陛下、恋をするならご令嬢に!~国王陛下は男装の騎士を片時も離さない~

 精霊は建国のとき、必ずまたヴァイスラントを訪れると王に約束した。
 それはいつでしょうかと王が問うと、精霊はいつになるのか私にもわからないと自信なさげに目を逸らした。
 それなら約束しない方がいいのではと親切心で王が言ったそうだが、精霊は私が訪れたいのだから約束させなさいと拗ねた。
 精霊に男女の別はないが、かの精霊は幼い日に母を亡くした王の、母代わりのような存在だったらしい。王はわかりましたとうなずいて、精霊がやって来る日までの十日間に祭りを開くことを決めた。
 精霊が去る日、王は建国を導いてくれた精霊に精一杯の贈り物を用意したそうだが、精霊は受け取らなかった。
 王はお金と権力を勝手に使ってはだめ。去り際まで王を諭して、精霊はふと子どものように目を輝かせた。
 そうだ。いつか私が訪れる日、あなたが最愛の人とワルツを踊るのを見てみたいな。
 精霊は笑って星の輝く夜に去って、以後王の存命中も、その後も、星の配置で言葉を伝えてくれたが、二度とヴァイスラントを訪れることはなかった。
 結局、王は老いて亡くなるとき、子どもたちにいつか精霊との約束を果たしてくれるよう言伝ていった。
 現在のヴァイスラントの人々は、そんな昔話を思い返して様々な憶測を繰り広げる。
「当時の王の元を訪れなかったのは、精霊は王を愛していて、王が最愛の人と結ばれたのを見たくなかったからではないかしら」
 降臨祭も四日目、ローリー夫人のサロンでも話題といえば一番白熱するのが王の最後のダンスのことだ。
「いくら母代わりとはいえ、むしろ母代わりだからこそ、息子の嫁には複雑な思いを抱きませんこと?」
「わかりすぎて嫌ですわ。洗濯物の畳み方一つでも合いませんものね」
 サロンの貴婦人方は身分もそれぞれであるが、ヴァイスラントはわりと自由な気風の国民柄なので、話す内容も実に遠慮がない。
「当時の王のお妃は、実に肝の据わった方でしたしね。王が亡くなるときに、「あなたがワルツを踊るのが下手だから精霊も見に来なかったのよ」と言いきったくらいですから」
「あら? 私は、「私が十二人も産んであげたんだから誰かが果たしてくれるでしょ」だった覚えが」
「さすがは建国を成したお妃でいらっしゃいます」
 貴婦人方は何一つ結論に至らないまま大いに納得して、あっさりその話題を切り上げた。
「それで、今日でございますね」
 貴婦人方は扇ごしに中央の席に座ったローリー夫人を見て、声をひそめて問いかける。
「……ローリー夫人のお見込みでは、今日これからこのサロンで、陛下がアリーシャ嬢に最後のダンスを申し込むと」
 ローリー夫人は微笑みをたたえたまま、ええ、と答えた。
「陛下はとても実務に長けた方でいらっしゃいます。お相手となる方のご身分はもちろん、お話を持ち掛ける場所のふさわしさ、令嬢のドレスを仕立てる時間にご自分の仕事の空き状況まで考慮して、最善の時が今日ですから」
 貴婦人方は感心してため息をついたが、ローリー夫人だけは違う意味で息をついた。
「女性の扱いに長けているかというと、必ずしもそうではありませんが」
 陛下の本日の星占いは凶と出ていることを、星読み博士の娘であるローリー夫人は知っていた。
 衛兵が扉を開き、国王陛下がサロンに到着する。例によってここのところ片時も陛下が側から離さない騎士が、一歩遅れて一礼して入室した。
 ギュンターは貴婦人方に笑顔と美辞麗句を振りまき、いつものようにサロンの歓待を受け始めた。お顔立ちが良く人当たりもいい陛下、貴婦人方の評判はもちろん良好で、ローリー夫人のように多少陛下の男性への人当たりの悪さを知っている女性でなければ、理想的な男性だった。
「陛下、アリーシャ嬢がご到着です」
 まもなく衛兵がギュンターに近寄って告げる。陛下は当然その予定を知っていたのか、一つうなずこうとしたときだった。
「あの、それが」
 衛兵は言葉に詰まり、陛下の耳元で何かを付け加える。ギュンターはその言葉に目を見張って、衛兵を振り向いた。
「アリーシャ嬢……ならびに、シエル王弟殿下のお着きです」
 アリーシャをエスコートして現れた少年を見て、サロンの貴婦人方よりギュンターが一番驚いていた。
 今日のシエルは星読み仕官服ではなく、男性王族の平服であるサーコートに身を包んでいて、裾さばきも軽やかにサロンへ現れた。
 シエルとアリーシャは幼馴染で、成長してからも付き合いがあるとはギュンターも聞いていた。けれどシエルは一年前に星読み台の仕事に就いてからほとんど王城に戻ることはなく、こういった社交界に現れるのも久しぶりだった。
 ただギュンターの前でいつもそうであるように、シエルはギュンターに一礼はしたものの、すぐに言葉を拒絶するように兄の前を離れた。ギュンターもどのように言葉をかければいいかわからないまま、弟を引き留めることはしなかった。
 やはり嫌われているのだとギュンターが気を落としていると、不思議なことが起こった。
「カティ、ごきげんよう。降臨祭だからね。僕もちょっとご馳走を食べに来たよ」
 シエルはギュンターの一歩後ろに控えていたカテリナに、昔はギュンターにも見せてくれた親しげな表情で、そっと話しかけた。
 カテリナは慌てて膝をついて謝辞を述べたが、少し安心したように笑いかけたようだった。
 ギュンターはつい、いつシエルと知り合ったのかとカテリナに問いかけようとして、さすがに今日の一番の目的を頭に置き直した。
「ごきげんよう。お招きいただき感謝申し上げますわ、ローリー夫人」
 ギュンターがアリーシャに向き直ると、彼女はふんわりとした羽のような水色のドレスを精霊のように着こなし、令嬢の名に恥じない優雅なめくばせと言葉遣いでローリー夫人に応えていた。ギュンターのまなざしに気づくと一礼して、ごきげんいかが、と笑った。
 付き合いも長く、人柄もよく知っているアリーシャとは数えきれないほどダンスを踊った。ただ降臨祭の最後のダンスは特別で、ギュンターといえどその言葉を口にするのは緊張した。
 ギュンターは一度息を吸って心を落ち着けた。それからアリーシャの席の横に歩み寄ると、一礼して手を差し出した。
「アリーシャ。降臨祭の最後の日、私とダンスを踊ってくれないか」
 普段流れるように出てくる美辞麗句も口にする気が起きなくて、ギュンターは最小限の誘い文句を告げた。
 ギュンターも自分らしくない、そっけない言葉になってしまった自覚はあった。降臨祭の最後を飾るダンスの相手を頼むには、あまりにあっけなかったと思う。
 ただそれが国王陛下の一つの言葉には違いなく、ギュンターを含む周囲の人々はその答えに神経を集中させて聞いていた。
 一瞬アリーシャの表情に浮かんだのはまちがいなく喜びだった。まばたきをして、光をたたえた瞳でギュンターを見上げた。
 けれど彼女はすぐにそれを哀しい笑顔で覆って言う。
「……それは精霊の願いではないと思います」
 ギュンターにはアリーシャが何を言ったのかわからなかった。一つだけ、願いという言葉が耳に残った。
 精霊の願いは一つだけ、見たいのは王と最愛の人とのダンスだけ。簡単なその一つのことが、建国以来一度も叶わなかった。
 なぜかを知っているのは精霊だけで、国王であるギュンターすら精霊の思いははかれなかった。
「今日はそのことを申し上げに来ましたのよ。わたくしはこれで失礼しますわ」
 周囲の貴婦人方も硬直する中、アリーシャは踵を返して扉に向かう。
「アリーシャ様、お待ちください!」
 誰も動けなかった中、カテリナが弾けるように叫んでアリーシャを追った。
「待て!」
 カティと呼んでから、ギュンターは我に返った。
 ギュンターは反射的にアリーシャではなくカテリナを呼び止めてしまった自分に、後で気づいた。
 けれどアリーシャとカテリナ、どちらもギュンターの言葉を拒絶するように、扉の向こうに去っていった。
 バルコニーに出てアリーシャが空を仰ぐと、一日の終わりの壮大な幕引きが広がっていた。
 王城の屋上に続くそのバルコニーは、屋上に旗を飾るときに兵士たちが使うだけの通用路だったから、実はそこで星が綺麗に見えることを知っている者は少ない。
 ヴァイスラントでは王族から庶民まで星を見る習慣がある。夕陽が綺麗な日は星も美しく見える夜になると喜ばれる。星の告げること、それはさだめなのだから、国民は吉も凶も受け入れてきた。
 知っているわと、アリーシャは澄んだ外気に答えた。星占いで教えられるまでもなく、今日は幸運が降ると知っていた。アリーシャは王家に連なる血筋で、サロンでも理想の令嬢と誉れ高く、陛下自身とも長い付き合いだった。陛下が最後のダンスにアリーシャを誘うのは、まるで公務のような必然だった。
 ふいに背後の窓が開いて、慌ただしく足音が近づく。
「アリーシャ様!」
 でも人の心はいつだって定めたとおりにいかない。それを証明するように、少年騎士はバルコニーに飛び込んできた。
 アリーシャがサロンから立ち去ったのはまだ正午過ぎだった。従者を通して、アリーシャは自邸に帰ったと陛下に言伝ておいた。アリーシャが隠れ家のようなここで日が暮れるまで、文字通りたそがれているとはたぶん陛下も思っていないことだろう。
 少年騎士は声をかけたものの、近づくのはためらっているようだった。少しの間があって、言葉を選びながら話しかけてくる。
「立ち入ってしまって申し訳ありません。お部屋の前でお待ちしていましたが、ずいぶん長いこと出ていらっしゃらないので」
 アリーシャがようやく振り向くと、あまりに澄んでいて大きな目と目が合った。
