1
「あれ?」
放課後、委員会を終えて教室に戻ると、教室の一番後ろで机の中の荷物をバッグに詰めている女子が目にとまった。
「有江、さん……?」
「あ、畑佐君! 久しぶり!」
僕、畑佐誠司の名前を元気に呼んだのは、最近ずっと学校を休んでいた同じクラスの有江瑞樹だった。前に見たときより、ストレートの黒髪は随分伸びていて、すっかり肩を隠している。大きくて優しそうな目に、形の綺麗な鼻、ピンク色の唇。もともと明るい顔立ちだけど、今日はなんだか元気がなさそうに見えた。
「畑佐君、こんな時間にどうしたの? とっくに授業終わってるよね?」
「ん、ああ。今日は委員会だったから」
「あ、そっか。今年も図書委員なんだっけ?」
「うん、そうだよ」
答えながら、西日に目を細める。十月末ともなると、太陽が沈むのが早くて、冬の到来を感じ始める。日がだんだん短くなっていくのを、これからあっという間に高二が終わって受験生に突入するんだぞ、と急かしているように感じた。
「なんか懐かしいね。私も去年は一緒に出てたんだなあ」
「そうそう、放課後に司書の手伝いで貸し出し係とかやったよね」
「あの時、司書の中村さん別の先生に捕まってて、一時間くらい待たされたりしたもんね!」
軽快に話す彼女の笑顔を見るのも、割と久しぶりな気がした。
彼女とは一年生のときから同じクラスだ。僕は純文学・青春・ミステリー、彼女はファンタジー・ミステリーとお互いの読書好きがきっかけですぐに仲良くなり、一緒に図書委員会に所属していた。昼休みや放課後に貸し出し係を持ち回りでやらされる、不定期で蔵書の整理をすることになるなど、やることが結構多くて不人気な委員会だけど、新規貸し出し作を優先的に借りられたりするので本好きな僕たちには恩恵も多かった。
「もう、さ」
不意に彼女は、言いにくいことを訊く準備のように、俺から顔を逸らし、窓の外を見つめる。
「書いてないの?」
「何を?」
「……小説」
「ん、ああ」
彼女の一言に、答えに詰まって口が開きっぱなしになる。そういえば、彼女と親密になった大きなきっかけはそれだった。
高一の夏、小説を書いて投稿サイトに載せていると言ったら、彼女はすごく興味を持ってくれた。ペンネームを教えてほしいとお願いされ、ある日根負けしてこっそり教えると、彼女はその日のうちに投稿している青春長編を最新話まで全部読んで、長文の感想をメッセージに送ってくれた。僕も嬉しくなって、頻繁に更新しては作品の裏話を彼女に教えて、彼女は興味津々で聞いてくれた。だけど。
「最近は、なかなかね」
「そっか、そうだよね」
有江さんはほんの少しだけ残念そうに項垂れた。
何か理由があって筆を折ったわけじゃない。たまたま好きで書き始めて、ちょっと熱中して、たまたま書かなくなっただけ。本当はきっと心のどこかに書きたい気持ちは残ってるのかもしれないけど、日々の勉強もそれなりに大変で、スマホを覗けば面白い漫画や動画が転がっていて、自分で書くより疲れない娯楽があっただけ。
そうして、あんなに仲が良かったのに、去年の冬くらいから更新することもなくなり、彼女と小説の話もしなくなって、なんとなく疎遠になってしまっていた。
「そういえば、有江さんはどうしたの? しばらく休んでたから先生に会いに来たとか?」
「あ、ううん。違うんだ。置き勉してた教科書とか資料集を取りに来たの」
彼女は、大きなトートバッグの中から本を数冊、両手で掴んで持ち上げてみせる。普段使わない英語の文法集や現代社会の教科書が見えた。
「私ね、昨日から入院になったんだ」
「え? 入院?」
突然の驚くような発言に、思わず目を丸くしてしまう。
彼女は一年の後半くらいから体調を崩していたらしく、週に一度くらい通院などで学校を休んでいた。二年生になってからも快復の兆しはなく、むしろ悪化しているのか休む頻度も少しずつ増えていて、文化祭が終わってからここ三週間は全く来ていなかった。自宅療養していると聞いていたけど、入院するまで悪くなっていたなんて。
「ちょっと長引きそうだから、勉強も病院でやろうと思ってさ。まあこんな分厚い文法集なんかやるのかって感じだけど、読んだら面倒になってすぐ眠れそう!」
笑い話で締める彼女の表情はしかし、やっぱりそんなに明るくない。体調が優れないからなのか、気落ちしているからなのかは分からなかった。
「その……僕がどこまで訊いていいのか分からないんだけど……病気、大丈夫なの?」
僕は、これまで遠慮していた質問を思い切ってぶつけてみた。
「うん、教えるのは大丈夫だよ。んっと……心臓があんまり、ね」
「心、臓」
人間にとって一番大事な場所。その単語を聞いた瞬間、彼女が命の危険にさらされているのでは、と一気に不安になってしまう。
その心配は、表情で彼女にも伝わったらしい。有江さんは眉をグッと上げて、無理やり、という表現がピッタリ来るような笑顔を浮かべた。
「うん、きっと大丈夫だから。そんなに心配しないで!」
右手をグーにして掲げる彼女の頷きは、自分自身を励ますための仕草にも見える。
「あーあ、でも学校に来れないの、残念だな。畑佐君もさ、いつどうなるか分からないから、やりたいことやった方がいいよ。あ、別に病気になるって言ってるわけじゃないけどね」
もう一度「残念だなあ」と呟いた彼女に、僕は堪らず、口を開いた。
「あの……有江さんは、やりたいことないの?」
「え……?」
「今からでもできることって、きっとあるでしょ? 後悔してほしくないから。僕にできることなら手伝うし」
勢いで言ったけど、本心だった。本が好きとか、一緒の委員会とか、小説を読んでもらったとか、それだけの繋がりかもしれないけど、せっかく仲良くなったから、自分にできることは全部協力したいと思った。
