俺が陣内を気にし始めたのは、高校進学してすぐだった。新学期、体育館での始業式。舞台の真ん中で校長先生が「えー、あのー」と繰り返しながら進まない話に欠伸を噛み殺す時間。

 ただでさえ陽気な天気で眠たいのに、実のない話を引き延ばす校長に、飽きてきた時だった。

 トントン、と軽く背中をつつかれた。最初、斜め後ろに立っていた友人の大本かと思ったが、奴だったら俺の弱点の脇腹をつついてくるはずだ。誰だろうと振り返って、それがこじんまりとした女子、陣内だった。

「ここ、桜の花びらがついてるよ」

 自分の頭を指差す陣内。同じように頭に手を当てて取ろうとするも、手にはそんな感触はなかった。

「えっ、どこ?」
「ふふっ。ちょっと失礼」

 背伸びした彼女の顔が近づいて、手が頭に触れる。

 校長先生の声が遠のいた。まるで空に近づく飛行機に乗ったような感覚で、ふわりといやらしくない甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「はい、取れた」

 ここが体育館であることも、今が始業式であることも、頭からすっ飛んでいった。俺にとってここは青空が広がる大草原で、木の上からハートの矢を放つキューピッドがいて、そいつに胸を撃ちぬかれた瞬間だった。
 俺はにっこりと笑う彼女に一目惚れした。


***


 九月に入った途端、陽が落ちるのが早くなった気がする。八月の部活動の帰り道はまだ明るかったはずなのに、すでにもう暗い。こうやって季節の移ろいを感じるのも風情があっていいなぁ、なんて柄にもないことを思ってしまう。

「佐藤は夏休み、どこかに行ったの?」
「サッカー部のやつらと一回だけ海に行った。陣内は?」
「いいなぁ海。私はずーっと吹奏楽。ま、それも楽しかったけど」

 部活終わりの帰り道。高校二年生になった俺たちはお互いに部活動に精を出す夏を過ごしていた。実は同じマンションに住んでいたらしく、それもあってあの日から俺と陣内は急接近した。同じマンションなのでいつも帰りが一緒になるのだが、今日は約一ヶ月ぶりに一緒に帰る。というのも夏休みがあって、今日はそれが明けた始業式だったのだ。夏休み中の約一ヶ月間、陣内と会うことはなかった。お互い部活動をしていたけれど吹奏楽部とサッカー部なんて接点がない。野球部に入ればよかったと少し後悔しているが、蹴りは得意でも投げるのはからきしなので入ったところでカッコ悪い姿を見せるだけだ。

 サッカーしている姿を陣内に見てもらったことないけど。

「海行ったから佐藤、そんなに焼けてるんだ」
「え、うそ、焼けてる?」
「うん、めっちゃ黒いよ。ほら」

 俺の腕の横に陣内の腕が並んだ。確かに彼女の方が白い。

 ……っていうか細くね? っていうか近くね? っていうかちょっと当たってね?

 夏の終わりを名残惜しそうに鳴くセミがすぐ近くの木に止まっている。

「私の白さが確認できてよかった」
「おい、俺の黒さで安心するな」
「えぇ、いいじゃん別に」

 ニコッと笑う陣内に俺の心拍数は急上昇した。

 ただでさえ久しぶりの陣内に緊張しているのに、これ以上心臓に負担をかけないでほしい。俺は気づかれないように深く息を吸って吐いた。そしてなるべく緊張が声に乗らないように問いかける。

「……花火大会も行ってねぇの?」
「そういえば行ってない。そっか、花火大会があったんだっけ。うわー、花火見たかったなぁ」

 心底残念そうにする陣内。そんな横顔も可愛いな、なんてにやけそうになる口元にグッと力を入れて、俺は言った。

「花火、する?」


***


 夏休みが明けたら陣内と手持ち花火をしようと、ずっと計画していた。連絡先も知ってるし、同じマンションだから部屋番号だって知ってるので夏休み中に誘おうと思ったらいくらでも誘えたけど、意味深すぎるかなと危惧して誘えなかった。明けたら明けたでどうやって誘おうかと考えて、あんな誘い方になったわけだけど。

「佐藤、見て! 無限大!」

 鈴虫が鳴く河川敷。陣内は色が変わる手持ち花火を8の字に動かしながらはしゃぐ。その笑顔を今、俺だけが独り占めしてるんだと思うと、休み明けテストの点数が悪くても落ち込まない理由ができた。

「夏の夜は暑かったけど、秋の夜は涼しいね」
「寝やすくなったよな」
「ね。あ、佐藤、火、ちょうだい」

 火が点いた俺の花火に、陣内が自分の花火の先端を近づけてきた。しばらく二つの花火はくっついて離れない。その間、俺と陣内も間接的に繋がってると思うとずっとこのままでいて欲しくなる。しかし、あっという間に陣内の花火は火を吹き出し、離れていった。

