「好きだ」
「ごめんなさい」

 またやってしまった。
 間髪入れずに答えた私に、目の前の彼はがっくりしている。
 申し訳ないけれど、屋上に呼び出されて階段を登っているとき、好きって言われるんだろうなと感づいた瞬間、私の答えは変わった。
 マイナスの方角へ180度ひっくりかえってしまった。

「ならあんまり思わせぶりな態度とらないほうがいいよ」と彼。
「そんなつもりは――」
「沢井さんってよく、じーっと目を見つめてくるから。俺に気があるのかと思った」
「いや、ただの近眼……」

 もっと釈明したかったけど言葉を飲み込んだ。
 お断りしたくせに、言い訳ばかりして嫌な印象を持たれたくなかった。
 むやみに敵を作りたくない。ただでさえ、私は友達も少ないし。

 彼が去ると、私は一人屋上に取り残される。
 初秋の風がやけに冷たく感じた。


「またカエルになっちゃったの?」

 教室に戻って席に着いたとたん、声をかけられた。唯一の友達である、みなみだ。
 私の浮かない顔を見て察したのだろう。

 蛙化現象。
 心理学用語で、たとえ好きな相手でもその人から自分に好意を向けられると、なぜか嫌悪感を抱いてしまう謎な現象のこと。
 転じて、相手のささいな言動で気持ちが冷めるときにこの言葉が使われるようになった。
 クラスの女子たちは「彼の服装がダサくて蛙化」とか「デート中に道端でつまずいてるの見て蛙化」とかよく盛り上がっているけど、私は元々の意味合いのほうの蛙化に悩まされている。
 
「カエルになっちゃったみたい」とうなだれて答える私。
「ふうん。松田でもだめだったか」
「だめだったみたい」
「理帆、言葉繰り返すのやめなよ。カエルっていうかオウムみたい」
「あーあ」

 と、私は机にもたれかかる。
 みなみはあきれたようにため息をつく。

「落ち込むくらいならなんで断ったの?」
「ほんと。なんで私、断っちゃったんだろう……」

 告白してくれた松田君のことは全然嫌じゃない。むしろ好きだと言われて嬉しかった。
 なのに返事をする直前、気持ちが方向転換した。これが蛙化現象の呪いだろうか。
 相手に好意を向けられるとひるんでしまう。特定の誰かと深い関係になるのがこわい。

「理帆、松田のこといいなって言ってたのに」
「いい人だからこそ、なんで私を? って思っちゃう」
「ならストレートに相手に聞いてみれば? 私のどこが好きなんですかって」

 私を好きな理由を聞いて納得したら、私も彼のことをきちんと好きになれるものだろうか。
 うーん、と悩んでいると、みなみが見透かしたように言ってくる。

「たぶん、理帆が嫌いなのは相手の男じゃなくて自分自身だよ」
「どういう意味?」
「自分のことが好きじゃないから、自分を好きになる人間のことを気持ち悪く感じて受け入れられないんだと思う」

 私が、私のことを好きじゃない?
 目からうろこのような、でもしっくりくる指摘なような。
 みなみの考察は続く。

「普通はさ、誰かに好かれると自己肯定感が上がると思うんだよね。自分のことを異性として好いてくれるって単純に嬉しいじゃん」
「そうだよね。嬉しいはずだよね」
「理帆は自己肯定感が低すぎるのかも」
「……どうすれば高くなるの?」
「もっと自信をつければいいんじゃない。それこそ恋愛することで自信がつく人もいるけど、理帆の場合は恋愛を避けてるからなー」

 なぜ色恋沙汰を避けてしまうのか。思い当たる節はある。
 記憶の底に押し込めた、苦い記憶。
 思い出したくなくて、みなみから顔をそらして机に突っ伏す。
 頭上からみなみの言葉が降ってくる。

「せめてさ、少しくらい喜べばいいのに。告られるくらい自分は魅力があるんだなって。告白相手にそんなに落ち込まれたら、勇気を出して告った側が浮かばれないよ」

 確かにそうだと納得する。
 私が誰かに告白したとして、「ごめん」とひたすら拒絶されたらかなり落ち込むだろう。
 同じフラれるにしても、告白されたことを少しでも喜んでくれたら報われる気がする。たとえば「ありがとう」の一言なんてもらえたとしたら。
 さすがみなみだ、と感心していたら、クラスメイトの林さんが近寄ってきた。

「みーたん、英語のノート貸して」
「いいかげんにしてよ」

 冷たくあしらうみなみ。だが林さんは「だってみーたんのノート見やすくって」とめげない。
 みなみが「じゃなくて」と小声で言いかけたが、林さんは華麗にノートを手中に収めてにっこり笑う。

「それよりみーたん、なんかいいにおいする。シャンプー? ヘアクリーム?」

 すると、みなみはまんざらでもない顔になり、林さんと美容やコスメの話に花が咲く。
 美にうとい私は蚊帳の外だ。
 しばらくして林さんが去ると、私はうらやましくてため息をついた。

