陛下、恋をするならご令嬢に!~国王陛下は男装の騎士を片時も離さない~

 カテリナには徒歩圏内に実家があるが、普段は王城の騎士団宿舎に住んでいる。
 体を壊さないように夜は早く寝るんだよと教えた父の言葉を忘れたわけではないが、同僚が避ける夜勤は自分から取りに行った。ただ、体を壊さないだけの自己管理も生真面目に実行していた。
 きちんと時間になったら夕食と仮眠を取り、間食もせず、王城をひととおり見回る以外は宿直室から一歩も出ない。まさかカテリナに限って勤務中にお酒を飲むはずもなく、普段後回しになっていることをしようと、夜勤中は要らない紙とまだ使える紙をより分けて縛る単純作業をするのが日課だった。
 そんなカテリナであったので、王城で夜を明かすのは慣れている。ただし完全に仕事に励んでいるのであって、同じ頃同じ建物の中で夜遊びに励む方々がいることは知らなかった。
 夜遊びの中心地、そこが王城の一角、昼間はローリー夫人のサロンと呼ばれている居酒屋ローリーである。
 女主人ローリーは昼間と同じくどんな来客も快く迎えて、彼らの話を聞いてくれる。
「そうね、いろいろあるわね」
 もっとも、出入りしていた子女たちが家に帰った後は、いい年した大人たちが子どものような顔をしてローリー夫人に甘えにやって来るのだった。
 ローリー夫人はそのしとやかな話しぶりで、客人たちにささやく。
「でも奥さまにも言い分があると思うのよ。たとえば寂しいとき、どんな風に手に触れたか覚えていらっしゃる?」
 ローリー夫人が傾けたグラスの中で、黄金色の酒気が揺らぐ。カテリナは飲んだことがないが、麦で出来た大人のお茶らしい。
「女性は変化に敏感なのよ。殿方は変わらないものを求めがちだけど、長い時を共に過ごす伴侶を同じ形に縛るなんて無骨なことはおやめなさいな」
 カテリナはうなずいて、身を乗り出して次のローリー夫人の言葉を待った。
 そのやりとりの一部始終は隣のテーブルに席を置いたギュンターとカテリナも耳にしていた。
「カティ、メモは取らなくていい」
 ギュンターが事も無げに告げて、カテリナは不満げに彼を見上げた。
「そろそろ本題ですよ」
「夫婦喧嘩に本題も閑話休題もない。ローリー夫人も適当に相槌を打ってるだけだ」
 カテリナが目を戻すと、確かにローリー夫人の前に座った男爵の愚痴は娘の婿のことに移っていた。それもまもなく隣に座った別の男性の声が重なって、カテリナも話の筋を追うことができなくなる。
 昼間のサロンはテーブルを囲んで椅子が花びらのように並べられているが、居酒屋ローリーは椅子もまばらに置いてある。灯りも控えめで、貴婦人方のおしゃべりも聞こえてこない。時々軽食を運ぶ給仕が回って来るくらいで人の移動もほとんどなく、心なしか時間の流れもゆっくりとしていた。
 カテリナが見る限り、父が口うるさく彼女に立ち入りを禁止していた危ない場所ではなさそうだが、普段彼女を囲んでいる世界ではない。カテリナはそういう違いには気づいていて、手帳を懐にしまった。
 違うというなら、国王陛下もいつもと違う。
 カテリナが知る陛下はサロンに出入りする合間にでも仕事をするはずなのに、今夜の彼はまるで時間を浪費するのを楽しむように、もう一刻ほどもサロンの片隅に腰を下ろして、何をするでもなく物思いに耽っている。国王陛下という身分は背負っているので、女主人であるローリー夫人から一つテーブルが離れただけの席ではあるが、ローリー夫人も国王陛下を特別に扱っているわけではなかった。
 カテリナは夜勤の間に暇に任せて紙の束をより分けたように、普段ならさほど関心を持っていないことを思い出していた。
 いつかの娯楽新聞、そこにローリー夫人の特集があった。彼女の銀髪とはちみつ色の肌は、彼女の母が不義を犯したからといわれていた頃があったのだそうだ。
 実際は祖母に辺境の血が入っているからなのよ。それで破談になった縁組もあったけれど、切れた縁の代わりに夫と出会えたと思うと、精霊に見放されてはいなかったみたいね。ローリー夫人自身はそう話していて、出生の逸話も話題の一つにしかしていなかったから、その記事を読んだカテリナも気に留めていなかった。
 ふいにギュンターは頬杖をつくのをやめて、ローリー夫人に声をかけた。
「もう二年になるのか」
 ギュンターが告げた言葉は、カテリナには独り言のように聞こえた。
「君がローリーの名を手放しても、ヘルベルトが君を責めるとは思えない」
 国民の多くは彼女の夫が船旅に出たきり失踪したことを知っている。
 新聞記者でさえご夫君のことを大きく書かないくらいには、ヴァイスラントの国民は彼女を気遣っていた。
 だからギュンターの独り言は、ヘルベルト・ローリー将軍を盟友としていた国王陛下でなければ、誰も口にする日が来なかった言葉だったかもしれなかった。
 ローリー夫人が話していた、破談になった縁組。カテリナは要らない紙により分けた娯楽新聞は、本当に要らない情報だったのか考えていた。
 ギュンターがローリー夫人をみつめるまなざしが今も優しいのは、彼女が親友の妻だからなのか、それとも破談になった元婚約者だからなのか。
 ローリー夫人はギュンターの言葉に苦笑してみせた。
「あなたは優しいわね。……だから嫌い」
 ローリー夫人は柔らかい棘のような声色でギュンターを刺して、あとは彼の方を見ることなく他のテーブルのところに向かった。
 カテリナはギュンターとローリー夫人の間に広がった距離をみつめながら、そこに一度ねじれた縁を見ていた。
 精霊は人の知らない基準で恋を取り上げてしまうことがあるらしい。
 そっと元に戻しておいてくれることもあるらしいけど、どういう基準なのかな。カテリナはうつむいて、難しい問題に考え込んだ。
 ギュンターはふとカテリナの様子を見て言った。
「どうした、カティ。酔ったか」
 カテリナはギュンターに返事をしようとしたが、その前に下を見て言葉を引っ込めた。
 もし陛下が今もローリー夫人が好きだとしたら、最後のダンスの相手になれる。カテリナの望む仕事の完成形のはずなのに、どうしてかそれはカテリナの中で少しもやがかかっていた。
「カティ?」
 ここは普段の執務室とも違うせいか、陛下も知らない人のように見えた。灰青の瞳が仕事中のように張りつめていなくて、かける声もなんだか優しい。
 たとえば足を組んでグラスを持つ姿が精悍だと思っても……思うだけ損な気がして、カテリナは目を逸らした。
 ギュンターはカテリナの顔を覗き込んで眉を寄せる。
「本当に体調が悪いのか?」
「申し訳ありません、陛下」
 手を伸ばしたギュンターの前に、部屋の隅で様子をうかがっていたウィラルドが助け舟を出すように割って入った。
「カティはこういう場は慣れていないものですから。お酒も飲めないんです」
 カテリナの肩に触れようとしたギュンターの手が、つかむものを失って宙に浮く。ウィラルドはカテリナの肩を抱いて椅子から立たせると、下からうかがいを投げかける。
「退出させても構いませんか?」
「体調が悪いなら……」
 ウィラルドは一礼して、それ以上のギュンターの言葉を待たずに踵を返す。
 顔を伏せて連れられて行くカテリナは体調が悪そうだったが、ギュンターはウィラルドがカテリナを見下ろす目が不愉快だった。
 ギュンターの視線に気づいたのかウィラルドは顔を引き締めたが、大丈夫だよ、俺がついてると言ったときは、上司というより男性に近い声色だった。
 ローリー夫人は後に残されたギュンターがウィラルドと同じ表情をしていたことに気づいていたが、大人の事情で黙っていたのだった。
 カーテンごしに白い光を浴びて大きく伸びをしてから、カテリナは清々しい朝の空気を吸い込んだ。
 物心ついてからというもの、およそ高い熱を出したこともなければ寝込んだこともないカテリナ、その健康の秘訣は事が大きくなる前の察知能力と、潔い撤退にあった。カテリナの大きく澄んだ心の目は自分の体に負荷がかかっていることを誰より早く見抜き、どんな楽しみがあろうと予定があろうと、布団をかぶって寝る健康第一習慣を身に着けていた。
 慣れない陰の空気、好きじゃない酒の匂いを感じたときから、歯向かうのも鬱屈するのもやめた。そういう自分に、ちょっとだけ呆れることもある。
 自分は事が起こったときに戦えないんじゃないかな。本当は騎士に向いてないのかもしれないと。
 カテリナの上の二段ベッドでもぞりと動く気配がして、カテリナに声が投げかけられる。
「カティ、起きた?」
 カテリナはここが騎士団寮の自室だと気づいて慌てた。騎士団は女人禁制ではないが、男として入隊した以上、本来の性別を知られるわけにはいかない。
