一
眩しい光が徐々に収まっていった。
光の中から森の樹々が姿を現し始める。
樹々の間に少年が立っていた。
顔を背けて腕で光を遮り、目をきつく閉じていた。
膝までの長さの飾り気のない白い聖衣が風に揺れている。
ベルトには鳥の模様が彫られていた。
アスラル教の神官の紋章である。
レラスにあるアスラル神殿の中で最年少の下級神官であるカイルだった。
下級とは言えまだ十五歳にも関わらず既に神官であるというのはかなり若い。
普通、神官候補生から下級神官になれるのは早くても二十代だ。
魔物を退治した。
倒すことが出来た。
死霊だから除霊しただけ、と言うのは取り敢えずおいておこう。
安堵の溜息を吐いた時、辺りに鐘の音が鳴り響いた。
地響きを思わせる低い音が樹々を震わせ周囲に木霊する。
カイルは驚いて辺りを見回した。
ここは山の中だ。
鐘など近くにはない。
見ると、とっくに消えているはずの光が球体になってカイルの目の前に浮かんでいた。
鐘の音は光の中から聞こえてくる。
カイルは思わずその球体を凝視した。
光の中から鐘の音と共に声が響いてくる。
『……を指し示した。
其は七つの封印を施された神と約束の子との契約の証。
約束の子が作り出した白い光が闇のように辺りを覆い隠す時、封印は解かれ……』
低く、それでいてよく通る声。
「これは……教典?」
魔物が教典を?
そんなはずは……。
『……と共に目覚めの鐘が鳴り響き、封印は永き眠りより解き放たれる。
今、此処に神と約束の子との契約の序次が始まる……』
「違う、みたいだけど……」
教典に載っている文章とは少し食い違いがある。
魔物の言葉が終わり光も消えた。
一体なんだったんだろう。
ただの魔物じゃなかったのか?
不安を拭いきれないものの時間も気になる。
カイルは踵を返すと麓の村へと向かった。
カイルは足早に山を下っていった。
勝手な行動を取ったことでラースに叱られるかもしれない。
けどアリシアはきっと喜んでくれるはずだ。
アリシアというのはこの山の麓にあるヘメラ村の薬師の見習いである。今年十七歳になった。
綺麗な容姿にも関わらず気さくな性格のため皆から好かれている。
ヘメラ村は山に囲まれた盆地にある。
全戸併せて五十戸あるかないだ。
どの家も板の壁に漆喰を塗った板葺きの屋根の単純な作りである。
屋根の上には温度対策のため枯れ草を載せていた。
簡素な作りの家が集まっている向こうに畑や果樹園が見える。
この村には薬師しかいない。
そのため薬師の手に負えない病人やケガ人がいる時はレラスの神殿に神官の派遣を要請している。
薬師で対処出来ないような者は下級神官でも治せない重症者が多い。
だから本来ならこの手の訪問に下級神官が同行することはないのだがカイルだけは別だった。
異例の若さと特別扱い。
カイルに対する他の神官の風当たりは強かった。
意地悪をされたりするわけではない。
しかし親しくしてくれる者もいない。
影口を言われているのも知っている。
神官同士の楽しそうなお喋りもカイルには縁がない。
普段、声を掛けてくれるのは上級神官のラースとガブリエラくらいだ。
上級神官を神聖名ではなく名前で呼ぶ。
本来なら上級神官同士でなければ許されない事を許されているのもカイルが妬まれる原因の一つだ。
ただラースとガブリエラは上司であって友達ではない。
唯一友達と言える相手がアリシアだった。
アリシアはいつも優しい。
ラースやガブリエラは忙しいから雑談はほとんど出来ない。
お喋りが出来るのはアリシアくらいなのだ。
村へ来るといつも帰る前にお茶を入れてくれて美味しい手作りお菓子も出してくれる。
そして二人で他愛ないお喋りをする。
ここへは要請があった時しか来られない。
病人やケガ人が出るのを願うのは良くないことなのだが、それでもこの村で神官が必要になれば良いのに、と、つい思ってしまう。
この村へくるのがカイルの唯一の楽しみなのだ。
二
「お兄さんが?」
問い返したカイルにアリシアが目に涙を浮かべて頷く。
治療を終えた後、カイルはアリシアの家でお茶を飲んでいた。
アリシアにいつものような元気がないので尋ねてみると、兄が魔物に殺されたと告げられたのだ。
なんと言って慰めればいいのか分からなかった。
アリシアは父親と友達も魔物に殺されたと聞いている。
魔物は全くいなくなる事もないが、どこにでもいるというわけでもない。
たまに現れても大抵はすぐに誰かが退治してしまうから滅多に出会す事は無い。
だが、この村の近くに住む魔物は大昔から退治されないままだった。
いる事は分かっているのに何故か退治されていないのだ。
「父さんもあいつに殺されて今度は兄さんまで……あんなヤツ、いなくなっちゃえばいいのに!」
アリシアが顔を覆って泣き始めると母親が飛んできた。
「アリシア……すみませんね、見苦しいところをお見せしてしまいまして……」
「いえ……」
「ほら、アリシア。あっちへ行って顔を洗ってきなさい」
アリシアは母親に追い立てられるようにしてい部屋を出ていった。
その場に一人取り残されたカイルはアリシアの家を出た。
そして誰にも内緒で山へ来たのだ。
なんとか魔物を退治することが出来た。それも一人で。
早くアリシアに報告したい。
逸る気持ちに山を下るカイルの足は次第に速くなっていった。
山を下りきった時には駆け足になっていた。
村の入口でアリシアの姿を見付けると、
「アリシア!」
カイルは頬を上気させて駆け寄った。
「カイル! どこに行ってたの? 心配したのよ」
「ごめん。山へ行ってたんだ」
「山? 魔物がいて危ないのに……」
「そいつを倒しに行ってきたんだ」
「倒しにって……退治しちゃったの!?」
「うん!」
「なんて事するのよ!」
いきなり怒鳴りつけられたカイルは面食らった。
「アリシアが、あんな奴いなくなればって……」
カイルは狼狽えながら答えた。
「あたしはそんなこと頼んでないわ!」
「でも……」
「あれはこの村の守り神なのよ!」
「え……?」
「あたしが頼んだわけじゃないんだから……あたしのせいにしないでよ!」
アリシアはそれだけ言うと逃げるように駆けていってしまった。
嫌悪と恐怖の表情を浮かべ、カイルの方が魔物であるかのようなアリシアの眼差し。
とんでもない事をしてしまったのか?
怖くてその場から動けなかった。
またラースに迷惑を掛けてしまったのだろうか。
ラースにも愛想を尽かされてしまうかもしれない。
もしかしたら今度こそ……。
「カイル」
不意に背後からラースの声がした。
カイルは振り向くと恐る恐るラースを見上げた。
落ち着いた静かな物腰と、貴族の出身ではないかと思わせるような気品のある整った顔立ち。
ラースは優しい面差しの青年で穏やかな性格のため神殿中の神官達から慕われている。
カイルは子供の頃、ラースに命を救われた。
そしてラースが上級神官をしていたレラスの神殿に引き取られて神官見習いになった。
カイルは神官見習いになるための条件を満たしていないから本来なら神殿内の施設で育てられるところなのだが特例として神官見習いにしてもらうことが出来た。
おそらくラースが手を打ってくれたのだろう。
ラースに恩返しをしたい。
役に立ちたい。
認めてもらいたい。
その一心で必死に魔法の修行をしてきて、ようやく下級神官になれたのだが……。
「どうした? 急にいなくなるから……」
「ラース……」
カイルは俯いて拳を握った。
それから覚悟を決めて顔を上げるとラースに事情を話した。
「そうか」
ラースは落ち着き払ったまま頷いた。
「そいつは何か言わなかったか?」
その問いにカイルは動揺を隠せなかった。
唇が震え思わず眼を伏せてしまう。
ラースはカイルの肩に優しく手を置いた。
「分かった。もういい、帰ろう」
ラースはそう言うと歩き出した。
カイルが歩いていると突如こめかみに衝撃を受けてよろめいた。
ラースは、すかさずカイルを支えると辺りに視線を走らせた。
カイルが地面に目を落とすと赤い染みの付いた石が落ちていた。
こめかみの辺りが疼き生暖かいものが頬を伝って滴り落ちた。
敵意を向けられるのはこれが初めてではない。
傷の痛みには耐えられる。
けれど胸の痛みには慣れる事が出来なかった。
ヘメラは山間の盆地にあるため、どこへ行くにも一旦山を登らなければならない。
人の出入りが少ないので街道までは獣道ではないかと思えるほど道幅が狭いところを通る。
道を覆い隠すように小枝が張り出している。
神殿へ帰り着く頃にはいつも髪には葉が絡まり、顔は擦り傷だらけ、外套は緑の染みや鉤裂きが出来ていた。
「僕、いけない事しちゃったんですか?」
カイルは思い切って訊ねた。
「我々があいつを放置していたのは何もアスラル教の教えがあるからじゃないんだ」
ラースが落ち着いた声で答えた。
アスラル教では生き物はすべて平等である。
猫が鼠を食べ、人間が動物の肉を食べるのが悪い事でないのと同様に魔物が人を食べるのも悪い事とは見做さない。
ただし牛が狼に抵抗して返り討ちにする事があるように、人間も大人しく魔物にやられる必要はない。
食べるのと同じように反撃も認められているのだ。
だから退治は禁止されていない。
依頼があれば神官が退治に出向く。
そもそもアスラル教はいくつもある宗教のうちの一つでしかない。
他所の宗教の信者や無神論者がアスラル教の教えに従う必要はない。
これはあくまでアスラル教団内での話だ。
「あの村では、あいつが人を食うのを黙認する代わりに毎年豊作にしてもらってた。それで退治させてもらえなかったんだ」
「じゃあ、やっぱり退治しちゃいけなかったんですか?」
「人の命と引き替えに豊作にしてもらうのは正しい事か?」
「神に祈願する時も捧げ物をしますけど……」
「それは自分の財産だ。あの村の人間が襲われるのは他所者が犠牲にならなかった年だけなんだ。村の人間は魔物がいる場所には近寄らないから」
「…………」
「過去には親切や腕試しで退治しに行った者達がいたんだ」
「それなら、なんで……」
カイルが神官になれたのは事情があったからで魔物退治に関しては下級神官どころか神官見習いにすら及ばない。
カイルに倒せるものに負けるような弱い者が退治に行くとは思えない。
「村に魔物の場所を聞きに行ったとき薬を盛られたりして妨害されたらしい。全員あれの餌にされた」
ラースの厳しい表情が、あの村のやり方を快く思っていない事を物語っていた。
ラースがいつもあの村に行くのを渋っていたのはこういう理由だったようだ。
「済んだ事を気にする必要はない」
ラースは穏やかにそう言った。
三
山を越え、道が緩やかになる頃、周りの樹々はまばらになり鳥の声も山とは違う種類のものに変わる。
視界が開け、地平線まで続く草の海が風にそよぐ。
山脈の麓にあるレラスのアスラル神殿は新緑の森を背景に白く輝いていた。
かなり大きな建物なのだが周囲にほとんど木が生えていないのと、空と接するほど高くて東西にどこまでも続く壮麗な山脈の前では小さく見える。
建物自体は大きいが教義で質素を旨としているため造りは簡素だ。
それでも白亜造りの太い柱や高い天井には堂々とした威厳があった。
一歩間違えれば味もそっけもなくなりそうなところを柱や壁の彫刻や壁画が救っている。
これらは神に祈願したい事はあるが捧げるものがない、という芸術家の手になるものが多い。
だから彫刻や壁画などの様式は様々で統一性がない。
彫刻や壁画の維持管理や修復なども捧げ物がないという者がやっていた。
祈願のために奉納した物を受け取るのは神であって教団ではないから金である必要はないのだ。
正面を入ってすぐの広間が祭壇のある祈祷所である。
誰でも出入り自由だ。
祈願の儀式も神官抜きでやりたければ勝手にやれる。
なんなら異教徒が使っても文句は言わない。
神官に対する規律は厳しいが、神官以外の者に対しては信者だろうが異教徒だろうが完全な不干渉を貫いていた。
神官達は祭壇の奥にある通路の先にある居住区に住んでいる。
神殿の内部の静寂を秘めた冷気がここは神聖な場所であることを告げていた。
一ヶ月後、カイルは上級神官になっていた。
アスラル教の神官というのは魔法で人を助けられる人間しかなれない。
そのため上の階級に上がるには昇格試験を受ける必要があるし途中を飛ばして上級になる事も出来ない。
ところがカイルは本来受けるべき試験を受けないまま上級になっていた。
本来なら中級で学ぶべき事を学んでいない。
その為、中級神官の分と上級神官の勉強をまとめてやっていた。
勉強は仕事の合間にやらなければならない。
仕事といっても下級神官を指導する事は出来ないが。
いくら神官とはいえ子供の指導を素直に聞けるほど人間が出来ている者は少ないからだ。
その日、カイルはラースやガブリエラと共に上級神官の執務室にいた。
ガブリエラは長く伸ばした栗色の巻き毛を一つに結んで背中に垂らしている。
優しげで整った顔立ちの女性だ。
いつも落ち着いていて優美なので皆から好意を持たれている。
ラースやガブリエラもカイル同様、上級神官としては異例の若さだった。
もちろんカイルと違って実力は伴っているが。
執務室は大して広くない上に壁のほとんどを本棚が占拠して上級神官用の図書室と化していた。
以前は飾り気のない殺風景な部屋だったらしい。
本棚以外には実用一点張りのテーブルくらいしかなかった。
貴重な書物が置いてあるからという理由で飲食はおろか、水の入った花瓶を置く事すら禁止されている。
だがガブリエラは扉に花瓶を取り付けさせ乾燥した花を飾っていた。
木製の固く座り心地の悪い椅子にもガブリエラが造った可愛い刺繍が施された敷物が置かれている。
ラースは苦笑しただけで何も言わなかったそうだが他の二人の上級神官は明らかに居心地悪そうだった。
元々この部屋に来る事の少なかった神殿長は全く来なくなったらしい。
ガブリエラはテーブルにも可愛い模様の布を掛けようとしたがラース以外の上級神官達の反対にあって断念したそうだ。
ガブリエラがいない時に年配の上級神官は「これだから女の子は……」とかなんとか言っていた。
ガブリエラはラースと同い年だからもう二十代半ばだ。
女の子、という年齢ではない。
だが初老の上級神官から見れば女の子ということになるのだろう。
扉の脇には上級神官の白い外套が四着掛かっていた。
神殿長と神官長のものはそれぞれの執務室に置いてある。
その日、カイルは執務室でガブリエラに勉強を教わっており、ラースは何かの書類を書いていた。
ガブリエラの指摘で文字を目で追っていた時、背筋に悪寒が走った。
一瞬遅れてラースとガブリエラも顔を上げた。
カイルは反射的に立ち上がっていた。
そのまま部屋を飛び出し、食堂へ駆け込んだ。
神官達が一斉にカイルの方を向いた。
何事かとこちらへ視線を向けてくる神官達を無視して窓へ駆け寄る。
嫌な感じはますます強くなっていた。
「ダメだ!」
カイルが叫ぶのと同時に空気が震え空間が揺れた。
山の稜線に閃光が走り、わずかに遅れて地面が振動する。
誰かの、あるいは何かの思念が叩き付けるようにカイルを襲った。
訳の分からない強力な意志。
身体を貫く精神波に思わずよろめいた。
一瞬、誰かの哄笑が聞こえたような気がした。
倒れ掛けたカイルを後ろに来ていたラースが受け止める。
周りを見るとラースも神官達も何ともなさそうな顔をしていた。
青ざめて額に汗を浮かべているのはカイルだけだ。
「ラース」
「ケナイか」
「え? 見えるんですか?」
カイルは思わず外に目を向けた。
ケナイはここから歩いて五日は掛かるし間に山脈があるから肉眼では見えないはずだ。
「見る必要はないのよ。知っているから」
カイルの問いにガブリエラが答えた。
まるで意味が分からなかったが二人ともそれ以上は教えてくれなかった。
「行ってくる」
ラースはそれだけ言うと食堂から出ていってしまった。
二日後、その日は昼だというのに外は薄暗く、神殿内では明かりを灯していた。
空を灰色の物が覆っている。
雲ではない。
陽光を遮っているのは上空に巻き上げられた塵である。
空からは土や小石が雨のように降ってきている。
二日経ち、空高く舞い上がった小石などがようやく地上へ戻ってき始めたのだ。
あのとき何があったのかは分からない。
だが閃光と、振動や衝撃波から考えて大爆発が起きて大量の土砂が吹き飛んだのだろう。
「ケナイ山が崩れて村がいくつか埋まったってホントか?」
外を眺めていたカイルは人の声で我に返った。
「崩れたんじゃないよ。消し飛んだらしい」
「セネフィシャル様が帰ってくれば詳しい話が聞けるかもな」
セネフィシャルというのはラースの神聖名だ。
上級神官には神聖名が与えられる。
要は肩書きだ。
「でもさ……」
神官達は話しながら通り過ぎていった。
ケナイ……。
四
ケナイ山は山脈から半島のように突き出している大きな山だった。
その山の麓にはケナイ村がある。
ケナイ村はカイルが生まれたラウル村の近くだ。
まだ村にいた頃、何度かケナイ村に行った事がある。
カイルは物心が付いた頃には既に回復魔法が使えた。
教えてくれる者がいないにも関わらず魔法が使えるというのはかなり珍しい。
特にそれが小さな子供となると尚更だ。
近くに神殿が無く、医者もいない村で回復魔法が使えたカイルは大事にされていた。
同じようにケナイ村にもカイルと同い年で魔法が使える子がいた。
魔法……と言っていいのかどうかはよく分からないが。
彼女が祈ると日照りの村に雨が振り、雨が続いて困っている村の雨が止み、農作物が虫の被害に遭っている村から虫がいなくなったらしい。
らしい、と言うのは実際に見る事が出来るほど近い場所ではその手の災害は起きなかったので噂でしか知らないからだ。
ケナイ村周辺は祈るまでもなく豊穣が約束されていた。
日照りも水害もなく、魔物の姿も見掛けなくなり流行病も起きない。
近隣の村も恩恵を受けていた。
カイルの住んでいたラウル村も例外ではない。
あの子が生まれる二年くらい前からあの辺りは凶作にならなくなった。
適度に雨が降り、硬かった大地は何時の間にか柔らかくなり土壌が豊かになっていたらしい。
裕福とまではいかなくても食うに困る事はなくなった。
「お前は、あと半年早く生まれてたら口減らしのために殺されてたかもしれないんだよ」
母はよくそう言っていた。
彼女はそれくらい神聖な存在であり〝アスラル神の化身〟などと言われてすごく大切にされていた。
話をした事は無かったけれど綺麗な子だったのは覚えている。
華奢で、ちょっと現実離れした透明感のある容姿の子だった。
朝日を受けて光る硝子細工の花といったところだろうか。
それも夏に咲く大輪のものではなく、早春に森の中でひっそりと咲く小さく可憐な花だ。
あの子は大丈夫だったかな……。
無くなってしまった村がケナイ村でなければいい、なんて考えるのはいけない事だろうか。
けど……。
ケナイ山まではここから歩いて五日は掛かる。
それほど遠くで起きた爆発の閃光と振動がここまで到達したのだとしたら周囲は相当な衝撃波に襲われたはずだ。
近くの村は無事では済まなかっただろう。
数日後、カイルが神殿の廊下を歩いていると、
「カイル」
ガブリエラに声を掛けられた。
「なんですか?」
「いらっしゃい。会わせたい人がいるの」
ガブリエラの後に随いて神殿長の部屋へ入るとラースの隣に少女が立っていた。
ケナイ村のあの子だった。
「カイル、ミラだ」
一ヶ月後。
神殿の脇に火柱が上がった。
雲まで焼き付きそうなほど高く上がった太い火柱は始まりと同様に突然消える。
神殿の外で下級神官達が魔術の練習をしていた。
今のは中級神官が下級神官に手本を見せたのだ。
窓にもたれたカイルはその様子を漫然と眺めていた。
ここは廊下の端に近い場所である。
林立する柱の位置関係のせいか廊下を通る人達からの死角になりやすいのだ。
誰かが話し掛けてくるわけではないが人の眼に晒されるのはわずらわしい。
何より、こんな所でぼんやりしている姿を見られたら何を言われるか……。
完全に死角になっているわけではないから誰にも見られないと言うわけではないが。
「……って言えばさぁ、ケナイ山の話……」
すぐ側で話し声がした。
見ると下級神官が何人か窓際に集まって女性神官の練習を眺めている。
カイルはともかく彼らは見付かったら怒られるので窓辺に身を隠すようにして見ていた。
「ああ、キシャル様がやったんだって?」
キシャルというのはケナイ村にいたあの子の神聖名である。
上級神官以外の者は上級神官を神聖名で呼ばなければならない。
神官見習いどころか下級神官すら経ずにいきなり上級神官になるというのはカイルの飛び級も霞む特別扱いである。
確かに神の化身と言われていただけあって魔法の力は相当なものなのだが。
「ホントなのか? それ」
「お尋ね者らしいぜ。だから名前も変えたって」
ミラはケナイ村にいたときマイラと呼ばれていた。
だが今ここでマイラと呼ばれているのは大分前にケナイから来た中級神官の少女だった。
今のマイラは子供の頃から修行を積んでいたので中級神官になったのは順当だ。
「そんなのがなんでここにいるんだよ」
「さあな。けどミラ様って神殿長に贔屓されてるから」
「やりたい放題だもんな」
ミラは仕事もせずに毎日のように無断で外出しており、中級、下級神官や神官見習達から反感を買っていた。
しかし注意するべき上級神官達はミラの事を黙認している。
「中級神官の一人が見掛ねて神殿長に直訴したらしいぜ。けど、ミラ様の事は口出し無用って取り合ってもらえなかったって」
窓の外に炎の球が浮かんだ。
一抱え以上ありそうな大きな球は、急速に収縮していった。
限界まで小さくなった球が眩しい光を放って爆発した。
火炎系最強の攻撃魔法テル・シュトラ。
本来ならその熱により辺りのものは全て溶けてしまう。
だが、これは練習なので周りに障壁が張ってある。
熱や爆風が外に漏れる事はない。
「さすが、マイラ様だな」
マイラもカイルと同い年で今年十五歳。
カイルはもうすぐ十六になるが。
この神殿は他の神殿と較べてかなり平均年齢が低い。
一度その事をラースに訊ねてみたら、
「この辺は魔法に長けた者が多いんだろう」
という答えが返ってきた。
けど、中級神官の一人はグース村から来たって言ってたよな……。
グースならイラシの神殿の方が近い。
他にも遠い所から来ている者が何人かいる。
そして遠くから来ているのは全て若年者だ。
その中で一番若いのがカイル、ミラ、マイラである。
ミラが上級神官になるのと時を同じくしてマイラは中級神官になった。
マイラの場合そろそろ中級神官になるだろうと言われていたから妥当なのだが、一つ不審な点があるとすれば中級神官になるための試験の時期がいつもとは違った事だろうか。
中級、上級の神官の数は決まっていて上の階級に上がるためには試験がある。
上の階級の神官と魔法対決して、勝った方が昇格し、負けた方が降格する。
しかしマイラが中級神官になった時は違った。
中級神官は誰一人降格せず、その中の一人が中央神殿に行ってしまったのだ。
中央神殿というのはアスラル教を統括する神殿で特に魔法に長けた者が揃っている。
カイルとミラが上級神官になった時もそうだった。
上級神官は中級神官に降格せず中央神殿に異動になったのだ。
それ以前にミラとカイルは昇格試験を受けていないが。
カイルが廊下を歩いていると神官長が大声で怒鳴っているのが聞こえてきた。
「ミラ! どこへ行く!」
「どこだっていいでしょ!」
「仕事をしなさい!」
「冗談じゃないわよ!」
「ミラ!」
ミラと神官長の怒鳴りあいが廊下に響きわたっていた。
これが硝子の花の正体である。
カイルの幻想はガブリエラに引き合わされた直後、粉々に砕かれた。
それはもう一欠片の破片すらも残さず塵となって消えた。
幻想とは壊れるためにあるのだ。
元々こっちが勝手に想像してただけだけど……。
幼さが残っているものの可憐で整った顔立ち。
ガブリエラはもう大人で「美人」だから可愛いという点ではミラは間違いなくこの神殿で一番の美少女だ。
だが見た目は可愛いのに性格は最悪だった。
一
よもや、この美少女がこんな我儘な性格だとは思いもよらなかった。
ハイラル教の悪魔は堕ちた天使だと言う話だがミラを見せれば誰でも納得するに違いない。
アスラル教には悪魔がいないのが残念だ。
神の使い――神徒――はいるがハイラル教の「天使」とは少し意味合いが違う。
「またミラ様がやってるぜ」
「ラース様もキシャル様を特別扱いしてるし」
「セネフィシャル様も可愛い女の子には逆らえない、か」
ったく!