「みなみってほんと女子力高いよね」
「ま、女子力高くてもモテないけどね。恋愛対象には見てもらえないし」

 そうかなあ、と私は首をかしげる。
 だって、みなみは綺麗な顔をしている。涼し気な目元に薄い唇。体の線は細くて華奢で、だけど運動神経がいいというギャップもある。

 反対に私は、運動神経もスタイルもよくないし、顔立ちが整ってもいない。
 目は大きめらしいけど、ギョロっとしててたまに怖がられる。小学生のときは男子に出目金とからかわれた。
 なのに中学生になったらその男子から「目がくっきりしてて可愛い」と告白された。
 そのときの私の返事は「は?」だ。

 たった数年の内に彼の中でどんな変化が起きたのか。不思議で仕方なかった。
 彼の世界はいつどこでひっくりかえったんだろう。

 その中学時代は暗黒時代でもあった。
 女子たちが話す、どの先輩がカッコイイとか、流行りのファッションとかメイクとかそういう話題に私はついていけず、わかったふりで一生懸命相槌を打っていた。
 幼馴染の男子とくだらない話をするほうが気楽だったけど、男子とばかりいると女子から妙に冷めた目で見られた。女子に嫌われると居場所がなくなる気がしてこわかった。

 だから男子と距離を置き、女子たちの顔色をうかがうようになった。
 けれどある日、クラスのリーダー格の女子が陰で話しているのを聞いてしまう。

「理帆ちゃんってさ。誰からも嫌われないようにしてるのがむかつく」

 めまいがした。嫌われないように努力したら結局嫌われた。
 それ以来、周りにどう思われるか気にするあまり、本音を言えなくなった。

 でもこんな自分が嫌だから変わりたい。
 恋愛は世界の全てじゃないけど、少なくとも自分の世界に変化を起こすチャンスなんじゃないかと思う。
 私だって世界を変えたい。明るい方向へひっくりかえしたい。誰かと深く関係を築いてみたい。
 だから蛙化なんてしてる場合じゃないんだ。


 松田君に再び呼び出されたのは、一カ月後のこと。

「やっぱり好きだ」
「…………ありがとう」

 よし。とっさに口から飛び出しそうになる「ごめんなさい」を変換してみせた。
 こんな私に二回も告白してくれるなんて。松田君って変わってる。
 呼び出されたことをみなみに伝えたら、「松田って粘るタイプなんだよな」とぼやいていた。
 みなみとの会話を思い出してついぼんやりしていたら、松田君が沈黙を破った。

「で?」と彼。
「ん?」と私。
「ありがとうじゃなくてさ。返事を……」
「あの、一つだけお聞きしたいことがあります」

 と、私が姿勢を正すと、彼も背筋を伸ばす。

「なんでしょうか。沢井理帆さん」
「私のどこを好きになってくれたんですか?」
「え。顔」

 かお、とつぶやく私。
 またオウム返ししてしまった。みなみにあきれられる。

「というのは冗談で。でも、めちゃくちゃ可愛いわけでもすごい美人ってわけでもないけど、愛嬌があるっていうか。女子たちとつるんでない感じもミステリアスで気になる」
「ありがとう。……いやありがとうか?」

 前半、軽く蔑まれた気もする。
 だけど松田君は言葉を探すように鼻の頭をかいている。
 照れ隠しもあるのかもしれない。誠実さに疑いはなかった。

「見てて飽きない。沢井さんのことずっと見ていたい」

 ふいに真剣に見つめられて、ドキリとする。
 このドキドキこそ私の世界を変える糸口かもしれない。
 喉元まで再びせりあがっていた「ごめんなさい」を飲み込んだ、その直後。
 誰かがバタバタ走ってくる足音と、遠くのほうで先生がとがめる声がした。

「待て、みなみ――南涼介! 廊下走るな!」

 俊足のみなみが走り込んできた。

「ごめん、理帆は松田とは付き合えない!」

 なぜかみなみが代わりに断りを入れ、私の手を引いて逃げようとする。
 が、そのとき松田君がみなみの腕をつかんだ。

「俺はあきらめてないからな!」
「しつこい。悪いけど理帆のことは……」
「南! 頼むからサッカーまたやってくれ!」
「俺のことかよ」

 みなみは松田君を振り切り、私はみなみに引っ張られるままに走った。
 階段の踊り場まで来て立ち止まり、二人とも肩で息をする。

「みなみ、どうしたの? 私の恋路、応援してくれてるんじゃないの?」

 というか、松田君ってサッカー部だったんだ。私、松田君のこと何も知らないな。
 記憶を探ると、中学のときみなみが入ってたサッカークラブに彼もいたような気がする。
 あの頃のみなみは、フィールドを駆け回り、スポーツ刈りの頭に小麦色の肌をしていた。
 目の前のみなみは、髪も少し伸びて、女子とトークが弾むくらい美容意識高めな男子になっている。
 なんでこんなに変わったんだろう。
 そして、なんで私はみなみのことばかり考えているんだろう。