 カテリナはほとんど平らの胸の一番上までボタンが留まっているか一応確認すると、ベッドに下がるカーテンの隙間から顔を出して言う。
「おはようございます。ウィラルドさま、昨日はありがとうございました」
 二段ベッドの上で、ウィラルドは気安く笑って返す。
「やめてくれよ。今の俺はカティの上官じゃないんだから」
 ウィラルドは器用に片方の眉だけ上げて、ふと気づいたように顎をしゃくって何かを伝えてきた。
 胸は見えていなかったが、はだけた肩に下ろした黒髪がそのまま流れていた。カテリナの体型は無理に偽らなくとも少年じみているが、光を抱いているような豊かで滑らかな黒髪は成長するにつれて女性的になっていて、普段はなるべく小さくなるように縛って、帽子の中に隠していた。
 カテリナには、髪だけでは性別はわからないと言い切れる自信がない。一瞬ウィラルドが困ったように目を逸らしたために、カテリナの中に焦りがこみあげた。
「着替えます。すぐ終わりますから」
「いいよ。焦るな」
 また伸びてきちゃった、そろそろ色も染めないといけないと思いながら、カテリナは慌てて着替えを始めた。
 カーテンに囲まれた限られた空間で手早く着替えるのは慣れているが、誰か様子を見に来たらと思うときはあった。学生の頃はもっと無遠慮にお互いの部屋に入り込む同級生もいたのに、その焦りは年々増している気がする。
「大丈夫だよ、カティ。この年で着替えなんて覗く奴いないよ」
 カテリナは、たぶんウィラルドには本来の性別を知られているとわかっていた。
ウィラルドとカテリナは、学生時代からずっと同室で寝食を共にしてきた。頑なにいつもカーテンを引いて二段ベッドの下にこもり、着替えをするカテリナを見てきて察しがつかないほど、ウィラルドは周りが見えない人じゃない。
 もしかしたら同僚たちだって知っているのかもしれないが、誰もカテリナにそのことを言わなかったし、貶めるようなこともしなかった。ちょうど平和な時代に生まれたのを誰に感謝すればいいのかわからないように、カテリナは誰一人名乗りを上げずに今の彼女のままでいさせてくれたことを周りに感謝している。
 いつまでそういう周りの優しさに甘えているの? 時々カテリナの中には後ろめたさが飛来して、心を刺す。
 父との関係を伏せている人は他にもいるだろう。騎士になったことだって、それ自体が悪いこととは思わない。けれどそういう選択を取ってきたカテリナをずっと心配してきた人を、カテリナは確実に一人知っている。
「そういえば最終日は実家に帰るんだってな。親父さんが喜ぶよ」
 ウィラルドの言葉に、カテリナは喉元のボタンを留める手を一瞬だけ止めた。
 誰に何を返せばいいのかはわからない。でもカテリナは父にだけは、いつか自分にできる精一杯の贈り物を返したいと思っていた。
 一度息を吸ってボタンを留めると、カテリナはうなずいて、カーテンを引いた。
「……僕は最後のワルツを誰と踊るかは、もう決めてるんです」
 ウィラルドが問い返す前に、カテリナはいつもの騎士団服を一分の乱れもなくきちんと着て、二段ベッドの脇に立っていた。
「仕事に行ってきます!」
 晴れやかに宣言して敬礼をすると、カテリナは駆け足で寮を出た。
 祝祭の最後の日に、自分は性別を明かそう。父との関係も周りに明らかにしよう。
 ……その結果騎士をやめなければいけないことになっても、それは星が決めた運命なのだから、受け入れて次の道に走り出そう。
 四階まで階段を上り回廊を渡り、顔なじみになった近衛兵に敬礼して、その部屋をノックする。
 返事がなくて近衛兵を振り向いたが、彼はどうぞと合図を送ってきた。カテリナは首をかしげながら陛下の自室に立ち入る。
 いつになく早い時間だからまだ眠っている可能性も想像したが、ギュンターは既に自席に着いて書面仕事をしていた。
 カテリナはあいさつを口にして席につけばよかったのに、余分な一言も付け加えた。
「おはようございます。朝食は召し上がったのですか」
 反射的に心配したのはカテリナの職務ではないし、陛下に失礼な一言かもしれなかった。
 けれどカテリナはつい思ってしまった。この人、誰か止めないと体を壊すんじゃないだろうか。自分がこの任を離れた後、ちゃんと止めてくれる人はいるんだろうか。
「体調は良くなったのか」
 そんな心配は余計なお世話だとわかっていたけど、それを言うなら開口一番問われたことだって、別に彼が言わなくてもいいことのように思った。
 一騎士が国王陛下の最愛の人を決められるはずもなく、彼がもう決めてしまったカテリナの選択を変えられるとも、もちろん思わなかった。
 ギュンターはカテリナのすっきりした顔を見て安心したようで、カテリナの答えを聞くことなくうなずいた。
「あまり時間がない。今日は星読み台へ向かう仕事があるからな。急いで事務仕事を片付けるぞ」
 けれどカテリナにはあと八日間、陛下の最愛の人を見極める仕事があって、祝祭の後のカテリナの未来は精霊だけが知っている。
 カテリナもうなずき返してギュンターに答えた。
「お望みのとおりに」
 もしかしたらふいに星が降るように小さな奇跡が待っているかもしれないと信じて、カテリナは今日も自分の席につく。
 ヴァイスラント公国の星読み台は謎めいた伝統と歴史に包まれていて、古くは儀式でもなければ国王さえ立ち入ることが難しかった。
 基本的な仕事は星を見て暦を作ること、吉兆の訪れを人々に伝えることで、その一つに降臨祭を行うこともあるのだが、星の読み方には国家機密も含まれるので、昔はあまり開放的にはできない事情があった。
 過去、戦争のときなどは星がヴァイスラント公国に味方しているかという、圧力に満ちた仕事をしていた時代もあったわけで、それに比べれば流星群の鑑賞に応募してきた人々に抽選券を配っている今は、少なくともだいぶ平和に違いない。
 そんな星読み台は王城から馬車で一刻ほど、周りに民家も何もない丘の上にぽつんと位置する。昔ならいざ知らず、今では子どもの遠足先にも選ばれているくらいで、もちろんカテリナも家の者に連れられて訪れたことがあった。
 ところが星読み台の門戸をくぐり、子どもたちが目を輝かせる星々の海が天上に描かれた大広間に入った途端、カテリナは不安げな顔になった。
「どうした、カティ。今月の星占いがいまひとつだったような顔だな」
 ギュンターは声をかけてしまってから、公務中だと思い出して後悔した。今日は国王が星読み台を訪れて博士の進言を受ける日で、降臨祭三日目の公式行事だ。博士と席に着く前とはいえ、一騎士に冗談交じりに話しかけていい場ではない。
 カテリナもそれがわかっていたのか、ぺこりと一礼しただけで近衛兵の後ろに引っ込んだ。ギュンターはカテリナが時々見せる潔すぎるほどの聞き分けの良さで、それが自分の気のせいではなく、何かしらの理由からきたものだと感じ取った。
 天窓からさんさんと光が差し込む応接室に通され、ギュンターが重厚な樫の木で出来たテーブルで星読み博士と向き合った途端、博士は愉快そうに切り出した。
「陛下、この機にご結婚されてはいかがですか」
「楽しんでおられるな、博士」 
 星読み博士は御年六十の小柄なご老人だが、決して俗世に疎いわけではない。
 星読み博士が告げる占いは、流行の服の色を決めたりバターを品切れにしたりと、国民の行動を結構な頻度で左右する。
 それに星読み博士の副業として結婚相談もあり、時に本気で国民の人生の命運を左右する。ただギュンターとしては、今まで自分が当事者でないために放っておいただけだ。
「何よりの慶事になりますが」
「場合によっては災難にもなるのでな」
 もっとも星読み博士が国王の結婚を決めていた時代もあったので、この場合は笑えない冗談だった。
「何せ建国以来の祭典ですから」
「娘御と同じことを仰らないでくれ」
 ローリー夫人を実娘に持つ星読み博士は、その話し方や含み笑いがさすが親子、よく似ていた。
 博士は小さくため息をついて言う。
「確かに私をはじめとした国民は楽しんでおりますが、精霊はどうでしょうか」
 とはいえ文官として最高位を持つ星読み博士、軽口から始めておいて、落としどころはそれなりに重い話を持ってくる。
「なぜ今、精霊がやって来るのを決めたのか、それは私たちには知るすべがありません。しかし相手は建国のときに約束を交わした精霊でございます。嘘やごまかしは通用しません」
 ギュンターの目を下からでも見据えて、星読み博士は国王陛下の痛いところを突いた。
「陛下が気安さや無難さで最後のダンスの相手を選んだりなどしたら、どんな災いが降りかかるか知れませんぞ」
