私は人殺しの娘である。


 父が人を殺したのは、十七年前、母が私を身籠っていた時の話だ。
 彼は絵に描いたような乱暴者で、おまけに女好きだった。
 水商売の女に夢中になった挙句、女が仕事を辞めないことに腹を立て、殴り殺してしまったのだという。事件の後、父と母は離婚した。
 母には私が残された。
 人殺しの血を引く、私だけが。




 母は赤子の私を育てるために、祖母を頼った。
 祖母は私の世話をしてくれたが、それは愛情ではなく、義務感からだ。
「お前には人殺しの血が流れているんだよ」
 夕暮れが差し込む古ぼけた和室の中央で、祖母は正座した私に命じて、手を差し出させた。
 占師が手相を鑑定するような目で、彼女は私の手首にある線や、手のひらに刻まれた皺をじろじろと眺める。
 だが、実際に彼女が眺めているのは手相ではなく、私の中に流れる血液なのだ。青く浮かぶ血脈を見下ろしながら、祖母は繰り返し、繰り返し、父の話をした。私は忌まわしい子だと繰り返した。
「わたしは、やめておけっていったんだよ」
 祖母は、恨みや後悔が染み込んだ嗄れ声で呟いた。
「あんな男に目を付けられるんなら、学校なんて通わせるんじゃなかった」
 私は黙ったまま、呪詛めいた言葉を肌で受け止めるしかない。
 息さえ押し殺して祖母の不満が薄れるのを俯いて待つ私の頭上目掛け、彼女は吐き捨てた。
「なんて可愛げのない、冷たい子だろう。あんたは父親似だね。あんたさえいなければ、さくらは再婚だって出来たのに」



 さくら。
 春の花の名前に相応しく、母は愛らしい人だった。
。幼い私が、お母さんの名前の方がよかった、桜の方が可愛いから、と戯れに呟いたら、つばきだって春の花よ、私が大好きな花なのよ、と笑った。
 母はよく笑う人だった。まんまるの顔に丸いえくぼがポツっと浮かぶ彼女の笑い方が、私は大好きだった。
 看護師をしている彼女は忙しく、休日もまばらであったが、時間さえあれば私の話を聞きたがった。疲れたとか辛いとか、そんな弱音を彼女から聞いたことはない。
 彼女が私の前で涙を見せたのは一度だけ。祖母が病気で死んだ時だった。
「つばきちゃん」
 祖母の骨壺を抱えて、母ははらはらと涙を流す。
「私たち、二人っきりになっちゃったね……」
 母の背中を撫でている時、清潔に切りそろえられた彼女の髪に生えた白髪の数を、私は無心で数え続ける。
(……三、四、……五)
 母は疲れているのだ。休ませないと、とは思うけれど、祖母がいなくなって悲しい、とは思わない。
 どんな人であっても、自分を育ててくれた人なのに。
 そんな自分は祖母の言う通りの人間なのだ、と思い知る。どんなに否定しようとしてもしきれない。私は、祖母の死を母のようには悲しめない。可愛げがなくて、冷たい人間だから。優しい母の血が半分は流れているはずなのに、もう半分の血が邪魔をする。
 言葉に出来ない不安を誤魔化すように、私は私よりも小柄な母の身体を抱きしめる。
 彼女はふくよかで、温かだ。そして無条件に私を頼ってくれていた。
 泣いている母を抱きしめていると、頼られているはずの私の方が彼女に受け入れてもらえているような気がした。高いところから低いところに水が流れるように、彼女の方から私へと人間らしい温かみが流れ込んでこないものかと夢想する。
「ねえ、つばきちゃん。私たちは、ずっと一緒にいようね。ずっと家族だよ」
「……母さんは、私でいいの?」
 小さく尋ねると、母は驚いたように目を見開いた。喪失の涙で濡れた頬に浮かぶえくぼはいつもよりも薄い。掠れた声で、
「当たり前でしょ」
 と答える直前、彼女はなにかの言葉を飲み込んだように見えた。心に浮かんだ言葉があって、でもそれを声にするかどうかは迷っている。ちょうどそんな風だった。
 私はその彼女の躊躇を、得られるはずだった彼女の安寧、私などの母にならずに済んだ人生を羨んだからだと思った。実際彼女に残されたのは、出来損ないの感情しかもたない私だけで、でもそんな現実を受け止められるほどに、彼女は強い女性なのだと。
「……ごめんね」
 私が小さく謝ると、母は首を横に振った。また流れ出した涙が左右に散って、きらきらと小さなプリズムを作り出す。それにずっと見とれていたかった。