ラースの評判まで落ちてるじゃないか!
ミラは窓際にいた。
窓を乗り越えて抜けだそうとしたところを神官長に捕まったのだろう。
こんな下級神官も通るところで神官長にまで口答えして……。
カイルは憤然としてミラに向かっていった。
「こんなとこで何やってんだよ!」
「あんたには関係ないでしょ!」
「場所をわきまえろよ!」
「知らないわよ!」
「神殿長やラースまで悪く言われてるんだそ!」
「私が言わせてるわけじゃないでしょ!」
「お前のせいだろ!」
「やめな……!」
「そこまで」
ラースの落ち着いた声が聞こえた途端、全員が黙り込んだ。
本来ならラースの上司であるはずの神官長まで口を噤んでしまった。
「神官長、ここは私が」
神官長は肩の荷が下りたというような表情で奥へ戻っていった。
「カイル、君は執務室へ戻りなさい」
「はい」
「ミラ、君も自分の部屋へ行きなさい」
素直にラースの言葉に従おうと踵を返したカイルは驚いて足を止めた。
自室へ帰れというのは何もしなくていいという意味だからサボるのも神殿を抜け出すのも自由という事だ。
ミラはすぐにどこかへ行ってしまった。
「ラース! それでは……!」
「いいから執務室へ行きなさい」
抗議しようとしたカイルをラースはやんわりと止めた。
「ですが……!」
「ミラの心配をするのは君の仕事ではない」
口を出すなと言っているのだ。
「他の神官達からなんて言われてるか知ってるんですか!?」
「ミラを任されたのは私だ」
ラースはカイルの抗議を取り合わずに行ってしまった。
なんでミラだけ……。
カイルは拳を握り締めた。
翌日、カイルはマイラと神殿に向かって歩いていた。
風が草を揺らしながら草原を渡っていく。
二人はレラスの町にいた病人を治しに行った帰りだった。
そのとき向こうからミラが歩いてきた。
「ミラ! また勝手に抜け出してきたな!」
「それが何よ」
カイルの言葉にミラが言い返す。
マイラも無言でミラを睨んでいる。
そこへ背後から足音が聞こえてきた。
振り返ると初老の男が近付いてくる。
橙色の敷布のような服。
セルケト教の神官?
なんでセルケト神官がこんなところに……。
カイルは首を傾げた。
セルケト教というのは世界は対立する二つのものから出来ている、という考えの二神教だ。
この辺はアスラル教かハイラル教が大半を占めていてセルケト教徒は珍しい。
その他、有象無象の民間信仰も多々あるからセルケト神官ではないかもしれないが。
「あなたは?」
男はカイルの問いに答えず、反対に、
「ケナイのマイラというのはどっちだ?」
と訊ねてきた。
「ケナイにいたマイラは私、ケナイから来たマイラはそっち」
ミラがマイラに視線を向けた。
男がミラとマイラを見比べる。
「なるほど、替え玉か。二人揃ってなければ騙されるところだった」
替え玉?
カイルが眉を顰めたとき、マイラが唇を噛かんで拳を握り締めた。
そうか……。
ミラはケナイではマイラと呼ばれていた。
最初、今のマイラは〝アスラル神の化身〟であるミラ(以前はマイラ)にあやかって同じ名前にしたのかと思ったが、よく考えたら同い年なのだからそれは考えづらい。
生まれたばかりの頃に既にマイラの恩恵が知られていたのなら無くはないかもしれないが。
知らなかったとしたら小さな村で同い年の子に同じ名前を付けるだろうかと疑問に思っていたのだ。
それでマイラに訊ねたら本名は違うのだが、ここに入ったら何故かマイラと名乗るように言われたのだとか。
普通、神官になったからと言って改名はしない。
同じ村の出身で同い年の強い魔力を持つ少女。
人目を欺く為に二人の名前を変えたのだ。
「〝素晴らしきもの〟ミラ、か……」
男が皮肉な笑みを浮かべ、マイラは逆に侮辱されたような表情になった。
確かにマイラから〝素晴らしきもの〟のミラになったのだとしたらマイラを名乗らされる事になった彼女にとっては屈辱だろう。
「レラスのセネフィシャルのやりそうな事だな」
男はそう言うとミラに手を伸ばした。
「ケナイのマイラ、一緒に来てもらおう」
「悪いがお断りする」
突然ラースの声が聞こえてきた。
男の腕が止まる。
カイル達が振り返ると後ろにラースが立っていた。
「うちの神官に用があるなら神殿長に話を通して頂こう」
「レラスのセネフィシャルか」
ラースと男は一瞬睨み合った。
二人の魔力が高まる。
すぐに男は視線を逸らした。
「今日のところは帰る事にしよう」
そう言うと男は去っていった。
二
数日後、カイルは書類を抱えて執務室へ向かっていた。
これは本来ミラがやるべき仕事である。
ミラにやらせようとしたのだが散々口論した末に逃げられてしまった。
「失礼します」
カイルが部屋へ入っていくとラースは書類から顔を上げた。
「ありがとう。そこへ置いといてくれ」
ラースはこれがミラの仕事だと知っているにも関わらずカイルが持ってきたのを見ても何も言わなかった。
「ラース、ミラを何とかして下さい」
つい恨みがましい口調になってしまった。
けれど自分が慕っている相手が別の人を贔屓しているのを見るとどうしても妬ましく思ってしまう。
ラースが苦笑した。
「カイル、ミラは少々我儘かもしれないが……」
「少々どころじゃありません」
「悪い子じゃないんだ」
「仕事をサボってるのに?」
「ちょっと訳ありでね。本当は良い子なんだ。仲良くしてくれ」
「冗談じゃありません!」
反射的に強い口調で言い返してしまい、すぐに後悔した。
「すみません。でもミラがあの調子じゃ……」
ラースは溜息を吐いた。
「分かった。なんとかしよう」
ラースが身振りで下がるように促した。
カイルもそれ以上は何も言わずに部屋を出た。
翌日、カイルはミラが神殿を抜け出そうとしているところを捕まえた。
ラースには放っておくように言われたが、やはり知らんふりは出来ない。
「ミラ! いい加減にしろよ!」
「そっちこそ!」
「ラースに迷惑掛けるなよ!」
「あんたには関係ないでしょ!」
「お前がサボってる仕事、誰がやってると……!」
「君達、ちょっといいか」
いつの間にかラースが側に来ていた。
カイルとミラが口を噤む。
ラースは二人を連れて奥へと向かった。
その間、ミラは不機嫌な顔で黙りこくっていた。
カイルは横目でミラの方を窺った。
これが、ちょっとでも良いなと思っていた女の子だとは……。
ミラがこんなに可愛くなければ誰もラースや神殿長が色香に惑わされてるなんて思わないだろうに。
ラースは上級神官用の執務室へ入ると二人の方を向き直った。
カイルとミラは互いに離れた場所に立つ。
「カイル、ミラ。同僚なんだし、そろそろ仲良くなってもいい頃じゃないか?」
「冗談じゃないわよ!」
「それはこっちの台詞だ!」
「二人とも……」
喧嘩になりそうな二人の間に入ったラースがガブリエラに視線を走らせた。
見るとガブリエラは本で顔を隠して笑いを堪えている。
「ミラ」
ラースの声が僅かに厳しくなった。
ミラが渋々といった様子でラースを見上げ、ついでに軽く両手を上げた。
「分かったわよ。喧嘩はしない。それでいいでしょ」
「私は君達に仲良くしてほしいんだ」
「絶対にイヤ!」
「喧嘩しないだけじゃダメなんですか?」
「どうしても嫌か?」
「どうしてもイヤ!」
「カイル?」
ラースはカイルに訊ねるように首を傾げた。
「僕がいいって言ってもミラが……」
「じゃあ、ミラが仲良くするって言ったら仲良くしてくれるんだね」
「え……まぁ」
ミラが余計な事を、という顔で睨む。
「ミラ」
ラースがミラに向き直った。
神官長にまで口答えするミラが素直に言うことを聞くとは思えないが……。
「イヤよ」
やっぱり……。
「ミラ、命令だ」
ラースがきっぱりと言った。
断固拒否するかと思ったが、
「……はい」
ミラは承服した。
思い切り不服そうだったが。
カイルは信じられない思いで二人を交互に見た。
ラースの命令には従うのか……。
と言う事は今まで仕事をしろと命じた事がなかったのだ。
少なくともラースは。
仕事をさせる気がないならなんで神官にさせておくんだ?
「約束だ。仲良くしてくれ」
ラースは満足した様子で部屋から出ていった。
見るとガブリエラもいつの間にかいなくなっていた。
ミラのお守りを押し付けられたという事か……。
カイルは肩を落とした。
カイルが見張っていればラースの負担は減るだろうが……。
「ラースったら、子供か何かと勘違いしてんじゃないの?」
それまで神妙な顔をしていたミラはラースがいなくなった途端、態度が変わった。
元に戻ったと言うべきか……。
「ったく、あんたのせいで出掛けられなかったじゃない」
ミラは捨て台詞を吐くと女性神官用の居住区の方へと帰っていった。
やっぱりあんな約束するんじゃなかった……。
翌日、カイルは神殿の奥へ向かっていた。
上級神官用の執務室で勉強するためだ。
最初、いつもの場所で外を眺めていた。
が、下級神官も通る廊下のため嫌でも噂話が耳に入ってしまうのだ。
さっきも初っ端からラースの嫌な噂を聞かされてしまった。
ラースがミラといい仲だの、神殿長とラースがミラを取り合ってるだの、果てはガブリエラとラースとミラの三角関係なんて言うのまで……。
どうして恋愛が御法度の神官がそういう事を言うんだよ!
それもこれもミラのせいで……。
苛々しながら歩いていると視界の隅にミラを捉えた。
見なかった事にしようか……。
だがミラがいなくなればラースが心配するだろう。
「どこに行くの?」
ミラはカイルを無視し掛けてラースとの約束を思い出したらしい。
「どこだっていいでしょ」
返事だけはあった。
しかしそのまま行ってしまう。
カイルはミラの後を追い掛けた。
「待てよ」
「随いてこないでよ」
「でも仲良くしろって……」
「仲良くしたいわけ? 私と」
カイルは言葉に詰まった。
「いい? お互い近くにいなければ仲良くする必要もないでしょ。分かったらあっち行って」
我儘だからといってバカとは限らない。
悪知恵だけは働くようだ。
三
ミラは炊事場へと入っていった。
つまみ食いか? と思って中を覗くとミラは真っ直ぐ勝手口を目指している。
炊事場ならラースや神官長達が通り掛かる心配はないからだろう。
カイルは溜息を吐いてミラの前に出ると扉を押さえた。
「ミラ……」
「邪魔しないでよ」
「そうはいかないよ。君が一人でいなくなるとラースが心配するだろ」
「じゃあ、あんたも来る?」
「冗談じゃないよ」
「ならどいてよ」
「ダメだ」
ミラはしばらく黙ってカイルの顔を見詰めていた。
読心術なんか出来なくても悪巧みをしているのは分かる。
「ここで魔法対決してみる?」
「喧嘩はしない約束だろ」
「喧嘩じゃなくて魔法の練習」
「いいけど。僕は負けないと思うよ」
下級や中級と違い、全部で七人の上級神官は七段階に分かれている。
神殿長はその名の通り神殿の長だから一番上として次が神官長、そして副神官長である。
副神官長の下が四大神徒と言って神の使者である神徒の名を神聖名が肩書きとして持っている。
この四人は同僚だが一応順列のようなものがあってセネフィシャルが統率者で次がエンメシャル、アンシャル、キシャルと続く。
これは実力順でもある。
レラス神殿ではセネフィシャルがラース、エンメシャルがガブリエラ、アンシャルがカイル、キシャルがミラだ。
つまりカイルの方が実力があるから順番が上、と言えなくもない。
カイルとミラにそのまま当て嵌まるかは微妙なところなのだが少なくともカイルが負けることはないはずだ。
「別に勝ち負けは関係ないでしょ。練習だもの」
カイルが首を傾げた。
「でも、ここで私が本気出したら炊事場が壊れちゃうわね。今日は全員夕食なしかしら」
「なっ……!」
「二人で仲良く魔法の練習したって聞いたらラースも喜んでくれるわよ。建物が壊れたとしても共同責任よね」
ミラが無邪気を装った可愛い笑顔で悪魔のような台詞を吐いた。
こいつ……!
ハイラル教の教えは正しいらしい。
悪魔は堕ちた天使だという点に関しては。
ミラの力は知っている。
ケナイ山を吹き飛ばしたなんて噂が立つくらいだ。
試験なしで上級神官になったからといって実力が無いわけではない。
悪魔の本領発揮と言うところか……。
こいつ、入るとこ間違えたんじゃないのか?
カイルはミラを睨みながら戸から離れた。
「ありがと」
ミラは嬉々として戸口から出ていった。
このまま扉を閉めて二度と神殿に入れないようにしてしまいたい。
けどラースが……。
なんでこんなのを気に掛けるのか理解に苦しむが、とにかくラースを心配させたくない。
カイルは渋々ミラの後に続いた。
カイルが追い掛けてくるのに気付いたミラが嫌そうな顔で振り返った。
「なんで随いてくるの?」
「誘ってくれたの君だよ」
ミラが小声で「やなヤツ」とかなんとか言っているのが聞こえた。
「あのさ、外套着なくていいの?」
「外套~?」
「外出する時は着用するって決まりが……」
「ああ、そうだったわね。じゃあ、取ってきてよ。私の分も」
カイルは白けた表情でミラを見詰めた。
ミラが軽く肩を竦める。
「言ってみても損はないと思ったのよ。引っ掛かってくれれば儲けものだし」
我儘だからといってバカとは限らない。
しかし自分勝手な上に悪知恵が働くのは始末が悪い。
ミラは真っ直ぐ町の方へ向かっていた。
「いつも、どこで何してるの?」
「人助けよ。主に治療だけど」
「治療? そんなの神殿に来れば……」
「宗教上の理由で異教の神殿には頼めないって人だっているでしょ」
「そういうのはその人が信仰しているところに……」
「魔術禁止の教団やお金取るとこだってあるのよ」
「アスラル神殿に頼めない人がアスラル教の神官に頼むの?」
「神官には頼めなくてもただの魔術師には頼めるでしょ」
カイルは呆れてミラを見た。
ミラは涼しい顔で歩いている。
「ミラ、それは詐欺……」
「詐欺じゃないわよ。私はそのうち神殿を出て魔術師としてやっていくんだから。未来の魔術師なんだから嘘じゃないでしょ」
そうだろうか……?
甚だ疑問が残るところだ。
ミラを詐欺師にしないためにも神殿に閉じこめておくのは正解なのかもしれない。
「私は各国の王様がこぞって問題解決を頼みに来るような一流の魔術師になるのよ!」
君に頼んだら却って問題が大きくなるんじゃないの?
そう言い掛けてラースとの約束を思い出して話を変えた。
「君、魔物退治とかもしてる?」
「してるけど小物ばかりよ。この辺には殆どいないし」
カイルは少し考えてから思い切って、
「魔物の中にさ……倒れるとき喋ったヤツ、いた?」
と訊ねた。
「ああ、お祈りしたヤツね」
「お祈り?」
「教典読んだヤツのこと言ってんじゃないの?」
「そうだけど……」
カイルは自分が倒した魔物だけではなかった事で安心した。
「死ぬ直前に改心して天国へ行こうだなんて考えが甘いのよね」
「は……?」
「だいたい改心すれば天国へ行けるって言うのはハイラル教じゃない。アスラル教の教典読んだってしょうがないのに」
「…………」
「ハイラル教も寛大よね。あそこの天国って悪いヤツだらけで善人が入れなくなっちゃってんじゃないの?」
ミラの口調には僅かにバカにしたような響きがあった。
四
神殿から町までは大して距離はない。
元々神殿は町外れに建っているのだから町の中心まで、と言った方が正しいだろう。
「よぉ、キシャル」
人通りが多くなってくるにつれミラに声を掛けてくる者が多くなってきた。
けど……。
キシャル?
神官だってこと内緒だって言ってなかったか?
「おじさん、具合どう?」
「いいよ。ありがとな」
ミラが愛想良く手を振りながら人混みを擦り抜けていく。
カイルは後を追うので精一杯だった。
「キシャル、これ持っていっておくれ」
食べ物屋から出てきた女性がミラに包みを手渡した。
包みからは美味しそうな匂いが漂ってくる。
「この間のお礼だよ」
「気にしなくていいのに」
「ただじゃ心苦しいからね」
「じゃあ、遠慮なく」
ミラは笑顔で受け取った。
女性は店内の客に催促されて中に戻っていった。
こうして笑ってるところは間違いなく可愛いのに。
別にそういう風を装っているようにも見えない。
多分、これが本来のミラなんだろうけど……。
だったら神殿でのあの態度はなんなのか。
いや、それよりも……。
「ミラ、どうして皆、君のことキシャルって呼んでるの?」
「私はキシャルじゃない」
「神官だってこと内緒じゃなかったの?」
「名前はマズいのよ。ちょっと訳ありで……。あんたもここではミラって呼ばないで」
カイルは眉を顰めた。
一体、何をしでかしたんだ……?