 降臨祭の前日、陛下にお気に入りの部下ができたらしいと耳にしたのが始まりだった。そのときはまさかその従者がアリーシャの運命まで変えるとは思ってもみなかった。
 降臨祭が始まって早々、自室で仕事をしていた陛下を気楽な思いでお忍びに誘い出した。
 けれどそこで陛下がその従者に見せたのは、アリーシャには決して見せない表情だった。陛下の態度はアリーシャや他の女性に対するように甘くはなく、だからかえって本心で彼に接しているとわかった。
 出会って数日の従者と私、どちらが大事なの。陛下に問いかけるまでもなかったのは、元々陛下がアリーシャに恋をしていないのを知っていたから。
「陛下は何かアリーシャ様に失礼をしてしまったのでしょうか?」
 一人になりたいアリーシャを追いかけてみつけてしまう、彼の愚直さに子どもなのかともう少しで怒り出したくなった。でもそれはたぶんアリーシャの方で目を曇らせている。彼のそのまっすぐさは、アリーシャが認めないだけで、人を惹きつける彼自身の輝きに違いなかった。
 アリーシャは役者がするように顎を上げて、尊大に笑った。
「私の負けよ」
 現に、アリーシャのところまでたどり着いたのはこの少年の力だった。バルコニーに唯一続く部屋の主であるマリアンヌ王妹殿下もアリーシャを一人にしておいたのに、彼だけは突破してきたのだから。
「悔しいわ。誰かに負けたことなんてなかったもの」
 アリーシャがせめてもの仕返しに意地悪を言うと、少年はアリーシャの言葉の意味を考え込んだようだった。
 陛下からダンスに誘われて、負けとはどういう意味なのか。もしこの少年が陛下くらい鈍かったなら、そう思ったのかもしれない。
 でもアリーシャはこの少年を、陛下とは別の性質を持つ者だと知っている。
「あなたは女の子ね」
 彼女がはっと息を呑む気配がした。アリーシャが告げた事実は彼女が思うよりたくさんの人が知っていると思うのだが、実際気づいていない人もいるのだから、精霊もいたずらなことをするものだ。
「聞いて」
 他ならぬ陛下とかね。アリーシャはさすがにそれについては思うだけにして、負けたボードゲームを振り返るように話を始めた。
「子どもの頃に、ここで初めて陛下に星の見方を教えていただいたの。陛下は自分より小さいもの、弱いものにとても親切でいらっしゃるのね。たぶん他にもたくさん同じことをしていただいた子女はいると思うのだけど、うれしかったわ」
 暑さの静まった後の夏の宵、張りつめた空気に星の輝きが際立つ冬の夜、季節は着実に巡っていった。子どもが大人になるように、少女のささやかな憧れが恋心に育っていっても、アリーシャを責められる者はいなかっただろう。
 アリーシャは人より意地が強いと自覚していた。身分も容姿も恵まれているとわかっていたから、装いも教養も磨きぬいて、いずれは陛下の横に並ぶのだと思っていた。
 ふいにアリーシャは苦笑して、そろそろ見え始めた一番星を仰いだ。
「なんてね。実は星のこと、陛下に教えられるまでもなく大体知ってたのよ。星を教えてくださる殿方だってたくさんいらっしゃるんですもの」
 アリーシャも王家に連なる子女、幼い頃から親切にしてくれる大人も言い寄る男性もいた。確かに身分は陛下より上の男性はいないが、陛下よりお顔立ちのいい方も優しい男性も知っている。
「でも陛下だから、教えてもらいたかったのよ……」
 星がいくつも空に現れていく。夜の幕開けの前で、アリーシャは自分の中にだけある小さな星のような思い出を見ていた。
 いつだったか、陛下には特別な星があると耳にした。アリーシャは興味を惹かれて、どの星なのですか、名前を教えてくださいなと陛下に問いかけた。
 ところがそれに対する陛下の反応は、普段の朗らかな態度が嘘のように不機嫌だった。彼は憮然として、めったに見えない六等星だよ、小さすぎてたぶん今日も見えないんじゃないかなと言った。
 でもいつからか、陛下に星の見方を教わっているとき、彼が夜空に何かを探していることに気づいた。目を凝らして、時々怒っているような顔もしていた。
 後で聞いたのは、その星は陛下が子どもの頃名前をつけたという話だった。だから星読み台で調べれば位置も名前も知ることができたが、アリーシャは陛下から教えてもらうことにこだわって調べなかった。
 陛下もいつまでも子どもの頃名付けた星にこだわるはずもないと思っていた。アリーシャはいつしか星の名を訊くのをやめて、陛下も二度と同じ話をすることはなかった。
 でも降臨祭が始まった日、陛下と久しぶりに星を見る機会があった。そのときふと隣を見たら、陛下は例の怒ったような顔で星を探していた。
 どの星を探しているのですか。思わずアリーシャが問いかけると、陛下はたぶんアリーシャの言葉を聞いていなくて、上の空で独り言をもらした。
 ……カティ、どうしてくれよう。特別な星を探すのと同じ目をして、陛下はその名前をぼやいたのだった。
 たったそれだけのことで、それが好意なのか愚痴なのかも傍からはわからない一瞬だったのに、アリーシャは何だか急に、陛下は普通の一人の男性だと思った。
 アリーシャが他にたくさん素敵な人はいたのに陛下に恋をしてしまったみたいに、陛下だって数多の星を見上げながらたった一つの星を探してしまうのだと。
 アリーシャは少女騎士を正面からみつめて、残酷な事実を告げた。
「陛下の最愛の人は私じゃない。まだ決まってもいない。だからお断りしただけのことよ」
 バルコニーから見下ろせば、あちこちで星を見る人々がいた。中にはアリーシャに気づいて手を振る友達もいて、今日もヴァイスラントはこんなに平和だ。
「私でありたかったわ」
 横目で見やると、少女騎士はずっと考え込んでいて、アリーシャを連れ戻すでもなく反論するでもなく、首をふるふると振って、その綺麗な目でくるくると悩んでいるようだった。
 陛下の思い、この少女の思い、それを恋というかは精霊しか知らないとして、国王と最愛の人とのダンスは叶うのだろうか。
 アリーシャにだってわからなかったが、見上げた空は満天の輝きが始まっていて、今日はどんな小さな星も見えそうな気がしていた。
 降臨祭五日目、ローリー夫人のサロンは種々の事情で招待制の開催となった。
 誰にでも開かれているローリー夫人のサロンに招待という概念があることはあまり知られていないが、表向きは扉の前に「本日休会」の札が掛かるもので、その扉の内側にローリー夫人が密やかに特定の客を招いているという仕組みになっている。
 国王陛下その人とローリー夫人が待ち、壁際にカテリナが控えるという内輪だけの集まりに、届け物を持ってやって来たのは王弟シエルだった。
「こちらがアリーシャ嬢からの、正式なダンスのお断り状です」
 ローリー夫人がもっとも招きたかった令嬢は訪れず、シエルはかの令嬢の最後通牒をギュンターに言伝た。
 ローリー夫人はちらと傍らの席の国王陛下をうかがった。平和なヴァイスラントでも国王陛下が最高権力者であることに変わりはなく、王が命じれば一個人の意思をねじ伏せることは可能だった。
「ご苦労」
 ただヴァイスラントが平和たるのは、それを司る国王陛下がめったなことで権力を振りかざさないからでもあった。ギュンターは苦い顔をしたものの、弟をねぎらう言葉と共に断り状を受け取った。
 ギュンターはシエルに席を勧めてから、深くため息をついて自らの椅子に身を沈めたが、ふと唯一立ったままのカテリナに目をやって言った。
「カティ、君が落ち込んでどうする。君も座るんだ」
 ギュンターはアリーシャに振られたことについてそれはそれで気落ちしたが、アリーシャの元から戻ってきたカテリナが足元もおぼつかないくらいに沈みこんでいて、何があったのかと訊いても何も話さないことの方が気がかりでならなかった。
 自分はこの少年騎士の上司に過ぎず、もう大人の男を令嬢のように庇う必要はないとわかっているが、この少年が国王の最後のダンスに並々ならぬ思いを賭けていることは知っている。気にするなと言っているのだが、なんだかこの少年は自分に責任があるかのように落ち込んでいるのだ。
 椅子に座ったもののやっぱりしょげているカテリナをギュンターは何か言いたげに見ていて、その構図にローリー夫人と王弟シエルも何か思うところのある顔はしていたが、ひとまずそれぞれの心の内に秘めておいた。
 昨夜は空が澄んでいてみな夜更けまで星を見ていたので、今日のヴァイスラントの朝は少し遅い。開け放たれた窓から王城の人々の話し声や足音、他愛ない日常の気配が入り込んでいて、サロンの中の沈黙と対照的だった。
 ひとまずテーブルを囲んで、パンとキッシュにミルクで朝食と昼食を兼ねた食事が始まる。食事自体はすぐに終わって、四人はしばらく食事を終えてもそれぞれの物思いに耽っていた。
 やがて最初に口を開いたのはシエルだった。
「兄上、いつまでも反省会をしていても仕方ありません」
 ギュンターは弟が珍しく意見したことに驚いたが、シエルは元々兄と言葉を交わすのを控えていただけで、仕事では活発に星読み仕官たちと意見を交わしていると聞いていた。
 シエルは席を立って、海の見える反対側の窓際の席に歩み寄ると、サロンの面々に笑いかけた。
「暗いときほどゲームを。ちょうど四人います。「ヴァイスゲーム」をしましょう」
 シエルが示したそこには、サロンで貴婦人たちがたしなむボードゲームとは少し形の違う、ひし型のボードと見慣れない駒の用意があった。
 カテリナがきょとんとした顔をしたのをギュンターは横目で見て、いつもの新人教育への使命感らしい感情が湧いて来た。少し楽しげにカテリナに声をかける。