 私は母に不幸しか与えられないかもしれない。
 この体に流れる人殺しの血が、いつかとんでもないことをしでかすのかもしれない。
 いつでも巨大な影に追いかけられているような焦りが、私に感情のハンドルを握り締める方法を教えた。怒りと執念を避け、理性のことを考える。
 自然、私は勉強にいそしむことになった。私の成績が上がると、母は無邪気に喜んだ。
「つばきちゃん、また百点とったのね、すごいわ」
 両手を合わせて褒めてくれる彼女は、私が中学生になろうと、高校生になろうと、答案の点数の横に花丸を書き添えてくれた。その素朴な花のマークを見るたびに、私は安心した。
 このまま、正しい道を歩んでいけると思った。
 母さえいてくれれば、私は大丈夫だ。
 もしかしたら母には、もっと幸せな人生があったのかもしれない。いや、あったのだろう。こんなにも優しい人に相応しい人生が、人殺しの子供を産むだけのものであったわけがない。
 でも、私を生んで悪くなかったと、最後にはそう言ってもらえるような人生を歩んでみせる。私は人を傷つけたりすることなく、将来はちゃんとした職業に就く。そして、母に良い暮らしをさせてあげるのだ。
 その私の希望と決意は、ある日、突然崩壊する。
 母が突然、交通事故で亡くなったのだ。






 祖母の時、母が何をしていたかを隣でみていたから、私は「年齢の割にしっかりしている」と周囲を驚かせるくらいには落ち着いて振舞うことが出来た。死亡診断書の受け取り。死亡届の提出。それから葬儀の手続き。
 だが、心は空虚だった。この時の私は、ロボットと何も変わらなかった。
 母は私に残された家族で、一番の友達で、唯一の希望だった。
 母の喜ぶ顔が見たい。
 その一心で、善良に、正しく生きようと思えてきたのに。
 その母を失っては、もう何もする気力が湧かない。
 毎日毎夜、いつか自分も人を殺すのかもしれないと怯えて生きるよりは、いっそその前に死んでしまおうか。
 そんなことを思い始めながら、母の遺品を整理していた時見つけたのが、「つばきちゃんへ」と書かれた薄いピンク色の封筒をだった。宛名の隣には、「私に何かがあった時に開けてください!」と、母のものだと一目でわかる丸っこい文字で書き添えてある。
「………」
 何かがあった時、と言えば、今しかないだろう。
 私は封筒を開けて、中から便箋を取り出した。


***

 つばきちゃんへ。
 最近、ウイルスのせいで、ご家族にお会いできずに亡くなる患者さんが多いです。
 私もしっかり感染対策はしているけれど、もし、いつ同じ境遇になったら、と思うと怖くなりました。
 なので、こうやって、私にいつなにがあってもいいように、つばきちゃんにお手紙を書いておくことにします。

***

 私はさらに文面を目で追った。その後は、銀行口座や保険の情報、家の中に隠してある現金の場所など、かなり具体的な内容が続く。私に生きる気があるのなら役に立つ情報だっただろう。だが今の私には、母の残した文字に懐かしみを感じるだけだ。
 そういう相続に関連する情報が終わると、母から私への個人的なメッセージが始まった。
 彼女が私をどんなに愛しているか、誇りに思っているか、幸せだったか。
 切々と訴えてくる彼女の表情が文字の向こうから見えるようだ。
 愛されているのだという実感が脳を揺らして、なのに血を凍えさせる。
 私はこんなふうに愛されるべきではない。彼女以外には。
 だから、彼女を失ったのなら、ここで終わらせるべきなのではないか。
 そう確信する直前、最後の便箋にたどり着いた。

