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 目立つほうではなかったけれど、それなりに友達もいてそれなりに勉強も出来た僕は、毎日に不満を持っているわけでもなかった。進学する人と就職する人が半々ぐらいのこの学校は、比較的自由な校風。その中で、僕は可もなく不可もない立ち位置を、それなりに気に入っていた。

 ──そんな、ある日のこと。


「紘ー、購買行かね、購買」

「購買? うん、いいよ」


 僕も何か買おうかな。そう思いながら、一応財布を手に持って二人で歩き出す。腹減った、などと隣で騒いでいるやつは、どうやら弁当を忘れたらしい。

 なに買うの、と問えば、腹に溜まるものとの返事があった。相当腹が減っているようだと思いながら列へ並ぶ。ふ、と視線を屋上へ向けた。購買のある場所からは、教室棟の屋上が望める。たいした理由も、気になったこともなかったけれど、ただ本当に、ふとそちらに視線を向けただけだった。

 ────それなのに。


「……、っ!」


 一人の少女が、目に映った。一瞬その意味を考えて、それからその少女の立つ場所と高さに絶句しかけ、我に返って駆け出した。


「ちょ、紘!」


 声を掛けられたけれど、それに構っている暇もない。でないとあの子は──君は。あのまま、飛び降りてしまう。

 階段を飛ばしながら駆け上がる。校舎は四階建てだから、結構な段数を上らなければならない。体力がないから、それはきついものがある。けれど、立ち止まっている余裕はなかった。いかないという選択肢も、諦める選択肢もなかった。

 ただ君を、死なせないために。

 君を知っているわけではない。それでも、僕は走った。あまりにもあの光景が衝撃過ぎて、瞳の奥から離れない。

 ばん、と音を立てて勢いよくドアを開ける。その場にいた数人の視線が僕に向く。

 君しかいないと思っていたけれど、他にも人がいた。ということは、君は自分の意思でここに立っているわけではないのだろう。だって、君以外の少女はみんな愉しそうで――君がいじめに遭っているということを、僕は一目で察した。


「……誰よ、アンタ」


 一人の少女が声を掛けてきた。息を整えることに集中していた僕は、それに答えず無視をする。

 怯えた表情を見せる君に、僕はゆっくり近づいた。フェンスを乗り越えると、君と向かい合わせに立つ。


「ま、いいや。――チカ、じゃないとそこの男、巻き込むよ?」


 別の声がそう言った。びくん、と肩を揺らした君とその声に、僕は君の名前がチカだと知る。僕は君の名前すら知らないままに、こんなことをしているのだ。

 フェンスから縁までは、たった五十センチメートルしかない。少しでも体勢を崩したら、落ちる。

 命綱もない状況で、そんなことをしている僕自身がおかしかった。けれどそれよりも何よりも、目の前にいる君が、あまりにも縋るような瞳をしているから。


「チカ」


 君の名前を、呼んだ。僕を見た君に、この状況にも関わらず小さな笑みが漏れた。


「君は、生きたい?」


 純粋な質問を投げかける。君は、僕のその言葉をゆっくりと考えて、──それから素直にこくりと頷いた。


「……チカ?」


 誰かの声が、何を言ってるの、というように君の名前を紡ぐ。僕はそれに構わずに、君を助けるべく手を差し伸べる。君の右手を掴んで、よかった、と思った──その瞬間。


「ッ……!」


 君が、足を滑らせた。危ないと思ったときには、もう遅いと、助けられないと悟って。


「紘……っ!」



 ────最期に見た泣きそうな顔の君に、僕は、恋をした。