彼女は右手をアゴに当て、斜め上を見ながら「んー」としばらく考えていたが、やがて名案が降ってきたかのようにニッと笑みを零し、僕に視線を戻す。
「じゃあさ、恋人のつもりで、ラブレター送り合ってみたい!」
「……え?」
予想外の質問にしばしフリーズしてしまう。
「だってさ、私、彼氏いたことないから、ラブレターみたいなの書いたことないんだよね。それに、高校生活の貴重な青春の時期を、病室で寝て過ごすんだよ? 可哀相だと思わない? ね、お願い! 冗談でいいから! ねっ!」
いつの間にか随分と僕の近くに来ていた彼女はパチンと手を合わせて深くお辞儀する。そんなことをやるつもりも、うまく書ける自信も全くなかったけど、手伝うと言ってしまった手前、断るのは難しい。何より、彼女が本当に望んでいるなら、たとえ形だけどラブレターでも協力してあげたかった。
「じゃあ、うん、僕でよければ」
「ホント? やった、ありがとう!」
両手を胸の前に持ってきてガッツポーズを取ると、彼女は「そろそろお母さんのところに戻らなきゃ」と言ってトートバッグを肩に提げる。
「本当に嬉しい! 畑佐君、また連絡するね!」
「うん、待ってるよ」
教室前方のドアを開け、振り向いて一生懸命に手を振る有江さんは、数分前よりずっと元気に見えた。
2
「誠司! なんか手紙が来てるよ!」
「うわわわわわ! ちょ、ちょっと待って!」
下校した後の夕方。一階の階段下から、二階にある僕の部屋まで聞こえるように母親が叫んですぐ、僕は階段を転げ落ちるように降りて行った。リビングのドアをガチャッと開けると、キッチンでマグカップを拭いていた母は布巾を持った手でダイニングテーブルを指す。
「そこに置いたから」
「ありがと、うん、ありがと!」
動転したまま、ひったくるようにそのラムネ色のような淡いブルーの封筒を取って、足早に二階に戻る。なんでもスマホでやりとりしている中で、直筆の手紙、しかも女子が書いた手紙を受け取るというのは想像以上に気恥ずかしかった。
差出人の名前を見る。スマホくらいのサイズの青い封筒に、綺麗な字で名前が書かれていた。
『有江瑞樹』
冗談でもいいからラブレターをやりとりしようと言われてから一週間。メッセージで【封筒、投函したよ!】と書かれてからは、いつ届くのかとドキドキしていた。なんとなくスマホでメッセージを送るだと思っていた僕は、彼女から来た【住所教えて!】という連絡に何のことかきょとんとしてしまったし、その意味が分かったときには沸騰したかのように顔が真っ赤になってしまった。
裏の開け口から開けようとすると、ビリッと嫌な音が聞こえた。僕はこのまま開ける気にならなくて、中の手紙が片方に寄っていることを確認して、封筒の横をハサミで切った。
中から出てきたのは二つ折りになった海の柄の便箋だった。宛名はサインペンで書いてあったけど、手紙の文はボールペンで書いてある。そういえば彼女は文字が上手かった。図書委員のときも、貸出の記録をA4の紙に書いているのを見て「先生より綺麗じゃん」と褒めたのを思い出した。
心臓が高鳴るのを感じながら、本文を読む。
『誠司君へ
元気? こっちも元気……っぽい!
こうして文字で送るって、結構緊張するね。
一日寝てるとしんどいよ。すぐ病気良くして、誠司君と一緒に過ごすの。
返事、すぐ欲しいです!
君を好きでいる、瑞樹より』
短いけど、感情が伝わってくる手紙だった。それに、いつも学校では「畑佐君」なのに手紙では「誠司君」呼びになっていることで、彼女がこのラブレターを如何に本物っぽく書こうとしていたかが分かる。
そして何より、最後の一文にどうしても目が行き、何度も読んでしまう。
『君を好きでいる、瑞樹より』
こんなにストレートに想いを書いてくるなんて。
ジョークだとしても、ただの冗談で「ごっこ遊び」なのだとしても、彼女の想いがぎゅっと詰まったこの文章を見て、僕の心拍数は読む前よりも上がっていた。
「なあ、保坂」
「ん? どした、畑佐」
学校の昼休み。前に座っていた、中学からの親友である保坂に声をかけると、彼はくるっと振り返って微かに微笑んだ。短髪というにはやや長い黒髪をワックスでウニみたいにツンツン立てていて、ぱっと見は近寄りがたい印象も受ける。が、根はとても良いヤツで、情に厚く、口も堅いので、小説を書いていることも話している。そしてテストでは毎回学年トップ5に入る優秀な頭脳で、今回の僕のように相談事を持ちかけるクラスメイトも多かった。
「実は、文通みたいにラブレターを送り合うことになったんだけどさ……」
僕は、両隣に誰もいないのをこれ幸いと、有江さんの名前は伏せて手紙のことを話した。
「……ってことで、向こうからラブレターみたいなものが来たんだよ。もちろん、本気のものじゃないけどね。それで、どんな返事書けばいいかなって。遊びなんだ、って考えるとなんか文面考えるだけで恥ずかしくてさ。ちょっとネタっぽくごまかしちゃってもいいのかな……」
そう言うと、保坂は少し考えこむ。こういうとき、突っ込んで相手の名前など聞かないでいてくれる優しさが嬉しい。
やがて彼は、真面目な表情で軽く首を振った。
「やっぱり、ちゃんと返事書いた方がいいよ。恥ずかしい気持ちも分かるけど、茶化したりしないでさ。相手は真剣に考えて文章書いてきてくれてるんだろ? だったら、遊びだからこそ、しっかり乗っかった方がいいよ。相手にも失礼になっちゃうしね」
「そっか……そうだよね、ありがとう!」
有江さんが一生懸命手紙を書いてくれたのに、僕が適当に返信したらダメだ。そう決心すると、心なしか少し気持ちが軽くなった気がした。
「……よしっ!」
家の机の上に、帰りがけに文房具屋で買ってきたレターセットを広げる。楽器や音符がデザインされた便箋を前にして、気合いを入れるように声を出してから、一文字ずつゆっくりとボールペンで書いていく。