ケナイ山を吹き飛ばしたとまではいかなくても、それに近い事はやっているのかもしれない。
「ね、これ、その辺で食べちゃいましょ」
ミラがカイルの袖を引っ張った。
「キシャル、ここ使ってくれ」
露店でスープを売っている男性がミラの言葉を聞いて脇に置いてあるテーブルを指した。
「ありがと」
ミラはカイルを連れて露店の脇に置かれている簡単な作りの椅子に腰掛けた。
カイルもテーブルを挟んだ向かいに座る。
露店の男性は二人にスープを出してくれた。
目の前のテーブルも椅子と同じように木製の粗末なものだった。
表面は擦れて黒光りしている。
こぼれた汁や食べかすで黒ずんだテーブルの上を虫が飛び回っていた。
「あ、フォークが一個しかない」
包みを開いたミラが言った。
中身はざく切りの野菜を炒めた料理のようだ。
スープの方は香辛料の利いた赤い汁に細かく刻まれた黄色や緑の野菜が彩りを添えている。
油の浮いたスープは予想よりもあっさりしていて少し辛いのだが微かな甘みも混じっていた。
「じゃあ、かわりばんこね」
ミラはフォークで野菜炒めを一口食べるとカイルにフォークをよこしてきた。
断るのも悪いし、何より美味しそうだったので素直に受け取る。
「キシャル、その子、友達かい?」
露店の男性が声を掛けてきた。
「そうよ、仲良しなの」
カイルは思わずむせそうになりながらミラにフォークを返した。
美味しい……。
考えてみれば神殿の食事は質素を旨としている。
量も少ないし、こういうところの食事に敵うわけがない。
でも材料は同じだと思うんだけど……。
町中の安い食堂の料理だ。
高級料理とは言い難い。
それより……。
カイルはフォークを口に運んでいるミラに目を戻した。
ミラが夕食抜きでも平気なのはこういうわけか。
無断外出した場合、夕食の時間までに帰らなければ食事抜きだ。
ミラはよく夕食抜きを言い渡されていたが一向に堪えた様子がなかった。
ここへ来る度にこうして誰かが食べさせてくれるなら神殿に帰る頃にはお腹一杯になっているだろう。
平気な訳だ。
神殿の食事より美味しいし……。
食べてる間にも町の人間が入れ替わり立ち替わりやってきた。
ミラはその度に食事を中断して病気やケガを治している。
「キシャル、ちょっといいかい」
年配の女性がミラの側にやってきた。
「どうしたの?」
「あたしじゃないんだけど……何日か前から魔術師を捜してる人がいるんだよ」
女性は通りの向こうを指した。
髭を生やした体格のいい中年の男性が若い女性と話している。
若い女性はこちらに目を向けていた。
「ありがとう」
ミラが女性に礼を言って立ち上がるのと、中年の男性がこちらを向くのは同時だった。
中年の男性は、若い女性に感謝するように手を挙げるとこちらへ向かって歩き出した。
半信半疑の表情を浮かべているのはミラが子供だからだろう。
他を当たる事にしてくれればいいんだけど……。
町の人の治療くらいならともかく、あまり厄介な事を頼まれるのは困る。
ミラがケガでもしたら何のためにカイルが見張りに付けられたのか分からなくなる。
髭の男性が近付いてくると、ミラは自分が座っていたところを勧めた。
男性はちょっと躊躇ってからミラが座っていたベンチに座る。
ミラはカイルの隣に腰を下ろした。
「私はネルウィンと申します。アイオン村の村長代理でして……」
「私達は魔術師の……」
「僕は違います」
間髪を入れずにカイルが否定するとミラが睨んだ。
カイルは知らん顔をした。
詐欺の片棒を担ぐ気は無い。
ネルウィンは戸惑った様子で二人の顔を交互に見た。
少し疑わしそうな視線を向けている。
ミラの方もそれが分かったらしい。
「ね、話すだけ話してよ。私には出来そうにないと思ったら神殿に案内するから」
神殿という言葉にネルウィンが反応した。
「実は、村の近くに魔物が出るようになったんです。今まで何人も腕自慢の人間が倒しに行ったんですが誰一人帰ってきませんでした」
「それ、どんなヤツなんですか?」
カイルは眉を顰めて訊ねた。
「分かりません。姿を見た者はいないんです。せいぜい恐ろしげな唸り声を聞いた者が何人かいるだけで……」
「どうして神殿に相談に行かないんですか?」
「いちいち口出さないでよ」
ミラが再びカイルの足を蹴って小声で囁いてきた。
カイルはそれを無視してネルウィンに話を促した。
ネルウィンは気不味そうに目を伏せた。
「うちは村全体がハイラル教で……」
どうやらミラが言っていた〝異教徒には頼めない〟口らしい。
ハイラル教は唯一絶対神を信仰していて異教徒を悪魔の手先と見做している。
そして魔法は「奇蹟」とされているから一部の神官を除いて禁止されているのだ。
魔法を使える神官は魔物退治が出来るらしいが人数が少ないため助けを求めてもすぐには来てもらえない。
「教団に依頼して大分経ちましたが未だに来て頂けません。犠牲者は増える一方です。それで破門を覚悟でアスラル教の神殿にお願いしようかと……」
「それなら、ただの魔術師の私が……」
「神殿はそこの道を真っ直ぐ行ったところです」
ミラとカイルは同時に言ってから睨み合った。
「余計な口出ししないでって言ったでしょ! 私が頼まれたのよ!」
「神殿に頼みに来たって言ったじゃないか! これはラースかガブリエラに頼んだ方がいいよ」
「そんな事したら破門になっちゃうのよ。可哀想じゃない。ハイラル教の人にとって魂が救われるかどうかは大問題なんでしょ」
ハイラル教で魂が救われなくなってしまったならアスラル教に改宗すればいいかというとそうはいかない。
アスラル教は来るものは拒まずだ。
だから改宗するのは自由だが、アスラル教には「魂の救済」という概念が無い。
元が原始的な農耕社会で自然を崇拝していたものだからだ。
アスラル教とはあくまでも大地母神に豊作を祈り、日照りの時には水神に雨乞いをし、冷害の時には太陽神に日照を願うという現世利益の宗教なのだ。
アスラル教での死とは万物の創造者である大地母神アスラルの胎内(土)へ還る事であり、還った者は再び生まれてくる。
あの世というものが存在しないから天国も地獄も無い。
普通、魂の救済とは天国へ行く事だ。
死後に天国に行きたいならアスラル教徒になっても意味が無いのだ。
「任せて。私、これでも今までに何度も魔物を倒してきたのよ」
ミラはネルウィンの方を向いて言った。
「これ以上厄介事を抱え込むのが嫌なら神殿へ行った方がいいですよ」
「邪魔しないでったら!」
「お前のせいでラースにまで変な噂が立ってるんだぞ!」
「変な噂が立てられてるのは私だけじゃないわよ! 自分は関係ないようなこと言わないでよね!」
虚を衝かれたカイルはミラの顔を見返した。
「僕が誰と……」
「ラースや神殿長に決まってるでしょ」
「僕、男だぞ!」
「だからでしょ! 異性との恋愛は御法度だもの。当然相手は同性って事になるじゃない」
「な……!」
あまりの事に絶句した。
首から上の血が沸騰したように熱くなった。
耳まで紅潮しているのが分かった。
まさか自分もミラと同じように思われているとは考えてもみなかった。
皆今までそういう目で自分を見ていたのか?
ラースやガブリエラも知っているんだろうか?
そう思うと恥ずかしくて身動きも出来なかった。
神殿へ帰ってもラース達とまともに顔を合わせられる自信がない。
これからどうすればいいのかも分からない。
「……じゃあ、そういう事で」
「よろしくお願いします」
動揺したカイルが硬直している間にミラとネルウィンの話は決まってしまった。
一
翌朝、カイルとミラはネルウィンと共にアイオン村へと向かって歩いていた。
カイルが欠伸を噛み殺す。
ミラも目を擦っている。
他の神官に見付からないようにするためと、今日中に帰って来るために二人は朝早く神殿を抜け出したのだ。
昨日、ミラはネルウィンと共にその日のうちに行こうとした。
それをラースに黙っている事を条件に今朝に変更させたのだ。
ネルウィンの村アイオンは歩いて半日ほど掛かる。
午後に出発したのでは泊まり掛けになってしまう。
いくらなんでも無断外泊はさせられない。
ミラは白い外套を引きずるようにして歩いていた。
少し大きいらしい。
ミラが来てから大分経つのに長さを直してないのは一度も着たことがなかったからだろう。
ラースにしろ神殿長にしろなぜミラを上級神官として神殿に置いているのか理解出来ない。
カイルは頭を振った。
上級神官用の外套を着てくることもカイルが強硬に主張しのだ。
当然その事でも言い合いになった。
「ハイラル教の村へ行くのよ! アスラル教の神官だって一目で分かるようなもの着てってどうするのよ」
「村の手前で脱げばいいじゃないか」
「それじゃあ何のために着てくのよ。荷物になるだけじゃない」
「着ないなら大声出すよ」
「脅迫するなんてサイテー!」
とは言ったもののミラは外套を受け取った。
神殿の朝は早い。
ぐずぐずしていたら皆が起き出してくる。
二人の外套が無くなっているのを見ればカイルとミラが一緒に出掛けたと分かるだろう。
まぁ、ミラと一緒でなければカイルが無断外出などするわけないのだが。
そうして二人は朝焼けに染まった神殿を後にしたのだ。
夕辺は無断で外出した事で神官長に夜遅くまで説教されてしまった。
なのに今日もだなんて……。
このままミラに付き合ってこんな事を繰り返してたら何時か……。
「……あのさ、聞いてもいい?」
「なに?」
「魔術師になりたいって言ってたよね」
「そうよ。各国の王様が競って頼み事をしに来るような大魔術師になるのよ」
「なんで魔術師に拘るの? 神殿で上を目指せば? もう上級神官なんだし」
「私には無理よ。魔法って苦手なの」
魔法が苦手なのに魔術師になりたいというのも矛盾していると思うが……。
「そんな事ないだろ。才能はあるんだし」
ミラが神殿に来てしばらくした頃、近くの村で土砂崩れが起きた。
隣町との間に街道を通すために山の樹々が伐採されていた。
そのせいで土砂はかなり遠くまで押し流され広い範囲に渡って大勢の人を飲み込んだ。
神官達は付近の人達と協力して巻き込まれた人達を助ける作業に当たった。
土砂に埋まった人達を掘り起こし、重症者にはその場で回復魔法を掛けた。
被害者が多かったのと広範囲に渡って土砂が流れた為、神殿中の神官が狩り出されたのだ。
当然ラースやカイルは言うに及ばずミラも一緒に行ったのだが、それが間違いの元だった。
作業は土砂に埋まっている人を掘り起こす者と回復魔法を掛ける者に分かれ、ミラも含めて上級神官は治療に当たった。
崩れた崖の近くでは小山ほどもある巨大な岩の前で埋まった人を助け出そうとしていた。
これだけの大きな岩を動かしたり壊したり出来るだけの魔法が使える者は上級神官だけだ。
だが瀕死の人間を治せる強力な回復魔法が使えるのも上級神官しかいない。
上級神官がケガ人の治療に当たっていた為、他の神官達は岩が倒れないように細心の注意を払いながら作業していた。
それを見ていたミラが業を煮やした。
ケガ人を治す速さに救出が追い付かず、ミラが手持ち無沙汰になってしまったのも災いした。
「そんなの岩を壊しちゃえばすぐじゃない」
その瞬間、巨大な岩が砕けた。
文字どおり粉々になったのだ。
岩の下で作業していた神官達の前に小石の山ができた。
ラースが制止する間も無かった。
ミラは聖句も唱えずに岩を砕いてしまったのだから無理もない。
その途端、岩の後ろにあった同じくらい巨大な岩が倒れてきた。
カイルはその岩の真下にいた。
カイルが魔法で障壁を張るのとミラが再度巨岩を砕くのはほぼ同時だった。
巨石は砂くらいの大きさに分解され障壁の周りに降り注いだ。
カイルと周りにいた人達は障壁のお陰で生き埋めにならずに済んだのだ。
ミラの力を見せ付けられた神官達はミラの実力に関しては何も言わなくなった。
その代わりに出てきたのがケナイ山を吹き飛ばした、という噂である。
そしてそれ以来、ミラはそれまで以上に仕事から遠ざけられるようになりカイルの負担が更に増えた。
「才能なんか無いし練習は苦手なの。人には向き不向きってもんがあるでしょ」
その言葉に呆れてミラの顔に視線を向けたが、そう言われてみれば練習しているところを見た事がない。
「それに自然現象に関しては魔法じゃないし」
「魔法じゃない?」
「そうよ」
「じゃあ、なんなの?」
「分かんないけど……お祈りすると誰かがやってくれるの」
「誰かって誰?」
カイルの問いにミラがバカにしたような視線を向けてきた。
「知らないわよ。けど自然現象なんだから自然の神様でしょ」
確かに当人が魔力を使ってないならやっているのは神様か誰かと言う事になる。
アスラル神はこの世界の創造主で、ミラはその化身と言われている。
ならアスラル神の力なのか?
二
「ケナイに帰る気はないの? あそこなら既に知名度は高いんだし自分ちもあるから……」
「あそこには帰れないの」
ミラが低い声で呟くように答えた。
ご両親が亡くなったのか?
だとしたら悪い事を聞いてしまったかもしれない。
けれど両親がいなくても喜んで面倒を見てくれる人はいるだろう。いくらでも。
あの辺はミラのお陰で凶作知らずだったのだ。
アスラル神の化身として大事にされていた。
お陰でとんでもない我儘娘に育ってしまったのだが。
ミラは暗い表情で黙り込んでしまった。
カイルは急いで話題を変えた。
「マイラが来るまでケナイに君以外で魔法が出来る子がいるなんて知らなかったよ。使えるのは君と僕だけって聞いてたし」
「そりゃそうでしょ。あいつはラースに教わるまで使えなかったもの」
「ラースに教わるまでって……神殿に来る前だよね?」
魔力があって多少なりとも魔法が使えなければ神官候補生として神殿に入ることは出来ない。
「そうよ。私はずっとラースに神官になるように勧められてたの。けど行かせてもらえなくて……」
それは当然だろう。
ミラの存在は村の死活問題に関わるのだ。
しかし、そうなるとラースはレラス神殿の管轄外であるケナイに行っていた事になる。
もっともカイルのいたラウル村だってレラスの管轄外なのに来ていた。
それを考えればケナイに行っていても不思議はないのかもしれない。
それとも、どちらもおかしいのだろうか?
カイルが覚えている故郷は地平線まで緑に覆われた草原だった。
秋になると実った麦の穂が辺り一面を金色に染めた。
しかしミラが生まれるまでは荒野だったらしい。
豊作の年は滅多になく、間引きや働けなくなった者を枯れ井戸に投げ捨てるなんて言うのは日常茶飯事だったという。
身売りもしょっ中でよく人買いが来たとか。
大木も無かった。
どの木も若くて細いから木登りなどはしたことがない。
「お前が殺されなかったのも運が良かったからだよ」
って、よく母さんが言ってたっけ。
カイルが――ミラが、というべきか――生まれる二年くらい前から雨が適度に降るようになり豊作の年が続いて間引きの必要がなくなったらしい。
「じゃあ、君の代わりにマイラが神官候補生になったの?」
「まさか。誘われたのは私だけよ。それがよっぽど悔しかったらしいわね。ラースが来る度に付き纏ってたくらいだし」
ミラが神官になるように勧められていた……。
ミラの力を考えれば当然……。
不意に疑問が生まれた。
カイルもそうだがミラも神殿へ来るまでは神官だったわけではない。
二人とも神官みたいな事をしていたとはいえアスラル教とはなんの関係も無かった。
どうしてラースはミラを勧誘していたのだろうか?
アスラル教の神官はあくまで希望者がなるものだから普通は勧誘などしない。
アスラル教は信者を増やすための布教活動すらしないのだ。
ましてや神官になるように誘ったりしないはずだ。
それになんで今になって神殿へ来る事を許されたんだ?
もうミラがいなくても大丈夫なのか?
今まで意識的に故郷の噂を聞かないようにしていた。
だからあの辺が今どうなっているのか分からない。
帰ったらラースに聞いてみようか。
まだ口を利いてもらえたら、だけど……。
今から帰った後の事を考えると気が重くなった。
不意にネルウィンが立ち止まった。
ミラがネルウィンの背にぶつかりそうになって顔を顰める。
逃げ腰のネルウィンの姿に周りを見ると数人の男達に囲まれていた。
「魔物って、こいつらじゃないわよね」
「か、金なんか持ってないぞ」
震えた声で言ったネルウィンを男達がせせら笑った。
これが世に言う山賊というものらしい。
「可愛いのが二人も揃ってるじゃねーか」
「その二人を売りゃあ路銀なんかよりよっぽど金になるってもんよ」
ミラは平然とした顔でネルウィンの前に進み出た。
風がミラを中心にした円を描き白い外套が風をはらんで舞った。
「ケガしたくなかったらさっさとどっかに行くのね」
「やれるもんなら……」
次の瞬間、風が男達の足元から吹き上げた。
山賊達の服がずたずたになる。
皆身体中から血を流していた。
掠り傷ばかりらしく全員立ったままだったが。
「消えなさい。褒めてくれた事に免じて見逃してあげるから」
「ふざけるな!」
山賊が剣を構えた。
再び風が巻き上がる。
剣の刃は綺麗に三等分され金属のぶつかる音を立てて地面に落ちた。
「この……!」
まだ闘志を失っていないらしい。
というか完全に頭に血が上ったようだ。
殺気だった山賊達にネルウィンはただおろおろしていた。
重症を負った山賊達を魔法で治してやったら、また襲ってくるだろうか?
そうなったらどうすればいいんだろう?
ミラが反撃して僕が治して山賊が襲ってくるというのを延々と繰り返すのか?
けどケガ人を放っていくわけにも……。
「おじさん、私の力を疑ってるみたいだから実演してあげる」
その瞬間、地面に割れ目が出来た。
遠くまで走った亀裂が大地の揺れと共に一気に横に広がる。
ミラに突っ込んでこようとしていた男が地割れに足を取られた。
右足が太股まで地割れに落ち、左膝を突いた。
男が慌てて立ち上がろうとする。
必死で抜け出そうとしているにも関わらず足が抜けないのはミラが僅かに地割れをせばめたのか。
残りの山賊が同時にミラに斬り掛かる。
ミラは見向きもしなかった。
突風が巻き起こり山賊達が吹き飛ばされる。
地面に叩き付けられた山賊達が呻いていた。
カイルはざっと倒れている男達に視線を走らせる。
重症者はいないようだ。
これなら治してやらなくても大丈夫そうだな……。
周囲を見ていたミラは掘り掛けの井戸に目を留めた。
「あんた達のせいで中断させられちゃったのね」
「あれはいくら掘っても水が出ないから中止になったんだよ!」
転がっている男の一人が律儀に答えた。
自分達とは無関係の事で攻撃されたくなかったのかもしれない。
ミラが地面に目を落とした。
「ホントだ。この辺水脈が無いのね」
水脈が分かるのか……!?
水脈の位置が分かる者は少ない。
伊達に大地母神アスラルの化身と言われてる訳じゃないんだな。
「じゃあ、人助けついでにもう一つ」
ミラが言った途端、足下をひやりとする感覚が走った。
かと思うと背後の地面が割れて水が噴き出した。
勢いよく噴出した水に、後ろから斬り掛かろうとしていた山賊が吹き飛ばされた。
自然現象を扱わせたらミラの右に出る者はない、か……。
「こういう事も出来るから、村へ帰ったら宣伝しておいてね」
ミラは笑顔でネルウィンの方を振り返った。
「さ、行きましょ」
ミラが促すとネルウィンは早足で歩き出した。
三
山賊と遭った場所から大分離れ、もう大丈夫だろうという辺りでネルウィンは歩調をゆるめた。
大人の早歩きに随いて行くのは大変だ。
ペースが緩くなってようやく呼吸が整った。
ミラはまだ肩で息をしている。
「あのさ、出ていく必要ないんじゃない?」
カイルの言葉にミラが振り返った。
「え?」
「マイラに今みたいなこと出来ないと思うけど」
「当然じゃない」
ミラが思い切り自慢げに胸を張った。
「けど、どっちにしても神殿は出るわ」
「どうして?」
「私がいなくなればラースだって迷惑しないでしょ」
「何も出てかなくたって神官らしくしてれば……」
「冗談じゃないわよ。村よりマシかと思ったから来たのに全然変わらないじゃない」
「…………」
「それに、神官らしくとか、そういうのだけじゃないのよ。ちょっとあって」
どういう事か訊ねようとするとミラはネルウィンの背に視線を走らせた。
他人に聞かれたくないらしい。
カイルは口を噤んだ。
それにしても……ミラも訳あり?
ラースはそこら中で人助けして歩いてるのか?
やがて前方に木の柱のようなものが無数に立っているのが見えてきた。
最近出来たばかりの墓だ。
その向こうに畑が広がり民家が小さく見えている。
「これ……」
「皆魔物にやられたんです。あそこが村です」
ネルウィンが二人の方を振り返って言った。
口調が丁寧になっているのはミラの力を目の当たりにしたせいだろう。
二人は外套を脱ぐと裏返しにして折り畳んだ。
カイルとミラはネルウィンの家に案内された。
二人は遅めの昼食を取りながらネルウィンに詳しい話を聞いた。
といっても魔物に関しては姿を見た者がいないのでレラスの町で聞いた以上の情報は何も無かった。
魔物がいると思われる場所を地図で教えてもらっただけだ。
カイルは地図を見ながら後悔していた。
やはりラースに言うべきだった。
ミラにこんな危ない真似させて、もしもの事があったら……。
出来る事なら今からでもミラを帰したい。
だがカイル一人では魔物退治は出来ない。
昼食が終わると二人はネルウィンの家を出た。
「あの、私も行きましょうか?」
ネルウィンが躊躇いがちに訊ねてきた。
だが行きたくないと思っているのは明らかだ。
「行けば必ず出るんでしょ」
「はい」
「ならいいわよ。そこで吉報を待ってて」
ミラは手を振って断った。
どうせ随いてこられても足手纏いにしかならない。
カイルも二人同時に守りきれる自信はなかった。
ラースの為にもミラを無事に連れ戻さなければならないのだ。
「じゃ、案内よろしくね」
ネルウィンが行ってしまうとミラはカイルの方を向いた。
「覚えてないの!?」
「あんたが聞いてたじゃない」
「ホントにやる気あんのかよ!」
「そっちこそ何のために随いてきたのよ。魔物退治は私がやってあげるんだから道案内くらいしてよね」
「ったく」
カイルは溜息を吐いた。
それからミラに、
「ね、ホントにやるの? レラスに戻ってラースに頼んだ方が……」
と訊ねた。
「あんたもあのお墓、見たでしょ。一日伸ばせばそれだけ犠牲者が増えるのよ」
ミラはそう言うと歩き出した。
基本的に人助けは嫌いではないようだ。
神官の仕事を嫌がるのは周りからうるさい事を言われるせいだろう。
確かに集団生活の神官より一匹狼の魔術師の方が向いているのかもしれない。
暴走を止める人間がいなくなったらどうなるのかと考えるとちょっと恐ろしい気がしないでもないが。
ラースの言葉が蘇った。
悪い子じゃない、か……。
「疲れた! もう歩けない! あんたホントに道間違えてないんでしょうね!」
ミラがその場に座り込んだ。
カイルも疲労していた。
「そのはずだけど……」
もうかなり歩いているのに魔物の気配すら感じられない。
朝早くから歩き詰めなのだ。
小柄なミラはカイル以上に体力を消耗しているだろう。
身体も華奢だし……。
一応、地図を開いてみたが道も目印もない山の中だ。
正しいのか間違っているのかも定かではない。
「ひょっとしてお腹一杯になったから寝ちゃったとか」
「そんなバカな……」
カイルが言い掛けた時、
『……に答えよ』
低い声が辺りに鳴り響いた。
「出た!」
ミラが弾かれたように立ち上がった。
強い意識のようなものが辺りに渦巻いている。
邪悪な気配は感じない。
けれど胸の奥の何かが危険を知らせていた。
ダメだ!
