでも辺境に帰ります」
「帰るな、卿よ。あなたにはやってほしい仕事がまだ山ほどあるんだ」
 その気概は大いに国を盛り立ててくれたのだが、未だに新米騎士並みの素直さで仕事に当たるので、ギュンターは彼の前でうっかり舌打ちもできないのだった。
「わかった。いや、何もわかってはいないがわかったことにして話を進める。私は何をすればいいんだ?」
 ギュンターが油断したのは、いつもヴァイスラント国民が創設する公式行事はそんなに手間がかからないためだった。大体何か食べるか踊るかのどちらかで、国王たるものその程度の余興はたやすくこなしてみせなければならない。
 ゲシヒトはすっきりと過去の苦難は忘れる性質で、陛下が同意してくださったと晴れやかにうなずいて言った。
「陛下には召し上がっていただきたいものがございます」
 ゲシヒトは満面の笑顔で、ギュンターを導いて歩き出した。
 彼が向かったのはローリー夫人のサロンで、衛兵が扉を開くとそこは一面ピンク色の世界だった。
 花もカーテンもピンク、天井からひらひら下がるリボンも実に少女趣味で、イベントならではだった。ヴァイスラントの国民はこういう形から入る盛り上がり方が好きなので、ギュンターも慣れていた。
「ローリー夫人があちこちにお声がけくださいましたので、朝から大変盛況しております」
 精霊が好きだったというピンク色の牛乳でも飲めばいいのだろうかと、気楽な気持ちで辺りを見回していると、普段とは違う濃密な香りがギュンターを包んだ。
 ギュンターは何の香りだろうとは思ったが、女性陣が集まるところにはよくあるような気がして、別段不審には思わなかった。
「こちらへどうぞ。ローリー夫人がお待ちです」
 それはそうと、ゲシヒトは熊のような見た目に反して繊細な心配りができる男で、流れるようにギュンターを席に導いて、ローリー夫人への代理のあいさつもこなしていた。
「カティ、今後の参考によく見ておけ。随行というのはああやって……」
 いつもの癖で斜め後ろに話しかけたがそこに少年騎士の姿はなく、ギュンターはそこに久方ぶりの令嬢の苦笑をみとめた。
「すっかりお側にいるのが当たり前になっているのね、カティさんは」
 鈍さは自覚があるギュンターでも、さすがにアリーシャのその言葉が皮肉だとは気づいた。
「お隣、よろしいかしら?」
「あ、ああ」
 優雅に隣の席に座るアリーシャに、振られて気まずいのは俺の方なんだがと思いつつ、アリーシャが怒っている気配をひしひしと感じて何とも言えないギュンターだった。
 思い返せば今日は、カティは用事があるとかで、遅れて出勤してくる予定だった。今はなぜかお守りのようにカティに側にいてほしかったと、ギュンターは訳もなく冷や汗をかく。
 ゲシヒトはローリー夫人の座る中央のテーブルの前で立ち上がって、列席者を目視で確認する。
「お揃いのようですね。では」
 いつの間にか司会も担当しているらしいゲシヒトは、そつなく出席確認をしてから口を開く。
「降臨祭の成功を祈念して、陛下にチョコレートを召し上がっていただきます」
 ここに来る間にゲシヒトから受けた説明によると、ギュンターはこの行事の最初にチョコレートを食べればいいらしい。
 これまでに数々の行事で種々の食べ物を口にしてきたギュンター、別にチョコレートくらい笑顔で食べきってみせる自信がある。
「国民を代表して、アリーシャ嬢。よろしくお願いします」
 問題は、この行事は「女性が初恋の男性にチョコレートを贈る」というもので、食べてもらえれば今の恋が成功するという、誰が決めたかわからないルールがあるのだそうだ。
 ギュンターの元に進み出て、アリーシャが箱を差し出す。