『瑞樹へ
手紙ありがとう。めちゃくちゃ緊張しながら読んだけど、返信を書こうとしている今はそれ以上に緊張してるよ。
いざこうして便箋に向き合うと、何を書いていいか分からないな。読書以外で、瑞樹はどんなことが好きなんだろう。一年半も一緒にいたのに、僕は瑞樹のことをほとんど知らないって気付かされた。
入院生活は大変だと思うけど、頑張ってほしい。治ったら、一緒にカフェに行こう。ゲーセンでもいい。行きたいところ、決めておいて。
君を心配している、誠司より』
書きたいことはまとまっていないし、下書きもしなかったから行の折り返しのところに無理やり字を詰めて汚くなってしまった。でも素直な気持ちは綴れたと思うし、名前呼びもできた。最後の一文は、さすがに瑞樹と同じようなことは書けなかったけど「心配している」と正直に伝えられた。
「……あ、しまった、封しちゃった! 住所書きにくい!」
手紙を封筒に入れて糊付けしてから気付き、後悔しながらも凹凸のある裏面に宛名と住所を書く。慣れない作業一つ一つが、なんだか楽しく感じる。
【投函したよ】
【わっ、ありがとう! 楽しみにしてるね!】
瑞樹にメッセージを送ると、喜んでいる猫のスタンプと共にお礼が返ってきた。今頃病院にいるのだろう。横になってるんだろうか。
彼女が休んでいる間、学校では全然気にかけなかったのに、今はよく彼女の顔を思い出す。そして彼女の言葉も。
『畑佐君もさ、やりたいことやった方がいいよ。』
この一年くらい、ちっとも再開する気になれなかったのに、ほんの少しだけ、小説をまた書きたいと思う自分がいた。
3
それから、彼女との手紙のやりとりは続いた。
僕が送ると、彼女はすぐに返信をくれる。【もう秋だから、手紙も秋バージョンに変えたよ!】と言って、紅葉のデザインされた便箋を送ってきてくれた。
でも、一週間に一度くれていた手紙は、いつの間にか十日に一度になり、二週間に一度になった。汗をかいた顔文字と一緒に【ごめんね、最近寝ちゃうこと多くて。成長期なのかな笑】とジョークっぽい返信で謝ってくれたけど、僕にはむしろそれが不安だった。どんどん体調が悪くなっているのではないか。手紙が満足に書けないほどに。
六通目の手紙が来たのは、年明けのことだった。
『誠司君へ
元気? 自分の方もぼちぼちです。音符の便箋、いつ見ても綺麗!
病院っていつもどんよりしてて気分すっごく滅入る……。
でも昨日、お父さん来てくれてね、色々言えてリフレッシュできて嬉しい!
ところで……誠司君、小説続けてよ。誠司君の文章、全部読むよ。
逃げずに続けてほしい。ずっと応援してる。
君のことを想っている、瑞樹より』
ベッドに横になりながら読んで、そのまま枕に突っ伏す。心臓が、ドッドッとうるさく響く。
こんなにストレートに応援してもらって、気持ちを伝えてもらうと、勘違いしそうになる。
これは「ごっこ遊び」なんだ。瑞樹からそう言ったじゃないか。だから普段と違う呼び方だし、君が好きとか君を想っているとか、たくさん書いてくれるんだ。
でも、そう思えば思うほど、「本当だったら」と余計な仮定をしてしまう。その仮定が「期待」であることを、もう自分自身が隠せずにいた。
『瑞樹へ
紅葉の便箋も綺麗だね。瑞樹の綺麗な字も、何度も読み返したくなるよ。
普段メッセージしたり、こうして手紙送り合ったりしてるけど、学校に行っても君がいなくて寂しくなる。
病院、今日もどんよりしてる?
暗い気分が晴れるか分からないけど、もしよかったらお見舞いに行きたい。
君に会いたいと思っている、誠司より』
手紙の往復を重ねるたびに、気持ちをインクに乗せるたびに、まっすぐな気持ちがペンを通って紙へと流れていくよう。
気付いたきっかけはこのラブレターかもしれない。でも、本当はずっと彼女のことが好きだったんだと思う。自分自身としっかり向き合わなかったから、この感情を置いてけぼりにしていた。小説から目を逸らしたように、日々の忙しさにかまけて、自分の気持ちに目を逸らしてしまっていた。
彼女に会いたい。有江瑞樹に会いたい。
その想いをポストに入れた二日後、彼女から【お待ちしてます!】と病院の地図の画像が送られてきたのだった。
「ここかな……」
一月の上旬の日曜日。普段は映画を観たり洋服を買ったりするために来る、繁華街の駅。そこからバスでそう遠くない距離に、見上げるほど大きな病院があった。こんな場所にいると考えるだけで、彼女の身を案じてしまう。
「あの、入院している有江瑞樹さんのお見舞いに来たんですけど……」
「あ、はい、伺ってます。こちらにご記入ください」
どうやら彼女は僕のことを伝えておいてくれたらしく、簡単な訪問カードを書くだけでスムーズに通してもらえた。
案内された通り、長い廊下を渡って別の棟へ行き、エレベーターで四階へと昇る。「有江瑞樹」というネームプレートを見つけて、久し振りに彼女に会えることに緊張しながらノックする。「はーい」という、イヤに力のない声に呼ばれて引き戸を開けると、彼女は個室のベッドに寝ていた。
「誠司君、久しぶり。来てくれてありがとね」
自然に名前呼びしてくれるのが嬉しい。でも、ゆっくりと起き上がった瑞樹を見て、胸が締め付けられる。「入院生活で間食できないから」なんて理由では説明がつかないほど彼女は痩せ、目の光は失せていた。病気が悪化している中で、それでも笑顔を見せてくれることに、申し訳ないような気持ちになる。
「体調、大丈夫?」
「うん、平気だよ」
ツヤのない髪を気にするように触りながら返事をする。決して平気でないと分かってはいるけど、それでも装って答えてくれる彼女の強がりを大事にしてあげたかった。
不意に彼女は、僕にグッと顔を寄せる。