 最後はきちんと耳に痛い進言で締めて、星読み博士との公式会談は終わった。
 応接室から出たギュンターは、博士の言葉を真実と照らし合わせるくらいには賢王だった。
 博士が言う通り、ギュンターは気安さや無難さでダンスの相手を考えている。アリーシャは日頃から付き合いがあるし、王族で、他の貴族との不公平にもならない。アリーシャ本人のためにもそれほど悪い話ではないはずだ。
「しかし結婚を十日間で決めるには……カティ?」
 ついいつもの癖でカテリナに話しかけて、そういえば星読み博士との会談室に彼は入っていなかったことに遅れて気づいた。
 今、重大な話をおよそ三日半仕事を共にしただけの新米騎士に相談しようとしたが、それが自分の中でごく自然なことになっていた。
「はい、御前に」
「なぜ会談に随伴しなかった」
 慌てて参上したカテリナに、ギュンターは不機嫌な声になってしまうのを止められなかった。会談は終わったとはいえまだ周りには近衛兵が控えている。穏やかで慈悲深くあるべきと心がけていたはずなのに、この少年といると身にまとった建前が簡単にはがれてしまう。
 カテリナは珍しく目が泳いで、ギュンターの後から部屋を出た博士に気づくなり肩が上下した。
「おや、君は」
 星読み博士はカテリナに気づいて、彼女の前で足を止めた。
「懐かしい。子どもの頃、熱心に星読み台に通っていたね?」
 博士は気安く笑うと、思い返すようにカテリナをみつめた。
「君は大きくなったら星読み博士になりたかったんだろうね。でもメイン卿は「星読み台に住むなんて許しません」と大反対で。……ああ、なるほど」
 ギュンターは博士の言葉に疑問符を浮かべたが、博士はギュンターを見て含み笑いをする。
「博士、どうなされた?」
「陛下のお耳に入れるのは今更ですが、世間ではなりたい職業第一位が星読み博士なのですよ」
 それはギュンターも知っている。国王でないところが、今の時代の平和なところだと思っている。
「ちなみに結婚したい職業第一位も、星読み博士です」
 それは裏を返せば女性の側からも人気があるということだが、この場合の博士の意図するところは不明だった。
「メイン卿は大切にお育てした御子を、星読み台にやりたくなかったんでしょうな。……いや、どこにもやりたくなかったのか」
 博士は納得したようにうなずいて、ローリー夫人とよく似た笑みを浮かべた。
「一国民として、私も陛下の最後のダンスを楽しみにしております」
 星読み博士は建国以来の祭典を楽しむと告げた言葉と同じ調子で言って、優雅に一礼したのだった。
 建国以来初めてやって来た降臨祭、人々は心弾んで催し物に旅行にと出かけているが、その影でカテリナのように急きょ働くことになった人々もいる。
 夏は暑ければ暑いほど商品が売れるように、商人にとって降臨祭はまさに天からの贈り物、過熱してくれればくれるほどいい。世間ではとにかく精霊と名付けられていれば宝飾品にお菓子、枕まで売れるわけで、それは何か間違っているのではという勢力も別にないわけだった。
 星読み台の事務室の一角、王族が訪れるときには休憩室となる部屋で、ギュンターは足を休めていた。扉を開けてカテリナが入って来ると、ギュンターは彼女に言いつけた仕事の報告を求める。
「仕官室はどうだった」
「保冷室みたいでした」
 カテリナはややあって不可解という風に答える。
 カテリナはギュンターに命じられて、星読み台の仕官室の様子をうかがって戻ってきたところだった。
 カテリナの見たところ、降臨祭の主催者である星読み台は、過熱しているようには思えなかった。それどころか星読み仕官たちはお互い言葉を交わす様子もなく、カテリナが国王陛下の命令でお邪魔しますと一言断って入ったときもほとんど無反応だった。
 ギュンターは頬杖をついてカテリナの答えにうなずく。
「保冷室か。その表現は悪くない」
「どうしたんでしょうか。忙しい時期だとうかがっていたのですが」
 国王陛下の本日の所定の公務、星読み博士との会談はとっくに終わっている。ところがギュンターは夕方になっても星読み台の一角に滞在し、しかもどうやら宿泊もするつもりでいるらしい。
「相変わらず苦戦しているのか」
 ギュンターは目を伏せて独り言のように告げると、首を傾げたカテリナに告げた。
「カティ、今晩君に夜勤を命じる」
 完璧主義、納得するまで絶対に良しを出さない国王陛下だったが、今までカテリナに夜を徹して仕事を命じたことはなかった。
「はい。お言葉通りに」
 カテリナはきょとんと目を丸くしながらも即答したのだが、それを扉の外で聞いていた近衛兵たちはこっそり色めき立った。
 近衛兵は陛下の部屋に夜のお相手を招くのも平常業務だったが、彼らの勤勉な上司は夜になればなるほど一人で仕事をする御方で、今までその重大な職務を果たさせてはくれなかった。
 ついに一線を越えられるのですね、陛下。私たちの中では今夜が降臨祭最終日でもいいですよ。ちょっと涙ぐんで、近衛兵たちはお互いの肩を叩きあった。
 夜勤に備えて仮眠を命じられたカテリナは、いつもより三割増しほど優しい近衛兵たちのまなざしに見送られて部屋を出た。
 星読み台は夜に仕事をするのが常で、仮眠室は王城に比べても充実していた。個室で鍵もかかって、鏡や靴磨きも常備されている。王城の宿直室なら誰が来てもおかしくなく、身構える必要があったが、ここなら安心して眠ることができそうだった。
 だからカテリナは実家にいるように、髪を解いて、服も夜着だけまとってベッドに入った。
 誰にともなくおやすみなさいとあいさつして、カテリナは短い仮眠についた。
 夢の中で、熱心に星読み台に通っていた子どもの頃を思い出していた。
 満天の星空に目を輝かせて、大きくなったら星読み仕官になると父に言って大反対されてしまった。
 単純に、女の子は星読み仕官になれないのだと言われたのかというと、実はヴァイスラント公国では少数だが女性の文官がいる。父はそういうところで嘘をつく人ではなく、そのために墓穴を掘る人でもあった。
 だめ、カテリナちゃん。星読み仕官と結婚するくらいなら、パパのいる騎士団に入りなさい。
 幼いカテリナは大きくうなずいて言った。
 うん、お父さんと同じお仕事する!きらきらした目で将来の夢を決めたカテリナに、父はちょっと泣きたそうな顔をしていた。
 力はあんまりないから仕官学校の頃から騎士に向いていないのはわかっていたが、父と同じ騎士団に入ったことに後悔はしていない。
 祝祭が終わったら騎士をやめると決めたけれど、今も甘い希望は捨てられない。
 たとえば誰かに、もう要らないと言われるときまでは騎士でいられたなら。カテリナはそんな淡い期待を持つ自分を知っている。
「僕なんて誰も要らない」
 ふいに真っ暗な声を聞いて、カテリナは心の奥をぐさりと刺された思いがした。
 飛び起きると、辺りはすっかり暗がりに沈んでいた。けれど隣の部屋で窓が開いて、誰かが外に出た気配を感じた。
 カテリナは胸に迫る感情のまま、自分も窓を開けてベランダに出た。そこから屋根に向かって梯子が掛かっていて、誰かがそこを上る音が聞こえていた。
 星を見るための暗闇が、本来の闇色で世界を染めているように見えた。カテリナは何かを考えたつもりはなく、梯子を上ってその人を追っていた。
 人の顔も定かでなく、もしかしたら聞き間違いなのかもしれないけれど、駆け寄って屋根の端に立つその人を後ろから力いっぱい捕まえる。
「だめ! だめったらだめ!」
 誰かが息を呑んで体を固くした。カテリナは子どもがわがままを言うように叫ぶ。
「お腹いっぱい食べて、嫌になるくらい寝ようよ! それでも元気にならなかったら、次の日も同じようにしたらいいじゃない!」
 その人は誤解だとも言わず、カテリナを振り払うこともしなかった。聞こえていると信じて、カテリナはその人をぎゅうぎゅう抱きしめて言う。
「明日ご馳走するから、今日は寝よう!」
 果たしてカテリナの現在の手厳しい上司が及第点を出すかは不明だったが、その言葉は一応誰かの耳には届いたらしい。
「……うん。わかった」
 子犬がしゅんと頭を垂れるような声でカテリナに返して、その人はそろそろとカテリナの腕を離した。
 カテリナの横を通っていったその人は、背格好からいくと少しカテリナより背が高いくらいで、そう年も変わらない少年のようだったが、すぐにすれ違ったから顔を見る時間はなかった。彼は大人しく梯子を下って、仮眠室に向かってくれた。
 カテリナも後に続いて梯子を下りようとして、よかったと胸を撫でおろして……ふと普段は隠している胸のふくらみに気づく。
