お盆の休暇には、友人の帰省にくっついて実家へお邪魔する予定だったのだが、友人が行けなくなってしまったので、私がひとりで行くことになった。

 本当は、友人の実家の方に面識があるわけではなかったので、遠慮するつもりだった。けれど先方から是非にと丁寧な招待を受け、お言葉に甘えることにした。

 友人は早くに両親を亡くしていて、祖父母に育てられたそうだ。二人もきっと孫の帰省を楽しみにしていただろうから、賑やかしにでもなればと思ったし、友人の育った場所に、以前から興味があった。

 友人は大学の同期だった。彼女は、山間の遠くの町から、進学のため単身都会へ出てきたのだった。
 少し訛りのある柔らかい口調をからかう輩もいたが、彼女はいつもにこにことかわしていた。卒業後、地元へ帰るのかと寂しく思っていた私に、彼女は、戻らないよ、と困ったように笑ったものだった。
 戻っても仕事がないから、こっちで働いて、お金を貯めるんだ、と言っていた。お金を貯めて、故郷でお店をしたいと。
 観光客が入りやすいような、田舎町にあうカフェをしたい、そこで民芸品を売ったりするんだ、と。あの町は、観光スポットとしてもっと売り出せると思うんだ。
 本当は、戻っておじいちゃんとおばあちゃんと一緒に過ごしたかったりもするんだけどね、とも言っていたけれど。彼女はいつもその葛藤の中にあったようだった。

 彼女の故郷は険しい山間にある。
 電車に揺られてその町に向かっていた私は、山の高さと、青々とした緑の鮮やかさに驚いた。そして窓の外に広がる田畑の広さに。

 マンション育ちで、アスファルトの地面に慣れた私も、何故だかノスタルジーを感じる。広い空を大きな白い雲が流れる様子は、建物に遮られた空ばかり見ていた私に、解放感をもたらした。
 照りつける陽は眩しく、汗が滴るけれど、むせ返る様な都会とは違う暑さだった。こんな土地で育った友人を少しうらやましく感じる。

 電車を降りてからバスに乗ろうとして、本数のなさに驚いた。一時間に一本。すでに出た後だった。
 友人が、家からコンビニまで車で十分かかるよ、と笑っていたのを思い出す。それでもマシなほうだよ、と。
 さっきはうらやましいと思ったけれど、実際に住むのは私には無理だな、と思った。そう思ってしまうこと自体が、ちょっと情けなく寂しい気もしたけれど。

 友人の実家は駅から歩いて四十分足らずのところだと聞いていたので、帽子と傘で防備をして、スマートフォンの地図を頼りに歩くことにした。

 通りかかる家々の軒先で、風鈴が揺れている。ひとつだけの家もあれば、たくさんの風鈴が様々な音色を奏でている家も多い。聞いてはいたけれど、実際に見ると少し圧倒された。

 友人が、観光スポットとして売れると言っていたひとつは、自然の険しさや色々な伝承が残る土地柄。そしてパワースポットと呼ばれる場所が多々あること。さらにもう一つは、この風鈴だった。ガラスでできた江戸風鈴を作る工房が、町の中にいくつかあるらしい。

 風鈴はかつて魔除けでもあったそうだ。昔は弓を鳴らして悪霊を祓ったというし、鈴などの鳴り物にはそういう効果があると信じられていた。このあたりの神社では絵馬のかわりに、願掛けに風鈴を奉納するらしい。

 軒先にたくさんの風鈴を吊るす町の姿は、一見風流で涼やかだけれど、なんとなくそれだけで言えないものもある。そういう風習も、この町の歴史を感じさせる。
 風鈴の奏でる風の音に送られながら、ハンドタオルで汗を拭いつつようやく友人の実家らしき家に辿り着いた。ちらりと見える縁側には当たり前に風鈴が下がっている。