「ねえねえ、学校の話、聞かせてよ! 何でもいいから」
「え? ああ、うん。昨日、高橋さんが話してたんだけど……」
僕が普段過ごしている場所も、彼女にとっては羨望の場所で。話を聞いているうちに、彼女は次第に目の輝きを取り戻していった。
「いいなあ、私も学校行きたい! 二年生終わるまでには絶対登校する!」
そう言うと、少し疲れたようで、またゆっくりと横になった。
「手紙、返事遅れちゃっててごめんね」
「ううん、気にしなくて大丈夫だから」
眠いのか、時折目を瞑りながら、彼女は続ける。
「誠司君と手紙でやりとりできることになって、すごく嬉しかったんだ。だからさ……冗談でいいから、続けてね」
僕は冗談なんかじゃなかったけど、必死に闘病している今の彼女にそれを伝えることはできなくて。代わりに、右手の小指を彼女に近づける。
「うん、続けるよ。だから、早く学校戻ってきてね」
ちらと僕を見た彼女は、目一杯の笑みを見せながら、小指を出す。
「もちろん。指切りだね」
そうやって約束した。約束したはずだったのに。
瑞樹が亡くなったと担任の先生から聞かされたのは、お見舞いの後、一週間も経たないうちのことだった。
4
「ふう……」
部屋で一人、溜息をつく。
数日前、クラス全員でお葬式に参列し、あっという間に彼女は煙になった。
急すぎて、現実味がなさすぎて、涙も出てこない。辛うじて学校には行っているけど、喪失感が纏わりついて、帰宅するとベッドから動けないでいた。
手紙のやりとりも中途半端なまま、瑞樹はいなくなってしまった。本当の気持ちを聞けないままだった。僕からもっと連絡すれば良かった。
そんな後悔をしていたとき、母親から「手紙だよ」と言って大きな茶封筒を渡された。
中には、見覚えのある紅葉のデザインされた封筒と、二つ折りにした便箋。瑞樹の母親が書いたらしいその手紙には、息を引き取る直前に書いていたものを見つけたから送ります、という内容が記されていた。
封筒を開ける。随分懐かしく感じる彼女の文字を目にする。
『誠司君へ
これでメッセージ終了です。誠司君、このメッセージの郵送を一緒にしてくれて嬉しいよ。
本当に良い思い出!
君のことをずっとずっと好きです。
図書委員の時、一緒に司書をして、ミステリー小説のトークして、その時に恋に落ちて……。
いつも見てるね。小説も応援してる!
君に惚れている瑞樹より
P.S 気付いてくれるともっと嬉しい!』
最後の最後まで、このラブレターごっこを続けてくれたことが嬉しくて。でも、本当の気持ちが聞けなかったことが寂しくて、僕は手紙を読みながら小さく溜息をつく。
そして、あることが引っかかり、僕は翌日、これを学校に持って行くことにした。
***
「これがその手紙? 見てもいいの?」
「うん。保坂なら解けるかなって。その最後の文のこと」
彼女の手紙の最後、『P.S 気付いてくれるともっと嬉しい!』の意味がよく分からず、僕は放課後、思い切って保坂に相談した。
瑞樹の話と分かると、彼は「他の人がいない方がいいだろ?」と気遣って、反対の校舎の誰もいない空き教室まで一緒に移動してくれた。
「有江さん、この手紙のこと、何か言ってた?」
「ううん、特には。前に話した通りだよ。冗談でいいから、ラブレター送り合おうって」
「なるほど……ちょっとした謎解きなのかもな」
手紙の文章をじっくりと読む彼の横で、僕は気恥ずかしくなり横を向いて窓の外の景色を眺めていた。
やがて、彼がポツリと呟く。
「この文、変だよね」
「え、何が?」
僕を手招きした彼は、彼女の達筆な文字を指差す。
「例えばさ、『このメッセージの郵送を一緒にしてくれて嬉しいよ』って、なんかまどろっこしくない? 『ラブレターに付き合ってくれて嬉しいよ』とかなら分かるけど」
「確かにちょっと変だね」
「それにここも。『ミステリー小説のトークして』って、普通なら『ミステリー小説の話をして』とかじゃないかなあ」
言われてみると、彼女の文章はときどき変だと思うところが確かにあった。
「……ああ、そうか」
静かに、そして優しく、保坂は口を開いた。
「何か分かったの?」
「ああ、うん。多分、この手紙、"あ段"を抜いてるんだ。だから変な文になってる。今まで来た手紙も、全部そうなってるはずだよ」
「あ段って……あかさたな?」
彼は頷く。手紙を黙読してみると、確かに一つも口が「あ」の形になるものがない。
「そうみたいだけど……それが……?」
保坂は柔らかい表情で、僕をまっすぐに見る。
「手紙に最上段がないんだよ、上段を抜いてるんだ。"冗談抜き"って、ことじゃないかな」
「……あっ」
そこでやっと気付いた。
冗談でいいから、なんて言って気持ちを伝えてくれていたけど、冗談なんかじゃなかった。
彼女はずっと本音を、本当の気持ちを話してくれていた。
「ミステリー好きだったからなあ……こんな仕掛けズルいなあ……気付かなかったなあ……」
いつの間にか保坂が帰った空き教室で、僕はハンカチがグシャグシャになるまで泣いた。
***
「畑佐、何してるの?」
瑞樹がいなくなってから一ヶ月。放課後、クリアファイルに挟んだルーズリーフを眺めていると、保坂から声をかけられた。
「ん、小説のネタ書いたから読み返してた」
「そっか、また書き始めたんだ」
どこか嬉しそうな保坂に、僕も笑って返す。僕のことをずっと応援していくれていた彼女のおかげで、もう一度踏み出そうと思えた。
「あれ、なんか便箋も挟まってる」
「うん、いつか渡す予定の手紙なんだ」
そう言って、彼に見せないようにこっそり開いた。
『瑞樹へ
小説、続けることにするよ。天国で読んでね。
君のことを想っている、誠司より』
本当の気持ちを綴ったから、ずっと手元に持っておくよ。
もちろん、冗談抜きで。
<了>