***

 つばきちゃんは、私が人生で一番好きになった人との、大事な娘です。
 もし、私になにかあったら、春木さんを頼ってみてください。
 この封筒の中に、鍵をいれておきました。それを渡してみてください。
 でも、もしも追い出されてしまっても、春木さんたちを恨まないでください。
 つばきちゃんは、私の自慢の娘です。何があっても、それを忘れないでね。
 生まれてきてくれて、本当にありがとう。大好き。 藤原さくら

***

「………?」
 唐突に出てきた春木という名字に覚えがなかった。
 母がその名を出したことも一回もなかったと思う。
 封筒の底をのぞき込むと、確かに小さな鍵が入っている。私の中指の爪くらいの大きさで、頭部に丸い穴が空いている。何の変哲もない鍵だ。
 便箋の最下部に書いてある春木家の住所にも、当然行った覚えはない。
 ただ、心当たりがあるといえばあって、そこは父が犯した罪のせいで離れざるをえなかったという、母の故郷だった。


***



 母の言う通り、春木家に鍵を届けるかどうか。
 数日迷ったが、何らかの理由で鍵を春木家の誰かから預かった母が、父の起こした事件のせいで返せなかったのを心残りに思っていたのかもしれない、と考えた私は、デパートで買った菓子折りを持って、休日、春木家に向かった。
 もし誰もいなかったらいなかったで、縁がなかっただけだ。やれるだけはやった、と諦めればいい。どうせすることもないわけだし、という半ばやけっぱちな気持ちで、地図アプリを片手に目的地までたどり着く。表札の春木という文字を確認したと、私は堂々たる門構えを見上げた。
「…………」
 周囲の他の家と比べても明らかに大きな、立派な家、いや、お屋敷だ。閉ざされた扉越しに見える和風の庭はきちんと手入れされていて、豊かな暮らしぶりが垣間見られた。
 なるほど、これはきっと地域の名士というやつで、母がお世話になった人に違いない。
 私はそう思い、せめて恥をかかないように声の調子を整えてから、意を決してチャイムを鳴らした。
「………はい」
 十秒ほど待つと、特に警戒心のない男性の声がインターホンから響いた。
「突然申し訳ありません。藤原さくらの娘の、藤原つばきと申します。先日亡くなりました母が、生前大変お世話になっていたとのことで、ご挨拶に伺うよう遺言がありましたので、参りました」
 緊張で少し早口になってしまったが、考えていた通りのことが言えたと思う。
 ふう、と息を継ぐ。相手の反応を伺っていると、
「ふ……藤原さくらさんの娘さん? え? ちょ……ちょっと待って!」
 私の返事を待てないほど慌てた声と共に、通話が切れる。
(……歓迎、されている……? のかな?)
 少なくとも、追い返されるという感じではなさそうだ。大人しくその場で待っていると、がらがらがらっと勢いよく引き戸が開いて、中から男の人が飛び出してきた。
「あ……」
「………」
 白いシャツと、きちんと分けた茶色の髪。年は二十代半ばか、三十代前半。どこか不安の色をたたえた目で私を捉えつつ、私に微笑みかける。
「えーっと……あなたが、あのー……」
「……藤原つばきです。はじめまして」
 私は深々とお辞儀をした。
「あー、そっか。あー……うん。うん、なるほどね。うん」
 彼は私の顔を瞬きもせずに見つめ、落ち着きのない仕草で髪を掻き上げると、私を家の中に招いてくれた。
「とりあえず、立ち話もなんだから、上がってください」
「……はい、お邪魔します」
 私は緊張を押し隠して頷いた。



