バルコニーに出てアリーシャが空を仰ぐと、一日の終わりの壮大な幕引きが広がっていた。
王城の屋上に続くそのバルコニーは、屋上に旗を飾るときに兵士たちが使うだけの通用路だったから、実はそこで星が綺麗に見えることを知っている者は少ない。
ヴァイスラントでは王族から庶民まで星を見る習慣がある。夕陽が綺麗な日は星も美しく見える夜になると喜ばれる。星の告げること、それはさだめなのだから、国民は吉も凶も受け入れてきた。
知っているわと、アリーシャは澄んだ外気に答えた。星占いで教えられるまでもなく、今日は幸運が降ると知っていた。アリーシャは王家に連なる血筋で、サロンでも理想の令嬢と誉れ高く、陛下自身とも長い付き合いだった。陛下が最後のダンスにアリーシャを誘うのは、まるで公務のような必然だった。
ふいに背後の窓が開いて、慌ただしく足音が近づく。
「アリーシャ様!」
でも人の心はいつだって定めたとおりにいかない。それを証明するように、少年騎士はバルコニーに飛び込んできた。
アリーシャがサロンから立ち去ったのはまだ正午過ぎだった。従者を通して、アリーシャは自邸に帰ったと陛下に言伝ておいた。アリーシャが隠れ家のようなここで日が暮れるまで、文字通りたそがれているとはたぶん陛下も思っていないことだろう。
少年騎士は声をかけたものの、近づくのはためらっているようだった。少しの間があって、言葉を選びながら話しかけてくる。
「立ち入ってしまって申し訳ありません。お部屋の前でお待ちしていましたが、ずいぶん長いこと出ていらっしゃらないので」
アリーシャがようやく振り向くと、あまりに澄んでいて大きな目と目が合った。
降臨祭の前日、陛下にお気に入りの部下ができたらしいと耳にしたのが始まりだった。そのときはまさかその従者がアリーシャの運命まで変えるとは思ってもみなかった。
降臨祭が始まって早々、自室で仕事をしていた陛下を気楽な思いでお忍びに誘い出した。
けれどそこで陛下がその従者に見せたのは、アリーシャには決して見せない表情だった。陛下の態度はアリーシャや他の女性に対するように甘くはなく、だからかえって本心で彼に接しているとわかった。
出会って数日の従者と私、どちらが大事なの。陛下に問いかけるまでもなかったのは、元々陛下がアリーシャに恋をしていないのを知っていたから。
「陛下は何かアリーシャ様に失礼をしてしまったのでしょうか?」
一人になりたいアリーシャを追いかけてみつけてしまう、彼の愚直さに子どもなのかともう少しで怒り出したくなった。でもそれはたぶんアリーシャの方で目を曇らせている。彼のそのまっすぐさは、アリーシャが認めないだけで、人を惹きつける彼自身の輝きに違いなかった。
アリーシャは役者がするように顎を上げて、尊大に笑った。
「私の負けよ」
現に、アリーシャのところまでたどり着いたのはこの少年の力だった。バルコニーに唯一続く部屋の主であるマリアンヌ王妹殿下もアリーシャを一人にしておいたのに、彼だけは突破してきたのだから。
「悔しいわ。誰かに負けたことなんてなかったもの」
アリーシャがせめてもの仕返しに意地悪を言うと、少年はアリーシャの言葉の意味を考え込んだようだった。
陛下からダンスに誘われて、負けとはどういう意味なのか。もしこの少年が陛下くらい鈍かったなら、そう思ったのかもしれない。
でもアリーシャはこの少年を、陛下とは別の性質を持つ者だと知っている。
「あなたは女の子ね」
彼女がはっと息を呑む気配がした。アリーシャが告げた事実は彼女が思うよりたくさんの人が知っていると思うのだが、実際気づいていない人もいるのだから、精霊もいたずらなことをするものだ。
「聞いて」
他ならぬ陛下とかね。アリーシャはさすがにそれについては思うだけにして、負けたボードゲームを振り返るように話を始めた。
