――多分、限界だったのだと思う。

あたし、椿そらはひとり、カラオケボックスの中にいた。
家出して行く場所が無いなんて、哀しいことだ。
そうごちてはみるが、胸の中を渦巻くモヤモヤはどうにもならない。

きっかけは、同棲している恋人のひと言だった。

「椿が女だったらなぁ?」

常識はあるが、基本的に突拍子もない言動が常な奴なので、いつもの戯れ言だと思って最初は「ふぅん」と放置した。しかし、それがいけなかったと気が付くも、既に後の祭り。
恋人の圭とは高校の卒業式に付き合い始め、二一歳のあたしの誕生日に「プレゼントは俺! って重いかっ……?」と無邪気に笑って言うものだから、お酒の勢いだけであたしが「じゃあ、一緒に住もうか」と返して同棲を始めてから、一年。付き合ってからを合わせると、もう四年が経つ。
決して短くはない時間を、圭と一緒に過ごしたのに。性別なんて関係ない、自分は椿だから好きになった、って。

同性同士の恋愛に躊躇するあたしに、最初にそう言ったのはあんたでしょ。

女だったら、は聞きたくもないのに、ことある事に圭の口から飛び出した。それが、二ヶ月間。椿を取り巻く黒い何かは少しずつ大きくなって――やがて張り詰めて、そのまま弾けた。
「何で今更そういう事言うかなぁ、あんた! あたしが男なのは、最初から分かってたことでしょ? ふざけるのも大概にしろ! もう付き合ってられない……別れて。あたしじゃない可愛い女の子でも捕まえて、そいつと一緒に住めばいいんじゃないの?」
一方的にまくし立てて「じゃあ」と言い残し、椿は二人で住んでいるマンションを飛び出した。

そして、今に至る。
夜のカラオケボックスはわりと混んでいたが、機種を選ばなければ部屋にはすぐに入れた。

――カラオケなんて、何年ぶりだろう。

椅子の上で膝を抱えて、ぼんやりとモニターを見つめる。画面は曲の宣伝や漫画の宣伝と次々と切り替わって、やがて同じ内容を繰り返すようになった。
最初に取れるめいいっぱいの時間を指定したが、そこから延長しても居られるのはせいぜい閉店までだ。いつまでもここには居られない。
「……どうしよ、ほんと」
カッとなった勢いだけで出てきたが、必要最低限の物は全て持ってきている自分の冷静さに嫌気が差した。
財布、スマホ、そして……マンションの部屋の鍵。
スマホの電源は、捨て台詞を吐いてマンションを飛び出してから圭からの着信やメッセージがひっきりなしに届いたので、これも見たくない勢いだけで電源ボタンを長押しした。

毎日のように、聞きたくもない言葉を聞かされて。逆に二ヶ月もよく我慢したと褒めて欲しいくらいだ……と心の中でおどけてみるが、ただ虚しくなるだけだった。
どんなに彼の言葉で傷ついても、結局圭を嫌いになれない自分の弱さが、気持ちを余計にこじらせた。別れたいだなんて、微塵も思ってなどいなかった。自分以外の誰かが、女が、圭の横に立っている場面なんて、想像したくない。
自分で放った言葉に自分で傷ついているのは、どうしたって圭が好きだから。彼を手放したくない本音が、椿の思考と行動をぐらつかせる。

――こんなに好きなのは、あたしだけだった?

テーブルの上に、半ば投げ捨てるように置いたスマホをちらりと見やる。電源を切られているそれは、当たり前だがぴくりとも鳴らない。

――もし、今……電源を入れたら、

椿はそこで考えるのをやめて、形だけ用意したデンモクの履歴から自分が知っている曲を、見つけた先から片っ端に予約していく。一曲目に入れた曲のイントロが終わるまでそれを続け、歌い出しの直前にマイクを手に取り、電源を入れてそのまま歌唱を始めた。

――せっかくカラオケに来たんだから、気が済むまで歌おうじゃないの。

自分に言い聞かせるように頭の隅で考えるが、そんなのは所詮、建前だ。自分は、可能性に甘えた。もし、今スマホの電源を入れて、圭から送られたメッセージや着信の数を見てしまったら。もし、自分が電源を入れたタイミングで、彼から着信が掛かってきたら。