「あれ?」
放課後、委員会を終えて教室に戻ると、教室の一番後ろで机の中の荷物をバッグに詰めている女子が目にとまった。
「有江、さん……?」
「あ、畑佐君! 久しぶり!」
僕、畑佐誠司の名前を元気に呼んだのは、最近ずっと学校を休んでいた同じクラスの有江瑞樹だった。前に見たときより、ストレートの黒髪は随分伸びていて、すっかり肩を隠している。大きくて優しそうな目に、形の綺麗な鼻、ピンク色の唇。もともと明るい顔立ちだけど、今日はなんだか元気がなさそうに見えた。
「畑佐君、こんな時間にどうしたの? とっくに授業終わってるよね?」
「ん、ああ。今日は委員会だったから」
「あ、そっか。今年も図書委員なんだっけ?」
「うん、そうだよ」
答えながら、西日に目を細める。十月末ともなると、太陽が沈むのが早くて、冬の到来を感じ始める。日がだんだん短くなっていくのを、これからあっという間に高二が終わって受験生に突入するんだぞ、と急かしているように感じた。
「なんか懐かしいね。私も去年は一緒に出てたんだなあ」
「そうそう、放課後に司書の手伝いで貸し出し係とかやったよね」
「あの時、司書の中村さん別の先生に捕まってて、一時間くらい待たされたりしたもんね!」
軽快に話す彼女の笑顔を見るのも、割と久しぶりな気がした。
彼女とは一年生のときから同じクラスだ。僕は純文学・青春・ミステリー、彼女はファンタジー・ミステリーとお互いの読書好きがきっかけですぐに仲良くなり、一緒に図書委員会に所属していた。昼休みや放課後に貸し出し係を持ち回りでやらされる、不定期で蔵書の整理をすることになるなど、やることが結構多くて不人気な委員会だけど、新規貸し出し作を優先的に借りられたりするので本好きな僕たちには恩恵も多かった。
「もう、さ」
不意に彼女は、言いにくいことを訊く準備のように、俺から顔を逸らし、窓の外を見つめる。
「書いてないの?」
「何を?」
「……小説」
「ん、ああ」
彼女の一言に、答えに詰まって口が開きっぱなしになる。そういえば、彼女と親密になった大きなきっかけはそれだった。
高一の夏、小説を書いて投稿サイトに載せていると言ったら、彼女はすごく興味を持ってくれた。ペンネームを教えてほしいとお願いされ、ある日根負けしてこっそり教えると、彼女はその日のうちに投稿している青春長編を最新話まで全部読んで、長文の感想をメッセージに送ってくれた。僕も嬉しくなって、頻繁に更新しては作品の裏話を彼女に教えて、彼女は興味津々で聞いてくれた。だけど。
「最近は、なかなかね」
「そっか、そうだよね」
有江さんはほんの少しだけ残念そうに項垂れた。
何か理由があって筆を折ったわけじゃない。たまたま好きで書き始めて、ちょっと熱中して、たまたま書かなくなっただけ。本当はきっと心のどこかに書きたい気持ちは残ってるのかもしれないけど、日々の勉強もそれなりに大変で、スマホを覗けば面白い漫画や動画が転がっていて、自分で書くより疲れない娯楽があっただけ。
そうして、あんなに仲が良かったのに、去年の冬くらいから更新することもなくなり、彼女と小説の話もしなくなって、なんとなく疎遠になってしまっていた。
「そういえば、有江さんはどうしたの? しばらく休んでたから先生に会いに来たとか?」
「あ、ううん。違うんだ。置き勉してた教科書とか資料集を取りに来たの」
彼女は、大きなトートバッグの中から本を数冊、両手で掴んで持ち上げてみせる。普段使わない英語の文法集や現代社会の教科書が見えた。
「私ね、昨日から入院になったんだ」
「え? 入院?」
突然の驚くような発言に、思わず目を丸くしてしまう。
彼女は一年の後半くらいから体調を崩していたらしく、週に一度くらい通院などで学校を休んでいた。二年生になってからも快復の兆しはなく、むしろ悪化しているのか休む頻度も少しずつ増えていて、文化祭が終わってからここ三週間は全く来ていなかった。自宅療養していると聞いていたけど、入院するまで悪くなっていたなんて。
「ちょっと長引きそうだから、勉強も病院でやろうと思ってさ。まあこんな分厚い文法集なんかやるのかって感じだけど、読んだら面倒になってすぐ眠れそう!」
笑い話で締める彼女の表情はしかし、やっぱりそんなに明るくない。体調が優れないからなのか、気落ちしているからなのかは分からなかった。
「その……僕がどこまで訊いていいのか分からないんだけど……病気、大丈夫なの?」
僕は、これまで遠慮していた質問を思い切ってぶつけてみた。
「うん、教えるのは大丈夫だよ。んっと……心臓があんまり、ね」
「心、臓」
人間にとって一番大事な場所。その単語を聞いた瞬間、彼女が命の危険にさらされているのでは、と一気に不安になってしまう。
その心配は、表情で彼女にも伝わったらしい。有江さんは眉をグッと上げて、無理やり、という表現がピッタリ来るような笑顔を浮かべた。
「うん、きっと大丈夫だから。そんなに心配しないで!」
右手をグーにして掲げる彼女の頷きは、自分自身を励ますための仕草にも見える。
「あーあ、でも学校に来れないの、残念だな。畑佐君もさ、いつどうなるか分からないから、やりたいことやった方がいいよ。あ、別に病気になるって言ってるわけじゃないけどね」
もう一度「残念だなあ」と呟いた彼女に、僕は堪らず、口を開いた。
「あの……有江さんは、やりたいことないの?」
「え……?」
「今からでもできることって、きっとあるでしょ? 後悔してほしくないから。僕にできることなら手伝うし」
勢いで言ったけど、本心だった。本が好きとか、一緒の委員会とか、小説を読んでもらったとか、それだけの繋がりかもしれないけど、せっかく仲良くなったから、自分にできることは全部協力したいと思った。