 そういえば個室だからと安心して、髪も解いて下ろしていた。ついでに先ほど思いきり抱きついてしまっていた。
「そういえば、君」
 気まずそうに梯子を下りたカテリナをその人は待っていて、一歩カテリナに近づく。彼は目を覗き込むように少し屈みながらカテリナに話しかけた。
「僕は寝るけど、君は」
「あ、うん。それでいいと思う。じゃ、僕これで」
 これ以上顔を見られたくなくて、急いで自分の仮眠室に引っ込もうとしたカテリナに、彼がふわりと笑った気配がした。
「ありがとう」
 たぶん言葉と同時に、カテリナの唇に柔らかい感触があった。
 温かいような、少しくすぐったいような、それが彼女にとって初めてのキスだとまだ頭が追い付かないまま、唇は離れていく。
 彼は暗がりの中で踵を返して部屋の中に入っていったが、カテリナはしばらくの間ベランダに立って、自らに起きた大事件に打ち震えていたのだった。
 仮眠から目覚めて星読み台で一夜を過ごした日、それはカテリナにとって新しい扉を開いた日になった。
 もっとも近衛兵たちが想像したような甘く情熱的な共同作業を陛下と成したわけではなく、ある意味で大人への階段を駆け上って、そして新しい扉の向こうで力尽きた。
「よくやった、カティ」
 星読み台に設けられた臨時の国王陛下の執務室で、まさか陛下から聞けるとは思わなかった労いの言葉をもらっても、カテリナはしばらく机の一点をみつめたまま動けなかった。
 机には一面、カテリナの身長ぎりぎりまで積まれた書類とインクの切れた数本のペンが転がっている。足元にはもちろん、部屋の至るところにもうず高く書類が積まれて、陛下もその隙間からカテリナに声をかけたのだった。
 一晩、カテリナは陛下の元で星読み台の秘された職務に就いていた。その職務というのは星の配置や動きから精霊の言葉を解読するという、一見夢のある仕事だった。
 たとえ星が半刻と同じ配置をしておらず、二度と同じ配置に戻らないとしても、それを一晩愚直に追い続けるのが星読み台の仕事だと知ることになった。
 カテリナはまだ呆然としながらギュンターに訊ねる。
「これで本当に当たるんでしょうか」
「外れることもある。ところが恐ろしいことに、大体精霊の言う通りになる」
 カテリナが独り言のようにつぶやくと、ギュンターもさすがに疲れた様子で言った。
「恵みも災いも、人には見えないものの答えを、精霊はめったに間違えたりしない。教え方が多少迷惑なだけだ」
 精霊の言葉である星の解読法則は、建国のときから変わっていないという。国防に関わるので一般国民には法則を知らせていないが、この仕事に就いて一日のカテリナでも一応理解できる難易度で、ギュンターに教わりながらではあるが実際の解読もできた。一晩でペンが五本インク切れになるほど絶え間なく数式を書き続けただけだ。
「ちなみに今日の君の運勢は、「悪くない」。たぶん精霊の言う通りになるだろう」
 ギュンターは年の功だけ余裕を持っていたのか、ちゃっかり個人的な星占いも収集していたらしかった。
 ギュンターは少し考えてカテリナに問う。
「君は星読み仕官に向いているな。どう思う?」
 騎士をやめたら星読み仕官になるのもいいかもしれない。そう思っていたはずだが、カテリナは即答できなかった。
 昼間の星読み仕官室の冷え方が理解できた。彼らは一種の冬眠に入っていて、夜にできるだけ力を温存していたらしかった。
「もう少し陛下の下で働かせてください」
 転職の理想と現実を前に少しだけ弱気になったカテリナは、それほど陛下に悪い印象ではなかったらしい。
 そうかとほっとしたようにうなずいた陛下にカテリナは気づかず、なんだか声が優しいことも麻痺した耳ではぼんやりと聞くしかできなかった。
「疲れただろう。帰りの馬車では寝ていることを許す。あと、王城に帰る前に少し休んで、朝食を取ってきなさい」 
「お言葉のとおりに」
 カテリナはのろのろと立ち上がって一礼した。ギュンターは苦笑して、転ぶなよ、と子どもにするように言ってから、ふと扉の方を見た。
「わかっていたつもりだが、やはり来なかったな」
 カテリナがギュンターを見ると、彼もやはり疲れていたのか、普段口にしない弱音のような言葉を口にした。
「星読み台には弟がいるんだ。真面目で素直なんだが、年が離れすぎていて言葉をかけ間違えたように思う。……もうずっと私と口を利かない。星読み博士から仕事に苦戦しているとは聞いているが、俺が仕官室に立ち入って労いをするのも、今更遅いのだろう」
 カテリナは思わず掛ける言葉を探したが、事は国王と王弟の関係で、たやすい解決は通用しないような気がした。カテリナが父と喧嘩したときは、怒りながらも永遠に縁が切れることなど想像もしていないが、王と王弟という立場はもっと難しいに違いなかった。
 ギュンターはため息をついて言う。
「君は少し弟に似ている。悪いな、こんな話をして。だからどうということもないんだ」
 行ってくれとギュンターが先に話を打ち切って、カテリナは部屋を去るしかなかった。
 廊下を渡りながら、あまり回っていない頭でギュンターの言葉を思っていた。陛下はアリーシャのことも年が離れているから結婚などと言っていたことがある。ヴァイスラントでは別に十歳程度の年の差結婚、珍しくはないのにとカテリナは不思議に思っていたが、それは王弟とのことがあったからのようだった。
 言葉一つで永遠に縁が切れたりなんてしないんじゃないかな。そう思うくらいには、カテリナは家族に甘えている。
 階下に降りて食堂に入り、パンとスープを受け取って席に向かった。
 パンをかじりながら、自分だったらどうやって仲直りするだろうと考えていたときだった。
「昨日はありがとう」
 夜を徹しての仕事の後、カテリナのようにぼんやり朝食を取っている仕官たちの物音の中で、聞き覚えのある声が耳に入った。
 瞬間的に顔に熱が蘇って恐る恐る隣を見ると、ブロンドに灰青の瞳、明るい陽射しの中で見れば実に陛下とよく似ている少年が、控えめに笑いかけていた。
 シエル王弟殿下はカテリナの一つ年下、次期星読み博士となるべく勤め始めて一年になると聞いている。王族という立場上、あくまで名誉職であって実務に詳しくなくともという陰口に苦しみながら、星読み台で昼夜問わず仕官たちと仕事に打ち込んでいて、王城にもほとんど帰ってこない人だった。
「カティというんだね。今日の服装は何だか雰囲気が違う。素敵だ」
 昨日は暗かったから声を聞かれなければ同一人物とはわからないかも。そういう甘い考えはあっさり覆されたが、さすが陛下の弟君、女性には流れるような褒め言葉だった。
 カテリナは何か言い訳しようと思ったが、何を言い訳していいかわからなかった。女性ということを知られた以上に、王弟殿下と初めてのキスをしてしまったその事実は、カテリナにとって大事件だがこの場で口にすべきことでもない。
 けれどシエルはそれ以上カテリナに追及することはなく、友達にするように声をかけた。
「さ、食べよう」
 顔を赤くしたり青くしたり忙しいカテリナの心の動揺を知ってか知らずか、シエルは優雅に笑って手元に目を戻した。
 周りで食器の擦れる音が鳴る中、しばらくシエルは無言で朝食を取っていた。さすが育ちがいいのか、音も立てなければ味気のないパンでも美味しそうに口にする。カテリナはその仕草に少しみとれてから自分も食事をしようとしたが、いくらカテリナでもこの場合何事もなかったかのように過ぎてはいけないと知っていた。
 ごくんと息を呑んで、カテリナは頭を下げる。
「昨夜は無礼を申し上げて、大変申し訳ありませんでした」
「……ん、ううん」
 まだ十六歳とは思えない落ち着いた物腰を持つ殿下、そういう噂は聞いていた。けれどカテリナを振り向こうとして目を伏せたのは、少年が年相応に言葉に詰まる様子だった。
 食べよう、と彼はもう一度早口に言った。カテリナもつられて言葉に詰まって、二人の間に沈黙が下りた。
 王弟殿下も昨日のことは勢いだったのだろうし、先ほど陛下から聞いたように国王陛下と喧嘩中でもあるしと、カテリナはこの場合関係ないこともぐるぐる考える。
 シエルは息を吸って、照れくさそうに言った。
「一つだけ聞いて。だからどうということもないのだけど」
 シエルは陛下のような前置きをして、カテリナを見やった。
「昨日の夜は、見えなかったものがずっとそこにあったみたいな気持ちだった」
 シエルは先に食事を終えて、恋人に呼びかけるように言った。
「またね、精霊さん」
 カテリナは頭を下げて王弟殿下が退出するのを見送りながら、彼とこれから何度も会いそうな気がしていた。