いけない!
けれど何がいけないのか分からない。
確か前にもこんな事があった気が……。
『今一度問う。
我の眠りを覚ましたものは誰か』
「知らないわよ、そんな事」
ミラは素気なく答えた。
『我が問いに答えよ。
我の眠りを覚ました者は誰か』
目に見えないものの気配が強くなる。
「そこ!」
ミラが気配に向かって火球を飛ばした。
が、火球は真っ直ぐに飛んで行って樹を一本炭に変えただけだった。
「ミラ! 火事になったらどうするんだよ!」
声は同じ問いを繰り返していた。
『我が問いに答えよ。
目覚めの鐘を鳴らしたものは誰か』
「目覚めの……鐘?」
カイルの脳裏にヘメラの魔物が過った。
まさか……あれと関係あるのか?
「知ってるの?」
ミラがカイルの表情を見て訊ねた。
立ち尽くしているカイルの代わりにミラが、
「答えが聞きたいなら姿を現しなさいよ」
と言った。
その途端に地面が波打ち始めた。
二人の前方の地面が盛り上がり始める。
「な、何?」
大きな揺れにミラがよろめき、背後の木に激突しそうになる。
咄嗟にミラの腕を掴む。
が、支える事が出来ず、そのまま一緒に転んでしまった。
地面の隆起は止まらず、樹々が根こそぎ倒れていく。
土埃が霧のように辺りを包み込んだ。
カイルはミラの上に被さって伏せたまま地面に伏せていた。
次々と倒れてくる樹に潰されないように自分達の周りに障壁を張って揺れが収まるのを待った。
四
大分経ってから、ようやく地面の揺れと地響きが終わった。
土煙が収まると巨大な魔物が姿を現していた。
頭だけ。
首だけというべきか。
長い首とその先の頭だけが地面から突き出していた。
僅かに開いた口から覗く歯はカイルの身長よりも長そうだった。
頭はすぐ側にあるように見えるがもしかしたら結構離れているのかもしれない。
周囲の樹々は全て倒れてしまっているし空を背景にしている。
辺りに大きさを比較出来る物が無いから遠近感は当てにならない。
しかし頭があったところに空いている穴は相当広く深い。
首もかなり長い。
当然それなりの太さがある。
身体はまだ地面に埋まっているのだろう。
首の長さと頭の大きさからして体全体だとこの山くらいはありそうだ。
山……?
一瞬、何かが脳裏を掠めた。
けれど今はそれどころではない。
魔物の周りの地面から何本もの触手が生えていた。
下手な大木よりも太い触手が、それ自体命があるように動いている。
動く度に灰色の鱗が陽射しを浴びて虹色に光った。
「出たわね、化け物!」
ミラは立ち上がると魔物を睨み付けた。
これだけの大きさにも関わらず怯えた様子は無いのだから度胸だけは大したものだ。
魔物は黄色い瞳で二人を見詰めていた。
いきなり魔物が巨大な火柱で包まれる。
ミラが魔法を使ったのだ。
だが炎はすぐに消えてしまった。
魔物は掠り傷一つ負っていない。
不意に触手の動きが止まった。
咄嗟にカイルはミラを押し倒した。
二人の頭上を触手が掠めていった。
続いて別の触手が伸びてくる。
カイルは障壁を張った。
が、二人は障壁ごと弾き飛ばされてしまった。
「きゃ!」「うわっ!」
二人が地面に転がる。
魔物が出てきた時の揺れで地面は柔らかくなっていた。
お陰で地面に叩き付けられた衝撃は吸収された。
「このぉ!」
ミラが魔物の開いた口めがけて火球を投じた。
カイルが障壁を張る。
これだけ近くで爆発したら自分達も巻き添えを食う。
魔物の口の中で火球が収縮して爆発的な閃光を放つ。
一瞬、眩しい光で辺りが見えなくなった。
土が溶けた嫌な匂いが辺りに立ちこめる。
だが収まった光の向こうから姿を現した魔物はやはり無傷だった。
「どうしてよ!」
ミラのテル・シュトラでもダメなのか?
なら、どうすれば……。
再び魔物が触手を伸ばしてきた。
障壁が無駄なのは分かっている。
カイルはミラの手を引いて地面の裂け目に飛び込んだ。
地割れは幅は広かったものの深さは腰くらいまでしかない。
二人は四つん這いになってその場から離れた。
少し移動したところで魔物の様子を窺った。
魔物は二人を捜すように視線を走らせながら触手で地面を打ち付けていた。
「あんたも見てないで手伝いなさいよ!」
「どうやって?」
「二人同時にテル・シュトラを打つのよ。二発同時に喰らえば……」
「それは無理」
「どうしてよ」
「僕は使えないから」
「バカ言ってんじゃないわよ。上級神官が……」
「ごめん。僕、攻撃魔法は一切使えないんだ」
「あんたが魔物倒したって話、聞いたわよ」
「あれは死霊だったから……神聖魔法の除霊で……」
「な……!」
ミラが呆気にとられた表情でカイルを見詰めた。
「なんでそれを先に言わないのよ!」
「悪かったね。役に立たなくて」
ミラは、いきなり肩を落とすと、
「ごめん。巻き込んじゃって」
神妙な面持ちで謝った。
「え……?」
カイルが面食らう。
「知ってたら連れてこなかったのに」
「僕が勝手に随いてきたんだよ」
「連れてきたのよ。当てに出来ると思って」
「え?」
「一人で来たければ夕辺のうちに抜け出してたわよ」
再びラースの言葉が甦る。
本当は良い子なんだ。
ラース……。
「あのさ、僕が囮になるから君は逃げてラース呼んできてよ」
「そんな事したら私がラースに殺されちゃうわよ!」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのよ。障壁張ったって弾き飛ばされちゃうくせに」
「そうじゃなく……」
「とにかく、逃げるなんてダメ! 役に立たないならせめて知恵を出しなさい!」
「知恵って……」
「危ない!」
誰かの声に振り向くと二人に向かって触手が伸びてくるところだった。
咄嗟に障壁を張ろうとした時、地面から土の刃が生えてきて触手を貫いた。
大地系の魔法、大地の剣か……。
ちぎれた触手が地面に転がる。
それと前後して倒木の影から飛び出してきた人影が別の触手を斬り付けた。
魔物はまるで堪えた様子がない。
「ミラ! 大丈夫!?」
カイルは急いでミラに声を掛けた。
「うん」
「そこの二人! こいつは力そのものをぶつけるような魔法じゃダメだぜ!」
低い声からして男だと言う事は間違いなさそうだが……。
長袖に下履き、手袋に皮の長靴、そのうえ頭と顔に布を巻いている。
顔は全く分からない。
黙っていれば性別も分からなかっただろう。
その男が走り出すと魔物はそちらに気を取られた。
魔物がカイル達の方を向きそうになる度に斬り付けて注意を引いてくれている。
「どういう事?」
ミラはカイルに説明を求めた。
「つまり、イス・レズルとか、イス・ラスルとか、主に大地系の……」
「それ、どんなヤツ?」
「習ってないの?」
「習ったわよ……多分。でも名前聞いても分かんない」
「どういう勉強の仕方してきたんだよ!」
「しょうがないでしょ!」
「イス・レズルってのは大地の剣だよ。土でできた剣で大きくて……」
説明してもミラは首を傾げている。
カイルは呆れてミラを見た。
ラースはホントにミラに魔法を教えたのか?
「聖句言えば出来る?」
「多分……」
ミラが心許なさそうな表情で頷く。
カイルは一抹の不安を覚えながらも聖句を唱え始めた。
「偉大なる大地母神の御手より生まれし大いなる剣。
長き刃は天高く聳え雲を貫く。
その鋭き刃、万物を切り裂く。
その力、何人たりとも敵わず」
カイルが言い終える前に巨大な剣が魔物の首を串刺しにした。
「――――!」
魔物は声もなく絶命した。
「やったー!」
ミラが嬉しそうな声を上げた。
カイルは呆気に取られて剣を見上げた。
確かに雲を貫くほど高く聳え立っているし刃の身幅も谷を塞いでしまうくらい広い。
けれど本当のイス・レズルはさっき魔物の触手を斬り裂いた魔法のように大地から土の刃だけが突き出すはずなのだ。
ミラが出したものは柄や鍔がある。
カイルは自分が言った聖句を思い返してみた。
そうか……。
「長き」の前に「大地より出し」っていうの忘れてたんだ。
けど……一言抜かしたくらいでこんなに違うものが出てくるものなのか?
その時、不意に異様な感覚に見舞われた。
一
空間が揺れると言うより捩れるような感じだった。
何かが軋むような音が聞こえた気がした。
身体ごと捻られているようで胃の中のものが逆流しそうになる。
思わず前屈みになったカイルはミラの背に頭をぶつけてしまった。
顔を上げるとミラが青ざめた顔をしていた。
「これ、なに?」
苦しそうな声だ。
ミラも同じなのか?
その時、ミラがいきなりカイルの腕を掴んだ。
「ちょっと、あれ!」
ミラが空を指した。
樹が全て倒れて見晴らしが良くなった視界に青空が広がっている。
青空が裂け、その向こうに違う空間があった。
赤い空と黒い大地。
黒い影は異形の建物なのか、それとも林立する岩なのか……。
それが見えていたのはほんの一瞬だった。
だが幻覚などではない。
あれは確かに存在する。
「あれ……なんなの?」
ミラがカイルの腕を痛いくらいに強く握っていた。
声が震えているのはミラにも分かったからだろう。
あれは自分達がやった事だ。
カイル達は何か恐ろしい事をしてしまったのだ。
不意にまた声が聞こえてきた。
『……約束の子は大地に十字の杭を突き立て邪魔する者を抑えた。
もはや何人たりとも止めること能わず。
ただ……』
「うるさいわね!」
ミラが苛立たしげに魔物の屍骸を睨んだ。
「ミラ! 火事になるだろ!」
カイルが慌てて制止する。
ミラが得意な攻撃魔法が火炎系のものだと分かった以上、可燃物に囲まれている場所でそう簡単に使わせるわけにはいかない。
カイルはミラが出した大地の剣を見上げた。
十字の杭……。
確かに鍔がある為そう見えなくもない。
「もう消しちゃっても大丈夫よね」
ミラが言った。
だが消えなかった。
「嘘……。どうして?」
ミラは目を瞑ったり手を振ったりして消そうと試みる。
しかし、いくらやっても消えなかった。
「……どうして消えないの?」
ミラが怯えた声で呟く。
その時、倒木を飛び越えてさっきの男がやってきた。
落ち着いて見ても、やはりかなり怪しい。
しかし一応命の恩人だ。
「有難うございました」
カイルは頭を下げた。
「お陰で助かったわ」
ミラも笑顔で礼を言った。
「なーに言ってんだよ。倒したのはそっちだろ。俺はおまけおまけ。だから俺の事は誰にも内緒な」
ますます怪しい。
男はカイルとミラの泥だらけになった外套を見下ろした。
外套の止め金を見ると、
「アスラル教の神官か。顔を隠しておいて正解だったぜ」
男は低い声で呟いた。
汚れが目立つ色なので一般人はわざわざ白く染めた布で作った服は着ない。
富裕層以外で白を身に着けるのは神官くらいだ。
そしてアスラル教の場合、上級神官はそれぞれに対応した神徒(この場合は鳥)を象った止め金を肩の辺りに付けている。
カイルはミラを男から離れた場所へ引っ張っていった。
「何?」
「あの人、変だよ」
「どこが?」
「あの格好見ておかしいと思わないの? 顔隠してるし」
「きっと火傷か傷痕でもあるのよ」
「そんなのアスラル神殿に行けば治してもらえるだろ」
「宗教が違うんでしょ」
「少しは警戒する気ないの?」
「あんた、いちいち細かいわよ」
「ま、とにかく帰ろうぜ」
男が二人に声を掛けてきた。
「これだけの力があるなら送る必要は無さそうだけどな」
男がそう言って周囲を見回す。
いつの間にか土の剣は消えていた。
辺りの木々は薙ぎ倒され遠くまで見通せるようになってしまっている。
「俺は、クナート。吟遊詩人なんだ」
一瞬だが名前を言う前に間があった。
偽名か……。
そもそも吟遊詩人と言いながら楽器らしいものは持っていない。
でもクナートってどこかで聞いた気が……。
「私はミラ」
「……カイルです」
カイルとしては一緒に帰りたくはなかったのだがミラは気を許してしまったようだ。
名前はマズい、なんて言ってたくせにあっさり教えてしまっている。
……ったく!
折角魔物を倒しても、これじゃ全然気が抜けないじゃないか。
カイルは苛立たしい思いでミラを睨んだ。
魔物はなんとか倒したんですが、その後で誘拐されてしまいました、なんてラースに報告する羽目にでもなったら……。
カイルは頭を抱えた。
ミラの方はクナートと話し込んでいた。
どうしてこんな怪しげなヤツを信用出来るんだよ……。
確かにクナートの声はどこか信用させるような響きがある。
人を安心させる何かがあるのだ。
というか、どこかで聞いたような気が……。
「吟遊詩人なら、なんで楽器持ってないんですか?」
ミラの親しげな様子に、つい意地悪な質問をしてしまう。
「別に楽器なんかなくたっていいじゃない。歌うんだから」
「楽器は必要ないんだ」
クナートは手近な草を摘んだ。
それから布の下の口に草を当てると吹き始めた。
とても草笛とは思えない澄んだ音色が流れ出す。
二
思わず聴き惚れてしまってから、
「すっごーい! 上手~!」
はしゃぎ声で我に返った。
「それでどうやって歌うんですか?」
カイルの問いにクナートが苦笑しながら草笛を止めた。
「あんた、揚げ足取りしか出来ないわけ?」
「ホントのこと言っただけだろ」
「なに言って……」
「まぁまぁ」
クナートが二人の間に入った。
既に布で口を覆い直している。
「このくらい賢くなきゃお姫様の騎士は勤まらないだろ」
「こいつは騎士じゃなくて神官よ」
クナートはそれには答えなかった。
覆面の向こうで笑っていたのかもしれない。
来た時のように歩き回らなくて済む分、帰りの方が早いかと思ったのだが、そうはいかなかった。
魔物のせいで地形が変わってしまっていたからだ。
木々は倒れ、魔物が埋まっていた場所には大きな穴が空いていたり逆に土砂で盛り上がっていたり。
倒木をよじ登ったり隙間を通り抜けたりして三人はようやく町の近くまで辿り着いた。
カイルもミラも泥だらけだった。
その上、顔も手足も擦り傷だらけだ。
こんな状態でも無事に帰したと言えるだろうか……。
町に入ろうとしたところでクナートが足を止めた。
「あれ、どこの坊さんだ?」
言いながら既に物陰に隠れている。
ミラも子犬のようにクナートに随いていく。
仕方なくカイルも続いた。
物陰から町の真ん中の広場のようなところを覗くと白い外套を来た人間が数人立っている。
「アスラル教? でも、レラスの神官じゃないわね」
アスラル神官なのにレラス神殿から来たのではないとなると……。
「僕だ」
「え?」
「多分、中央神殿から来たんだと思う」
「中央神殿? なんでそんなとこから……」
「僕も訳ありの口なんだ。ちょっとあって……レラス神殿に身柄を預けられてたっていうか……きっと二日続けて無断で外出しちゃったから……」
「中央神殿に連れてかれたらどうなるの?」
「処刑される……と思う。良くて死ぬまでどこかに閉じ込められるか……」
ミラが呆れたようにカイルを見た。
「あんた、一体何やったのよ!」
カイルは答えられなかった。
数ヶ月前のアリシアの嫌悪の表情が、七年前の父の顔と重なる。
教えたらきっとミラも……。
「信じらんない! 優等生面して偉そうに説教しといて自分は人に言えないような事してたなんて!」
カイルは黙って俯いていた。
「なんで随いてきたのよ!」
「君に何かあったらラースが心配するだろ」
「人の事より自分の心配しなさいよ!」
ミラはカイルを怒鳴り付けるとクナートの方を向いた。
「私が行って話してくる。それでダメだったら逃げるしかないわね」
「逃げるって、そんな事したらラースが……!」
「あんたが逃げたからってラースは殺されたりしないわよ!」
「行く当てあるの?」
「無い」
ミラの即答にカイルは眩暈を覚えた。
「俺、あるぜ」
「ホント!? 良かった」
「冗談だろ!」
こんな怪しい人間を信用出来るわけない。
しかしカイルの言葉は無視された。
「とにかく行ってみる」
ミラはそう言うとクナートに顔を向けて、
「こいつ見張ってて。私が合図したらこいつ連れて逃げて」
と言った。
「あいよ」
「逆らうようなら殴ってでも止めて。殺さない程度になら何したっていいわ」
「ミラ!」
ミラは真顔だった。
クナートも異を唱える気配はない。
自分の顔から血の気が引くのが分かった。
「私は息がありさえすればどんな重傷でも治せるし、こいつだって意識があれば自分で治せるんだから遠慮なくやって」
「りょーかい」
ミラが行ってしまうとクナートがカイルの方を向いた。
「悪いな。可愛い女の子と可愛い男の子、どっちの頼みを優先するか、言うまでもないよな」
考えようによってはまともといえなくもない。
が、やはり怪しい。
「ま、そういうわけだから仲良くしようぜ。俺も子供に手を出したくはないし」
クナートが明るい口調で言った。
吟遊詩人などと言っていたがどう見ても戦士だ。
命令されれば殺しだって躊躇わずにやるだろう。
いくら治せると言っても痛みを感じないわけではないのだ。
カイルは攻撃魔法が使えないし腕力だって無い。
せいぜい障壁で身を守ることくらいしか出来ないのだ。
喧嘩といえるようなものはミラとの口論くらいしかした事がない。
考えてみたら本当に役立たずだな……。
神聖魔法以外の魔法に関しては神官候補生にも敵わない。
というか神官候補生になる資格さえない。
自分に出来る事は何も無い。
ただの役立たずだ。
なのに上級神官だなんて……。
「おい、あいつらアスラルの神官じゃねーぞ」
カイルの物思いはクナートの声で破られた。
顔を上げるとミラが男達に両脇から腕を掴まれている。
白い外套の下に紫色の聖衣と下履きが見えた。
あれは……!
ミラは男達の方へ向かって歩きながら、なんと言い訳しようか考えていた。
中央神殿と言えばアスラル教の全神殿を統括する神殿だ。
そこから来たとなれば当然ラースどころか神殿長より偉い。
下手に怒らせたらカイルやミラだけではなくラース達も危うくなる。
言うべき言葉を何も思い付かないまま男達の前まで来てしまった。
「あの……」
男達はいきなりミラを取り囲んだかと思うと腕を掴んだ。
男の白い外套の下に見えたのはアスラル教の白い聖衣ではなかった。
ミラは目を見張った。
赤みの強い紫色の聖衣と黒に近い色の下履き。
ハイラル教の神官!?