「松田のこと本当に好きならいいんだけど。……いやよくはないけど。なんか、理帆が投げやりになってるような気がしたから」

 中学のときみたいに、とみなみが付け加えた。
 中3のとき、女子の陰口を聞いてしまったあと、私は男子とも女子とも距離を置き、ちょうど受験シーズンが来たのをいいことに勉強に専念した。卒業したらそれきりだ。
 確かにあの時期、人間関係に対して投げやりだったかもしれない。

「あの頃、理帆が男子とも女子ともいられないって言うから。だから俺、真ん中をとることにした」
「真ん中……?」
「そ。男子と女子の間」

 それで中性的男子を目指したというのか。
 美容関係は妹に教えてもらったら普通にハマったらしい。努力すればするほど効果が出るのが面白くて、まるで筋トレみたいだと。
 みなみは凝り性なのかもしれない。ハマるとのめり込み、急激に成果を上げる。

 みなみとは幼馴染の友達で、小学校のときは子ザルみたいなやつだったのに、中学でサッカーを始めるとめきめきと頭角を表し、みなみを「いい」という女子が現れ始めた。その頃、私は涼介と名前で呼ぶのをやめた。
 中3のときは、サッカーをケガの影響でやめたあと、急に受験モードにシフトしたかと思えば、猛勉強して私と同じ高校に入学してきた。
 それにしても私の理解の範疇を越えていた。男の子って。いや、どう考えてもみなみは普通の男の子じゃない。

「男女の真ん中って。みなみ、なんでそんな発想になるの」
「理帆を一人にしたくなかったから」

 みなみの真剣な瞳に、私の鼓動が大きく跳ねる。

「そんな理由で? ……バカじゃないの」

 そんなのおかしいよ、と笑おうとしたのに、なぜか泣きそうになった。
 中学のとき、女子に嫌われたくないから、クラスで一番仲がよかった南のそばから離れようと思った。
 高校生になって、美意識の高い女の子みたいに変貌したみなみと再会して、彼となら自然と一緒にいられた。

 ――違う。「自然」じゃなかったんだ。みなみが私の隣にいようとしてくれたから、一緒にいられたんだ。

「そうだよ。俺はバカだよ」

 元々は脳筋だし、とみなみは笑う。
 気づけばいつも隣にいてくれた。なんで、と思うと同時に、答えにつながる単純な疑問が口をついて出た。

「みなみって、もしかして私のこと好きなの?」
「内緒だよ。……言ったら理帆に嫌われるから」

 どういう意味?と聞いても、みなみは苦笑めいて首を横に振るばかり。
 私は、好かれると相手を拒絶してしまう。
 みなみが私に嫌われたくないから言えない気持ちって、つまり……。


 教室に戻ると、クラスメイトの女子がみなみに話しかけてきた。

「南君。英語のノート見せてくれない? すごいわかりやすいって噂聞いて」
「いいよ」

 みなみはすんなりノートを差し出した。
 あれ、林さんのときと態度違うな? と思ったらご本人の登場だ。

「ちょっと、みーたん! 私のときと違うんですけど。てか私も借りたかったのに」
「林はだめだ。いつまで注意してもみーたん呼びをやめないから」
「可愛いからいいでしょ。みーたん」
「俺は男を捨てたわけじゃないんだよ」

 なぜかみなみは私を見る。
 なぜか私は恥ずかしくなって顔をそらす。

「沢井さん? 顔赤いけど大丈夫?」

 顔がほてってしまい、林さんに心配される有様だ。
 大丈夫とごまかしつつ、ふと私は林さんに提案してみる。

「林さん。よかったら私のノート貸そうか? みなみのほどきれいじゃないけど」

 林さんがきょとんとしている。出過ぎたまねをしたかも。
 後悔しかけたそのとき、みなみがパスを出してくれた。

「林、そうしなよ。俺はそもそも理帆に書き方教わったんだ」

 林さんは「そうなんだ!?」と歓喜して私のノートを受取ってくれた。
 役に立てたのなら嬉しいなと思ってから、ふいに気づく。

 松田君の告白にきちんと向き合おうとしたのも、林さんに勇気をもって声をかけられたのも、たとえうまくいかなかったとしても、みなみだけは絶対にそばにいてくれる安心感があるからだ。
 だから私は冒険してみようと思えたんだ。


 その日から、気づけば私の目は南を追いかけてばかり。
 ちなみに松田君は本当に南をあきらめないらしく、熱心にアプローチし続け、南も折れかけている。

「そんなに求めてくれるなら、またサッカーやろうかな。ケガもだいぶよくなったし」

 南がサッカーを始めたら、きっとまた女子の見る目が変わる。
 仲良しの中性的男子じゃなく、今度はれっきとした恋愛対象になるかもしれない。
 想像しただけで、私の胸がチクリと痛む。

 南が笑いかけてくれると胸が高鳴り、他の女子と喋っていると少し苦しい。
 この謎な気持ちはどんな現象だろう。
 たぶん、私が憧れているあれだ。

 私の世界がひっくりかえるまで、あと少し。


 (END)