 昨日の夜は精霊のくれた偶然だったのかもしれない。カテリナは夢みたいな考えに苦笑しながら、それも素敵なことのように感じていた。
 精霊は建国のとき、必ずまたヴァイスラントを訪れると王に約束した。
 それはいつでしょうかと王が問うと、精霊はいつになるのか私にもわからないと自信なさげに目を逸らした。
 それなら約束しない方がいいのではと親切心で王が言ったそうだが、精霊は私が訪れたいのだから約束させなさいと拗ねた。
 精霊に男女の別はないが、かの精霊は幼い日に母を亡くした王の、母代わりのような存在だったらしい。王はわかりましたとうなずいて、精霊がやって来る日までの十日間に祭りを開くことを決めた。
 精霊が去る日、王は建国を導いてくれた精霊に精一杯の贈り物を用意したそうだが、精霊は受け取らなかった。
 王はお金と権力を勝手に使ってはだめ。去り際まで王を諭して、精霊はふと子どものように目を輝かせた。
 そうだ。いつか私が訪れる日、あなたが最愛の人とワルツを踊るのを見てみたいな。
 精霊は笑って星の輝く夜に去って、以後王の存命中も、その後も、星の配置で言葉を伝えてくれたが、二度とヴァイスラントを訪れることはなかった。
 結局、王は老いて亡くなるとき、子どもたちにいつか精霊との約束を果たしてくれるよう言伝ていった。
 現在のヴァイスラントの人々は、そんな昔話を思い返して様々な憶測を繰り広げる。
「当時の王の元を訪れなかったのは、精霊は王を愛していて、王が最愛の人と結ばれたのを見たくなかったからではないかしら」
 降臨祭も四日目、ローリー夫人のサロンでも話題といえば一番白熱するのが王の最後のダンスのことだ。
「いくら母代わりとはいえ、むしろ母代わりだからこそ、息子の嫁には複雑な思いを抱きませんこと?」
「わかりすぎて嫌ですわ。洗濯物の畳み方一つでも合いませんものね」
 サロンの貴婦人方は身分もそれぞれであるが、ヴァイスラントはわりと自由な気風の国民柄なので、話す内容も実に遠慮がない。
「当時の王のお妃は、実に肝の据わった方でしたしね。王が亡くなるときに、「あなたがワルツを踊るのが下手だから精霊も見に来なかったのよ」と言いきったくらいですから」
「あら? 私は、「私が十二人も産んであげたんだから誰かが果たしてくれるでしょ」だった覚えが」
「さすがは建国を成したお妃でいらっしゃいます」
 貴婦人方は何一つ結論に至らないまま大いに納得して、あっさりその話題を切り上げた。
「それで、今日でございますね」
 貴婦人方は扇ごしに中央の席に座ったローリー夫人を見て、声をひそめて問いかける。
「……ローリー夫人のお見込みでは、今日これからこのサロンで、陛下がアリーシャ嬢に最後のダンスを申し込むと」
 ローリー夫人は微笑みをたたえたまま、ええ、と答えた。
「陛下はとても実務に長けた方でいらっしゃいます。お相手となる方のご身分はもちろん、お話を持ち掛ける場所のふさわしさ、令嬢のドレスを仕立てる時間にご自分の仕事の空き状況まで考慮して、最善の時が今日ですから」
 貴婦人方は感心してため息をついたが、ローリー夫人だけは違う意味で息をついた。
「女性の扱いに長けているかというと、必ずしもそうではありませんが」
 陛下の本日の星占いは凶と出ていることを、星読み博士の娘であるローリー夫人は知っていた。
 衛兵が扉を開き、国王陛下がサロンに到着する。例によってここのところ片時も陛下が側から離さない騎士が、一歩遅れて一礼して入室した。
 ギュンターは貴婦人方に笑顔と美辞麗句を振りまき、いつものようにサロンの歓待を受け始めた。お顔立ちが良く人当たりもいい陛下、貴婦人方の評判はもちろん良好で、ローリー夫人のように多少陛下の男性への人当たりの悪さを知っている女性でなければ、理想的な男性だった。
「陛下、アリーシャ嬢がご到着です」
 まもなく衛兵がギュンターに近寄って告げる。陛下は当然その予定を知っていたのか、一つうなずこうとしたときだった。
「あの、それが」
 衛兵は言葉に詰まり、陛下の耳元で何かを付け加える。ギュンターはその言葉に目を見張って、衛兵を振り向いた。
「アリーシャ嬢……ならびに、シエル王弟殿下のお着きです」
 アリーシャをエスコートして現れた少年を見て、サロンの貴婦人方よりギュンターが一番驚いていた。
 今日のシエルは星読み仕官服ではなく、男性王族の平服であるサーコートに身を包んでいて、裾さばきも軽やかにサロンへ現れた。
 シエルとアリーシャは幼馴染で、成長してからも付き合いがあるとはギュンターも聞いていた。けれどシエルは一年前に星読み台の仕事に就いてからほとんど王城に戻ることはなく、こういった社交界に現れるのも久しぶりだった。
 ただギュンターの前でいつもそうであるように、シエルはギュンターに一礼はしたものの、すぐに言葉を拒絶するように兄の前を離れた。ギュンターもどのように言葉をかければいいかわからないまま、弟を引き留めることはしなかった。
 やはり嫌われているのだとギュンターが気を落としていると、不思議なことが起こった。
「カティ、ごきげんよう。降臨祭だからね。僕もちょっとご馳走を食べに来たよ」
 シエルはギュンターの一歩後ろに控えていたカテリナに、昔はギュンターにも見せてくれた親しげな表情で、そっと話しかけた。
 カテリナは慌てて膝をついて謝辞を述べたが、少し安心したように笑いかけたようだった。
 ギュンターはつい、いつシエルと知り合ったのかとカテリナに問いかけようとして、さすがに今日の一番の目的を頭に置き直した。
「ごきげんよう。お招きいただき感謝申し上げますわ、ローリー夫人」
 ギュンターがアリーシャに向き直ると、彼女はふんわりとした羽のような水色のドレスを精霊のように着こなし、令嬢の名に恥じない優雅なめくばせと言葉遣いでローリー夫人に応えていた。ギュンターのまなざしに気づくと一礼して、ごきげんいかが、と笑った。
 付き合いも長く、人柄もよく知っているアリーシャとは数えきれないほどダンスを踊った。ただ降臨祭の最後のダンスは特別で、ギュンターといえどその言葉を口にするのは緊張した。
 ギュンターは一度息を吸って心を落ち着けた。それからアリーシャの席の横に歩み寄ると、一礼して手を差し出した。
「アリーシャ。降臨祭の最後の日、私とダンスを踊ってくれないか」
 普段流れるように出てくる美辞麗句も口にする気が起きなくて、ギュンターは最小限の誘い文句を告げた。
 ギュンターも自分らしくない、そっけない言葉になってしまった自覚はあった。降臨祭の最後を飾るダンスの相手を頼むには、あまりにあっけなかったと思う。
 ただそれが国王陛下の一つの言葉には違いなく、ギュンターを含む周囲の人々はその答えに神経を集中させて聞いていた。
 一瞬アリーシャの表情に浮かんだのはまちがいなく喜びだった。まばたきをして、光をたたえた瞳でギュンターを見上げた。
 けれど彼女はすぐにそれを哀しい笑顔で覆って言う。
「……それは精霊の願いではないと思います」
 ギュンターにはアリーシャが何を言ったのかわからなかった。一つだけ、願いという言葉が耳に残った。
 精霊の願いは一つだけ、見たいのは王と最愛の人とのダンスだけ。簡単なその一つのことが、建国以来一度も叶わなかった。
 なぜかを知っているのは精霊だけで、国王であるギュンターすら精霊の思いははかれなかった。
「今日はそのことを申し上げに来ましたのよ。わたくしはこれで失礼しますわ」
 周囲の貴婦人方も硬直する中、アリーシャは踵を返して扉に向かう。
「アリーシャ様、お待ちください!」
 誰も動けなかった中、カテリナが弾けるように叫んでアリーシャを追った。
「待て!」
 カティと呼んでから、ギュンターは我に返った。
 ギュンターは反射的にアリーシャではなくカテリナを呼び止めてしまった自分に、後で気づいた。
 けれどアリーシャとカテリナ、どちらもギュンターの言葉を拒絶するように、扉の向こうに去っていった。
 バルコニーに出てアリーシャが空を仰ぐと、一日の終わりの壮大な幕引きが広がっていた。
 王城の屋上に続くそのバルコニーは、屋上に旗を飾るときに兵士たちが使うだけの通用路だったから、実はそこで星が綺麗に見えることを知っている者は少ない。
 ヴァイスラントでは王族から庶民まで星を見る習慣がある。夕陽が綺麗な日は星も美しく見える夜になると喜ばれる。星の告げること、それはさだめなのだから、国民は吉も凶も受け入れてきた。
 知っているわと、アリーシャは澄んだ外気に答えた。星占いで教えられるまでもなく、今日は幸運が降ると知っていた。アリーシャは王家に連なる血筋で、サロンでも理想の令嬢と誉れ高く、陛下自身とも長い付き合いだった。陛下が最後のダンスにアリーシャを誘うのは、まるで公務のような必然だった。
