昔から赤い傘が好きだった。
色彩心理学では、赤色は前向きな印象をもたらしてくれるらしい。
だからテストの点数が悪かった日も、部活で上手くいかなくて気分が沈んだ日も、赤い傘が手元にあるだけで明るい気持ちになれる。
いつも持ち歩いているから、いつの間にか赤い傘は私の目印となっていた。
特に雨の日はよく目立った。しっとりした空気が、周囲の輪郭をぼかして映し出すその風景には、赤い傘がよく映える。
けれど、私の隣に座る男性の持つ赤い傘は、どんよりと影を落としているように見えた。
雨に濡れているから、というのもあるかもしれない。その赤には活気が感じられず、まるで生きる理由すべてを失くしたように濁った色に見えた。
それは男性の顔色からも伺えた。やけに疲れた表情を浮かべ、着ているスーツはくたびれていた。脇に置かれた通勤用バッグはほつれ始めている。そんな風貌の彼に赤い傘は随分可愛らしい。
今日はなにかあったんですか?
私が問えば、彼は小さく笑って教えてくれる。
「雨がやまないなぁって。ここ数日、ずっと振り続けているだろう? 傘があってよかったって思っていたんだ」
そう言って前を向くと、しとしと降る雨がコンクリートに落ちていくのを見つめた。
ここは見通しのよい一本道の道路の脇に設置された、プレハブで作られた風よけの小屋のあるバスの停留所だ。
その小屋の中には、背もたれのあるベンチが一脚だけ置かれている。この近辺でバスを利用する住民が多いこともあって重宝されているが、今日は生憎の雨。用事がなければむやみに外に出歩くことはない。
だからここには私と彼しかいない。――いや、正確には、雨の日に限ってこの人と鉢合わせすることが多いのだ。
彼と初めて出会ったのは、どんよりとした雨の日の夕方のことだった。
ベンチに座ってバスを待っていると、彼は私と同じ赤い傘を持って現れ、平然と隣に座った。
私の存在が目に入っていないのか、座ってすぐ遠くを見つめると、悔しそうに唇を噛んだ。
そんな表情を雨の日にするなんて、辛気臭いにもほどがある。呆れた私は、近くにあった猫じゃらしをひとつ手折ると、彼の前で揺らす。
ほら、そんな顔をしないで。笑ってよ。
私がふてくされたように指摘すれば、彼は目を丸くしてこちらを見た。
「……ありがとう」
まるで幽霊を見たかのような驚き加減に少しだけ腹が立ったけど、哀しそうに微笑むから、深く聞こうとはしなかった。
しないほうがいいと思った。しては、いけないと思った。
以来、彼は雨の日は必ず赤い傘をさして停留所にやってくる。
裏を返せば、この人は雨が降る日の夕方にしか来なかった。
バスが来るまでの数分間、一方的に話す私の話に相槌を打って笑ってくれた。循環バスが停車すると、名残惜しそうに微笑んで乗り込んでいく。
私はその後ろ姿を、いつも小さくなるまで見送っていた。
私が乗ろうとしているバスは一向に来なくて歯痒さはあるけれど、彼と過ごす時間は好きだった。
会う前まで暗い顔をしていたのに、次第に明るくすっきりした表情で笑う。雨が強い日はバスが遅れるから、その分彼と話す時間も長くなる。
そのたびにもっと降れ!と何度願ったことだろう。
私はそんな小さな優越感に浸って、そのたびに彼の哀しそうな笑みをずっと見て見ぬふりをしていた。
色彩心理学では、赤色は前向きな印象をもたらしてくれるらしい。
だからテストの点数が悪かった日も、部活で上手くいかなくて気分が沈んだ日も、赤い傘が手元にあるだけで明るい気持ちになれる。
いつも持ち歩いているから、いつの間にか赤い傘は私の目印となっていた。
特に雨の日はよく目立った。しっとりした空気が、周囲の輪郭をぼかして映し出すその風景には、赤い傘がよく映える。
けれど、私の隣に座る男性の持つ赤い傘は、どんよりと影を落としているように見えた。
雨に濡れているから、というのもあるかもしれない。その赤には活気が感じられず、まるで生きる理由すべてを失くしたように濁った色に見えた。
それは男性の顔色からも伺えた。やけに疲れた表情を浮かべ、着ているスーツはくたびれていた。脇に置かれた通勤用バッグはほつれ始めている。そんな風貌の彼に赤い傘は随分可愛らしい。
今日はなにかあったんですか?
私が問えば、彼は小さく笑って教えてくれる。
「雨がやまないなぁって。ここ数日、ずっと振り続けているだろう? 傘があってよかったって思っていたんだ」
そう言って前を向くと、しとしと降る雨がコンクリートに落ちていくのを見つめた。
ここは見通しのよい一本道の道路の脇に設置された、プレハブで作られた風よけの小屋のあるバスの停留所だ。
その小屋の中には、背もたれのあるベンチが一脚だけ置かれている。この近辺でバスを利用する住民が多いこともあって重宝されているが、今日は生憎の雨。用事がなければむやみに外に出歩くことはない。
だからここには私と彼しかいない。――いや、正確には、雨の日に限ってこの人と鉢合わせすることが多いのだ。
彼と初めて出会ったのは、どんよりとした雨の日の夕方のことだった。
ベンチに座ってバスを待っていると、彼は私と同じ赤い傘を持って現れ、平然と隣に座った。
私の存在が目に入っていないのか、座ってすぐ遠くを見つめると、悔しそうに唇を噛んだ。
そんな表情を雨の日にするなんて、辛気臭いにもほどがある。呆れた私は、近くにあった猫じゃらしをひとつ手折ると、彼の前で揺らす。
ほら、そんな顔をしないで。笑ってよ。
私がふてくされたように指摘すれば、彼は目を丸くしてこちらを見た。
「……ありがとう」
まるで幽霊を見たかのような驚き加減に少しだけ腹が立ったけど、哀しそうに微笑むから、深く聞こうとはしなかった。
しないほうがいいと思った。しては、いけないと思った。
以来、彼は雨の日は必ず赤い傘をさして停留所にやってくる。
裏を返せば、この人は雨が降る日の夕方にしか来なかった。
バスが来るまでの数分間、一方的に話す私の話に相槌を打って笑ってくれた。循環バスが停車すると、名残惜しそうに微笑んで乗り込んでいく。
私はその後ろ姿を、いつも小さくなるまで見送っていた。
私が乗ろうとしているバスは一向に来なくて歯痒さはあるけれど、彼と過ごす時間は好きだった。
会う前まで暗い顔をしていたのに、次第に明るくすっきりした表情で笑う。雨が強い日はバスが遅れるから、その分彼と話す時間も長くなる。
そのたびにもっと降れ!と何度願ったことだろう。
私はそんな小さな優越感に浸って、そのたびに彼の哀しそうな笑みをずっと見て見ぬふりをしていた。