彼女は右手をアゴに当て、斜め上を見ながら「んー」としばらく考えていたが、やがて名案が降ってきたかのようにニッと笑みを零し、僕に視線を戻す。
「じゃあさ、恋人のつもりで、ラブレター送り合ってみたい!」
「……え?」
予想外の質問にしばしフリーズしてしまう。
「だってさ、私、彼氏いたことないから、ラブレターみたいなの書いたことないんだよね。それに、高校生活の貴重な青春の時期を、病室で寝て過ごすんだよ? 可哀相だと思わない? ね、お願い! 冗談でいいから! ねっ!」
いつの間にか随分と僕の近くに来ていた彼女はパチンと手を合わせて深くお辞儀する。そんなことをやるつもりも、うまく書ける自信も全くなかったけど、手伝うと言ってしまった手前、断るのは難しい。何より、彼女が本当に望んでいるなら、たとえ形だけどラブレターでも協力してあげたかった。
「じゃあ、うん、僕でよければ」
「ホント? やった、ありがとう!」
両手を胸の前に持ってきてガッツポーズを取ると、彼女は「そろそろお母さんのところに戻らなきゃ」と言ってトートバッグを肩に提げる。
「本当に嬉しい! 畑佐君、また連絡するね!」
「うん、待ってるよ」
教室前方のドアを開け、振り向いて一生懸命に手を振る有江さんは、数分前よりずっと元気に見えた。
2
「誠司! なんか手紙が来てるよ!」
「うわわわわわ! ちょ、ちょっと待って!」
下校した後の夕方。一階の階段下から、二階にある僕の部屋まで聞こえるように母親が叫んですぐ、僕は階段を転げ落ちるように降りて行った。リビングのドアをガチャッと開けると、キッチンでマグカップを拭いていた母は布巾を持った手でダイニングテーブルを指す。
「そこに置いたから」
「ありがと、うん、ありがと!」
動転したまま、ひったくるようにそのラムネ色のような淡いブルーの封筒を取って、足早に二階に戻る。なんでもスマホでやりとりしている中で、直筆の手紙、しかも女子が書いた手紙を受け取るというのは想像以上に気恥ずかしかった。
差出人の名前を見る。スマホくらいのサイズの青い封筒に、綺麗な字で名前が書かれていた。
『有江瑞樹』
冗談でもいいからラブレターをやりとりしようと言われてから一週間。メッセージで【封筒、投函したよ!】と書かれてからは、いつ届くのかとドキドキしていた。なんとなくスマホでメッセージを送るだと思っていた僕は、彼女から来た【住所教えて!】という連絡に何のことかきょとんとしてしまったし、その意味が分かったときには沸騰したかのように顔が真っ赤になってしまった。
裏の開け口から開けようとすると、ビリッと嫌な音が聞こえた。僕はこのまま開ける気にならなくて、中の手紙が片方に寄っていることを確認して、封筒の横をハサミで切った。
中から出てきたのは二つ折りになった海の柄の便箋だった。宛名はサインペンで書いてあったけど、手紙の文はボールペンで書いてある。そういえば彼女は文字が上手かった。図書委員のときも、貸出の記録をA4の紙に書いているのを見て「先生より綺麗じゃん」と褒めたのを思い出した。
心臓が高鳴るのを感じながら、本文を読む。
『誠司君へ
元気? こっちも元気……っぽい!
こうして文字で送るって、結構緊張するね。
一日寝てるとしんどいよ。すぐ病気良くして、誠司君と一緒に過ごすの。
返事、すぐ欲しいです!
君を好きでいる、瑞樹より』
短いけど、感情が伝わってくる手紙だった。それに、いつも学校では「畑佐君」なのに手紙では「誠司君」呼びになっていることで、彼女がこのラブレターを如何に本物っぽく書こうとしていたかが分かる。
そして何より、最後の一文にどうしても目が行き、何度も読んでしまう。
『君を好きでいる、瑞樹より』
こんなにストレートに想いを書いてくるなんて。
ジョークだとしても、ただの冗談で「ごっこ遊び」なのだとしても、彼女の想いがぎゅっと詰まったこの文章を見て、僕の心拍数は読む前よりも上がっていた。
「なあ、保坂」
「ん? どした、畑佐」
学校の昼休み。前に座っていた、中学からの親友である保坂に声をかけると、彼はくるっと振り返って微かに微笑んだ。短髪というにはやや長い黒髪をワックスでウニみたいにツンツン立てていて、ぱっと見は近寄りがたい印象も受ける。が、根はとても良いヤツで、情に厚く、口も堅いので、小説を書いていることも話している。そしてテストでは毎回学年トップ5に入る優秀な頭脳で、今回の僕のように相談事を持ちかけるクラスメイトも多かった。
「実は、文通みたいにラブレターを送り合うことになったんだけどさ……」
僕は、両隣に誰もいないのをこれ幸いと、有江さんの名前は伏せて手紙のことを話した。
「……ってことで、向こうからラブレターみたいなものが来たんだよ。もちろん、本気のものじゃないけどね。それで、どんな返事書けばいいかなって。遊びなんだ、って考えるとなんか文面考えるだけで恥ずかしくてさ。ちょっとネタっぽくごまかしちゃってもいいのかな……」
そう言うと、保坂は少し考えこむ。こういうとき、突っ込んで相手の名前など聞かないでいてくれる優しさが嬉しい。
やがて彼は、真面目な表情で軽く首を振った。
「やっぱり、ちゃんと返事書いた方がいいよ。恥ずかしい気持ちも分かるけど、茶化したりしないでさ。相手は真剣に考えて文章書いてきてくれてるんだろ? だったら、遊びだからこそ、しっかり乗っかった方がいいよ。相手にも失礼になっちゃうしね」
「そっか……そうだよね、ありがとう!」
有江さんが一生懸命手紙を書いてくれたのに、僕が適当に返信したらダメだ。そう決心すると、心なしか少し気持ちが軽くなった気がした。
「……よしっ!」
家の机の上に、帰りがけに文房具屋で買ってきたレターセットを広げる。楽器や音符がデザインされた便箋を前にして、気合いを入れるように声を出してから、一文字ずつゆっくりとボールペンで書いていく。