「もう一人はどこだ?」
「なに言ってんのよ! 放しなさいよ!」
ミラは男達の腕を振り払おうと藻掻いた。
だが腕力だけなら大人の男の方が強い。
「もう一人いるだろう」
男が重ねて言った。
三
「この……!」
ミラが魔法を使おうとした時、
「その手を離してもらいましょうか」
後ろから穏やかな声がした。
「ラース!」
ラースを見た男達が怯んだ。
ミラは男達の腕を振りほどいた。
「彼女はうちの神官です。用があるなら神殿長に話を通していただきましょう」
ラースの声はあくまでも静かだった。
男達は目顔でどうするか相談しているようだ。
ラースとミラの二人を相手に出来るだけの力量があるかどうか考えていたのかもしれない。
結論は出たようだ。
男達は何も言わずに引き上げていった。
聖職者だけあって悪役のような捨て台詞は吐かなかった。
「ふふんだ! 一昨日おいで」
ミラが男達の後ろ姿に舌を出した。
「ミラ! ラース!」
その時、カイルが駆け寄ってきた。
その後ろからクナートが気乗りしない様子で随いてくる。
「カイル。ミラ」
ラースが静かに二人に向き直った。
「すみませんでした」
カイルが頭を下げた。
「ラース、これは私が……」
「話は神殿で聞く」
「その方が良さそうだな。連中が助っ人連れてくる前に……」
クナートが明後日の方向を向きながら、くぐもった声で言った。
声色を変えている。
「当然、君も一緒に護衛してくれるんだろうね、ウセル」
「お、俺はクナ……」
「今回の事もお前の差し金だろう」
「人聞きの悪いこと言うな!」
「じゃあ、この二人に大地系の魔法を使えなんて言ってないな」
「言った」
「申し開きは神殿長の前でしてもらおう」
「俺は神官じゃねーぞ!」
ラースはウセルの抗議を無視して背を向けた。
「行くぞ」
ラースの言葉にウセルが深い溜息を吐く。
カイルが見ているとウセルと目が合った。
「言っとくけどクナートってのは偽名じゃねーぞ」
「じゃあ、名字があるの!?」
ミラがカイルの脇からウセルを覗き込んだ。
庶民には名字がない。
あるとしたら王侯貴族と言う事だ。
「いや、村の名前だよ」
庶民は同名の別人がいたりして区別が必要な時だけ「何とか村の某」と名乗る。
村の名前……。
道理で聞いた事があると思った。
名乗るときに言うとはいえ村の名前が偽名でないかどうかは際どいところだが。
ウセルは「折角顔隠してたのに」とかなんとか言いながら顔に巻いていた布を取った。
「嘘! ラースにそっくり……」
ミラが声を上げた。
驚いた様子でウセルを見ている。
ウセルはラースを精悍にしたような面立ちだった。
普段は顔を隠してないのだろう。
肌は日に焼けて褐色だった。
「ラースの……弟? お兄さん?」
ミラがウセルの顔を見詰めながら訊ねた。
「あいつの偉そうな態度見りゃ分かるだろ。ま、双子だからあんまし関係ないけどな」
「ラースって双子だったんだ」
ミラがウセルに色々聞き始める。
楽しそうな様子のミラをカイルは冷めた目で見ていた。
ラースと同じ顔ってだけで……。
声に聞き覚えがあるはずだ。
ラースに似てる。
その時、前を歩いていたラースが振り返った。
「ミラ、すまないがウセルと話があるんだ」
「はーい」
「ウセル」
ラースがウセルを促した。
「分かったよ」
ウセルは返事をしてからミラとカイルに顔を寄せた。
「お前らレラスの神官だって言ってたよな」
「そうよ」
「ひょっとしてガブリエラも?」
「ガブリエラの事、知ってるの?」
「ウセル、何をしている」
「へいへい」
ウセルは叱られに行く子供のような表情でラースの方へと向かっていった。
「精悍なラースの顔って変な感じ」
「……ミラってラースの言う事は素直に聞くんだね」
カイルの言葉にミラは軽く肩を竦めた。
「ラースは特別だもん」
「どうして?」
「ケナイ山の話、聞いてるでしょ。山が吹き飛んだ巻き添えをくって村がいくつも無くなっちゃったって」
「うん」
「あれの犯人、私なの」
カイルは呆れてミラの顔を見た。
「つまんない冗談言うなよ。言いたくないなら無理に言わなくていいから」
「何よ。私には出来ないと思ってんの?」
「出来る出来ないは関係ないだろ」
「なんで?」
「魔法は術者の望んだことの具現化だぞ。望まない事は起きないんだよ」
「ケナイ山が無くなればいいって思わなかったってどうして言い切れるのよ」
「仮にケナイ山を吹き飛ばす事を望んだとしても、村が無くなればいいと思ってなければ村は無事なはずだ」
「村を消そうと思えば消せたって事じゃない」
「君がそんなこと考えるわけないだろ」
短い付き合いでもミラが人助けが好きで、他人に害意は向けないことくらいは分かった。
「どうして分かるのよ」
「分かるよ。それくらい」
「断言出来る?」
「出来るよ。なんならアスラル神に誓ってもいいけど?」
アスラル教の神官が『アスラル神に誓う』と言うのは本気で命を掛けるという意味である。
アスラル教の神官がアスラル神に誓った事を違えた場合、殺しても殺人罪に問われない。
だからアスラル神官は「神に誓う」という言葉はまず口にしない。
それくらい重い意味を持っているのだ。
ミラはしばらく黙って歩いていた。
「それでも、犯人は私よ……やってないけど」
それから低い声で呟いた。
カイルはなんと言えばいいのか分からなかったので黙っていた。
「あれ、魔物がやったの」
そう言われてみればケナイ山が吹き飛んだ日、さっきと同じ感じが……。
「山に魔物が埋まってたの。それが出てきて近くの村は全部……。私が行った時にはもうどの村も無くなってた」
そうだ!
山のように大きな魔物。
さっき引っ掛かったのはそれだったんだ。
あの魔物も山に埋まっていた。
あれと同じならば、やはりミラがやったのではない。
ミラは遠くを見るように空を仰いだ。
「私は魔物を倒しただけだけど、警備兵が来て犯人を出せって言って……あの時、あの辺りで魔法が使えたのは私だけだったから……」
「でも……魔物がやったんだろ。だったら死体が……」
「跡形も残って無かったのよ」
力が強すぎるのも考えものだ……。
「他の人からは私が魔法でやったようにしか見えなかったんでしょ。生き残ってた人もいなかったし」
「君がそんな事する理由ないじゃないか」
「それでも……誰も信じてくれなかった。ラース以外は」
ミラの声は沈んでいた。
いつもの元気が無い。
嘘ではないという事か……。
「警備兵に連れてかれそうになったところをラースが助けてくれたの」
嘘を言っているようには見えなかったものの、完全に信じる事も出来ないでいた。
ケナイ村の人間がミラをあっさり渡すとは思えなかったからだ。
四
なんと言おうかと考えていた時、微かな振動を感じたような気がした。
一拍おいて地面が揺れ始めた。
大地が海になってしまったかのように波打ち始める。
ラースとウセルはなんとか立っていたがカイルとミラは姿勢を崩した。
「うわ!」「きゃ!」
二人が転び掛ける。
ウセルは迷わずミラを抱き留めようとした。
が、カイルもミラを支えようとして手を伸ばしていた。
「うわ!」
カイルとミラは二人してウセルの方へ倒れ込んだ。
激しい揺れの最中、二人同時には支えきれずウセルも後ろへ引っくり返った。
揺れはすぐに収まった。
樹々の枝に僅かに余韻を残すのみだ。
「もしかして、また魔物が……」
カイルは心配になって辺りを見回した。
「違うわ。今のはただの地震よ。だけど、ホントは起きるはずないのに……」
地面に手を付いていたミラが眉を顰めた。
「誰かが起こしたの?」
カイルの問いにミラが首を振る。
「人が引き起こしたものじゃないけど、起きるはずもないのに……」
いつも強気なミラが不安そうな表情を浮かべていた。
「分かんない……どうしてこんな地震が起きたの?」
「……空間の振動だ」
ラースが静かに言った。
その言葉にミラは当惑したような顔でラースを見上げる。
ラースはそれ以上は何も言わずにミラに手を差し出した。
ミラがラースの手を借りて立ち上がる。
先を越されたウセルが悔しそうに指を鳴らしてからカイルが起きるのに手を貸した。
神殿へ帰ったカイルとミラは上級神官用の居間でラースにがっちりと説教された。
ウセルは神殿長の部屋へ行かされた。
「二人とも十日間の謹慎だ。自室と執務室以外への出入り禁止。いいね」
「食事は?」
ミラが訊ねた。
食堂と女性神官の居住区はかなり離れている。
食堂へ行けるとなれば実質的に神殿内は自由に歩けると言う事だ。
当然、神殿も簡単に抜け出せる。
「部屋へ持って行かせる」
ミラが残念そうな表情で溜息を吐いた。
「二人とも、部屋に戻りなさい」
「は~い。それじゃ……」
「待って」
カイルはミラを引き留めるとラースの顔を見上げた。
「ラース、あの魔物の事なんですけど……」
「どうかしたか?」
「倒れた後に教典の文句みたいなのを言ったんです」
カイルはミラの方を向いた。
「あれ、終末節だったよね?」
「お利口さんのあんたが言うならそうなんでしょ」
ミラがどうでも良さそうに答える。
カイルは「お利口さん」の部分が癇に障ったが言い返すのはやめておいた。
「そうか」
ラースは落ち着いた顔で頷いた。
驚いている様子は無い。
「あれ、倒しちゃいけなかったんですか?」
「いずれ誰かが倒していた。それが君達だっただけだよ」
「でも、あれはただの魔物じゃありませんよね。あれも、ヘメラのヤツも。あれはなんなんですか?」
ラースはしばらく黙ってカイルを見詰めていた。
やがて、
「封印獣の話は知ってるね」
と言った。
封印獣というのは教典の最初の方に出てくる神話である。
はるか昔、地上を七匹の強大な魔物が暴れ回っていた。
その魔物達が暴れ回っていたせいで地上のものは悉く破壊された。
見兼ねた大地母神が槍で魔物達を貫いて動きを止め、天空大神が自分の羽でそれらを覆った。
そして封印獣達は大きな山になった。
というのが封印獣の神話である。
「あれが封印獣なんですか?」
「あの部屋に資料がある。鍵は開けておくから後は自分で調べなさい」
ラースは部屋の隅の扉を指した。
いつも鍵が掛かっていた扉だ。
「あそこって資料室だったんだ。開いてるとこ見た事ないから掃除用具入れだと思ってた」
ミラがカイルの思いを代弁した。
ミラと同じこと考えてたなんて……。
カイルはちょっと複雑な気分になった。
謹慎期間、カイルは資料室に篭もって過ごした。
当然ながらミラは資料室に入ろうとする素振りすら見せなかった。
だが流石のミラも今回は神殿の中で大人しくしていた。
あれからすぐラースは中央神殿へ行ってしまったのだ。
理由は教えてもらえなかったがあの魔物のせいだという事くらいは見当が付いた。
ミラもそれが分かったからこそ大人しく謹慎していたのだろう。
ラースは三日ほどで戻ってきた。
ミラは勉強こそしてないものの、執務室でガブリエラとお喋りしたり仕事を手伝ったりして一日を過ごしていた。
七日目の朝、カイルが資料室から出てきたとき執務室にはミラしかいなかった。
「ラースとガブリエラは?」
「出掛けたわよ」
「そう。ちょっといい?」
「いいけど……あんた埃だらけよ。ずっとそん中にいたわけ?」
「うん」
「きったないわねぇ。お風呂入って綺麗にしてきなさいよ」
ミラに言われて自分の身体を見下ろしてみた。
確かに埃にまみれて白いはずの聖衣が灰色と茶色のまだらになっている。
「着替えてくるまでこの部屋の椅子に座っちゃダメ。敷物が汚れるでしょ」
「分かったよ」
仕方なく執務室から出ると自室へ向かった。
ミラの事だからどこかへ行ってしまっているかもしれないな……。
着替えながらそう思った。
だが執務室へ戻ってみるとミラは待っていてくれた。
「で? 話って?」
「封印獣の事、ちょっと引っ掛かる事があって調べてみたんだ」
「引っ掛かる? 何が?」
「場所が違うんだよ。僕らが倒した連中と神話の地名が。それにケナイとアイオンのは山くらいの大きさがあったけど、ヘメラのはそんなに大きなヤツじゃなかったんだ。死霊だったし」
「だから?」
「あれは封印獣じゃないんだよ」
「なに言ってんのよ。ラースが嘘吐くわけないでしょ。神官は嘘吐いちゃいけないの、忘れたの?」
ミラにだけは言われたくない台詞だ。
自分は詐欺まがいのこと平気で言うくせに……。
けど、神官の誓い、一応覚えてたんだな……。
アスラル教は信者には干渉しないが神官にはかなり厳しい規律を設けている。
神官になる時、誓わされる事の一つが「嘘を吐かない」である。
「嘘は吐いてないだろ」
「今、あれは封印獣じゃないって言ったじゃない。けどラースは封印獣だって……」
「言ってないよ」
「言ったわよ」
「言ってない。知ってるかって聞いただけだろ。僕があれがそうなのかって訊ねた時も返事はしなかったし」
「じゃあ、なんでラースは封印獣の話なんかしたのよ」
「あれが封印獣だって錯覚させるためだよ。ホントの事を教えたくない時によく使う手だよ」
「それで? 違ったらなんかマズい事でもあるの?」
ミラを話し相手に選んだのは失敗だったのかも……。
カイルは白い目でミラを見た。
とはいえ他に話せるような相手はいない。
ミラはバカではない。
悪知恵は働くのだから頭の回転は速い方だろう。
関心がある事に対しては。
興味がある事と無い事に対しての落差が大きいのだ。
「あの教典の文句、気にならないわけ?」
ミラは何も言わずに肩を竦めた。
興味がなければこうして大人しく話を聞いていたりはしないだろう。
気にならないわけではないがわざわざ調べようとも思わない、といったところか。
「あのさ、あの部屋の中の本、見た?」
「埃と蜘蛛の巣だらけの部屋の中に入って? 冗談でしょ」
思わず溜息が漏れる。
猫に話しているのと何が違うのか……。
一瞬、話を打ち切ろうかと思った。
だが、苦労して調べた事を話したい、という欲求の方が勝った。
何しろ長時間同じ姿勢でいたため死にそうなほど肩も腰も背中も痛い。
本の読み過ぎで頭痛も酷い。
そこまでして調べた事を自分の胸にしまっておくだけ、というのは嫌だったのだ。
「この部屋もだけどさ、ハイラル教の本、多いと思わない?」
「そう言われてみればそうかもね」
ミラはおざなりに部屋を見渡した。
「その次に多いのがセルケト教の本でしょ。他の教団も含めて魔物を片っ端から調べてみたんだ」
一
「セルケト教にあったって言うの?」
「うん」
「セルケト教徒がいるのはここよりずっと北の方じゃない」
「そうだけど、ハイラル教がこの大陸に伝来するまで一番信者が多かったのはセルケト教だったんだよ。当然この辺もセルケト教の勢力範囲だったしハイラル教もかなり影響受けてるよ」
「ふうん……それで?」
「セルケト教の神儀書に出てくる聖獣の中に僕らが倒したのと対応するのがいたんだ」
神儀書というのはアスラル教で言うところの教典、ハイラル教での聖典に当たるもので、神話や教えなどが書いてある本だ。
カイルは地図をテーブルの上に開いた。
ヘメラ、ケナイ、アイオンの順に指す。
「神儀書に出ていた聖獣は全部で八匹。順番も僕らが倒したのと同じなんだ。だから間違いないと思うんだけど、どうかな」
ミラが肩を竦める。
一瞬、頭に血が上り掛けたが、すぐに今のが「どうでもいい」という態度の現れではなく「自分には分からない」という意味だと悟る。
カイルは気を取り直して地図を指した。
「もし、あってるなら次はこの辺なんだ。リキアかロークか、ちょっとズレるけどファイユ」
「私が分かんないのはそれがなんなのかってことよ」
「それは……僕も分からない。けど、セルケト教ではそいつらの事〝世界の守護者〟って言うんだ」
「だから?」
「気になんない?」
「よく分かんない」
ミラの言葉にカイルは返答に詰まった。
カイルもなんと説明すればよいのか分からない。
考え込んでいるうちにいつの間にか眠り込んでしまっていた。
目が覚めてみるとミラの姿が無かった。
神官長が一人で事務処理をしている。
まさか、また神殿を抜け出したんじゃ……。
カイルはミラを探しに出た。
ミラは神殿の裏にいた。
カイルが裏口から出た時、十歳くらいの女の子と話していたミラが踵を返したところだった。
町に向かおうとしているらしい。
「ミラ、どこ行くの! 謹慎が解けてもいないうちから抜け出す気!?」
「ちょっとだけよ。この子のお母さんが大変なんだって」
「なに言って……」
「すぐ戻るからラースには黙ってて」
「ミラ!」
ミラはカイルが捕まえるより早く駆けていってしまった。
追い掛けようとした時、
「リース、どうしたの? こんなところで」
女の子がミラの後に続こうとした時、マイラの声が降ってきた。
見上げるとマイラが神殿の窓から身を乗り出している。
ミラに会いに来た女の子に声を掛けたのだ。
ミラを追い掛けようとしていた女の子――リースがマイラの方を振り向いた。
「その……」
「皆元気にしてる?」
「うん、あの、早く行かないと……」
「そう、それじゃ。あたしの母さんに会ったら元気にしてるって伝えといて」
「うん」
リースはミラの跡を追うようにして走っていった。
マイラの母さん?
「マイラ!」
カイルはマイラを呼び止めた。
マイラが振り返る。
「なんですか?」
「今の子、ケナイに住んでるの?」
「はい」
「そう、ありがとう」
マイラが行ってしまうとカイルは憤然としながら神殿へ入った。
ケナイの子がミラに会いに来た。
という事はこの前の話は嘘だったのだ。
……ったく!
言いたくないなら言わなくていいって言ったのに!
何も嘘吐く事ないじゃないか!
腹が立っていたカイルは思わず執務室の扉を乱暴に開けてしまった。
その途端、机に向かって書類を書いていたラースと目が合った。
「カイル、またミラと喧嘩したのか?」
ラースが苦笑いを浮かべた。
「確か仲良くしてくれる約束だったはずだが」
「す、すみません。けど、喧嘩はしてません」
嘘ではない。
「そうか。なら、どうしたんだい?」
「……え、あ、その……ミラがケナイ山を吹き飛ばした犯人に……」
「ああ、その話か。仕方なかったんだよ」
「え……?」
「慣れすぎてしまったんだ」
「慣れ?」
ラースの言っている意味が分からず首を傾げた。
「ミラは神官の真似事をしていたとは言え、基本的には居るだけで豊穣をもたらすし、災いに見舞われる事も無い」
いつからかミラのお陰だという事を忘れてしまったのだ。
そして錯覚した。
ミラが居なくても同じ状態が続くだろうと。
「それで逆にミラの力が怖くなったんだ」
ミラへのお礼として持ってきたものは全て村の人間達が受け取っていてミラには渡していなかった。
もしバレたらミラが腹を立てるのではないか。
その時ミラの力を自分達に向けられたら……。
ケナイ山の魔物が吹き飛んだ事が決定打になり村の者達はミラを犯人として警備兵に突き出した。
後ろ暗いところがあったのだとしたら尚更恐怖を覚えただろう。
もしかしたらミラに頼みに来る人達に高価な謝礼を吹っ掛けていたのかもしれない。
最近依頼人が減っていた。
謝礼が手に入らなくなり、豊穣は続いている。
それでミラが自分達に牙を剥く前に始末しようと考えたのだろう。
「ホントの話だったんですか? だって、それじゃあ……」
「どうかしたのか?」
ラースの問いにカイルは神殿の裏での事を話した。
二
ミラは神殿から離れた森の奥にいた。
目の前に数人の男が立っている。
その後ろにはリースと呼ばれた女の子とその母親が男達に捕まっていた。
「ったく、ハイラル教ってのはいつから犯罪集団になったのよ。教祖様が泣くわよ」
「我々に教祖などいない」
「じゃ、ハイラルってのは誰よ」
「軽々しく我々の救世主の名を口にするのはやめてもらおうか。知りたければあの世で勉強したまえ」
「アスラル教にあの世なんかないわよ」
「無駄口はいい。とっととやれ!」
リーダーらしい初老の男が命令した。
直線的で無駄のない紫色の服はしわ一つない。
ハイラル教の聖衣である。
聖衣を着ているのは初老の男だけだ。
他の男達は信者らしい。
剣を持った男がミラに向き直る。
「下手な真似はするなよ。魔法は防げなくても、あの二人を道連れにする事くらいは出来るんだからな」
「分かったわよ。その代わりその二人を放しなさいよ」
「お前が死んだらな」
「死んだら、あんた達が約束守ったかどうか分からないじゃない」
「それは信用してもらうしかないな」
「こんな事する連中、信じられると思ってんの?」
「なら、この二人を見捨てて逃げるか?」
「ったく」
ミラが男を睨み付けた。
「悪く思うなよ」
「思うわよ!」
ミラが言い返す。
男が剣を振り上げた。
「待て!」
全員が一斉に声の方を向く。
木の陰から青年が出てきた。
優男風の青年だが赤い瞳には感情が無い。
見た瞬間、ミラの全身が総毛立った。
こいつ……。
見た目は人間だが人ではない。
青年を見たミラが身構える。
「その娘を殺したら連中はあいつを生かしてはおかないだろうが。少しは考えろ」
青年はそう言うとミラの方に向き直った。
「久し振りだね」
「たった今助けてくれた相手にこんなこと言うのもなんだけど、初対面よ」
「何度も会ってるんだよ。最近だと千年前に」
「私が千歳越えてるように見えるわけ?」
男の顔に笑みが広がった。
本気で面白がっているらしい。
「確かに。改めて自己紹介しないといけないな。私の名はシーアス」
ミラはシーアスの差し出した手を無視した。
シーアスは愛想笑いを浮かべてミラの手を取る。
本能的に恐怖を覚えて慌てて手を振り払った。
「馴れ馴れしく触んないでよ!」
「シーアス様!」
初老の男がシーアスに呼び掛けた。
声がかなり苛立っているのはミラが目障りだからだろうか。
ハイラル教徒にとって異教徒は悪魔の手先である。
まして異教の神官など悪魔そのもの以外の何者でもない。
ミラを早く殺してしまいたいのだろう。
「なんだ、カート」
カートというのが初老の男の名前らしい。
役職名でなければ、だが。
アスラル教の事すらよく知らないミラに他の教団の事は全く分からない。
「その女は契約の妨げになります。前回邪魔をしたのはその女だと仰ったのはあなたではないですか!」
「バカだな。この娘がいればあいつが殺されても契約は遂行できる。それとも、もう千年待ちたいのか?」
カートが苦々しげに顔を歪める。
その時、いきなり地面が波打ち始めた。
地震の不意打ちに全員が地面に投げ出される。
リースと母親が男達の手から放れた。
ミラは地震が終わると同時に立ち上がってリース達に駆け寄った。
男達も起き上がると取り押さえようと向かってくる。
ミラは突風を巻き起こした。
男達が吹き飛ばされる。
「大丈夫? 逃げ……」
「はい、そこまで」
最後まで言う前にシーアスが背後からミラの肩に両手を置いた。
「この!」
ミラは背中を向けたままシーアスに風を叩き付けた。
が、シーアスは何事も無かったように肩に手を置いていた。
普通の人間なら挽き肉より細かくなっているはずだ。
ミラが眉を顰めて振り返った。
シーアスが涼しい顔で微笑み掛けてくる。
「邪魔しないでよ!」
もう一度手加減なしで魔法を使った。
やはりシーアスには通じない。
その間に男達はリースと母親を取り押さえてしまった。
「それなら……」
ミラはシーアスに回し蹴りを放った。
シーアスがミラから手を離して蹴りを避ける。
その隙にミラはリース達の方へ駆け出そうとした。
が、次の瞬間には後ろからシーアスに抱き締められていた。
ミラの顔から血の気が引く。
「ちょ、ちょっと! 何するのよ! 放してよ!」
「君に逃げられたら困るんでね」
「だからって……どこ触ってるのよ! 嫌らしいわね!」
ミラは必死で暴れたがシーアスの腕から逃れることは出来なかった。
ハイラル教の男達は呆気に取られた様子でミラとシーアスを見ていた。
カートは思い切り顔を顰めている。
ミラがカートを睨み付けた。
「サイテー! あんた達いつもこんな嫌らしい真似してるの!?」
「ち、違う! そいつは信者でも聖職者でもない!」
カートは慌てて手を振った。
動揺していて敬語を忘れている。
ハイラル教の聖職者は妻帯禁止である。
その上、子供のうちから神殿に入れられて異性と接触する事なく育つ者も少なくない。
子供の頃から神殿で生活している者にとっては人前で異性を抱き締めることさえ不埒なのだ。
それでもシーアスを止めようとはしなかった。
「じゃあなんなのよ! 見てないでなんとかしなさいよ!」
ミラはカート以上に動転していた。
半分泣き声になっていた。
父親にさえ抱き締められた事などないのだ。
赤ん坊の時の事は覚えてないが。
しかしシーアスはミラの涙声にも心を動かされた様子はなかった。
「君が逃げようとしている間はダメだね」
楽しんでいるとしか思えない声が耳元で聞こえた。
ミラの背筋を悪寒が走る。
「分かった! 逃げない! 逃げないから放して!」
ミラが必死で藻掻きながら言った。
「ホントに? 俺はずっとこのままでも構わないんだけど」
「私は構うの! 放してよ!」
「……シーアス様、こう申してますしアスラル神官は嘘を吐きませんから」
異教徒への憎悪よりシーアスの行為への嫌悪の方が僅かに勝ったようだ。
カートの声にはシーアスを咎めるような響きがあった。
シーアスが残念そうに溜息を吐いて手を離した。
その息が首筋に触れてミラは身震いした。
三
「あの方の事は……」
「この娘を餌にして呼び出せ」
「はい……それで、その女は」
「無論、連れていく。あいつにもしもの事があったらこの娘にやってもらわなければならないからな」
「そうですか」
カートの残念そうな表情はミラを殺せない事によるものか、それともシーアスの態度に対する懸念によるものか……。
カイルの話が終わる前にラースは神殿中の神官にミラの捜索を命じた。
神殿長はおろか神官長にすら許可を求めなかった。
にも関わらず神殿長も神官長も咎めようとしないどころか、むしろ当然のような顔をしていた。
「ミラに何かあったと思うんですか?」
カイルの問いにラースは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。魔法が使えるんだ。滅多な事は無いだろう」
「お言葉を返すようですけど、ミラって使える魔法の種類が少ないって言うか……」
言い辛くてつい眼を伏せてしまった。
ミラの魔法を貶すのは彼女に教えてるラースを非難する事でもある。
ラースが苦笑した。
「確かに、聖句はまるっきり覚えてないな」
ラースの言葉にカイルの方が慌てた。
「別に、まるっきりなんて、そんな……」
「本当に全然知らないんだよ。唯一覚えたテル・ルーズの聖句も間違ってるんだ。一度言わせてみれば分かるよ」
ラースは事も無げに言った。
カイルは呆気に取られてラースを見上げた。
「確かに黙って使ってますけど……聖句を知らなくても使えるものなんですか?」
少なくともカイルは回復と障壁以外の神聖魔法は聖句を唱えないと使えない。
「魔法は願望の具現化だ。基本的に術者が望めばそれで十分なんだ」
「それは知ってますけど」
それでもラースですら魔法を使う時は聖句を唱えている。
「聖句って言うのは初心者の為にあるんだよ。例えばテル・ルーズは魔法で火の玉を出すものだが最初は上手く想像したものを具現化出来ない。そこで聖句が必要になってくるんだ。聖句の言葉は具体的だろう」
確かに聖句は具現化される現象を具体的に言っているし、初歩的なものほどその状態になるまでの過程が詳しく形容している。
「けど……それじゃ、ミラはどうやって魔法を覚えたんですか?」
「見れば真似出来るから目の前で実演したんだ」
「それならなんであんなに種類が少ないんですか?」
カイルの質問にラースが肩を落とした。
調子に乗って余計な事を……!