 ふいに背後の窓が開いて、慌ただしく足音が近づく。
「アリーシャ様!」
 でも人の心はいつだって定めたとおりにいかない。それを証明するように、少年騎士はバルコニーに飛び込んできた。
 アリーシャがサロンから立ち去ったのはまだ正午過ぎだった。従者を通して、アリーシャは自邸に帰ったと陛下に言伝ておいた。アリーシャが隠れ家のようなここで日が暮れるまで、文字通りたそがれているとはたぶん陛下も思っていないことだろう。
 少年騎士は声をかけたものの、近づくのはためらっているようだった。少しの間があって、言葉を選びながら話しかけてくる。
「立ち入ってしまって申し訳ありません。お部屋の前でお待ちしていましたが、ずいぶん長いこと出ていらっしゃらないので」
 アリーシャがようやく振り向くと、あまりに澄んでいて大きな目と目が合った。
 降臨祭の前日、陛下にお気に入りの部下ができたらしいと耳にしたのが始まりだった。そのときはまさかその従者がアリーシャの運命まで変えるとは思ってもみなかった。
 降臨祭が始まって早々、自室で仕事をしていた陛下を気楽な思いでお忍びに誘い出した。
 けれどそこで陛下がその従者に見せたのは、アリーシャには決して見せない表情だった。陛下の態度はアリーシャや他の女性に対するように甘くはなく、だからかえって本心で彼に接しているとわかった。
 出会って数日の従者と私、どちらが大事なの。陛下に問いかけるまでもなかったのは、元々陛下がアリーシャに恋をしていないのを知っていたから。
「陛下は何かアリーシャ様に失礼をしてしまったのでしょうか?」
 一人になりたいアリーシャを追いかけてみつけてしまう、彼の愚直さに子どもなのかともう少しで怒り出したくなった。でもそれはたぶんアリーシャの方で目を曇らせている。彼のそのまっすぐさは、アリーシャが認めないだけで、人を惹きつける彼自身の輝きに違いなかった。
 アリーシャは役者がするように顎を上げて、尊大に笑った。
「私の負けよ」
 現に、アリーシャのところまでたどり着いたのはこの少年の力だった。バルコニーに唯一続く部屋の主であるマリアンヌ王妹殿下もアリーシャを一人にしておいたのに、彼だけは突破してきたのだから。
「悔しいわ。誰かに負けたことなんてなかったもの」
 アリーシャがせめてもの仕返しに意地悪を言うと、少年はアリーシャの言葉の意味を考え込んだようだった。
 陛下からダンスに誘われて、負けとはどういう意味なのか。もしこの少年が陛下くらい鈍かったなら、そう思ったのかもしれない。
 でもアリーシャはこの少年を、陛下とは別の性質を持つ者だと知っている。
「あなたは女の子ね」
 彼女がはっと息を呑む気配がした。アリーシャが告げた事実は彼女が思うよりたくさんの人が知っていると思うのだが、実際気づいていない人もいるのだから、精霊もいたずらなことをするものだ。
「聞いて」
 他ならぬ陛下とかね。アリーシャはさすがにそれについては思うだけにして、負けたボードゲームを振り返るように話を始めた。
「子どもの頃に、ここで初めて陛下に星の見方を教えていただいたの。陛下は自分より小さいもの、弱いものにとても親切でいらっしゃるのね。たぶん他にもたくさん同じことをしていただいた子女はいると思うのだけど、うれしかったわ」
 暑さの静まった後の夏の宵、張りつめた空気に星の輝きが際立つ冬の夜、季節は着実に巡っていった。子どもが大人になるように、少女のささやかな憧れが恋心に育っていっても、アリーシャを責められる者はいなかっただろう。
 アリーシャは人より意地が強いと自覚していた。身分も容姿も恵まれているとわかっていたから、装いも教養も磨きぬいて、いずれは陛下の横に並ぶのだと思っていた。
 ふいにアリーシャは苦笑して、そろそろ見え始めた一番星を仰いだ。
「なんてね。実は星のこと、陛下に教えられるまでもなく大体知ってたのよ。星を教えてくださる殿方だってたくさんいらっしゃるんですもの」
 アリーシャも王家に連なる子女、幼い頃から親切にしてくれる大人も言い寄る男性もいた。確かに身分は陛下より上の男性はいないが、陛下よりお顔立ちのいい方も優しい男性も知っている。
「でも陛下だから、教えてもらいたかったのよ……」
 星がいくつも空に現れていく。夜の幕開けの前で、アリーシャは自分の中にだけある小さな星のような思い出を見ていた。
 いつだったか、陛下には特別な星があると耳にした。アリーシャは興味を惹かれて、どの星なのですか、名前を教えてくださいなと陛下に問いかけた。
 ところがそれに対する陛下の反応は、普段の朗らかな態度が嘘のように不機嫌だった。彼は憮然として、めったに見えない六等星だよ、小さすぎてたぶん今日も見えないんじゃないかなと言った。
 でもいつからか、陛下に星の見方を教わっているとき、彼が夜空に何かを探していることに気づいた。目を凝らして、時々怒っているような顔もしていた。
 後で聞いたのは、その星は陛下が子どもの頃名前をつけたという話だった。だから星読み台で調べれば位置も名前も知ることができたが、アリーシャは陛下から教えてもらうことにこだわって調べなかった。
 陛下もいつまでも子どもの頃名付けた星にこだわるはずもないと思っていた。アリーシャはいつしか星の名を訊くのをやめて、陛下も二度と同じ話をすることはなかった。
 でも降臨祭が始まった日、陛下と久しぶりに星を見る機会があった。そのときふと隣を見たら、陛下は例の怒ったような顔で星を探していた。
 どの星を探しているのですか。思わずアリーシャが問いかけると、陛下はたぶんアリーシャの言葉を聞いていなくて、上の空で独り言をもらした。
 ……カティ、どうしてくれよう。特別な星を探すのと同じ目をして、陛下はその名前をぼやいたのだった。
 たったそれだけのことで、それが好意なのか愚痴なのかも傍からはわからない一瞬だったのに、アリーシャは何だか急に、陛下は普通の一人の男性だと思った。
 アリーシャが他にたくさん素敵な人はいたのに陛下に恋をしてしまったみたいに、陛下だって数多の星を見上げながらたった一つの星を探してしまうのだと。
 アリーシャは少女騎士を正面からみつめて、残酷な事実を告げた。
「陛下の最愛の人は私じゃない。まだ決まってもいない。だからお断りしただけのことよ」
 バルコニーから見下ろせば、あちこちで星を見る人々がいた。中にはアリーシャに気づいて手を振る友達もいて、今日もヴァイスラントはこんなに平和だ。
「私でありたかったわ」
 横目で見やると、少女騎士はずっと考え込んでいて、アリーシャを連れ戻すでもなく反論するでもなく、首をふるふると振って、その綺麗な目でくるくると悩んでいるようだった。
 陛下の思い、この少女の思い、それを恋というかは精霊しか知らないとして、国王と最愛の人とのダンスは叶うのだろうか。
 アリーシャにだってわからなかったが、見上げた空は満天の輝きが始まっていて、今日はどんな小さな星も見えそうな気がしていた。
 降臨祭五日目、ローリー夫人のサロンは種々の事情で招待制の開催となった。
 誰にでも開かれているローリー夫人のサロンに招待という概念があることはあまり知られていないが、表向きは扉の前に「本日休会」の札が掛かるもので、その扉の内側にローリー夫人が密やかに特定の客を招いているという仕組みになっている。
 国王陛下その人とローリー夫人が待ち、壁際にカテリナが控えるという内輪だけの集まりに、届け物を持ってやって来たのは王弟シエルだった。
「こちらがアリーシャ嬢からの、正式なダンスのお断り状です」
 ローリー夫人がもっとも招きたかった令嬢は訪れず、シエルはかの令嬢の最後通牒をギュンターに言伝た。
 ローリー夫人はちらと傍らの席の国王陛下をうかがった。平和なヴァイスラントでも国王陛下が最高権力者であることに変わりはなく、王が命じれば一個人の意思をねじ伏せることは可能だった。
「ご苦労」
 ただヴァイスラントが平和たるのは、それを司る国王陛下がめったなことで権力を振りかざさないからでもあった。ギュンターは苦い顔をしたものの、弟をねぎらう言葉と共に断り状を受け取った。
 ギュンターはシエルに席を勧めてから、深くため息をついて自らの椅子に身を沈めたが、ふと唯一立ったままのカテリナに目をやって言った。
「カティ、君が落ち込んでどうする。君も座るんだ」