「ヴァイスゲームはやったことがないか」
「高貴な方がたしなむと聞いていましたので」
 そう言われるとやってみたくなるのが庶民の心情だが、この少年は生真面目にも手をつけたことがなかったらしかった。
「ご助力いただけるか、ローリー夫人」
「よろしいことですよ」
 ギュンターの誘いにローリー夫人は気安く応じて、四人は席を移ることにした。 
 その席は二人ずつが並んで対局するもので、それが古くから伝わるボードゲーム、別名「ヴァイスゲーム」の席だった。
 ある時代、ヴァイスラントと海の向こうにあった隣国、二つの国の国王夫妻が四人で余興をしたのが始まりだった。二組の「貴婦人」と「騎士」が対角に配置されていて、手持ちの石である「精霊のいたずら」で対戦相手を邪魔しながら、先に盤上でペアと出会った方が勝ちとなる。
「「貴婦人」は当然ローリー夫人、その騎士は兄上がなさるとして」
 シエルはいたずらっぽくカテリナに首を傾けて言った。
「どうかな、カティ。僕が君の騎士でもいい?」
「でも僕はこのゲームは初めてで。殿下の足を引っ張ってしまうと思いますが」
 カテリナがまんまるな目に不安を浮かべると、シエルは笑ってうなずいた。
「熟練していない方がうまくいくのがヴァイスゲームなんだよ」
「言うようになったな、シエル」
 公式行事で嫌というほどヴァイスゲームに向かっているギュンターが苦笑いすると、シエルは苦笑を返した。
 カテリナは冗談交じりの兄弟のやりとりを聞いて顔を明るくしていた。大切な上司とその弟君、いつからか会話をしなくなったという二人の仲がゲームで和むのなら、カテリナにとってもうれしい。
「わかりました。では僕も」
 カテリナも初めてのヴァイスゲームに参戦することになって、ギュンターとローリー夫人、シエルとカテリナの対局が始まった。
 始める前にシエルが簡単にルールと少しの作戦を教えてくれていたが、対局中でも、隣に座るペアと耳打ちして相談することは許されている。
 シエルはカテリナの耳に顔を寄せてささやく。
「星読み台で落ち合おう」
「わかりました」
 カテリナは相手に悟られないよう、ボードを見ないまま目的地のマスを頭の中に描いてうなずいた。
 ゲームが始まってすぐ、シエルは楽しそうにカテリナに耳打ちした。
「カティ、まっすぐ目的地に向かわなくてもいいんだよ」
 一生懸命目的地までの道筋を描いているのがよくわかるカテリナに、シエルは笑いをこらえながら言った。
「精霊のいたずらで、変な方向に駒が弾かれたり戻ったりするところが面白いんだから。……それより見て」
 シエルに言われてカテリナがボードの向こうを見ると、ローリー夫人に耳打ちする国王陛下の姿があった。
 肩が触れるような距離で何事か言い交わして目配せする二人の様子は親密で、特別な間柄そのもので……カテリナは今度こそ顔を輝かせていた。
「なぜこっちを見て笑う、カティ」
 ギュンターがカテリナのきらきらとした目に気づいて、不審そうに言い返した。
 このゲームで勝つには、足の速い騎士は積極的に動いて貴婦人に近づき、精霊のいたずらをたくさん持っている貴婦人はあまり動かず、いたずらをして相手を困らせるのに徹するのがいいとされている。実際ギュンターとローリー夫人のペアは今までもそれで数々の勝利を収めてきて、今回もその作戦で優勢にあった。
 それに比べて、シエルとカテリナのペアはまるで勝ち筋とは真逆だった。愚直に進み続けるカテリナと、あまり動かず精霊のいたずらを使うシエル。正直ギュンターにだって、カテリナが星読み台を目指しているのは丸わかりだった。
 ところがシエルがそこに加わると、絶妙に先が読めないボードになっていた。騎士は限られた精霊のいたずらしか持たないのに、シエルはそれを使うのが上手かった。ギュンターの行く手に雨だのうさぎだの、はたまた後ろに忘れ物だのを置いてきて、貴婦人と落ち合わせてくれなかった。
「カティ、ねぇ」
 何よりシエルが耳打ちするときにカテリナがちょっと赤くなるのが、こちらが優勢にあるのにたまらなく負けた気分にさせられる。
 待て、カティは俺の騎士のはずだぞ。どうして敵対していて、しかも貴婦人になっている? そういえばヴァイスゲームは恋の葛藤とも呼ばれるのだと、この場でまったく関係ないはずのことを思ったときだった。
「陛下、そこは」
 ローリー夫人がつぶやいて、軽く天を仰いだ。言われてギュンターは今しがた自分が置いた石を見て、自分の失策に気づいた。
 頑なに星読み台にたどり着こうとするカテリナに苛立って、ギュンターは星読み台のマスに精霊のいたずらを置いた。召喚と名のついた精霊のいたずらは、カテリナの駒を強制的に王城に戻す。
 くすっとシエルが笑って自分の駒を動かす。たまたま王城の周りにいたシエルは、カテリナの駒まで一歩だった。
 コン、とカテリナの駒とシエルの駒は出会って、二人の勝利が決まる。
「やったね、カティ!」
「あ、え、殿下」
 シエルは屈託なく笑って、無邪気にカテリナを抱き寄せた。シエルはカテリナをぎゅっと腕に包み込んだまま離さず、カテリナはうろたえて真っ赤になった。
 少年同士がじゃれている光景だったのに、カテリナが恥ずかしそうに慌てているものだから、恋仲の少年少女のようにも見えてしまった。
「もう一度会いに来てよかった。精霊のくれた幸運のおかげだね」
 シエルがゲームは終わったのにカテリナに耳打ちした、その一言をギュンターは聞いてしまった。
 一度目に出会うのは精霊のくれた幸運、もう一度同じ人に会いに行ったら、それは運命。
 まさかシエルがカテリナにだけ聞こえるように言ったのは、年の近い者同士のふざけあいで、自分が知っている恋の文句ではないはずだ。
 ギュンターが首を横に振ってそう思ったとしても、精霊のいたずらはあと五日間天から降り注いで、祭りを盛り上げるのだった。
 午前で国王陛下の私的な反省会は終わり、午後からは王城の一室にて公的な対策会議が開かれた。
 カテリナは、ダンスの相手を決めるのに偉い人たちが集まって会議を開かないといけないなんて大変だなぁと思ったが、事は精霊との約束で、国の命運をかけたものなのだから、そろそろ真剣に考えようというのだ。
 陛下も周囲も、わりとアリーシャがダンスの相手を引き受けてくれると信じ切っていた。ところが降臨祭もじきに折り返し地点となって今回の事態、焦らないといったら嘘になる。
 国王陛下と二人の弟妹殿下、主要な大臣や将軍が集まる会議室のすぐ外で、カテリナは直立不動で待機しながらも心の中では陛下の次なるお相手のことで頭がいっぱいだった。
 どうして今まで気づかなかったのか不思議だが、ローリー夫人は陛下の元婚約者で、今も私的な話を打ち明ける特別な相手だ。ご結婚はされているがご夫君はすでに二年間行方不明で、あとこれが何より大事なことだが、最後のダンスの相手は「最愛の人」であればそれでいい。
 マリアンヌ王妹殿下が選んだ三人の姫君のうち二人目、それはローリー夫人に違いない。最後の一人がどなたかわからないのは気がかりだが、この際時間もないことだし、傍目に見ても好意を抱いているローリー夫人にダンスのお相手をお願いしてはどうか。
 そうだ、それがいいと確信を持ってうなずいていたカテリナに、騎士団長の随行で来ていたウィラルドが声をかけた。
「カティはいつから休暇を取るんだ?」
 問題はローリー夫人にダンスの相手を申し込むのを、どう陛下に提案するかだ。ボードゲームを組み立てるように熱く考えていたカテリナは、ちょっと思考が交錯して首をひねった。
 カテリナの脳裏に浮かんだのは、若い頃に奥様を亡くされて現在独り身である騎士団長が、ローリー夫人に求婚しているという噂だった。
「だめです。戦いに勝つまでは休暇は取れません」
 騎士団長もライバルだと、カテリナは燃えたぎる目でウィラルドを見上げた。ウィラルドは一歩たじろいだものの、そこは数日前まで上官だった経験で、カテリナが何かにこだわって熱意を燃やしているのはわかった。
 ウィラルドはまあまあ、とカテリナをたしなめて言う。
「何の戦いかはわからないけど、降臨祭は国民の祝日だろう? この五日間休みなしじゃないか。近衛兵だって交代で休みを取ってるんだから、カティもそろそろ休暇をもらえないか訊いてみたらどうだ?」
 ウィラルドはカテリナが直属の上司である国王陛下に遠慮しているのなら、自分が上官を通じて話をしてみようかとまで提案した。
 それは今の彼の仕事ではなく、カテリナを心配しての提案だと気づいて、カテリナは素直に頭を下げた。
「すみません。気を遣っていただいて」
「そ、そりゃ気にするさ。降臨祭が終わったら、また一緒に仕事をするんだし」
 ウィラルドが慌てて告げた言葉に、カテリナは感傷的な気持ちになった。
 性別を偽って働くことに限界を感じ始めていて、降臨祭が終わったら騎士をやめようと思っていることを口にするなら、今のような気もした。
 先回りして突っ込む割に時々潔すぎるくらいにあきらめがいい。国王陛下にも言われたように、カテリナは今までの自分にしがみつくつもりはない。
 でもカテリナが決めても決めなくても、あと半分で降臨祭の終わりがやって来る。ギュンターの下で働くことの終わりは確実にやって来るのを考えたとき、なんだか子どもがわがままを言うように抵抗したくなった。
 どうしてなんだろうと思ったとき、会議が終わったらしく扉が開いて、王族に大臣たち、国の中枢を担う方々が出てきた。カテリナは慌てて壁に張り付いて敬礼を取った。