カイルはすぐに言った事を後悔した。
「一応、私が知ってる限りの魔法を全部やって見せたんだが……」
ラースに使える魔法があれだけのはずがない。
ラースはセネフィシャルである。
セネフィシャルとは神に不貞を働く輩に懲罰を与える役割を担っている神徒だ。
当然その名を冠した神官も攻撃魔法に熟達した者が就く。
ラースの答えはカイルの予想通りだった。
「覚えられなかったんだ……派手で印象に残りやすいもの以外……」
カイルはミラに魔法の指導をしなければならないラースに心底同情した。
そのうち下級神官の一人が「ミラがハイラル教徒と一緒にいるところを町の人間が見た」という報告を持ってきた。
ラースはそれを聞くと捜索を打ち切った。
五日後、ミラはハイラル教徒の家と思しき建物の一室に閉じこめられていた。
昨日まではずっと移動ばかりで馬車の中で寝泊まりさせられていた。
夕辺ようやく個室のベッドで寝る事が出来たのだ。
当初、シーアスが不埒な振る舞いに及んだら、と思うと気が気ではなかった。
が、カートも同じ疑念を抱いていたらしい。
流石に悪事を働いていても聖職者である。
常時見張りを付ける事によって防いでくれた。
単に逃げられたら困るというのもあったのだろうが。
しかし常に張り付いていたのは監視だけではない。
見張りの隙を突こうとしたのかどうかは定かではないが、とにかくシーアスも一日中ミラの側にいた。
「君も懲りないね」
シーアスが愉快そうに笑った。
椅子に反対向きに座り、背もたれに両腕を乗せている。
見張りへの泣き落としを言ったのだ。
捕まって以来、ミラは見張りに対して宥めたり賺したりと色々試みていた。
一番沢山試したのが泣き落としである。
しかし最初に魔法で吹き飛ばしてしまったことを根に持っているのか、誰一人心を動かされてはくれなかった。
リース達が捕まっている限り逃げ出せない。
なんとか彼らの方からリース親子ともども解放してくれるように仕向けたいのだが……。
「ね、お願い。こんな事、ホントはしたくないんでしょ。人質取ったり、誘拐したりするなんてハイラル教でだって悪い事のはずよ」
しかし見張りはミラの顔を無表情に見返すだけだった。
「確かにハイラルの教えではない」
カートが入ってくるなり言った。
「じゃあ……」
「君達現世利益の教団の人間には分からないかもしれないが我々にとって神の国へ行けるかどうかは大問題なんだ」
「そんなの私には関係ないでしょ」
カートは聞いていなかった。
「神の国では病も争いもなく、身分の上下もない」
「結構ね。異教徒を巻き込まないでくれるなら」
「人間は花の蜜だけで生きていけるようになり、狼も草を食べるようになる」
「狼が羊を食べるのが悪い事ならなんで神様はそういう風に造ったのよ」
「神の国が到来した時――」
カートは辛抱強く説教を続けた。
流石聖職者である。
「我々は三千年もの間、神の国が到来するのを待ち続けてきたのだ」
「時間を無駄にしたわね。ハイラル教徒の人数と影響力を使って世界をより良く変えるように努力してれば神の国なんか待たなくたってこの世は住み易くなってたわよ」
ミラがそう言った途端シーアスが弾かれたように笑い出した。
「何がおかしいのよ!」
「何がおかしいんですか!」
ミラとカートが同時に言った。
シーアスはしばらく笑い続けた。
やがて笑いの発作が収まると顔を上げた。
「この娘は間違いなく我々が探し求めていた〝約束の子〟だ」
「それ何?」
誰もそれには答えてくれなかった。
カートは忌々しげにミラを睨むと出ていってしまった。
四
シーアスも消えた。
文字どおりミラの目の前から掻き消すように見えなくなったのだ。
ミラはシーアスがいなくなると張り番の一人の方を向いた。
「ね、あいつ何者? 信者でも聖職者でもないって言ってたわよね?」
見張り達は顔を見合わせた。
目顔で答えるかどうか相談している。
「……ヘルティスだと聞いています」
監視の言葉遣いが丁寧になっていた。
さっきのシーアスの台詞のせいだろう。
「ヘルティスって?」
見張りは無知を蔑むような目でミラを見た。
「神の使いです」
「神の使い~? それってアスラル教の神徒と同じものよね? 天使って言ったっけ」
「そう、です」
今までぞんざいだった分、言いにくそうだった。
「ホントにそれ信じてるの?」
「今、消えるのを見たでしょう」
「消えただけで信じちゃうわけ? 魔法が使えれば出来るわよ、あのくらい」
あんな魔法を見るのは初めてだが理論上は可能なはずだ。
「やるなよ。いや、やらないで下さい。やったらあの親子を殺します」
「やらないわよ。けど……」
「なんですか」
「あいつはあんた達が思ってるようなもんじゃないわよ」
「知り合いではないと言ったではないですか」
「分かるのよ」
見張りは肩を竦めただけだった。
ミラはちょっと考えてから再度見張りに話し掛けた。
「ね、悪い事した人は神の国へは行けないんでしょ。誘拐なんかしたら死んだあと間違いなく地獄行きよ」
ミラの言葉に監視達が笑い出した。
「何がおかしいのよ」
「神の国とはあの世の事ではありません」
「じゃあ、何?」
「神の国とはこの世が滅びた後の世界です」
「……よく分かんないんだけど、あんた達、世界が滅びるの待ってるわけ?」
「そうです」
「この世を滅ぼしたいほどのどんな不満があるのよ」
「不満があるとかないとかではありません。神の国は完全な世界なのです」
「後ろ向きな宗教ね」
「あなたも今に分かります」
「分かりたくないわよ」
ミラがそう言った時、シーアスが戻ってきた。
消えた時と同様いきなり現れたのだ。
「君の片割れが来たようだ」
「私、双子じゃないわよ」
言い終わる前に外が騒がしくなった。
見張り達が身構える。
「心配するな。もう一人の約束の子が来ただけだ」
シーアスの言葉に見張りは緊張を解くと顔を見合わせた。
ミラと扉を交互に見比べる。
好奇心と神の国を秤に掛けているのだろう。
監視の一人は好奇心が勝った。
戸口に歩み寄ると扉を開ける。
ミラも行こうとして、もう一人の張り番に阻まれた。
「覗くくらい良いじゃない」
「どうせすぐにカートがここへ連れてくる」
シーアスが言い終える前に見張りが慌てて扉を閉めた。
複数の足音が近付いてくる。
足音は部屋の前で止まった。
扉が開くと同時にカイルが飛び込んできた。
「ミラ! 無事だった?」
「言ったでしょう。何もしてませんよ」
カイルはカートの言葉を無視してミラの側に来た。
カイルはハイラル教の上等そうな紫色の聖衣を着ている。
ミラの方は染色すらされていない生成りの服だ。
「カイル……」
ミラはカイルの顔を見詰めた。
「……助けに来てくれたんじゃないのね」
「うん、ごめん。捕まっちゃった。それに……」
言い掛けて周りの男達を見回した。
シーアスと眼があったカイルは眉を顰めた。
あいつ、人間じゃないな……。
「カート、しばらく外してやれ。そいつらもな」
「しかし……」
「俺が残る」
ミラは露骨に嫌そうな顔をしたが、カートを始めとした男達は出ていってしまった。
三人だけになってしまうとミラはカイルを連れて椅子に座っている男から一番離れた場所へ移動した。
しがみつくようにカイルの聖衣を握りしめている。
「ミラ、あいつに何かされたの?」
「されそうになったのよ。それより、なんであんたがこんなとこにいるの?」
「なんでって……」
「ここ、レラスからかなり離れてるでしょ。どうやってここまで来たの? あいつらに連れてこられたの?」
「ミラがハイラル教徒と一緒にいたって話を聞いて攫われたんだんじゃないかと思ったんだ」
そこまで言ったところで部屋の反対側からこちらを見ている男を一瞥した。
薄笑いを浮かべてこちらを見ている。
「もしかしたらアイオンのやつと関係あるのかなって思ってリキア方面に行こうとしたんだ」
二人がアイオンで封印獣を倒した時、ミラはアスラル神官を装ったハイラル教徒に攫われそうになった。
そしてカイルが予想した次に封印獣が現れる場所がリキアかローク、ファイユである。
三ヶ所は同じ方角だからとりあえず一番近いリキアに向かっていてハイラル教徒に捕まったのだ。
「聞いていい?」
「うん」
「それ、ラースも知ってる?」
「実はそれを今言おうとしてたんだ」
カイルは男を気にしながらもミラがいなくなってからの事を話し始めた。
捜索が打ち切られた後、カイルは執務室に呼び出された。
そこからラースに連れて行かれたのは神殿の奥にある半地下の部屋だった。
「すまない、カイル。ミラが戻ってくるまでここにいてくれないか?」
頼んでいるようだがこれは命令だった。
「僕もミラを捜しに行ってはいけないんですか?」
「……すまない」
ラースはもう一度カイルに謝った。
辛そうなラースの顔を見たらそれ以上は逆らえなかった。
「分かりました」
入口に中級神官が二人、部屋に背を向けて立っているのが見えた。
見張りか……。
「悪いな。欲しいものはなんでも持ってこさせるからしばらく我慢してくれ」
「はい」
ラースが出ていくと当然ながら鍵が掛けられた。
一、二、三。
鍵を掛ける音は三回した。
三重に鍵が掛けられらのだ。
訳が分からなかった。
殺されるなら分かる。
カイルは処刑されるだけの罪を犯して殺されるところをラースに助けられた。
今はラース――というかレラスのアスラル神殿――が身柄を預かるという形を取っているだけで罪が許されたわけではない。
罪状はそのまま残っているから、いつそれを理由に処刑されてもおかしくないのだ。
けれど何故閉じこめられるのか分からない。
カイルは部屋を見回した。
室内はカイルの自室と大して変わらなかった。
ベッドと机があるだけの飾り気のない簡素な部屋である。
強いていえば僅かに狭い。
それに机の上に積まれた本の山も無かった。
教典だけはしっかり置いてあったがカイルの物ではない。
窓には布が掛かっていた。
一見幕のように偽装してあるが外が見えないようになっている。
少しでも外が見えないかと布を軽く引っ張ってみた。
布を触った時、固い物が手に触れた。
布と布の間に格子があるのだ。
外からも格子が見えないようになってるのか……。
布を引くと端が僅かに開いた。
破れている。
というか前に誰かが破ったのを後から打ち付け直したのだろう。
カイルの前にこの部屋に入れられた者が何人いるかは知らない。
だが、ここを抜け出した人間は一人だけのはずだ。
カイルはベッドに座りながら戸口の方を窺った。
扉の上と下には小さな窓が付いている。
下は食事を差し入れるため、上は覗き窓だ。
覗くのは当然ながらカイルの方ではなく見張りの方である。
一
ベッドに浅く腰掛けたカイルはさっきのラースの言葉を思い返す。
魔法は願望の具現化……。
無論、魔力が無い人間はいくら願っても実現しない。
この世には魔力を持った人間と持ってない人間がいる。
カイルがそのどちらに入るのかは微妙なところだ。
カイルの場合、回復と障壁は自分の魔力を使ってない。
回復魔法も魔法には代わりはないから普通は術者の魔力によって実現する。
だがカイルの使っている力は自分のものではない。
その力がどこからくるのかは分からない。
ミラではないが「お祈りすると誰かがやってくれる」のだ。
ただ回復と障壁以外の神聖魔法、例えば人を眠らせる魔法などは別である。
これは神殿で教わるまで使えなかったし、出来るようになるまでに何年も掛かった。
だから神聖魔法だけは自分の魔力を使っているらしい。
らしい、と言うのは魔力があるなら種類を問わず使えるはずだがカイルに出来るのは人を傷付けない魔法だけだからだ。
攻撃魔法は初歩的なものですら一切使えない。
離れた相手に掛けた事ないんだけど……。
カイルはベッドに座ったまま静かに眼を閉じた。
心の中で聖句を唱えながら見張りが眠る事を願う。
五回ほど唱えたところでようやく扉の外で人が倒れる音がした。
足音を忍ばせて扉に近付く。
静かに覗き窓を開けると見張りは二人とも熟睡していた。
カイルは溜息を吐くと窓に向かった。
布をなるべく丁寧に壁から破り取る。
本当は必要ないのだが発案者にやれと言われている。
いかにも窓から抜け出した――といっても格子があるから無理な事は一目瞭然なのだが――ように細工をするとベッドの下に潜り込んだ。
音を立てないように静かにベッドの下の床板を外す。
そこには縦穴が空いていた。
穴の底にはカイルが四ん這いになってようやく通り抜けられるだけの横穴が続いている。
カイルは縦穴に降りると床板を元通りに嵌め直した。
これも必ずやるように言われている事の一つだ。
「最初、机の下に抜け穴造った時は壁板嵌めるの忘れてバレちゃったのよね」
と言っていた。
床板を戻すと中は真っ暗になった。
そうか、ミラは魔法で明かりが出せるから……。
ここで魔法の練習している暇はない。
一本道なのだから道なりに行けばいいのだ。
カイルは真っ暗な横穴を進み始めた。
「じゃあ、あんた、無断で神殿抜けだしたの!」
「うん、だからラースにも言えなくて……あの部屋、筆記具なかったから書き置きも出来なかったし。ごめん」
「そんなのはどうでもいいけど……なんで抜け出したりしたのよ!」
「それ、君にだけは言われたくないよ」
「なに言ってんのよ! 閉じこめられたのはあんたが捕まったら困るからでしょ!」
「そうだったらしいね」
部屋の中に視線を彷徨わせる。
最後にまた椅子の男に行き着いた。
「ね、帰ったらどうなると思う?」
ミラが訊ねた。
「どっちが?」
「あんたが!」
「君はあの部屋に入れられたこと何回ある?」
「つまり、レラスに帰っても酷い目に遭うのは同じなわけね」
素直に騙されるのはラースの時だけらしい。
それとも学習したのか……。
「だからってハイラル教に改宗する気はないよ」
「当たり前でしょ!」
「じゃあ、どうするの?」
「逃げるの!」
「どこから? どこへ?」
「こっからどっかへよ!」
「どうやって?」
「それなのよね」
ミラが肩を落とした。
それからカイルの耳に口を寄せた。
「あいつには私の魔法、効かないのよ」
「ふぅん」
あいつなら効かなくてもおかしくはない。
あれは人間の姿をしているがこの世界の者ではない。
「護衛してあげてるんだからせめて知恵ぐらい出してよ」
「いつから僕の護衛になったんだよ」
「バカね、なんの為にラースがあんたと私を仲良くさせようとしたと思ってるのよ。あんたの護衛のためでしょ」
「僕は君の見張りの為だと思ってたけど」
「なんで私に見張りが必要なのよ!」
「教えてもらわなきゃ分かんないわけ?」
ミラが腹立たしげに睨んできた。
「とにかく……」
ミラが言い掛けた時、カートが見張りを連れて入ってきた。
「もういいですかな」
カートの言葉に椅子の男は黙って肩を竦めただけだった。
「約束の子が来たからにはもうこの娘は必要ないでしょう」
「ミラを帰してくれるの?」
「なわけないでしょ」
ミラが冷たく言った。
この数日間の会話を聞いていれば本命が手に入った後の運命は明らかだ。
「バカだな。この娘がいなくなったら、そいつに言う事を聞かせられなくなるだろう」
「しかし邪魔になります」
「邪魔しないように離しておけばいいのさ。俺が預かっといてやるよ」
「嫌よ!」
ミラが悲鳴に近い声を上げた。
真っ青な顔が思い切り引き攣っていた。
表情からするとカートも同じ思いらしかった。
ミラはカートに突進した。
カートが思わず身を引く。
ミラはカートの手を掴んで握り締めた。
「私の命がある限り、あんた達の邪魔をしまくってやるわ。だからさっさと殺して」
「ミラ! なに言ってるんだよ! 折角助けに来たんだぞ!」
「捕まってるヤツがなに偉そうなこと言ってんのよ!」
「そんな言い方ないだろ!」
「あんたは私がこいつらに捕まった後、何があったか知らないからそんなこと言えんのよ!」
「何がって……やっぱり何かされたの!?」
「されそうになったって言ったでしょ!」
ミラは必死の形相でカートの手を握っていた。
「お願い! あんたも聖職者なら情けってもんがあるでしょ! 一思いに殺して!」
どうやら早くここから逃げ出さないとミラは碌な目に遭わないようだ。
二
不意にシーアスの顔が厳しくなった。
窓ガラスが微かに鳴る。
次の瞬間、建物が揺れ始めた。
大した揺れではない。
だがミラは眉を顰めていた。
シーアスが顔を歪める。
「くそ! また……!」
最後まで言う前にシーアスの姿は消えていた。
カイルはミラの方を振り向いた。
「今の、君がやったの?」
何かに気を取られていた様子だったミラが我に返った。
「まさか。あれ、あいつの力よ。ただの虚仮威しで姿が見えなくなるだけなのか、それともどっかに行ってるのかは分かんないけど」
カイルは気配を探るように中に視線を彷徨わせた。
「どこかに行った方みたいだね」
気配がなくなっている。
「この地震、人為的に起こされたもの?」
ミラが首を振った。
地震を起こせるのは相当な魔力を持つ者だけである。
ミラなら簡単だろうが。
揺れはすぐに収まったがシーアスは戻ってこなかった。
「あいつさえいなければこっちのもんよ」
「あいつ、何者なの?」
「天使だって言ってたけど、どう思う?」
「人間じゃないのは気付いてるんだろ」
「うん。でもホントに天使なの?」
「堕ちた方のね」
カイルの言葉にカート達が動揺した。
悪魔とは堕ちた天使の事だ。
シーアスが堕天使だとしたらカート達にとって彼は異教徒同様、敵である。
「堕ちたって?」
ミラが首を傾げた時、轟音と共に建物が大きく揺れた。
全員が床に投げ出される。
「きゃ……!」「わっ!」
壁にひびが入り天井からゴミとも破片ともつかない物が落ちてくる。
今度は地震ではない。
何者かが建物に攻撃を仕掛けてきたのだ。
「何事だ!」
「アスラル教のやつらか!」
「なわけないでしょ!」
アスラルの神官が警告も無しに攻撃をしてくるはずがない。
カイルとミラを助けに来たのなら尚更だ。
再度、何かが建物にぶつかるような大きな音がした。
振動と壁が割れる音や家具がぶつかりあう音、それに叫び声が続く。
建物が揺れ、壁の亀裂が大きくなり天井が落ちてくる。
カイルはミラを庇うのがやっとだった。
肩や背中に天井や壁の破片がぶつかってくる。
男達も必死で床にへばりついていた。
激しい揺れと耳をつんざくような音が続きその度に建物が崩れていく。
不意に音が止んだ。
「来る!」
ミラが叫んだ。
咄嗟の事でカイルは自分の周りに障壁を張るのがやっとだった。
最後の攻撃で残っていた建物は全て消し飛ばされた。
カイルも障壁ごと吹っ飛ばされそうだった。
辛うじてその場に踏み留まれた有り様だ。
風圧とも衝撃波ともつかないものが止んだ時、建物は瓦礫さえ碌に残っていなかった。
家の周囲に生えていた樹々まで薙ぎ倒されている。
「信じらんない! この私を捕まえとくのに自称天使以外に魔法使えるヤツがいなかったわけ!?」
「ハイラル教は魔法禁止だから」
一応神官の中には特別に使う事を許可された者もいるようだがそれ以外の者が使う事は許されない。
魔法は聖人が行う〝奇蹟〟とされているからだ。
ミラが拳を握り締める。
建物に何人のハイラル教徒がいたのかは知らないがカイルが目にしただけでも十人近くいた。
だが今ここにいるのはカイルとミラの二人だけだ。
遮る物が無くなった二人の前方に立っていたのはオレンジ色の布を纏った男だった。
オレンジ色の敷布を被っているような、だらしなさと紙一重の長い聖衣。
セルケト教の神官だ。
「貴様らが〝破壊神の使い〟か」
「その言葉そっくり返すわよ」
ミラの声が怒りで震えている。
二人の周囲、僅かに残った瓦礫の下にはさっきまで人間だったものの一部が見えていた。
血の臭いがしないのはそれすらも吹き飛ばされてしまったのだろう。
たとえ虫の息でも生きている者が何人いるか……。
「この世界を破壊神の手に渡すわけにはいかん。死ね!」
言い終わると同時にセルケト教徒の放った衝撃波が襲ってきた。
カイルとミラがそれぞれ障壁を張って防ぐ。
しかしセルケト神官の攻撃は障壁を突き抜けてきた。
腕や足に次々と傷が出来ていく。
そんなバカな……!