『瑞樹へ
手紙ありがとう。めちゃくちゃ緊張しながら読んだけど、返信を書こうとしている今はそれ以上に緊張してるよ。
いざこうして便箋に向き合うと、何を書いていいか分からないな。読書以外で、瑞樹はどんなことが好きなんだろう。一年半も一緒にいたのに、僕は瑞樹のことをほとんど知らないって気付かされた。
入院生活は大変だと思うけど、頑張ってほしい。治ったら、一緒にカフェに行こう。ゲーセンでもいい。行きたいところ、決めておいて。
君を心配している、誠司より』
書きたいことはまとまっていないし、下書きもしなかったから行の折り返しのところに無理やり字を詰めて汚くなってしまった。でも素直な気持ちは綴れたと思うし、名前呼びもできた。最後の一文は、さすがに瑞樹と同じようなことは書けなかったけど「心配している」と正直に伝えられた。
「……あ、しまった、封しちゃった! 住所書きにくい!」
手紙を封筒に入れて糊付けしてから気付き、後悔しながらも凹凸のある裏面に宛名と住所を書く。慣れない作業一つ一つが、なんだか楽しく感じる。
【投函したよ】
【わっ、ありがとう! 楽しみにしてるね!】
瑞樹にメッセージを送ると、喜んでいる猫のスタンプと共にお礼が返ってきた。今頃病院にいるのだろう。横になってるんだろうか。
彼女が休んでいる間、学校では全然気にかけなかったのに、今はよく彼女の顔を思い出す。そして彼女の言葉も。
『畑佐君もさ、やりたいことやった方がいいよ。』
この一年くらい、ちっとも再開する気になれなかったのに、ほんの少しだけ、小説をまた書きたいと思う自分がいた。
3
それから、彼女との手紙のやりとりは続いた。
僕が送ると、彼女はすぐに返信をくれる。【もう秋だから、手紙も秋バージョンに変えたよ!】と言って、紅葉のデザインされた便箋を送ってきてくれた。
でも、一週間に一度くれていた手紙は、いつの間にか十日に一度になり、二週間に一度になった。汗をかいた顔文字と一緒に【ごめんね、最近寝ちゃうこと多くて。成長期なのかな笑】とジョークっぽい返信で謝ってくれたけど、僕にはむしろそれが不安だった。どんどん体調が悪くなっているのではないか。手紙が満足に書けないほどに。
六通目の手紙が来たのは、年明けのことだった。
『誠司君へ
元気? 自分の方もぼちぼちです。音符の便箋、いつ見ても綺麗!
病院っていつもどんよりしてて気分すっごく滅入る……。
でも昨日、お父さん来てくれてね、色々言えてリフレッシュできて嬉しい!
ところで……誠司君、小説続けてよ。誠司君の文章、全部読むよ。
逃げずに続けてほしい。ずっと応援してる。
君のことを想っている、瑞樹より』
ベッドに横になりながら読んで、そのまま枕に突っ伏す。心臓が、ドッドッとうるさく響く。
こんなにストレートに応援してもらって、気持ちを伝えてもらうと、勘違いしそうになる。
これは「ごっこ遊び」なんだ。瑞樹からそう言ったじゃないか。だから普段と違う呼び方だし、君が好きとか君を想っているとか、たくさん書いてくれるんだ。
でも、そう思えば思うほど、「本当だったら」と余計な仮定をしてしまう。その仮定が「期待」であることを、もう自分自身が隠せずにいた。
『瑞樹へ
紅葉の便箋も綺麗だね。瑞樹の綺麗な字も、何度も読み返したくなるよ。
普段メッセージしたり、こうして手紙送り合ったりしてるけど、学校に行っても君がいなくて寂しくなる。
病院、今日もどんよりしてる?
暗い気分が晴れるか分からないけど、もしよかったらお見舞いに行きたい。
君に会いたいと思っている、誠司より』
手紙の往復を重ねるたびに、気持ちをインクに乗せるたびに、まっすぐな気持ちがペンを通って紙へと流れていくよう。
気付いたきっかけはこのラブレターかもしれない。でも、本当はずっと彼女のことが好きだったんだと思う。自分自身としっかり向き合わなかったから、この感情を置いてけぼりにしていた。小説から目を逸らしたように、日々の忙しさにかまけて、自分の気持ちに目を逸らしてしまっていた。
彼女に会いたい。有江瑞樹に会いたい。
その想いをポストに入れた二日後、彼女から【お待ちしてます!】と病院の地図の画像が送られてきたのだった。
「ここかな……」
一月の上旬の日曜日。普段は映画を観たり洋服を買ったりするために来る、繁華街の駅。そこからバスでそう遠くない距離に、見上げるほど大きな病院があった。こんな場所にいると考えるだけで、彼女の身を案じてしまう。
「あの、入院している有江瑞樹さんのお見舞いに来たんですけど……」
「あ、はい、伺ってます。こちらにご記入ください」
どうやら彼女は僕のことを伝えておいてくれたらしく、簡単な訪問カードを書くだけでスムーズに通してもらえた。
案内された通り、長い廊下を渡って別の棟へ行き、エレベーターで四階へと昇る。「有江瑞樹」というネームプレートを見つけて、久し振りに彼女に会えることに緊張しながらノックする。「はーい」という、イヤに力のない声に呼ばれて引き戸を開けると、彼女は個室のベッドに寝ていた。
「誠司君、久しぶり。来てくれてありがとね」
自然に名前呼びしてくれるのが嬉しい。でも、ゆっくりと起き上がった瑞樹を見て、胸が締め付けられる。「入院生活で間食できないから」なんて理由では説明がつかないほど彼女は痩せ、目の光は失せていた。病気が悪化している中で、それでも笑顔を見せてくれることに、申し訳ないような気持ちになる。
「体調、大丈夫?」
「うん、平気だよ」
ツヤのない髪を気にするように触りながら返事をする。決して平気でないと分かってはいるけど、それでも装って答えてくれる彼女の強がりを大事にしてあげたかった。
不意に彼女は、僕にグッと顔を寄せる。