 カテリナが壁と一体化してお見送りをする中、王弟シエルと王妹マリアンヌが何事か小声で言い交わして、カテリナの方を見やった気がした。カテリナは壁が首を傾げては変だと思ってもちろん微動だにしなかったが、そのときには二人は後から出てきた国王陛下の方を振り向いていた。
「カティ」
 ギュンターに呼ばれて駆け寄ると、なぜか彼は難しい顔でカテリナを見て言った。
「調子でも悪いのか?」
「いいえ。どうしてですか?」
 国王陛下のダンスの相手を検討する会議だったはずなのに、どうして真っ先に自分の体調のことを尋ねるのか不思議に思ってカテリナが問い返すと、ギュンターはばつが悪そうな顔をした。
「ならいいが。マリアンヌが、きちんとカティに休暇を取らせろと」
 先ほど元上司にも指摘された休暇のことを今の上司にも指摘されると、なんだか悪いことをしているような気持ちになってくる。
 カテリナは迷ったが、ひとまずうなずいて言った。
「どうにか間を縫って休みを取ります」
 カテリナから約束したものの、ギュンターはすでに自分の頭の中でカテリナの労務管理を見直しているようで、「とりあえず戻るか」と言った。
 陛下の自室に戻った後、いつものように書面仕事を言いつけられたが、陛下の仕事の進捗状況は目に見えて悪かった。時々上の空で何か仕事ではないことを考えているようで、カテリナは心配になった。
「陛下こそ、体調でも悪いのでは」
 そっと席を立って陛下の執務机に近寄ると、ギュンターははっと考え事から目覚めた顔でカテリナを見やった。
「そうじゃない。四六時中いたら心配になるのは当然だ」
 ギュンターは言い訳するように告げて、決めたくはないが決めざるをえない仕事の前にいつもそうするように、ブロンドの髪を手でかき混ぜて言った。
「今日はもう帰っていい。あと、明日は休みを取っていい」
 唐突な休暇命令にカテリナは戸惑ったが、確かにそろそろ夕食の時間で、カテリナの勤務時間は終わりだった。上官から仕事の終わりを命じられた以上、退出しないわけにもいかない。
 日が落ちて夕方の涼しい風が窓から入り込んできていた。カテリナは書類を片付けてカバンを肩から下げると、椅子から立ち上がる。
 失礼しますと言いかけて、またこちらを難しい顔で見ている陛下と目が合った。
 なぜかはわからない沈黙、精霊が通り過ぎたような時間が流れて、先に口を開いたのはカテリナだった。
「陛下はどなたに最後のダンスを申し込むおつもりなのですか?」
 勤務時間はもう終了していて、訊かれていないことを訊くのも仕事の域を超えてしまうことで、しかもこの場合は陛下の感情にも触れるかもしれない危うさがあった。
「君には関係……」
 案の定陛下も反発しようとしたが、彼は一度息をついて前言を覆した。
「……関係ない、はずはないか。君はそのためにここで働いているんだからな」
 あまり大声では言えないと言われて、カテリナはそろそろと陛下に歩み寄った。
 そこはいつも報告をする陛下の机の前ではなく、陛下の机の隣で、陛下はちょっと屈めとまで言った。カテリナは言う通りに身を屈めて、内緒話の距離にまで至る。
 ギュンターは思案するように黙ってから、声をひそめて切り出す。
「会議で私は、最後のダンスの相手はローリー夫人に頼むつもりでいると提案したんだ」
 こくんとカテリナが素直にうなずくと、ギュンターは目を伏せて首を横に振る。
「だが妹のマリアンヌが、「今陛下の御心にある方とは違いますが、よろしいのでしょうか」と言った」
 カテリナは息を呑んで目を瞬かせて、思わず問い返す。
「そうなのですか?」
「いや、私は嘘をついたつもりはない。ローリー夫人がふさわしいと本心から思った。ただ……」
 ギュンターは言葉に詰まって沈黙した。彼自身も自分が言いかけた言葉の続きを迷っているようだったが、ふいにこぼした言葉は本音に近いものに聞こえた。
「違うと、マリアンヌに言い返すこともできなかった」
 深く息をついてから、ギュンターは窓の外を見やった。
「マリアンヌは、「ローリー夫人にダンスを申し込む前に、もう一人だけ陛下に会っていただきたい令嬢がいらっしゃいます」と言うんだ」
 ギュンターはふとカテリナを見て笑う。
「降臨祭は残り何日だと思う? たった数日で最愛の人になるなんて可笑しい。それこそ精霊の、性質の悪いいたずらだと思うが」
 それはカテリナも初めてマリアンヌから話を聞いたときから思っていた。王妃にふさわしい方ならとっくの昔に陛下に引き合わされていて、長い付き合いの後、来るべくして最愛の人となっているはずだと。
 まさか降臨祭の十日間でなければ出会えない人なのだろうか。そんなことをちらと思って、カテリナも思考が迷路に入った。
「ローリー夫人の方にも準備が必要だ。私は明日にでも、ローリー夫人にダンスを申し込もうと考えているが」
 同意しようとして、カテリナはギュンターの目に映る感情に気づいた。
 遠いところを探すようなギュンターの瞳に、アリーシャやローリー夫人に寄せる好意はない。まだ出会ってもいない令嬢を愛するはずもないのだから、それは当然のことだ。
 でもヴァイスラントに住む者なら誰でも精霊の奇跡を心のどこかで信じている。幸運と出会う日を、誰もが望んでいる。
 カテリナが奇跡を否定できないまま沈黙に身を任せると、ノックの音が聞こえた。
 気づけば陛下のずいぶん近くまで来ていたことに気づいて、慌てて隅の机まで駆け戻る。
「入ってきなさい」
 ギュンターが外向きの顔をまとって、いつものように穏やかに返事をすると、その人は扉を開いて入ってきた。
「陛下、折り入ってお話を聞いていただけるかしら。……カティさんも、一緒にいらして」
 現れたローリー夫人はどこか哀しい表情で、二人に告げたのだった。
 二年前、今は役目を終えた灯台に物々しい火がいくつも灯っていた夜を、カテリナは覚えている。
 どんな温厚な隣人でも怒りを持っていないはずがないように、穏やかで知られるヴァイスラント近郊の海も荒れ狂うときはある。そのとき、いつもなら浅瀬で子どもたちが遊んでいた海は大波となって押し寄せ、その数日前に航海に出た船の残骸を打ち上げた。
 船の主はヘルベルト・ローリー将軍。国王陛下の親友で、ローリー夫人のご夫君だった。
 海を臨む小屋のベランダに立って、ローリー夫人は苦笑しながら言った。
「私がもうあきらめてと言うまで捜してくださった。陛下には感謝してもしきれない」
 子守歌のような潮騒が上って来るだけのベランダには、ギュンターとローリー夫人の間を遮る物音もない。
 あのときが嘘だったように、静かで穏やかな夜の時間が広がっていた。
 打ち上げられた船とぶつかって損壊した灯台は、今は場所を変えて建て直された。この灯台の跡地はローリー夫人が買い取って、貴婦人たちがボート遊びをするときに立ち寄る小屋として使われていた。
 ギュンターもローリー夫人の隣に立って、夜の海を見ながら首を横に振った。
「礼は要らない。私はみつけてやれなかった」
 長い沈黙の中、ローリー夫人とギュンターは言葉少なく、帰らない人を想って立っていた。
 カテリナはその少し後ろで、荒れた姿など想像もつかない優しい波と、普段とは違う弱さをまとった二人の背中を見ていた。
 カテリナには、昼のサロンで冗談半分にやり取りする楽しそうな時間より、サロンを閉じた後の二人の間に流れる沈黙の方が、二人の本音が息づいているように思えた。
 ふいにローリー夫人は顔を伏せて言う。
「そうね。少しだけ恨んでもいるわ。……みつけてほしかったと」
 誰にでも開かれた彼女のサロンのように、ローリー夫人は誰にでも分け隔てなく接する女性だが、彼女は珍しく小さな棘を国王陛下に向けた。
「それでいい。君がそう思うのは当然のことだ」
 その棘を国王陛下も望んでいるように見えるから、カテリナはそこに二人の間だけの感情があるように思うのだ。
 カテリナは、それを大人の世界と片付けるのは少し違うような気がしていた。素直だと言われるカテリナでも、いつも同じ気持ちで過ごしているわけではない。空の色が移り変わるように、二人は重ねてきた時間の中で様々な思いを抱いて来たに違いなかった。
 ローリー夫人は顔を上げてギュンターに告げる。
「最後のダンスのことを話す前に、あなたに言いたい。私はあなたの愛人になるつもりはないわ」
 国王陛下は知っているというようにうなずいた。その次に続けられた言葉も、予期していたようだった。
「ローリーの名を捨ててあなたと結婚するつもりもない。今でも私はヘルベルトを愛しているもの」
 ローリー夫人の名の誇りを告げた彼女は、夫を見失って気落ちしている不幸な女性ではなかった。夜の海の中でも確かな火を灯して船を待つ、灯台のような貴婦人の姿だった。
「でももし……ヘルベルトが精霊の世界のひとになっているなら、今精霊がやって来るのは、偶然のようには思えないの」
 ローリー夫人は遠い夢を仰ぐように空を見て言った。
「精霊は、ダンスで迎えてさしあげなければ。……陛下がお望みなら、最後のダンスのお相手を引き受けます」
 それはローリー夫人に好意を抱く男性にとっては、残酷に違いなかった。カテリナからは国王陛下の表情をうかがうことができなかったが、その背中は彼女の答えを喜んではいなかった。
 カテリナには、ローリー夫人の思いに共感するところもあった。カテリナも誰より大切な人と同じ形になりたくて、本来の自分の形を変えたことがある。
 カテリナは父と同じ仕事をしたいという思いで性別を偽って騎士になった。傍から見たら変かもしれないけれど、カテリナにとっては父と同じ形になること、それが父への愛の返し方だった。
 でもローリー夫人と陛下が同じ形になったらどうだろう?