 ギュンターはアリーシャに振られたことについてそれはそれで気落ちしたが、アリーシャの元から戻ってきたカテリナが足元もおぼつかないくらいに沈みこんでいて、何があったのかと訊いても何も話さないことの方が気がかりでならなかった。
 自分はこの少年騎士の上司に過ぎず、もう大人の男を令嬢のように庇う必要はないとわかっているが、この少年が国王の最後のダンスに並々ならぬ思いを賭けていることは知っている。気にするなと言っているのだが、なんだかこの少年は自分に責任があるかのように落ち込んでいるのだ。
 椅子に座ったもののやっぱりしょげているカテリナをギュンターは何か言いたげに見ていて、その構図にローリー夫人と王弟シエルも何か思うところのある顔はしていたが、ひとまずそれぞれの心の内に秘めておいた。
 昨夜は空が澄んでいてみな夜更けまで星を見ていたので、今日のヴァイスラントの朝は少し遅い。開け放たれた窓から王城の人々の話し声や足音、他愛ない日常の気配が入り込んでいて、サロンの中の沈黙と対照的だった。
 ひとまずテーブルを囲んで、パンとキッシュにミルクで朝食と昼食を兼ねた食事が始まる。食事自体はすぐに終わって、四人はしばらく食事を終えてもそれぞれの物思いに耽っていた。
 やがて最初に口を開いたのはシエルだった。
「兄上、いつまでも反省会をしていても仕方ありません」
 ギュンターは弟が珍しく意見したことに驚いたが、シエルは元々兄と言葉を交わすのを控えていただけで、仕事では活発に星読み仕官たちと意見を交わしていると聞いていた。
 シエルは席を立って、海の見える反対側の窓際の席に歩み寄ると、サロンの面々に笑いかけた。
「暗いときほどゲームを。ちょうど四人います。「ヴァイスゲーム」をしましょう」
 シエルが示したそこには、サロンで貴婦人たちがたしなむボードゲームとは少し形の違う、ひし型のボードと見慣れない駒の用意があった。
 カテリナがきょとんとした顔をしたのをギュンターは横目で見て、いつもの新人教育への使命感らしい感情が湧いて来た。少し楽しげにカテリナに声をかける。
「ヴァイスゲームはやったことがないか」
「高貴な方がたしなむと聞いていましたので」
 そう言われるとやってみたくなるのが庶民の心情だが、この少年は生真面目にも手をつけたことがなかったらしかった。
「ご助力いただけるか、ローリー夫人」
「よろしいことですよ」
 ギュンターの誘いにローリー夫人は気安く応じて、四人は席を移ることにした。 
 その席は二人ずつが並んで対局するもので、それが古くから伝わるボードゲーム、別名「ヴァイスゲーム」の席だった。
 ある時代、ヴァイスラントと海の向こうにあった隣国、二つの国の国王夫妻が四人で余興をしたのが始まりだった。二組の「貴婦人」と「騎士」が対角に配置されていて、手持ちの石である「精霊のいたずら」で対戦相手を邪魔しながら、先に盤上でペアと出会った方が勝ちとなる。
「「貴婦人」は当然ローリー夫人、その騎士は兄上がなさるとして」
 シエルはいたずらっぽくカテリナに首を傾けて言った。
「どうかな、カティ。僕が君の騎士でもいい?」
「でも僕はこのゲームは初めてで。殿下の足を引っ張ってしまうと思いますが」
 カテリナがまんまるな目に不安を浮かべると、シエルは笑ってうなずいた。
「熟練していない方がうまくいくのがヴァイスゲームなんだよ」
「言うようになったな、シエル」
 公式行事で嫌というほどヴァイスゲームに向かっているギュンターが苦笑いすると、シエルは苦笑を返した。
 カテリナは冗談交じりの兄弟のやりとりを聞いて顔を明るくしていた。大切な上司とその弟君、いつからか会話をしなくなったという二人の仲がゲームで和むのなら、カテリナにとってもうれしい。
「わかりました。では僕も」
 カテリナも初めてのヴァイスゲームに参戦することになって、ギュンターとローリー夫人、シエルとカテリナの対局が始まった。
 始める前にシエルが簡単にルールと少しの作戦を教えてくれていたが、対局中でも、隣に座るペアと耳打ちして相談することは許されている。
 シエルはカテリナの耳に顔を寄せてささやく。
「星読み台で落ち合おう」
「わかりました」
 カテリナは相手に悟られないよう、ボードを見ないまま目的地のマスを頭の中に描いてうなずいた。
 ゲームが始まってすぐ、シエルは楽しそうにカテリナに耳打ちした。
「カティ、まっすぐ目的地に向かわなくてもいいんだよ」
 一生懸命目的地までの道筋を描いているのがよくわかるカテリナに、シエルは笑いをこらえながら言った。
「精霊のいたずらで、変な方向に駒が弾かれたり戻ったりするところが面白いんだから。……それより見て」
 シエルに言われてカテリナがボードの向こうを見ると、ローリー夫人に耳打ちする国王陛下の姿があった。
 肩が触れるような距離で何事か言い交わして目配せする二人の様子は親密で、特別な間柄そのもので……カテリナは今度こそ顔を輝かせていた。
「なぜこっちを見て笑う、カティ」
 ギュンターがカテリナのきらきらとした目に気づいて、不審そうに言い返した。
 このゲームで勝つには、足の速い騎士は積極的に動いて貴婦人に近づき、精霊のいたずらをたくさん持っている貴婦人はあまり動かず、いたずらをして相手を困らせるのに徹するのがいいとされている。実際ギュンターとローリー夫人のペアは今までもそれで数々の勝利を収めてきて、今回もその作戦で優勢にあった。
 それに比べて、シエルとカテリナのペアはまるで勝ち筋とは真逆だった。愚直に進み続けるカテリナと、あまり動かず精霊のいたずらを使うシエル。正直ギュンターにだって、カテリナが星読み台を目指しているのは丸わかりだった。
 ところがシエルがそこに加わると、絶妙に先が読めないボードになっていた。騎士は限られた精霊のいたずらしか持たないのに、シエルはそれを使うのが上手かった。ギュンターの行く手に雨だのうさぎだの、はたまた後ろに忘れ物だのを置いてきて、貴婦人と落ち合わせてくれなかった。
「カティ、ねぇ」
 何よりシエルが耳打ちするときにカテリナがちょっと赤くなるのが、こちらが優勢にあるのにたまらなく負けた気分にさせられる。
 待て、カティは俺の騎士のはずだぞ。どうして敵対していて、しかも貴婦人になっている? そういえばヴァイスゲームは恋の葛藤とも呼ばれるのだと、この場でまったく関係ないはずのことを思ったときだった。
「陛下、そこは」
 ローリー夫人がつぶやいて、軽く天を仰いだ。言われてギュンターは今しがた自分が置いた石を見て、自分の失策に気づいた。
 頑なに星読み台にたどり着こうとするカテリナに苛立って、ギュンターは星読み台のマスに精霊のいたずらを置いた。召喚と名のついた精霊のいたずらは、カテリナの駒を強制的に王城に戻す。
 くすっとシエルが笑って自分の駒を動かす。たまたま王城の周りにいたシエルは、カテリナの駒まで一歩だった。
 コン、とカテリナの駒とシエルの駒は出会って、二人の勝利が決まる。
「やったね、カティ!」
「あ、え、殿下」
 シエルは屈託なく笑って、無邪気にカテリナを抱き寄せた。シエルはカテリナをぎゅっと腕に包み込んだまま離さず、カテリナはうろたえて真っ赤になった。
 少年同士がじゃれている光景だったのに、カテリナが恥ずかしそうに慌てているものだから、恋仲の少年少女のようにも見えてしまった。
「もう一度会いに来てよかった。精霊のくれた幸運のおかげだね」
 シエルがゲームは終わったのにカテリナに耳打ちした、その一言をギュンターは聞いてしまった。
 一度目に出会うのは精霊のくれた幸運、もう一度同じ人に会いに行ったら、それは運命。
 まさかシエルがカテリナにだけ聞こえるように言ったのは、年の近い者同士のふざけあいで、自分が知っている恋の文句ではないはずだ。
 ギュンターが首を横に振ってそう思ったとしても、精霊のいたずらはあと五日間天から降り注いで、祭りを盛り上げるのだった。
 午前で国王陛下の私的な反省会は終わり、午後からは王城の一室にて公的な対策会議が開かれた。
 カテリナは、ダンスの相手を決めるのに偉い人たちが集まって会議を開かないといけないなんて大変だなぁと思ったが、事は精霊との約束で、国の命運をかけたものなのだから、そろそろ真剣に考えようというのだ。
 陛下も周囲も、わりとアリーシャがダンスの相手を引き受けてくれると信じ切っていた。ところが降臨祭もじきに折り返し地点となって今回の事態、焦らないといったら嘘になる。
 国王陛下と二人の弟妹殿下、主要な大臣や将軍が集まる会議室のすぐ外で、カテリナは直立不動で待機しながらも心の中では陛下の次なるお相手のことで頭がいっぱいだった。