「とりあえず、ここで座って待っててくれる?」
 言うなり、男性は廊下の奥に姿を消してしまった。畳の客間に一人残された私は、紫檀色のローテーブルの周囲に点在する赤いふかふかの座布団に腰を下ろす。
 男性を待っている間、私は不躾でない程度に部屋の中を見回した。障子越しに部屋に差し込む淡い光の作りだす輪郭のぼんやりした陰影。部屋の奥には段差が作られた空間があり、そこには水墨画と日本人形が品よく置かれている。さらにその隣で存在感を放っているのは黒檀の仏壇だ。最近は、母と祖母の仏壇を掃除するのが日課だったので、私の意識は仏壇に向かった。家にあるのより数倍大きな、立派な代物である。写真立ての中で、十五、六の少年が微笑んでいる。
「………」
「ごめんね、お待たせ。緑茶しかなくて……」
 温かな緑茶を持って、男性が戻って来た。私は落ち着いて聞こえるように注意した声で、
「お構いなく……」
 と言った。すると、彼は私を憐れんだようだった。
 年の割にしっかりしている、と言われることの多い私を、そういう風に見る人間は多い。頼ることを知らないんだね。弱さを見せたくないんだね。もっと楽にしていいよ。彼らは言葉ではなく眼差しで、そう語ってくる。でも私は、頼ることを知らないんじゃない。弱さを見せたくないんじゃない。母に頼られるくらい、母を守れるくらい、強い人間になりたかっただけだ。
「……あの、これ、つまらないものですが」
 持ってきたお菓子をそっと差し出すと、男性は
「ああ、ありがとう。嬉しいです」
 と礼儀正しく言って、お菓子を受け取った。
「えーっと……つばきさん、だよね。今、何歳?」
「今年で十七になります」
 私は静かに答えた。
「ああ、そっか、そうだよね。えーっと、僕はね、今年で二十九なんだ。だからちょうど一回り年が違うのかな。ハハ……。干支は同じだねえ」
「………」
 彼は終始にこやかな雰囲気で、私を警戒させまいと気づかってくる。
 私も彼の努力に精いっぱい報いるために、口の端を持ち上げて見せた。笑うのは苦手なのだが、それっぽく見えればいい、という願いを込めて。
「えーっと……あ、ごめん、まだ名乗ってなかったね。僕は春木浩二っていいます」
 私は軽く頷いて見せた。
「それで、……さくらさん、……お母さんは、お亡くなりに……?」
「はい。……交通事故でした」
 母の死を告げる時、何度も覚悟してきたことだったのに、私は唇を噛みしめなければならなかった。私の心にぽっかり空いた、母の永久の不在という耐えがたい穴を隠すように、そっと膝の上で手を組み合わせる。
「それは……その、何と言っていいか……お悔やみ申し上げます」
「恐縮です」
 私は教科書通りの言葉を紡いだ。こういうとき、こういう風にふるまわなければならない、と決まっているのは安心する。それを学習して繰り返すことで、人は安定できる。マナーとか風習というものの重要さを身に染みて体験しながら、私はここに来た目的を果たさなければならないと思った。
「それで、……母が、こちらをお返しするように、と」
 私は母が残した鍵を、そっとテーブルの上に載せた。
「なんのことだろう、と思われるでしょうが、……それで母の気が晴れるかと思いますので、どうかお受け取りいただければと、思います……」
 深々と頭を下げると、優しい声が私を包んだ。
「ああ、……頭をあげて」
「………」
 促されて頭をあげると、困った大型犬みたいな笑みが振舞われる。
 浩二さんは私が差し出した鍵を受け取ると、うん、と小さく頷いてから言った。
「あのー、つまり、つばきさんは、どうしてお母さんがここに来るように言ったのか、聞いてないんだね?」
「はい」
 私は素直に頷いた。浩二さんは立ち上がると、仏壇の方に向かった。
「………?」
 彼は仏壇の正面に跪き、下部の引き出しから、何かを取り出して戻ってくる。
 それはファスナーのついた、平べったいポーチだった。両開き用に二つついたファスナーの穴を通して、南京錠がかかっている。鍵がないと開けられないようになっているのだ。
「………」
 まさか、と思っていると、浩二さんは私が持ってきた鍵を南京錠の穴にあてた。差し込み、回す。かちり、という音がして、私の目の前で錠前が外れる。
 謎めいた鍵の使い方がすぐにわかると思わなくて、私が唖然としていると、浩二さんはそのポーチの中から一冊のノートを取り出した。普通の大学ノートだ。タイトルは、日記と書いてある。
 浩二さんは手のひらをつかって暖めるみたいに、そのノートの表紙を一撫でした。それから、自分では一度も開くことなく、そのノートを私の目の前に押し出す。
「読んでみて」
「え……」
「それを読んだら、わかると思うよ。どうしてお母さんがここに来るように言ったのか」
「………」
 私は息を飲み込んで、ノートを開いた。