もし、――たら。

その可能性と、それに甘えて、縋ってしまいそうになる自分が、ひどく惨めだった。
着信が掛かってきたら……。

――出ちゃうに決まってるじゃん、そんなの。

歌唱を続け、三曲目が終わった。予約曲はまだ数曲残っている。
入室してからどのくらい経ったかすら、時計を持たない椿には知る事が出来ない。ただ今は歌いながら、退室十分前を知らせるコールを待つ事しか出来なかった。



**


「ありがとやしたー」
結局、椿は閉店まで歌い、どこかやる気のない店員の間延びした声を背にカラオケボックスを後にした。空は淡く白んで、初冬の風がジャケット一枚の椿の肌を容赦なく突き刺す。
「……さ、さっむ……!?」
その寒さに思わず声が漏れて、腕を抱き締めて肩を竦ませた。

――マフラーの一枚くらい、巻いて来れたら良かったんだけど。

そんな余裕など無かった。どこか冷めた頭で、必要最低限の物をポケットに突っ込む事が出来ただけでも、充分だと思う。
会計の時に見た時計は六時前だったので、現在は朝の六時を過ぎたところだろう。この時間に起きている知り合いなど知らないし、知っていたとしても今はスマホの電源を入れる事は躊躇われるので、連絡は取れない。ホテルで寝泊りしても良いのだが、近くにあるホテルなど椿は知らなかった。
「……スマホの電源切っただけで、こんなに困るなんてな……」
ズボンのポケットに手を入れて、肩を小さく震わせる。そして、適当な方向へ踵を向けると、椿はその方向へ迷わず歩き出した。


日が昇ってビルの隙間から零れる朝日が眩しい。雲間から覗く鮮やかな青が朝を知らせる鳥の声と重なり、まるで目に映った部分だけがおとぎ話に出てくるワンシーンのようで。
椿はとある公園の敷地に足を踏み入れた。ジャリ、と砂を踏んだ音が、どこか懐かしい。
やっぱり、ここに来てしまう。無意識のうちに刷り込まれた昔の習慣が染み付いて、何かあると自然と足を向けてしまう。圭とよくお散歩デートをしたこの公園は、四年経っても姿形を変えずにちゃんとこの場所にあった。椿は広場へと続く階段の傍に立つと、そこから下に視線を落とす。

風が吹いた。

さらさらとした風が砂埃を巻き上げ、椿は咄嗟に目を瞑る。

風の音。

砂埃が舞う。

砂を踏む――自分以外の足音。

慎重に近付いてくる音は、椿の後ろで止まった。振り返らなくても、目を開けなくても、椿には分かった。それと同時に、ここに来てしまった事への後悔と、ひとつの疑問が頭をよぎる。