 二人が手を取り合ってダンスを踊る姿を想像した途端、カテリナの中で鋭い拒否反応が閃いた。
 ギュンターが何か言いかけたとき、カテリナはさっと踵を返していた。
「……カティ?」
 カテリナ自身もどうしてその行動を取ったのかはわからなかった。反射のように呼び止めたギュンターの声は聞こえていたのに、カテリナは部屋の外に出ていた。
 聞きたくない。そう思った自分に、何を聞きたくないのと問い返したら、なんだかわがままのような答えが返ってきた。
 陛下の最後のダンスの相手が決まったら、この仕事は終わりだから。それはずっと思い描いたボードゲームの完成形のはずなのに、奇妙なことに、カテリナ自身はちっとも嬉しくないのだ。
 広がる夜の海は真っ暗で何も見えないようで、カテリナの中の悪いものを全部見通しているような気がする。
 なぜかじわっと視界がにじんだ。その雫を落としてしまったら元には戻れないと思って、急いで手で拭って顔を上げた。
「陛下の恋は、僕が叶えて……」
 誓いのような言葉は最後まで言えなくて、カテリナは背中で扉を閉めた。
 波の音が部屋の中の話し声を消してくれる。それに安心している自分は、望んでも望まなくても、もうこのお役目は御免なのだろう。
「……お父さんに会いたい」
 またにじんできた目をこすって、カテリナは明日お休みを取ることを決めたのだった。
 騎士団寮にしょんぼりと戻って一夜を明かし、翌日カテリナは久しぶりに実家に帰った。
 王城から徒歩圏内の閑静な住宅街、だがカテリナの実家は他のお屋敷と違う作りをしていて大変目立つ。
 母は元々他国出身の人で、父は生活習慣が違う母のために、ヴァイスラントでは一般的でない屋敷を建てたのだった。カテリナも理解しきれない複雑なルールで配置されたニレの木を騎士のように従えて、幾何学模様を描いた黒いレンガ造りの壁がそびえたっている。
 入口から二度曲がって青い輝石の飛び石を五つ数えたところ、ローズマリーの香る鈴を鳴らして、館の扉は開かれる。
 もっともカテリナは父との関係を伏せているために、いつもその奥にある裏口から召使いのふりをしてこっそり入るようにしていた。 
「ただいま……」
 まだ朝早いからと声をひそめたものの、素直なカテリナは帰ったら当然ただいまを言うように育っている。
 裏口の扉を開いたとき、早朝の常として屋敷は静まり返っていた。カテリナのただいまを聞いたのは、ご老人の常として早くに起きすぎてしまっていて、今は庭師として第二の人生を送っている先代の執事だった。
「……お嬢様」
 彼はやはりご老人の常として最近涙もろくなり、カテリナの姿をみとめるなり目を潤ませて、裏口に備えられているベルを素早く鳴らした。
 ちょっと過剰だとカテリナが思っている荘厳なベルと共に、屋敷中が一斉に動き出す。家中のカーテンが開かれて日の光が差し込み、厨房に火が入って、カテリナが気を利かせてだいぶ遠回りして居間に着いたときには、召使いたちが勢ぞろいしてカテリナを待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お待ちしておりました。……もう少しでお待ちできなくなるところでした」
 代表して一礼した執事は、確かにカテリナを待っていてくれたのだろう。一分の隙もなく髪も黒服も整えていたが、目の下には何日も寝ていないようなクマができていた。
 彼のほっそりとした端正な面差しと禁欲的なまなざしがだいぶやつれていて、カテリナは心配そうに言った。
「チャールズ、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「これが寝ていられますか!」
 副業として学校で行儀作法も教えているチャールズ・メイン卿は、普段の落ち着きを振り払って声を荒らげる。
「降臨祭がもう半分終わっております! この長期休暇こそ日頃の疲れを癒していただこうと、召使い一同準備しておりました。野蛮な男ばかりの騎士団で、お嬢様が日頃どれほどつらい思いを」
「してないよ。みんなで休憩時間の球技を楽しみにしてるよ」
 カテリナが澄んだまんまるの目で主張すると、チャールズは首を横に振った。
「旦那様がどれだけご心配されているか察してくださいませ。せっかくの降臨祭ですのに、お嬢様が仕事中だからと、お出かけにもならずに気を落としていらっしゃいました」
 そう言われるとカテリナも心が痛い。下を向いて、そうなんだ、としょげた彼女は、召使いたちが目を合わせてうなずきあったのに気づかなかった。
 申し訳なさから、カテリナはもぞもぞと問いかけを口にする。
「お父さんはどこ?」
「昨日から王城に呼ばれていらっしゃいます。国王陛下の降臨祭のダンスの相手が決まらないとのことで」
 たぶんそれは今頃決着がついていることだろう。カテリナはあいまいに笑って、そうなんだ、とこれにもしょげた様子で答えた。
 チャールズは、カテリナの沈んだ様子は父と入れ違いになってがっかりしたのだと思ったらしい。眉を上げて言葉を続けた。
「国王陛下のダンスなどどうでもよろしい。とにかくようやくお嬢様がお帰りになった、それが何よりです。旦那様も本音ではそうお考えですよ」
 元々は他国出身の母の筆頭従者であるチャールズは、今もまったく国王陛下に忠誠心がない。精霊との約束もどうでもいいと言い切るそのあっさりした価値観に、カテリナはいつもながらちょっと感心した。
 彼はふと何かに気づいたように目を見張って、カテリナに歩み寄る。
「ああ、またそのように髪をぞんざいに扱って。リリー様譲りの美しい御髪になんということをなさいます」
 チャールズはカテリナの帽子を恭しく取ると、縛って隠している黒髪が傷んでいないかというように懸命に手で梳いて整えていた。
 チャールズはカテリナが子どもの頃から髪を切るのを大反対していて、ヴァイスラントでは一般的な髪色である茶色に初めて染めたときは一晩寝込んだ。カテリナは自分のまっすぐで真っ黒な髪はそんなに好きではないのだが、チャールズは宝石のようにカテリナの髪に触れる。
 それは亡きカテリナの母が美しい黒髪で知られていた人だからなのだろうが、母が亡くなったときカテリナは幼すぎて、肖像画の中でしか母との共通点を探せない。母に仕えていたチャールズの手前、そんなに似てるかなとも言えなくて複雑だった。
 カテリナの髪を整え終えると、チャールズは手を叩いて使用人たちに命じる。
「さ、お嬢様に朝餉を」
 まもなく朝食が運ばれてきて、馴染んだ実家の朝が始まる。主人であるカテリナの父は元々庶民の出であるから、市場で買ってきたパンや野菜、小さなお店の牛乳、豪勢ではないけれどしっかり力のつく朝食が並ぶ。
 けれど食事が終わると、チャールズが選び抜いた侍女たちに囲まれて令嬢として過ごす時間が始まる。
「お嬢様、書庫に蔵書が増えましたよ」
「庭の薔薇が満開ですよ」
「お出でになりませんか?」
 カテリナの母は他国とはいえ身分の高い人で教養も深い人だったから、今もチャールズが家にちょっとした図書館並みの蔵書と華やかな庭園を整えていた。カテリナは美女軍団と勝手に名前をつけている侍女たちと、本を読んだり庭を散歩したりして休日を過ごす。
 母は幼い日に亡くしているが、愛情を持って育ててくれた執事も侍女たちもいて、何より父が側にいた。ひだまりのような家に帰って来ると、ここ数日の仕事づくめの日々の方が夢だったような気もしてくる。
 今度の父の誕生日のプレゼントを侍女たちとあれこれ考えていた、そんなときだった。
「お嬢様、見ていただきたいものがあるのですが」
 夕刻の頃まで好きなようにくつろいでいたカテリナに、チャールズが声をかけてきた。
 うん、どうしたのと言って、カテリナはチャールズに続いて自室に入る。
 そこに広げられていたものを見て、カテリナは息を呑んだ。チャールズは恭しくそれを示しながら言う。
「十七歳のとき、リリー様が初めてサロンにデビューされたときの衣装を仕立て直したものです」
 それは黒絹に銀糸で刺繍のほどこされた異国のドレスだった。ヴァイスラントで一般的なふんだんにあしらわれたレースと膨らんだ裾を持つ型ではなく、しなやかなラインとシンプルな裾で、ヴァイスラント国民の感覚では地味ともいえるものだった。
「きれい」
 でもそれを身に着けた母の肖像画は姫君のように可憐で、カテリナは子どもの頃から目を輝かせて見上げていた。思わずカテリナがつぶやくと、チャールズはためらいがちに言った。
「一度だけ……どうかこれをお召しになって、私とサロンに出かけてはくださいませんか?」
「え?」
 チャールズは願うようにカテリナを見て続ける。
「お嬢様が少年の格好を気に入っていらっしゃるのは知っています。けれどこれを着ていただきたい方は、もうお嬢様しかいらっしゃいませんから」
 カテリナはチャールズを見上げて、少しの間返す言葉に迷った。自分が母のように美しく着こなせるとは思わなかったが、彼の言う通り、自分が着なければ彼はこれを誰に着せようともしないのだろう。
 いつまでもチャールズに母の形見を保管させるのは、彼に重荷なんじゃないだろうか。そういう思いがあって、カテリナはうなずいていた。
「……うん。いいよ」
 結局チャールズの望むとおり、カテリナは侍女たちに手伝ってもらいながらドレスを身に着けることにした。
