私が通っている小学校の裏の林には、自分だけが知る秘密の神社がある。
まぁ神社って言っても、大したものは無いんだけど。あるのはボロボロのお社と、狐の小さな石像ぐらい。
それでも私は不思議と、このお狐様に会いに来るのが習慣になっていた。
「お狐様、お願いします! 私に意地悪をしてくるクラスメイト達を、どうか懲らしめてください!」
そして今日も私はお社のお狐様に向かって、何度も手をこすり合わせる。
お狐様の前にあるのは、私が給食で残した食べかけのレーズンパン。この貢物を捧げることで、私を救ってくれるよう願っているのだ。
「……やっぱり、ダメかぁ」
どれだけ必死にお願いをしても、返事は何もない。
ただヒグラシの鳴く声だけが、誰もいない林の中でやかましく響いている。
「まぁ、分かってはいたんだけどね」
小学一年生のときに偶然、このお社を見付けてからもう四年が経つ。学校や家で嫌なことがあった日は必ず、私はこの神社でこうしてお願い事をしてきた。
だけど一度だって、何かの御利益があることはなかった。
もちろん、自分でもこれは気休めだってことは分かっている。
でも、イジメなんて自分独りじゃどうしようもなくて、ずっと悩み続けてきた。
先生も、親も、全然頼りにならないし。だから私にはこうやって、神頼みをするしかなかったんだ。
「……はぁ。帰ろう。家のお手伝いをしないと、ママにまた怒られるし」
ランドセルを背負い直し、来た道をトボトボと引き返す。
あーぁ、今日も良いことは何も無かったな……。
「なんだ、今日の貢物は随分としょっぱいな……」
「え……!?」
突然、誰もいないはずの背後から声がした。
ビックリして振り返ると、そこには神主さんの服を着た二十代ぐらいのお兄さんが立っていた。
(か、かっこいい……)
アイドル顔負けってぐらい、見た目が整っている。というより、人間離れしすぎていた。
輝くような銀色の髪からは立派な狐耳が見えているし、おしりには髪と同じ色のモフモフな尻尾が生えている。そして手には私が捧げたばかりのレーズンパンが握られていた。
「最近の童は、お揚げを買えぬほど貧乏なのか? こんな粗末な貢物を……いや、案外味は悪くないか? ……うむ、この木の実は中々に美味いな」
「だ、誰なの!?」
ちょっと古臭い、妙な喋り方をするお兄さんだ。私がお狐様に捧げたパンをジロジロと眺めた後、いきなりモグモグと齧り始めた。
「ん、俺か? 俺は銀狐だ。お主こそ何者だ。名を申せ」
「ギンお兄さん? 私は陽菜って名前だけど……」
「なんだ、初対面で愛称呼びとは随分と馴れ馴れしいな……まぁ、良い。この美味い菓子に免じて許してやろう。俺も今からお主をヒナと呼ぼう」
会話をしている間にも、パンはみるみるうちに小さくなっていく。そして最後のひと口をパクンと食べると、少し寂しそうに眉を下げた。
「ヒナが何度も願いを捧げてきた、そこの狐の正体が俺だ。というより、お主は俺のことを知らんのに願いを捧げておったのか?」
もっと無いのか、みたいな目で私を見てくるけれど、残念ながら持っているのはそれしか無いんだよね。レーズンパン、私は苦手だから全部あげれば良かったかな。
「狐がギンお兄さん……ってことは、もしかしてお兄さんは神様なんですか!? まさか、私の願いを叶えに出てきてくれたとか!」
こうして私の前に現れたってことは、遂に願いが届いたってことだよね!?
わくわくしながら、私はギンお兄さんを見つめる。
だけどお兄さんは私の言葉を聞いて目をパチクリとさせると、突然お腹を抱えて笑い始めた。
「あははは! それは無理だ、俺には人の願いを叶えることなどできぬわ!」
え? できない……って、それはどうして?