「ねえねえ、学校の話、聞かせてよ! 何でもいいから」
「え? ああ、うん。昨日、高橋さんが話してたんだけど……」
僕が普段過ごしている場所も、彼女にとっては羨望の場所で。話を聞いているうちに、彼女は次第に目の輝きを取り戻していった。
「いいなあ、私も学校行きたい! 二年生終わるまでには絶対登校する!」
そう言うと、少し疲れたようで、またゆっくりと横になった。
「手紙、返事遅れちゃっててごめんね」
「ううん、気にしなくて大丈夫だから」
眠いのか、時折目を瞑りながら、彼女は続ける。
「誠司君と手紙でやりとりできることになって、すごく嬉しかったんだ。だからさ……冗談でいいから、続けてね」
僕は冗談なんかじゃなかったけど、必死に闘病している今の彼女にそれを伝えることはできなくて。代わりに、右手の小指を彼女に近づける。
「うん、続けるよ。だから、早く学校戻ってきてね」
ちらと僕を見た彼女は、目一杯の笑みを見せながら、小指を出す。
「もちろん。指切りだね」
そうやって約束した。約束したはずだったのに。
瑞樹が亡くなったと担任の先生から聞かされたのは、お見舞いの後、一週間も経たないうちのことだった。
4
「ふう……」
部屋で一人、溜息をつく。
数日前、クラス全員でお葬式に参列し、あっという間に彼女は煙になった。
急すぎて、現実味がなさすぎて、涙も出てこない。辛うじて学校には行っているけど、喪失感が纏わりついて、帰宅するとベッドから動けないでいた。
手紙のやりとりも中途半端なまま、瑞樹はいなくなってしまった。本当の気持ちを聞けないままだった。僕からもっと連絡すれば良かった。
そんな後悔をしていたとき、母親から「手紙だよ」と言って大きな茶封筒を渡された。
中には、見覚えのある紅葉のデザインされた封筒と、二つ折りにした便箋。瑞樹の母親が書いたらしいその手紙には、息を引き取る直前に書いていたものを見つけたから送ります、という内容が記されていた。
封筒を開ける。随分懐かしく感じる彼女の文字を目にする。
『誠司君へ
これでメッセージ終了です。誠司君、このメッセージの郵送を一緒にしてくれて嬉しいよ。
本当に良い思い出!
君のことをずっとずっと好きです。
図書委員の時、一緒に司書をして、ミステリー小説のトークして、その時に恋に落ちて……。
いつも見てるね。小説も応援してる!
君に惚れている瑞樹より
P.S 気付いてくれるともっと嬉しい!』
最後の最後まで、このラブレターごっこを続けてくれたことが嬉しくて。でも、本当の気持ちが聞けなかったことが寂しくて、僕は手紙を読みながら小さく溜息をつく。
そして、あることが引っかかり、僕は翌日、これを学校に持って行くことにした。
***
「これがその手紙? 見てもいいの?」
「うん。保坂なら解けるかなって。その最後の文のこと」
彼女の手紙の最後、『P.S 気付いてくれるともっと嬉しい!』の意味がよく分からず、僕は放課後、思い切って保坂に相談した。
瑞樹の話と分かると、彼は「他の人がいない方がいいだろ?」と気遣って、反対の校舎の誰もいない空き教室まで一緒に移動してくれた。
「有江さん、この手紙のこと、何か言ってた?」
「ううん、特には。前に話した通りだよ。冗談でいいから、ラブレター送り合おうって」
「なるほど……ちょっとした謎解きなのかもな」
手紙の文章をじっくりと読む彼の横で、僕は気恥ずかしくなり横を向いて窓の外の景色を眺めていた。
やがて、彼がポツリと呟く。
「この文、変だよね」
「え、何が?」
僕を手招きした彼は、彼女の達筆な文字を指差す。
「例えばさ、『このメッセージの郵送を一緒にしてくれて嬉しいよ』って、なんかまどろっこしくない? 『ラブレターに付き合ってくれて嬉しいよ』とかなら分かるけど」
「確かにちょっと変だね」
「それにここも。『ミステリー小説のトークして』って、普通なら『ミステリー小説の話をして』とかじゃないかなあ」
言われてみると、彼女の文章はときどき変だと思うところが確かにあった。
「……ああ、そうか」
静かに、そして優しく、保坂は口を開いた。
「何か分かったの?」
「ああ、うん。多分、この手紙、"あ段"を抜いてるんだ。だから変な文になってる。今まで来た手紙も、全部そうなってるはずだよ」
「あ段って……あかさたな?」
彼は頷く。手紙を黙読してみると、確かに一つも口が「あ」の形になるものがない。
「そうみたいだけど……それが……?」
保坂は柔らかい表情で、僕をまっすぐに見る。
「手紙に最上段がないんだよ、上段を抜いてるんだ。"冗談抜き"って、ことじゃないかな」
「……あっ」
そこでやっと気付いた。
冗談でいいから、なんて言って気持ちを伝えてくれていたけど、冗談なんかじゃなかった。
彼女はずっと本音を、本当の気持ちを話してくれていた。
「ミステリー好きだったからなあ……こんな仕掛けズルいなあ……気付かなかったなあ……」
いつの間にか保坂が帰った空き教室で、僕はハンカチがグシャグシャになるまで泣いた。
***
「畑佐、何してるの?」
瑞樹がいなくなってから一ヶ月。放課後、クリアファイルに挟んだルーズリーフを眺めていると、保坂から声をかけられた。
「ん、小説のネタ書いたから読み返してた」
「そっか、また書き始めたんだ」
どこか嬉しそうな保坂に、僕も笑って返す。僕のことをずっと応援していくれていた彼女のおかげで、もう一度踏み出そうと思えた。
「あれ、なんか便箋も挟まってる」
「うん、いつか渡す予定の手紙なんだ」
そう言って、彼に見せないようにこっそり開いた。
『瑞樹へ
小説、続けることにするよ。天国で読んでね。
君のことを想っている、誠司より』
本当の気持ちを綴ったから、ずっと手元に持っておくよ。
もちろん、冗談抜きで。
<了>