「子どもの頃に、ここで初めて陛下に星の見方を教えていただいたの。陛下は自分より小さいもの、弱いものにとても親切でいらっしゃるのね。たぶん他にもたくさん同じことをしていただいた子女はいると思うのだけど、うれしかったわ」
暑さの静まった後の夏の宵、張りつめた空気に星の輝きが際立つ冬の夜、季節は着実に巡っていった。子どもが大人になるように、少女のささやかな憧れが恋心に育っていっても、アリーシャを責められる者はいなかっただろう。
アリーシャは人より意地が強いと自覚していた。身分も容姿も恵まれているとわかっていたから、装いも教養も磨きぬいて、いずれは陛下の横に並ぶのだと思っていた。
ふいにアリーシャは苦笑して、そろそろ見え始めた一番星を仰いだ。
「なんてね。実は星のこと、陛下に教えられるまでもなく大体知ってたのよ。星を教えてくださる殿方だってたくさんいらっしゃるんですもの」
アリーシャも王家に連なる子女、幼い頃から親切にしてくれる大人も言い寄る男性もいた。確かに身分は陛下より上の男性はいないが、陛下よりお顔立ちのいい方も優しい男性も知っている。
「でも陛下だから、教えてもらいたかったのよ……」
星がいくつも空に現れていく。夜の幕開けの前で、アリーシャは自分の中にだけある小さな星のような思い出を見ていた。
いつだったか、陛下には特別な星があると耳にした。アリーシャは興味を惹かれて、どの星なのですか、名前を教えてくださいなと陛下に問いかけた。
ところがそれに対する陛下の反応は、普段の朗らかな態度が嘘のように不機嫌だった。彼は憮然として、めったに見えない六等星だよ、小さすぎてたぶん今日も見えないんじゃないかなと言った。
でもいつからか、陛下に星の見方を教わっているとき、彼が夜空に何かを探していることに気づいた。目を凝らして、時々怒っているような顔もしていた。
後で聞いたのは、その星は陛下が子どもの頃名前をつけたという話だった。だから星読み台で調べれば位置も名前も知ることができたが、アリーシャは陛下から教えてもらうことにこだわって調べなかった。
陛下もいつまでも子どもの頃名付けた星にこだわるはずもないと思っていた。アリーシャはいつしか星の名を訊くのをやめて、陛下も二度と同じ話をすることはなかった。
でも降臨祭が始まった日、陛下と久しぶりに星を見る機会があった。そのときふと隣を見たら、陛下は例の怒ったような顔で星を探していた。
どの星を探しているのですか。思わずアリーシャが問いかけると、陛下はたぶんアリーシャの言葉を聞いていなくて、上の空で独り言をもらした。
……カティ、どうしてくれよう。特別な星を探すのと同じ目をして、陛下はその名前をぼやいたのだった。
たったそれだけのことで、それが好意なのか愚痴なのかも傍からはわからない一瞬だったのに、アリーシャは何だか急に、陛下は普通の一人の男性だと思った。
アリーシャが他にたくさん素敵な人はいたのに陛下に恋をしてしまったみたいに、陛下だって数多の星を見上げながらたった一つの星を探してしまうのだと。
アリーシャは少女騎士を正面からみつめて、残酷な事実を告げた。
「陛下の最愛の人は私じゃない。まだ決まってもいない。だからお断りしただけのことよ」
バルコニーから見下ろせば、あちこちで星を見る人々がいた。中にはアリーシャに気づいて手を振る友達もいて、今日もヴァイスラントはこんなに平和だ。
「私でありたかったわ」
横目で見やると、少女騎士はずっと考え込んでいて、アリーシャを連れ戻すでもなく反論するでもなく、首をふるふると振って、その綺麗な目でくるくると悩んでいるようだった。
陛下の思い、この少女の思い、それを恋というかは精霊しか知らないとして、国王と最愛の人とのダンスは叶うのだろうか。
アリーシャにだってわからなかったが、見上げた空は満天の輝きが始まっていて、今日はどんな小さな星も見えそうな気がしていた。