カイルの魔法障壁は他の神官の障壁とは違う。
障壁ごと弾き飛ばされる事はあっても攻撃が突き抜けてしまう事のない〝貫けない盾〟のはずだ。
周りに残っていた瓦礫が後ろへ飛ばされていく。
背後で樹が倒れる音がした。
カイルの頬が抉られ生暖かいものが流れていく。
打ち身と切り傷でそこら中が痛い。
服も破れているはずだ。
「この!」
ミラは大人しく身を守っていたりしなかった。
攻撃を障壁で防ぎながら火球を二発、三発と立て続けに放った。
だがセルケト神官は炎の球を苦もなく跳ね返してしまった。
こちらが完全に防ぎ切れていない事を考えればかなり実力があると言う事だ。
唯一の救いは向こうは魔法を放ち続けられないという点か。
定期的に攻撃が途切れる。
人の魔力は体力と同じで有限だからだ。
人間が全力疾走をいつまでも続けられないのと同様、魔法を放ち続ける事も出来ない。
でなければとっくに二人ともやられていただろう。
向こうの攻撃が止んだ途端、セルケト教徒を炎が包んだ。
が、一瞬にして散らされてしまった。
掠り傷一つ負った様子はない。
平然とした様子で攻撃を再開してきた。
三
「きゃ……!」
振り返るとミラが地面に叩き付けられていた。
同時に攻撃が止んだ。
「ミラ!」
急いで駆け寄るとミラを抱き起こした。
ミラの服の前面が真紅に染まっている。
右頬にも顎の近くから額まで穿たれたような傷が付いていた。
「ミラ、大丈夫!?」
「平気よ」
ミラは不機嫌そうな声で答えると自力で半身を起こした。
見ると背中も血塗れだった。
衝撃波が貫通したのだ。
服の腹部に空いた大きな穴と身体の前面を真っ赤に染めた鮮血が傷の酷さを物語っていた。
よく即死しなかったものだ。
カイルが回復魔法を掛けるまでもなく腹部の傷は治っていた。
ケガをした直後、意識を失う直前の一瞬に回復魔法を掛けたのだろう。
図らずも「重傷でも意識があれば自分で治せる」を実践する羽目になったのだ。
カイルは地面に付いた手で硬い土を力一杯握りしめた。
小石で爪が割れるのが分かった。
こんな理不尽な目に遭っても何も出来ないなんて……。
自分には止めさせる事もやり返す事も出来ない。
悔しさで拳が震えた。
「ちょっと」
ミラがカイルを突いた。
「来るわよ」
カイルは顔を上げると障壁を張った。
想定内とはいえミラは防御が得意ではない。
そうと分かった今、ミラも一緒に守らなければならない。
直後に衝撃波が襲ってきた。
カイルは攻撃を防ぎながらミラの顔の傷に回復魔法を掛けた。
「同時に出来るの?」
「君は出来ないの?」
「うん、神聖魔法は同時には使えない」
つまりケガを治しているところを狙われたらやられてしまうのか……。
ミラにも障壁張っておいて良かった……。
「君と同じで回復魔法と障壁は『お祈りすると誰かがやってくれる』んでね」
「……っ痛!」
ミラが顔を顰めた。
治したばかりの顔にまた傷が出来ていた。
「どうしてこっちの攻撃は利かないのにあいつの攻撃は防げないのよ! あんた、あいつの魔法を跳ね返したりとかは出来ないの?」
「攻撃は一切ダメ」
「もぉ! なんなのよ、あいつの力は」
「向こうのは僕らの魔法より発達してるみたいだね」
「つまり向こうの魔法は願望の具現化じゃないって事?」
「それは基礎の基礎。それを更に発展させて複雑な形で実現したのが向こうの魔法なんだと思う」
「なんでそんな事すんの?」
「現にこっちより強いだろ」
ミラが「やなヤツ」とかなんとか言いながら顔を顰めた。
「なんとかしなきゃ。これじゃ、まだ生きてる人がいたとしても助けられないわよ」
そうは言われてもカイルに出来るのは障壁を張りながらミラと自分に回復魔法を掛ける事だけだ。
向こうと違ってカイルの障壁と回復魔法はいつまででも使い続けられるが攻撃が貫通してくる。
万が一即死するような攻撃が当たったらそこで終わりだ。
「どうしてこういう時に自称天使がいないのよ! あいつがいればハイラル教の連中だって無事だったかもしれないのに!」
「それはどうかな」
天使は天使でも堕天使だ。
ハイラル教徒を利用しているだけだから守ったりはしないだろう。
ミラは暫く考え込んでいたがやがてセルケト教徒の方を向いた。
「仕方ないわね。あんまり人には使いたくなかったんだけど、テル・シュトラを……」
「ダメだよ」
「他に効きそうなの無いわよ。この前のイス・レズルは大きすぎてあんなちっちゃい的に当てられるかどうか分かんないし」
あれは生えてきたのではなく落ちてきたのか……。
大地系の魔法はその名の通り地面から出てくるものなのだが。
「正確にはイス・レズルじゃないけど……テル・シュトラはハイラル教の人達に止めを刺しちゃうよ」
まだ生きてる人がいたら、だけど。
カイルは言葉に出さずに付け加えた。
「なら、どうするのよ」
「一度見れば真似できるんだろ。あいつと同じ魔法なら多分」
「そっか」
「ちょっと待った」
早速やり返そうとしたミラを止めた。
「なんで止めんの?」
「この程度じゃ無理だよ」
「じゃあ、どうしろって……」
「一度だけ」
カイルは低い声で呟いた。
「え……?」
「一度だけなら、あいつの最大の攻撃を防げると思う」
「それで?」
「二発目が来る前に同じ魔法でやり返して」
「分かった」
ミラが真剣な顔で頷いた。
カイルはセルケト教徒の攻撃が止んだのを見計らって怒鳴った。
「そんな攻撃いくらやっても無駄だ!」
「そうは思えないが」
セルケト教徒がバカにしたように嗤った。
確かに服はぼろぼろで身体は傷だらけだ。
この状態で言っても説得力に欠けるだろう。
しかし、ここで挫けるわけにはいかない。
「現に僕達は無事じゃないか」
「いつまで保つかな」
「僕達はこれでも上級神官だ。あんたの最大の技にだってやられない自信あるけど?」
カイルは笑みを浮かべた。
不敵に見える事を祈りながら。
「強がりを」
「なら試してみろよ。通用しないって証明してやるから」
「いいだろう。あの世で後悔するんだな!」
セルケト教徒が指で宙に図形を描きながら呪文を唱え始めた。
「あいつ、何やってんの?」
「印を切りながら呪文を唱えてるんだよ」
「何の為に?」
「聖句と同じ。魔法を出す為の準備みたいなものだよ」
「面倒くさそ。魔法教わったのがアスラル教で良かったわ」
「そんな事はどうでもいいから、あいつの技ちゃんと見てろよ」
「大丈夫よ。あんたと同じでね」
ミラが胸を張った。
「ありがと」
カイルはちょっと笑ってみせた。
本当はそれほど自信があったわけではない。
さっきまでの攻撃だって完全には防げていなかったのだ。
けれど、これでやらないわけにはいかなくなった。
ミラさえ守れれば……。
カイルは深呼吸をすると障壁を張った。
一拍遅れて炎の奔流が圧力となって二人を襲った。
「く……!」
後ろに押されそうになるのをなんとか堪える。
倒れてしまったら自分もミラもそれまでだ。
必死で圧力に対抗していたが少しずつ後ろに押されていく。
顔の前で交差した腕が熱のせいで激痛がする。
袖が燃えて灰になる。
ミラも両手で顔を庇っていたが無事なようだった。
だがやはり完全には防げていない。
時折貫通した攻撃でケガをしている。
カイルも今だけは回復魔法を掛けている余裕はなかった。
腕の感覚が無くなる。
炭化するのではないかと思ったが仮に焼け落ちてしまってもカイルは欠損した部位の再生も可能だから命と意識さえあればなんとかなる。
セルケト教徒はホントに最大の技を放ってくれたらしい。
今までよりも短い時間で攻撃が止んだ。
カイルは思わず安堵の息を漏らした。
身体中の力を使い果たした気がする。
膝を突きたかったがここで弱みを見せるわけにはいかない。
目を見張っているセルケト教徒に笑ってみせた。
「この! ならば今一度……!」
「遅い!」
印を切ったり呪文を唱えたりしない分ミラの方が早い。
驚愕しているセルケト教徒に圧力を伴った炎が襲いかかった。
四
炎が消えた時、セルケト教徒は後方の焦げた樹にもたれて立っていた。
傷一つ負っていない。
「嘘……あれでもダメだったの!?」
ミラの声が動揺している。
カイルも一瞬緊張した。
すぐに障壁を張れるように身構える。
だがセルケト教徒は微動だにしない。
様子を窺っていたカイルは身体の力を抜いた。
「どうなってるの?」
「君の勝ち」
「でも……」
「魔法そのものは防がれちゃったけど……防ぐので力を使い果たしちゃったんだよ。魔力の過剰な放出による心停止ってとこかな」
おそらくミラの放った魔法の方が遥かに威力が強かったのだろう。
ミラの魔法がカイルの回復を司る力と同じだとすれば、ミラは自らの魔力は使ってない。
自分の力でなければ身体に負担が掛からないから幾らでも威力を上げられるし際限なく打ち続けられる。
有限である普通の魔力とは違う力なのだ。
「死んじゃったの?」
ミラが青ざめた顔で唇を震わせる。
カイルはミラの肩に手を置いた。
「誰か生きてる人がいるかもしれない。探してみよう」
「……うん」
周囲の木々は薙ぎ倒されていたものの離れた場所の樹は無事だった。
その為、瓦礫も犠牲者も樹に引っ掛かってあまり遠くへは飛ばされなかったのだ。
障壁を張れるミラやカイルでさえケガをしたのだから魔法の使えない者があれだけの攻撃を受けて生きていられるわけがない。
とりあえず犠牲者を埋葬しようという事になった。
しかし遺体は全てばらばらになっていて正確な犠牲者の数が分からない。
ミラは当然ながらハイラル教徒達の人数も顔も覚えていなかった。
ミラに分かったのは一度に目にした最大の人数は人質を抜かして六人。
それに人質の二人を加えて八人。
つまりそれ以下ではない。
カイルが一番沢山見たのはここに着いたときで八人くらい。
その他に複数の人の話し声がしたから人質を含めれば十人は越えていただろう。
仕方なく全員同じ場所に埋める事にした。
ただ流石にセルケト教徒とは一緒に入りたくないだろう、という事で意見が一致した。
セルケト教徒の分は隣に別の穴に埋める事にした。
「でも、こいつだけが一人で他は全員一緒ってなんか特別扱いみたいで腹立つわね」
とは言え手足を別々に埋められもそれはそれで嫌だろう。
「うーん」
カイルは考え込んだ。
その時、建物の瓦礫が目に止まった。
「棺……」
「え?」
「棺、作ろうか。リース達とハイラル教徒の分だけ。全員一緒は同じだけど」
「私、棺なんて見た事ないから作れないわよ」
「僕が作るよ」
カイルは瓦礫の中から材料を集めた。
カイルが棺を作っている間、ミラは墓穴を掘った。
といってもミラは魔法だからすぐに終わったが。
「あんた、そういうの得意よね」
ミラが棺を作っているカイルを眺めながら言った。
「え?」
「執務室の扉に付けた花瓶とか壊れた棚の修理とか全部あんたがやったんだって?」
「うん」
「好きなの?」
「何が?」
「大工仕事」
カイルは思わず手を止めて釘に目を落とした。
そんなの、考えた事も無かった。
けれど、やっている時は楽しいのも確かだった。
カイルはなんと答えればいいのか分からないまま作業を続けた。
ミラもしつこく訊ねようとはしなかった。
暫く経ってから、
「……僕の村にムノーガっていうお爺さんがいたんだ」
カイルがぽつりと言った。
「知ってる。昔、船大工やってた人でしょ」
そうだ、村にいた頃は暇さえあればそのお爺さんの仕事を見ていたっけ。
昔の話を聞くのが楽しくて……。
「……その人に教わったんだ」
「ふぅん」
棺が出来るとそれに犠牲者を収めて穴に入れ土を被せた。
「お墓の上を歩かれたらイヤよね? 上に何か置いた方がいいと思う?」
一応棺や遺体の分だけ土が盛り上がっているが、それは遺体が腐敗して土に戻ったら平らになってしまう。
「ハイラル教は木や石の棒を立てるんだけど……ケナイはどうしてた?」
カイルのいたラウル村の墓は盛り土をするだけだった。
「土を盛ってたと思うけど……」
ミラが首を傾げた。
何しろミラがいる限り寿命以外で死ぬ事はまず無かったのだ。
大して大勢いる訳でもない上にミラが生まれるまでは長生きする人間は滅多にいなかった。
老衰以外の死因が無いのに年寄りが殆どいなかったのだから当然葬式に立ち会った事は無いし村の中で大事にされていたから外にある墓を見る機会も無い。
「両方やっとく?」
「そうね」
ミラは同意してからセルケト教徒の墓を指した。
「こっちは?」
「セルケト教徒は分からないよ」
「この前、調べたって言ってたじゃない」
「埋葬方法調べたわけじゃないよ」
この辺にはセルケト教徒はいない。
二人ともセルケト教徒の墓を見た事が無かった。
「とりあえず板を立てとけばいいんじゃないかな」
「そうね」
二人は盛り土をしてからハイラル教徒とセルケト教徒の分の板を立てた。
「あの世ってホントにあったのね」
「なんでそう思うの?」
「あいつが天使だって言うのがホントなら、あの世があるって事でしょ」
「天使も悪魔もあの世に住んでるわけじゃないよ。天使がいるのは天界、悪魔がいるのは地獄、死んだ人が逝くのは冥界。ハイラル教で悪魔が住んでる世界(地獄)はアスラル教のティルグの事だし」
ミラは混乱したように首を傾げた。
「じゃあ、あいつはどこから来たの?」
「言ったろ。ティルグの住人だよ」
カイルは少し躊躇ってから付け加えた。
「アイオンで魔物を倒した時に見た世界。多分あれがティルグだよ」
ミラは分かっているのかいないのか不思議そうな顔でカイルを見ている。
この様子ではティルグの事も覚えてないのかもしれない。
ラースから教わっていないはずは無いのだが……。
本当にミラがバカではないのか自信が無くなってきた。
ティルグというのは空間の壁で遮られたもう一つの世界である。
その昔、混沌から大地母神が生まれ、続いて天空大神が生まれた。
大地母神と天空大神との間に最初に出来たのが光明神と海洋神である。
海洋神の性格は穏やかだったが光明神は凄まじい熱と光であらゆるものを破壊した。
光明神のもたらした破壊により世界は壊滅した。
折角創った世界を壊された大地母神は世界を二つに分けた。
一つは大地母神アスラルの治める穏やかな世界。
もう一つが破壊神となった光明神の治める破壊に満ちた世界――ティルグ――である。
光明神を向こうの世界に追いやってしまったのでこちらの世界には光が無くなった。
そこで光明神の比較的穏やかな性格の子供の一柱をこちらに呼び、太陽神にしてこの世界に昼を創った。
魔物というのは破壊神の世界からやってくるのだ。
「覚えてる?」
カイルは恐る恐る訊ねた。
ミラは何も言わずに肩を竦めた。
ラースの胃は穴だらけかもしれない……。
カイルは密かにラースに同情しながら説明を続けた。
一
「理由は分からないけど、ティルグとこちらを遮る壁に亀裂が生じたんだ。それであいつがこちらに来た。起きるはずのない地震は空間の歪みのせいだと思う」
以前ラースが言っていた『空間の振動』とはそれだろう。
裂け目が閉じようとするときに大地が――というより空間が揺れるのだ。
「じゃあ、あいつが消えちゃったのは……」
「さっきの地震で亀裂が閉じちゃったんだろ。一時的にだと思うけど」
向こうの者をこちらに来させない為の壁を無理にこじ開けているに違いない。
基本的には開いてないものだから閉じてしまうのだ。
「そっか」
ミラは納得したように頷いた。
「ね、セルケト教もハイラル教もアスラル教もないところで、ここから一番近いとこってどこ?」
「この大陸の西の果て辺りはもしかしたら……」
「それ、ここからどのくらい?」
「歩いて一年か一年半くらい」
ミラはうんざりしたような顔になった。
「じゃ、ここから一番近い海は?」
「南に十日くらい」
「そこから隣の大陸までは?」
「二十日くらいじゃない?」
「じゃあ、そっちね。行きましょ」
ミラが歩き出す。
「……どこに行くの?」
「隣の大陸に決まってるでしょ。もう上級試験終わってるし、今頃マイラが私の部屋でふんぞり返ってるはずだもん」
「隣の大陸なんて言葉も習慣も、何もかも違うんだぞ」
「なんとかなるわよ」
ミラはカイルの腕を掴んで引っ張っていこうとした。
その手を静かに外す。
「僕は嫌だ」
「殺されるかもしれないんでしょ!」
「君を助けるための囮になってくれたカイルを殺したりはしないよ」
穏やかな声と共にラースが森の中から現れた。
ラースはカイルとミラのぼろぼろの服を見ると眉を顰めた。
「遅くなってしまったようだね。すまなかった」
「ラース! どうしてここに……」
ミラがカイルを庇うように前に立った。
「魔法で僕達の位置を知るくらい、ラースなら簡単だろ」
カイルがそう言うとミラが振り返って睨み付けてきた。
「あんた、それが分かってたからここでぐずぐずしてたのね!」
「当然だろ」
「サッイテー!」
「なんとでも言えよ」
「言うわよ。バカ。間抜け。意地悪。陰険。陰湿、偏屈……」
「そこまで言う事ないだろ!」
「なんとでも言えって言ったじゃない!」
「それなら僕だって言わせてもらうけどな……!」
「よしなさい、カイル」
ラースが穏やかにカイルの肩に手を掛けた。
ミラはカイルに舌を出してみせると先に行ってしまった。
カイルが口を開こうとするとラースの手に力が籠もった。
カイルは不満を隠そうともせずにラースを見上げた。
「女性との口喧嘩はするだけ無駄だ。敵いっこないから止めときなさい」
「ラースが言い負かせない相手がいるとは思えませんけど」
「言い負かされた時より言い負かした時の方が始末が悪いんだ。泣いたり拗ねたり聞こえよがしに嫌みを言い続けたり……」
「経験があるような口振りですけど……」
「私がガブリエラの言う事を聞かされた事はあっても、ガブリエラが私の頼みを聞いてくれた事は無い」
ミラはそのガブリエラと仲がいいのである。
カイルは溜息を吐いた。
「じゃあ、当分、機嫌は直りそうにないですね」
「それはどうかな。帰るまで覚えてられないだろう」
ラースがミラに聞こえないように低い声で言った。
その時、前を歩いていたミラが振り返った。
「ラース、私、どうしても帰らなきゃダメ?」
「他に行く当てがあるのかい」
「マイラ……」
「彼女はタグラへの転属が決まった」
「タグラ?」
「元々ケナイの人間はタグラの神殿に入るものだから。帰ってきてくれるね」
ミラはカイルに目を向けた。
「僕は帰るよ。君も魔術師になるにしても、もう少し魔法が上達してからでも遅くないんじゃない?」
「悪かったわね!」
ミラはカイルを睨み付けた。
レラス神殿に帰ると、ラースが約束した通りカイルもミラもお咎めなしだった。
あれだけ大騒ぎしたのが嘘のようだ。
窓から差し込む朝日が眩しい。
カイルは執務室で資料の整理をしていた。
これでいつも通り……。
そう思った瞬間、扉が乱暴に開かれてミラが入ってきた。
「ミラ、もう少し静かに……」
「ちょっと来て!」
ミラはカイルの腕を掴むと引き摺るようにして歩き出した。
「なんだよ」
「大事な用があるのよ!」
「ミラの『大事』は碌な事が……」
カイルは腕を振り払おうとしたが、
「いいから!」
ミラは離そうとしなかった。
二
白い石に青みがかった影が落ちる廊下を足早に通り過ぎていく。
長い廊下の端まで行くと見覚えのある階段を下り始めた。
「どこ行くの?」
ミラはその問いに行動で答えた。
着いた先はカイルが一度、ミラは抜け穴を何度も作れるくらい入った事のある部屋だった。
ミラはカイルと部屋へ入ると扉を閉めようとした。
「ちょっと待って!」
カイルは慌ててミラの横を擦り抜けると戸を開いた。
「何すんのよ」
「それはこっちの台詞だよ! こんなとこで二人きりになるのはマズいだろ!」
「他の人に聞かれたら困るのよ。二人きりじゃない方がマズいでしょ」
「どうして執務室じゃダメなんだよ」
「いつラースやガブリエラが来るか分からないじゃない」
「これ以上、君の悪巧みに付き合うのはごめんだよ」
「違うわよ!」
「じゃあ何?」
「聞かれたくないんだってば」
ミラがじれったそうに言った。
「二人切りになるのなんてこれが初めてじゃないでしょ! そこ閉めてよ!」
「場所を考えろって言ってんだよ! こんな個室で……」
カイルはベッドを一瞥した。
「執務室だって個室じゃない!」
「なに言って……」
最後まで言う前にようやく思い当たった。
思わずミラを凝視してしまう。
神官というのはあくまで希望者がなるものだ。
少なくともアスラル教は。
子供の頃に神殿に入る者もいるがそれは例外で大抵は早くて十代後半、人によっては人生も後半になり経験も豊富になってから入ってくる者も多い。
ハイラル教などは孤児を神官にする事があるがアスラル教では自立出来るようになるまで面倒を見るだけで神官見習いにはしない。
アスラル教の神官は魔法が使えないとなれないというのもあるが。
アスラル神官は通常の社会で普通の人間関係を経験してきた者達だから当然、神官といえども自由時間はその手の話に花が咲くのだが……。
女性神官達はそういう話をしないのか?