「夏にやり残したことを秋にやるなんて、佐藤もなかなかシャレてるね」
「だろ? 俺、シャレオツ人間だから」
「いやそれダサい」
「なんだと?」

 きゃはは! と高音で笑う陣内。居心地が良くてずっとこうしていたいと思ってしまう。一ヶ月会えなかった分、感慨もひとしおで、本当によく誘えたなと自分で自分の頭を撫でてやりたい。

 でも始まりがあれば終わりもあるわけで。

 コンビニの手持ち花火セットはどうしてこんなに中身が少ないのだろう。

「ラスト二本は……線香花火か」

 はい、と陣内に渡された。細くてちぎれそうな線香花火。

「なぁ、陣内」
「ん?」
「これ、早く落ちた方が自分の秘密を暴露するっての、どう?」
「お、いいねぇ! やろうやろう。絶対佐藤には負けないもんね~」

 これも計画のひとつだった。陣内は疑うことなく自分が勝つと信じているが、大正解だ。俺はわざと負けるつもりだった。線香花火なんて、ちょっと揺らせばすぐ落ちる。夏休み中、ひそかに練習したのだ。いかに自然に揺らして負けるか。

 どうしてか。そんなの陣内に告白するために決まっている。全てはこのために計画していた二人花火なのだ。

 わざと負けて「俺の秘密は陣内のことが好きなことです」と告白をする。「私の秘密も佐藤のことが好きなことです」と言ってもらえたら大成功だ。手を繋いで一緒に帰るまでが、この計画の内容である。

「よーし、じゃあいくよ? せーのっ」

 隣同士で同時にろうそくへ線香花火をかざす。その時少しだけ吹いた風に陣内の甘い香りが乗っかって、俺の鼻先を掠めた。心臓がドキドキと音を立て始めたので、隣の陣内に聞こえないか心配になる。

「おっ点いた点いた。さーて、どっちが勝つかな~」

 しゃがんで線香花火の先端を見る陣内。黒というより濃い青色の暗さを纏った夜の河川敷に、二つの小さな線香花火がパチパチと浮かび上がっている。この時間が永遠に続けばいいのにと思う。こうして友だちとして一緒に家に帰ったり、友だちとして一緒に花火をしたり、そんな風に居心地が良いままでいたい気もするけど、このままの関係で終わりたくないために、俺はこうして計画を立てたのだ。

 俺は、一歩、先に行く。

 大きくなった火球の周りを小さな線が飛び交う。陣内は「わ~キレイ! ほら、佐藤のもキレイだよ!」と声を上げた。君の方がキレイだよ、なんて言う余裕など今の俺にはない。

 そろそろかな、と揺らそうとした時。

「あ、落ちちゃった」

 陣内の線香花火の火球が地面にポトリと落ちて、吸い込まれるように光が消えた。その後を追うように俺の線香花火も力尽きる。

「負けちゃった。秘密、暴露しなきゃいけないんだっけ」

 しゃがんだまま、陣内は俺を見た。暗くてハッキリとは分からないが、目を見てないことはなんとなく分かった。

 二人の間にあるろうそくが小さく揺らめく。陣内は小さく口を開いた。

「私、相沢君と付き合ってるの」

 さぁっと冷たい風が吹いて、ろうそくの火が消えた。鈴虫は元気に鳴いて、LEDの街灯は等間隔に並んで優しく河川敷を照らしている。

 一瞬、なにを言われているのか分からなかった。短い沈黙が二人の間を駆けて、俺の思考を停止させる。

「驚いた?」

 陣内の声でハッとする。なにか言わなきゃ、と俺は「え、相沢? うっそマジで?」と口を動かしたが、頭では全く別のことを考えていた。

 もしかして今、わざと負けた? 俺が自分の線香花火を揺らす直前、陣内の線香花火が小さく揺れた。風は吹いていなかったから故意に揺らしたとしか思えない。

 まさか俺の告白を予期して牽制しようとした?

「そろそろ帰ろっか」
「……そう、だな」

 夏に誘っても陣内は来なかったかもしれない。知らない間に少しだけ大人びた彼女は、俺の知ってる陣内じゃない。そのことがひどく俺の心を抉る。

 どうして気づかなかったのだろう。いつも陣内を見ていたはずなのに。時々吹く風が冷たくて、俺の体温を奪っていく。

 あぁ、俺、フラれたのか。告白はできなかったけど、フラれたんだ。

 瞼の裏に、さっき二人でした手持ち花火の光景が蘇る。鈴虫の鳴く、秋の花火。

 人ひとり分の距離を空けて歩く俺たちの頭上には、丸い月が浮かんでいた。

END.