「そもそも俺は、獣の神と人の間にできた半端者。いわば、ただの妖怪みたいなものだ。尽きぬ寿命はあれど、人の願いを叶えるほどの力は無い」
「願いは叶えられない……それじゃ、どうして私の前に?」
「どうしてかって? ん~、そうだなぁ……」
ギンお兄さんは腕を組みながら、何かを考える仕草をとった。
「居ついた社が放置されてからというもの、ヒナのように掃除や貢物をしてくれた者は長いことおらんかった。しかしお主のおかげで多少の力は溜まったし、物好きな童の顔をいっぺん、この目で見てやろうと思った……まぁ、理由はそんなところだな」
「そ、そんなぁ……」
まさかの『ただ顔を見たかったから』という理由に、私はガックリと肩を落とす。
ションボリと落ち込んだ私を前に、ギンお兄さんはニタニタと意地の悪い笑みを見せた。
「まぁ、そう落胆するでない」
「……え?」
「俺がその『クラスメイト』とやらへ、直接的に天罰を与えることはできぬ……が、虐められているお主を強くすることはできる」
「ほ、本当ですか!?」
思いがけない話に私は思わずギンお兄さんに駆け寄り、間近で見上げる。
お兄さんは少し釣り目がちだけど、色白でやっぱりイケメンだ。
だけど私がジロジロと見つめていると、お兄さんは少し頬を赤くしてそっぽを向いてしまった。
「ヒナは少し素直すぎるな。……まぁよい。それよりも俺の言ったことは本当だ。恩人であるお主に、俺の加護を授けてやろう」
お兄さんはそう言うと、その場でスッとしゃがんだ。そしてその辺の地面にあった小石を拾い上げ、ギュっと手に握り込む。
そんな物を持って、いったい何をしているんだろう?
「今、この石に俺の念を込めておいた。コイツを持っている限り、お主には狐の力が宿るはずじゃ。悪ガキ程度なら、これでどうにかなるだろう」
「えっと……? つまりこの石が私を強くしてくれる、ってことですか?」
もう一度ギンお兄さんの方を向くと、彼は「うむ」と力強く頷いた。
「さぁ、もう行くが良い。次はもっと甘くて美味い貢物を持ってくるんだぞ」
そう言ってお兄さんは私の肩を掴み、無理やり反対側を向かせると、そっと背中を押した。用事は済んだから、さっさと帰れってこと?
それにしても、ギンお兄さんの言ったことって本当なのかなぁ。
ちょっとどころか、かなり怪しい。でも相手は不思議な力を持つ狐のお兄さんだ。期待していたのとはちょっと違うけれど、この石があれば悩みを解決できるかも。
「ありがとうございます! 私、明日から学校で頑張ってみる!」
「うむ。やられたら必ずやり返して来い。俺の加護を受けておいて、惨めな敗北をしたら許さんぞ」
シッシッと追い払われるようにして、私は神社を後にした。
そして翌日。
私は学校でいじめっ子たちに反撃を開始した――はずだった。
「ギンお兄さんの嘘つき」
その日の放課後。
目蓋を真っ赤に腫らした私は、神社のお社で文句を言っていた。
昨日と同じ姿で現れたお兄さんは、今日の学校での出来事を聞いて、手を叩いて笑っている。あまりにも笑い過ぎて息が苦しそうだ。
「あっはっはっは! お主は想像以上の間抜けだな!」
「笑ってないで説明してよ! 昨日はどうしてあんな嘘をついたの!」
私はポケットから取り出した小石を見せながら叫んだ。
「この石を持っていたって、ちっとも力なんて強くならないじゃない! おかげで酷い目にあったんだからね!」
今日の朝。私が教室に入ってくると、いじめっ子たちはいつものように私を取り囲んできた。
だから私は小石を握り、勇気を出して「やめて」って言ったんだ。
「そうしたら言い合いになって、服を掴まれたから必死に抵抗して……そしたら先生に見つかって怒られた!」
「ほぉう、それで?」
「いつもこうやって私は虐められているんです、って言ったよ! だけど、担任の先生は信じてくれなくて……」
私の気のせいだとか、喧嘩の言い訳だって相手にしてくれなかった。
でもそこで偶然、他のクラスの先生が様子を見にきてくれた。
「その先生がもっと話を聞かせてくれって……それで学級会になったの」
今まで黙って見ているだけだったクラスのみんなも、ようやく助けてくれて……最後にはいじめっ子たちが私にしたことを認めて、謝ってくれた。
「ふむふむ。助けてくれた者がおったと。それでいじめっ子どもは反省した……なんだ、結果的に良かったではないか」