ミラが神殿へ来たのは最近で、カイルよりずっと遅い。
それまで村にいたのだし女性は意外とあけすけな話をすると聞いている。
もっとも神殿に来る前も神官と大して変わりない生活をしていたようだが。
まさか未だに子供は結婚した夫婦が神殿へ行って貰ってくる、なんて話を信じてるんじゃ……。
「早くしてよ」
「とにかく出よう。話なら外で聞くよ」
「なんでここじゃダメなのよ」
「それはラー……ガブリエラに聞いて」
ミラは「もぉ!」とかなんとか言いながら随いてきた。
カイルは神殿の裏口から外へ出た。
神殿から少し離れた場所まで行ったところで立ち止まる。
「ほら、ここなら他の人には聞こえないし、誰もこっそり近付くことは出来ないからいいだろ」
ミラはしばらく不服そうに辺りを見回していた。
それからようやく切り出した。
「マイラのこと聞いた?」
「タグラへ行くって話ならとっくに聞いてただろ」
「それよ」
「どれ?」
「マイラは上級神官になったのよ。おかしいと思わない?」
「何が?」
「上級神官になれたって事は私より上って判断されたんでしょ。なら、なんで私を落としてマイラをここのキシャルにしないの?」
「そうなったら君は出ていくだろ」
「当たり前じゃない。けど、なんでそれがマズいの? おかしくない?」
「君、今まで自分の前任者の事は変だと思ってなかったの?」
「どういう事?」
「君と僕の前任者も中級神官に落とされたわけじゃないんだよ」
「そうなの?」
その問いにカイルはミラが来た時の事を思い出した。
そういえばミラの前任者はミラが来た時には既にいなかった。
だからミラは会ったことがない。
「僕らの前任者は中央神殿へ異動になったんだよ。正確には戻ったんだと思う」
「戻った?」
「うん。多分ずっと前からレラスのキシャルは君って決まってたんだ」
ラースがずっとミラに来るように勧めていたというのはそういう事だろう。
最初から席が用意されていたのだ。
「なんで?」
「そんなの知らないよ」
そう答えるとミラは考え込んでしまった。
その時、
「アンシャル様、キシャル様。セネフィシャル様がお呼びです」
やってきた中級神官が告げた。
「用って何?」
ラースの待っていた執務室へ入るなりミラが口を開いた。
「実は魔物退治に行ってほしいんだ」
ラースは言い辛そうに切り出した。
ミラは待ってましたとばかりに胸を張った。
「任せてよ。簡単に片付けてみせるわ。場所はどこ?」
ラースはすぐには答えずにカイルに目を向けた。
ミラの実力に関しては心配してないらしい。
「ヘメラなんだ」
カイルは目を見張った。
「まさか、あいつですか?」
「いや、関係ない。出たのはシドルだ」
シドルというのは二階建ての家くらいの大きさをした翼の生えた蛙(みたいなヤツ)である。
「知らないとこだけど、案内してくれる人がいるんでしょ」
「カイル、行ってくれるかい?」
「お目付役なんか必要ないわよ!」
「分かってる。シドル退治は君にやってもらう。ただカイルは道を知ってるし……」
「上級神官を道案内だけに使うなんて随分贅沢じゃない」
「向こうがカイルを名指ししてきたんだ」
カイルは思わず息を飲んだ。
ラースが、すまなそうな顔でカイルに向き直った。
「行ってくれるか?」
「はい」
これは仕事だ。
神官の勤めなのだ。
そう自分に言い聞かせても頭に浮かぶのは石をぶつけられた、こめかみの疼きと、あからさまな悪意を向けられた時に感じた胸を抉られるような心の痛みだった。
ラースの顔を見れば心配してくれているのは明らかだった。
とはいえ魔物退治を断る訳にもいかない。
神官の指名くらいなら突っ撥ねる事も可能だろうが。
シドル退治など本来は上級神官が出向くほどではない。
「そうと決まったら早く行きましょ」
ミラはそう言って戸口へ向き掛けた。
「待ちなさい」
「まだなんかあんの?」
「ちゃんと仕度をしてから行きなさい」
ヘメラは朝晩は冷え込むし、ミラは事情を知らないから食事をご馳走になるつもりだ。
報酬は受け取らないとは言っても食事くらい許される。
勿論、本来は無償でやる事だから食事など出さなくても構わない。
正直、食事を出してくれるかどうかは甚だ怪しい。
しかしミラは、
「冗談でしょ。魔物退治すんのよ。食事くらい出してくれるわよ」
と言って弁当を持とうとしなかった。
そのためカイルが二人分持つ羽目になった。
ヘメラへ着いたのは昼頃だった。
村の入り口で一瞬、足が竦んだ。
暴力よりも他人から向けられる悪意が怖かった。
カイルが足を止めた事に気付いたミラが眉を顰めて振り返った。
「どうかしたの?」
カイルが答えようとした時、村長がやってきた。
「よくいらしてくださいました」
村長は卑屈とも言えるほど低姿勢だった。
カイルが治療のためにここへ来てた頃だってこれほどではなかった。
他の家より大きくて手入れが行き届いている村長の家に案内され、応接間で昼食を出された。
ミラがほら見ろ、といわんばかりの表情をカイルに向ける。
それには気付かない振りで料理を食べ始めた。
三
昼食後、二人はシドル退治のため村の出口へと向かっていた。
その時、向こうから歩いてくるのが誰か気付いて思わず足を止める。
向こうも立ち止まると媚びるような笑みを浮かべた。
アリシア……。
どういう顔をすればいいのか分からなくて目を逸らした。
「カイル、久しぶりね。元気だった?」
「……はい」
「魔物退治してくれるんですってね。助かるわ」
その言葉に喉に何かがつかえたような気がした。
何も言えず、ただ下唇を噛んで俯いた。
「期待してるわ。お願いね」
「……はい」
「帰りはうちに寄ってね。前みたいにお茶を用意するから」
それだけ言うとカイルの答えを待たずに行ってしまった。
「今の誰? 綺麗な人じゃない」
ミラが揶揄うようにカイルを肘で突いた。
「アリシアって言ってこの村の薬師なんだ」
「ひょっとして初恋の人とか」
「……うん、憧れてたよ。友達って言える人はアリシアだけだったから」
「友達? そういう感じには見えなかったわよ」
ミラは首を傾げてからカイルの顔を覗き込んできた。
「ここへ来る事が決まってからずっと様子がおかしかったけど、なんかあったの? あんたが魔物を倒したのってここなんでしょ。だったら英雄じゃない。なんでもっと堂々としてないの?」
「気付いてないの?」
「え?」
「僕らはその英雄なのに村長以外誰も出迎えにこなかっただろ。おかしいとは思わなかった?」
「農作業とか……」
言いながら辺りを見回したミラは驚いたような顔で口を噤んだ。
二人に視線を注いでいる無数の瞳に気付いたからだろう。
窓から、戸口の隙間から、物陰から、こちらを見詰めている村人達。
ミラはカイルの袖を掴んで足を早めた。
村から離れるなり立ち止まるとカイルの方を向いた。
「何あれ! どういう事!?」
カイルは昔、魔物を倒した時の経緯を話した。
石をぶつけられた事は伏せて。
「信じらんない! どういう神経してんの!」
「しょうがないよ。アリシアは……」
「誰があんな女の話してるのよ!」
「じゃあ、村の人達?」
「あの村には私の知り合いなんて一人もいないわよ!」
「僕の何が悪いんだよ!」
「なんで怒んないのよ!」
「怒ってどうにかなるわけ? 仕事だよ、これ」
「私達が来る必要なんかなかったでしょ! シドルくらい、ちょっと力のある中級神官が何人かいれば済むもの」
「ごめん。付き合わせちゃって」
「そんなこと言ってんじゃないわよ!」
ミラは怒ったように言うと山に向かって歩きだした。
ミラは倒木を見付けると疲れたように座り込んだ。
「ちょっとぉ! どうして魔物退治っていつもこうなわけ?」
「え?」
少し先を行っていたカイルは立ち止まって振り返った。
「村が襲われるんなら、あの家で待ってた方が良かったんじゃない?」
「村には来てないよ。壊れてる家なんか無かっただろ」
「ならシドルに豊作にしてくれるように頼めば良いじゃない」
「関係ない旅人が犠牲になっちゃうんだぞ」
おそらくシドルは人を襲うだけで豊作にしたりというような事はしないか出来ないのだろう。
そもそも豊作にしてくれる魔物というのも初耳だったし、その後も聞いた事がない。
あれは特別だったのだ。
ミラは座り込んだまま動かない。
カイルは溜息を吐いて倒木の折れたところに目を止めた。
樹の裂け目が真新しい。
「ミラ」
「なによ」
「近いよ。油断しないで」
言い終わる前に何かが飛んできた。
とっさにミラを押し倒しながら障壁を張った。
二人がもつれ合って地面に転がる。
金属質の輝きを放つ巨大な棘のようなものが立て続けに障壁に当たって跳ね返された。
カイルは眉を顰めた。
シドルがこんなの飛ばすなんて聞いてない……。
樹が倒れる音が近付いてくる。
が、本体は樹々に遮られて見えない。
にも関わらず視線を感じて空を見上げた。
梢の上から三つの目がこちらを見下ろしてきた。
シドルじゃない!
これはローゲスダスだ。
首が背の高い樹よりも更に長い、身体中棘だらけの蛙みたいな魔物である。
身体に生えている棘を飛ばして敵を攻撃するのだ。
「出たわね! 一発で片付けるわよ」
その言葉にカイルは慌てて、
「森の中で火炎系はダメだってば!」
と制止した。
「分かったわよ」
空が光ったかと思うと幾筋もの稲妻が大地に突き刺さった。
ローゲスダスが雷に斬り裂かれる。
一瞬遅れで大気を引き裂く轟音が圧力のように押し寄せてきた。
空気と共鳴して大地までが振動している。
カイルは耳を塞ぎながら障壁の強度を高めた。
二人の周りに雷に貫かれた樹が倒れてくる。
ったく、後先考えないんだから……。
最後に千切れたローゲスダスの首が障壁にぶつかって二人の脇に転がった。
ミラは胸を張って何か言った。
しかし、さっきの雷鳴のせいでまだ聴力が回復していなかった。
ミラも気付いたらしく口を噤んだ。
が、すぐにカイルが未だに張ったままの障壁を手で叩きながら口を動かした。
「障壁を消せ」
とでも言っているのだろう。
カイルは黙って首を振った。
ミラが怒ったように何か言った。
ようやく少しだけ聞き取れるようになった。
どうしてよ、とかなんとか言ったらしい。
「今のはシドルじゃないよ。あれはローゲスダスだ」
「名前間違えただけでしょ。魔物の名前を知ってる人なんてそう多くないわよ」
それはそうなのだが……。
不意に風を切る音が聞こえた。
と、思った時、障壁に何かが弾かれた。
ミラが樹々を倒して歩きやすくなったところから今度こそシドルが姿を現した。
「何匹来たって同じよ」
「悪いけど、今のと同じのはやめて」
「ならどうすんのよ」
「水で出来たすっごく大きい竜巻、想像してみて」
ミラは静かに目を閉じた。
近くに川でもあったのだろう。
樹々の向こうで水が巻き上がり、カイル達の方へと向かってきた。
四
「自分を攻撃してどうすんだよ! 敵はあっちだろ!」
「見えないのよ!」
「目を瞑れとは言ってないぞ!」
ミラは目を開けると真っ先にカイルを睨んだ。
水柱が消えた。
かと思うとシドルの前に現れた。
渦巻く水がシドルを巻き込んで空へと舞い上がる。
「あ、終わらせる時は周りに水撒いて」
カイルが言った。
まさかとは思うがさっき雷を受けて倒れた樹が山火事の原因になったりしたら目も当てられない。
ミラは言われたとおり攻撃を終えると水を辺りに散らした。
水流が収まった途端シドルの叫び声が聞こえてきた。
右の翼はちぎれ、左もぼろぼろだった。
しかし身体中から血を流してはいるもののどれも軽傷ばかりである。
「それなら……!」
辺りに風の唸る音が満ち、目に見えない無数の刃がシドルを襲った。
雷と水の攻撃にかろうじて耐え残った大木が細切れになって辺りに散らばる。
けれどシドルには効いていなかった。
たまに、まぐれで攻撃が傷に当たったときだけ吠える程度だった。
ミラが目を見張って攻撃を止めた。
シドルが今度は自分の番とばかりにこちらに舌を伸ばしてくる。
カイルの障壁に弾かれてはいるが間近で見るシドルの舌はなかなか気持ち悪かった。
「ちょっと、シドルって魔法耐性あった?」
「無いよ。君がさっき言ったろ。中級神官でなんとかなる程度だって。これは特別だよ」
「どうすんのよ」
カイルはしばし考え込んだ。
小さな突起が無数に付いている舌が障壁にぶつかる度に水袋を叩き付けたような音がして不快感を煽る。
考えあぐねている時、いきなりシドルが弾けた。
文字どおり、内側から爆発でもしたように粉々になって辺りに四散したのである。
辺りに飛び散った肉塊はかなり気持ちが悪かった。
「ーーーーー!」
ミラが声にならない悲鳴を上げてカイルに抱き付いてきた。
柔らかいミラの身体の感触にカイルの方が動転して真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと、ミラ」
「気持ち悪い~!」
「ミラ、離せよ!」
カイルが慌ててミラを離そうとした時、
「いくら倒しても無駄だ」
聞き覚えのある冷たい声にカイルとミラが同時に振り返る。
いつの間にか背後に自称天使シーアスが立っていた。
カイルはミラが身体を強ばらせた隙に強引に押し退けた。
が、ミラはカイルの背に隠れるようにしながら身体を押し付けてくる。
「無駄って言うのはどういう事だ」
ミラを気にしないようにしながらシーアスに訊ねた。
「ここは三ヶ月前お前が封印を解いた場所だ」
目印のない山の中である。
正確な場所など覚えてなかったが黙っていた。
「封印って封印獣と関係があるのか?」
「あれは封印であり鍵でもあった」
シーアスはカイルの質問に答えず続けた。
「封印獣が向こうとこちらの通路を塞いでたんだ。それをお前が開いてくれたお陰で千年ぶりにこっちに来られたよ」
「教えてくれるなんて随分親切じゃないか」
「彼女にはね」
ミラがカイルに更に密着してきた。
カイルが肩を竦める。
「ミラ、地震」
ミラはすぐに意味を悟った。
次の瞬間、突き上げるような震動が襲ってきた。
カイルとミラが地面に投げ出される。
二人は倒れたまま地面にしがみつく。
シーアスが顔を顰めた。
「まだ子供だからって舐めてたようだな」
言い終える前に姿が消えていた。
「もう止めていい?」
「うん、大丈夫だと思う」
地震が止み、安堵の息を吐いた時、
「こんなのは一時しのぎだ」
シーアスの声が響いてきた。
ミラが慌ててカイルにしがみつく。
カイルはそれを強引に引き離した。
「もう大丈夫だよ」
「また会えるのを楽しみにしてるよ」
最後の台詞はミラに向けられたものだ。
ミラの顔が引き攣る。
ミラを怖がらせられるなんて一体どんな事をしたのか気になるが、まずはここを離れる事にした。
たまたま二人のいたところが街道の近くだったこともあり、村に寄らずに帰る事にした。
「村長に何か言わなくていいの?」
「お礼を貰えるわけじゃないし、僕らが報告するのはラースの方だろ」
ミラもカイルの話を聞いて以来ヘメラにはあまりいい印象を持ってないらしく異議はないようだった。
マイラは神殿の廊下を歩いていた。
廊下の端で言い争う声が聞こえる。
見ると居住区への入り口のところで男が下級神官に食い下がっていた。
「どうかしたの?」
下級神官の困りきった様子にマイラは声をかけた。
「マイラ様」
「マイラ? ミラじゃないのか。ミラって人に会わせてくれ」
「ミラ……」
マイラは名前を呼び捨てにしかけて下級神官に気付いた。
「キシャル様に何か?」
声がキツくなるのまでは抑えられなかった。
カイルとミラがハイラル教徒に攫われて以来、二人への面会の取り次ぎは必ず神殿長かラースに報告するようにと言う厳命が下っている。
「化け物が出て困ってるんだよ」
「それなら私が……」
「ミラかカイルが来れば大人しくなるって言われたんだ。その二人じゃないとダメだって」
「魔物のいる場所は?」
「ロークだよ。ロークの山に……」
「分かりました。伝えておきます」
マイラはそう言うと背を向けた。
「早くしてくれないと……」
男の声が遠ざかる。
ミラ……。
いつだってミラは特別扱いだった。
ケナイの村長も周囲の村の人達も。
マイラの家族でさえマイラよりミラを大事にしていて自分は蔑ろにされていた。
ラースも同じだ。
確かにマイラに魔法の才能があるのを見出してくれたのはラースだった。
村に来る度に魔法を教えてくれたのも。
けれどラースの目当てはあくまでミラだった。
マイラに会いに来てくれた事は一度も無い。
神官になるように勧めてくれた事も。
しかしミラは村から出してもらえなかった。
マイラはレラス神殿に入りやっとの思いで中級神官になったと思ったらラースがミラを連れてきた。
ケナイの人達の話では、ラースはミラを捕まえに来た警備兵に対して脅迫まがいの事まで言って助けたという。
そしてミラはここであっさり上級神官になってしまった。
マイラの方はと言えば、ようやく昇格試験の申請が通ったと思ったらタグラで受けるように言われた。
その時はミラとカイルが行方不明だったからだと思っていた。
試験は上の階級の神官との対決だから相手がいなければ出来ないからだ。
タグラで試験を受けて合格し「やっとミラを追い越した」「ようやくミラに勝った」そう思った。
だがマイラはタグラの上級神官になったと告げられた。
ミラを中級神官に落とさない為なのは聞くまでもない。
元々マイラは替え玉だったのだ。
マイラが偽物だと言う事も、本物がミラだという事もバレてしまった。
カイルやガブリエラに勝てるだけの実力はないしミラは落とされないとなればレラスの上級神官の座に空きはない。