「陛下、ヴァイスラントの男性代表としてお受け取りください」
「……ありがとう」
 今の恋のためにチョコレートを食べさせられる過去の男の気持ちを考えてくれ。ギュンターはそんな素朴な疑問を世の男性たちにもっと持ってほしいと思いながら、お祭りに頭が春になっているヴァイスラント国民が聞くはずがないのもわかっていた。
 ギュンターはアリーシャから星型の箱を受け取って、そこからチョコレートを取り出す。
 口に入れて、一瞬そのあまりの苦さに噴きそうになった。目だけでアリーシャに訴えると、彼女は涼しげに微笑んで見せた。
 ちなみに苦ければ苦いほど新しい恋がうまくいくらしい。繰り返すが、それを食べさせられる過去の男の気持ちをもう少し汲んでほしい。
 カティ、何の用事かわからんが早く出勤しろ。ギュンターが心の中で叫んでいたのと同じ頃、カテリナは騎士団寮の一室でチョコレートを差し出していた。
 カテリナのその日の姿は普段とは違っていて、見る人が見たら驚いたに違いなかった。
「ウィラルドさま、受け取ってくださいますか」
 カテリナは騎士団寮の自室で着替えて髪も下ろし、地味ではあるが家でだけ着る女性の服装をまとっていた。
「こんなこと言ったら迷惑だってわかってます。私は女で、それで……騎士団に入ったときから、ウィラルドさまが好きだったってことも」
 向かい合って立つウィラルドは、驚くさまもなく、ただ少し目を伏せてカテリナの言葉を聞いていた。
「降臨祭がなければ、私は何も打ち明けずに騎士をやめていました。でも降臨祭は、私を囲む幸せにも気づかせてくれた。私は騎士でいたいんです」
 次第に声が小さくなって、カテリナは赤くなりながらぼそぼそと言う。
「ごめんなさい。黙ってて。……好きなんて言って」
 また彼の下に戻るのを考えるなら、性別も好意のことも、言わない方がいいのはわかっていた。それでも言ってしまったのは、たぶんウィラルドに甘えていた。
 そういうカテリナのことを理解した最初の他人も、きっとウィラルドに違いなかった。
「一応言っとくよ。カティはさ、真面目に仕事しようとするあまり、俺に好かれようってがんばってた気がする」
 ウィラルドは目を上げてカテリナを見やりながら、上司らしい諭すような声音で言った。
「それはたぶん恋じゃないよって言ったら、カティの今の恋を否定することになるか?」
「今の恋? 私が?」
 カテリナは目をまたたかせて、不思議そうに問い返す。
 ウィラルドは苦笑してうなずくと、カテリナはうつむいて思いを巡らせる。
「カティは恋をしてるよ。俺にはわかる」
 ウィラルドの目を見返して、カテリナはふいに息を呑む。
 彼の意図するところに気づいて、カテリナはわたわたと混乱した。
「え、でも、嫌いじゃないだけで、ずっと苦手なだけで……!」
 カテリナはさっきとは別の意味で赤くなって、首を横に振りながら否定する。
 ウィラルドは笑い声を立てて、腰に手を当てて言う。
「気づいたか。さて、俺はどうしよう。……邪魔したいな。意地悪したい。どうしよっかな」
 慌てるカテリナの前でウィラルドはうなって、カテリナの差し出したチョコレートの箱を見る。
「これを食べなかったら、まだ俺への初恋は継続って考えていい?」
 目をくるくる回しているカテリナを面白そうに見て、ウィラルドはぱっとカテリナの手からチョコレートの箱を取った。
 蓋を開けて一つ取り出すと、ウィラルドは悔しそうに言った。
「でもカティは俺よりあの人といる方が、楽しそうだしな」
 ウィラルドはチョコレートを口にして、独り言のようにつぶやく。
「……甘い。ちょっと苦い」
 それが幸いのように苦笑して、ウィラルドは初恋の味をかみしめたのだった。