「お嬢様がドレスを! 私どもにお任せくださいませ」
 侍女たちに話したら、母が隣国にいた頃から仕えている侍女頭も含めて手放しで喜ばれた。彼女らは熱烈に目を輝かせてカテリナを取り囲むと、口々に言い合う。
「こちらはいかがですか?」
「悪くはないけど、もうひとこえほしいわ。お嬢様の御髪の色にぴったりのものがあるはずよ」
「ここで惜しむ理由はありません。あるもの全部出してきましょう!」
「そうね。絶対に負けられないわ!」
 何に勝つのかはカテリナにはわからなかったが、絶妙に統制の取れた侍女たちは手早くプランを練って取り掛かってくれた。
 カテリナだったら一結びで終わるところ、髪を編みこんで結いあげて、童顔だから似合わないよと断ったお化粧も、必ずお美しくいたしますからと断言して施してくれた。
「な、なんだかお姫様みたいだね」
 カテリナは普段着ないだけで、柔らかい生地の感触も繊細な花の模様も、別に嫌っているわけではない。初めて母と同じものに包まれることに気が付けば心は踊っていて、侍女たちを振り向いて喜んでいた。
 侍女頭は侍女たちと顔を見合わせて目を丸くすると、大真面目に指を立てて言った。
「何を当たり前のことを仰います。私どもにとっては、お嬢様はお生まれのときからお姫様ですよ」
 侍女頭はカテリナの髪を優しく整えながら、ふいに声をにじませた。
「リリー様も喜んでくださるはずです。……お嬢様がお生まれになったとき、いつか一緒にドレスを着てサロンに出かけましょうと、笑っていらしたから」
 カテリナは目を伏せて、今までドレスを着たことがなかったことを母に申し訳なく思った。
「さあ、お顔を上げてごらんくださいませ。バルガス家の誇る、唯一無二のお姫様ですよ」
 侍女頭は明るく声を上げて、姿見の前にカテリナを導こうとする。
 カテリナはちょっといたずら心がわいて、侍女頭に声をかけた。
「あ、待って。最初に見てもらう人は決めてるんだ」
 カテリナは口の前に指を当てて、そろそろと隣室に向かった。
「チャールズ、こっちを見て」
 カテリナは出来上がったドレス姿を自分で確かめる前に、隣室で待っているチャールズに見せるつもりでいた。
 母のドレスに恥じないように精一杯足運びも表情もおしとやかに、けれどうさぎのようにひょこりと、隣室に立ち入る。
「どうかな?」
 振り向いたチャールズは、しばらく言葉を失っているようだった。
 カテリナがドレスの裾をつまんでくるりと回ると、絹よりも鮮やかな黒髪も光を放つように輝いた。健康的でまっさらな肌に、頬と唇とだけにほんの少し差した朱が映えていた。
 感想を聞きたいカテリナが、チャールズ、とむくれてもう一度問いかけるまで、チャールズは身動き一つ取らずにカテリナをみつめていた。
 彼は息を詰めてカテリナをみつめた後、やっとというように言葉をこぼした。
「……まるで夢の中のようで、言葉がみつかりません」
 カテリナは冗談のように感じて、くすっと笑い返す。
「いいよ、無理しなくて。お母さんみたいにはいかないってわかってるもの」
 カテリナはいつものように気楽に言ったが、チャールズは嘆息して首を横に振った。
「いいえ。……いいえ。お嬢様はリリー様のすべてを受け継いでいらっしゃる」
「チャールズは褒めるのが上手だなぁ。そんなことより、行こうよ」
 カテリナは笑って、子どもが母親に甘える仕草でチャールズの腕に自分の手を添えた。
 チャールズは姫君をエスコートするうやうやしさでその手を取って、屋敷の外に待つ馬車へ向かった。
 走り出した馬車の中、隣に座るチャールズを見上げてカテリナは告げる。
「チャールズに恥をかかせたらごめんね」
「ご心配は無用です。私にお任せください」
「うん。頼りにしてるよ」
 貴族で、こういったエスコートも慣れているチャールズなら大丈夫だろうと思って、カテリナも安心できた。
 日が静まる頃に馬車は小さな館に着いて、チャールズに手を引かれて馬車を降りる。
 そこは庭に赤茶色の灯がともされ、にぎやかではないが心地よい笑い声を交わす貴婦人たちが行き来していた。
 彼女らの服装はカテリナと同じで隣国の名残があったが、交わす言葉はヴァイスラントのもので、静かに宵の時を共有していた。
「……私、何か変かな」
 馬車を降りるなりカテリナに集中した視線に、彼女は何か失敗をしてしまったのかと反射的にチャールズを見やる。
「姫君のご到着は人目を引くもの。さ、参りましょう」
 チャールズは安心させるように笑って、カテリナの手を引いて進む。
 灯りに照らし出されて陰をはらみながら花が咲く庭は、昼間とは違うひそやかさがあった。カテリナは緊張しながらチャールズの腕につかまって、そっと問いかける。
「ここは?」
「とても高貴な御方のサロンですよ。お嬢様をデビューさせるなら、このサロンと決めておりました」
 チャールズはぽつりと告げて、あるテーブルの前で立ち止まる。
 女主人らしい方の前で片膝をついてその手に口づけを落としたチャールズの隣で、カテリナも腰を折って礼を取る。
 顔を上げたカテリナはそこに王妹マリアンヌの微笑をみとめて、一瞬不思議な心地がした。
「……君は?」
 そしてマリアンヌの隣にギュンターが立っていることに気づく。
 彼が問いかけた声がいつも自分にかけられる声と違う気がして、どきりとしたのだった。
 社交的で知られるヴァイスラントの人々は、みな行きつけのお店を持っているように、出入りするサロンを持っている。
 そのもっとも代表的なものが王城の中にあるローリー夫人のサロンだが、サロンといえば人々がもう一つ思い浮かべるのが、王妹マリアンヌのサロンだった。
 マリアンヌのサロンは王妹殿下が開いているにもかかわらず、いつも数十人の小さな集まりで、年に数回しか開かれず、しかもどこで開かれているのかほとんど知る者がいない。
 カテリナに名をたずねたギュンターに、マリアンヌは優しく念を押した。
「陛下、名は問わないのがこのサロンの決まりですから」
 そんな小さなサロンなのに、サロンといえば人々が頭の片隅にマリアンヌのサロンを思い出すのは、招かれる人々の素性を詮索しない特別な集まりだからだった。
 その決まりは、精霊たちが名前を呼ばれるのを何より嫌うという言い伝えからきている。ヴァイスラントの建国の功労者である精霊も、気安く名前を呼ばれたことに立腹して王城の泉をピンク色に変えたという逸話が残っている。
 精霊の逸話が本当かどうかはピンク色の泉の所在と共に王城の七不思議のひとつだが、招かれる人々が一般的なサロンに出入りしたがらない人々であるのは事実だった。
 チャールズは許しを得て顔を上げると、マリアンヌに礼を述べた。
「お招きいただき光栄の至りです、殿下」
「私もお会いできてうれしいわ。今夜は、星々もご令嬢のデビューを祝福しているようね。素敵な夜をお過ごしになって」
 マリアンヌもチャールズと短く言葉をやりとりしたものの、サロンで活発に行われる紹介合戦もなく、カテリナに微笑んだだけだった。
 それでサロンのデビューが果たせるのか疑問を持つ者もいるが、名を知らしめてほしい令嬢はちゃんと相応のサロンが用意されている。カテリナとしても、チャールズがこのサロンを選んでくれたのは、父との関係を明かしたくないカテリナの気持ちに添ってくれたとわかっていた。
 ところが凪のようなあいさつを交わした二人とは対照的に、ギュンターが割り込むように言った。
「ま、待ってくれ。少し話がしたいんだ」
 普段呼吸でもするように女性に美辞麗句を贈るはずのギュンターは、言葉に詰まりながら口を開く。
「メイン卿にご令嬢がいらっしゃるとは知らなかった。……精霊と見まごうようなご令嬢だから、今までサロンにお出でにならなかったのかもしれないが」
 ギュンターは焦りながら言葉を重ねて、かといえばらしくない沈黙も作ってしまいながら告げる。
「ただ……驚いてしまった。すまない、誤解させるような言い方だったな。もっとふさわしい言葉があるはずなのに」
 ギュンターは一度目を伏せて、意を決したようにカテリナを見た。
「……お名前を教えてほしい。それで、私にエスコートの役目を与えてくださらないか」
 提案したギュンターの目は真剣で、それが知らない人のようで、カテリナはとっさに目を逸らした。怖いような気持ちになって、ぎゅっとチャールズの腕にすがる。
 マリアンヌとチャールズはギュンターの提案が性急に過ぎると気づいて、それをカテリナが拒んでいることも気づいた。こういった場を取り仕切る立場から、すぐにそれぞれの役目を果たす。
「殿下、少しお時間をいただけませんか」
 遠回しに御前から去ることを提案したチャールズに、マリアンヌはそれでいいというようにうなずいた。
「ええ、ゆるりとお過ごしになって。……お嬢さん、あなたは祝福されているということを忘れないで」
 マリアンヌはチャールズに告げた後カテリナにも声をかけて、カテリナがチャールズと共に歩き去るままに任せた。
 カテリナはチャールズに手を引かれて離れる間、ギュンターが何か言いかけてこらえている気配を感じていた。カテリナはそれに振り向くのが怖くて、泣かないでいるのが精一杯でいるような顔をしていた。
 植木の陰になってギュンターの視線から出たのを確かめると、チャールズは心配そうに言った。