王城の屋上に続くそのバルコニーは、屋上に旗を飾るときに兵士たちが使うだけの通用路だったから、実はそこで星が綺麗に見えることを知っている者は少ない。
ヴァイスラントでは王族から庶民まで星を見る習慣がある。夕陽が綺麗な日は星も美しく見える夜になると喜ばれる。星の告げること、それはさだめなのだから、国民は吉も凶も受け入れてきた。
知っているわと、アリーシャは澄んだ外気に答えた。星占いで教えられるまでもなく、今日は幸運が降ると知っていた。アリーシャは王家に連なる血筋で、サロンでも理想の令嬢と誉れ高く、陛下自身とも長い付き合いだった。陛下が最後のダンスにアリーシャを誘うのは、まるで公務のような必然だった。
ふいに背後の窓が開いて、慌ただしく足音が近づく。
「アリーシャ様!」
でも人の心はいつだって定めたとおりにいかない。それを証明するように、少年騎士はバルコニーに飛び込んできた。
アリーシャがサロンから立ち去ったのはまだ正午過ぎだった。従者を通して、アリーシャは自邸に帰ったと陛下に言伝ておいた。アリーシャが隠れ家のようなここで日が暮れるまで、文字通りたそがれているとはたぶん陛下も思っていないことだろう。
少年騎士は声をかけたものの、近づくのはためらっているようだった。少しの間があって、言葉を選びながら話しかけてくる。
「立ち入ってしまって申し訳ありません。お部屋の前でお待ちしていましたが、ずいぶん長いこと出ていらっしゃらないので」
アリーシャがようやく振り向くと、あまりに澄んでいて大きな目と目が合った。
降臨祭の前日、陛下にお気に入りの部下ができたらしいと耳にしたのが始まりだった。そのときはまさかその従者がアリーシャの運命まで変えるとは思ってもみなかった。
降臨祭が始まって早々、自室で仕事をしていた陛下を気楽な思いでお忍びに誘い出した。
けれどそこで陛下がその従者に見せたのは、アリーシャには決して見せない表情だった。陛下の態度はアリーシャや他の女性に対するように甘くはなく、だからかえって本心で彼に接しているとわかった。
出会って数日の従者と私、どちらが大事なの。陛下に問いかけるまでもなかったのは、元々陛下がアリーシャに恋をしていないのを知っていたから。
「陛下は何かアリーシャ様に失礼をしてしまったのでしょうか?」
一人になりたいアリーシャを追いかけてみつけてしまう、彼の愚直さに子どもなのかともう少しで怒り出したくなった。でもそれはたぶんアリーシャの方で目を曇らせている。彼のそのまっすぐさは、アリーシャが認めないだけで、人を惹きつける彼自身の輝きに違いなかった。
アリーシャは役者がするように顎を上げて、尊大に笑った。
「私の負けよ」
現に、アリーシャのところまでたどり着いたのはこの少年の力だった。バルコニーに唯一続く部屋の主であるマリアンヌ王妹殿下もアリーシャを一人にしておいたのに、彼だけは突破してきたのだから。
「悔しいわ。誰かに負けたことなんてなかったもの」
アリーシャがせめてもの仕返しに意地悪を言うと、少年はアリーシャの言葉の意味を考え込んだようだった。
陛下からダンスに誘われて、負けとはどういう意味なのか。もしこの少年が陛下くらい鈍かったなら、そう思ったのかもしれない。
でもアリーシャはこの少年を、陛下とは別の性質を持つ者だと知っている。
「あなたは女の子ね」
彼女がはっと息を呑む気配がした。アリーシャが告げた事実は彼女が思うよりたくさんの人が知っていると思うのだが、実際気づいていない人もいるのだから、精霊もいたずらなことをするものだ。
「聞いて」
他ならぬ陛下とかね。アリーシャはさすがにそれについては思うだけにして、負けたボードゲームを振り返るように話を始めた。