***

 十月七日。晴。
 午前中、コンラッドの闇の奥、読了。夕方、父来る。本の感想を聞かれたので、悪くはないがもっと無惨な死に方があるものが読みたいとリクエストしておいた。僕よりも若い人間が、僕よりも惨めに死ぬ話が読みたい。


 十月九日、雨。
 今日は多少体が動くので、室内を歩き回る。看護師が飛んできて安静にしてくださいという。あいつらの言う通り大人しくしていたところで、大して寿命が延びるわけでもないのに。


 十月二十三日、晴。
 昨日の夜中はやけに苦しくて、記憶がない。起きたら枕元で母が泣いていた。まだ息苦しい。これ以上苦しむくらいなら直ぐ死にたいと言ったら、母だけでなく、傍にいた看護師も泣いた。僕みたいな回復の見込みのない患者を看取るのも仕事だろう、と呆れる。


 十月二十六日、晴。
 めまいがひどく、起き上がれない。本を捲るのも無理だ。目が掠れる、と言ったら、浩二がラジオを持って来た。浩二は馬鹿だ。退院したら家族四人で遊園地に行こう等と言うが、僕はじきに死ぬから三人で行け、と言ってやった。


 十月二十七日、曇。
 今日は一日だるかった。


 十月二十九日、晴。
 看護師が来て、まだ死にたいのかと言う。もちろんだと尋ねたらやはり泣いた。彼女のいうことはよくわからない。ずっと彼女のことを看護師さん看護師さんと呼んでいたが、本当は准看護師なのだと訂正された。その後、色々と話しをしたが覚えていない。彼女はよく笑う人だ。笑顔なんて久しぶりに見たな。


 十月三十日、晴。
 昨日の看護師が、私服で来た。今日は非番なのに、僕と話しに来たそうだ。直ぐ死ぬ患者に思い入れると辛くなるぞ、と意地悪で言ってやったが、泣かなかった。僕がそんなことをいうのはお見通しだったらしい。彼女は病室の窓を開けて空気を入れ替えてくれた。好きな食べ物やら、好きな本やらを尋ねてくる。何故そんなことを聞くかと問えば、わからないけれど、僕が元気になることばかり考えている、と言った。説明になっていない。僕があなたの好きに話していていいと言ったら、本当に二時間喋りっぱなしだった。随分お喋りなようだ。


 十一月三日、雨。
 今更だが彼女の名前を聞く。富田さくらというらしい。今年准看護師の資格をとってそのまま就職したから、まだ十八。僕は十五だから、三つしか変わらない。それなのにもう結婚をしているそうだ。夫は中学のころから付き合っている人だという。それはともかく、立派に働いている彼女と比べ、僕は本当に芋虫みたいなものだ。いや、芋虫ならいずれ蝶になるだろうが、僕はこのまま腐っていくしかない。改めて、僕は僕を呪う。

 
 十一月五日、晴。
 今日しみじみと思ったのだが、富田さんは注射が下手だ。いくらでも僕の腕で練習していいと言ったら、自分を実験台みたいに粗末に言わないで、と咎められた。僕は少しでも富田さんの力になれればいいと思っただけなのに。


 十一月八日、曇。
 最悪だ。体調が悪くて寝ている間に、富田さんが来てくれて、でも話すことが出来なかった。今、これを夜に書いている。僕の身体がもう少しだけでもしっかり働いてくれればいいのに。浩二も昼間、来ていたらしい。


 十一月十五日、晴。
 横になっている間、ずっと耳を澄ませている。廊下を行きかう人の影を、曇りガラス越しに見つめている。僕はもう、富田さんの足音がわかる気がする。目がかすんで、本を読むことが出来る時間が短くなってきた。そういう時はラジオを聞いているふりをして、ずっと富田さんのことを考えている。彼女の声は、どんな痛み止めよりも効果がある。