「それは、そうだけど……」
いじめっ子たちは私に近寄らなくなった。でも私が思っていたのと違うっていうか……。
こちらの不満をよそに、ギンお兄さんは満足そうにウンウンと頷いている。
「そもそも、俺は何も嘘など言ってはおらぬぞ? 石にはちゃんと念を込めたし、俺は立ち向かう気持ちでは負けぬ、という意味で言ったのだ」
「何よそれ! そんなの、ほとんど詐欺じゃない!」
「詐欺とは、なんと酷い言い草……ヒナはいじめっ子に抗うという強い意思を持ち、実際にやってのけたではないか。まぁそんな些細なことよりも……ほれ」
「まったく、これで虐めが酷くなったらどうするのよ。――なに、ほれって?」
ギンお兄さんは手の平を上に向けて、私の方へと突き出している。
ちょうど、飼い犬にお手をさせるような感じだ。
「……私は犬じゃない」
「なにを阿呆なことを言っておる。報酬だよ、報酬。言っておいただろう? 今度はもっとマシな貢物を持ってこい、とな」
あぁ、そういえばそんなことを……って。
「報酬を寄越せですって!? ギンお兄さんはただ、私に小石を渡しただけじゃない!」
「だがその小石のおかげで、いじめっ子を撃退できたんだろう? だからその対価を寄越せと言っておるのだ」
「そんなことで貢物なんか……あっ、ちょっと!? 私のランドセルを勝手に漁らないでよ!」
ギンお兄さんは一瞬で私の背後に回ると、背負っていたランドセルの中に、無理やり右手を突っ込んできた。しかも同時に左手で私を押さえつけてきたせいで、逃げることも抵抗することもできない。
ついでとばかりに、ギンお兄さんのお尻から出ているフサフサの尻尾が私の顔を撫で回す。
「わ、分かったから止めて! オヤツに取っておいた揚げパンをあげるから!」
「……ふん。最初から大人しく出していればいいものを」
「私のオヤツだったのに。酷いよ、ギンお兄さん!」
「おっ、これもまた美味じゃな! 揚げた豆腐も美味いが、この揚げパンとやらも中々やるではないか。この甘ったるさが良い!」
……って人の話、全然聞いていないし。
はぁ。でもまぁいっか。
今回のおかげで、困ったら他の大人に頼れば良いって学べたし。
また何かあれば大人に相談してみよう。子供を騙すような狐のお兄さん以外のね!
「なんだ、俺の顔をジッと見つめて。惚れたのか?」
「……いくら見た目が良くても、心が汚れている人を好きになんてならないよ!」
「ク、ククク。そうだぞ~? 世の中には、外面だけが良い人間がウジャウジャとおる。そんな輩に騙されてはいかん。今回のことで、ヒナも良い勉強になっただろう」
そう言ってギンお兄さんは、指についた砂糖を名残惜しそうにペロペロと舐めた。
まったくもう。私は絶対に、こんな意地汚い大人にはならないようにしよう。
「さぁ、俺はもう満足した。今日は帰れ」
「えぇ!? まだ来たばっかりなのに!」
「また何かあれば、ここへ来ればよい。その時は……そうだなぁ、また別のパンを持ってくるのだ。話ぐらいなら、暇潰しついでに聞いてやるぞ?」
ふん、誰が来るもんですか!
私は持っていた小石をペイっと地面に投げ捨てると、踵を返して神社を後にした。
そのあと、私に対する虐めはほとんどなくなった。
仲の良い友達も少しずつ増え、段々と学校生活も楽しくなっていった。
だけど私は結局、そのあともギンお兄さんの元を定期的に訪れていた。
その度にお兄さんは、自分と会うよりも友達と遊んで来いって言うけれど、私は無視して貢物を持って会いに行った。
そんな日々を過ごしているうちに、季節は何度か変わり、私が小学校を卒業する日になった。
卒業式のあと。いつものようにお社の前に座りながら、私が持ってきた煮干しとアーモンドのおやつを一緒に食べていた。中学生になっても給食はあるみたいだし、渡せるメニューが変わったらギンお兄さんも喜ぶかな。
ポリポリと食べながらそんなことを考えていると、隣に居たギンお兄さんがポツリと呟いた。
「――こうしてヒナと会うのは、これが最後だな」
「えっ、どうして?」
思わず手を止めて視線をお兄さんに移す。木々の隙間から差し込む夕陽が彼の顔に影を作っていて、どんな表情をしているか見えなかった。
私はギンお兄さんの言っている意味が分からず、首を傾げた。
卒業後も私は当たり前のように通うつもりだったんだけど……?