「子どもの頃に、ここで初めて陛下に星の見方を教えていただいたの。陛下は自分より小さいもの、弱いものにとても親切でいらっしゃるのね。たぶん他にもたくさん同じことをしていただいた子女はいると思うのだけど、うれしかったわ」
暑さの静まった後の夏の宵、張りつめた空気に星の輝きが際立つ冬の夜、季節は着実に巡っていった。子どもが大人になるように、少女のささやかな憧れが恋心に育っていっても、アリーシャを責められる者はいなかっただろう。
アリーシャは人より意地が強いと自覚していた。身分も容姿も恵まれているとわかっていたから、装いも教養も磨きぬいて、いずれは陛下の横に並ぶのだと思っていた。
ふいにアリーシャは苦笑して、そろそろ見え始めた一番星を仰いだ。
「なんてね。実は星のこと、陛下に教えられるまでもなく大体知ってたのよ。星を教えてくださる殿方だってたくさんいらっしゃるんですもの」
アリーシャも王家に連なる子女、幼い頃から親切にしてくれる大人も言い寄る男性もいた。確かに身分は陛下より上の男性はいないが、陛下よりお顔立ちのいい方も優しい男性も知っている。
「でも陛下だから、教えてもらいたかったのよ……」
星がいくつも空に現れていく。夜の幕開けの前で、アリーシャは自分の中にだけある小さな星のような思い出を見ていた。
いつだったか、陛下には特別な星があると耳にした。アリーシャは興味を惹かれて、どの星なのですか、名前を教えてくださいなと陛下に問いかけた。
ところがそれに対する陛下の反応は、普段の朗らかな態度が嘘のように不機嫌だった。彼は憮然として、めったに見えない六等星だよ、小さすぎてたぶん今日も見えないんじゃないかなと言った。
でもいつからか、陛下に星の見方を教わっているとき、彼が夜空に何かを探していることに気づいた。目を凝らして、時々怒っているような顔もしていた。
後で聞いたのは、その星は陛下が子どもの頃名前をつけたという話だった。だから星読み台で調べれば位置も名前も知ることができたが、アリーシャは陛下から教えてもらうことにこだわって調べなかった。
陛下もいつまでも子どもの頃名付けた星にこだわるはずもないと思っていた。アリーシャはいつしか星の名を訊くのをやめて、陛下も二度と同じ話をすることはなかった。
でも降臨祭が始まった日、陛下と久しぶりに星を見る機会があった。そのときふと隣を見たら、陛下は例の怒ったような顔で星を探していた。
どの星を探しているのですか。思わずアリーシャが問いかけると、陛下はたぶんアリーシャの言葉を聞いていなくて、上の空で独り言をもらした。
……カティ、どうしてくれよう。特別な星を探すのと同じ目をして、陛下はその名前をぼやいたのだった。
たったそれだけのことで、それが好意なのか愚痴なのかも傍からはわからない一瞬だったのに、アリーシャは何だか急に、陛下は普通の一人の男性だと思った。
アリーシャが他にたくさん素敵な人はいたのに陛下に恋をしてしまったみたいに、陛下だって数多の星を見上げながらたった一つの星を探してしまうのだと。
アリーシャは少女騎士を正面からみつめて、残酷な事実を告げた。
「陛下の最愛の人は私じゃない。まだ決まってもいない。だからお断りしただけのことよ」
バルコニーから見下ろせば、あちこちで星を見る人々がいた。中にはアリーシャに気づいて手を振る友達もいて、今日もヴァイスラントはこんなに平和だ。
「私でありたかったわ」
横目で見やると、少女騎士はずっと考え込んでいて、アリーシャを連れ戻すでもなく反論するでもなく、首をふるふると振って、その綺麗な目でくるくると悩んでいるようだった。
陛下の思い、この少女の思い、それを恋というかは精霊しか知らないとして、国王と最愛の人とのダンスは叶うのだろうか。
アリーシャにだってわからなかったが、見上げた空は満天の輝きが始まっていて、今日はどんな小さな星も見えそうな気がしていた。