 地図と表札の名前をチェックして、小さな門を開けた。小さな庭の飛び石を歩いていく。玄関を隠すように立てかけたれた葦簀«よしず»には朝顔が巻きついて、その陰には水の張った金盥が置かれていた。大きなスイカが冷やしてある。
 映画で見たような風流と生活が、さりげなくそこにあった。やっぱり、友人をうらやましいと思う。

 ガラスの引き戸が開け放してあって、玄関の中が見える。大きな靴箱の上にはガラスの金魚鉢が置かれていて、赤い金魚と黒い金魚が泳いでいた。

「かわいいでしょ」
 家の奥から声をかけられて、顔を上げると、おばあさんが廊下に顔を出していた。私は慌てて頭を下げる。
「不躾にすみません」
「いいんよ、気にせんでね。それ、ゆいちゃんが去年のお祭りですくってきたんよ。かわいいでしょ」

 金魚鉢も、泳いでいる金魚も、かわいい。浴衣姿ではしゃぎながら、金魚をすくう友人の姿が簡単に脳裏に浮かぶ。いい年をした女が仕方がないな、と思うのだけど、いかにも彼女らしい。

「お祭りの金魚、そんなに長生きするものなんですね」
 私は子供のころ、お祭りでとってきた金魚をすぐ死なせてしまった。玄関まで出迎えてくれたおばあさんは、「コツがあるんよ」とかわいらしく笑った。

「立ち話も何やし、上がってちょうだいな。スイカも冷えたころやけん。おじいさんも帰ってくるころやし、一緒に食べましょう」
 にこにこと言ってから、おばあさんは思いついたように「アキちゃんでしょ」と私に確認した。
 なんて無防備で、あたたかで、かわいらしいおばあさんだろう。つられたのが少し、楽しいのが少し、ちょっと苦笑も含めて、私も笑ってしまう。

「おばあさん、不用心ですよ」
 家を覗き込んで、明らかに不審者だった私が言うことでもないけれど。
「大丈夫よ。おしゃれな娘さんやし、きっとアキちゃんに違いないて思たんよ」
 おしゃれだなんてとんでもない、私は取り柄も何もない、ごく普通の女でしかない。ちょっと気恥ずかしくて、でもおばあさんに無邪気にほめられると嬉しかった。

 たくさんおしゃべりしている間に、夜になった。お夕飯をごちそうになり、縁側に腰かけて見上げる空がとても濃く、私の知っている夜よりも暗い。満天に星が散っている様が、金粉を散らした漆塗りの天井のようだった。

 庭先で、迎え火が燃えている。火は少しも揺らがず、風は凪いでいた。軒先の風鈴はすっかり黙ってしまっている。赤い短冊は少しも動かない。

「風鈴は、厄除けの効果があるんですよね」
 私と並んで座り、室内の明かりを背に受けて、団扇を動かしながら、おばあさんが少し驚いた顔をした。

「お盆に飾ったままで、ご先祖様をお迎えできるんですか?」
 もちろんよ、とまたおばあさんは優しく笑う。
「お盆に来るのは、悪いものじゃないからね」
 早く来てほしい、ゆっくり帰っていってほしいと願うものなのだから。私にとってお盆休みはただのお休みで、親戚が集まるだけのイベントだったけれど、この土地ではそうではないのだ。
 自然と、風習と、人の温かさが当たり前にある。

「それにね、この町の風鈴には、別の役目もあるんよ」
 おばあさんは、静かな瞳で言った。どういう意味だろうと思ったけれど、聞くのが少し憚られた。


 突然、ちりん、と音がした。
 私は、音の元を探して風鈴を見上げた。相変わらず風はない。だけど風鈴が、ちりん、ちりん、と鳴っている。

 少し悲しそうな顔で風鈴を見上げていたおばあさんは、顔をうつむけて、目を閉じた。じっと何かをこらえるようにして風鈴の音を聞いていた。 
 そして大きく息をついてから、もう一度顔をあげる。あたたかく微笑んで、再び風鈴を見た。
 おばあさんの眼差しの先で、赤い短冊が揺れている。

「おかえり、ゆいちゃん」
 おばあさんは、優しい声で、ゆっくりと言った。