どうして――。

「……椿」
耳裏に残って離れない、彼が呼ぶ自分の名前。 椿はその声を聞いてからようやく目を開け、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「……圭、なんであたしがここに居るって分かったの?」
疑問が口をついた。
目の前の圭の姿は全身汗だくで、肩で大きく息をしている。そして髪は乱れて、ボサボサになっていた。連絡が一切つかない状態でずっと走り回って、必死に自分を探していたのが見て取れる格好に、椿は直視していられずに思わず目を伏せた。
「なんとなく、椿、ここにいるかなって……正直、最後の望みって感じだったんだけど……この……っ、バカ椿! すっごい心配したんだから……っ!? スマホも繋がらないし……事故にあってたらと思うと、気が気じゃなかったんだけど……っ!」
「バ……バカ!? というかあんた、何でそんなに必死になって探し回ってたの……? あたし、あんたと別れたはずなんだけど……出て行く時のあたしの言葉、聞いてた?」
本人を前にして、くだらない天の邪鬼が顔を出してしまう。こんな事を言いたいわけじゃないのに、どうして。
しかし、返ってきた圭の声は、とても静かだった。
「聞いてたけど……俺は、椿と別れたつもりなんてなかったよ。だから見ての通り、走り回ってたんだけど……ねぇ、椿。俺、また間違ったんだな? 椿に愛されてるって思ってたの、ぜんぶ俺の自惚れで……ただの勘違いだったんだね?」
泣きそうな圭の声に胸がずん、と重くなった。
『また』
いつか、他の奴が言わせた言葉を、今度があたしが言わせてしまった。この男にとってこの台詞がどれだけ重いものか、自分は知っていたはずなのに。
「ち、がう……」
気が付けば、口が勝手に動いていた。
「……勘違いじゃない……あたしは、圭が好き。今も昔も、何よりも大切で……愛しく思ってる……でもあんた、あたしと居るのに疲れたんちゃうの?」
「……なんで、そう思ったわけ?」
それは怒ったような、泣き出す寸前のような。感情を押し殺したような、静かな声だった。
怯みそうになる心を悟られないように、椿はため息と一緒に小さく芽生えた恐怖を吐き出す。
「だってあんた……やたらあたしが女だったら良かったのに、って言うようになったじゃん……あんなの毎日のように聞かされたら、普通は自分と居るの飽きたのかな、とか。あたしと居るのに疲れたのかな、とかさ……やっぱり男のあたしじゃなくて、女の子と居たくなるんじゃないのかって思うわけ。遠回りに「別れたい」って言われてるようにしか、聞こえなかったし……」
「ま、まって! まって椿!」
圭は慌てた素振りで、げろの言葉を遮った。椿はちらりと圭を見る。
「たぶんそれ、続きある」
「……続き?」
「椿が女だったらな~、ってやつでしょ? それ、えっと……」
口をモゴモゴと動かして言いづらそうに圭は俯く。程なくして顔を上げた彼の表情は、羞恥と戸惑いに揺れていた。
「……「俺」か椿が女だったら、場所とか国を選ばないで結婚できるのにな~って言ったの……聞いてない?」
「俺か椿……? 結婚って……?」
「その様子だと聞いてないっぽい……? じゃあ、これで誤解は解けた?」
ぽかん、と口を開けて、いまいち台詞の意味を理解出来ず放心している椿に、圭は調子を取り戻した声で軽く問い掛けた。
「誤解、だったらあたしが悪いし……それは、ごめん。けど、今更そんな事言われたって……あたしはもう、圭の所には戻れない」
「椿、俺のこと「好きだよ、今も昔も愛しく思ってる」って言ったでしょ。それって、俺のことはまだ好きだってことでいいんだよね? 嫌いになったわけじゃないんでしょ?」
「……まぁ」
椿は眉根を顰めて、圭の足元に視線を落とした。
「……付き合ってから四年、その中で一緒に住んでから一年。椿、もういいと思わない?」
圭の声色は変わらず、いつも通り明るい。それが逆に椿の心を痛ませる。
こいつとは別れた。でも、こいつは……別れたつもりはないと言っている。
確かに、俺が一方的に別れを切り出して飛び出して来たから、こいつの承諾や返事は貰っていない。あたしが圭を好きで、愛しているのは変わらない。元々は、口をついて出た勢いだけの別れ話だ。
けれど今までだって、別れを考えなかったわけじゃなかった。
男同志で付き合うのは、あまりにリスクが大き過ぎる。子供は産めないし、付き合っている限りは、世間でいう独身の部類に永遠に振り分けられる。華々しい結婚報告も、もちろん出来るはずがない。それはあたしだけじゃなく、圭も例に漏れずに。
本人達は、全てを覚悟して一緒に居る。あたし達の関係を知っている友人達は「二人が幸せならそれでいいんじゃないの」と、何だかんだで見守ってくれているけど。
でもお互いの両親は、間違いなく良い顔をしないだろう。