「ここ最近は珍しく、人間共がこの辺りをうろついておってな。俺は聞き耳を立てていたんだが……どうやらそやつらはこの林を切り開いて、マンションとやらを建てたいそうだ」
「林を……マンションに!?」
そんな噂、私は一度も聞いていない。学校でも、そんな話題はなかったはずだ。
「――まぁ、それも時代の流れというものだな」
「そんなの認められないよ! ギンお兄さんはこの神社の主じゃない。ずっとここに住んでいたのに!」
「ヒナの言う通りだが、実際は勝手に住み着いていただけだしな。遂に俺も消える時が来たようだ」
納得のいかない私と違って、ギンお兄さんはどこか諦めた様子だ。
プンプンと怒っている私の頭にポンと手を置いて、慰めるように優しく撫でてくる。その手が温かくて、心地よくて。ついつい彼の体に寄り掛かって甘えてしまう。
この数年間で私も少し身長が伸びたけれど、まだまだお兄さんと並ぶにはまだ小さい。私が大人だったら、神社のこともどうにかできたかもしれないのに……!
「ふふふ、相変わらずヒナは可愛い童だ。そんなお主には、俺が良い物を授けてやろう」
そう言うとギンお兄さんはパン、と両手を打った。
そして重ね合わせていた手の平を開くと、そこには小さな木彫りの狐がちょこんと乗っていた。
「これは……?」
不思議そうにする私に、彼はその狐を手渡してきた。よくよく見てみれば、どこかギンお兄さんに雰囲気が似ている気がする。
「その像には、俺の力を込めてある。ヒナに何かあれば、きっと護ってくれるぞ」
「……またそんな嘘を言って」
あの小石と同じで、どうせ効果なんてないくせに。
「ふふ。俺と離れるのがそんなに寂しいのか?」
「そうだね。ギンお兄さんも?」
「お、おい。そんな素直に認めるなよ。俺は……まぁ、ちっとばかしな」
そう言ってギンお兄さんは、少し照れ臭そうに頬を掻いた。気のせいか、顔がちょっとだけ赤い。
「分かったよ。私、この狐さんを大事にするね」
「……あぁ。これからも達者でな。それと――」
別れ際、ギンお兄さんは私を抱き寄せると、耳元で何かを小声でささやいた。
「え? 今、なんて言ったの?」
「うるさい! ほら、さっさと帰れ。遅くなると母君に叱られるぞ」
お兄さんは私の背中をグイグイと押して、帰らせようとする。もう一度言おうとはしてくれないみたいだ。
だけど本当は、お兄さんが何て言ったのか分かっていた。
――今までありがとう、ヒナ。これからも心はずっと一緒だ。
「こちらこそ、ありがとう。また、逢おうね」
目から自然と溢れる涙を拭きながら、私は小さな狐像と一緒に神社を後にした。
それから、十年が経った。
二十二歳となった私は立派な社会人となり、ギンお兄さんにも誇れる大人になっていた。
「いや、自分で立派な大人だという奴がおるか……?」
「えぇ~? 少なくとも、ちゃんと働いてギンにご飯を食べさせているじゃない」
あの卒業式の日から私は貰った狐の像を自分で作った神棚に飾り、毎日祈りを捧げてきた。
そうしたらビックリ。どういうわけか一週間も経たないうちに、ギンは私の前に再び現れたのだ。
思わぬ再会に喜んだ私は、そのままギンと同居生活をスタート。
なぜか彼の姿は私にしか見えないみたいで、そこだけはちょっとだけ不便だけど……そんな生活にはもう慣れた。
「ぐぬぬ……家事は俺がほとんどやっておるだろうが!」
「ふふっ、そうね。感謝してるわよ、居候の守り神様?」
独り暮らし……正確には二人暮らしをしている部屋のリビングで、私たちはそんな会話を交わす。
あの日と同じようにソファーに並んで座りながら、私は彼の肩に寄り掛かった。今ではほとんど身長が並んだけれど、相変わらずの心地よさだ。
「その“守り神”ってのはやめてくれ。俺に特別な力は無いってことは、もう分かっているだろう?」
それはそうだけど。私にとっては、ちょっと違うんだよなぁ。守ってもらったのは別に、体のことじゃないもの。
「ねぇ、ギン。これからもずっと、私と一緒に居てくれるでしょう?」
こっそり用意しておいた指輪をギンの指に嵌めながら、彼の耳元でプロポーズをした。
ギンは自分の左手の薬指を見て、目を真ん丸にして驚いた。
「だめ? 美味しい貢物、たくさんあげるからさ」
「ば、ばか者! 貢物など無くとも、それは俺から言うつもりだったのに!」
「ふぅん? じゃあオッケーってことだよね?」
「そ、それは……その――」
珍しく耳まで真っ赤にさせながら。私の大事な守り神様は、コクンと頷いてくれたのであった。