◇
ほら、今日も。
僕の視線の先には、いつものようにフェンスに手を掛けて外を眺める君がいる。僕はその更に上、塔屋と呼ばれる部分に腰かけていて、君がそれに気付いた様子はなかった。
毎日ここに来る君を、僕は毎日眺めている。君はそれに気付いた様子もなく、いつもいつも、その場所に立っている。
そうしているときの君と話したことは無い。ずっとこうして見ているだけだ。それでも、いいと思う。愁いを帯びた哀しそうな瞳でどこか遠くを眺める君は、触れたら消えてしまいそうだった。
かたり、と君が音を立ててフェンスから手を離した。くるりと反転した君はフェンスに寄りかかり、俯いて瞳を閉じる。その君の横顔を、僕はじっと見つめる。
かしゃん、とフェンスが音を立てた。ずるずると引きずられるように床に座り込む君は、抱えた膝の間に顔を埋める。僕は動かずに、それをただ眺める。
僕の耳に届く、君の嗚咽。静かなこの場を切り裂くその声は、まっすぐに、僕の胸へと突き刺さる。僕と君しかいない屋上に響くその声は、――一体誰のために流されているのか。
しばらくの間そうしていた君は泣き止んだのか、徐に立ち上がると屋上からいなくなる。それを見送って、僕はよいせと屋上へ降り立つと、君がいたところから君が見ていた景色を眺めてみるのだ。
蒼い空と、僕の住む町の風景。真下を見下ろせば、色とりどりの花が咲き乱れている。それからふいっと視線を逸らし、僕は君の出て行った屋上の扉に視線を合わせた。
君を追いかけるようにして屋上を出る。そのまま階段を下りると、教室等へ出た。授業中であるため廊下には誰もいなくて、君はきっと保健室にでも行ったのだろうと検討をつける。僕も保健室に向かおうと、一歩足を踏み出した。
――――と。
足音が聞こえる。咄嗟に近くの空き教室に飛び込んで身を隠した。幸い通った教師は気付かなかったようで、僕はほっと胸を撫で下ろす。
それと同時に、チャイムが校舎中に鳴り響いた。騒がしくなってきた廊下を、生徒と生徒の間をすり抜けて歩く。いつの間にか身につけていたこの技は、意外と便利だと思う。
君を探して校舎を移動する。けれど、辿り着いた保健室にはいない。どうしようか、迷った僕は屋上に戻ることを決めた。
くるり、踵を返した。次の授業が始まった廊下は、再び静まり返っている。教室の中の生徒や先生に気付かれないように移動しながら、早足で屋上を目指した。屋上にたどり着くと、僕はまた塔屋に上った。
変わらずに蒼い空。けれど君は見つからなくて、僕はその場にごろんと寝転がってみる。そっと瞳を閉じれば、瞼の裏に映るのは君の背中。寂しげで儚げな君の背中が、脳裏から離れてくれない。
どこに行ったのだろうか、君は、どこにいるのだろうか。
君の行く場所の検討がつかない。保健室でないとなると、僕は君がどこにいるのかを知らない。屋上と保健室以外に、君がいる場所を他に知らない。
だって、僕は君を知らないし、君も僕を知らないから。
知っているのは、君の名前だけ。それも下の名前しか知らなくて、漢字すら分からない。だけど、僕は知っている。君がここにいるということを、知っている。
それだけでいいのだ。それだけで、僕には十分なのだ。
これ以上のことは望まない。それ以上のことは望めない。
だって、僕と君だから。僕は、このままが一番いいんだ。
チャイムが鳴る。気付かないうちに、大分時間が経っていたらしい。僕は立ち上がると、君を探すために屋上を出る。君と僕は同じ学年だったと思うけれど、分からないからクラスを全部回ることにする。
いつの間にか放課後になっていた校舎内は、部活をやっている生徒が多いからかとても静かだ。だから教室には誰もいないことが多くて、いたとしても日誌を残って書いている人くらい。それは大丈夫だろうと僕は考えて、教室を一つ一つ見ていく。
一つ目。君は、見つからない。二つ目。ここにも、君はいない。三つ目、四つ目。君は、どこにもいない。五つ目、六つ目、七つ目。残りはあと、一つだけ。
最後のクラスへ入った。君を探してみる。机の上にある花瓶と、それに挿した花を見つけた、と。
「チカ、……千花」
見つけた、やっと。君を、君の名前を。
指で、君の名前をなぞる。ちか、と小さく呟いて、何度も君の名前を呼ぶ。花が置いてあるのは君の席だということに気付いた──その時。
「ひろ、くん」
名前を、呼ばれて。聞き覚えのある声に、僕は声の主を振り返った。
「紘くん、っ」
――泣きそうな君の声が、僕の耳朶を打った。
「……千花」
そっと、微笑む。思わず、といったように涙を零した君は、それでもいびつな笑顔を見せてくれる。
千花、ともう一度その名を呼んだ。紘くん、と応えるように僕の名前を呟いて、僕に抱きついてきた君の身体が。
「――――っ」
するり、と──僕の身体を、すり抜けた。