「申し訳ございませんでした、お嬢様。私のわがままでこのような場にお連れして」
 カテリナは元々話すのを得意にしているわけではないが、今の彼女は明らかに緊張していて楽しく談笑できる様子ではなかった。チャールズはカテリナの顔色が優れないのを見て取って、気づかわしげに顔をのぞきこむ。
「それにもっと早くおたずねするべきでした。そのご様子では、国王陛下にお仕えするのはつらかったでしょう」
「ち、違うよ」
 カテリナは顔を上げて、チャールズに言葉を返す。
「陛下は立派な方だよ。尊敬してるんだ」
「お嬢様は同じようなお顔で、前の上司の方も庇っていらっしゃいましたね」
 チャールズは眉を寄せてカテリナをみつめると、よろしいですか、と前置きして告げた。
「チャールズにとってはお嬢様だけがたった一人の姫君です。相手が国王陛下であってもマリアンヌ殿下であっても、お嬢様が快しとしないのであれば、先ほどのように私の手を握ってくださればよいのです」
 カテリナが生まれたときからそこにいて彼女をあやしていたチャールズは、執事というより母親代わりだった。ある種の女性的な勘で誰よりも早くカテリナのことを見抜く彼には、隠し事らしいことができたためしがない。
 カテリナは口をへの字にして、そうじゃないよ、と子どもが言い訳するように言った。
「陛下にお仕えするのは楽しいよ。ちょっとだけ、苦手なだけだよ」
 幸いなことにカテリナは嘘をついたわけではなかった。だからなのか、チャールズは一息ついて目から鋭さを消してくれた。
 チャールズはカテリナの手を取って歩きながら、星に話しかけるように言う。
「仕方のないことなのですよ。私もリリー様に初めてお会いしたときは、精霊が降りていらしたと思いましたから」
「お母さんはきれいな人だったものね」
 チャールズはうなずいたが、少し苦い口調で答えた。
「それは誰もが思ったことでしょう。けれど私がリリー様を仰ぎ見たのは、精霊に対するように特別な思いからでした」
 届かないところにある星を愛おしむように見上げる目で、チャールズはカテリナを見やる。
「「最初のダンスを踊った人とは結ばれない」と言われますね」
 カテリナは侍女たちが話していたことを思い出していた。母が初めてサロンを訪れてダンスを踊った相手は、同じ日に初めてサロンにデビューした貴公子のチャールズだったと。
 侍女たちが一緒に教えてくれたヴァイスラントの古い言い伝えは、少し残酷だと思う。カテリナのそういう思いが目に現れたのか、チャールズは優しく笑った。
「でも私はそれでよかったと思っています。精霊のように可愛らしい子がお生まれになって、育っていくのを今もみつめていられる」
 ふいにチャールズはカテリナの前で一礼すると、いたずらっぽく手を差し伸べる。
「お嬢様、最愛の人とダンスを踊るなんて、私から見たらまだまだ早いですよ。……まずは私と一曲、いかが?」
 カテリナは強張っていた心がその言葉で解けていって、いつものように屈託なく笑った。
「よろこんで」
 手を取り合ったカテリナたちをまもなくワルツの調べが包んで、最初のダンスは始まった。
 女性としてサロンにデビューしたその日は、カテリナにとって不思議な夜だった。
 子どもの頃から召使いの男の子たちと遊ぶ方が好きで、男の子の格好にも話し方にも、違和感は何もなかった。服の色を一つ決めるにも周りを気にする女の子たちの感覚は不思議で、男の子に比べて複雑でもあって、苦手な気持ちを持っていた。
 でも肖像画の母がまとっていたドレスとやさしさに憧れていたのは本当で、チャールズたちがしきりに教えてくれる女性の所作や教養を嫌ってもいなかった。花を見たらきれいと思うみたいに、心のどこかでドレスをまとってサロンに行ってみたいとも思っていて、チャールズに誘われて立ち入ったその世界に、宝石みたいな輝きをみつけていた。
 甘いお菓子と紅茶の香りも、心地よいと知った。チャールズと踊るダンスだって、家で冗談交じりに踊るのとは違う。
 星々の下でいつまでも、この時に浸っていられたら。そう思う気持ちも嘘じゃなかった。
 けれどチャールズと踊った後、カテリナは後ずさるような一言を口にしていた。
「お母さんだったら、早く帰りたいなんて言わなかったかな」
 ここには国王陛下がいる。国王陛下と一緒に過ごすことがどうして嫌なのと自分に問いかけると、嫌じゃないよ、苦手なだけだよと子どものような答えが返ってくる。降臨祭の半分、毎日のように一緒の部屋でお仕事をしていたじゃないと言い募っても、それとこれとは全然違うと苦しそうに言い逃れる。
「ありがとう。チャールズが連れてきてくれて嬉しかったよ。でも……なんだか、自分が自分じゃないみたいで」
 国王陛下の前で「カティ」として振舞えないのが、たまらなく気まずい。
 せっかく連れてきてくれたチャールズに申し訳なくて、顔を伏せて言うと、チャールズは考え込む素振りを見せた。
 チャールズはどうされたのですかと問い返すこともなく、ただ彼がいつもそうするように、カテリナの打ち明けた迷いに優しく応じた。
「リリー様にはお立場がございましたから、確かにいつでもご自分の意思でサロンを出られるわけではありませんでした。でも」
 一度言葉を切って、チャールズは続けた。
「今のお嬢様のように、早々に立ち去りたいと仰ったときもありましたよ。……怖がっていらしたのでしょうね」
「誰を?」
「リリー様が怖がったのは、旦那様しか存じ上げません」
 チャールズはちょっとだけ不機嫌に言ったが、すぐにカテリナの手を取って導いた。
「どうなのでしょう。星が定めているものなら私には留めようがないのでしょうが、今はお嬢様の小さなわがままを叶えてさしあげなければ」
 彼はそう言って、王妹マリアンヌの方に足を向けた。
 カテリナはチャールズにギュンターのことを告げなかったが、彼を気にしてサロンを後にしたいと考えたのは伝わっていたらしい。チャールズはマリアンヌからテーブルを三つほど挟んだところで待ち、ギュンターが彼女の側を離れたときを見計らって彼女に近づいた。
 そのとき、マリアンヌはこの国の姫君としての名に恥じない、誰に不公平にもならないまなざしと言葉で訪れる人たちを迎えていた。
 けれど歩み寄るチャールズを見てその意図を察したようだった。
 マリアンヌはグラスをテーブルに置き、少し外すことを周囲の人に告げると、一人チャールズに近づいた。
 二歩先でマリアンヌは立ち止まり、チャールズに声をかけた。
「まずはご令嬢にサロンへ来ていただきたかったの。感謝します、メイン卿」
 マリアンヌはチャールズがこの場を辞すことを告げる前に、その言葉を読み取ったようだった。
「お気になさらないで。ご令嬢に、サロンを嫌いになっていただきたくないの。初めてサロンを訪れるときは誰でも緊張するのだから、とても自然なことよ」
 マリアンヌは少し残念そうに目を伏せたが、すぐに微笑んで言った。
「これからですもの。またいらしてね」
 出会ってからどんなときも、この方は微笑みを絶やさない。すぐに顔に出てしまうカテリナには到底及ぶべくもない姿に、ただ仰ぎ見ることしかできない。
 カテリナはチャールズの腕から手を離して、初めて自分の言葉であいさつを述べる。 
「殿下、お招きいただき光栄でした。星の祝福を受けたように胸がいっぱいです。今日はこれで失礼しますが、必ずまた御前に参上します」
 せめてきっちりとお礼を述べて、騎士の誇りにかけて綺麗に礼を取る。
 カテリナが顔を上げると、マリアンヌはそれでいいというようにうなずいてくれた。
 ギュンターにもあいさつをするべきだとはわかっていたが、カテリナは彼には話しかける勇気がなかった。安心と寂しさの混ざり合ったような気持ちで周りを見回したカテリナを、マリアンヌが苦笑して見ていたのは気づかなかった。
 まだサロンを訪れて一刻と経っていなかったから、ダンスもチャールズと一度踊ったきりで、来客と会話することもできなかった。ただここのサロンの来客はみな物静かで距離を心得ている人々だったから、折を見て訪れたときには輪の中に入ることもできそうに思えた。
 陛下がいらっしゃらなければ今日だって、きっと何度もダンスができたもの。口をへの字にして思ったけれど、今までダンスにそれほどこだわっていなかった自分がダンスのことを残念がっているのは、今日が星のまたたく澄んだ夜だからに違いなかった。
 チャールズに手を引かれて庭を出て、館の門扉までやって来たときだった。
「待って!」
 まさか彼が追ってくるのは想像していなかったから、カテリナは呼び止めた声に硬直してしまった。
 振り向かないという選択もできたのかもしれないが、カテリナはごくんと緊張を呑み込んで、恐る恐る振り向く。
 そこに慌てて抜け出してきたのか供も連れず、ギュンターが立っていた。カテリナが知っているのは穏やかな王と不機嫌な上司で、少年のように性急に声をかけた彼は、知らない人のようだった。
「私は君に、何か失礼をしてしまったんだな。許してほしい」
 気落ちしたように目を伏せた彼に、カテリナは首を横に振った。乱暴なことを言われたわけでもないのに彼と話ができない自分が不思議で、誤解を解きたいのに、それがまったくの誤解でもないような気持ちに呑まれてしまった。
「今度いつ会えるかは……訊いてはいけないことなんだろうか」