 どうして今まで気づかなかったのか不思議だが、ローリー夫人は陛下の元婚約者で、今も私的な話を打ち明ける特別な相手だ。ご結婚はされているがご夫君はすでに二年間行方不明で、あとこれが何より大事なことだが、最後のダンスの相手は「最愛の人」であればそれでいい。
 マリアンヌ王妹殿下が選んだ三人の姫君のうち二人目、それはローリー夫人に違いない。最後の一人がどなたかわからないのは気がかりだが、この際時間もないことだし、傍目に見ても好意を抱いているローリー夫人にダンスのお相手をお願いしてはどうか。
 そうだ、それがいいと確信を持ってうなずいていたカテリナに、騎士団長の随行で来ていたウィラルドが声をかけた。
「カティはいつから休暇を取るんだ?」
 問題はローリー夫人にダンスの相手を申し込むのを、どう陛下に提案するかだ。ボードゲームを組み立てるように熱く考えていたカテリナは、ちょっと思考が交錯して首をひねった。
 カテリナの脳裏に浮かんだのは、若い頃に奥様を亡くされて現在独り身である騎士団長が、ローリー夫人に求婚しているという噂だった。
「だめです。戦いに勝つまでは休暇は取れません」
 騎士団長もライバルだと、カテリナは燃えたぎる目でウィラルドを見上げた。ウィラルドは一歩たじろいだものの、そこは数日前まで上官だった経験で、カテリナが何かにこだわって熱意を燃やしているのはわかった。
 ウィラルドはまあまあ、とカテリナをたしなめて言う。
「何の戦いかはわからないけど、降臨祭は国民の祝日だろう? この五日間休みなしじゃないか。近衛兵だって交代で休みを取ってるんだから、カティもそろそろ休暇をもらえないか訊いてみたらどうだ?」
 ウィラルドはカテリナが直属の上司である国王陛下に遠慮しているのなら、自分が上官を通じて話をしてみようかとまで提案した。
 それは今の彼の仕事ではなく、カテリナを心配しての提案だと気づいて、カテリナは素直に頭を下げた。
「すみません。気を遣っていただいて」
「そ、そりゃ気にするさ。降臨祭が終わったら、また一緒に仕事をするんだし」
 ウィラルドが慌てて告げた言葉に、カテリナは感傷的な気持ちになった。
 性別を偽って働くことに限界を感じ始めていて、降臨祭が終わったら騎士をやめようと思っていることを口にするなら、今のような気もした。
 先回りして突っ込む割に時々潔すぎるくらいにあきらめがいい。国王陛下にも言われたように、カテリナは今までの自分にしがみつくつもりはない。
 でもカテリナが決めても決めなくても、あと半分で降臨祭の終わりがやって来る。ギュンターの下で働くことの終わりは確実にやって来るのを考えたとき、なんだか子どもがわがままを言うように抵抗したくなった。
 どうしてなんだろうと思ったとき、会議が終わったらしく扉が開いて、王族に大臣たち、国の中枢を担う方々が出てきた。カテリナは慌てて壁に張り付いて敬礼を取った。
 カテリナが壁と一体化してお見送りをする中、王弟シエルと王妹マリアンヌが何事か小声で言い交わして、カテリナの方を見やった気がした。カテリナは壁が首を傾げては変だと思ってもちろん微動だにしなかったが、そのときには二人は後から出てきた国王陛下の方を振り向いていた。
「カティ」
 ギュンターに呼ばれて駆け寄ると、なぜか彼は難しい顔でカテリナを見て言った。
「調子でも悪いのか?」
「いいえ。どうしてですか?」
 国王陛下のダンスの相手を検討する会議だったはずなのに、どうして真っ先に自分の体調のことを尋ねるのか不思議に思ってカテリナが問い返すと、ギュンターはばつが悪そうな顔をした。
「ならいいが。マリアンヌが、きちんとカティに休暇を取らせろと」
 先ほど元上司にも指摘された休暇のことを今の上司にも指摘されると、なんだか悪いことをしているような気持ちになってくる。
 カテリナは迷ったが、ひとまずうなずいて言った。
「どうにか間を縫って休みを取ります」
 カテリナから約束したものの、ギュンターはすでに自分の頭の中でカテリナの労務管理を見直しているようで、「とりあえず戻るか」と言った。
 陛下の自室に戻った後、いつものように書面仕事を言いつけられたが、陛下の仕事の進捗状況は目に見えて悪かった。時々上の空で何か仕事ではないことを考えているようで、カテリナは心配になった。
「陛下こそ、体調でも悪いのでは」
 そっと席を立って陛下の執務机に近寄ると、ギュンターははっと考え事から目覚めた顔でカテリナを見やった。
「そうじゃない。四六時中いたら心配になるのは当然だ」
 ギュンターは言い訳するように告げて、決めたくはないが決めざるをえない仕事の前にいつもそうするように、ブロンドの髪を手でかき混ぜて言った。
「今日はもう帰っていい。あと、明日は休みを取っていい」
 唐突な休暇命令にカテリナは戸惑ったが、確かにそろそろ夕食の時間で、カテリナの勤務時間は終わりだった。上官から仕事の終わりを命じられた以上、退出しないわけにもいかない。
 日が落ちて夕方の涼しい風が窓から入り込んできていた。カテリナは書類を片付けてカバンを肩から下げると、椅子から立ち上がる。
 失礼しますと言いかけて、またこちらを難しい顔で見ている陛下と目が合った。
 なぜかはわからない沈黙、精霊が通り過ぎたような時間が流れて、先に口を開いたのはカテリナだった。
「陛下はどなたに最後のダンスを申し込むおつもりなのですか?」
 勤務時間はもう終了していて、訊かれていないことを訊くのも仕事の域を超えてしまうことで、しかもこの場合は陛下の感情にも触れるかもしれない危うさがあった。
「君には関係……」
 案の定陛下も反発しようとしたが、彼は一度息をついて前言を覆した。
「……関係ない、はずはないか。君はそのためにここで働いているんだからな」
 あまり大声では言えないと言われて、カテリナはそろそろと陛下に歩み寄った。
 そこはいつも報告をする陛下の机の前ではなく、陛下の机の隣で、陛下はちょっと屈めとまで言った。カテリナは言う通りに身を屈めて、内緒話の距離にまで至る。
 ギュンターは思案するように黙ってから、声をひそめて切り出す。
「会議で私は、最後のダンスの相手はローリー夫人に頼むつもりでいると提案したんだ」
 こくんとカテリナが素直にうなずくと、ギュンターは目を伏せて首を横に振る。
「だが妹のマリアンヌが、「今陛下の御心にある方とは違いますが、よろしいのでしょうか」と言った」
 カテリナは息を呑んで目を瞬かせて、思わず問い返す。
「そうなのですか?」
「いや、私は嘘をついたつもりはない。ローリー夫人がふさわしいと本心から思った。ただ……」
 ギュンターは言葉に詰まって沈黙した。彼自身も自分が言いかけた言葉の続きを迷っているようだったが、ふいにこぼした言葉は本音に近いものに聞こえた。
「違うと、マリアンヌに言い返すこともできなかった」
 深く息をついてから、ギュンターは窓の外を見やった。
「マリアンヌは、「ローリー夫人にダンスを申し込む前に、もう一人だけ陛下に会っていただきたい令嬢がいらっしゃいます」と言うんだ」
 ギュンターはふとカテリナを見て笑う。
「降臨祭は残り何日だと思う? たった数日で最愛の人になるなんて可笑しい。それこそ精霊の、性質の悪いいたずらだと思うが」
 それはカテリナも初めてマリアンヌから話を聞いたときから思っていた。王妃にふさわしい方ならとっくの昔に陛下に引き合わされていて、長い付き合いの後、来るべくして最愛の人となっているはずだと。
 まさか降臨祭の十日間でなければ出会えない人なのだろうか。そんなことをちらと思って、カテリナも思考が迷路に入った。
「ローリー夫人の方にも準備が必要だ。私は明日にでも、ローリー夫人にダンスを申し込もうと考えているが」
 同意しようとして、カテリナはギュンターの目に映る感情に気づいた。
 遠いところを探すようなギュンターの瞳に、アリーシャやローリー夫人に寄せる好意はない。まだ出会ってもいない令嬢を愛するはずもないのだから、それは当然のことだ。
 でもヴァイスラントに住む者なら誰でも精霊の奇跡を心のどこかで信じている。幸運と出会う日を、誰もが望んでいる。
 カテリナが奇跡を否定できないまま沈黙に身を任せると、ノックの音が聞こえた。
 気づけば陛下のずいぶん近くまで来ていたことに気づいて、慌てて隅の机まで駆け戻る。
「入ってきなさい」
 ギュンターが外向きの顔をまとって、いつものように穏やかに返事をすると、その人は扉を開いて入ってきた。
「陛下、折り入ってお話を聞いていただけるかしら。……カティさんも、一緒にいらして」
 現れたローリー夫人はどこか哀しい表情で、二人に告げたのだった。