 十一月十八日、晴。
 今日も、彼女が俺の病室に来てくれた。彼女はいつも通り楽しそうにお喋りをしてくれたが、その腕に痣があるのに気づいた。棚にぶつけたと言うけれど、そんなはずがない。僕には嘘を吐かないで欲しいと問い詰めたら、本当のことを教えてくれた。夫が暴力をふるうらしい。
 何故そんな男と結婚したかと言えば、中学生の彼女に無理やり言い寄って、付き合わないと彼女の周りにまで危害を加えるといって脅されたかららしい。そんな男の名字で彼女を呼ぶのは嫌だといったら、彼女は旧姓を教えてくれた。藤原というのだそうだ。でも許されるなら名前で呼びたい、と頼んだら、彼女は笑顔で許してくれた。だから今日からは彼女のことをさくらさんと呼ぶ。彼女は、僕が知る限り最も善良な人だ。こんな彼女に手を挙げる男の気持ちが知れない。かわいそうな話だ。いや、そうじゃない。このノートで嘘は書かない。僕が生きていたという証なんだから。

 そうだ、僕は彼女を愛している。
 余命幾ばくもない、子供の僕が、誰かを愛しているというなんて、ばかげた話だろうか。
 でも僕は、彼女の笑顔を独り占めしたい。
 彼女の幸せは、僕のかたちをしていてほしい。
 僕の幸せが、彼女によって形作られたように。
 世間から見れば、死に体の僕よりは、まだ彼女の夫の方がマシなのだとしても。

 多分、本物の桜が咲く前に、僕は死ぬだろう。
 それでも、僕は何かを彼女に残したい。
 命さえ失いかけている僕は、彼女に何も渡すことができない。
 だからせめて、僕と結婚してほしいと伝えるつもりだ。
 既婚者なのはわかってる。でも、そんな男の名字を受け取るくらいなら、春木と名乗って欲しい。
 僕は彼女を愛している。
 僕の短い人生の中で、他に愛すべきものをもたなかったと、そう断言できるほどに。
 そのことを、ずっと覚えていてほしい。



***


 私はノートを置いて顔を上げた。
 机の上で指を組み合わせ、浩二さんが私をじっと見つめている。
「兄貴は、君のお母さんを愛していた。見ていてすぐわかるくらいに」
 浩二さんは、ぽつりと言った。
「でも僕は、兄は片思いだったんだと思っていたよ。……つばきさん、君を見るまで」
「………」
「兄貴が、君のお母さんにプロポーズするのを僕は聞いていたんだ。兄貴に会いに行った時、……兄貴が君のお母さんに、……春木を名乗って欲しいと言っていた。最後まで聞くのは兄貴を傷つけるだろうと思ったから、その日は声をかけずに直ぐに帰ったんだけど」
 浩二さんは立ち上がり、仏壇からお兄さんの写真を持って戻って来た。ノートに並べて置かれたそれを、私はじっと見つめた。近くで見るその写真は、一瞬鏡を見ているのかと思うらい私によく似ている。
「……君のお母さんは、兄貴の願いを叶えてくれたんだね。生まれた君に、……いつか消えてしまうかもしれない名字じゃなくて、……変わらない名前の方に、春木の名をつけてくれたんだ」
 つばき。
 漢字で書くと、椿。

――――つばきちゃんは、私が人生で一番好きになった人との、大事な娘です。

 不意に母の残した手紙の一節が脳裏に思い浮かぶ。

(………ああ)

 私は、人殺しの娘なんかじゃなかった。
 母は私を暴力と支配の末に産み、義務感で育てたわけではなかった。
 私は、真実愛し合った男女の子どもだったのだ。

 私がノートと写真立てを持った俯くと、浩二さん、私の叔父さんは、私の気の済むまでそうさせてくれた。
 写真立ての中で笑う若い父の姿が白くぼやけていく。病でやつれた顔はそれでも幸せそうで、誰が撮ったのか、聞かなくてもわかる気がした。