 カテリナに訊ねるというより頼み込むような声音で、ギュンターは言葉をこぼした。
 カテリナは考えがまとまらないときは、どこかに突っ走るか、潔く逃げるかのどちらかだった。今は走る場所が見当たらないので逃げる一択だとわかっていたのに、なぜか世間の女性たちがよくするように、占いに頼るような気持ちで星をうかがっていた。
 星読み台で数式を書き上げて精霊の言葉を読み解くならいざ知らず、星は瞬間的に答えを出してはくれない。
 そんなこと言ったって、私にだってわからないよ。カテリナはとっさに子どもがすねたような顔で、ギュンターを見返してしまった。
「……あ」
 俗世を知らない精霊のようだったカテリナの表情に人間らしい不満が浮かんだのを見て、彼は閃いたようだった。
 ギュンターは一呼吸も置くことなく、命令じみた一言を放つ。
「また会ってくれ」
 瞬間、ギュンターがカテリナに言ったのは、いつもの声と同じだった。繕っている顔を一枚めくった、無神経だが的確で、有無を言わさない一言だった。
 カテリナは反射的にむっとして、嫌ですよと言いかけた。ところがその一言を告げる前に、ギュンターは手を伸ばしてカテリナの手に何かを握らせた。
 不思議ともう怖くなくて、カテリナはきょとんとして手のひらを開いた。そこに星の文様が描かれた金貨があって、それに息を呑んだのはカテリナではなく側にいたチャールズだった。
 昔、カテリナの母と父が海の向こうの王城で出会ったとき、母にひとめぼれした父が、ヴァイスラントの先王から賜った金貨をその場で母にプレゼントしたらしい。
 その逸話は娯楽新聞に載ってしまって、今でもサロンに出かける男性は、イミテーションの星の金貨をポケットに忍ばせていると聞く。
 とはいえヴァイスラント公国の女性たちはたくましく、意中でない男性からイミテーションをもらっても、その場であっさり捨ててしまうのもよくある話だった。カテリナもとっさに考えたのがそのよくある方だったから、ギュンターの一手はそんなに成功したとは言えない。
 ただ普段全然労わない彼が珍しく褒めたときみたいに、不意にぽとんと手に落とされた金貨は、カテリナの心に小さな音を立てて収まったようだった。
「はい!」
 気が付けば子どもが得意げに胸を張るみたいに笑い返して、カテリナは答えを待たずに馬車に乗った。
 走り出した馬車の中で手のひらの金貨をみつめて、カテリナはふふっと笑った。
 星がまたたく夜は、そんな風に過ぎていった。
 お休みが明けて朝、カテリナが王城に出勤すると、国王陛下と彼の私室の前で出会った。
 カテリナが出勤する前からギュンターが仕事をしているのはよくあることだが、そこはもちろん国王陛下の私室なのであって、カテリナは近衛兵にあいさつをしてから部屋に入れてもらう。国王陛下が自分で鍵をかけて部屋を出るという場面に出くわすのは、普通のようで全然普通ではない。
「おはよう」
 カテリナは昨夜のサロンのことを瞬間的に思い出して一歩後ずさろうとしたが、それを制するようにギュンターから鋭く言われた。
「……おはようございます。何をしていらっしゃるのですか」
「出勤だ。君も毎日そうしてるだろう」
 ギュンターはちらとカテリナを見て、目の前の扉に目を戻した。
「何も持たなくていいから一緒に来なさい」
 ギュンターはそう言って鍵を回し終えると、それを自分のポケットに仕舞って先に歩き出した。
 カテリナは肩掛けカバンをぱたこんと揺らしながら彼の後ろについていった。ギュンターは会議に出るときのような詰襟とサーコートという公務用の格好だが、彼がそういうときによく小脇に抱えている書類はまったくなく、仕事中の常である難しい顔もしていなかった。
 ギュンターは歩みを止めずに、ふいに後ろを歩くカテリナに声をかける。
「カティはどうして騎士になったんだ?」
 彼女は唐突なその質問に勘ぐる性格でもなく、素直に答える。
「父が騎士で、同じ仕事がしたいと思ったからです」
「奇遇だが私もそうだ。父が国王だったから、同じ仕事に就いた」
 ギュンターはちょっと声をもらして笑ったが、サロンで女性たちに見せる貴公子然としたものとは違う、なんだか気楽な笑い方だった。
「ずっと重荷ばかりだと考えていたが、この仕事をしていてよかったと初めて思ったよ」
 彼はそれきり別段何か言うことはなかったが、やけにすっきりした顔をして窓の外の晴れ渡った空を見て、つかつかと歩いていった。
 ギュンターが席に着いたのは四階の中央に位置する会議室だった。普段カテリナが事務仕事をしている彼の私室とは違って円卓になっていて、重臣たちが集まっては重要なことを決める、いわば公的な国王陛下の仕事場だった。
 カテリナが部屋を出ようとすると、またギュンターから鋭く声がかかる。
「待て、カティ。君はそこだ」
 カテリナも壁際で警護をしていたことはあるが、今日のように席を決められたのは初めてだった。さすがに重臣たちと同じ円卓ではないが、国王陛下に書類を差し出す斜め後ろの補助席に着くようにギュンターから言われて、肩掛けカバンを下ろしてメモの準備をした。
 陛下の隣であるマリアンヌ王妹殿下の席をはじめとしてまもなくすべての席は埋まり、定刻を確認すると、ギュンターから口を開いた。
「集まってくれて感謝する。たびたび議題に上った、降臨祭の最後のダンスのことだが、結論が出たのでみなに知らせようと思う」
 カテリナはメモに視線を落としながら緊張に身を固くした。それは自分が休暇中にもう決まっていると思っていたが、いざ耳にするとなると逃げ出したくなった。
 その瞬間に自分の仕事が終わってしまうから、熱心にいろいろなことを教えてくれた陛下が遠くにいってしまうから……陛下が最愛の人とダンスを踊るから。最後の一つは誰にとっても喜ばしいことのはずなのに、カテリナはなんだか喜ぶことができなかった。
 ギュンターは息を吸って、一同を見渡しながらその答えを告げた。
「決めた。降臨祭の最終日、私が贈った星の金貨を持って現れた女性とダンスを踊ろう」
 彼がそう言った途端、カテリナは昨夜、母から譲り受けたドレッサーの引き出しに大切に仕舞った金貨のことを思い出した。
 でもあれはイミテーションで、女性慣れしている陛下ならきっといろんな人に配っているもので、そう心の中で言い訳したカテリナに、至極真面目な陛下の声が聞こえてくる。
「私が星の金貨を渡した女性は三人だけだ。アリーシャ、ローリー夫人」
 ギュンターは目を伏せて、どこか独り言のように言った。
「もう一人は……すぐ側にいると知っているが、最終日に現れてくれるかはわからない」
 相手にも準備があるのだからと前もってダンスの相手を決めようとしていた陛下としては、まったくらしくない不確かな選択だった。重臣たちとしても陛下の相手が決まらないことには精霊との約束が守れないわけで、反対は必至のようにも見えた。
 陛下の隣で身じろぎをして、最初に意見を述べたのはマリアンヌだった。
「最愛の人は陛下の御心にあるということですね」
 マリアンヌは誰よりも陛下と長く過ごしてきた落ち着きをもって、重臣たちの不安を優しくなだめた。
「おそらくもう陛下の御心は決まっていらっしゃる。けれどその女性が自分を選んでくれるかどうかだけが、陛下にはわからない」
「……そうだ」
 ギュンターが深くうなずくと、マリアンヌはうなずき返した。
「では、私には反対の理由がありません。それこそが精霊の望みだと思うからです」
 マリアンヌが微笑んで一同を見やると、重臣たちは今この国で王に次ぐ高貴の意思の力に怯んだ。
「ご意見のある方はいらっしゃいますか?」
 結局その場で反対の意見は出ることなく、御前会議は解散となった。
 カテリナが肩掛けカバンにメモを仕舞って退出しようとすると、マリアンヌから声をかけられた。
「カティさん。陛下のお側を片時も離れないでくださいね」
 お願いの形を取った命令と気づいてカテリナが大きな目でまばたきをすると、マリアンヌは笑って陛下を振り向く。
「陛下もそろそろ、最後のダンスより降臨祭の後のことが気になっていらっしゃる頃かしら」
「マリアンヌ」
 ギュンターは怒ったような声で言ったが、本気で怒ってはいないとマリアンヌにはわかっているようで、彼女は楽しそうに笑っていた。
 そういうところは長い間築いた信頼関係でしかできないものだとカテリナが感服していると、ふいに二人の前に進み出た者がいた。
「失礼。折り入って、陛下とマリアンヌ殿下にお願いしたいことがございます」
 熊のような見上げるばかりの巨体を案外繊細な仕草で丸めて礼を取り、王と王妹の前に膝をついて二人を見上げた男は、カテリナもよく知っている。
 カテリナは素直だまっすぐだと言われるが、その元となる彼は、敵地で最後の一人になっても戦い続けて、命がかかった会談でも王に自国にとって最良の選択を進言した忠臣だ。
「可及的速やかに、カティを騎士団に返していただきたい」
 彼はカテリナの元上司の上司のそのまただいぶ上の総帥、ゲシヒト・バルガスという難しい名前なのだが、もっと簡単な名前もある。
「……カティがいないと夜も眠れない者もいますから」
 顔を伏せてつぶやいた言葉こそが彼の本音だと知っているのは、カテリナが彼の実の娘だからだった。
 父が下を向いた目がだいぶ潤んでいて、今にも泣きそうな顔になっているのを、カテリナだけが知っていた。