だから、圭の「もういいと思わない?」という問い掛けは、椿の放った一方的な「別れ」じゃなくて、本当の「別れ」の前振りかもしれない。椿はそれを覚悟しようとして、そして心が傷んだ。どうやっても思考がネガティブな方向にばかりいって、正常に頭が働かない。
声が震える。
「もういい……、って?」
「もう、結婚してもいいと思わない? 俺たち」
圭は平然とそう言った。抜けていた、重要なワードを加えて。椿は言葉を探すが、真っ白な頭は寝不足のせいもあり、キャパオーバー寸前だった。
「四年って、普通の男女が結婚するのには充分な時間でしょ。むしろ、もっと早いやつらもいるんじゃない? 知らないけど…… 海外のほうが同性婚には寛容だけど、東京でもすっごい限定されるけど……同性同士の結婚、認められてる場所もあるらしいんだよね。調べて出てきた時には驚いたよ」
「……けっこん」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。圭はそれを聞いて「うん」と笑う。
「俺、あんたのこと『椿』じゃなくて『そら』って呼びたくて……でも今更だから、なかなか勇気が出なくて。何かのきっかけで下の名前で呼べたらいいな、って思ってたんだけど……あっ、結婚したいのは本当! 正直ずっと考えてた! 言えなくて、変な言い方しちゃって……椿に別れ話切り出されちゃったけど……」
「…………」
「……ごめん。まだ間に合うなら……椿が許してくれるなら、俺のところに戻ってきてほしい。俺、椿がいないと駄目なんだ」
「でも……あたし、あんたの事を信じられなかった……こんなんじゃ、きっとまた同じ事を繰り返す」
「ねぇ、椿。どんなに相手を想っていても、不安になることだってあるでしょ? そうさせたのは俺だけど……でも、このまま椿と離れるくらいなら……俺はアーティスト活動なんてやめる。椿ならさ、この言葉の意味、わかるでしょ?」
「はぁ!? そ、そんなのただの脅迫じゃん……! そんな博打みたいな事しなくてもあたしは、あんたと……っ、! そもそも、許す許さないは圭が決める事じゃないの? 最初に勘違いしたのはあたしなんだし……」
素直じゃない。こんなひねくれた言い方で、どこまで伝わるかは全然分からない。ぐらりと、自己嫌悪で胸が締め付けられて、苦しい。
圭は路上から這い上がって昨年やっとプロデビューをし、今年に入ってからやっとドラマの主題歌などに選ばれるようになったばかりだった。それを盾にするなんてずるいし、椿が誰よりも圭の活躍を願っているのは本人だって理解しているはずだ。だから……。
「……お願い、俺と一緒にいて……戻ってきて、椿」
だから……頼りなく、小さく、弱々しく囁かれた圭の言葉に、椿は涙腺が緩んでいくのを誤魔化せない。
こくりと、一回。
返事の代わりに頷いてから、涙目を見られないように深く俯く。
「よかった……俺、言葉選び……思い切り間違えちゃってた……。ひとりで勝手にウジウジしてないで、迷ってないで。最初からちゃんと……そのまま言えばよかった」
ジャリ、と靴裏が擦れる音がする。俯いた視界の中に、黒い影と圭のスニーカーが映り込んだ。
「椿」
呼ばれる声に、椿は軽く顔を持ち上げる。
「……そら。俺と結婚してください……ずっと、俺と一緒にいてほしい。あんたがいない未来なんて、俺には考えられない」
溢れ出る涙が止まらなかった。次から次へと流れ落ちる雫と相反して、嬉しさで自然と表情が緩む。 泣き笑いとは多分、このことだろう。
圭の呼び慣れていないのがよく分かる抑揚で紡がれた自分の下の名前に、擽ったい違和感が胸を疼かせる。
しかしその違和感が、自分の未来を照らしてくれているようで。
「えっ……椿、泣いて……? 俺泣かせるようなこと言っちゃった……?」
椿は、ほろほろと涙を流しながら、目の前でオロオロと戸惑う愛しい恋人の身体に、半ば強引に飛びついた。
「……あたしも、圭が居ない未来なんて考えられない。こうやってひとりで暴走して、勝手に突っ走っちゃっても、あんたが必死になってあたしの事探してくれてたの、本当はすごく嬉しかった、から……下の名前で呼ばれるのも、嬉しい」
「……椿?」
「酷い事言った上に、心配までかけて……ごめん。あたし、これからも圭とずっと一緒に居ていいんだよね? 隣に居ても、いいんだよね……?」
涙声をそのままに耳元でそう囁くと、圭の腕が椿の背中に回った。
「……むしろ、椿しかいないよ。俺の隣にいるのは。ねぇ、そら……俺のプロポーズ、受けてくれる?」
「……喜んで。受けるに決まってるじゃん?」
その言葉の後、どちらともなく唇を重ね合わせて、互いに強く抱き締め合う。


澄んだ鐘の音が、どこかで鳴り響いた気がした。